◇。◇。◇。◇。◇。 【真珠夫人】 【菊池寛】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第1話】 【奇禍】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  汽車が大船を離れた頃から、信一郎の心は、だんだん烈しくなって行くもどかしさで、満たされていた。国府津までの、まだ五つも六つもある駅毎に、汽車が小刻みに、停車せねばならぬことが、彼の心持ちをかなり、いら立たせているのであった。  彼は、一刻も早く静子に、会いたかった。そして彼の愛撫に、渇えている彼女を、思うさま、いたわってやりたかった。  ときは六月の初めであった。汽車の線路に添うて、ウシオのように起伏’している山や森の緑は、少年のような若々しさを失って、むっとするようなあくどさで車窓に迫って来ていた。ただ、ところどころ植付けられたばかりの早苗が、軽いほのぼのとした緑を、初夏’の風の下に、漂わせているのであった。  つねならば、箱根から伊豆半島の温泉へ、志ざす人々で、一杯になっている筈の二等室も、春と夏との間の、湯治には半端な時節であるのと、一週間ばかり雨が、降り続いた揚句である為とで、それらしい乗客の影さえ見えなかった。ただフランス人らしい老年の夫婦が、一人息子らしいジュウゴロクの少年を連れて、車室の一隅を占めているのが、信一郎の注意を、最初から惹いているだけである。彼は、若いオジカの四肢のように、スラリとしなやかな少年の姿を、飽かず眺めたり、父と母とにかたみに話しかける簡単な会話に、耳を傾けたりしていた。この一行のほかには、洋服を着た会社員らしい二人連れと、田舎娘とその母親らしい女連れが、乗り合わしているだけである。  が、あの湯治階級と言ったような、男も女も、大島の揃か何かを着て、金や/プラチナや/宝石の装身具を身体のあらゆる部分に、燦かしているような人達が、乗り合わしていないことは信一郎にとって結局/気楽だった。彼等は、きっとコワダカに、喋り散らしたり、何かを食べ散らしたり、無作法に振舞ったりすることに依って、現在以上に信一郎の心持ちをいらいらさせたに違いなかったから。  日は、深く翳っていた。汽車の進むに従って、隠見する相模灘はすすけた銀の如く、底光を帯たまま澱んでいた。さっきまで、見えていた天城山も、何時の間にか、灰色に塗り隠されてしまっていた。相模灘を-あっしている水平線の腰の辺りには、雨をでも含んでいそうな、暗鬱な雲が低迷していた。もう、午後4時を回っていた。 『静子が待ちあぐんでいるに違いない。』と思う毎に、汽車の回転が殊更遅くなるように思われた。信一郎は、イライラしくなって来る心を、じっと抑え付けて、湯河原の湯宿に、自分を待っている若き愛妻の面影を、クウに-えがいて見た。何よりも先ず、その石竹色に潤んでいるホオに、微笑の先駆けとして浮かんで来る、笑窪が現われた。それに続いて、慎ましい脣、高くはないけれども穏やかなヒンのいい鼻。が、そんな目鼻立よりも、顔全体に現われている乙女らしいシャイネス、それを思い出す毎に、信一郎自身の表情が、たるんで来て、そこには居合わさぬ妻に対する愛撫の微笑が、何時の間にか、浮かんでいた。彼は、それを誰かに、気付かれはしないかと、恥しげに車内を見回した。が、例のフランスの少年が、その時、 「ママン!」とコワダカに呼びかけたほかには、乗合の人々は、銘々に何かを考えているらしかった。  汽車は、海近い松林の間を、轟々と駆け過ぎているのであった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  湯の宿の欄干に身を-もたせて、自分を待ちあぐんでいる愛妻の面影が、汽車の車輪の回転に連れて消えたり/かつ浮かんだりした。それほど、信一郎は新しく婚した静子に、心も身も与えていたのである。  ついミ月ほど前に、田舎で挙げた結婚式のことを考えても、上京の道すがら奈良や京都に足を止めたホネムーンらしい幾日かの事を考えても:、彼は静子を獲たことが、どんなに幸福を意味しているかをしみじみと悟ることが出来た。  結婚の式場で示した彼女の、乙女らしい羞しさと、浄らかさ、それに続いた同棲生活に於いて、自分に投げて来た全身的な信頼:、日が経つに連れて、埋もれていた宝玉のように、だんだん現れて来る彼女のいろいろな美質:、そうしたことを、取とめもなく考えていると、信一郎は一刻も早く、目的地に着いて/初々しい静子の透き通るようなククリ顎’の辺りを、軽くパットしてやりたくて、仕様がなくなって来た。 『僅か一週間、離れていると、もうそんなに逢いたくて、堪らないのか。』と自分自身’心のうちで、そう反問すると、信一郎は駄々っ子か何かのように、じれ切っている自分が気恥しくないこともなかった。  が、新婚後、まだ幾日にもならない信一郎に取っては、僅か一週間ばかりの短い月日が、どんなにか長く、ミ月もヨツキもに相当するように思われた事だろう。静子が、急性肺炎の病後のために、医者から温泉行きを、勧められた時にも、信一郎は自分の手許から、妻を半日でも1日でも、手放して置くことが、不安な寂しい事のように思われて、仕方がなかった。それかと言って、結婚のため、ハンツキ以上も、勤め先を欠勤している彼には休暇を貰う口実などは、何も残っていなかった。彼は止むなく先週の日曜日に妻と女中とを、湯河原へ伴うと、すぐその日に東京へ帰って来たのである。  今朝着いた手紙から見ると、もうスッカリ好くなっているに違いない。明日の日曜に、自分と一緒に帰ってもいいと、言い出すかも知れない。軽便鉄道の駅までは、迎えに来ているかも知れない。いや、静子は、そんなことに気の利く女じゃない。あれは、おとなしく慎しく待っている女だ、きっと、あの湯の新築の二階の欄干にもたれて、藤木川に懸っているキバシをじっと見詰めているに違いない。そして、馬車や自動車が、あの橋板をとどろかす毎に、静子も自分が来たのではないかと、彼女の小さい胸を轟かしているに違いない。  信一郎の、こうした愛妻を中心とした、いろいろな想像は、重く垂れ下がった夕方の雲を劈くような、鋭い汽笛の声で破られた。窓から首を出して見ると、一帯の松林の樹’の間から、国府津に特有な、あの凄味を帯びた真っ青な海が、暮れ方の光を暗く照り返していた。  秋の末か何かのように、見渡すかぎり、陸や海は、蕭条たる色を帯びていた。が、信一郎は国府津だと知ると、蘇ったように、座席を蹴って立ち上がった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  汽車がプラットホームに、横付けになると、多くもなかった乗客は、我先にと降りてしまった。この駅が止まりである列車は、見る見る裡に、洗われたように、虚しくなってしまった。  が、停車じょう-は少しも混雑しなかった。五十人ばかりの乗客が、改札口のところで、暫くマダラにたゆたっただけであった。  信一郎は、身支度をしていた為に、誰よりも遅れて車室を出た。改札口を出て見ると、駅前の広場に湯本行きの電車が発車するばかりの気配を見せていた。が、その電車も、この前の日曜の日の混雑とは丸切り違って、まだ腰をかける余地さえ残っていた。が、信一郎はその電車を見たときにガタリガタリと停留場毎に止まる、のろのろした途中の事が、すぐ頭に浮かんだ。その上、小田原で乗り換えると行く手にはもっと難物が控えている。それは、右は山/左は海の、狭いガケハナを、蜈蚣か何かのようにのたくって行く軽便鉄道である。それを考えると、彼は電車に乗ろうとした足を、思わず踏み止めた。湯河原まで、どうしても三時間かかる。湯河原で-おりてから、あの田舎道をガタ馬車で三十分、どうしても十時近くなってしまう。彼は汽車の中で感じたそれの10倍も二十倍も、いらいらしさが自分を待っているのだと思うと、どうしても電車に乗る勇気がなかった。彼は、少しも予期しなかった困難にでも逢ったように急に悄気てしまった。ちょうどその時であった。つかつかと彼を追いかけて来た大男があった。 「もしもしいかがです。自動車にお召しになっては。」と、彼に呼びかけた。  見ると、その男は富士屋自動車と言う帽子を被っていた。信一郎は、急に援け舟にでも逢ったように救われたような気持ちで、立ち止まった。が、彼は賃銭の上の掛引きのことを考えたので、そうした感情を、顔へは少しも出さなかった。 「そうだ-ねえ。乗ってもいいね。安ければ。」と彼はかなり余裕を以って、答えた。 「どこまでいらっしゃいます。」 「湯河原まで。」 「湯河原までじゃ、十五円で参りましょう。本当なれば、もう少し頂くのでございますけれども、こっちからお勧めするのですから。」  十五円と言う金額を聞くと、信一郎は自動車に乗ろうと言う心持ちを、すっかり無くしてしまった。と言って、彼は貧しくはなかった。一昨年’法科を出て、三菱へ入ってから、今まで相当な給料を貰っている。その上、国にある財産からの収入を合わすれば、月額五百円近い収入を持っている。が十五円と言う金額を、湯河原へ行く時間を、わずか二’三時間縮める為に払うことは余りに贅沢過ぎた。たとい愛妻の静子が、いかに待ちあぐんでいるにしても。 「まあ、よそう。電車で行けば訳はないのだから。」と、彼は心の裡で考えている事とは、全く反対な理由を言いながら、洋服を着た大男を振り捨てて、電車に乗ろうとした。が、大男は-しゅうねく彼を放さなかった。 「まあ、ちょっとお待ちなさい。ご相談があります。実は、熱海まで行こうと言う方があるのですが、その方と相乗りして下さったら、いかがでしょう、それならば大変格安になるのです。それならば、七円だけ出して下されば。」  信一郎の心はかなり動かされた。彼は、電車の踏み段の棒にやろうとした手を、引っ込めながら言った。「一体、そのお客とはどんな人なのだい?」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  洋服を着た大男は、信一郎と同乗すべき客を、迎えて来る為に、駅の真向いにある待合所のホウへ行った。  信一郎は、大男の後ろ姿を見ながら思った。どうせ、旅行中のことだから、どんな人間との相乗りでも/たかがサンヨンジュップンの辛抱だから、構わないが、それでも感じのいい、道連れであってくれればいいと思った。傲然とふんぞり返るような、成金フウの湯治階級の男なぞであったら、堪らないと思った。彼はでっぷりと肥った男が、実印を刻んだ金指環をでも、光らせながら、大男に連れられて、やって来るのではないかしらと思った。それとも、意外に美しい女か何かじゃないか-しらと思った。が、まさか相当な位置の婦人が、相乗りを承諾することもあるまいと、思い返した。  彼はちょっとした好奇心を唆られながら、暫くの伴侶たるべき人の出て来るのを、待っていた。  三分ばかり待ったあとだったろう。やっと、交渉が纏まったと見え、大男はニコニコ笑いながら、先に立って待合所から立ち現れた。その刹那に、信一郎は大男の肩越しに、チラリと角帽を被った学生姿を見たのである。彼は同乗者が学生であるのを喜んだ。殊に、自分の母校──と言う程の親しみは持っていなかったが──の学生であるのを喜んだ。 「お待たせしました。この方です。」  そう言いながら、大男は学生を、信一郎に紹介した。 「ご迷惑でしょうが。」と、信一郎は快活に、挨拶した。学生は頭を下げた。が、なんにも物は言わなかった。信一郎は、学生の顔を、ひと目見て、その高貴な容貌に打たれざるを得なかった。恐らく貴族か、でなければ名門の子弟なのだろう。ヒンのよい鼻と、黒く澄み渡った眸とが、争われない生まれの気高さを示していた。殊に、気高く人懐かしそうな眸が、この青年を見る人に、いい感じを与えずにはいなかった。クレイヴネットの外套を着て、ちょっとした手提鞄を持った姿は、またなく瀟洒に打ち上って見えた。 「それで貴方様のほうを、湯河原のお宿までお送りして、それから引き返して熱海へ行くことに、こちらのご承諾を得ましたから。」と、大男は信一郎に言った。 「そうですか。それは大変ご迷惑ですな。」と、信一郎は改めて学生に挨拶した。やがて、二人は大男の指し示す自動車上の人となった。信一郎は左側に、学生は右側に席を占めた。 「湯河原までは、四十分、熱海までは、五十分で参りますから。」と、大男が言った。  運転手の手は、ハンドルにかかった。信一郎と学生とを、乗せた自動車は、いま発車したばかりの電車を追いかけるように、凄まじい爆音を立てたかと思うと、まっしぐらに国府津の町を疾駆した。  信一郎は、もう四十分の後には、愛妻の許に行けるかと思うと、汽車中で感じたもどかしさや、いらだたしさは、あとなく晴れてしまった。自動車のジャンに連れて身体が躍るように、心も軽く/楽しい期待に躍った。が、信一郎の同乗者たる/かの青年は、自動車に乗っているような意識は、少しもないように/身を縮めて一隅に寄せたまま/その秀でた眉を心持ちひそめて、何かに思い耽っているようだった。車窓に移り変わる情景にさえ、一瞥をも与えようとはしなかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  小田原の街に、入るまで、二人は黙々として相並んでいた。信一郎は、心の中では、この青年に一種の親しみをさえ感じていたので、どうにかして、話しかけたいと思っていたが、深い憂愁にでも、囚われているらしい青年の様子は、信一郎にそうした機会をさえ与えなかった。  殆ど、一尺にも足りない距離で見る青年の顔付きは、いよいよその気高さを加えているようであった。が、その顔はどうした原因であるかは知らないが、ソウハクな血色を帯びている。二つの眸は、何かの悲しみのため力なく潤んでいるようにさえ思われた。  信一郎はなるべく相手の心持ちを乱すまいと思った。が、一方から考えると、同じ、自動車に二人きりで乗り合わしている以上、黙ったまま相対していることは、何だか窮屈で、かつは不自然であるようにも思われた。 「失礼ですが、今の汽車で来られたのですか。」  と、信一郎は漸く口を切った。会話のための会話として、判り切ったことを尋ねて見たのである。 「いや、この前の上りで来たのです。」と、青年の答えは、少し意外だった。 「じゃ、東京からいらっしたんじゃないんですか。」 「そうです。三保のホウへ行っていたのです。」  話しかけて見ると、青年は割合ハキハキと、しかし事務的な受け答えをした。 「三保と言えば、三保の松原ですか。」 「そうです。あすこに一週間ばかりいましたが、飽きましたから。」 「やっぱり、ご保養ですか。」 「いや保養と言う訳ではありませんが、どうも頭がわるくって。」と言いながら、青年の表情は暗い/陰鬱な調子を帯びていた。 「神経衰弱ですか。」 「いやそうでもありません。」そう言いながら、青年は力無さそうに口を噤んだ。簡単に言葉では、現わされない原因が、存在することを暗示するかのように。 「学校のほうは、ズーッとお休みですね。」 「そうです、もうひと月ばかり。」 「もっともブン科じゃ出席してもしなくっても、同じでしょうから。」と、信一郎は、さっき青年の襟に、Lと言う字を見たことを思い出しながら言った。  青年は、立入って、いろいろ訊かれることに、ちょっと不快を感じたのであろう、また黙り込もうとしたが、法科を出たものの、少年時代からずっと文芸のほうに親しんで来た信一郎は、この青年とそうした方面の話をも、して見たいと思った。 「失礼ですが、高等学校は。」暫くして、信一郎は”またこう口を切った。 「東京です。」青年は振り向きもしないで答えた。 「じゃ私と同じですが、お顔に少しも見覚えがないようですが、何年にお出になりました。」  青年の心に、急に信一郎に対する一脈の親しみが湧いたようであった。華やかな青春の時代を、同じ向ヶ丘の寄宿寮に過ごした者のみが、感じ合う特殊の親しみが、青年の心を潤おしたようであった。 「そうですか、それは失礼しました。僕は一昨年’高等学校を出ました。貴方は。」  青年は初めて微笑を洩らした。寂しい微笑だったけれども微笑には違いなかった。 「じゃ、高等学校はちょうど僕と入れ換わりです。お顔を覚えていないのも無理はありません。」そう言いながら、信一郎はポケットから紙入れを出して、名刺を相手に手渡した。 「ああ/渥美さんと仰しゃいますか。僕はあいにく名刺を持っていません。青木淳と言います。」と、言いながら青年は信一郎の名刺をじっと見詰めた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  名乗り合ってからの二人は、前の二人とは別人同士であるような親しみを、お互いに感じ合っていた。  青年は-はにかみ屋であるが、その癖人一倍、人懐こい性格を持っているらしかった。単なる同乗者であった信一郎には、冷めたい横顔を見せていたのが:、一旦同じ学校の出身であると知ると、すぐ先輩に対する親しみで、なついて来るような/ウブな優しい性格を、持っているらしかった。 「五月の十日に、東京を出て、もうひと月ばかり、当てもなく泊まり歩いているのですが、どこへ行っても落ち着かないのです。」と、青年は訴えるような口調で言った。  信一郎は、青年のそうした’心の動揺が、きっと青年時代にありがちな、人生観の上の疑惑か、でなければ恋の悶えか何かであるに違いないと思った。が、どう言って、それに答えてよいか分からなかった。 「いっそのこと、東京へお帰りになったらどうでしょう。僕なども精神じょうの動揺のため、海へ’なり山へ’なり安息を求めて、旅をしたことも度々ありますが、一人になると、却って孤独から来る寂しさまでが加わって、いよいよ堪えられなくなって、また都会へ追い返されたものです。僕の考えでは、何かを紛らすには、東京生活の混乱と騒擾とが、何よりの薬ではないかと思うのです。」と、信一郎は自分の過去の二’三の経験を思い浮べながら/そう言った。 「が、僕の場合は少し違うのです。東京にいることがどうにも堪らないのです。当分’東京へ帰る勇気は、トテもありません。」  青年は、また黙ってしまった。心の中のどこかに、かなり大きい傷を受けているらしい青年の様子は信一郎の眼にもいたましく見えた。  自動車は、もうとっくに小田原を離れていた。気が付いて見ると、暮れかかる太平洋の波が、白く砕けている高い崖の上を/軽便鉄道の線路に添うて、疾駆しているのであった。  道は、かなり狭かった。右手には、青葉のソウソウと茂った山が、往来を圧するように迫っていた。左は、急な傾斜を作って、すぐ真下には、海が見えていた。崖がやや滑かな勾配になっている所は蜜柑バタケになっていた。しらじらと咲いている蜜柑の花から湧く、高い匂いが、自動車の疾駆するままに、車上の人のオモテを打った。 「日暮れまでに、熱海に着くといいですな。」と、信一郎は暫くしてから、沈黙を破った。 「いや、もし遅くなれば、僕も湯河原で1泊しようと思います。熱海へ行かなければならぬと言う訳もないのですから。」 「それじゃ、是非湯河原へお泊りなさい。折角お近づきになったのですから、ゆっくりお話ししたいと思います。」 「貴方は永くご滞在ですか。」と、青年が訊いた。 「いいえ、実は妻が-いっているのを迎えに行くのです。」と、信一郎は答えた。 「奥さんが!」そう言った青年の顔は、何故だか、ちょっと寂しそうに見えた。青年はまた黙ってしまった。  自動車は、風を捲いて走った。かなり危険な道路ではあったけれども、日に幾回となくゆきかえリしているらしい運転手は、東京の大路を走るよりも、邪魔物のないのを、結句気楽そうに、奔放自在にハンドルを回した。その大胆な操縦が、信一郎達をして、ときどきハッと息を呑ませることさえあった。 「軽便かしら。」と、青年が独り言のように言った。いかにも、自動車の爆音にもまぎれない轟々と言う響きが、山と海とにこだまして、だんだん近づいて来るのであった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  轟々ととどろく軽便鉄道の汽車の’音は、だんだん近づいて来た。自動車が、ある山鼻を回ると、眼の前にもう真黒な車体が、見えていた。絶えず吐く黒い煙と、喘いでいるような恰好とは、何かノロ臭い生き物のような感じを、見る人に与えた。信一郎の乗っている自動車の運転手は、この時代遅れの交通機関を見ると、ちょうどお伽噺の中で、カメに対した兎のように、いかにも相手を馬鹿にし切ったような態度を示した。彼は擦れ違うために、少しでも速力を加減することを、肯んじなかった。彼は速力を少しも緩めないで、軽便の軌道と、右側のガイヘキの間とを、すばやく通り抜けようと、ハンドルを回しかけたが、それは、彼として、明らかな違算であった。そこは道幅が、殊更狭くなっているために、軽便の軌道は、山の崖近く敷かれてあって、軌道と岩壁との間には、車体を容れる間隔’は存在していないのだった。運転手が、この事に気が付いた時、汽車は三ケンと離れない間近に迫っていた。 「馬鹿/ 危ない! 気をつけろ!」と、汽車の機関士の激しい罵声が、狼狽した運転手のジダを打った。彼は周章てた。が、さすがに間髪を容れない瞬間に、ハンドルを反対に急転した。自動車は-からく衝突を免れて、道の左へ外れた。信一郎はホッとした。が、それはまたたく暇もない瞬間だった。左へ躱した自動車は、躱し方が余りに急であった為、機みを打ってそのまま、左手の岩崖を墜落しそうな勢いを示した。道の左には、ハンゲンばかりの熊笹が繁っていて、その外れからは十ジョウに近い断崖が、海へ急な角度を成していた。  最初の危機には、冷静であった運転手も、第二の危険には度を失ってしまった。彼は、狂人のように意味のない言葉を発したかと思うと、運転手台で身をもがいた。が、運転手の死物狂い’の努力は間に合った。三人の命を託した車台は、急回転をして、海へ’落ちることから免れた。が、その反動で五間ばかり走ったかと思うと、今度は右手の山の岩壁に、凄じくぶっつかったのである。  信一郎は、恐ろしい音を耳にした。それと同時に、激しい力で、狭い車内を、二’三回’左右に叩き付けられた。眼が眩んだ。しばらくは、ただ嵐のような混沌たる意識のほか、何も存在しなかった。  信一郎が、漸く気が付いた時、彼は狭い車内で、海老のように折り曲げられて、一方へ叩き付けられている自分を見い出した。彼はやっと身を起こした。頭から胸のあたりを、ボンヤリ撫で回した彼は/自分が少しも、傷付いていないのを知ると、まだフラフラする眼を定めて、自分の横にいる筈の、青年の姿を見ようとした。  青年の身体は、すぐそこにあった。が、彼の上半身は、半分開かれたドアから、外へはみ出しているのであった。 「もしもし、君/ きみ/」と、信一郎は青年を車内に引き入れようとした。その時に、彼は異様な苦悶の声を耳にしたのである。信一郎は水を浴びたように、ゾッとした。 「君/ 君/」彼は、必死に呼んだ。が、青年は何とも答えなかった。ただ、人の心を掻きむしるような低いうめき声が続いているだけであった。  信一郎は、懸命の力で、青年を車内に抱き入れた。見ると、彼の美しい顔の半面は、薄キミの悪い紫赤色を呈している。それよりも、信一郎の心を、脅やかしたものは、唇の右の端から、顎にかけて流れる一筋の血であった。しかもその血は、唇から出る血とは違って、内臓から-ほとばしったに違いない赤黒い血であった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第2話】 【返すべき時計】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  信一郎が、青年の身体を/やっと車内に引き入れたとき、運転手席から路上へ、投げ出されていた運転手は、漸く身を起こした。ヒタイの所へ擦り傷の出来た彼の顔色は、全ての血の色を無くしていた。彼は怖ず怖ず車内をのぞき込んだ。 「どこもお怪我はありませんか。お怪我はありませんか。」 「馬鹿/ 怪我どころじゃない。大変だぞ。」と、信一郎は怒鳴りつけずには-いられなかった。彼は運転手の放胆な操縦が、この惨禍の主なる原因であることを、信じたからであった。 「ハッハッ。」と運転手は恐れ入ったような声を出しながら、窓にかけている両手をブルブル震わせていた。 「君/ 君/ 気を確かにしたまえ。」  信一郎は懸命な声で青年の意識を呼び返そうとした。が、彼は低い、ともすれば、絶え果てそうなうめき声を続けているだけであった。  口から流れている血の筋は、何時の間にか、だんだん太くなっていた。右のホオが見るマに腫れふくらんで来るのだった。信一郎は、ぼんやり突っ立っている運転手を、再び叱り付けた。 「おい! 早く小田原へ引返すのだ。全速力で、早く手当てをしないと助からないのだぞ。」  運転手は、夢から醒めたように、運転手席に着いた。が、発動機の壊れている上に、前方の車軸までが曲っているらしい自動車は、イッスンだって動かなかった。 「駄目です。とても動きません。」と、運転手は罪を待つ人のように震え声で言った。 「じゃ、一番近くの医者を呼んで来るのだ。真鶴なら、遠くはないだろう。医者と、そうだ、警察とへ届けて来るのだ。また小田原へ電話が通ずるのなら、すぐ自動車を寄越すように頼むのだ。」  運転手は、気の抜けた人間のように、命ぜらるるままに、フラフラと駈け出した。  青年の苦悶は、続いている。半眼に開いている眼は、上ずッたシロメを見せているだけであるが、信一郎は、ただ青年の上半身を抱き起こしているだけで、どうにも手の付けようがなかった。もう、臨終に間もないかも知れない青年の顔かたちを、ただ茫然と見詰めているだけであった。  信一郎は青年の奇禍を傷むのと同時に、あわよ-く免れた自身の幸福を、喜ばずには-いられなかった。それにしても、どうしてドアが、開いたのだろう。そこから身体が出たのだろう。上半身が、半分出た為に、衝突の時に、ドアと車体との間で、強く胸部を圧し潰ぶされたのに違いなかった。  信一郎は、ふと思いついた。最初、車台が海に面する断崖へ、顛落しようとしたとき、青年は車から飛び降りるべく、咄嗟に右の窓を開けたに違いなかった。もし、そうだとすると、車体が最初怖れられたように、海中に墜落したとすれば、死ぬ者は信一郎と運転手とで、助かる者はこの青年であったかも知れなかった。  車体が、急転したとき、信一郎と青年の運命も咄嗟に転換したのだった。自動車のかりそめの相乗りに/青年と信一郎とは、恐ろしい生死の活劇に好運’悪運の両極に立ったわけだった。  信一郎は、そう考えると、結果の上からは、自分が助かるための犠牲になったような、青年のいたましい姿を、いっそうあわれまずには-いられなかった。  彼は、ふとウィスキイの小壜がトランクの中にあることを思い出した。それを、飲ますことが、こうした重傷者にどう言う結果を及ぼすかは、ハッキリと判らなかった。が、彼としてはこの場合に為し得る唯一の手当てであった。彼は青年の頭を座席の上に、ソッと下ろすとトランクを開けて、ウィスキイの壜を取り出した。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  口中に-そそぎ込まれたスーテキのウィスキイが、利いたのか、それとも偶然そうなったのか、青年の白く潤んでいた眸が、だんだん意識の光を帯び始めた。それと共に、意味のなかったうめき声が/切れ切れではあるが、言葉の形を採り始めた。 「気を確かにしたまえ! 気を! 君/ 君/ 青木君/」信一郎は、力’一杯に今覚えたばかりの青年の名を呼び続けた。  青年は、じっと眸を凝すようであった。劇しい苦痛の為に、ともすれば飛び散りそうになる意識を懸命に取り蒐めようとするようだった。彼は、じいっと、信一郎の顔を、見詰めた。やっと自分を襲った禍の前後を思い出したようであった。 「どうです。気が付きましたか。青木君/ 気を確かにしたまえ! すぐ医者が来るから。」  青年は意識が帰って来ると、このかりそめの旅の道連れの親切を、しみじみと感じたのだろう。 「あり──ありがとう。」と、苦しそうに言いながら、感謝の微笑を湛えようとしたが、それは仕切りなく襲うて来る苦痛の為に、跡なく崩れてしまった。ハラワタをよじるような、苦悶の声が、続いた。 「少しの辛抱です。すぐ医者が来ます。」  信一郎は、相手の苦悶のいたいたしさに、狼狽しながら答えた。  青年は、それに答えようとでもするように、身体を心持ち起しかけた。その途端だった。苦しそうに咳き込んだかと思うと、顎から洋服の胸へかけて、流れるような多量の血を吐いた。それと同時に、今まで充血していた顔が、サッと青ざめてしまった。  青年の顔には、既に死相が読まれた。内臓が、外部からの劇しい衝動の為に、ナイシュッケツをしたことが余りに明らかだった。  医学の心得の少しもない信一郎にも、もう青年の死が、単に時の問題であることが分かった。青年の顔に血色がなかった如く、信一郎のオモテにも、血の色がなかった。彼は、彼と偶然チキになって、すぐ死に去って行く、ホンの瞬間の友達の運命を、じっと見詰めているほかはなかった。  太平洋を-あっしている、密雲に閉ざされたまま、日は落ちてしまった。夕闇の迫っているガケハナの道には、人の影さえ見えなかった。瀕死の負傷者を見守る信一郎は、ヒシヒシと、身に迫る物凄い寂寥を感じた。負傷者のうめき声の絶間には、崖下の岩を洗う浪の音が寂しく聞えて来た。  吐血をしたまま、仰向けに倒れていた青年は、ふと頭を擡げて何かを求めるような様子をした。 「なんです! なんです!」信一郎は、掩いかぶさるようにして訊いた。 「僕の──僕の──トランク/」  口中の血に咽せるのであろう、青年は喘ぎ喘ぎ/絶えいるような声で言った。信一郎は、車中を見回した。青年が、携えていた旅行用の小型のトランクは座席の下に横倒しになっているのだった。信一郎は、それを取り上げてやった。青年は、それを受け取ろうとして、両手を出そうとしたが、彼の手はもう彼の思うようには、動きそうにもなかった。 「一体、このトランクをどうするのです。」  青年は、何か答えようとして、口を動かした。が、言葉の代わりに出たものは、さっきの吐血の名残りらしい少量の血であった。 「開けるのですか。開けるのですか。」  青年は肯こうとした。が、それも肯こうとする意志だけを示したのに、過ぎなかった。信一郎はトランクを開けにかかった。が、それには鍵がかかっていると見え、容易には開かなかった。が、この場合/瀕死の重傷者に、鍵の在処を尋ねるなどは、余りに心ないことだった。信一郎は、満身の力を振るって、ねじ開けた。金物に付いて、革がベリベリと、二’三スン引き裂かれた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「何を出すのです。何を出すのです。」  信一郎は、薬品をでも、取り出すのであろうと思って訊いた。が、青年の答えは意外だった。 「ノートブックを。」青年の声は、かすかに咽喉を洩れると、言う程度に過ぎなかった。 「ノート?」信一郎は、訝りながら、トランクを掻き回した。いかにもトランクの底に、三帖綴りの大学ノートを入れてあるのを見い出した。  青年は、眼で頷いた。彼は手を出して、それを取った。彼は、それを破ろうとするらしかった。が、彼の手は、ただノートの表紙を滑り回るだけで、一枚の紙さえ破れなかった。 「捨てて──捨てて下さい! 海へ’、海へ’。」  彼は、懸命に苦しげな声を、振りしぼった。そして、哀願的な眸で、じいっと、信一郎を見詰めた。  信一郎は、大きく頷いた。 「承知しました。何か、ほかに用がありませんか。」  信一郎は、大声で、しかもかなりの感激を以って、青年の耳許で叫んだ。本当は、何か遺言はありませんかと、言いたい所であった。が、そう言い出すことは、このうら若い負傷者に取って、余りに気の毒に思われた。が、そう言ってもよいほど青年の呼吸は、迫っていた。  信一郎の言葉が、青年に通じたのだろう。彼は、それに応ずるように、右の手首を、高く差し上げようとするらしかった。信一郎は、不思議に思いながら、差し上げようとする右の手首に手を触れて見た。そこに、冷めたく堅い何かを感じたのである。夕暮れの光に透かして見ると、青年は腕時計をはめているのであった。 「時計ですか。この時計をどうするのです。」  激しい苦痛に、歪んでいる青年のオモテに、また別な苦悶が現われていた。それは肉体的な苦悶とは、また別な──肉体の苦痛にも劣らないほどの──:心の、魂の苦痛であるらしかった。彼の真っ青だったオモテは微弱ながら、俄に興奮の色を示したようであった。 「時計を──時計を──返して下さい。」 「誰にです、誰にです。」信一郎も、懸命になって訊き返した。 「お願い──お願い──お願いです。返して下さい。返して下さい。」  もう、断末魔らしい苦悶の裡に、青年はこの世に於ける、最後の力を振りしぼって叫んだ。 「一体、誰にです? 誰にです。」  信一郎は縋り付くように、訊いた。が、青年の意識は、再び彼を離れようとしているらしかった。ただ、低い切れ切れのうなり声が、それに答えただけだった。信一郎は、今この答えを得ておかなければ/永劫に得られないことを知った。 「時計を誰に返すのです。誰に返すのです。」  青年の四肢が、ピクリピクリと痙攣し始めた。もう、死期の目睫のカンに迫っていることが判った。 「時計を誰に返すのです。青木君/ 青木君/ しっかりし給え。誰に返すのです。」  死の苦しみに、青年は身体を、左右にもだえた。信一郎の言葉は、もう瀕死の耳に通じないように見えた。 「時計を誰に返すのです。名前を言って下さい。名前を言って下さい。名前を!」  信一郎の声も、狂人のように上ずッてしまった。その時に、青年の口が、何かを言おうとして、モグモグと動いた。 「青木君、誰に返すのです?」  永久に、消え去ろうとする青年の意識が、ホンの瞬間、この世に呼び返されたのか。それとも死際の無意味な譫言であったのだろうか。青年は、 「瑠璃子/ 瑠璃子/」と、子供の片言のように、口走ると、それを世に残した最後の言葉として、劇しい痙攣が来たかと思うと、それがサッと潮の引くように、衰えてしまってガクリとなったかと思うと、もう、ピクリともしなかった。死が、遂に来たのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  信一郎は、ハンカチーフを取り出して、死者の顎から咽喉にかけての、血を拭ってやった。  だんだんロウイロに、白んで行く、不幸な青年の顔をじっと見詰めていると、信一郎の心も、青年の不慮の横死を悼む心で一杯になって、ほたほたと、涙が流れて止まらなかった。五年も十年も、親しんで来た友達の死に顔を見ている心と、少しも変らなかった。何と言う、不思議な運命であろうと、信一郎は思った。親しい友達は、元より、親兄弟、いとしき妻お-っと、まなごの臨終にさえ、いろいろな事情や境遇のために、居合わさぬ事もあれば、間に合わぬ事もあるのに:、ホンの30分か40分の知り合い、ホンの暫時の友人、言わば路傍の人に過ぎない、かりそめの旅の道連れでありながら、そのシニドコに侍して、介抱をしたり、遺言を聞いてやると言うことは、何と言う不思議な機縁であろうと、信一郎は思った。  が、青年の身になって、考えて見ると、ちょっとした小旅行の中途で/思いがけない奇禍に逢って、寂しい海辺の一角で、親兄弟は勿論親しい友達さえも居合わさず、他人にほかならない信一郎に、死水を──:それは水でなく、スーテキのウィスキイだったが──:取られて、望み多い未来を、不当に予告なしに、切り取られてしまった情なさ、寂しさは、どんなであっただろう。彼は、息を引き取るとき、親兄弟の優しい慰藉の言葉に、どんなに渇えたことだろう。殊に、母か姉妹か、あるいは恋人かの女性としての優しい愛の言葉を、どんなに-ほっしただろう。彼が、口走った瑠璃子と言う言葉は、きっと、そうした女性の名前に違いないと思った。  その裡に、信一郎の心に、青年の遺した言葉が考えられ始めた。彼は、最初にこう疑って見た。他人同然の彼に、どうして時計のことを言ったのだろう。もし、時計が誰かに返さるべきものなら/名乗り合ったばかりの信一郎などに頼まないでも、遺族の人の手で、当然’返さ-るべきものではなかろうか。が、信一郎は、すぐこう思い返した。青年はノートの内容も、時計を返すことも、遺族の人々には知られたくなかったのだろう。親兄弟には、飽くまでも、秘密にして置きたかったのであろう。しかも秘密に時計を返すには、信一郎に頼むほかには、何の手段もなかったのだ。人間が人間を信じることが一つの美徳であるように、この青年も必死の場合に、心から信一郎を信頼したのだろう。いや、信頼するほかには、何の手段もなかったのだ。  信一郎は、青年の死際の懸命の信頼を、心に深く受け入れずには-おられなかった。名乗り合ったばかりの自分に、心からの信頼を置いている。人間として、男として、この信頼に背く訳には、行かないと思った。  人が、臨終の時に為す信頼は、カトリックの信徒が、死際の懺悔と同じように、神聖な重大なものに違いないと思った。たとい、30分’40分’の交際であろうとも、頼まれた以上、忠実に、その信頼に酬いねばならぬと思った。  そう思いながら、信一郎は死者の右の手首から、恐る恐る時計を外して見た。時計も、それを腕に捲く腕輪も、銀かニッケルらしい金属で出来ていた。ガラスは、その持ち主の悲惨な最期に似て、微塵に砕け散っていた。夕暮れの光の中で、透かして見ると、腕輪に付いている止め金が、衝突のとき、皮肉を切ったのだろう。軽い出血があったと見え、その白っぽい時計の胴に、ところどころ真っ赤な血が-にじんでいた。今までは、興奮のために夢中になっていた信一郎も、それを見ると、今更ながら、青年の最期の、むごたらしさに、思わず戦慄を禁じ得なかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  が、時計を返すとして、一体’誰に返したらいいのだろうかと、信一郎は思った。青年が、死際に口走った瑠璃子と言う名前の女性に返せばいいのかしら。が、瑠璃子と言ったのは、時計を返すべき相手の名前を、言ったのだろうか。時計などとは何の関係もない、青年の恋人か/姉か/妹かの名ではないのかしら。 『時計を返してくれ。』と言ったとき、青年の意識は、かなり確かだった。が、息を引き取るときには、青年の意識は、もう正気を失っていた。 『瑠璃子/』と、叫んだのは、ただ狂った心の最後の、偶然な譫言で、あったかも知れなかった。が、瑠璃子と言う名前は、青年の心に死の刹那に/深く喰い入った名前に違いなかった。ちょうど、腕時計が、死の刹那に彼の手首の肉に、喰い入っていたように。  信一郎は、再度その小型な腕時計を、手許に迫る夕闇の中で、透かして見た。じっと、見詰めていると最初/銀かニッケルと思った金属は、銀ほどは光が無く/ニッケルほど薄っぺらでないのに、気が付いた。彼は指先で、二’三度撫でて見た。それは、紛ぎれもなくプラチナだった。しかも撫でている指先が、何かツブツブした物に触れたので、眸を凝すと、鋭い光を放つ一カの宝石が、鏤められていた。しかもそれは金で象眼された小さい短剣のツカに当たっていた。それはギリシヤ風の短剣の形だった。復讐の女神ネメシスが、サカ手に掴んでいるような、短剣の形だった。信一郎は、その特異な、不思議な象眼に、劇しい好奇心を、唆られずには-いられなかった。時計の元来の所有者は、女性に違いなかった。が、その象眼は、何と言う女らしからぬ、鋭い意匠だろう。  日は、もうとっぷりと、暮れてしまった。海上にのみ、一脈の薄明が、漂うているばかりだった。運転手は、なかなか帰って来なかった。寂しい海岸の一角に、まだ生温かい死屍を、ただ一人で見守っていることは、無気味な事に違いなかった。が、さっきから興奮し続けている信一郎には、それが左程、厭わしい事にも/キミの悪い事にも思われなかった。彼はある感激をさえ感じた。人として立派な義務を尽しているように思った。  信一郎は、ふとこう言う事に気が付いた。たとい、青年からああした依託を受けたとしても、ただ黙って、この高価なプラチナの時計を、死屍から持ち去ってもいいだろうか。もし、臨検の巡査にでも、咎められたら、何と返事をしたらいいだろう。死人に口なく、死に去った青年が、自分のために、弁解してくれる筈はない。自分は、人の死屍から、高貴な物品を、剥ぎ取る/恐ろしい/卑しい盗人と思われても、何の言い訳もないではないか。青年の遺言を受けたと抗弁しても、果たして信じられるだろうか。  そう考えると、信一郎の心は、だんだん迷い始めた。妙な-いきがかりから、他人の秘密にまで立ち入って、返すべき人の名前さえ、はっきりとはしない時計などを預って、つまらぬ心配やキグロウをするよりも:、ただ乗り合わした一個の旅の道連れとして、遺言も何も、聴かなかったことにしようかしら。  が、こう考えたとき、信一郎の心の耳に、『お願いで──:お願いです。時計を返して下さい。』と言う青年の、血に咽ぶ断末魔の悲壮な声が、再び鳴り響いた。それに応ずるように、信一郎の良心が、『貴様は卑怯だぞ。貴様は卑怯だぞ。』と、低くしかしながら、力強く囁いた。 『そうだ。そうだ。とにかく、瑠璃子と言う女性を探して見よう。たとい、それが時計を返すべき人でないにしろ、その人はきっと、この青年に一番親しい人に違いない。その人が、きっと時計を返すべき本当の人を、教えてくれるのに違いない。また、自分が時計を盗んだと言うような、不当な疑いを受けたとき、この人がきっと弁解してくれるのに違いない。』  信一郎は、『瑠璃子』と言う三字を頼りにして、自分の物でない時計を、ポケット深く、蔵めようとした。  その時に、急に近寄って来る人声がした。彼は、悪い事でもしていたように、ハッと驚いて振り返った。警察の提灯を囲んで、シゴニ-ンの人が、足バヤに駈け付けて来るようだった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  駈け付けて来たのは、オドオドしている運転手を先頭にして、トシ若い巡査と、医者らしい袴をつけた男と、警察の小使いらしい老人との四人であった。  信一郎は、彼等を迎えるべくドアを開けて、路上へ降りた。  巡査は提灯を車内に差し入れるようにしながら、 「どうです。負傷者は?」と、訊いた。 「さっき、息を引き取ったばかりです。なにぶん胸部をひどく、やられたものですから、助からなかったのです。」と、信一郎は答えた。  暫くは、誰もが口を利かなかった。運転手が、ブルブル震え出したのが、仄暗い提灯の光の中でも、それと判った。 「兎も角、一応診て下さい。」と、巡査は医者らしい男に言った。運転手は震えながら、車体に取り付けてあるランプに、点火した。周囲が、急に明るくなった。 「お連れじゃないのですね。」医者が検視をするのを見ながら、巡査は信一郎に訊いた。 「そうです。ただ国府津から乗り合わしたばかりなのです。が、名前は判って居ます。さっき名乗り合いましたから。」 「何と言う名です。」巡査は手帳を開いた。 「青木淳と言うブン科大学生です。宿所は訊かなかったけれど、どうも名前と顔付きから考えると、青木淳三’と言う貴族院議員のお子さんに違いないと思うのです。無論’断言は出来ませんが、持ち物でも調べればすぐ判るでしょう。」  巡査は、信一郎の言う事を、一々頷いて聴いていたが、 「遭難の事情は、運転手からひと通り、聴きましたが、貴方からもお話を願いたいのです。運転手の言うことばかりも信ぜられませんから。」  信一郎は言下に「運転手の過失です。」と言い切りたかった。過失と言うよりも、無責任だと言い切りたかった。が、戦きながら、信一郎と巡査との問答を、身の一大事とばかり、聞き耳を澄ましている運転手の、罪を知った様子を見ると、そう強くも言えなかった。その上、運転手の罪を、いくらコワダカに叫んでも、青年の甦る筈もなかった。 「運転手の過失もありますが、どうもこのかたが自分でドアを、開けたような形跡もあるのです。ドアさえ開かなかったら、死ぬようなことはなかったと思います。」 「なるほど。」と、巡査は何やら手帳に、書き付けてから言った。「いずれ、遺族のかたから起訴にでもなると、貴方にも証人になって戴くかも知れません。お名刺を一枚戴きたいと思います。」  信一郎は乞わる-るままに、一枚の名刺を与えた。  ちょうどその時に、医者は血に-まみれた手を気にしながら、車内から出て来た。 「ひどく血を吐きましたね。あれじゃ負傷後、いくらも生きていなかったでしょう。」と、信一郎に言った。 「そうです。三十分も生きていたでしょうか。」 「あれじゃ助かりっこはありません。」と、医者は投げるように言った。 「貴方もとんだ災難でした。」と、巡査は信一郎に言った。「が、死んだ方に-くらぶれば、むしろ命拾いをしたと言ってもいいでしょう。湯河原へ-いらっしゃるそうですね。それじゃ小使いにご案内させますから真鶴までお歩きなさい。死体のほうは、引き受けましたから、ご自由にお引き取り下さい。」  信一郎は、とにかく当座の責任と義務とから、放たれたように思った。が、ポケットの底にある時計の事を考えれば、信一郎の責任は/いつ果されるとも分からなかった。  信一郎は車台に近寄って、黙礼した。不幸な青年に最後の別れを告げたのである。  巡査達に挨拶して、二三間行った時、彼はふと海に捨つるべく、青年から頼まれたノートの事を思い出した。彼は驚いて、取って-かえした。 「忘れ物をしました。」彼は、やや狼狽しながら言った。 「なんです。」車内を覗き込んでいた巡査が振り返った。 「ノートです。」信一郎は、やや上ずッた声で答えた。 「これですか。」さっきから、それに気の付いていたらしい巡査は、座席の上から取り上げてくれた。信一郎は、そのノートの表紙に、ペンで青木淳とかいてあるらしいのを見ると、ハッと思った。が、光は暗かった。その上、巡査の心にそうした疑いは微塵も存在しないらしかった。彼は、やっと安心して、自分の物でない物を、自分の物にした。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  真鶴から湯河原までの軽便の汽車の中でも、駅から湯の宿までの、田舎馬車の中でも、信一郎の頭は混乱と興奮とで、一杯になっていた。その上、衝突のときに、受けた打撃が現われて来たのだろう、頭がズキズキと痛み始めた。  青年のうめき声や、吐血の刹那や、青白んで行った死に顔などが、ともすれば幻覚となって、耳や目を襲って来た。  静子に久し振りに逢えると言ったような楽しい平和な期待は、偶然な血腥い出来事のために、滅茶苦茶になってしまったのである。静子の初々しい面影を、えがこうとすると、それが何時の間にか、青年の死に顔になっている。「静子/ 静子/」と、口の中で呼んで、愛妻に対する意識を、ハッキリさせようとすると、その声が何時の間にか「瑠璃子/ 瑠璃子/」と、言う悲痛な断末魔の声を、想い浮べさせたりした。  馬車が、暗い田の中の道を、左へ曲ったと思うと、眼の前に、山懐にほのめく、湯の街の火影が見え始めた。  信一郎は、愛妻に逢う前に、どうかして、乱れている自分の心持ちを、整えようとした。なるべく、穏やかな平静な顔になって、自分のショックを妻に-うつすまいとした。血腥い青年の最期も、出来るならば話すまい-とした。それは優しい妻の胸には、鋭すぎる事実だった。  藤木川の左岸に添うて走った馬車が、新しいキバシを渡ると、橋袂の湯の宿の玄関に止まった。 「奥様がお待ち兼でございます。」と、妻に付けてある女中が、宿の女中達と一緒に玄関に出迎えた。ふと気が付くと、玄関の突き当たりの、二階への階段の中段に、降りて出迎えようか(それともそれがかなりはしたない事なので)降りまいかと、躊躇っていたらしい静子が、信一郎の顔を見ると、にっこりと笑って、はち切れそうな嬉しさを抑えて、いそいそと駈け降りて来るのであった。 「いらっしゃいませ。どうして、こう遅かったの。」静子はちょっと不平らしい様子を嬉しさの裡に見せた。 「遅くなって済まなかったね。」  信一郎は、劬わるように言い捨てて、先に立って妻の部屋へ入った。  その時に、彼はふと青年から頼まれたノートを、まだ夏外套のポケットに入れているのに、気が付いた。さっき真鶴まで歩いたとき、引き裂いて捨てよう捨てようと思いながら、小使いの手前、どうしても果たし得なかったのである。当惑の為に、彼の表情はやや曇った。 「ご気分が悪そうね。どうかしたのですか。浴衣にお着がえなさいまし。それとも、お寒いようなら、褞袍になさいますか。」  そう言いながら静子は甲斐甲斐しく信一郎の脱ぐ上衣を受け取ったり、シャツを脱ぐのを手伝ったりした。  そのうちに、上衣を衣桁にかけようとした妻は、ふと、 「あれ!」と、かなりけたたましい声を出した。 「どうしたのだ。」信一郎は驚いて訊いた。 「何でしょう。これは、血’じゃなくて。」  静子は、真っ青になりながら、洋服の腕のボタンの所を、電灯の間近に持って行った。それは紛ぎれもなく血’だった。イッスン四方ばかり、ベットリと血が-にじんでいたのである。 「そうか。やっぱり付いていたのか。」  信一郎の声も、やや震いを帯びていた。 「どうかしたのですか。どうかしたのですか。」気の弱い静子の声は、かなり上ずッていた。  信一郎は、妻の気を落ち着けようと、かなり冷静に答えた。 「いやどうもしないのだ。ただ、自動車が崖にぶっ突かってね。乗り合わしていた大学生が怪我したのだ。」 「貴方は、どこもお怪我はなかったのですか。」 「運がよかったのだね。俺は、かすり傷一つ負わなかったのだ。」 「そしてその学生の方は。」 「重傷だね。助からないかも知れないよ。まあ奇禍と言うんだね。」  静子は、夫が免れた危険を想像するだけで、かなり激しい感動に襲われたと見え、目を瞠ったまま暫くは物も言わなかった。  信一郎も、何だか不安になり始めた。奇禍に逢ったのは、大学生ばかりではないような気がした。自分も妻も、平和な気持ちを、滅茶滅茶にされた事が、かなり大きい禍であるように思った。が、そればかりでなく、時計やノートを受け継いだ事に依って、青年の恐ろしい運命をも、受け継いだような気がした。彼は、楽しく期待した通り静子に逢いながら、優しい言葉一つさえ、かけてやる事が出来なかった。  夫と妻とは、真っ青になりながら、黙々として相対していた。信一郎は、ポケットに入れてある時計が、何か/魔の符でもあるように、キミ悪く感ぜられ始めた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第3話】 【美しき遅参者】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  青年の横死は、東京の各新聞に依って、かなり精しく伝えられた。青年が、信一郎の想像した通り/青木男爵の長子であったことが、それに依って証明された。が、不思議に同乗者の名前は、各新聞とも洩らしていた。信一郎は結局それを気安いことに思った。  信一郎が、静子を伴って帰京した翌日に、青木家の葬儀は青山の斎場で、執り行われることになっていた。  信一郎は、自分が青年の最期を介抱した当人であると言う事を、名乗って出るような心持ちは、少しもなかった。が、自分の手を枕にしながら、息を引き取った青年が、傷ましかった。他人でないような気がした。十年の友達であるような気がした。その人の面影を偲ぶと、何となくなつかしい/涙ぐましい気がした。  遺族の人々とは、縁もゆかりもなかった。が、とむらわれている人とは、かなり強い因縁が、纏わっているように思った。彼は、心からその葬いの席に、連なりたいと思った。  が、その上、もう一つ是非とも、連なるべき必要があった。青年の葬儀である以上、姉も妹も、瑠璃子と呼ばるる女性も、返すべき時計の真の持ち主も、(もしあれば)青年の恋人も、みんな連なっているのに違いない。青年に、ゆかりのある人を物色すれば、時計を返すべき持ち主も、案外容易に、見当が付くに違いない。否、少くとも瑠璃子と言う女だけは、容易に見い出し得るに違いない、信一郎はそう考えた。  その日は、カクゼンと晴れた初夏のイチニチだった。もう夏らしく、白い層雲が、むくむくと空の一角に湧いていた。水色の空には、強い光が、一杯に充ち渡って、生々の気が、空にも地にも溢れていた。ただ、青山の葬場に集まった人だけは、生き生きとした周囲の中に、しめっぽい静かな陰翳を、投げているのだった。  青年の不幸な夭折が、特に多くの会葬者を、惹き付けているらしかった。信一郎が、定刻の三時前に行ったときに、早くも十幾台の自動車と/百台に近い俥が、斎場の前の広い道路に乗り捨ててあった。控席に待ち合わしている人々は、もう五百人に近かった。それだのに、自動車や俥が、幾台となく後から後から到着するのだった。死んだ青年の父が、貴族院のある団体の有力な幹部である為に、政界の巨頭は、大抵’網羅しているらしかった。貴族院議長のT公爵の顔や、軍令部長のS大将の顔が、信一郎にもすぐそれと判った。葉巻を横銜えにしながら、場所柄をも考えないように哄笑している巨漢は、逓信大臣のN氏だった。それと相手になっているのは、戦後の欧洲を、回って来て以来、風雲を待っているらしく思われているG男爵だった。そのほか首相の顔も見えた。内相もいた。陸相もいた。実業界の名士の顔も、ゴ六人は見覚えがあった。が、見渡したところ信一郎の知人は一人もいなかった。彼は、受付へ名刺を出すと、控えジョウの一隅へ退いて、式の始まるのを待っていた。  誰も彼に、話しかけてくれる人はなかった。接待をしている人達も、名士達の前には、頭を幾度も下げて、その会葬を感謝しながら、信一郎には、ただ儀礼的な一揖を酬いただけだった。  誰からも、顧みられなかったけれども、信一郎の心には、自信があった。千に近い会葬者が、集まろうとも、青年の臨終に侍したのは、自分一人ではないか。青年の最期を、見届けているのは、自分一人ではないか。青年の信頼を受けているのは自分一人ではないか。そのシニドコに侍して介抱してやったのは、自分一人ではないか。もし、死者にして霊あらば、大臣や実業家や名士達の社交じょうの会葬よりも、自分の心からな会葬を、どんなに喜ぶかも知れない。そう思うと、信一郎は自分の会葬が、他のナンピ-トの会葬よりも、意義があるように思った。彼はそうした感激に耽りながら、じっと会葬者の群れを眺めていた。急に、皆が静かになったかと思うと、カッカツたる馬蹄の響きがして、霊柩を載せた馬車が遺族達に守られて、斎場へ近づいて来るのだった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  霊柩を載せた馬車を先頭に、一門の人々を載せた馬車が、シチ八台も続いた。信一郎は、群衆を擦りぬけて、馬車の止まったホウへ近づいた。次々に、馬車を降りる一門の人々を、仔細に注視しようとしたのである。  霊柩のすぐ後ろの馬車から、降り立ったのは、今日の葬式の喪主であるらしい青年であった。一目見ると、横死した青年の肉親の弟である事が、すぐ判った。それほど二人はよく似ていた。ただ学習院の制服を着ているこの青年の背タケが、国府津で見たその人の兄よりも、イチニ寸高いように思われた。  その次の馬車からは、二人の女性が現われた。信一郎は、その-いずれかが瑠璃子と呼ばれはしないかと、熱心に見詰めた。二人とも、死んだ青年の妹であることが、すぐ判った。兄に似て二人とも端正な美しさを持っていた。年の上の方も、まだハタチを越していないだろう。その美しい眼を心持ち泣き腫らして、雪のような喪服を纏うて、俯きがちに、しおたれて歩む姉妹の姿は、悲しくもまた美しかった。  それに、続いてどの馬車からも、一門の夫人達であろう、白無垢を着た貴婦人が、一人二人ずつ降り立った。信一郎は、その裡の誰かが、きっと瑠璃子に違いないと思いながら、一人から他へと、慌しい眼を移した。が、ただいらいらするだけで、ハッキリと確かめるスベは、少しもなかった。  霊柩が式場の正面に安置せられると、会葬者も銘々に、式場へ雪崩れいった。手狭な式場は見る見る、一杯になった。  式が始まる前の静けさが、そこに在った。会葬者達は、銘々慎みの心を、表に現わして紫や緋の衣を着た老僧達の、居並ぶ祭壇を一斉に注視しているのであった。  式場が静粛に緊張して、今にも読経の第一声が、この静けさを破ろうとする時だった。突如として式場の空気などを、少しも顧慮しないようなけたたましい、自動車の響きが場外に近づいた。祭壇に近い人々は、さすがに振り向きもしなかった。が、会葬者の殆ど過半が、この不遠慮な闖入者に対して/叱責に近い注視を投げたのである。  自動車は、式場の入口に横付けにされた。イタリー製らしい、優雅な自動車のドアが、運転手に依って排せられた。  会葬者の注視を引いた事などには、何の恐れ気もないように、翼を拡げた白孔雀のような、気高さと上品さとで、その踏段から地上へと、スックと降り立ったのは、まだうら若い一個の女性だった。降りざまに、そのオモテを掩うていた黒い薄絹のヴェールを、かなぐり捨てて、無造作に自動車の中へ’投げ入れた。人々の環視の裡に、微笑とも嬌羞とも付かぬ表情を、湛えたオモテは、くっきりと皎く輝いた。  白襟紋付の瀟洒な衣は、そのスラリとした姿をいっそう気高く見せていた。彼女は、何の悪びれた様子も見せなかった。打ち並ぶ名士達の間に、細く残された通路を、足バヤに通り抜けて、祭壇の右の婦人達の居並ぶ席に就いた。  会葬者達は、場所柄の許す範囲で、銘々熱心な眼で、この美しい不遠慮な遅参者の姿を追った。が、そうした眼の中でも、信一郎のそれが、一番熱心で一番輝いていたのである。  彼は、何よりも先に、この女性の美しさに打たれた。年はハタチを多くは出ていなかっただろう。が、そうした若い美しさにも拘わらず、人を圧するような威厳が、どこかに備わっていた。  信一郎は、頭の中で自分の知っている、あらゆる女性の顔を浮べて見た。が、そのどれもが、この婦人の美しさを、少しでも冒すことは出来なかった。  泰西の名画の中からでも、抜け出して来たような女性を、信一郎は驚異に似た心持ちで暫くは、茫然と会衆の頭越しに見詰めていたのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  信一郎が、その美しき女性に、釘付けにされたように、会葬者の眸も、一時はこの女性の身辺に-そそがれた。が、その裡に、衆僧が一斉に始めた読経の朗々たる声は、皆の心持ちを死者に対する敬虔な哀悼に引き統べてしまった。  が、この女性が、信一郎の心の裡に起こした動揺は、お経の声などに依ってなかなか静まりそうにも見えなかった。  彼は、直覚的にこの女性が、死んだ青年に対して、特殊な関係を持っていることを信じた。この女性の美しいけれども颯爽たる容姿が、あの返すべき時計に鏤刻されている、鋭い短剣の形を想い起さしめた。彼は、読経の声などには、殆ど耳も傾けずに、群衆の頭越しに、女性の姿を、懸命に見詰めたのである。  が、見詰めているうちに、信一郎の心は、それが瑠璃子であるか、時計の持ち主であるかなどと言う疑問よりも、この女性の美しさに、だんだん囚われて行くのだった。  この女性の顔形は、美しいと言っても、昔からある日本婦人の美しさではなかった。それは、日本の近代文明が、初めて生み出したような美しさと表情を持っていた。明治時代の美人のように、個性のない、人形のような美しさではなかった。その眸は、飽くまでも、理智に輝いていた。顔全体には、爛熟した文明の婦人に特有な、智的な輝きがあった。  婦人席で多くの婦人の中に立っていながら、この女性の背後だけには、ほのぼのと明るい後光が、射しているように思われた。  年頃から言えば娘とも思われた。が、どこかに備わっている冒しがたい威厳は、名門の夫人であることを示しているように思われた。  信一郎が、この女性の美貌に対する耽美に溺れている裡に、葬式のプログラムはだんだん進んで行った。死者の兄弟を先に一門の焼香が終りかけると、この女性もしとやかに席を離れて死者の為に一抹のコウを焚いた。  やがて式は了った。会葬者に対する挨拶があると、会葬者達は、我先にと帰途を急いだ。式場の前には俥と自動車とが暫くは右往左往に、入り乱れた。  信一郎は、急いで退場する群衆に、わざと取り残された。彼は群衆に押されながら、意識して、かの女性に近づいた。  女性が、式場を出はずれると、彼女はそこで、四人の大学生に取り捲かれた。大学生達は-みんな死んだ青年の学友であるらしかった。彼女は何か二言三言’言葉を-かわすと乗るべき自動車に片手をかけて、華やかな微笑を四人の中の、誰に投げるともなく投げて:、そのしなやかな身をひるがえして忽ち車上の人となったが、つと上半身を出したかと思うと、 「本当にそう考えて下さっては、わたくし/困りますのよ。」と、嫣然と言い捨てると、ドアをハタと閉じたが/自動車はそれを合図に散りかかる群衆の間を縫うて、徐ろに動き始めた。  大学生達は、自動車の後を、暫く立ち止まって見送ると、そのまま肩を揃えて歩き出した。信一郎も学生達の後を追った。学生達に話しかけて、この女性の本体を知ることが/時計の持ち主を知る、唯一の機会であるように思ったからである。  学生達は、電車に乗る積りだろう。式場の前の道を、青山三丁目のホウへと歩き出したのであった。信一郎は、それと悟られぬよう/一間ばかり、間隔を以って歩いていた。が、学生達の声は、かなり-たかかった。彼等の会話が、切れ切れに信一郎にも聞えて来た。 「青木の変死は、偶然だと言えばそれまでだが、僕は死んだと聞いたとき、すぐ自殺じゃないかと思ったよ。」と、一番肥っている男が言った。 「僕もそうだよ。青木のヤツ、やったな! と思ったよ。」と、他の背の高い男はすぐ賛成した。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「僕の所へ三保から寄越した手紙なんか、全くヘンだったよ。」と、ただ一人/夏外套を着ている男が言った。  信一郎は、そうした学生の会話に、好奇心を唆られて、思わず間近く接近した。 「とにかく、ヒドく悄気ていたことは、事実なんだ。誰かに、失恋したのかも知れない。が、あいつの事だから誰にも打ち明けないし、相手の見当は、サッパリ付かないね。」と、肥った男が言った。  そう聞いて見ると、信一郎は、自動車に同乗したときの、青年の態度をすぐ思い出した。その悲しみに閉された面影がアリアリと頭に浮かんだ。 「相手って、まさか我々のショウダ夫人じゃ-あるまいね。」と、一人が言うと、皆高々と笑った。 「まさか。まさか。」と皆は口々に打ち消した。  そこは、もう三丁目の停留場だった。四人連れの内の三人は、そこに停車している電車に、無理に押し入るようにして乗った。ただ、あとに残った一人だけ、眼鏡をかけた、皆の話を黙って聴いていた一人だけ、友達と別れて、電車の線路に沿うて、青山一丁目のホウへ歩き出した。信一郎は、その男の後を追った。相手が、一人のほうが、話しかけることが、容易であると思ったからである。  半町ばかり、付いて歩いたが、どうしても話しかけられなかった。突然、話しかけることが、不自然で突飛であるように思われた。彼は、幾度も中止しようとした。が、この機会を失しては、時計を返すべき糸口が、永久に見付け得られないようにも思った。信一郎はとうとう思い切った。センポウが、ちょっと振り返るようにしたのを機会に、つかつかとそばへ歩き寄ったのである。 「失礼ですが、貴方も青木さんのお葬いに?」 「そうです。」センポウは突然な問を、意外に思ったらしかったが、不愉快な様子は、見せなかった。 「やっぱりお友達でいらっしゃいますか。」信一郎はやや安心して訊いた。 「そうです。ずっと、小さい時からの友達です。小学時代からの竹馬の友です。」 「なるほど。それじゃ、さぞお力落しでしたろう。」と言ってから、信一郎は少し躊躇していたが、「つかぬ事を、承わるようですが、今あなた方と話していた婦人のかたですね。」と言うと、青年はすぐ訊き返した。 「あの自動車で、帰った人ですか。あの人がどうかしたのですか。」  信一郎は少しドギマギした。が、彼は訊き続けた。 「いや、どうもしないのですが、あの方は何と仰しゃる方でしょう。」  学生は、ちょっと信一郎を憫れむような微笑を浮べた。ホンの瞬間だったけれども、それは知るべきものを知っていない者に見せる/憫れみの微笑だった。 「あれが、有名なショウダ夫人ですよ。ご存じなかったのですか。かつて司法大臣をした事のある唐沢男爵の娘ですよ。唐沢さんと言えば、青木君のお父様と、同じ団体に属している貴族院の老政治家ですよ。お父さま同士の関係で、青木君とは近しかったんです。」  そう言われて見ると、信一郎も、ショウダ夫人なるものの写真や消息を/婦人雑誌や新聞の婦人欄で幾度も見たことを思い出した。が、それに対して、何の注意も払っていなかったので、その名前はどうしても想い浮ばなかった。が、この場合/名前まで訊くことが、かなり変に思われたが、信一郎は思い切って訊ねた。 「お名前は、確か何とか言われたですね。」 「瑠璃子ですよ、我々は、玉桂の瑠璃子夫人と言っていますよ。ハハハハ。」と、学生は事もなげに答えた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  葬場に於ける遅参者が、信一郎の直覚していたとおり、瑠璃子と呼ばるる女性であることが、この大学生に依って確かめられると、彼はその女性に就いて、もっといろいろな事が、知りたくなった。 「それじゃ、青木君とあの瑠璃子夫人とは、そう大したおつきあいでもなかったのですね。」 「いやそんな事もありませんよ。この半年ばかりは、かなり親しくしていたようです。もっともあの奥さんは、大変おつきあいの広い方で、僕なぞも、青木君同様かなり親しく、交際しているほうです。」  大学生は、美貌の貴婦人を、知己の中に数え得ることが、かなり得意らしく、誇らしげにそう答えた。 「じゃ、かなり自由なご家庭ですね。」 「自由ですとも、夫のカツヘイ氏を失ってからは、思うままに、自由に振舞っておられるのです。」 「あ! じゃ、あの方は未亡人ですか。」信一郎は、かなり意外に思いながら訊いた。 「そうです。結婚してから半年かそこらで、夫に死に別れたのです。それに続いて、先妻のお子さんの長男が気が狂ったのです。今では、ショウダケはあの奥さんと、美奈子と言う十九の娘さんだけです。それで、奥さんは離縁にもならず、娘さんの親権者として/ショウダケを切り回しているのです。」 「なるほど。それじゃ、後妻に-こられたわけですね。あの美しさで、あの若さで。」と、信一郎は事毎に意外に感じながら/そう呟いた。  大学生は、それに対して、何か説明しようとした。が、もう二人は青山一丁目の、停留場に来ていた。学生は、いま発車しようとしているシオチョウ行きの電車に、乗りたそうな様子を見せた。  信一郎は、最後の瞬間を利用して、もう一歩進めて見た。 「突然ですが、ある用事で、あの奥さんに、一度お目にかかりたいと思うのですが、紹介して下さる訳には‥‥。」と、言葉を切った。  大学生は、信一郎のそうしたやや不自然な、ぶっきら棒な願いを、美貌の女性の知己になりたいと言う、世間普通な/色好みの男性の願いと、同じものだと思ったらしく、ちょっと嘲笑に似た笑いを洩そうとしたが、すぐそれを噛み殺して、 「貴方のご身分や、ご希望を精しく承らないと、僕としてちょっと紹介して差し上げることは出来ません。もっとも、ショウダ夫人は普通の奥さんがたとは違いますから、突然’尋ねて行かれても、きっと逢ってくれるでしょう。お宅は、麹町の五番町です。」  そう言い捨てると、その青年は身体をすばしこく動かしながら、まさに動き出そうとする電車に巧に飛び乗ってしまった。  信一郎は、ちょっとおいてきぼりを喰ったような、やや不快な感情を持ちながら、暫くそこに佇立した。大学生に話しかけた自分の態度が、下等な新聞記者か何かのようであったのが、恥ずかしかった。どんなに、あの女性の本名が知りたくても/もっと上品な態度が取れたのにと思った。  が、そうした不愉快さが、だんだん消えて行ったあとに、瑠璃子と言う女性の本体を掴み得た満足がそこにあった。しかも、瑠璃子と言う女性が、今も-なおハンカチーフに包んで、ポケットの底深く潜ませて、持って来た時計の持ち主らしい、全ての資格を備えていることが何よりも嬉しかった。短剣を鏤めたプラチナの時計と、今日’見た瑠璃子夫人の姿とは、ピッタリと合いすぎるほど、合っていた。今日にでも夫人を訪ねれば、夫人はきっと、死んだ青年に対する哀悼の涙を浮べながら、あの時計を受け取ってくれるに違いない。そして、自分と青年との不思議な因縁に、感激の言葉を発するに違いない。そう思うと、信一郎の瞳にあざやかな夫人の姿が、ありありと浮かんで来た。彼は一刻も早く、夫人に逢いたくなった。そこへ、彼のそうした決心を促すように、ク段両国行きの電車が、軋って来た。この電車に乗れば、麹町五番町までは、一回の乗り換えさえなかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  電車が、赤坂見附から三宅坂どおり、五番町に近づくに従って、信一郎の眼には、葬場で見た美しい女性の姿が、いろいろなポーズを取って、現れて来た。返すべき時計のことなどよりも、美しき夫人の面影のほうが、より多く彼の心を占めているのに気が付いた。彼は自分の心持ちの中に、不純なものが’交じり-かけているのを感じた。『お前は時計を返す為に、あの夫人に逢いたがっているのではない。時計を返すのを口実として、あの美しい夫人に逢いたがっているのではないか。』と言う叱責に似た声を、彼は自分の心持ちの中に感じた。それほど、瑠璃子と呼ばれる女性の美しさが、彼の心を悩まし惑わしたが、信一郎は懸命にそれから逃れようとした。自分の責任は、ただ青年の遺言どおりに、時計を真の持ち主に返せばいいのだ。ショウダ瑠璃子が、どんな女性であろうとあるまいと、そんな事は何の問題でもないのだ。ただ、夫人が本当に時計の持ち主であるかどうかが、問題なのだ。自分はそれを確かめて、時計を返しさえすれば、責任は尽きるのだ。信一郎は、そう強く思い切ろうとした。が、いくら強く思い切ろうとしても、白孔雀を見るような、﨟たけた若き夫人の姿は、彼が思うま-いとすればするほど、いよいよ鮮明に彼の眼底を去ろうとはしなかった。  青い葉桜の林に、キラキラと夏の風が光る英国大使館の前を過ぎ、アオクサが美しく茂ったお濠の土手に沿うて、電車が止まると、彼は急いで電車を降りた。彼’の眼の前に五番町の広いとおりが、午後の太陽の光の下に白く輝いていた。彼は、ちょっとした興奮を感じながらも、暫くはそこに立ち止まった。紳士として、突然’訪ねて行くことが、余りにはしたないようにも思われた。手紙くらいで、一応’面会の承諾を得るほうが、自然で、かつは礼儀ではないかと思ったりした。が、そうした順序を踏んで相手が、会わないと言えば、それ切りになってしまう。少しは不自然でも、チョクサイに訪問したほうが、却って容易に会見し得るかも知れない。殊に、今は死んだ青年の葬儀から帰ったばかりであるから、この夫人も、きっと青年のことを、考えているに違いない。そこへ、自分が青年の名に依って尋ねて行けば、案外快く引見するに違いない。そう考えると信一郎は崩れかかった勇気を振い興して、五番町の表通と横丁とを軒並に、物色して歩いた。彼は、五番町の総てを漁った。が、どこにも、ショウダと言う表札は、見い出さなかった。三十分近く無駄に歩き回った末、彼はとうとう/通り合わした-ご用聞きらしい小僧に尋ねた。 「ショウダさんですか。それじゃあの停留場のすぐ前の、白煉瓦の洋館の、お屋敷がそれです。」と、小僧は言下に教えてくれた。  その’家は、信一郎にも最初から判っていた。信一郎は、電車から降りたとき、すぐその家に眼をやったのであるが、花崗石らしい大きな石門から、楓の並樹の間を、爪先上りになっている玄関への道の奥ふかく、青い若葉の蔭に聳える宏壮な西洋館が──:大きい邸宅の揃っているこの界隈でも、他の建物を圧倒しているような西洋館がショウダ夫人の家であろうとは夢にも思わなかった。  彼は、予想以上に立派な邸宅に気圧されながら、暫くはその門前に佇立した。玄関への青い芝生の中の道が、カーブをしている為に/車寄せの様子などは、見えなかったが、ゴシック風の白煉瓦の建物は瀟洒に/しかも荘重な感じを見る者に与えた。開け放した二階の窓にそよいでいる青色のカーテンが、いかにも清々しく見えた。二階のヴェランダに置いてある籐椅子には、燃えるようなクッションが敷いてあって、この家の主人公が、美しい夫人であることを、示しているようだ。  はいろうか、入るまいかと、信一郎は幾度も思い悩んだ。手紙で訊き合わして見ようか、それでも事は足りるのだと思ったりした。彼が、宏壮な邸宅に圧迫されながら思わずキビスを返そうとした時だった。噴泉の湧くように、突如として樹の間から洩れ始めた朗々たるピアノの音が信一郎の心をしっかと掴んだのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  樹の間を洩れて来るピアノの曲は、信一郎にも聞き覚えのあるショパンのノクチュルンだった。彼は、返そうとしたキビスを、釘付けにされて、暫くはそのアイエンな響きに、心を奪われずには-いられなかった。嫋々たるピアノの’音は、高く低く/緩やかに劇しく、時には若葉の梢を駆け抜ける五月の風のように囁き、時には青い月光の下に、俄に迸り-いでたる泉のように、ゲキした。その絶えんとして、また続く快い旋律が、目に見えない紫の糸となって、信一郎の心に、後から後から投げられた。それは美しい女郎蜘蛛の吐き出す糸のように、蠱惑的に彼の心を囚えた。  彼’の心に、キイの上をオサのように駆けめぐっている白い手が、一番に浮かんだ。それに続いて葬場でヴェールを取り去った刹那の白い輝かしい顔が浮かんだ。  彼は時計を返すなどと言うことより、とにかくも、夫人に逢いたかった。ただ、訳もなく、惹き付けられた。ただ、会うことが出来さえすれば、その事だけでも、非常に大きな喜びであるように思った。  躊躇していた足を、踏み返した。思い切って門を-くぐった。ピアノの’音に連れて、浮れ出した若き舞踏者のように、彼の心も妖しき興奮で、ときめいた。白い大理石の柱の並んでいる車寄せで、彼はちょっと躊躇した。が、その次の瞬間に、彼の指はもうドアの横に取付けてある呼鈴に触れていた。  ここまで来ると、ピアノの’音は、いよいよ間近く聞こえた。その冴えたタッチが、彼の心を強く囚えた。  呼鈴を押したあとで、彼は妙な息苦しい不安の裡に、1分ばかり待っていた。その時、小さい靴の足音がしたかと思うと/ドアが静かに押し開けられた。名刺受けの銀の盆を手にした美しい少年が、微笑を含みながら、頭を下げた。 「奥さまに、ちょっとお目にかかりたいと思いますが、ご都合はいかがでございましょうか。」  彼は、そう言いながら、一枚の名刺を渡した。 「ちょっとお待ち下さいませ。」  少年は丁寧に再び頭を下げながら、玄関の突き当たりの二階を、栗鼠のように、すばしこく駆け上がった。  信一郎は少年の後を、じっと見送っていた。サイは投げられたのだと言ったような、思い詰めた心持ちで、その二階に消える足音を聞いていた。  忽ちピアノの音が、ぱったりと止んだ。信一郎は、その刹那に劇しい胸騒ぎを感じたのである。その美しき夫人が、彼の姓名を初めて知ったと言うことが、彼の心を騒がしたのである。彼は、再びピアノが鳴り出しはしないかと、息を凝していた。が、ピアノの鳴る代わりに、少年の小さい足音が、聞え始めた。愛嬌のよい笑いを浮べた少年は、トントンと飛ぶように階段を駆け降りて来た。 「一体、どう言うご用でございましょうか、ちょっと聞かしていただくように、仰しゃいました。」  信一郎は、それを聞くと、もう夫人に会う確かな望みを得た。 「今日、お葬式がありました青木淳氏のことで、ちょっとお目にかかりたいのですが‥‥。」と、言った。少年は、また勢いよく階段を駆け上がって行った。今度は、以前のように早くは、駆け降りて来なかった。会おうか会うまいかと、夫人が思案している様子が、ありありと感ぜられた。5分近くも経った頃だろう。少年はやっと、二階から駆け降りて来た。 「ご紹介状のない方には、どなたにもお目にかからないことにしてあるのですが、貴方様をご信用申し上げて、特別にお目にかかるように仰しゃいました。どうぞ、こちらへ。」と、少年は信一郎を案内した。玄関を上った処は、広間だった。その広間の左の壁には、ゴヤの描いた『踊り子』の絵の、かなり精緻な模写が掲げてあった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第4話】 【女王蜘蛛】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  信一郎の案内せられた応接室は、青葉の庭に面している広い明るい部屋だった。花模様の青い絨毯の敷かれた床の上には、マホガニーのテーブルを囲んで、水色のクッションの取り付けてあるアームチェイアが五’六脚置かれている。壁に添うて横わっている安楽椅子のクッションも水色だった。カーテンも水色だった。それが純白の布で張られている周囲の壁と映じて、夏らしい清新な気が部屋一杯に充ちていた。信一郎は勧められるままに、ドアを後にして、椅子に腰を下ろすと、落ち着いて部屋の装飾を見回した。三方の壁には、それぞれ新しい油絵が懸っていた。ユンデの壁にかかっているのは、去年のニカの展覧会にかなり世評を騒がした新帰朝の/ある洋画家の水浴する少女の裸体画だった。この家の女主人公’が、裸体画を応接室に掲げるほど、社会ジョウの因襲に囚われていないことを示しているように、画中の少女は、一糸も纏っていない肉体を、冷たそうな泉の中に、その両膝の所まで、怖ず怖ずと浸しているのであった。その他テーブルの上に置いてある灰皿にも、マンテルピースの上の時計にも、草花を投げ入れてある花瓶にも、この家の女主人公’の繊細な鋭い趣味が、一々現われているように思われた。  途絶えたピアノの’音は、再び続かなかった。が、その音の主は、なかなか姿を現わさなかった。少年が茶を運んで来たあとは、暫くの間、近づいて来る人の気配もなかった。3分経ち、5分経ち、10分経った。信一郎の心は、だんだん不安になり、だんだんいらいらして来た。自分が、余りに奇を好んで紹介もなく顔を見たばかりの夫人を、訪ねて来たことが、軽率であったように、悔いられた。  その裡に、ふと気が付くと、正面のマンテルピースの上の姿見に、自分の顔が映っていた。彼が何気なく自分の顔を見詰めていた時だった。ふと、サラサラと言う衣擦れの音がしたかと思うと、後ろのドアが音もなく開かれた。信一郎が、あわてて立ち上がろうとした時だった。正面の姿見に早くも映った白い美しい顔が、鏡の中で信一郎に、嫣然たる微笑の会釈を投げたのである。 「お待たせしましたこと。でも、お葬式から帰って、まだ着替えも致していなかったのですもの。」  長い間の友達にでも言うような、男を男とも思っていないような夫人の声は、ビシュウと馴れ馴れしさに充ちていた。しかも、その声は、何と言う美しい響きと魅力とを持っていただろう。信一郎は、意外な親しさを投げ付けられて最初はドギマギしてしまった。 「いや突然’伺いまして‥‥。」と、彼は立ち上りながら答えた。声が、妙に上ずッて、少年か何かのように、赤くなってしまった。  フカミイロにぼかした模様の金紗縮緬の着物に、黒と緑の飛燕模様の帯を締めた夫人は、そのスラリと高い身体を、くねらせるように、椅子に落ち着けた。 「本当に、盛んなお葬式でしたこと。でもジュンさんのように、あんなに不意に、死んでは堪りませんわ。あんまり、突然で丸切り夢のようでございますもの。」  初対面の客に、ロクロク挨拶もしないうちに、夫人は何のこだわりもないように、自由に喋べり続けた。信一郎は、夫人からすっかり先手を打たれてしまって、暫くは-なんにも言い出せなかった。彼は我にもあらず、十分’受け答えもなし得ないで、ただモジモジしていた。夫人は、相手のそうした躊躇などは、眼中にないように、自由で快活だった。 「ジュンさんは、たしかまだ二十四でございましたよ。確か五黄でございましたよ。五黄の申でございましょうかしら。わたしと同じに、よく新聞の九星を気にする方でございましたのよ。オホホホホホ。」  信一郎は、美しい蜘蛛の精の繰り出す糸にでも、懸ったように、話手の美しさにえいながら、暫くは茫然としていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  夫人は、口でこそ青年の死を悼んでいるものの、その華やかな様子や、表情のどこにも、それらしい翳さえ見えなかった。ただちょっとした知り合いの死を、死んでは少し寂しいが、しかし大したことのない知己の死を、話しているのに過ぎなかった。信一郎は、かなり拍子抜けがした。瑠璃子と言う名が、青年の臨終のトコで叫ばれた以上、いかなる意味かで、青年と深い交渉があるだろうと思ったのは、自分の思い違いかしら。夫人の様子や態度が、示している通り、死んでは少し寂しいが、しかし大したことのない知己に、過ぎないのかしら。そう、疑って来ると、信一郎は、青年の死際の譫言に過ぎなかったかも知れない言葉や、自分の想像を頼りにして、突然’訪ねて来た自分の軽率な、芝居がかった態度が気恥しくて堪らなくなって来た。彼は、夫人に会えば、こう言おう/ああ言おうと思っていた言葉が、咽喉にからんでしまって、ただもじもじ興奮するばかりだった。 「わたくし、今日すっかり時間を間違えていましてね。気が付くと、三時過ぎでございましょう。驚いて、自動車で馳せ付けましたのよ。あんなに遅く行って、本当にきまりが悪うございましたわ。」  その癖、夫人はきまりが悪かったような表情は少しも見せなかった。あの葬場でも、それを思い出している今も。若い美しい夫人のどこに、そうした大胆な、人を人とも思わないような強い所があるのかと、信一郎はただ呆気に取られているだけであった。さっきからの様子を見ると、信一郎が何のために、訪ねて来ているかなどと言うことは、丸切り’夫人の念頭にないようだった。信一郎のほうも、訪ねて来た用向きをどう切り出してよいか、途方にくれた。が、彼は漸く心を決めて、怖ず怖ず話し出した。 「実は、今日’伺いましたのは、死んだ青木君の事に就いてでございますが‥‥。」  そう言って、彼は改めて夫人の顔を見直した。夫人が、それに対してどんな表情をするかが、見たかったのである。が、夫人は無雑作だった。 「そうそう/取次ぎの者が、そんなことを申しておりました。青木さんの事って、何でございますの?」  帝劇で見た芝居の噂話をでもしているように夫人の態度は平静だった。 「実は、貴方さまにこんなことをお話しすべき筋であるかどうか、それさえ私には分からないのです、もし、人違いだったら、どうかごめん下さい。」  信一郎は、女王の前に出た騎士のように慇懃だった。が、夫人は卓上に置いてあった支那製の団扇を取って、煽ぐともなく動かしながら、 「ホホホ/なんのお話か知りませんが大層面白くなりそうでございますのね。まあ話して下さいまし。人違いでございましたにしろ、お聞きいたしただけ聞き徳でございますから。」と、微笑を含みながら言った。  信一郎は、夫人の真面目とも不真面目とも付かぬ態度にからかわれたように、まごつきながら言った。 「実は、私は青木君のお友達ではありません。ただ偶然、同じ自動車に乗り合わしたものです。そして青木君の臨終に居合せたものです。」 「ほほう貴方さまが‥‥。」  そう言った夫人の顔は、さすがに緊張した。が、夫人は自分で、それに気が付くと、すぐ身を躱すように、以前の無関心な態度に帰ろうとした。 「そう! まあ何と言う奇縁でございましょう。」  その美しい眼を大きく見開きながら、努めて何気なく言おうとしたが、その言葉には、何となく、あるこだわりがあるように思われた。 「それで、実は青木君の死際の遺言を聴いたのです。」  信一郎は、夫人の示した僅かばかりの動揺に力を得て突っ込むようにそう言った。 「遺言を貴方さまが、ほほう。」  そう言った夫人のけだかい顔にも、隠し切れぬ不安がアリアリと読まれた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  今までは、秋の湖のように澄み切っていた夫人の様子が、青年の遺言と言う言葉を聴くと、急に僅かではあるが、乱れ始めた。信一郎は手答えがあったのを喜んだ。この様子では、自分の想像も、必ずしも’的が外れているとは限らないと、心強く思った。 「衝突の模様は、新聞にもある通りですが、それでも怪我から臨終までは、先ず三十分もマがありましたでしょう。その間、運転手は医者を呼びに行っていましたし、通りかかる人はなし、私一人が臨終に居合わしたと言うわけですが:、ちょうど息を引き取る五分くらい前でしたろう、青木君は、ふと右の手首に入れていた腕時計のことを言い出したのです。」  信一郎が、ここまで話したとき、夫人のオモテは、急に緊張した。そうした緊張を、現すまいとしている夫人の努力が、アリアリと分かった。 「その時計をどうしようと、言われたのでございますか。その時計を!」  夫人の言葉は、かなり急き込んでいた。その美しい白い顔が、サッと赤くなった。 「その時計を返してくれと言われるのです。是非返してくれと言われるのです。」信一郎も、やや興奮しながら答えた。 「誰方にでございましょうか。誰方に返してくれと言われたのでございましょうか。」  夫人の言葉は、更に急き込んでいた。一度赤くなった顔が、白く冷たい色を帯びた。美しい瞳までが鋭い光を放って、信一郎の答えいかにと、見詰めているのだった。  信一郎は、夫人の鋭い視線を-さけるようにして言った。 「それが誰にとも分からないのです。」  夫人の顔に現れていた緊張が、またサッと緩んだ。暫らく途絶えていた微笑が、仄かながら、その口元に現われた。 「じゃ、誰方に返してくれとも仰しゃらなかったのですの。」夫人は、ホッと安堵したように、何時の間にか、以前の落ち着きを、取り返していた。 「いやそれがです。幾度も、返すべき相手の名前を訊いたのですが、もう臨終が迫っていたのでしょう、私の問いには、何とも答えなかったのです。ただ臨終に貴方のお名前を譫言のように二度繰り返したのです。それで、万一貴方に、お心当りがないかと思って参上したのですが。」  信一郎は、肝腎な来意を言ってしまったので、ホッとしながら、彼は夫人がどう答えるかと、じっと相手の顔を見詰めていた。 「ホホホホホ。」先ず美しいその唇から、快活な微笑が洩れた。 「ジュンさんは、本当に頼もしい方でいらっしゃいましたわ。そんな時にまでわたくしを覚えていて下さるのですもの。でも、わたくし/腕時計などには少しも覚えがございませんの。お持ちなら、ちょっと拝見させていただけませんかしら。」  もう、夫人の顔に少しの不安も見えなかった。澄み切った以前の美しさが、帰って来ていた。信一郎は、求めらるるままに、ポケットの底から、ハンカチーフにくるんだ謎の時計を取り出した。 「確か女持には違いないのです。少し、象眼の意匠が、女持としては奇抜過ぎますが。」 「妹さんのものじゃございませんのでしょうか。」夫人は無造作に言いながら、信一郎の差し出す時計を受け取った。  信一郎は断るように付け加えた。 「血が少し付いていますが、わざと拭いてありません。衝突の時に、腕環の止金が肉に喰い入ったのです。」  そう信一郎が言った刹那、夫人の美しい眉が曇った。時計を持っている象牙のように白い手が、思いなしか、かすかにブルブルと震え出した。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  時計を持っている手が、微かに震えるのと一緒に、夫人の顔も蒼白く緊張したようだった。ほんのもう、痕跡しか残っていない血が、夫人の心をかなり、おびやかしたようにも思われた。  一分ばかり、無言に時計をいじくり回していた夫人は、何かを深く決心したように、そのひそめた眉を開いて、急に快活な様子を取った。その快活さには、かなりギゴチない、不自然なところが、交じっていたけれども。 「ああ/判りました。やっと思い付きました。」夫人は突然’云い出した。 「わたくし/この時計に心覚えがございますの。持ち主の方も存じておりますの。お名前は、ちょっと申し上げ兼ますが、ある子爵の令嬢でいらっしゃいますわ。でも、わたくし/あの方と青木さんとが、こうした物を、お取り交わしになっていようとは、夢にも思いませんでしたわ。きっと、誰方にも秘密にしていらしったのでございましょう。だから青木さんは臨終の時にも、遺族の方には知られたくなかったのでございましょう。道理で見ず知らずの貴方にお頼みになったのでございますわ。その令嬢と、愛の印としてお取り交わしになったものを、形見としてお返しになりたかったのでは、ございませんかしら。」  夫人は、明瞭に流暢に、何のよどみもなく言った。が、どことなく力なく空々しいところがあったが、信一郎は夫人の言うことを疑う確かな証拠は、少しもなかった。 「わたくしも、多分そうした品物だろうとは思っていたのです。それでは、早速その令嬢にお返ししたいと思いますが、お名前を教えていただけませんでしょうか。」 「左様でございますね。」と、夫人は首を-かしげたが、すぐ「わたくしを信用していただけませんでしょうか、わたくしが、女同士で、そっと返して上げたいと思いますのよ。男の方の手からだと、どんなに恥しくお思いになるか分からないと、存じますのよ。いかが?」と、承諾を求めるように、ニッコリと笑った。華やかな艶美な微笑だった。そう言われると、信一郎はそれ以上、かれこれ言うことは出来なかった。とにかく、謎の品物が思ったより容易に、持ち主に返されることを、喜ぶよりほかはなかった。 「じゃ、貴方さまのお手でお返し下さいませ。が、その方のお名前だけは、承ることが出来ませんでしょうか。貴方さまを、お疑い申す訳では決してないのでございますが。」と、信一郎は怖ず怖ず云った。 「ホホホホ/貴方様も、他人の秘密を聴くことが、お好きだと見えますこと。」夫人は、忽ち信一郎を突き放すように言った。その癖、顔一杯に微笑を湛えながら、「恋人を突然’奪われたその令嬢に、同情して、黙ってわたくしに任して下さいませ。わたくしが責任を以って、青木さんの魂が、満足遊ばすようにお計いいたしますわ。」  信一郎は、もう一歩も前へ出ることは出来なかった。そうした令嬢が、本当にいるかどうかは疑われた。が、夫人が時計の持ち主を、知っていることは確かだった。それが、夫人の言うとおり、子爵の令嬢であるかどうかは分からないとしても。 「それでは、お任せいたしますから、どうかよろしくお願いいたします。」  そう引き退るよりほかはなかった。 「確かにお引き受けいたしましたわ。貴方さまのお名前は、その方にも申し上げて置きますわ。きっと、その方も感謝なさるだろうと存じますわ。」  そう言いながら、夫人はその血の付いた時計を、懐から出した白い絹のハンカチーフに包んだ。  信一郎は、時計が案外’容易に片づいたことが、嬉しいような、同時に呆気ないような気持ちがした。少年が紅茶を運んで来たのを合図のように立ち上がった。  信一郎が、勧められるのを振り切って、まさに玄関を出ようとしたときだった。夫人は、何かを思い付いたように言った。 「あ、ちょっとお待ち下さいまし。差し上げるものがございますのよ。」と、呼び止めた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  信一郎が、イトマを告げたときには何とも引き止めなかった夫人が、玄関のところで、急に後ろから呼び止めたので、信一郎はちょっと意外に思いながら、振り返った。 「つまらないものでございますけれども、これをお持ち下さいまし。」  そう言いながら、夫人はいつのマに、手にしていたのだろう、プログラムらしいものを、信一郎にくれた。ちょっと開いて見ると、それは夫人の属するある貴婦人の団体で、催される慈善音楽会の入場券とプログラムであった。 「ご親切に対するお礼は、わたくしから、致そうと存じておりますけれど、これはホンのお近づきになったお印に差し上げますのよ。」  そう言いながら、夫人は信一郎に、最後の魅するような微笑を与えた。 「いただいて置きます。」辞退するほどの物でもないので信一郎はそのままポケットに入れた。 「ご迷惑でございましょうが、是非お出で下さいませ、それでは、その節またお目にかかります。」  そう言いながら、夫人は玄関のドアの外へ出て/暫くは信一郎の歩み去るのを見送っているようであった。  電車に乗ってから、暫くのあいだ/信一郎は夫人に対するエイから、醒めなかった。それは確かに酔い心地とでも言うべきものだった。夫人と会って話している間、信一郎はそのキビキビした表情や、優しいけれども、のしかかって来るような言葉に、言い知れぬ魅力をさえ感じていた。男を男とも思わないような夫人に、もっとグングン引きずられたいような、不思議な欲望をさえ感じていたのである。  が、そうしたエイが、だんだん醒めかかるに連れ、冷たい反省が信一郎の心を占めた。彼は、今日の夫人の態度が、何となく気にかかり始めた。夫人の態度か、言葉かのどこかに、嘘偽りがあるように思われてならなかった。最初/冷静だった夫人が、遺言と言う言葉を聞くと、急に緊張したり、時計を暫く見詰めてから、急に持ち主を知っていると言い出したりしたことが、今更のように、疑念の的になった。疑ってかかると、信一郎は大事な青年の形見を、夫人からテイよく捲き上げられたようにさえ思われた。従って、夫人の手に依って、時計が本当の持ち主に帰るかどうかさえが、かなり不安に思われ出した。  その時に、信一郎の頭の中に、青年の最後の言葉が、アリアリと甦って来た。『時計を返してくれ』と言う言葉の、語調までが、ハッキリと甦って来た。その叫びは、恋人に恋の形見を返すことを、頼む言葉としては、余りに悲痛だった。その叫びの裡には、もっと鋭い/骨を刺すような何物かが、交じっていたように思われた。『返してくれ』と言う言葉の中に『突っ返してくれ』と言うような凄い語気を含んでいたことを思い出した。たとい、死際であろうとも、恋人に物を返すことを、あれほど悲痛に頼むことはない筈だと思われた。  そう考えて来ると、瑠璃子夫人の言った子爵令嬢と青年との恋愛関係は、煙のように頼りない事のようにも思われた。夫人はああした口実で、あの時計をテイよく取り返したのではあるまいか。本当は、自分のものであるのを、他人のものらしく、テイよく取り返したのではあるまいか。  が、そう疑って見たものの、それを確かめる証拠は何もなかった。それを確かめるために、もう一度夫人に会って見ても、あの夫人の美しい容貌と、溌剌な会話とで、もう一度テイよく追い返されることは余りに判り切っている。  信一郎は、夫人の張る蜘蛛の網にかかった蝶か何かのように、手もなく丸め込まれ、肝心な時計をテイよく、捲き上げられたように思われた。彼は、自分の腑甲斐なさが、悔しく思われて来た。  彼’の手を離れても、謎の時計は、やっぱり謎の尾を引いている。彼はどうかして、その謎を解きたいと思った。  その時にふと、彼は青年が海に捨つるべく彼に委託したノートのことを思い出したのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  青年から、海へ捨てるように頼まれたノートを、信一郎はまだトランクの裡に、持っていた。海に捨てる機会を失くしたので、焼こうか裂こうかと思いながら、ついそのままになっていたのである。  それを、今になって披いて見ることは、死者に済まないことには違いなかった。が、時計の謎を知るためには、──:それと同時に瑠璃子夫人の態度の謎を解くためには、ノートを見ることよりほかに、何の手段も思い浮ばなかった。あんな秘密な時計をさえ、自分には託したのだ、その時計の本当の持ち主を知るために、ノートを見るくらいは、許してくれるだろうと、信一郎は思った。  でも家に帰って、まだ旅行から帰ったままに、抛り出してあったトランクを開いたとき、信一郎はかなり良心の苛責を感じた。  が、彼が時計の謎を知ろうと言う慾望は、もっとつよかった。美しい瑠璃子夫人の謎を解こうと言う慾望は、もっとつよかった。  彼は、恐る恐るノートを取り出した。秘密の封印を解くような興奮と恐怖とで、怖ず怖ず表紙を開いて見た。彼の緊張した予期は外れて、最初の二’三枚は、白紙だった。その次の五’六枚も、白紙だった。彼は、裏切られたようなイライラしさで、全体を手早くめくって見た。が、どのページも、真っ白な汚れないページだった。彼が、妙な失望を感じながら、最後までめくって行ったとき、やっとそこに、インキの匂いのまだ新しい青年の手記を見たのである。それは、ノートの最後から、逆にかき出されたものだった。  信一郎は胸を躍らしながら、貪るようにその1行1行を読んだのである。かなり興奮して書いたと見え、字体が荒んでいる上に、字の書き違いなどが、かしこにもここにもあった。 ◇。◇。◇。 ──彼女は、蜘蛛だ。恐ろしく、美しい蜘蛛だ。自分が彼女に捧げた愛も熱情も、ただ彼女の網にかかった/蝶の身悶えに、過ぎなかったのだ。彼女は、彼女の犠牲の悶えを、冷やかに楽しんで見ていたのだ。  今年の二月、彼女は自分に、愛の印だと言って、一個の腕時計をくれた。それを、彼女の白い肌から、すぐ自分の手首へと、移してくれた。彼女は、それを掛け替えのない秘蔵の時計であるようなことを言った。彼女を、純真な女性であると信じていた自分は、そうした賜物を、どんなに喜んだかも知れなかった。彼女を囲んでいる多くの男性の中で、自分こそ選ばれたるただ一人であると思った。勝利者であると思った。自分は、人知れず、得々としてこれを手首に入れていた。彼女の愛の把握がそこにあるように思っていた。彼女の真実の愛が、自分一人にあるように思っていた。  が、自分のそうした自惚れは、そうした陶酔は滅茶苦茶に、踏み潰されてしまったのだ。皮肉に残酷に。  昨日’自分は、村上海軍大尉と共に、彼女の家の庭園で、彼女の帰宅するのを待っていた。その時に、自分はふと、大尉がその軍服の腕を-まくり上げて、腕時計を出して見ているのに気が付いた。よく見ると、その時計は、自分の時計に酷似しているのである。自分はそれとなく、一見を願った。自分が、その時計を、大尉の頑丈な手首から、取り外した時の驚きは、何んなであったろう。もし、大尉がそこに居合せなかったら、自分は思わず叫声を挙げたに違いない。自分が、それを持っている手は思わず、震えたのである。  自分は急き込んで訊いた。 「これは、どこからお買いになったのです。」 「いや、買ったのではありません。ある人から貰ったのです。」  大尉の答えは、憎々しいほど、落ち着いていた。しかも、その落ち着きの中に、得意の色がアリアリと見えているではないか。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 ──その時計は、自分の時計と、寸分違ってはいなかった。象眼の模様から、鏤めてあるダイヤモンドの大きさまで。それは、彼女に取って掛け替えのない、たった一つの時計ではなかったのか。自分は自分の手中にある大尉の時計を、庭の敷石に、叩き付けてやりたいほど興奮した。が、大尉は自分の興奮などには気の付かないように、 「どうです。なかなか奇抜な意匠でしょう。ちょっと類のない品物でしょう。」と、その男性的な顔に得意な微笑を続けていた。自分は、自分の右の手首に入れているそれと、寸分違わぬ時計を、大尉の眼に突き付けて/大尉のプライドを叩き潰してやりたかった。が、大尉に-なんの罪があろう。自分たち立派な男子二人に、こんな皮肉な/残酷な喜劇を演ぜしめるのは、みんな彼女ではないか。彼女が操る蜘蛛の糸の為ではないか。自分は、彼女が帰り次第、真っ向から時計を叩き返してやりたいと思った。  が、彼女と面と向かって、不信を詰責しようとしたとき、自分は却って、彼女から忍びがたい辱めを受けた。自分は小児の如く、飜弄され、奴隷の如く卑しめられた。しかも、美しい彼女の前に出ると、唖のようにたわいもなく、黙り込む自分だった。自分は憤りと恨みとの為に、わなわな震えながら/しかも指一本’彼女に触れることが出来なかった。自分は力と勇気とが、欲しかった。彼女の華奢な心臓を、一思いに突き刺し得るだけの勇気と力とを。  が、二つとも自分には欠けていた。彼女を刺す勇気のない自分は、彼女を忘れようとして、都を離れた。が、彼女を忘れようとすればするほど、彼女の面影は自分を追い、自分を悩ませる。 ◇。◇。◇。  手記はここで中断している。が/半ページばかり飛んでから、前よりももっと乱暴な字体で始まっている。 ◇。◇。◇。  どうしても、彼女の面影が忘れられない。それが蝮のように、自分の心を噛み裂く。彼女を心から憎みながら、しかも片時も忘れることが出来ない。彼女が彼女のサロンで多くの異性に取り囲まれながら、あの悩ましき媚態を惜しげもなく、示しているかと思うと、自分の心は、夜の如く暗くなってしまう。自分が彼女を忘れるためには、彼女の存在を無くするか、自分の存在を無くするか、二つに一つだと思う。 ◇。◇。◇。  またちょっと中断されてから、 ◇。◇。◇。  そうだ、いっ-そ死んでやろうか-しら。純真な男性の感情を弄ぶことが、どんなに危険であるかを、彼女に思い知らせてやるために。そうだ。自分の真実の血で、彼女の偽りの贈り物を、真っ赤に染めてやるのだ。そして、彼女の僅かに残っている良心を、辱めてやるのだ。 ◇。◇。◇。  手記は、ここで終っている。信一郎は、深い感激の中に読み了った。これで見ると、青年の死は、形は奇禍であるけれども、心持ちは自殺であると言ってもよかったのだ。青年は死場所を求めて、箱根からズソウの間を彷徨っていたのだった。彼の奇禍は、彼の望みどおりに、偽りの贈り物を、彼の純真な血で真っ赤に染めたのだ。が、その血潮が、彼女の心に僅かに残っている良心を、辱め得るだろうか。『返してくれ』と言ったのは『叩き返してくれ』と言う意味だった。信一郎は果たして叩き返しただろうか。  彼女が、瑠璃子夫人であるかどうかは、手記を読んだ後も、はっきりとは判らなかった。が、ただ生易しく平和の裡に、返すべき時計でないことは明らかだった。その時計の中に含まれている青年の恨みを、相手の女性に、充分思い知らさなければならない時計だったのだ。ただ、ボンヤリと返しただけでは青年の心はエーキュウに慰められていないのだ。信一郎はもう一度瑠璃子夫人の手から取り返して、青年の手記の中のいわゆる『彼女』に突き返してやらねばならぬ責任を感じたのである。  が、『彼女』とは一体誰であろう。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第5話】 【そのかみの事】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「あら! お危のうございますわ。」と、赤い前垂掛けの女中姿をした芸者達に、追いまとわれながら、ショウダカツヘイは庭のちょうど真ん中にある丘の上へ、登って行った。飲み過ごしたシャンペン酒のために、かなり危なっかしい足付きをしながら。  丘の上には、スーホンの大きい八重桜が、爛漫と咲乱れて、移りゆく春の名残りを-とどめていた。そこから見渡される広い庭園には、晩春の日が、うらうらと-さしている。五万坪に近い庭には、幾つものコヤマがあり芝生があり、芝生が緩やかな勾配を作って、落ち込んで行ったところには、美しい水の湧く’泉水があった。  そのコヤマの上にも、麓にも、芝生の上にも、泉水の畔りにも、スキを凝らした四阿の中にも、モーニングやフロックを着た紳士や、派手な裾模様を着た夫人や令嬢が、三々伍々’打ち集うているのだった。  人の心を浮き立たすような笛や鼓の音が、楓の林の中から聞えている。小松の植込みの中からは、そこに陣取っている、三越の少年音楽隊の華やかな奏楽が、絶え間なく続いている。拍子木が鳴っているのは、市村座の若手俳優の手踊りが始まる合図だった。それに吸い付けられるように、裾模様や振袖の夫人達が、そのホウへゾロゾロと動いて行くのだった。  カツヘイは、そうした光景や、物音を聞いていると、得意と満足との微笑が後から後から湧いて来た。自分の名前に依って帝都の上流社会がこんなに集まっている。自分の名に依って、大臣も来ている。大銀行の総裁や頭取も来ている。侯爵や伯爵の華族達も見えている。いろいろな方面の名士を、一堂のもとに蒐めている。自分の名に依って、自分の社会的位置で。  そう考えるに付けても、彼はこの三年以来自分に振りかかって来た夢のような華やかな幸運が、振り顧みられた。  戦争が始まる前は、神戸の微々たる貿易商であったのが、たまたま持っていた1隻の汽船が、幸運の糸口を紡いで極端な遣り繰りをして:、1隻一隻と買い占めて行った船が、お伽噺の中の白鳥のように、黄金の卵を、次々に産んで、わずか三年後の今は、千万円を越す長者になっている。  しかも、かねの出来るに従って、彼は自分の世界が、だんだん拡がって行くのを感じた。今までは、『そこにいるか』とも声をかけてくれなかった人々が、何時の間にか自分の周囲に集まって来ている。近づき難いと思っていた一流の政治家や実業家たちが、何時の間にか、自分と同じ食卓に就くようになっている。自分を招待したり、自分に招待されたりするようになっている。その他、彼の金力が物を言うところは、到る処にあった。緑酒紅灯の巷でも、彼は自分の-かねの力が万能であったのを知った。彼は、かねさえあれば、何でも出来ると思った。現に、この庭園なども、都下で屈指の名園を彼が五十万円に近い-かねを投じて買ったのである。現に、今日の園遊会も、一人宛て100金に近い巨費を投じて、新邸披露として、都下の名士達を招んだのである。  聞えて来る笛のネも、鼓の音も奏楽の響きも、模擬店でビールのマンを引いている人達の哄笑も、カツヘイの耳には、彼の金力に対する讃美の声のように聞こえた。『そうだ。全ては-かねだ。かねの力さえあればどんな事でも出来る』と、心の裡で呟きながら、彼が日頃の確信を、いっそう強めたときだった。 「いや、どうも盛会ですな。」と、ビールのコップを右の手に高く翳しながら、ひょろひょろと近づいて来る男があった。それは、カツヘイとは同郷の代議士だった。その男の選挙費用も、悉くカツヘイのポケットから、出ているのだった。 「ヤア! お蔭さまで。」と、カツヘイは傲然と答えた。『ここにも儂の-かねの力で動いている男が一人いる。』と、心の中で思いながら。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「よく集まったものですね。随分珍しい顔が見えますね。松田老侯までが見えていますね。吾輩/一昨日は、英国大使館のガードンパーティに行きましたがね。とても、本日の盛況には及びませんね。もっとも、この名園を見るだけでも、来る値打ちは充分ありますからね。ハハハハ。」  代議士の沢田は真正面からお世辞を言うのであった。 「いい天気で、何よりですよ。ハハハハハ。」と、カツヘイは鷹揚に答えたが、内心の得意は、包み隠すことが出来なかった。 「素晴らしい庭ですな。あすこの杉林から泉水の裏手へかけての幽邃な趣は、とても市内じゃ見られませんね。五十万円でも、これじゃ高くはありませんね。」  そう言いながら、沢田は持っていたビールのコップを、またグイと飲み乾した。色の白い肥った顔が、咽喉の処まで赤くなっている。彼は、転げかかるように、カツヘイに近づいて右の二の腕を捕えた。 「主人公が、こんな所に、逃げ込んでいては困りますね。さあ、あっちへ行きましょう。さっきも我が党の総裁が、貴方を探していた。まだ挨拶をしていないと言って。」  沢田は、カツヘイをぐんぐん麓のホウへ、園遊会の賑わいと混雑のホウへ引きずりこもうとした。 「いや、もう少しこのままにして置いて下さい。今日’一時から、門の処で一時間半も立ち続けていた上に、さっきシャンペン酒を、ロクシチ杯も重ねたものだから。もう暫く捨てて置いて下さい。すぐ行きますよ、あとからすぐ。」  そう言って、捕えられていた腕を、スラリと抜くと、沢田はその機みで、一間ばかりひょろひょろと下へ滑って行ったが、そこでちょっと踏みとどまると、 「それじゃ後ほど。」と言ったまま/カラになったコップを、右の手で振り回すようにしながら、ふらふら’丘の麓にある模擬店のホウへ行ってしまった。  園内の数ヶ所で始まっている余興は、それぞれに来会した人々を、分け取りにしているのだろう。カツヘイの立っているこの広い丘の上にもゴ六人の人影しか、残っていなかった。カツヘイに付き纏っていた芸妓達も、さっき踊りが始まる拍子木が鳴ると、みんなそのホウへ駆け出してしまった。  が、カツヘイは辺りに人のいないのが、結局’気楽だった。彼は、そこに置いてある白い陶製の腰掛けに腰を下ろしながら、快い休息を貪っていた。心の中は、モユルような得意さで一杯になりながら。  彼が、暫く、ぼんやりと咲き乱れている八重桜の梢越しに、薄青く澄んでいる空を、見詰めている時だった。 「ここは静かですよ。早く上っていらっしゃい。」と、近くで若い青年の声がした。ふと、そのほうを見ると、スラリとした長身に、学校の制服を着けた青年が、丘の麓を見下ろしながら、誰かを麾いている所だった。  青年は、今日’招待した誰かが伴って来た家族の一人であろう。カツヘイには、少しも見覚えがなかった。青年も、この家の主人公が、こんな寂しい所に、一人いようなどとは、夢にも気付いていないらしく、麓のほうを麾いてしまうと、ハンカチーフを出して、そこにある陶製の腰掛けの埃を払っているのだった。  急に、丘の中腹で、うら若い女の声がした。 「まあ、ひどい混雑ですこと。わたし/いやになりましたわ。」 「どうせ、園遊会なんてこうですよ。あの模擬店の雑沓は、どうです。見ているだけでも、あさましくなるじゃありませんか。」と、青年は丘の中腹を、見下ろしながら、答えた。  それには何とも答えないで、昇って来るらしい人の気配がした。青年の言葉に、ちょっと傷つけられたカツヘイは、じっと-そのほうを、睨むように見た。最初、前髪を左右に分けた束髪の頭の形が見えた。それに続いて、細面の透き通るほど白い女の顔が現れた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  やがて、女は丘の上に全身を現した。/年は十八か九であろう。その気高い美しさは、彼女の頭上に咲き乱れている八重桜の、絢爛たる美しさをも奪っていた。目も-さむるような藤納戸色の着物の胸のあたりには、5色の色糸のかすみ模様の繍が鮮やかだった。そのぼかされた裾には、さくら草が一面に散り乱れていた。白地に孔雀を浮織にした唐織の帯には、帯止めの大きい真珠が光っていた。 「疲れたでしょう。お掛けなさい。」  青年は、埃を払った腰掛けを、女に勧めた。彼女は勧められるままに、腰を下ろしながら、横に立っている青年を見上げるようにして言った。 「わたし/こなければよかったわ。でも、お父様が一緒に行こう行こう言って、お勧めになるものですから。」 「僕も、妹のお伴で来たのですが、こう混雑しちゃ厭ですね。それに、この’庭だって、都下の名園だそうですけれども、ちっともよくないじゃありませんか。少しも、自然な素直な所がありゃしない。いやにコセコセしていて、人工的な小刀細工が多すぎるじゃありませんか。殊に、あの四阿の建て方なんか厭ですね。」  年の若い二人は、この日の園遊会の主催者なるカツヘイが、ただ一人こんな寂しい所にいようなどとは夢にも考え及ばないらしく、カツヘイのほうなどは、見向きもしないで話し続けた。 「お金さえかければいいと思っているのでしょうか。」  美しい令嬢は、その美しさに似合わないような皮肉な、口の利き方をした。 「どうせ、そうでしょう。成金と言ったような連中は、金額と言う事よりほかには、なんにも趣味がないのでしょう。全ての事を-かねの物差しで計ろうとする。かねさえかければ、何でもいいものだと考える。今日の園遊会なんか、一人ずつ五十円とか百円とかを、いれるとか何とか言っているそうですが、あの俗悪な趣向をご覧なさい。」  青年は、何かにゲキしているように、吐き出すように言った。  さっきから、聞くともなしに、聞いていたカツヘイは、激しい怒りで胸の中が、煮えくり返るように思った。彼は、立ち上がりざま、悪くチを言っている青年のホソ首を捕えて、屋敷の外へ抛り出してやりたいとさえ思った。彼は若い時、東京に出たときに労働をやった時の名残りに、残っている二の腕の力瘤を思わず撫でた。が、さすがに彼の位置が、ついサンヨンプン前まで、あんなに誇らしく思っていた彼の社会的位置が/彼のそうした怒りを制してくれた。彼は、ムラムラと湧いて来る心を抑えながら、青年の言うことを、じっと聞き澄ましていた。 「成金だとか、何とかよく新聞などに、彼等の豪奢な生活を、謳歌しているようですが、かねでかちうる彼等の生活は、何んなに単純で平凡でしょう。かねが出来ると、ニョショクを漁る、自動車を買う、屋敷を買う、家を新築する、分かりもしない骨董を買う、それ切りですね。なかに、よっぽど心掛けのいい男が、寄付をする。物質ジョウの生活などは、いくら-かねをかけても、すぐ尽きるのだ。かねで、自由になる芸妓などを、弄んでいて、よく飽きないものですね。」  青年は、成金全体に、なにか激しい恨みでもあるように、罵りつづけた。 「飽きるって。そりゃどうだか、分かりませんね。貴方のように、敏感な方なら、すぐに飽きるでしょうが、彼等のように鈍い感じしか持っていない人達は、いつまで同じことをやっていても飽きないのじゃなくって!」女は、美しいしかし冷めたい微笑を浮べながら言った。 「貴方は、悪くチは僕より一枚上ですね。ハハハハハハ。」  二人は相顧みて、会心の笑いを笑い合った。  黙って聞いていたカツヘイの顔は、フンヌのため紫色になった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  まだ年の若い元気な二人は、自分達の会話が、そばに居合すこの屋敷の主人のカツヘイにどんな影響を与えているかと言う事は、夢にも気の付いていないように、不遠慮に自由に話し進んだ。 「でも、お招ばれを受けていて、悪くチを言うのは悪いことよ。そうじゃなくって。」  令嬢は、右の手に持っている華奢な象牙ボネの扇を、弄りながら、青年の顔を見上げながら、さすがに女らしく言った。 「いや、もっと言ってやってもいいのですよ。」と、青年はその浅黒い男性的な凛々しい顔を、いっそう引き緊めながら、「第一’華族階級の人達が、成金に対する態度なども、かなり卑しいと思っているのですよ。いつも門閥だとか身分だとか言う/愚にも付かないものを、自慢にして、平民だとか町人だとか言って、軽蔑している癖に、相手が-かねがあると、平民だろうが、成金だろうが、こっちからペコペコして接近するのですからね。僕の父なんかも、何時の間にか、あんな連中と知り合いになっているのですよ。このあいだも、あんな連中に担がれて、何とか言う新設会社の重役になるとか言って、騒いでいるものですから、僕はウンと言ってやったのですよ。」 「おや! 今度は、お父様にお鉢が回ったのですか。」女は、青年の顔を見上げて、ニッコリ笑った。 「そこへ来ると、貴方のお父様なんか’立派なものだ。どこへ出しても恥かしくない。いつでも、清貧に安んじていらっしゃる。」青年は靴の先で散り布いている落花を踏み躙りながら言った。 「父のは病気ですのよ。」女は、ちょっと美しい眉を落とし/「あんなに年が寄っても、道楽が止められないのですもの。」そう言った声は、ちょっと寂しかった。 「道楽じゃありませんよ。男子として、立派な仕事じゃありませんか。三十年来貴族院の闘将として藩閥政府と戦って来られたのですもの。」  青年は、女を慰めるように言った。が、さっき成金を攻撃したときほどの元気はなかった。二人は話がいつか、理に落ちて来た為だろう。どちらからともなく、黙ってしまった。青年は、他の一つの腰掛けを、ニサンシャク動かして来て、女と並んで腰をかけた。生温かい晩春の微風が、襲って来た為だろう。花が頻りに散り始めた。  カツヘイはさっきから、幾度この場を立ち去ろうと思ったか、分からなかった。が、自分に対する悪評を怖れて、コソコソと逃げ去ることは、傲岸な彼の気性が許さなかった。張り裂けるようなフンヌを、胸に抑えて、じっと青年の攻撃を聞いていたのであった。  彼は、つい10分ほど前まで、今日の園遊会に集まっている、全ての人々は自分の金力に対する讃美者であると思っていた。讃美者ではなくとも、少くとも羨望者であると思っていた。否/少くとも、自分の持っている-かねの力だけは、認めてくれる人達だと思っていた。今日’集まっている首相を初め、いろいろな方面の高官も、M公爵を筆頭に多くの華族連中も、海軍や陸軍の将官達も、銀行や会社の重役達も、学者や宗教家や、角力や俳優達も、自分の持っている金力の価値だけは認めてくれる人だと思っていた。認めていてくれればこそやって来たのだと思っていた。それだのに、歯牙にもかけたくない、生若い男女の学生が、たとい貴族の子女であるにしろ、今日の会場の真ん中で、たとい自分の顔を見知らぬにせよ、自分の目前で、自分の生活を罵るばかりでなく、自分が命綱とも思う-かねの力を、頭から否定している。かねを持っている自分達の生活を、否/人格まで、散々に辱めている。そう考えて来ると、さっきまで晴やかに華やかに、昂ぶっていたカツヘイの心は、苦い韮を喰ったように、不快な/暗いものになってしまった。彼は、掠り傷を負った豹のような、凄い表情をしながら、二人の後ろ姿を睨んでいた。もう一言’何とか言って見ろ。そのままには済まさないぞ。彼のゲッコウした’心がそうした呻きを洩らしていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  そうした恐ろしい豹が、彼等の背後にうずくまっていようとは、気の付いていない二人は、今度は辺りを憚るように、しめやかに何やら話し始めた。  もう一言、学生が何か言ったら、飛び出して、面と向かって言ってやろうと、逸っていたカツヘイも、相手が急に静かになったので、拍子抜がしながら、しかもそのまま立ち去ることも、業腹なので、二人の様子を、じっと睨み詰めていた。  自分に対する罵詈のために、カッとなってしまって、青年の顔も少女の顔も、十分’目に入らなかったが、今は少し心が落ち着いたので、二人の顔を、更めて見直した。  気が付いて見れば見るほど、青年は男らしく、美しく、女は女らしく美しかった。殊に、少女の顔に見る浄い美しさは、カツヘイなどが夢にも接したことのない美しさだった。彼は、心の中で、かねで贖った新橋や赤坂の、名高い美妓の面影と比較して見た。何と言う格段な相違がそこにあっただろう。彼等の美しさは、造花の美しさであった。ニセ真珠の美しさであった。一目だけは、ごまかしが利くが/フタメ’見るともう鼻に付く美しさであった。が、この少女は、夜ごとに下りる白露に育まれた自然の花のような/生きた新鮮な美しさを持っていた。人間の手の及ばない海底に、自然と造り上げられる、天然真珠の如き輝きを持っていた。ひと目見て美しく、フタメ’見て美しく、見直せば見直す毎に蘇って来る美しさを持っていた。  カツヘイが、今まで-かねで買いえた女性の美しさは、この少女の前では、みんな偽物だった。かねで買い得るものと思っていたものは、みんな偽物だったのだ。カツヘイはこの少女の美しさからも、今までのプライドをかなり傷つけられてしまった。  それだけではなかった。この二人が、恋人同士であることが、カツヘイにもすぐそれと判った。二人の交している言葉は、低くて聞えなかったが、ときどきお互いに投げ合っている微笑には、愛情が込もっていた。愛情に燃えていながら、しかも浄く美しい微笑だった。  二人の睦じい様子を見ている裡に、カツヘイの心の中のフンヌは何時の間にか、嫉妬をさえ交えていた。『全ての事は-かねだ。かねさえあればどんな事でも出来る。』と思っていた彼の誇りは、根柢から揺り動かされていた。この二人の恋人が、今’感じ合っているような幸福は、カツヘイの全財産を、投じても得られるか、どうか分からなかった。少女の顔に浮ぶ、浄い/しかも愛に溢れた微笑の一つでさえ、贖うことが出来るだろうか。いかにも、新橋や赤坂には、彼に対して、千の媚を呈し、万の微笑を贈る女は、いくらでもいる。が、その媚びや微笑の底には、袖乞いのような卑しさや、狼のような貪慾さが隠されていた。この若い男女が交しているような微笑とは、ダイヤモンドと木炭のように違っていた。同じ炭素から成っていても、ダイヤモンドが木炭と違うように、同じ笑みでも質が違っていたのだ。  青年が、カツヘイの金力をあんなに、罵倒するのも無理はなかった。実際彼は、金力で得られない幸福があることを、カツヘイの前で示しているのだった。  青年の罵倒が単なる悪くチでなく、カツヘイに取っては、苦い真理であるだけに、カツヘイの恨みは骨に入った。また、罵倒した後で、罵倒する権利のあることを、カツヘイにマザマザと見せ付けただけに、カツヘイの憤りは、肝に銘じた。彼は、ヒト突き刺された闘牛のように、怒っていた。もう、自制もなかった。彼が、さっきまで誇っていた社会的位置に対する遠慮もなかった。彼は樫の木に出来る木瘤のような掌を握りしめながら、今にも青年に飛びかかるような身構えをしていた。  その時に、うずくまっていた青年がつと立ち上がった。女も続いて立ち上りながら言った。 「でも、何か召し上ったらどう。折角いらしったのですもの。」 「僕は、成金バラのゾクを食むを潔しとしないのです。ハハハハ。」  青年は、半分冗談で言ったのだった。が、フンヌに心の狂いかけていたカツヘイにとっては、最後の通牒だった。彼は、寝そべっていた獅子のように、猛然と腰掛けから離れた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  カツヘイの激怒には、まだ気の付かない青年は、連れの女を促して、丘を-くだろうとしているのだった。 「もし、もし、暫く。」カツヘイの太い声も、さすがに震えた。  青年は、何気ないように振り返った。 「何かご用ですか。」落ち着いた、しかも気品のある声だった。それと同時に、連れの女も振り返った。その美しい眉に、ちょっとカツヘイの突然な態度を咎めるような色が動いた。 「いや、お呼び止めいたして-すみません。ちょっとご挨拶がしたかったのです。」と、言ってカツヘイは、息を切った。昂奮の為に、言葉が自由でなかった。二人の相手は、カツヘイの昂奮した様子を、不思議そうにジロジロ見ていた。 「さっき、皆様にご挨拶した筈ですが、貴方がたは遅くいらしったと見えて、まだご挨拶をしなかったようです。私が、この家の主人のショウダカツヘイです。」  そう言いながら、カツヘイはわざと丁寧に、頭を下げた。が、両方の手は、激怒のために、ブルブルと震えていた。  さすがに、青年の顔も、彼に寄り添うている少女の顔もサッと変わった。が、二人とも少しも悪びれたところはなかった。 「ああそうですか。いや、今日はお招きに-あずかって有難うございます。僕は、ご存じの杉野ただしの息子です。ここに、いらっしゃるのは、唐沢男爵のお嬢さんです。」  青年の顔色は、青白くなっていたが、少しも狼狽した様子は見せなかった。昂然とした立派な態度だった。青年に紹介されて、しとやかに頭を下げた令嬢の様子にも、微塵’狼狽えた様子はなかった。 「いや、さっきから貴方のご議論を拝聴していました。いろいろ我々には、参考になりました。ハハハ。」  カツヘイは、高飛車に自分の優越を示すために、哄笑しようとした。が、彼の笑い声は、咽喉にからんだまま、調子外れの叫び声になった。  自分の罵倒が、その’的の本人に聴かれたと言うことが、明らかになると、青年もさすがに当惑の様子を見せた。が、彼は冷静に落ち着いて答えた。 「それはとんだ失礼を致しました。が、つい平生の持論が出たものですから、何とも止むを得ません。僕の不謹慎はお詫びします。が、持論は持論です。」  そう言いながら、青年は冷めたい微笑を浮べた。  自分が飛び出して出さえすれば、周章狼狽して、一溜りもなく参ってしまうだろうと思っていたカツヘイは、当てが外れた。彼は、相手が思いのほかに、強いのでタジタジとなった。が、それだけ彼のフンヌは胸の裡に湧き立った。 「いや、お若いときは、かねなんかと言って、よく軽蔑したがるものです。私なども、その覚えがあります。が、今にお判りになりますよ。かねが、人生に於いてどんなに大切であるかが。」  カツヘイは、出来るだけ高飛車に、上から出ようとした。が、青年は少しも屈しなかった。 「僕などは、そうは思いません。世の中で、高尚な仕事の出来ない人が、かねでも貯めて見ようと言うことに、なるのじゃありませんか。僕は事業を事業として、楽しんでいる実業家は好きです。が、事業を-かねを得る手段と心得たり、また得た-かねの力を他人に、見せびらかそうとするような人は嫌いです。」  もう、そこになんらの儀礼もなかった。それは、言葉で行われている格闘だった。青年の顔も青ざめていた。カツヘイの顔も青ざめていた。 「いや、何とでも仰るがよい。が、理窟じゃありません。世の中のことは、お坊ちゃんの理想どおりに行くものではありません。貴方にも-かねの力がどんなに恐ろしいかが、お判りになるときが来ますよ。いや、きっと来ますよ。」  カツヘイは、その大きい口を、きっと結びながら青年を睨みすえた。が、青年のすぐそばに、立ち竦んだまま、黙っている彫像のような姿に目を転じたとき、カツヘイの心は、再びタジタジとなった。その美しい顔は/カツヘイに対する憎悪に燃えていたからである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  青年が、何かを答えようとしたとき、女はいきなり彼を遮ぎった。 「もういいじゃございませんか。私たちが、参ったのがいけなかったのでございますもの。ご主人にはご主人の主義があり/貴方には貴方の主義があるのですもの。その-いずれが正しいかは、銘々’一生を通じて試して見るほかはありませんわ。さあ、失礼をしてお暇しようじゃありませんか。」  少女は、青年より以上につよかった。そこには火花が漏れるような堅さがあった。それだけ、カツヘイに対する侮辱も、甚だしかった。こんな男と言葉を交えるのさえ、馬鹿馬鹿しいと、言った表情が、彼女のどこかに漂っていた。孔雀のように美しい彼女は、孔雀のような襟度を持っているのだった。  青年も、自分の態度を、余り大人げないと思い返したのだろう。女の言葉を、戈を収める機会にした。 「いや、飛んだ失礼を申し上げました。」  そう言い捨てたまま、青年は女と並んで足早に丘を下って行った。敵に、素早く身を躱されたように、カツヘイは心のフンヌを、少しも晴さないうちに、やみやみと物別れになったのが、悔しかった。もっと、何とか言えばよかった。もっと、青年を辱めてやればよかったと、悔しがった。睦じそうに並んで、遠ざかって行く二人を見ていると、カツヘイは自分の敗れたことが、マザマザと判って来た。青年の罵倒に悔しがって、思わず飛び出したところを、手もなく扱われて、うまく肩透しを喰ったのだった。どんな点’から、考えて見ても、自分にいい所はなかった。敗戦だった。醜い敗戦だった。そう思うと、わざわざ五万を越す大金を使って、園遊会をやったことまでが、馬鹿らしくなった。大臣や総裁や公爵などの挨拶を受けて、有頂天にまで行った心持ちが、生若い’男女のために地の底へまで引きずり込まれたのだ。  彼の憤りと恨みとが、胸の中で煮えくり返った時だった。その憤りと恨みとの嵐の中に、徐々に鎌首を擡げて来た一念があった。それは、言うまでもなく、復讐の一念だった。そうだ、俺の金力を、あれほどまで、侮辱した青年を、かねの力で、骨までも思い知らしてやるのだ。青年に味方して、俺にあんな憎悪の眼を投げた少女を、かねの力で髄までも、思い知らしてやるのだ。そう思うと、彼’の胸に、新しい力が起こった。  青年の父の杉野ただしと言う子爵も、少女の父の唐沢男爵も、共に聞こえた貧乏華族である。黄金の戈の前に、黄金の剣の前には、何の力もない人達だった。  が、どうして戦ったらいいだろう。彼等の父を苛めることは何でもないことに違いない。が、単なる学生である彼等を、苛める方法は容易に浮かんで、来なかった。その時に、カツヘイの心にさっきの二人の様子が浮かんだ。睦じく語っている恋人同士としての二人が浮かんだ。それと同時に、稲妻のように、彼の心にある悪魔的な考えが思い浮かんだ。その考えは、稲妻のように消えないで、徐々に彼の頭に喰い入った。  まだ、春の日は-たかかった。彼が招いた人達は園内の各所に散って、春の半日を楽しく遊び暮らしている。が、その人達を招いた彼だけは、ただ一人怏々たる心を懐いて、長閑な春の日に、悪魔のような考えを、考えている。 「あら、まだここにいらしったの、ほうぼう探したのよ。」  突如、後ろに騒がしい女の声がした。さっきの芸妓達が帰って来たのである。 「さあ! あっちへいらっしゃい。お客様が皆、探しているのよ。」二’三人彼のモーニングコートの腕に縋った。 「ああ行くよ行くよ。行って酒でも飲むのだ。」彼は、気の抜けたように、呟きながら、芸妓達に引きずられながら、もう何の興味も無くなった来客達の集まっているホウへ拉せられた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第6話】 【父と子】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 『またお父様と兄様の争いが始まっている。』そう思いながら、瑠璃子は読みかけていたツルゲネフの『父と子』の英訳のページを、閉じながら、だんだん高まって行く父の声に耳を傾けた。 『父と子』の争い、もっと広い言葉で言えば旧時代と新時代との争い、旧思想と新思想との争い、それは十九世紀後半のロシアや西欧諸国だけの悩みではなかった。それは、1種の伝染病として、何時の間にか、日本の上下の家庭にも、侵入しているのだった。  五六十になる老人の生活目標と、二十年代の青年の生活目標とは、雪と炭のように違っている。一方が北を指せば、一方は西を指している。老人が『山』と言っても、青年は『川』とは答えない。それだのに、老人は自分の握っている権力で、父としての権力や、支配者としての権力や、上長者としての権力で、青年を束縛しようとする。西へ行きたがっている者を、自分と同じ方向の、北へ連れて行こうとする。そこから、色々な家庭悲劇が生まれる。  瑠璃子は、父の心持ちも判った。兄の心持ちも判った。父の時代に生まれ、父のような境遇に育ったものが、父のような心持ちになり、父のような目的のために戦うのは、当然であるように想われた。が、兄のような時代に生まれ、兄のような境遇に育ったものが、兄のように考えるのもまた当然であるように思われた。父も兄も間違ってはいなかった。お互いに、間違っていないものが、争っているだけに、その争いはいつが来ても、止むことはなかった。いつが来ても、一致しがたい平行線の争いだった。  母が、昨年死んでから、寂しくなった家庭は、取り残された人々が、その寂しさを償うために、以前よりも、もっと睦まじくなるべき筈だのに、実際はそれと反対だった。ピースメーカーとしての母がいなくなった為、兄と父との争いは、前よりも激しくなり、露骨になった。 「馬鹿を言え! 馬鹿を言え!」  父のしわがれた張り裂けるような声が、聞こえた。それに続いて、何かを擲つような物音が、聞えて来た。  瑠璃子は、その音をきくと、いつも心が暗くなった。また父が兄の絵具を見付けて、擲っているのだ。  そう思っていると、またカンバスを引き裂いているらしい、絹を裂く激しい音が聞こえた。瑠璃子は、思わず両手で、顔を掩うたままかすかに震えていた。  芸術と言ったようなものに、粟粒ほどの理解も持っていない父が悲しかった。絵を描くことを、ペンキ屋が看板を描くのと同じくらいに卑しく見下している父の心が悲しかった。それと同じように、芸術をいろいろな人間の仕事の中で、一番たっといものだと思っている、兄の心も悲しかった。父から、描けば勘当だと厳禁されているにも拘わらず、コソコソと父の眼を盗んで、写生に行ったり、そっと研究所に-かよったりする兄の心が、悲しかった。が、何よりも悲劇であることは、そうしたお互いに何の共鳴も持っていない人間同士が、父と子であることだった。父が、卑しみ抜いていることに、子が生涯を捧げていることだった。父の理想には、子が少しも同感せず/子の理想には父が少しも同感しないことだった。  カンバスが、引き裂かれる音がしたあとは、暫くは何も聞えて来なかった。争いの言葉が聞えて来る裡は、それに依って、争いの経過が判った。が、急に静かになってしまうと、却って妙な不安が、聞いている者の心に起こって来る。瑠璃子はまた父が、興奮の余り心悸が昂進して、物も言えなくなっているのではないかと思うと、急に不安になって来て、争いのシーンたる兄の書斎のホウへ、足音を忍ばせながらそっと近づいて行った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  瑠璃子は、そっと足音を立てないように、ヴェランダをつとうて兄の書斎へ歩み寄った。とどろく胸を押えながらヴェランダに向いている窓のガラス越しに、そっと室内をのぞき込んだ。彼女が予期した通りの光景がそこにあった。長身の父は威丈高に、無言のまま、兄を睨み付けて立っていた。痩せた面長な顔は、白く冷めたく光っている。腰の所へやっている手は、ブルブル震えている。兄は兄で、昂然とそれに対していた。たださえ、蒼白い顔が、激しい興奮のために、血の気を失って、死にんのように青ざめている。  父と子とは、思想も感情もスッカリ違っていたが、負けぬ気の強情なところだけが、お互いに似ていた。親子の争いは、それだけ激しかった。  二人の間には、絵具のチューブが、滅茶苦茶に散っていた。父の足下には、三十号のカンバスが、枠に入ったまま、ナイフで横に切られていた。その上に描かれている女の肖像も、無残にもホオの下から胸へかけて、ヒト太刀’浴びているのだった。  そうした光景を見ただけで、瑠璃子の胸が一杯になった。父が、このうえ兄を辱めないように、兄が大人しく出てくれるようにと、心ひそかに祈っていた。  が、父と兄との沈黙は、それは戦いのあとの沈黙でなくして、これからもっと恐ろしい戦いに入る前の沈黙だった。  カンバスまでも、引き裂いた暴君のような父の前に、真面目な芸術家として兄の血は、熱湯のように、沸いたのに違いなかった。いつもは、父に対して、冷然たる反抗を示す兄だったが、今日は心の底から、憤っているらしかった。フンヌの色が、アリアリとその秀でた眉のあたりに動いていた。 「考えて見るがいい。堂々たる男子が、画筆などを弄んでいてどうするのだ。」父は、今まで張り詰めていた姿勢を、少しく崩しながら、苦い物をでも吐き出すように言った。 「考えて、見るまでもありません。男子として、立派な仕事です。」兄の答えも冷たく鋭かった。 「馬鹿を言え! 馬鹿を!」父は、またカッとなってしまった。「絵などと言うものは、男子が一生を捧げてやる仕事では決してないのだ。言わば余戯なのだ。なぐさみなのだ。お前が唐沢の家の嗣子でなければ、どんな事でも好き勝手にするがいい。が、儂の子であり、唐沢の家の嗣子である以上、お前の好き勝手にはならないのだ。唐沢の家には、画描きなどは出したくないのだ。儂の子は、画描きなどにはなって貰いたくないのだ!」  父は、そう叫びながら、手近にあるデスクの端を力任せに二’三度打った。瑠璃子には、父が貴族院の演壇で獅子吼する有様が、どことなく偲ばれた。が、相手が現在の子であることが、父の姿をかなり寂しいものにした。 「お前は、父が三十年来の苦闘を察しないのか。お前は、儂の子として、父の志を継ぐことを、名誉だとは思わないのか、儂の志を継いで、儂が年来の望みを、果させてくれようとは思わないのか。お前は、唐沢の家の歴史を忘れたのか、お前にいつも話している、おじい様のご無念を忘れたのか。」  それは、父が少し昂奮すれば、決まって出る口癖だった。父は、それを常に感激を以って語った。が、子はそれを感激を以って聞くことが、出来なかった。唐沢の家が、三万石のショウ大名ではあったが、足利時代以来のメイケであるとか、維新の際には祖父が勤王の志しが、厚かったにも拘わらず、薩長に売られて、朝敵の汚名を取り、悶々の裡に憤死したことや:、そのシニドコで洩らした『カタキを取ってくれ。』という遺言を体して、父が三十年来貴族院で、藩閥政府と戦って来たことなど、それは父にとって重大な一生を支配する生活の刺戟だったかも知れない。が、子に取っては、彼の画題となる一茎の草花に現われている、自然の美しさほどの、刺戟も持っていなかった。時代が違って-い、人間が違っていた。なんの共通点もない人間同士が、血縁でつながっていることが、何より大きい悲劇だった。 「黙っていては分からない。何とか返事をなさい!」日本の大正のキング/リアは、こう言って石のように黙っている子に挑んだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「お父さん!」兄は静かに頭をあげた。いつもは、黙々として反抗を示すだけの兄だったが、今日は徹底的に言って見ようという決心が、その口の辺りに動いていた。「貴方が、いくら仰っても、僕は政治などには、興味が向かないのです。殊に現在のような議会政治には、何の興味も持っていないのです。僕は、お父さんの仰るように、法科を出て政治家になるなどと言うことには、なんの興味もないのです。」兄の言葉は、針のように鋭く澄んで来た。 「もう少し待って下さい。もう少し、気ながに私のすることを見て居て下さい。そのうちに、絵を描くことが、人間としてどんなに立派な仕事であるか、堂々たる男子の事業として恥かしくないかを、お父さんにも、お目にかけ得る時が来るだろうと思うのです。」 「ああ/よしてくれ!」父ははらいのけるように言った。「そんな事は聞きたくない。馬鹿な! 画描きなどが、絵を描くことなどが、‥‥。」父は苦々しげに言葉を切った。 「お父さんには、いくら云っても解らないのだ。」兄も投げ捨てるように言った。 「解ってたまるものか。」父の手がまたかすかに震えた。  二人が、敵同士のように黙ってアイ対峙している裡に、ニサンプン過ぎた。 「光一/」父は改まったように呼びかけた。 「なんです!」兄も、それに応ずるように答えた。 「お前は、今年の正月’儂が言った言葉を、まさか忘れはしまいな。」 「覚えています。」 「覚えているか、それじゃお前は、この家にはおられない訳だろう。」  兄の顔は、フンヌのために、見る見るうちに真っ赤になり、それが再び青ざめて行くに従って、悲壮な顔付きになった。 「分かりました。出て行けと仰るのですか。」怒りのために、兄はわなわな震えていた。 「二度と、絵を描くと、家には置かないと、あの時云って置いた筈だ。お前が、儂の干渉を受けたくないのなら、この家を出て行くほかはないだろう。」父の言葉は鉄のように堅かった。  瑠璃子は、胸が張り裂けるように悲しかった。一徹な父は、一度云い出すと、あとへは引かないタチだった。それに対する兄が、父に劣らない意地っ張りだった。彼女が、常々心配していたカタストロフがとうとう目前に迫って来たのだった。  父の言葉に、カッとギャクジョウしてしまったらしい兄は、前後のフンベツもないらしかった。 「いや承知しました。」  そう言うかと思うと、彼は俯きながら、狂人のようにそこに落ち散っている絵具のチューブを拾い始めた。それを拾ってしまうと、机の引き出しを、滅茶苦茶に掻き回し始めた。机の上に在った二’三冊のノートのようなものを、風呂敷に包んでしまうと、彼は父にちょっと目礼して、ヒチョウのように部屋から駈け出そうとした。  父が、驚いて引き止めようとする前に、狂気のように室内に飛び込んだ瑠璃子は、早くも兄のユンデに縋っていた。 「兄さん! 待って下さい!」 「お放しよ。瑠璃ちゃん!」  兄は、荒々しく叱するように、瑠璃子の手をもぎ放した。  瑠璃子が、再び取り縋ろうとしたときに、兄は下へ行く階段を、激しい音をさせながら、電光の如く駆け下っていた。 「兄さん! 待って下さい!」  瑠璃子が、声をしぼりながら、後から駆け下ったとき、帽子も被らずに、玄関から門のホウへ足早に走っている兄の後ろ姿が、チラリと見えた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  兄の後ろ姿が見えなくなると、瑠璃子はよよと泣き崩れた。張り詰めていた気が砕けて、涙はとめどもなく、双頬を潤おした。  母が亡くなってからは、親子三人の寂しい’家であった。だんだん差し迫って来る窮迫に、召使いの数も減って、ただ忠実な婆やと、その連れ合いの老僕とがいるだけだった。  それだのに、僅かしか残っていない歯の中から、またその目ぼしい一本が、抜け落ちるように、兄がいなくなる。父と兄とは、水火のように、どこまで行っても、調和するようには見えなかったけれども、兄と瑠璃子とは、仲のよい兄妹だった。母が亡くなってからは、更に二人は親しみ合った。兄はただ一人の妹を愛した。殊に父と不和になってから、肉親の愛を交わし得るのはただ妹だけだった。妹もただ一人の兄を頼った。父からは、得られない理解や同情を兄から仰いでいた。瑠璃子には父の一徹も悲しかった。兄の一徹も悲しかった。  が、何よりも気遣われたのは、着のみ着のままで、飛び出して行った兄の身の上である。理性の勝った兄に、万一の間違いがあろうとは思われなかった。が、貧乏はしていても、華族の家に生まれた兄は、独立して口を糊して行く手段を知っている訳はなかった。が、一時のゲッコウのために、カッと飛び出したもののきっと帰って来て下さるに違いない。あるいは麻布の叔母さんの家にでも、行くに違いない。やっと、そう気休めを考えながら、瑠璃子は涙をぬぐいぬぐい、階段を上って行った。二階にいる父の事も、気がかりになったからである。  父はやっぱり兄の書斎にいた。さっきと寸分ちがわない位置にいた。ただ、そばにあった椅子を引き寄せて、腰を下ろしたままじっと俯いているのだった。たった一人の男の子に、背き去られた父の顔を見ると、瑠璃子の眼には新しい涙が、また一時に湧いて来るのであった。このごろ、交じりかけた白髪が急に眼に立つように思った。 『歯が脱けて演説の時に声が洩れて困まる』と、このごろ口癖のように言うとおり、口の辺りが寂しくしなびているのが、急に眼に付くように思った。  一生を通じて、やって来た仕事が、自分の子から理解せられない、それほど寂しいことが、世の中にあるだろうかと思うと、瑠璃子は、父に言葉をかける力もなくなって、そのまま床の上に、再び泣き崩れた。  最愛の娘の涙に誘われたのであろう。老いた政治家のホオにも、一条の涙の痕が印せられた。 「瑠璃子/」父の声には、さっきのような元気はなかった。 「はい!」瑠璃子は、涙声でかすかに答えた。 「出て行ったかい! あれは?」さすがにどことなく恩愛の情が纏わっている声だった。 「はい!」彼女の声は前よりも、力がなかった。 「いやいい。出て行くがいい。志しを異にすれば親でない、子でない、血縁は続いていても路傍の人だ。瑠璃子/ お前には、父さんの心持ちは解るだろう。お前だけは、儂の心持ちは解るだろう。お前が男であったら、きっとお父さんの志を継いでくれるだろうとは、いつも思っているのだが。」父は元気に言った。が、声にも口調にも力がなかった。  瑠璃子は、それには何とも答えなかった。が、瑠璃子の胸に、一味焼くような激しい気性と、父にも兄にも勝るような強い意志があることは、彼女のいつもの動作が示していた。それと同じように、貴族的な気品があった。昔気質の父がときどき瑠璃子を捕えて『男なりせば』の嘆を漏すのも無理ではなかった。  まだ父が、何か言おうとする時であった。屋敷前の坂道を疾駆して駆け上る自動車の爆音が聞こえたかと思うと、やがてそれが門前で緩んで、低いアラームと共に、一輛の自動車が、唐沢家の古びた黒い木の門の中に滑り入った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  親子の悲しい寂しい緊張は、自動車の音で端なく破られた。瑠璃子は、もっとこうしていたかった。父の気持ちも訊き、兄に対する善後策も講じたかった。彼女は、自分の家の恐ろしい悲劇を知らず顔に、自動車で騒々しく、飛び込んで来る客に、軽い憎悪をさえ感じたのである。  婆やは、何かに取り紛れているのだろう、容易に取次ぎには出て-こないようだった。 「婆やはいないのかしら!」そう呟くと、瑠璃子は自分で、取次ぎするために、階段を-おりかけた。 「大抵の人だったら、会えないと断るのだよ。いいかい。」  そう言葉をかけた父を振り返って見ると、相変らず蒼い震えているような顔色をしていた。  瑠璃子が、階段を-おりて、玄関のドアを開けたとき、彼女は訪問者が、ちょっと意外な人だったのに驚いた。それは、彼女の恋人の父の杉野子爵であったからである。 「おや入らっしゃいまし。」そう言いながら、彼女は心の中でかなり当惑した。杉野子爵は、彼女にとっては懐しい恋人の父だった。が、父と子爵とは、決して親しい仲ではなかった。同じ政治団体に属していたけれども、二人は少しも親しんでいなかった。父は、内心’子爵を賤しんでいた。政商達と結託して、私利を追うているらしい子爵の態度を、かなり不快に思っているらしかった。公開の席で、二’三度かなり激しい議論をしたと言う噂なども、瑠璃子はいつとなく聴いていた。  そうした人を、こんな場合、父に取次ぐことは、心苦しかった。それかと言って、自分の恋人の父を、すげなく返す気にもなれなかった。彼女が躊躇しているのを見ると、子爵は訝しそうに訊いた。 「いらっしゃらないのですか。」 「いいえ!」彼女は、そう答えるよりほかはなかった。 「杉野です。ちょっとお取次を願います。」  そう言われると、瑠璃子は一も二もなく取次がずには-いられなかった。が、階段を上るとき、彼女の心にふとあるどよめきが起こった。『まさか』と、彼女は幾度も打ち消した。が、打ち消そうとすればするほど、そのどよめきは大きくなった。  杉野子爵の長男’直也は、父に似ぬ立派な青年だった。音楽会で知り合ってから、瑠璃子は知らず識らずその人に惹き付けられて行った。男らしい顔立ちと、彼の火のような熱情とが、彼女に対する大きな魅惑だった。二人の愛は、激しくしかも清浄だった。  二人は将来を誓い合った。学校を出れば、正式に求婚します。青年は口癖のように繰り返した。  青年は今年の四月’学習院の高等科を出ている。『学校を出ると言うことが、学習院を出ることを、意味するなら。』そう考えると瑠璃子は踏んでいる足が、階段に着かぬように、そわそわした。まだ一度も、尋ねて来たことのない子爵が、わざわざ尋ねて来る。そう考えて来ると、瑠璃子の小さい胸は取り止めもなく掻き乱されてしまった。  が、ついこのあいだ青年と園遊会で会ったとき、彼はおくびにも、そんなことは言わなかった。正式に突然’求婚して、自分を驚かそうと言う悪戯かしら。彼女は、そんなことまで、咄嗟のマに空想した。  が、苦り切っている、父の顔を見たとき彼女の心は、急に暗くなった。たとい、それが瑠璃子の思う通りの求婚であったにしろ、父がオイソレと許すだろうか。心の中で、賤しんでいる者の子息に、最愛の娘を与えるだろうか。子は子である。父は父である。これくらいの事理の分からない父ではない。が、兄が突然’家出して、さなきだに寂しい今、自分を手放して、他家へやるだろうか。そう思うと、瑠璃子の心に伸びた空想の翼は、また忽ち半ば以上切り取られてしまった。が、万一そうなら、また万一’父が容易に承諾したら? 「あの! 杉野子爵がお見えになりました。」彼女の息はかなりはずんでいた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  父は娘の心を知らなかった。杉野子爵の突然の来訪を、迷惑がる表情がありありと動いた。 「杉野/ ふーむ。」父は苦り切ったまま容易に立とうとはしなかった。  父が、杉野子爵に対してこうした感情を持っている以上、また兄の家出と言う傷ましい事件が起こっている以上:、たとい子爵の来訪が、瑠璃子の夢見ているとおりの意味を持っていたにしろ、容易に纏まる筈はなかった。そう考えると、彼女の心は、墨を流したように暗くなってしまった。 「仕方がない! お通ししなさい!」  そう言ったまま、父は羽織を着るためだろう、下の部屋へ-おりて行った。  瑠璃子は、恋人の父と自分の父との間に、まつわる不快な感情を悲しみながら、玄関へ再び-おりて行った。 「お待たせいたしました、どうぞお上がり下さいませ。」 「いや、どうも突然’伺いまして。」と、子爵は如才なく挨拶しながら先に立って、応接室に通った。  古いガランとした応接室には、何の装飾もなかった。明治十イクネンに建てたと言う洋館は、間取りも様式も古くさく/旧式だった。瑠璃子は、客を案内する毎に、旧式の椅子のクッションが、破れかけていることなどが気になった。  父は、すぐ応接室へ入った。心の中の感情はかなり隔たっていたが、面と向かうと、さすがに打ち解けたような挨拶をした。瑠璃子は、茶を運んだり、菓子を運んだりしながらも、主客の話が気にかかった。が、話は時候の挨拶から、政界の時事などに進んだまま用向きらしい話には、容易に触れなかった。  立ち聞きをするような、はしたない事は、思いも付かなかった。瑠璃子は、来客が気になりながらも、自分の部屋に退いて、不安な、それかと言って、不快ではない心配を続けていた。  恋人の顔が、絶えず心に浮かんで来た。過ぎ去った一年間の、恋人とのいろいろな会合が、心の中に蘇って来た。どの一つを考えても、それは楽しい清浄な/幸福な思い出だった。二人は火のような愛に燃えていた。が、お互いに個性を認め合い、尊敬し合った。上野の音楽会の帰途に、ガスの光が、ほのじろく潤んでいる公園のコノシタ闇を、ベエトーフェンの『月光曲』を聴いた感激を、語り合いながら、辿った秋の一夜の事も思い出した。新緑の戸山ヶ原の橡の林の中で、その頃読んだトルストイの『復活』を批評し合った初夏の日曜の事なども思い出した。恋人であると共に、得難い友人であった。彼女の趣味や知識の生活に於ける大事な指導者だった。  恋人の凛々しい性格や、その男性的な容貌や、その他いろいろな美点が、それからそれと、彼女の頭の中に浮かんで来た。もし子爵の来訪の用向きが、自分の想像した通りであったら、(それが何と言う子供らしい想像であろう)とは、打ち消しながらも、瑠璃子の真珠のように白いホオは、見る人もない部屋の中にありながら、ほのかに赤らんで来るのだった。  が、来客の話は、そう永くは続かなかった。瑠璃子の夢のような想像を破るように、応接室のドアが、父に依って荒々しく開かれた。瑠璃子は、客を送り出すため、急いで玄関へ出て行った。  見ると父は、兄の家出を見送った時以上に、蒼い苦り切った顔をしていた。杉野子爵はと見ると、その如才のないニコニコした顔に、微笑の影も見せず、周章として追われるように玄関に出て、ロクロク挨拶もしないで、車上の人となると、運転手を促し立てて、あわただしく去ってしま-った。  父は、自動車の後影を憎悪と軽蔑との交じった眼付きで、しばらくのあいだ見詰めていた。 「お父様/どうか遊ばしたのですか。」瑠璃子は、おそるおそる父に訊いた。 「馬鹿な奴だ。華族の面汚しだ。」父は唾でも吐きかけるように罵った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  杉野子爵に対する、父のモユルような憎悪の声を聞くと、瑠璃子は自分の事のように、オドオドしてしまった。胸の中に、ひそかに懐いていた子供らしい想像は、跡形もなく踏み躙られていた。踏んでいた床が、崩れ落ちて、そのまま底知れぬ深い淵へ、落ち込んで行くような、暗い頼りない心持ちがした。これまででさえ、父と父との感情に、暗い翳のあることは、恋する二人の心を、どんなに傷ましめたか分からない。それだのに、今日はその暗い翳が、明らさまに火を放って、爆発を来したらしいのである。 「一体どうしたのでございます。そんなにお腹立ち遊ばして。」  瑠璃子は、父の顔を見上げながら、怖ず怖ず訊いた。父は、口にするさえ、忌々しそうに、 「訊くな。訊くな。汚らわしい。儂達を侮辱している。儂ばか-りではない、お前までも侮辱しているのだ。」と、歯噛みをしないばかりにゲッコウしているのだった。  自分までもと、言われると、瑠璃子は更に不安になった。自分のことを、一体どう言ったのだろう。自分に就いて、一体何を言ったのだろう。恋人の父は、自分のことを、一体どう侮辱したのだろう。そう考えて来ると、瑠璃子は父の機嫌を恐れながらも、黙っている訳には行かなかった。 「一体どんなお話が、ございましたの。わたくしの事を、杉野さんはどう仰るのでございますか。」 「訊くな。訊くな。訊かぬほうがいい。聞くと却って気を悪くするから。あんな賤しい人間の言うことは、一切’耳に入れぬことじゃ。」  やや興奮の去りかけた父は、却って娘を宥めるように優しく言いながら、二階の居間へ行くために階段を上りかけた。父は、杉野子爵を賤しい人間として捨てて置くことが出来た。が、瑠璃子には、それは出来なかった。どんなに、子爵が賤しくても、自分の恋人の父に違いなかった。その人が、自分のことを、どう言ったかは、瑠璃子に取っては是非にも訊きたい大事な事だった。 「でも、何と仰ったか知りたいと思いますの。わたくしのことを何と仰ったか、気がかりでございますもの。」  瑠璃子は、父を追いながら、甘えるような口調で言った。娘の前には、目も鼻もない父だった。母のない娘のためには、何物も惜しまない父だった。瑠璃子が執拗に二’三度訊くと、どんな秘密でも、明かしかねない父だった。 「なにも、お前の悪くチを言ったのじゃない。」  父はフンヌを顔に現しながらも、娘に対する言葉だけは、優しかった。 「じゃ、どうして侮辱になりますの、あの方から、侮辱を受ける覚えがないのでございますもの。」 「それを侮辱するから-けしからないのだ。儂を侮辱するばかりでなく、清浄潔白なお前までも侮辱してかかるのだ。」  父は、また杉野子爵の態度か言葉かを思い出したのだろう、その人が、前にでもいるように、拳を握りしめながら、激しい口調で言った。 「どうしたと言うのでございます、お父様、ハッキリと仰って下さいまし、一体どんなお話で、あの方が、私の事をどう仰ったのです。一体どんな用事で、いらしったのでございます。」  瑠璃子も、かなり興奮しながら、本当のことを知りたがって、畳みかけて訊いた。 「あの男は、お前の縁談があると言って来たのだ。」父の言葉は意外だった。 「わたくしの縁談/」瑠璃子は、そう言ったまま、二の句が次げなかった。彼女は化石したように、父の書斎の入口に立ち止まった。父は、瑠璃子の驚きに、深い意味があろうとは、夢にも知らずに、興奮に疲れた身体を、安楽椅子に投げるのであった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第7話】 【買い得るか】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  父から、杉野子爵の来訪が、縁談の為であると、聞かされると、瑠璃子は稲妻にでも、打たれたように、ハッと驚いた。  やっぱり、自分の子供らしい想像は当たったのだ。杉野子爵は子のために、直接ハナシを進めに来たのだ。その話の中に、子爵の不用意な言葉か、不遜の態度かが、潔癖な父を怒らせたに違いない。そう思うと、瑠璃子はあまりに潔癖過ぎる父が急に恨めしくなった。少しも妥協性のない、一徹な父が恨めしかった。自分の一生の運命を狂わすかも知れない、父の態度が、恨めしかった。瑠璃子は父に抗議するように言った。 「縁談のお話が、どうしてわたくしを、侮辱することになりますの。またそんなお話なら、一応わたくしにも、話して下さってから、お断りになっても、遅くはないと思いますわ。」  瑠璃子は、誰に対しても、自己を主張し得る女だった。彼女は、父にでも/兄にでも/恋人にでも、自己を主張せずには、いられない女だった。  瑠璃子の抗議を、父は憫むように笑った。 「縁談/ ハハハハハ。普通の縁談なら、無論’瑠璃さんにも、よく相談する。が、あの男の縁談は、縁談と言う名目で、貴方を買いに来たのじゃ。かねを積んで、貴方を買いに来たのじゃ。けしからん! 儂の娘を!」  父の眼は、激怒のために、狂わしいまでに、輝いた。そう言われると、瑠璃子は、一言もなかったが、そうした縁談の相手は、一体誰だろうかと、思った。 「あの男が来て娘をやらんかと言う。平素から、快く思っていない男じゃが、折角’来てくれたものだから、無碍に断るのもと、思ったから、やらんこともないと言うと、だんだん相手の男のことを話すのじゃ。人を馬鹿にして居る。四十五で、先妻の子が、二人まであると言うのじゃ。儂は、頭から怒鳴り付けてやったのじゃ。すると、あの男が、怖ず怖ず何を言い出すかと思うと、支度金は三十万円まで出すと、言うのじゃ。儂は憤然と立ち上がって、あの男を応接室の外へ引きずり出したのだ。」父の声は、わなわな震えた。 「この年になるまで、こんな侮辱を受けたことはない。貧乏はしている。政戦三十年、家も屋敷も抵当に入っている。が、三十万円は愚か、千万一億の-かねを積んでも、娘を-かねのために、売るものか。」  父は、傍の見る眼も、傷ましいほど、ゲッコウしている。年老いた肉体は、余りに激しいフンヌのために今にも砕けそうに、緊張している。瑠璃子も、胸が一杯になった。父の怒りを、もっともだと思った。が、その怒りを-なだむべき/なんの言葉も、思い浮ばなかった。  が、それに付けても、杉野子爵は、何の恨みがあって、こうした侮辱を、年老いた父に与えるのだろう。そう思うと、瑠璃子の胸にも、張り裂けるような怒りが、湧いて来た。が、それが恋人の父であると、思い返すと、身も世もないような悲しみが伴った。 「あの男は、かねのために、あんなに賤しくなってしまったのだ。政商づれと結託して、かねのためにばかり、動いているらしいのだ。今日の縁談なども、纏まればいくらと言う、口銭が取れる仕事だろう。ハハハハハ。」父は、怒りを嘲りに換えながら、蔑むように哄笑した。 「何でも、今日の縁談の申し込み手と言うのが、ホラ/瑠璃さんも行っただろう。このあいだ園遊会をやった/ショウダと言う男らしいのだ。」  父は何気なく言った。が、ショウダと言う名を聞くと、瑠璃子はすぐ、豹の眼のように恐ろしい執拗な/その男の眼付きを思い出した。冷静な、勝気な、瑠璃子ではあったけれども、悪魔にホオを、舐められたような気味悪さが、全身をゾクゾクと襲って来た。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  ショウダと言う名前を聴くと、瑠璃子が気味悪く思ったのも、無理ではなかった。彼女は、その人の催した園遊会で、妙な機みから、激しい言葉を交して以来、その男の顔付きや様子が、悪夢の名残りのように、彼女の頭から離れなかった。  太いガサツな眉、二段に畳まれている鼻、厚い唇、いかにも自我の強そうな表情、その顔付きを思い出して見るだけでも、イヤな気がした。そんな男と、言い争いをしたことが、執念深い蛇とでも、恨みを結び合ったように、何となく不安だった。ところが、その男が意外にも自分に婚を求めている。そう思うだけでも、彼女は妙な悪寒を感じた。よく伝説の中にある、シロ蛇などに見込まれた美少女のように。  瑠璃子は、相手の心持ちが、容易には分からなかった。容易に、その事を信ずることが出来なかった。 「本当でございますの? 杉野さんが、本当にショウダと仰ったのでございますの?」 「確かに、あの男だと言わないが、どうもあいつの事らしい。杉野はお前の話を始める前に、それとなくショウダの事を賞めているのだ。どうもあいつらしい。かねが出来たのに、付け上がって、華族の娘をでも貰いたい肚らしいが、儂の娘を貰いに来るなんて狂人の沙汰だ!」  父は相手の無礼を怒ったものの、センポウに深い悪意があろうとは思わないらしく、さっきから見るとよほど機嫌が直っているらしかった。  が、瑠璃子はそうではなかった。この求婚を、気紛れだとか、冗談だとか、華族の娘を貰いたいと言うような単なる虚栄心だとは、どうしても思われなかった。父の一喝に逢って、這々のテイで、逃げ帰った杉野子爵は、ほんのカイライで、その背後に怖ろしい悪魔の手が、動いていることを感ぜずには-いられなかった。そう思って来ると、八重桜の下で、自分たち二人を、睨み付けた恐ろしい眼が、アリアリと浮かんで来た。そう思って来ると、自分の恋人の父を、自分に対する求婚の使者にした相手のやり方に、悪魔のような意地悪さを、感ぜずには-いられなかった。  瑠璃子は思った。自分が傷つけたヘビは、ホンの僅かな恨みを酬いるために猛然と、襲いかかっているのだと。が、そう思うと、瑠璃子は却って、必死になった。くるならば来て見よ。あんな男に、指一つ触れさせてなるものか。彼女は心のうちでそう決心した。 「いや、杉野のヤツ/一喝してやったら、一縮みになって帰ったよ。ああ言って置けば、二度と顔向けは出来ないよ。」  父は、もう全てが済んでしまったように、何気なく言った。が、瑠璃子にはそうは思われなかった。一度飛び付き損った蛇は、二度目の飛躍の準備をしているのだ。いや、二度目どころではない。三度目/四度目/五度目/十度目の準備まで整っているのかも知れない。そう思うと、瑠璃子はまた更に自分の胸の乙女の誇りが、烈火のように激しく燃えるのを感じた。 「本当に悔しゅうございます。あんな男がわたくしを。それに杉野さんが、そんな話をお取次ぎになるなんて、本当にひどいと思いますわ。」  瑠璃子は、興奮して、涙をポロポロ落しながら言った。それは悔しさの涙であり、怒りの涙だった。 「だから、聴かないほうが、いいと言ったのだ。そうだ! 杉野が-けしからんのだ。あんな馬鹿な話を取次ぐなんて、あいつが-けしからんのだ。が、あんな堕落した人間の言うことは、気に止めぬほうがいい。縁談どころか、瑠璃さんには、いつまでも、ここにいて貰いたいのだ。殊に、光一がああなってしまえば、お父様の子は-お前だけなのだ。百万円はおろか、お父様の首が飛んでも、お前を手放しはしないぞ。ハハハハ。」  父は、瑠璃子を慰めるように、快活に笑った。瑠璃子の心も、父に対する愛で、一杯になっていた。いつまでも、父のそばにいて、父の理解者であり、慰安者であろうと思った。 「わたくしもそう思っていますの。いつまでも、お父様のお側にいたいと思っていますの。」  そう言って瑠璃子は初めてニッコリ笑った。嵐の過ぎ去ったあとの平和を思わせるような、寂しいけれども静かな/美しい微笑みだった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  二つの忌わしい事件が、渦を捲いて起こった日から、瑠璃子の家は、嵐の吹き過ぎたあとのような寂しさに、包まれてしまった。  家出した兄からは、ハガキ一つ来なかった。父は父でおくびにも兄の事は言わなかった。人を頼んで、兄の行方を探すとか、警察に捜索願いを出すなどと言うことを、父は夢にも思っていないらしかった。自分を捨てた子の為には、指ひとつ動かすことも、父としての自尊心が許さないらしかった。  こうした父と兄との間に挟まって、ただ一人、心を傷めるのは瑠璃子だった。彼女は、父に隠れて兄の行方をそれとなく探って見た。兄が、その以前’父に隠れて-かよったことのある、小石川の洋画研究所も尋ねて見た。兄が、予てから私淑している二科会の幹部のN氏をも訪ねて見た。が、どこでも兄の消息は判らなかった。  兄の友達の二’三にも、手紙で訊き合わして見た。が、どの返事も決まったように、兄に暫く会ったことがないと言うような、頼りない返事だった。たとい父とは不和になっても、自分だけには安否くらいは、知らせてくれてもよいものと、彼女は兄の気強さが恨めしかった。が、彼女の心を傷ましめ-ることはほかにもう一つあった。それは、これまで感情の疎隔していた父と杉野子爵との間が、とうとう最後の破裂に達したことである。あんな事件が起こった以上、再び元通りになることは、殆ど絶望のように思われた。従って、自分達の恋が、正式に認められるような折りは、永久に-こないように思われた。自分が、恋を達するときは、やっぱり兄と同じように、父に背かなければならぬ時だと思うと、彼女の心は暗かった。  突然な非礼な求婚が、斥けられてから、それに就いては’何事も起らなかった。十日経ち二十日’経った。父は、その事をもうスッカリ忘れてしまったようだった。が、瑠璃子にはそれが中断された悪夢のように、何となく気がかりだったが、一度ぎりで何の音沙汰もないところを見ると、その求婚を、恐ろしい復讐の企てでもあるように思ったのは、自分の邪推であったようにさえ、瑠璃子は思った。  その裡に5月が過ぎ6月が来た。政治季節のほかは、何の用事もない父は、毎日のように書斎にばかり、閉じ籠もっていた。瑠璃子はどうかして、父を慰めたいと思いながらも、父の暗い眉や/しなびた口の辺りを見ると、ただ涙ぐましい気持ちが先に立って、話しかける言葉さえ、容易に口に浮ばなかった。兄がいる裡は、父とときどき争いが起こったものの、それでも家の中が、何となく華やかだった。父娘二人になって見ると、ガランとした洋館が修道院か何かのように、ジメジメと寂しかった。  六月のある晴れた朝だった。兄が家出した悲しみも、不快な求婚に乱された心も、だんだん薄らいで行く頃だった。瑠璃子は、その朝、顔を洗ってしまうといつもの通り、婆やが自分の部屋の机の上に置いてある郵便物を、取り上げて見た。  父宛に来た書状も、ひと通り目を通すのが、彼女の役だった。その朝は、父宛の書留が一通雑じっていた。それは内容証明の書留だった。裏を返すと、見覚えのある川上万吉と言う金貸業者の名前だった。 『ああ/また督促かしら。』と、瑠璃子は思った。そうした書状を見る毎に、いつもは感じない’家の窮状が彼女にもヒシヒシ感ぜられるのであった。  彼女は、何気なく封を破った。が、それはいつもの督促状とは、違っていた。簡単な書式のようなものだった。ちょっと意外に思いながら読んで見た。最初の『債権譲り渡し通知書』と言う五字から、先ず名状しがたい不快な感じを受けた。 ◇。◇。◇。 【   債権譲り渡し通知書】 ◇。◇。◇。 【通知人川上万吉は被通知ニンに対して有する金弐万五千円の債権を今般/都合に依りショウダカツヘイどのに譲渡し候に付き通知候なり】 【  大正六年六月十五日】 【通知ニン◇ 川上万吉】 【   被通知ニン◇ 唐沢ミツノ-リどの】 ◇。◇。◇。  ショウダカツヘイと言う名前が、目に入ったとき、その書式を持っている瑠璃子の手は、そのまましびれてしまうような、厭な重くるしいショックを受けずには-いられなかった。  悪魔は、その爪を現し始めたのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  相手が、あのまま思い切ったと思ったのは、やっぱり自分のハ-ヤガテンだったと瑠璃子は思った。求婚が一時の気紛れだと思ったのは、相手を善人に解し過ぎていたのだ。相手はその二つの眼が示している通り、やっぱり恐ろしい相手だったのだ。  が、それにしても何と言う執念ぶかい男だろう。父が負うている借財の証書を買い入れて、父に対する債権者となってから、一体どうしようと言う積りなのかしら。卑怯にも陋劣にも、かねの力であの清廉な父を苦しめようとするのかしら。そう思うと、瑠璃子は、女ながらにその小さい胸に、相手の卑怯を憤る熱い血が、沸々と声を立てて、煮え立つように思った。  父の借財は多かった。藩閥内閣打破の運動が、起こる度に、父は-なけなしの私財を投じて惜しまなかった。藩閥打破を口にする志士達に、なけなしの私財を散じて惜しまなかった。父が持って生まれた任侠の性質は、頼まるる毎に連帯のハンも捺した。手形の裏書きもした、取れる見込のない-かねも貸した。そうした父の、かねに対する豪快な遣り口は、最初から多くはなかった財産を、何時の間にか無一物にしてしまった。が、財産は無くなっても、父のキシツは無くならなかった。初めは親類縁者から-かねを借りた。親類縁者が、見放してしまうと、高利ガシの手からさえ、借りることを敢えてした。住んでいる’家も、手入は届いていないが、かなりだだっ広い邸地も、一番も二番もの抵当に入っていることを、瑠璃子さえよく知っている。  金力と言ったものが、丸切り奪われている父が、黄金魔と言ってもよいような相手から、赤子の手を捻じるように、いじめられる。そう思って来ると、瑠璃子はやるせない憤りと悲しみとで、胸が一杯になって来た。かねさえあれば、どんな卑しい者でもが、得手勝手なことをする世の中全体が、憤ろしく呪わしく思われた。  瑠璃子は、今の場合、こうした不快な通知書を、父に見せることが、一番厭なことだった。父が、どんなに-おこり、どんなに悔しがるかが余りに見え透いていたから。  でも、こうした重要な郵便物を、父に隠し’通すことは出来なかった。瑠璃子は、重い足を運びながら、父の寝室へ行って見た。が、父はまだ起きてはいなかった。スヤスヤと安らかな呼吸をしながら名残りの夢を貪っている父の窶れた寝顔を見ると、瑠璃子は出来るだけこうした不快な物を父の眼には触れさせたくはなかった。彼女は、そっと忍び足に枕元に寄り添って、枕元の小さいテーブルの上に置いてある、父の手文庫の中にその呪われた紙片を、そっと音を立てずに入れた。いつまでも、父の眼には触れずにあれ、瑠璃子は心の中で、そう祈らずには-いられなかった。  その日、食事のたび毎に顔を合せても、父は何とも言わなかった。夜の八時頃、一人で棋譜を開いて盤上に石を並べている父に、紅茶を運んで行ったときにも、父は二言三言’瑠璃子に言葉をかけたけれど、書状のことは、何も言わなかった。  ねがわくは、いつまでも、父の眼に触れずにあれ、瑠璃子は更にそう祈った。どうせ、一度は触れるにしても、イチニチでも二日でも先へ、延ばしたかった。  が、翌日’目を覚まして、瑠璃子が前の日の朝の、不快な記憶を思い浮べながら、その朝の郵便物に眼をやったとき、彼女は思わず、口の裡で、小さい悲鳴を挙げずには-いられなかった。そこに、昨日と同じ内容証明の郵便物が、三通まで重ねられていたのである。  それを取り上げた彼女の手は、思わずかすかに震えた。もう、父に隠すとか隠さないとか言う余裕は、彼女になかった。彼女はそれを取り上げると、救いを求むる少女のように、父の寝室に駈け込んだ。  父は起きてはいなかったが、トコの中で眼を覚ましていた。 「お父様/ こんな手紙が参りました。」瑠璃子の声は、いつになく上ずッていた。 「昨日のと同じものだろう。いや心配せいでもええ、お前が心配せいでもええ。」  父は、静かにそう言った。昨日の書状も、父は何時の間にか、見ていたのである。  瑠璃子は、今更ながら、自分の父を頼もしく思わずには-いられなかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  唐沢の家を呪詛するような、その不快な通知状は、その翌日もそのまた翌日も、無心な配達フに依って運ばれて来た。  初めほどのショックは、受けなかったけれども、そのイチヨウイチヨウに、名状しがたい不快と不安とが、見る人の胸を衝いた。 「なに、捨てて置くさ。同一人に債権の集まったほうが、弁済をするにしても、督促を受くるにしても手数が省けていい。」  父は何気ないように、済ましているようだったが、しかし内心の苦悶は、うわべへ-でずにはいなかった。殊に、父は相手の真意を測りかねているようだった。何のために、相手がこれほど、執念ぶかく、自分を追窮して来るのか、判りかねているようだった。  が、瑠璃子には相手の心持ちが、判っているだけ、わずかばかりの恨みを根に持って、どこまでもどこまでも、付き纏って来る相手の心根の恐ろしさが、しみじみと身に浸みた。通知状を見る度に、相手に対する憎悪で、彼女の心は一杯になった。彼の金力を罵った自分達だけを苦しめるだけなら、まだいい、罪も酬いもない老いた父を、苦しめる相手の非道を、心の底より憎まずには-いられなかった。  こうして、父が負うている総額二十万円に近い負債に対する数多い証書が、たった一つの黒い/堅い/冷たい手に、握られてしまった頃であった。  ある朝、彼女はいつものように郵便物を見た。──こうした通知状の来ない前は、それは楽しい仕事に違いなかった。そこには恋人からの手紙や、親しい友達の消息が見い出されたから──。が、今では不安な、いやな仕事になってしまった。  彼女は、その朝も怖ず怖ず郵便物に目を通した。幾ツウかの手紙の一番最後に置かれていた鳥の子の立派な封筒を取り上げて、ふと差出人の名前に、目を触れたとき、彼女の視線はそこに、筆太に書かれている四字に、釘付けにされずにはいなかった。それは紛れもなくショウダカツヘイの四字だったのである。  黒手組の脅迫状を受けたように、悪魔からの挑戦状を受けたように、瑠璃子の心は打たれた。反感と、憎悪と/ある恐怖とが、ごっちゃになって、わくわくと/胸にこみ上げて来た。  彼女は、その封筒の端をソッと、醜いイモリの尻尾をでも握るように、摘み上げながら、父の部屋へ持って行った。  父は差出人の名前を、一目見ると、苦々しげに眉をひそめた。暫くは開いて見ようとはしなかった。 「何と申して参ったのでございましょう。」瑠璃子は、気になって、急かすように訊いた。  父は、荒々しく封筒を引き破った。 「何だ!」父の声は、初から興奮していた。 「──このたび小生に於いて、買占め置きそうろうキカに対する債権について、ご懇談いたしたきことこれあり、且つ先日’杉野子爵を介して、申し上げたる件に付きても、ジュウジュウの行き違いこれあり:、みぎ/釈明かたがた近日’参邸いたし度く──:ああ/何と言う図々しさだ。何と言う! ケダモノのような図々しさだ。よし、やって来い。やって来るがいい。くれば、面と向かって、あの男の面皮を引きむいてくれ-るから。」  父は、そう言いながら、奉書の巻紙を微塵に引き裂いた。老いしなんだ手が、怒りのために、ブルブル震えるのが、瑠璃子の眼には、傷ましくかなしかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  父も瑠璃子も、心の中に戦いの準備を整えて、ショウダカツヘイの来るのを遅しと待っていた。  手紙が来た日の翌日の午前十時頃、瑠璃子が、二階の窓から、屋敷前の坂道を、見下ろしていると、遥に続いているプラタナスの並樹の間から、水色に塗られた大形の自動車が、初夏の日光をキラキラと反射しながら:、眩しいほどの速力で、サカを駆け上がったかと思うと、急に速力を緩めて、低いうめくような警笛の音を立てながら、門前に止まるのを見たのである。覚悟をしていたことながら、瑠璃子は今更のように、不快な、悪魔の正体をでも、見たような憎悪に、囚われずには-いられなかった。  自動車のドアは、開かれた。ハンカチーフで顔を拭きながら、ぬっとその大きい頭を出したのは、紛れもないあの男だった。何が嬉しいのか、ニコニコと得体の知れぬ微笑を浮べながら、玄関のホウへ歩いて来るのだった。  瑠璃子は、取次ぎに出ようか出まいかと、考え迷った。顔を合わしたり、ちょっとでも言葉を交すのが厭でならなかった。が、それかと言って、いつも気が付けば取次ぎに出る自分が、この人に限って出ないのは、何だか相手を怖れているようで/彼女自身の勝気が、それを許さなかった。そうだ! あんな卑しい人間に怯れてなるものか。あの男こそ、自分の清浄な乙女の誇りの前に、愧じ怯れていいのだ。そう思うと、瑠璃子は乙女にふさわしい勇気を振い興して、孔雀のような誇りと美しさとを、そのスラリとした全身に湛えながら、落ち着いた冷たい態度で、玄関へ現れた。  カツヘイは、瑠璃子の姿を見ると、このあいだ会った時とは別人ででもあるように、頭を叮嚀に下げた。 「お嬢さまでございますか、先日は大変失礼を致しまして、申し訳もございません。今日は、あのう! お父様はおいででございましょうか。」  こうも白々しく、──ああしたヒドウなことをしながら、こうも白々しく出られるものかと、瑠璃子が呆れたほど、相手は何事もなかったように、平和で叮嚀であった。  瑠璃子は、ちょっと拍子抜けを感じながらも、冷たく引き緊めた顔を、少しも緩めなかった。 「いますことは、いますが、お目にかかれますかどうかちょっと伺って参ります。」  瑠璃子は、そう高飛車に言いながら、二階の父の居間に取って返した。 「やって来たな。よし、下の応接室に通して置け。」  瑠璃子の顔を見ると、父は簡単にそう言った。  応接室に案内する間も、カツヘイは叮嚀にしかも馴々しげに、瑠璃子に話しかけようとした。が、彼女は冷たい切口上で、相手をそばへ寄せ付けもしなかった。 「ヤア!」挨拶とも付かず、懸声とも付かぬ声を立てながら、父は応接室に入って来た。父は相手と初対面ではないらしかった。二’三度は会っているらしかった。が、苦り切ったまま時候の挨拶さえしなかった。瑠璃子は、茶を運んだ後も、はしたないとは知りながら、一家の浮沈に係る話なので、応接室に沿うヴェランダの椅子に、主客には見えないように、そっと腰をかけながら、一語も洩さないように相手の話に耳をそばだてた。 「この間から、一度伺おう伺おうと思いながら、つい失礼いたしておりました。今度、閣下に対する債権を、私が買い占めましたことについても、きっと私を-けしからん奴だと、お考えになっただろうと思いましたので、今日はお詫びかたがた、私の志しのある所を、申し述べに参ったのです。」  カツヘイは、いかにも鄭重に、恐縮したような口調で、ぼつりぼつり話し始めたのであった。ちょうど嵐の-くる前に吹く微風のように、キミの悪い生温かさを持った口調だった。 「うむ。志し! 借金の証書を買い蒐めるのに、志しがあるのか。ハハハハハハハ。」父は、頭から嘲るように詰った。 「ございますとも。」相手は強い口調で、しかも-したてから、そう言い返した。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「初めから申し上げねば分かりませんが、実は私は閣下の崇拝者です。閣下のセイセツを、平生から崇拝致している者であります。」  そう言って、カツヘイは叮嚀に言葉を切った。老狐が化かそうと思う人間の前で、木の葉を頭から被っているような白々しさであった。人を馬鹿にしている癖に、態度だけはいやに、真剣に大真面目であるようだった。 「殊に近頃になって、いわゆる政界の名士達なるものと、お近づきになるに従って、大抵の方には、殆ど愛想をつかしてしまいました。お口だけは立派なことを言っていらしっても、一歩裏へ回ると、我々’町人風情よりも、抜目がありませんからな。口幅ったいことを、申すようでございますが、かねで動かせない方と言ったら、数えるだけしかありませんからね。」  父は黙々として、一言も発しなかった。いざと言う時が来たら、一太刀に切って捨てようとする気配が、ありありと感ぜられた。が、カツヘイは相手の様子などには、一切頓着しないように、臆面もなく話し続けた。 「いつか、日本クラブで、初めて閣下の崇高なお姿に接して以来、ますます閣下に対する私の敬慕の念が高くなったのです。多年の間、利欲権勢に目もくれず、ただ国家のために、一意奮闘していらっしゃる。こう言うお方こそ、本当の国士/本当の政治家だと思ったのです。」  父が、面と向かってのお世辞に、苦り切っている有様が、室外にいる瑠璃子にもマザマザと感ぜられた。 「ご存じの通り、私はほかに能のある人間でありません。ただ、ニサン年来の幸運で、かねだけは相当儲けました。私は、いま何に使っても心残りのない-かねを、五百万円ばかり現金で持っています。ああ使え、こう寄付しろと言ってくれる人もありますが、私は閣下のようなお方に、後顧の憂いなからしめ、国家のために思い切り奮闘していただけるようにする事も、かなり意義のある立派な仕事だと思ったのです。それには、是非ともおつきあいを願って、いろいろな立ち入ったご相談にも、与らせて戴きたいと、それで実はあんな突然なお申し込みを‥‥。」  そう言って、言葉を切った、がいかにも恐縮に堪えないと言う口調で、 「ところが、その申し込みが杉野さんの思い違いで、と言うよりも、あの方の軽率から、私がお嬢さまをお望み致したなどととんでもない。ハハハハ。ご立腹遊ばすのは当然です。五十に近い私が、お嬢さまに求婚するなどと笑い話にもなりません。実は、当人と申すのは私の倅、今年二十五になります。亡妻の忘れ形見です。」  ちょっと殊勝らしく声を落しながら、 「その倅とても、歳こそお嬢様に似合いでございますが、いやもう一向下らない人物です。が、もし万一お嬢様を下さるような事がありましたら、これほど有難い──:私の財産を半分無くしても惜しくはない──仕合せだと思いますのですが。が、そのお話は、兎も角、閣下のご債務は全て、私に払わせていただきたいと思いましたから、ひと月あまりも心掛けて、もう大抵は買い蒐めた積りでございますが、縁談のお話などとは別に、これだけは私の寸志です。どうかお心置きなく、お受け取り下さるように。」そう言いながら、父の負うている借財の証書の全部を一つの袋に収めて父の前に差し出したらしかった。  虚心平気に、カツヘイの言い分を聴けば、不躾なところは、あるにせよ、成金らしい傲岸な/不遠慮なところはあるにせよ、それほど、悪意のあるものとは思われなかった。が、瑠璃子にはそうではなかった。瑠璃子と、その恋人とを思い知らせるために、悪魔は、瑠璃子を奪って、自分の妻に──:名前だけは妻でも、本当はその金力を示すための装飾品に──しようとした。が、瑠璃子の父が、予想以上に激怒したのと、年齢の余りな相違から来る世間の非難とを慮って、自分の名義で買う代わりに、息子の名義で買おうとする、瑠璃子を商品と見ている点に於いては、何の相違もない。瑠璃子と彼女の恋人とを思い知らせようとする、蛇のような執念には何の相違もない。正面から飛びかかって父から、手ひどく撥ねつけられた悪魔は、今度は横合いから、そっとたぶらかそうと掛っているのだった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  瑠璃子には、相手の心が充分に見透かされている。が、相手の本心を知らない父は、その空々しいうわべの理由だけに、うかうかと乗せられて、もしや相手の不躾な贈り物を、受け取りはしないかと、瑠璃子は密かに心を痛めた。縁談などとは別にと、口で美しく言うものの、父が相手の差し出す餌にふれた以上、それをシオに、否応なしに自分を、浚って行こうとする相手の本心が、彼女には余りに明らかであった。  父をどうにか騙して娘を浚って行く、それで娘にも、彼女の恋人にも、苦痛を与えればよいのだと相手が企んでいるらしいのが、瑠璃子には、余りに判り過ぎているように思えた。  が、瑠璃子の心配は無駄だった。父は相手が長々と喋べり続けたのを聞いた後で、ニサンプンばかり黙っていたらしいが、急に居ずまいを正したらしく、厳格な/イチブも緩みのない声で言った。 「いや、大きに有難う。あなたの好意は感謝する。が、かんがうるところあって、お受けすることは出来ない。借財は証文の期限どおりに、ちゃんと弁済する。それから、縁談の事じゃが、本人が貴方であろうがご子息であろうが、お断りすることには変わりがない。どうか悪しからず。」  父は激せず熱せず、毅然とした立派な調子で言い放った。父の立派な男らしい態度を、瑠璃子は蔭ながら、伏し拝まずには-いられなかった。何と言う凛々しい態度であろう。どんなにこの先苦しもうとも、ああした父を、父としていることは、何という幸福であろうかと思うと、熱い涙が知らず識らず、ホオを伝って流れた。  真っ向から平手でピシャッと、殴るような父の返事に、相手は暫くは、二の句が、次げないらしかった。が、暫くすると、太い渋い不快な声が聞え始めた。 「ふふむ。これほど申し上げても、私の好意を汲んで下さらない。これほど申し上げても、私の心がお分かりになりませんのですか。」  相手の言葉付は、一眸の裡に変わっていた。豹が、一太刀受けて、あとじざりしながら、低くうなっているような無気味な調子だった。 「ハハハハ、好意/ ハハハハ、お前さんは、こんなことを好意だと、言い張るのですか。人の顔に唾を吐きかけて置いて、好意であるもないものだ、ハハハハハハハ。」父は、相手を蔑すみ切ったように嘲笑った。 「ハハハ、閣下も、貧乏をお続けになったために、何時の間にか、僻んでおしまいになったと見える。このショウダが、誠意誠心申し上げていることが、お分かりにならない。」  相手も、負けてはいなかった。豹が、その本性を現して、猛然と立ち上がったのだった。 「ハハハハハ、誠意誠心か! 人の娘を、かねで買うと言う恥知らずに、誠意などがあって、堪るものか。出直しておいでなさい!」父は、低い力強い声で、そう罵った。 「よろしい! 出直して参りましょう。閣下、覚えて置いて下さい! このショウダは、好意を持っておりますと同時に、悪意も人並に持っているものでございますから。お言葉に従って、いずれ出直して参りますから。」そう言い捨てると、相手は荒々しくドアを排して、玄関へ出て行った。  瑠璃子が、急いで応接室に駈け込んだとき、父はそこに、昂然と立っていた。ハンパクの髪が、逆立っているようにさえ見えた。 「お父様/」瑠璃子は、胸が一杯になりながら、駈け寄った。 「ああ/瑠璃子か。聞いていたのか。さあ! お前もしっかりして、飽くまでも戦うのだ。強くあれ、そうだ飽くまでも強くあることだ!」  そう言いながら父は、彼の痩せたムナブトコロに顔を埋めている娘の美しい撫肩を、軽く二’三度叩いた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第8話】 【罠】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  羊の皮を被って来た狼の面皮を、マ正面から、引き剥いだのであるから、その次の問題は、狼が本性を現して、飛びかかって来る鋭い歯牙を、どんなに防ぎ、どんなに-さくるかにあった。  が、その狼の毒牙は、法律に依って、保護されている毒牙だった。今の世の中では、国家の公正な意志であるべき法律までが、富める者の味方をした。  カツヘイに買い占められた証書の一部分の期限は/もう十日とマのない六月の末であった。今までは、期限が来る毎に、幾度も幾度も証書の書換をした。そのために、証書の金額は、ネン一年増えて行ったものの、どうにか遣り繰りは付いていた。が、それが悪意のある相手の手に帰して、こちらをいじめるための道具に使われている以上、相手が書換や猶予の相談に応ずべき筈はなかった。  六月の末日が、だんだん近づいて来るに従って、父は毎日のように金策に奔走した。が、三万を越している巨額の-かねが、現在の父に依って容易に、才覚さるべき筈もなかった。  朝起きると、父は青ざめながらも、マナコだけはますます鋭くなった顔を、曇らせながら、黙々として出て行った。玄関へ送って出る瑠璃子も、 「お早くお帰りなさいまし。」と、挨拶するほかは何の言葉もなかった。が、送り出すときは、まだよかった。そこに、僅かでも希望があった。が、夕方、その日の奔走が全くクウに帰して、悄然と帰って来る父を迎えるのは、どうにも堪らなかった。父と娘とは、黙って一言も、交わさなかった。お互いの苦しみを、お互いに知っていた。  今までは、元気であった父も、折々は嗟嘆の声を出すようになった。夕方の食事が済んで、父娘が向かい合っている時などに、父は娘に詫びるように言った。 「みんな、お父様が悪かったのだ。自分の志しばかりに、気を取られて、最愛の子供のことまで忘れていたのじゃ。儂の家を治めることを忘れたために、お前までがこんな苦しい思いをするのだ。」  父の耿々の気が──三十年’火のように燃えた野心が、こうした-かねの苦労のために、砕かれそうに見えるのが、一番’瑠璃子には悲しかった。  父の友人や知己は、大抵は、父のために、三度も四度も、迷惑をかけさせられていた。父が、金策の話をしても、彼等はテイよく断った。断られると、潔癖な父は、二度と頼もうとはしなかった。  六月が二十五日となり、二十七日となった。連日の奔走が無駄になると、父はもう自棄を起こしたのであろう。もう、ふッつりと出なくなった。幡随院長兵衛が、水野の屋敷に行くように、父は悪びれもせず、悪魔が、下す毒手を、待ち受けているようだった。  今年の春’やっと、学校を出たばかりの瑠璃子には、父が連日の苦悶を見ても、どうしようと言うスベもなかった。彼女は、ただオロオロして、ひとり心を苦しめるだけだった。  彼女の小さい胸の苦しみを、打ち明けるべき相手としては、ただ恋人の直也があるだけだった。が、彼女は恋人に、まだ何も言っていなかった。  家の窮状を訴えるためには、いろいろな事情を言わなければならない。ショウダの恨みの原因が、直也の罵倒であることも言わなければならない。直也の父が、不倫な求婚の賤しい使者を務めたことも言わなければならない。それでは、恋人に訴えるのではなくして、恋人を責めるような結果になる。潔癖な恋人が、父の非行を聴いて、どんなに悲嘆するかは、瑠璃子にもよく分かっていた。自分のふとした罵倒が、瑠璃子父娘に、どんなに禍しているかと言うことを聴けば、熱情な恋人は、どんな必死なことをやり出すかも分からない。そう思うと、瑠璃子は、出来るだけは、自分の胸一つに収めて、恋人にも知らすまいと思った。  父や瑠璃子の苦しみなどとは、ボツ交渉に、否/全ての人間の喜怒哀愁とは、何の係わりもなく、六月は暮れて行った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  もう、明日が最後の日という六月二十九日の朝だった。ショウダカツヘイの代理人と言う男が、瑠璃子の家を訪ずれた。鷲の嘴のような鼻をした/四十前後の男だった。詰襟の麻の洋服を着て、胸の辺りに太い金の鎖を、仰々しくきらめかしていた。  父は、頭から面会を拒絶した。瑠璃子が、その旨を相手に伝えると、相手は薄キミの悪い微笑をニヤリと浮べながら、 「いや、お会い下さらなくっても、結構です。それでは、お嬢様から、よろしくお伝え下さい。ほかの事ではございませんが、今度’手前共の主人が、拠ん所ない事情から、買い入れました、こちらのご主人に対する証文のうち、一部の期限が明日に当たっていますから:、是非ともお間違いなくお払い下さるように、当方にも事情がございまして、なにぶんご猶予いたすことが出来ませんから、そのお積りで、お間違いのないよう。もし、万一お間違いがありますと、手前共のほうでは、すぐ相当な法律上の手段に訴えるような手筈に致しておりますから。後でお怨みなさらないように。」と、言ったが、この冷たそうな男の胸にも、美しい瑠璃子に対する一片の同情が浮かんだのであろう。彼は急に、口調を和らげながら、 「どうかお嬢様、こんなことを申し上げる私の苦しい立場もお察し下さい。怨みも報いもないご当家へ参って、こんなことを申し上げる私はかなり苦しい思いを致しているのでございます。しかし、これも全く、使われています主人の命令でございますから。それでは、いずれ明日’改めて伺いますから。」  瑠璃子が、大理石で作った女神の像のように、冷たく化石したような美しい顔の、眉一つ動かさず黙って聞いているために、男はある威圧を感じたのであろう。そう言ってしまうと、コソコソと、にぐるように去ってしま-った。  父に、この督促を伝えようかしら。が伝えたって-なんにもならない。何万と言う-かねが、今日明日に迫って、父に依って作られる筈がなかった。が、もし払わないとすると、向こうではすぐ相当な法律上の手段に、訴えると言う。一体それはどんなことをするのだろう。そう考えて来ると、瑠璃子は自分の胸一つには、収め切れない不安が湧いて来て、進まないながら、父の部屋へ、上って行かずには-いられなかった。 「うむ! すぐ法律上の手段に訴える!」  父はそう言って、腕を拱いて、さすがに抑え切れない憂慮の色が、アリアリと眉の間に溢れた。 「執達吏を寄越すと言うのだな。アハハハハハ、まかり違ったら、競売にすると言うのかな。それもいい、こんなボロ屋敷なんか、ないほうが結句’気楽だ! ハハハハハ。」  父は、元気らしく笑おうとした。が、それは空しい努力だった。瑠璃子の眼には、笑おうとする父の顔が、今にも泣き出すように力なくみじめに見えた。 「どうにかならないものでございましょうか、本当に。」  父の大事などには、今まで一度も口出しなどをしたことのない彼女も、恐ろしい危機に、ついいつものたしなみを忘れてしまった。  父も、それに釣り込まれたように、 「そうだ! 本多さえ早く帰っておれば、どうにかなるのだがな。八月には帰ると言うのだから、このひと月かフタツキさえ、どうにか切り抜ければ──」  父は、娘に対する虚勢も捨てたように、首を項垂れた。そうだ、父のバクギャクの友たる本多男爵さえ日本におればと、瑠璃子も考えた。が、その人は、宮内省の調度ノカミをしている男爵は、内親王のご降嫁のご調度買い入れのために、欧洲へ行っていて、この八月下旬でなければ、日本へは帰らないのだった。  住んでいる家に、執達吏が、ドヤドヤと踏み込んで来て家財道具に、封印をベタベタと付ける。そうした光景を、頭の中に思い浮べると、瑠璃子は生きていることが、味気ないようにさえ思った。  父も娘も、無言のままに、三十分も一時間も坐っていた。いつまで、坐っていても父娘の胸の中の、黒い嫌な塊が、少しもほぐれては行かなかった。  その時である。また唐沢けを-おとなう一人の来客があった。悪魔の使いであるか、神の使いであるかは分からなかったけ-れど。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  父と子とが、差し迫まる難関に、やるせない当惑の眉をひそめて、向かい合って坐っている時に、尋ねて来た客は、木下と言う父の旧知だった。政治上の乾分とも言うべき男だった。父が、日本で初めての政党内閣に、法相の椅子を、ホンのひと月半ばかり占めた時、秘書官に使って以来、ズッと目をかけて来た男だった。長い間、父の手足のように働いていた。父も、いろいろな世話を焼いた。が、ニサン年来父の財力が、尽きてしまって、乾分の面倒などは、少しも見ていられなくなってから、この男もだんだん、父から遠ざかって行ったのだ。  が、父は久し振りに、旧知の尋ねて来たことを喜んだ。おぼるる者は、藁をでも掴むように、窮し切っている父は、どこかに救いの光を見付けようと、焦っているのだった。その男は、今年の五月’来た時とは、別人のような立派ななりをしていた。 「どうだい! 面白い事でもあるかい!」  父は、心のうちの苦悶を、この来客に依って、少しは-まぎらされたように、寂しい微笑を、浮べながら応接室へ入って行った。 「お蔭さまでこの頃は、どうにかこうにか、一本立ちで食って行けるようになりました。もう、二年お待ち下さい! そのうちには、閣下へのご恩報じも、万分の一のご恩報じも、出来るような自信もありますから。」  そう言いながら、得意らしく哄笑した。この場合の父には、そうした相手のお世辞さえ嬉しかった。 「そうかい! それは、結構だな、儂は、相変らず貧乏でのう。年ごろになった娘にさえ、いろいろの苦労をかけている始末でのう。」  父はそう言いながら、茶を運んで行った瑠璃子のほうを、詫びるように見た。 「いや、今に閣下にも、ご運が向いて来る時代が参りますよ。このごろ/ポツポツ新聞などに噂が出ますように、もしペケペケ会中心の貴族院内閣でもが、出来るような事がありましたら、閣下などは、誰を差しおいても、第一番の入閣候補者ですから、本当に、今暫くのご辛抱です。三十年近い間の、閣下のごセイセツが、報われないで了ると言うことは、余りに不当なことですから。‥‥いやどうも、閣下のお顔を見ると、思わず/こうした愚痴が出て困ります。いや、実は本日参ったのは、ちょっとお願いがあるのです。」  そう言いながら、その男は立ち上がって、応接室の入口に、立てかけてあった風呂敷包みを、テーブルの上に持って来た。その’長方形な恰好から推して、なかが軸物であることが分かっていた。 「実は、これを閣下にご鑑定していただきたいのです。友人に頼まれましたのですが、書画屋などには安心して頼まれませんものですから。是非一つ閣下にお願いしたいと思うたものですから。」  瑠璃子の父は、素人鑑定家として、堂にいっていた。殊に北宗画南宗画に於いては、その道の権威だった。 「うむ! /品物はなんなのだな。」父は余り興味がないように言った。書画を鑑定すると言ったような、落ち着いた気分は、彼の心のどこにも残っていなかったのである。 「カケイの山水図です。」 「馬鹿な。」父は頭から嘲るように言った。「そんな品物が、君たちの手にヒョコヒョコあるものかね。それに、見れば、タイフクじゃないか。まあ黙って持って帰ったほうがいいだろう。見なくっても分かっているようなものだ。ハハハハハハ。」  父は、丸切り相手にしようとはしなかった。相手は、父にそう言われると、恐縮したように、頭をかきながら、 「閣下に、そう手厳しく出られると、イチゴンもありません。が、諦めのために見て戴きたいのです。偽物は覚悟の前ですから。持っている当人になると、怪しいと思いながら、諦められないものですから。ハハハハハハハ。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  久し振りで、訪ねて来た旧知の熱心な頼みを聞くと、父はすげなく、断りかねたのであろう、それかと言って、書画を鑑定すると言ったような、静かな穏やかな気持ちは、今の場合、少しも残ってはいないのだった。 「見ないことはないが、今日は困るね、日を改めて、出直して来て貰いたいね。」父は余儀なさそうに言った。 「いや決して、すぐ只今見て下さいなどと、そんなご無理をお願いいたすのではありません。お手許へおいて置きますから、ひと月でもフタツキでも、お預けしておきますから、どうかお暇な時に、お気が向いたときに。」相手は、叮嚀に懇願した。 「だが、カケイの山水なんて、大した品物を預っておいて、もしもの事があると困るからね。もっとも、君などが、そうヒョックリ/本物を持って来ようなどとは、思わないけれども、ハハハハハ。」  父は、品物が偽物であることに、何の疑いもないように笑った。 「いやそんなご心配は、ご無用です。閣下のお手許に置いて置けば、日本銀行へ供託して置くより安全です、ハハハハ。閣下のお口から、贋だと一言仰って下さると当人も諦めが、付くものですから。」  相手に、そう如才なく言われると、父も断りかねたのであろう。口では、承諾の旨を答えなかったけれども、有耶無耶の裡に、預ることになってしまった。  その用事が、片付くと客は、取って付けたように、政局の話などを始めた、父は暫くの間、興味の乗らないような合槌を打っていた。  客が、帰って行くとき、父は玄関へ送って出ながら、 「凡そいつ取りに来る?」と訊いた。やっぱり、軸物のことが少しは気になっているのだった。 「ご覧になったら、ハガキででも、ご一報を願えませんか、本当にお気に向いた時でよろしいのですから。当方は、少しも急ぎませんのですから。」  客は幾度も繰り返しながら、帰って行った。応接室へ引き返した父は、瑠璃子を呼びながら、 「これをしまって置け、儂の居間の押入れへ。」と、命じた。が、瑠璃子が、父の言い付けに従って、その長方形の風呂敷包みを、取り上げようとした時だった。父の心が、急にふと変わったのだろう。 「あ、そう。やっぱりちょっと見て置くかな。どうせ贋に決まっているのだが。」  そう言いながら、父は瑠璃子の手から、その包みを取り返した。父は包みを解いて、箱を開くとさすがに丁寧に、中の一軸を取り出した。幅3尺に近いタイフクだった。 「瑠璃さん! ちょっと掛けてご覧。その軸の上へ重ねてもいいから。」  瑠璃子は父’の命ずるままに、応接室の壁に古くから懸っている、父が好きな維新の志士/雲井タツオの書の上へ、カケイの山水を展開した。  先ず初め、ソウソウと聳えている峰巒の姿が現れた。その山が尽きる辺りから、落葉し尽くした疎林が淡々と、浮かんでいる。疎林の間には一筋の小道が、遥々と遠く続いている。その小道を横ぎって、水の涸れたサナガレが走っている。その水上に架する小さい橋には、牛に騎した牧童が牧笛を吹きながら、通り過ぎている。夕暮れが近いのであろう、蒼茫たる薄靄が、ほのかに山や森を掩うている。その寂寞を僅かに破るものは、牧童の吹き鳴らす哀切なる牧笛のネであるのだろう。  父は、軸が拡げられるのと共に、一言も言葉を出さなかった。が、じっと見詰めている眸には感激の色がアリアリと動いていた。五分ばかりも黙っていただろう。父は感に堪えたように、もう黙っては-いられないように言った。 「逸品だ。素晴らしい逸品だ。このあいだ、伊達侯爵家の売立に出たカケイの『李白観瀑』以上の逸品だ!」  父は熱に浮かされたように言っていた。カケイの『李白観瀑』は、ついこのあいだ行われた伊達家の大売立に九万五千円と言う途方もない高値を付せられた品物だった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「不思議だ! 木下などが、こんな物を持って来る!」父は暫くの間は魅せられたように、その山水図に対して、立っていた。 「そんなに、この絵がいいのでございますか。」瑠璃子も、つい父の感激に感染して、こう訊いた。 「いいとも。徽宗皇帝、梁楷、馬遠、牧渓、それから、このカケイ、みんな北宗画の巨頭なのだ、どんなショウフクだって五千円もする。この幅などは、お父様が、今まで見た中での傑作だ。北宗画と言うのは、南宗画とはまた違った、柔かい/いい味のあるものだ。」  父は、名画を見た喜びに、つい-あすに迫る一家の窮境を忘れたように、瑠璃子に教えた。 「そうだ。早く木下に知らせてやらなければいけない。偽物だからいくら預っていても、心配ないと思って預かったが、本物だと分かると急に心配になった。そうだ瑠璃さん! 二階の押入れへ、大切にしまって置いておくれ!」  父は10分もの間、近くから遠くから、つくづくと見尽したあと、そう言った。  瑠璃子は、それを持って、二階への階段を上りながら思った。自分の手中には、イップク十万円に近い名画がある。このイップクさえあれば一家の窮状は何の苦もなく脱することが出来る。何んなに名画であろうとも、長さ一ジョウを超えず、幅五尺に足らぬ布切れに、五万十万の大金を投じて惜しまない人さえある。それと同時に、同じ金額のために、いろいろな侮辱や迫害を受けている自分達父娘もある。そう思うと、手中にあるそのイップクが、人生の不当な、不公平な状態を皮肉に示しているように思われて、その品物に対して、妙な反感をさえ感じた。  その日の午後、二階の居間に閉じ籠った父は、どうしたのであろう。いつもに似ず、檻に-いれられた熊のように、部屋中を絶間なしに歩き回っていた。瑠璃子は、階下の自分の居間にいながら、天井に絶間なく続く父の足音に不安な眸を向けずには、いられなかった。常には、軽い足音さえ立てない父だった。今日は異常に昂奮している様子が、瑠璃子にもそれと分かった。暫く音が、絶えたかと思うと、また立ち上がって、ドシドシとかなり激しい音を立てながら、部屋中を歩き回るのだった。瑠璃子はふと、父が若い時に何かにゲッコウすると、すぐ日本刀を抜いて、ビュウビュウと、部屋の中で振り回すのが癖だったと、亡き母から聞いたことを思い出した。  あんなに、父が昂奮しているとすると、もし明日ショウダの代理人が、父に侮辱に近い言葉でも吐くと/短慮な父は、どんな椿事を惹き起さないとも限らないと思うと、瑠璃子は心配の上に、また新しい心配が、重なって来るようで:、こんな時家出した兄でも、いてくれればと、取止めもない愚痴さえ、心の裡に浮かんだ。  その日、五時を回った時だった。父は、瑠璃子を呼んで、外出をするから、車を呼べと言った。もう、金策の当てなどが残っている筈はないと思うと、彼女は父が突然’出かけて行くことが、かなり不安に思われた。 「どこへいらっしゃるのでございますか。もうすぐご飯でございますのに。」瑠璃子は、それとなく引き止め-るように言った。 「いや、木下から預った軸物が急に心配になってね。これから行って、届けてやろうと思うのだ。向こうでは、ああした高価なものだとは思わずに、預けたのだろうから。」父の答えは、何だか曖昧だった。 「それなら、すぐ手紙でもお出しになって、取りに参るように申したら、いかがでございましょう。別にご自身でお出かけにならなくても。」瑠璃子は、妙に父の行動が不安だった。 「いや、ちょっと行って来よう。殊にこの家は、いつ差押えになるかも知れないのだから。預って置いて差押えられたりすると、面倒だから。」父は声低く、弁解するように言った。そう言えば、父がすぐ返しに行こうと言うのにも、訳がないことはなかった。  が、父が車に乗って、その軸物の箱を肩に-もたせながら、いずこともなく出て行く後ろ姿を見た時、瑠璃子の心の中の妙な不安は極点に達していた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  とうとう呪われた六月の三十日が来た。梅雨時には、珍らしいカラリとして朗かな朝だった。明るい日光の降り注いでいる庭の木立では、あさ早くから蝉がさんさんと鳴きしきっていた。  が、早くから起きた瑠璃子の心には、暗い不安と心配とが、泥のように澱んでいた。父が、昨夜’遅く、十二時に近く、酒気を帯びて帰って来たことが、彼女の新しい心配の種だった。還暦の年に禁酒してから、数年間一度も、酒杯を手にしたことのない父だったのだ。あれほど、気性の激しい父も、不快な/執拗な圧迫のために、自棄になったのではないかと思うと、その事が一番彼女には心苦しかった。  ついこのあいだ来た、鷲の嘴のような鼻をした男が、今にも玄関に現れて来そうな気がして、瑠璃子は自分の居間に、じっと坐っていることさえ、出来なかった。あの男が、父に直接会って、弁済を求める。父が、すげなく拒絶する。相手が父を侮辱するような言葉を放つ。いらいらし切っている父が激怒する。恐ろしい格闘が起こる。父が、秘蔵の貞宗の刀を持ち出して来る。そうした厭な空想が、ひっきりなしに瑠璃子の頭を悩ました。が、午前中は無事だった。一度玄関に-おとなう声がするので驚いて出て見ると、得体の知れぬ売薬を売り付けるニセ癈兵だった。午後になってからも、なかなか来る様子はなかった。瑠璃子は絶えずいらいらしながら/厭な/呪わしい来客を待っていた。  父は、朝食事の時に、瑠璃子と顔を合わせたときにも、苦り切ったまま一言も言わなかった。昨日よりも色が蒼く、眼が物狂わしいような、不気味な色を帯びていた。瑠璃子もなるべく父の顔を見ないように、俯いたまま食事をした。それほど、父の顔は傷ましく惨めに見えた。昼の食事に顔を合わした時にも、親子は言葉らしい言葉は、交わさなかった。まして、今日が呪われた六月三十日であると言ったような言葉は、どちらからも、おくびにも出さなかった。その癖、二人の心には六月三十日と言う字が、毒々しく焼き付けられているのだった。  が、長い初夏の日が、漸く暮れかけて、夕日の光が、遥かに見える山王台の青葉を、あかあかと照し出す頃になっても、あの男は来なかった。あんなに、心配した今日が、何事も起らずに済むのだと思うと、瑠璃子は-みょうに拍子抜けをしたような、心持ちにさえなろうとした。  が、しかし悪魔に手抜かりのある筈はなかった。その生贄が、十分苦しむのを見すまして、最後に飛びかかる猫のように/瑠璃子親子が、一日を不安な期待の裡に、苦しみ抜いて、やっと一時逃れの安心に入ろうとした隙に:、かの悪魔の使者はゴムワの車に、音も立てず、そっと玄関に忍び寄ったのだった。 「いや、大変遅くなりまして-あいすみません。が、遅く伺いましたほうが、ご都合が、およろしかろうと思いましたものですから、お父様はご在宅でしょうか。」  瑠璃子が、出迎えると、その男は妙な薄笑いをしながら、言葉だけはいやに、鄭重だった。  くる者が、とうとう来たのだと思いながらも、瑠璃子はその男の顔を見た瞬間から、憎悪と不快とで、小さい胸が、ムカムカと湧き立って来るのだった。 「お父様/ ショウダの使いが参りました。」  そう父に取り次いだ瑠璃子の声は、かすかに震えを帯びるのを、どうともする事が出来なかった。 「よし、応接室に通して置け。」  そう言いながら、父は傍らの手文庫を無造作に開いた。部屋の中はかなり-くらかったが、その開かれた手文庫の中には、薄紫の百円紙幣の束が、──:そうだ/1寸にも近い束が、2つ3つ入れられてあるのが、アリアリと見えた。  瑠璃子は、思わず『アッ』と声を立てようとした。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  父の手文庫に思いがけなくも、ほのかな薄紫の紙幣の厚い束を、発見したのであるから、瑠璃子が声を立てるばかりに、驚いたのも無理ではなかった。驚くのと一緒に、有頂天になって、躍り上がって、喜ぶべき筈であった。が、実際は、その紙幣を見た瞬間に言い知れぬ不安が、ウシオの如くヒタヒタと彼女の胸を充した。  瑠璃子は、父がその札束を、無造作に取り上げるのを、恐ろしいものを見るように、無言のままじっと見詰めていた。  父が、応接室へ出て行くと、鷲鼻の男は、やんごとない高貴の方の前にでも出たように、ペコペコした。 「これは、これは男爵様でございますか。私はあの、ショウダに使われておりまする矢野と申しますものでございます。今日’止むを得ませんシュメイで、主人も少々現金の必要に迫られましたものですから止むを得ず期限通りにお願い致しまする次第で、何のご猶予も致しませんで、誠に恐縮致しておる次第でござります。」父は、そうした挨拶に返事さえしなかった。 「証文を出してくれたまえ。」父の言葉は、ア-イクチのように鋭く短かった。 「ハア! ハア!」  相手は、あわてたように、ドギマギしながら、折鞄の中から、三ヨウの証書を出した。  父は、じっと、それに目を通してから、右の手に、鷲掴みにしていた札束を、相手の面前に、突き付けた。  相手は、父の鋭い態度に、オドオドしながら、それでも一枚一枚’算え出した。 「ショウダに言伝をしておいてくれたまえ、いいか。儂の言うことをよく覚えて、言伝をして、おいてくれ給え。この唐沢は貧乏はしている。家も屋敷も抵当に入っているが、金銭のために首の骨を曲げるような腰抜けではないぞ。日本じゅうの-かねの力で、圧迫されても、横に振るべき首は、決して縦には動かさないぞと。いいか。帰って、そう言うのだ! 五万や十万の債務は、期限通りいつでも払ってやるからと。」  父は、犬猫をでも叱咤するように、低く投げ捨てるような調子で言った。相手は何と、罵られても、とにかく厭な役目を満足に果たし得たことを、もっけの幸いと思っているらしく、いっそう丁寧に慇懃だった。 「ハア! ハア! 畏まりました。主人に、そう申し聞けますでござります。どうも、私の口からは、申し上げられませんが、成り上り者などと言う者は、かねばかりありましても、人格などと言うものは皆目’持っていない者が、多うございまして:、私の主人なども、使われている者のほうが、愛想を-つかすような、卑しい事をときどき、やりますので。いや、閣下のお腹立ちは、全くごも-っともです。私からも、主人に反省を促すように、申します事でございます。それでは、これでおいとま致します。」  ちょうど烏賊が、敵を怖れて、逃げるときに厭な墨汁を吐き出すように、この男も出鱈目な、その場限りの、遁辞を並べながら、怱卒として帰って行った。  そうだ! 父は最初の悪魔の突撃を物の見事に一蹴したのだった。この次の期限までには、半年の余裕がある。そのあいだには、父の親友たる本多男爵も帰って来る。そう思うと、瑠璃子はホッと一息ついて安心しなければならない筈だった。が、彼女の心は、一つの不安が去ると共に、また別な、もっとタチのよくない不安が、何時の間にか入れ換わっていた。 「瑠璃さん! お前にも心配をかけて済まなかったのう。もう安心するがいい。これで何事もないのだ。」  父は、客が帰った後で、瑠璃子の肩に手をかけながら慰め顔にそう言った。  が、瑠璃子の心は、怏々として楽しまなかった。 『お父様/ あなたは、あの大金をどうして才覚なさったのです。』  そう言う不安な、不快な、疑いが咽喉まで出かかるのを、瑠璃子は、やっと抑え付けた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第9話】 【ユージット】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  一家の危機は過ぎた。6月は暮れて、7月は来た。が、父の手文庫の中に奇蹟のように見い出された、三万円以上の、巨額な紙幣に対する、瑠璃子の心の新しい不安は、ヒの経つに連れても、容易には薄れて行かなかった。  7月も半ばになった。庭先に敷き詰めた、白い砂利の上には、瑠璃子の好きな松葉牡丹が、咲き始めた。真紅や、白や、琥珀のような黄や、いろいろ変わった色の、乙女のような優しい花の姿が、荒れた庭園の夏を彩る唯一の色彩だった。  ショウダの、思い出すだけでも、憤ろしい面影も、だんだん思い出す回数が、少くなった。鷲鼻の男の顔などは、もう何時の間にか、忘れてしまった。全てが、一場の悪夢のように、その厭な苦いゴ感もいつしか消えて行くのではないかと思われた。  が、それは瑠璃子の空しい思い違いだった。悪魔は、その最後の毒矢を、もう既に放っていたのだった。  七月の末だった。父は、突然’警視総監のT氏から、急用があると言って、会見を申し込まれた。父は、T氏とは公開の席で、二’三度顔を合せただけで、シコウのある間ではなかった。殊に、父は政府当局からは常に、白眼を以って見られていたのだから。 「なんの用事だろう?」  父は、ちょっと不審そうに首を傾けた。警視総監と言ったような言葉だけでも、瑠璃子には-みょうに不安の種だった。  が、父は何か考え当たる事があったのだろう、割合’気軽に出かけて行った。が、掻き乱された瑠璃子の胸は、父の車を見送ったあとも、暫くは静まらなかった。  父は、一時間も経たぬ間に帰って来た。瑠璃子は、ホッと安心して、いそいそと玄関に出迎えた。  が、父の顔をひと目見たとき、彼女はハッと立ち竦んでしまった。容易ならぬ大事が、父の身辺に起こったことが、すぐそれと分かった。父の顔は、土のように暗く青ざめていた。血の色が少しもないと言ってよかった。眼だけは、いつものように爛々と、光っていたが、その光り方は、狂人の眼のように、物凄くしかも、ドロンとして力がなかった。 「お帰りなさいまし。」と、言う瑠璃子の言葉も、しわがれたように、咽喉にからんでしまった。瑠璃子が、父の顔を見上げると、父は子に顔を見られるのが、恥しそうに、コソコソと二階へ上って行こうとした。  父の狼狽したような、血迷ったような姿を見ると、瑠璃子の胸は、暗い憂慮で一杯になってしまった。彼女は、父を慰めよう、訳を訊こうと思いながら、怖ず怖ず父のあとから、ついて行った。  が、父は自分の居間へ入ると、あとからついて行った瑠璃子を振り返りながら言った。 「瑠璃さん! どうか、お父様を、暫く一人にして置いてくれ!」  父の言葉は、言い付けと言うよりも哀願だった。父としての力も、権威もなかった。  それにふと気が付くと、そう言った刹那、父の二つの眼には、抑えかねた涙が、ほたほたと湧き出しているのだった。  父が涙を流すのを見たのは、彼女が生まれて十八になる今日まで、父が母のシニドコに、最後の言葉をかけた時、たった一度だった。  瑠璃子は、父にそう言われると、止むなく自分の部屋に帰ったが、一人自分の部屋にいると、墨のような不安が、胸の中を一杯に塗り潰してしまうのだった。  夕食の案内をすると、父は、『食べたくない』と言ったまま、午後四時から、夜の十時頃まで、カタと言う物音一つさせなかった。  十時が来ると、寝室へ移るのが、例だった。瑠璃子は、十時が鳴ると父の部屋へ上って行った。そして、怖ず怖ずドアを開けながら言った。 「もう、十時でございます。お休み遊ばしませ。」モク念としていた父は、手を-こまねいたまま、振り向きもしないで答えた。 「儂は、もう少し起きているから、瑠璃さんは先へお寝みなさい!」  そう言われると、瑠璃子は、いよいよ不安になって来た。寝室へ退くことなどは愚か、父の部屋を遠く離れることさえが、心配で堪らなくなって来た。瑠璃子は、階段を中途まで降りかけたが、激しい胸騒ぎがして、どうしても足が、進まなかった。彼女は、足音を忍ばせながら、そっと、引き返した。彼女は、ひもない廊下の壁に、寄り添いながら立っていた。父が、寝室へ入るまでは、どうにも父のそばを離れられないように思った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  二十分経ち三十分経っても、父は寝室へ行くような様子を見せなかった。そればかりではなく、部屋の中からは、身動きをするような物音一つ聞えて来なかった。瑠璃子も、息を凝しながら、ずっと仄暗い廊下の闇に立っていた。一時間余りも、立ち尽したけれども、疲労も眠気も少しも感じなかった。それほど、彼女の神経は、異常に緊張しているのだった。じじと鳴く庭先の、虫の声さえ手に取るように聞えて来た。  十二時を打つ時計の音が、階下の闇から聞えて来ても、父は部屋から出て来る様子はなかった。  夜が、深くなって行くのと一緒に、瑠璃子の不安も、だんだん深くなって行った。十二時を打つのを聞くと、もうじっと、廊下で待っていられないほど、彼女の心は不安な動揺に苛まれた。彼女は、無理にも父を寝させようと決心した。言い争ってでも、父を寝室へ連れて行こうと決心した。彼女が、そう決心して、ドアの白い瀬戸物の取っ手に、手を触れたときだった。いつもは、訳もなくグルリと回転する取っ手が、ガチリと音を立てたまま、彼女の手に逆らうように、ビクリとも-しなかった。 『うちから鍵をかけたのだ!』  そう思った瞬間に、瑠璃子は鉄槌で叩かれたように、激しいショックを受けた。気味の悪い悪寒が、全身を水のように流れた。 「お父様/」彼女は、吾を忘れて叫んだ。その声は、悲鳴に近い声だった。が、瑠璃子が、そう声をかけた瞬間、今まで静かであった父が、俄に立ち上がって、何かをしているらしい様子が、アリアリと感ぜられた。 「お父様/ お開けなすって下さい! お父様/」  瑠璃子が、続けざまに、呼びかけても、父は返事をしなかった。父が、何とも返事をしないことが彼女の心を、スッカリ動顛させてしまった。恐ろしい不安が、彼女の胸に、充ち溢れた。彼女は、ドアを力’一杯’押した。その細い、華奢な両腕が、折れるばかりに打ち叩いた。 「お父様/ お父様/ お開けなすって下さい!」  彼女の声は、狂女のそれのように、物凄かった。魔物に、その可憐な弟を奪われて、鉄のドアの前で、狂乱するタンタジールの姉のように、命掛けの声を振り絞った。 「お父様/ どうしてここをお閉めになるのです。ここをお閉めになってどう遊ばそうとなさるのです。おあけ下さい! おあけ下さい。」  が、父は何とも返事をしなかった。父が返事をしない事に依って、瑠璃子は、目が眩むほど恐ろしい不安に打たれた。彼女は、ふと気が付いて、窓から入ろうと、稲妻のように、ヴェランダへ走って出た。が、ヴェランダに面した窓には、丈夫な鎧戸が掩われていた。彼女は、死物狂いになって、再びドアの所へ帰って来た。そして、必死に、そのかよわい、しなやかな身体を、思い切りドアに投げ付けて見た。が、ドアは無慈悲に、傲然と彼女の身体を突き返した。  彼女は、血を吐かんばかりに叫んだ。 「お父様/ なぜ、開けて下さらないのです。どう遊ばそうと言うのです。この瑠璃を捨てて置いて/どう遊ばそうと言うのです。万一の事をなさいますと、瑠璃も生きていないつもりでございますよ。お父様/ お恨みでございます。どんな事情がございましょうとも、私に一応’話して下さいましても、およろしいじゃございませんか。お父様のほかに、誰一人頼る者もない瑠璃ではございませんか。おあけ下さいませ。とにかく、おあけ下さいませ。万一の事でもなさいますと、瑠璃はお父様をお恨みいたしますよ。」  狂ったように、ドアを掻き、打ち、押し、叩いた後、彼女はドアに、顔を当てたままよよと泣き崩れた。  その悲壮な泣き声が、古い洋館の夜更けの闇を物凄く震わせるのだった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  よよと泣き崩れた瑠璃子は、再び自分自身を凛々しく奮い起こして、女々しく泣き崩れているべき時ではないと思った。彼女は、最後の力、その繊細な身体にあるだけの力を、両方の腕にこめて、砕けよ裂けよとばかりに、堅い、鉄のように堅いドアを乱打した後、身体全体を、激しい音を立てて、それに向かって、打ち付けた。その時に、何かの奇蹟が起こったように、今まではガタリとも動かなかったドアが/カルガルと音もなく口を開いた。機みを喰った彼女の身体は、つつと一間ばかりも流れて、危うく倒れようとした。その時、父の老いてはいるけれども、なお力強い双腕が、彼女の身体を力強く支えたのである。 「お父様/」と、上ずッた言葉が、彼女の唇を洩れると共に、彼女は暫くは失神したように、父の懐に顔を埋ずめたまま/激しい動悸を整えようと、苦しさにあえいでいた。  気が付いて見ると、父の顔は涙で一杯だった。テーブルの上には、書き置きらしく思われる書状が、スウツウ重ねられている。 「瑠璃さん! あわれんでおくれ! お父さんは死に損なってしまったのだ! 死ぬことさえ出来ないような臆病者になってしまったのだ! お前の声を聞くと、儂の決心が訳もなく崩されてしまったのだ! お前に恨まれると思うと、お父様は死ぬことさえ出来ないのだ。」  父は、瑠璃子の昂奮が、漸く静まりかけるのを見ると、呟くように語り始めた。 「まあ、何を仰るのでございます、死ぬなどと。まあ何を仰るのでございます。一体どうしたと言って、そんな事を仰るのでございます。」 「ああ/恥ずかしい。それを訊いてくれるな! 儂はお前にも顔向けが出来ないのだ! あいつの恐ろしい罠に、手もなくかかったのだ。あんな卑しい人間のかけた罠に、狐か狸かのように、手もなくかかったのだ。恥ずかしい! 自分で自分が厭になる!」  父は、座にも堪えないように、身悶えして悔しがった。握っている拳がブルブルと震えた。 「あいつと仰しゃりますと、やっぱりショウダでございますか。ショウダが、何をいたしましたのでございますか。」  瑠璃子も激しい昂奮に、眼の色を変えながら、父に詰め寄って訊いた。 「今から考えると、見え透いたワナだったのだ。が、木下までが、儂を売ったかと思うと/儂はこの胸が張り裂けるようになって来るのだ!」  父は、木下が目の前にでもいるように、前方を、きっと睨みながら、声はわなわなと震えた。 「ヘエ! あの木下が、あの木下が。」と、瑠璃子も暫くは茫然となった。 「かねは、人の心を腐らすものだ。あいつまでが、十何年と言う長い間、目をかけて使ってやったあいつまでが、かねのために儂を売ったのだ。かねのために、十数年来の旧知を捨てて、敵の犬になったのだ。それを思うと、儂は坐っても立ってもおられないのだ!」 「木下が、どうしたと言うのでございます。」  瑠璃子も、父のゲッコウに誘われて/桜色に充血した美しい顔を、極度に緊張させながら、問い詰めた。 「このあいだ、あいつが持って来た軸物を、なんだと思う、あれが、儂を陥れ-るワナだったのだ。あれは一体誰のものだと思う。友達のものだと言う、その友達は誰だったと思う。」  父は、眼を熱病’患者のそれのように光らせながら、じっと瑠璃子を見下ろした。 「あれは誰のものでもない、あのショウダのものなのだ。ショウダのものを、空々しく儂の所へ持って来たのだ。」 「なんのためでございましたろう。なんだってそんなことを致したのでございましょう。でも、お父様はあの晩、すぐお返しになったではございませんか。」  瑠璃子が、そう言うと父の顔は、見る見る曇ってしまった。彼は、崩れるように後ろの腕椅子に身を落した。 「瑠璃さん! 許しておくれ! 罠をかける者も卑しい。が、それにかかる者もやっぱり卑しかったのだ。」  父は、そう言うと肉親の娘の視線をも-さけるように、オモテを伏せた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  暫くは、強い緊張の裡に、父も子も黙っていた。が、父はその緊張に堪えられないように、オモテを俯けたまま、呟くように言った。 「瑠璃さん! お前にスッカリ言ってしまおう。儂は-な、浅墓にも、相手の罠にかかって飛んでもないことをしてしまったのだ。あの木下のヤツ/ あいつまでが、ショウダの犬になっていようとは夢にも悟らなか-ったのだ。お前に言うのも恥ずかしいが、儂は木下が、あの軸物を預けて行ったとき、フラフラと魔がさしたのだ。ひと月でもふた月でもいつまででも預けて置くと言う、こっちが通知しないうちは、取りに-こないと言う。儂は、そう聴いたときに、この一軸で一時の窮境を逃れようと思ったのだ。素晴らしい逸品だ、殊に儂の手から持って行けば、三万や五万は、すぐ融通が出来ると思ったのだ。果たして融通は出来た。が、それは罠の中の餌に、儂が喰い付いたのと、ちょうど同じだったのだ。あいつは、儂を散々かつえさした揚句、儂の旧知を買収して、儂に罠をかけたのだ。かつえていた儂は、不覚にも罠の中の肉に喰い付いたのだ。罠をかける奴の卑しさは、論外だが、かかった儂の卑しさも笑ってくれ。三十年のセイセツも、清貧もあったものではない!」  父は、のたうつように、椅子の中で、身を悶えた。これを聞いている瑠璃子も、体中が、猛火の中に入ったように、激しいフンヌのために燃え狂うのを感じた。 「それで、それで、どうなったと言うのでございます。」  彼女は、身を震わしながら訊いた。テーブルの上にかけている白い蝋のような手も、激しい震えを帯びていた。 「あの軸物の本当の所有者はショウダなのだ。あいつは、儂に対して横領の告訴を出しているのだ。」  父は吐くように言った。蒼白いホオが激しく痙攣した。 「そんな事が罪になるのでございますか。」  瑠璃子の眼も血走ってしまった。 「なるのだ! 逆に取って、逆に出るのだから、堪らないのだ。預っている他人の品物は、売っても質入れしてもいけないのだ。」 「でも、そんなことは、世間にいくらもあるではございませんか。」 「そうだ! そんなことはいくらでもある、儂もそう思ってやったのだ。が、向こうでは初めから謀ってやった仕事だ。儂が少しでも、つまずくのを待っていたのだ。つまずけば-あとから飛び付こうと待っていたのだ。」  瑠璃子の胸は、ショウダに対する恐ろしい怒りで、火を発するばかりであった。 「ニンピニンめ! ニンピニンめ! どれほどまでしゅうねくわたし達を、苦しめるのでございましょう。ああ悔しい! 悔しい!」  彼女は、いつものたしなみも忘れたように、身を悶えて、悔しがった。 「お前が、そう思うのは無理はない。お父様だって、昔であったら、そのままにはして置かないのだが。」  父の顔はますます凄愴な色を帯びていた。 「ああ、男でしたら、男に生まれていましたら。残念でございます。」  そう言いながら、瑠璃子はテーブルの上に、泣き伏した。  どこかで、一時を打つ音がした、騒がしい都の夏の夜も、静寂に更け切って、遠くから響いて来る電車の’音さえ、絶えてしまった。瑠璃子の泣き声が絶えると、深夜の静けさが、しんしんと迫って来た。 「それで、その告訴はどうなるのでございますか。まさか取り上げにはなりませんでしょうね。」  瑠璃子は泣き顔を擡げながら、心配そうに訊いた。  涙に洗われた顔は、1種の光沢を帯びて、凄艶な美しさに輝いているのであった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「さあ! そこなのだ! 今日’警視総監が、個人として儂に会見を求めたのは、その問題なのだ。総監が言うのには、このくらいなことで、貴方を社会的に-ほうむってしまうことは、何とも遺憾なことなので告訴を取り下げるように懇々云って見たが、頑として聴かない。そして唐沢氏本人がやって来て、手を突いて謝まるならば告訴を取り下げようと言うのだ。どうも先方では貴方に対して何か意趣を含んで居るらしい。貴方も快くはあるまいが、このさい先方に詫を入れて、内済にして貰ったらどうかと言うのだ。貴方もあんな男に詫びるのは、不愉快だろうが、しかし、貴方の社会的地位や名誉には換えられないから、このさい思い切って謝罪して見たらどうかと言ってくれるのだ。/先方が告訴を取り下げさえすれば、検事局では微罪として不起訴にしようと言っていると言うのだ。」  父は低くうめくように言って来たが、ここまで来ると急に激しい調子に変わりながら、 「だが、瑠璃子/考えておくれ。あんな男に、あんな卑しい人間に、謝罪はおろか、頭一つ下げることさえ、儂に取ってどんな恥辱であるか。儂は、それよりも寧ろ死を-えらみたいのだ。しかし謝罪しないとなると、どうしても起訴を免れないのだ。起訴されると、お前/この罪は破廉恥罪なのだ! 爵位も返上を命ぜられるばかりでなく、儂の社会的位置は、滅茶苦茶だ! あれ見い! 貴族院第一の硬骨と言われた唐沢が、あのザマだと、世間から嘲笑されることを考えておくれ。死以上の恥辱だ。どの道を選んでも、死ぬより以上の恥辱なのだ。瑠璃子、儂が死のうと決心した’心の裡を、お前は察してくれるだろう。」  瑠璃子は、父の苦しい告白を、石像のように黙って聴いていた。火のように熱した体中の血が今は却って、氷のように冷たくなっていた。 「儂が死ねば、あいつの迫害の手も緩むだろうし、それに依って、汚名を流さずして済む。つまり、儂は悪魔の手に買い取られた儂の社会的名誉を、血を以って買い戻そうと思ったのだ。お前のことを、思わないではない。父のほかには頼る者もないお前のことを思わないではない。が、破廉恥のザイニ-ンになることを考えると、泥棒と同じ汚名を-こうむることを考えると、何も考えておられなくなったのだ。」  父は、そう言いながら、心の裡の苦しさに堪えられないように、頻りに身を悶えた。 「が、ドアの外でお前が突然’叫び出した声を聞くと、刀を持っていた儂の手が、しびれてしまったように、どうしても儂の思い通りに、動かないのだ。未練だ! 未練だ! と、心で叱っても、手がどうしても言うことを聴かないのだ。儂は、今’初めてお前に対する父としての愛が、名誉心や政治上の野心などよりも、もっと大きいことが分かったのだ。儂は、社会ジョウの位置を失っても、お前の為に生き延びようと思ったのだ。破廉恥罪の名を被ても、お前の父として、生き延びようと思ったのだ。名誉や位置などは、なくなっても、お前さえあれば、まだ生き甲斐があると言うことが、分かったのだ。いや/名誉や野心のために、生きるのよりも、自分の子供のために、生きるほうが人間として、どれほど立派であるかと言うことが、今やっと分かったのだ。儂は、いま光一を追出したことを後悔する。親の野心のために、子を犠牲にしようとしたことを後悔する。瑠璃子/ お前のために、どんな汚名を忍んでも生き延びるのだ。お前も、罪人’のお父様を見捨てないで、いつまでも儂のそばを離れてくれるな。」  父の顔は今、子に対する愛に燃えて、美しく輝いていた。彼は、子に対する愛に依って、その苦しみの裡から、その罪の裡から、立派に救われようとしているのだった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  そうだ!子の心は、凄まじいフンヌと復讐の一念とに、湧き立った。父が、子に対する愛のために、敵の与えた恥辱を忍ぼうとするのに拘わらず/子の心は敵に対する反抗と憎悪とのために、狂ってしまった。 「お父様、それでいいのでございましょうか。お父様/ かねさえあれば悪人がお父様のような方を苦しめてもいいのでございましょうか。しかも、国の法律までが、そんな悪人の味方をするなどと言う、そんなことが、許されることでございましょうか。」  瑠璃子は、いつものおとなしい、慎しやかな彼女とは、全く別人であるように、熱狂していた。父は子のゲッコウを宥めるように、「だが瑠璃子/ 悪人がどんな卑しい手段を講じてもお父様さえ、しっかりしていればよかったのだ。国の法律に触れたのはやっぱり儂の不心得だったのだ。」 「いいえ! わたくしは、そうは思いません。」瑠璃子は、昂然として父の言葉を遮ぎった。「ショウダのやりましたような奸計を廻らしたならば、どんな人間をだって、罪に陥すことは容易だと思います。お父様が信任していらっしゃる木下をまで、買収してお父様を罠に陥し入れるなど、悪魔さえ恥じるような卑怯な事を致すのでございますもの。もし、国に本当の法律がございましたら、ショウダこそ厳罰に’処せらるべきものだと思います。ショウダのような悪人の道具になるような法律を、わたくしは心から呪いたいと思います。」  眦が、裂けると言ったらいいのだろう。美しい顔に、凄まじい殺気が-ほとばしった。父も子の激しい気性に、気圧されたように、黙々として聴いていた。 「お父様、あんな男に起訴されて、泣寝入りになさるような、腑甲斐ないことをして下さいますな。飽くまでも戦って、相手の悪意を懲らしめてやって下さいませ。ああ/わたくしが男でございましたら、‥‥本当に男でございましたら‥‥。」  瑠璃子は、熱に浮かされたように、昂奮して叫び続けた。 「が、瑠璃子/ 法律と言うものは人間の行為の形だけを、律するものなのだ。ショウダが、悪魔のような卑しい悪事を働いても、その形が法律に触れていなければ、大手を振って歩けるのだ。儂は切羽詰まってちょっと逃れに、知人の品物を質入れした。世間に有り触れたことで、事情止むを得なかったのだ。が、儂の行為の形は、ちゃんと法律に触れているのだ。法律が罰するものは、ショウダの恐ろしい心ではなくして、儂のちょっとした心得違いの行為なのだ。行為の形なのだ!」 「もし、法律がそんなに、本当の正義に依って、動かないものでしたら、わたくしは法律に依ろうとは思いません。わたくしの力でショウダを罰してやります。わたくしの力で、ショウダに思い知らせてやります。」  気が狂ったのではないかと思うほど、瑠璃子の言葉は激しくなった。父は呆気に取られたように、子の口もとを見詰めていた。 「かねの力が、万能でないと言うことをあの男に知らせてやらねばなりません。かねの力で動かないものが、世の中に在ることを知らせてやらねばなりません。このままで、お父様が、有罪になるような事がございましたら、ショウダは何と思うか分かりません。世の中には、法律の力以上に、本当の正義があることを、あの男に思い知らせてやらねばなりません。かねの力などは、本当の正義の前には土塊にも等しいことを、あの男に思い知らせてやりたいと思います。」  そう言いながら、瑠璃子は父の顔をじっと見詰めていたが、思い切ったように言った。 「お父様/ お願いでございます。瑠璃子を、無い者と諦めて、今後何を致しましょうと、わたくしの勝手に任せて下さいませんか。」  瑠璃子の顔に、鉄のように堅い決心が閃いた。父は、瑠璃子の真意を測りかねて、茫然と-まなごの顔を見詰めていた。 「お父様? わたくしは、ユージットになろうと思うのでございます。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「ユージット?」老いた父には、娘の言った言葉の意味が分からなかった。 「左様でございます。わたくしはユージットになろうと思うのでございます。ユージットと申しますのはユダヤの美しい娘の名でございます。」 「その娘になろうと言うのは、どう言う意味なのだ?」父は、激しい興奮から覚めて、やや落ち着いた口調になっていた。 「ユージットになろうと申しますのは、わたくしのほうから進んで、あのショウダカツヘイの妻になろうと言うことでございます。」  瑠璃子の言葉は、樫の如く堅く”氷の如く冷やかであった。 「えーッ。」と叫んだまま、父は雷火に打たれた如く茫然となってしまった。 「お父様/ お願いでございます。どうか、わたくしをないものと諦めて、わたくしの思うままに、させて下さいませ!」  瑠璃子は、何時の間にか再び熱狂し始めた。 「馬鹿なッ/」父は、激しい、しかし慈愛の籠った言葉で叱責した。 「馬鹿なことを考えてはいけない! 親の難儀を救うために子が犠牲になる。親の難儀を救うために娘が、身売りをする。そんな道徳は、古い昔の、封建時代の道徳ではないか。お前が、そんな馬鹿なことを考える。聡明なお前が、そんな馬鹿なことを考える。お父さんを救おうとして、お前があんな豚のような男に身を委す。考えるだけでも汚らわしいことだ! お前を犠牲にして、自分の難儀を助かろうなどと、そんなさもしいことを考える父だと思うのか。儂は、自分の名誉や位置を守るために、お前の指一本’髪一筋も、犠牲にしようとは思わない。そんな馬鹿馬鹿しいことを考えるとは、いつものお前にも似合わないじゃないか。」  父は、思いのほかに、ゲッコウして、瑠璃子をたしなめるように言った。が、瑠璃子は、ビクともしなかった。 「お父様/ お考え違いをなさっては、困ります。お父様の身代わりになろうなどと、そんな消極的な動機から、申し上げているのではありません。わたくしは、法律の網をくぐるばかりでなく、法律を道具に使って、善人を陥れ-ようとする悪魔を、法律に代わって、罰してやろうと思うのです。一家が受けた迫害に、復讐するばかりでなく、社会のために、人間全体のために、法律が罰し得ない悪魔を罰してやろうと思うのです。お父様の身代わりになろうと言うような、そんな小さい考えばかりではありません。」  瑠璃子は、昂然と現代の烈女と言ってもいいように、美しく勇ましかった。 「お前の動機は、それでもいい。だが、あの男と結婚することが、どうしてあの男を罰することになるのだ。どうして、一家が受けた迫害を、復讐することになるのだ。」 「結婚は手段です。あの男に対する刑罰と復讐とが、それに続くのです。」瑠璃子は凛然と火花を発するように言った。 「お父様、昔ユダヤのベトウリヤと言う都市が、ホロフェルネスと言う恐ろしい敵の猛将に、囲まれた時がありました。ホロフェルネスは、獅子を手打ちにするような猛将でした。ベトウリヤの運命は迫りました。破壊と虐殺とが、目前に在りました。その時に、美しい少女が、ベトウリヤ第一の美しい少女が、侍女をたったひとり連れた切りで、薄物を纏った美しい姿を、虎のようなホロフェルネスの陣営に運んだのです。そしてこの少女の、容色に魅せられた敵将を、閨中でたった一突きに刺し殺したのです。美しい少女は、自分の貞操を犠牲にして、イクマンの同胞の命と貞操とを救ったのです。その少女の名こそ、いま申し上げたユージットなのでございます。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  瑠璃子の心は、勇ましいロマンチックな火炎で包まれていた。メジシの乳で育ったと言う野蛮人の猛将を、細いカイナで刺し殺したユダヤの乙女の美しい姿が、勇ましい面影が、エッチングのように、彼女の心にこびりついて離れなかった。少女に仮装して、敵将を倒した倭健命よりも、本当の女性であるだけに、それだけ勇ましい。命よりも大切な、貞操を犠牲にしているだけに、限りなく悲壮であった。 「わたくしはユージットのように、戦って見たいと思うのです。」  二千有余年も昔の、ユダヤの乙女の魂が、大正の日本に、甦って来たように、瑠璃子は炎の如く熱狂した。  が、父は冷静だった。彼は、熱狂し過ぎている娘を、宥めるように、言葉静かに説き諭した。 「瑠璃子/ お前のように、そう熱しては困る。女の一番大事な貞操を、犠牲にするなどと、そんな軽率なことを考えては困る。数万の人の命に代わるような、大事な場合は、大切な操を犠牲にすることも、立派な正しいことに違いない。が、あんなケダモノのような卑しい男を、懲らすために、お前の一身を犠牲にしては、黄金を土塊と交換するほど、馬鹿馬鹿しいことじゃないか。」 「だが、お父様/」と、瑠璃子はすぐ抗弁した。 「相手は、お父様の仰しゃる通り、取るに足りない男には違いありません。が、現在の社会組織では人格がどんなに下劣でも、かねさえあれば、帝王のように強いのです。お父様は、相手を『ケダモノのように卑しい男』とお蔑すみになっても、その卑しい男が、かねの力で、お父様のような方に、こんな迫害を加え得るのですもの。わたくしが、戦わなければならぬ相手はショウダカツヘイと言う個人ではありません。ショウダカツヘイと言う人間の姿で、現れた現代の社会組織のアクです。かねの力で、どんなことでも出来るような不正な不当な社会全体です。かねさえあれば、何でも出来ると言ったような、その思想です。観念です。わたくしは、それを破って見たいと思うのです。」  瑠璃子は、乙女らしい羞恥心を、興奮のために、全く振り捨ててしまったように、叫びつづけた。  父は子の激しい勢いを、持ち扱ったように、黙って聞いていた。 「それに、お父様/ ユージットは、操を犠牲にしましたが、それは相手が、勇猛無比なホロフェルネス、ミサオを捨ててかからなければ、油断をしなかったからです。わたくしは、妻と言う名前ばかりで、相手を懲らし得る自信があります。どうかわたくしを無いものと、お諦めになって、ミツキか半年かの間、ショウダの許へやって下さいまし。ア-イクチで相手を刺し殺す代わりに、精神的にあの男を滅ぼしてご覧に入れますから。」  そこには、もう優しい乙女の姿はなかった。相手の卑怯な執念深い迫害のために、とうとう最後の堪忍を、し尽して、反抗の刃を取って立ち上がった彼女の姿は、復讐の女神その物の姿のように美しく凄愴だった。 「瑠璃さん! あなたは、今夜はどうかしている。お父さんも、ゆっくり考えよう。あなたも、ゆっくりお考えなさい。あなたの考えは、余り突飛だ。そんな馬鹿なことが今時‥‥。」 「でも、お父様/」瑠璃子は少しも屈しなかった。「わたくしは、毒に報いるのには毒を以ってしたいと思います。陰謀に報いるには、陰謀を以ってしたいと思います。相手が悪魔でも恥じるような陰謀を逞くするのですもの。こっちだって、突飛な非常手段で、懲らしめてやる必要があると思います。現代の社会では万能な-かねの力に対抗するのには、非常手段に出るよりほかはありません。わたくしは、自分の力を信じているのでございます。あんな男ひとり滅ぼすのには余るくらいの力を、持っているように思います。お父様/ どうかわたくしを信じて下さいまし。瑠璃子は、一時の興奮に駆られて無謀なことを致すのではありません。ちゃんと成算があるのでございます。」  瑠璃子の興奮はどこまでも、続くのだった。父は黙々として、何も答えなくなった。父と娘との必死な問答の裡に、幾時間も経ったのであろう、明け易い夏の夜は、ほのぼのと-しらみかけていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第10話】 【美奈子】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「ハハハハ、唐沢のヤツ、面食らっているだろう。ハハハハ。」  ショウダは、トウ製の腕椅子の裡で、身体をのけ反るようにしながら、哄笑した。 「どうも、貴方も人間が悪くていけない。あんな-いい方を苛めるなんて、どうも甚だ宜しくない。貴方が、持って行けと言ったから、つい持って行ったものの、どうも寝覚めが悪くっていけない。私は随分’唐沢さんにお世話になったのですからね。」  木下は、さすがに激しい良心の苛責に堪えられないように、苦しげに言った。 「ああ/いいよ。分かっているよ。君の苦衷も察しているよ。儂だって、何も唐沢が憎くって、やるのじゃないんだ。つい、意地でね。妙な意地でね。ちょっとした意地でやり始めたのだが、やり始めると儂の性質でね、徹底的にやり徹さないと気が済まないのだ。親を苛める気は、少しもないのだ。あの美しい娘に対する色恋からでもないんだ。ハハハハハ、誤解してくれちゃ困るよ。ハハハハハハ。」  ショウダは、その赤い大きい顔の相好を崩しながら、思惑が成功した投機師のように、得意な哄笑を笑い続けた。 「どうだ! 儂が言ったとおりだろう。キミは、高潔な人格の唐沢さんは、決してそんな事はしないとか何とか言って、反対したじゃないか。どうだ! 人間は、かねに窮すればどんなことでもするだろう。かねに依って、保護されていない人格などは、要するに当てにならないのだ。清廉潔白など言うことも、本当に経済ジョウの保証があって出来ることだよ。貧乏人の清廉潔白なんか、当てになるものか、ハハハハハハ。」 (この世をば/わが世とぞ思う/望月の/欠けたることの)無いように、カツヘイは得意だった。 「だが、私は気になります。私は唐沢さんが自殺しやしないかと思っているのです。どうもやりそうですよ。きっとやりますよ。」木下は、心からそう信じているように、眉をひそめながら言った。 「うむ! 自殺かね。」さすがにショウダも、ちょっと誘われて眉をひそめたが、すぐ傲岸な笑いで打ち消した。 「ハハハハハ、大丈夫だよ。人間はそうヤスヤスとは、死なないよ。いや待っていたまえ。今に、泣きを入れに来るよ。なに、センポウが泣きを入れさえすれば、そうは苛めないよ。もともと、ちょっとした意地からやっていることだからね。」 「それでも、もしお嬢さんをよこすと言ったらご結婚になりますかね。」 「いや、それだがね。儂も考えたのだよ。いくらなんだと言っても、二十ゴロクも違うのだろう。世間が五月蠅いからね。只でさえ『成金/ 成金/』と、いやなマナコで見られているんだろう。それだのに、そんな不釣合な結婚でもすると、非難攻撃が、大変だからね。それで、儂が花婿になることは思いとどまったよ。倅の嫁にするのだ。倅の嫁にね。あれとなら、トシだけは似合っているからね。その事はセンポウへも言って置いたよ。」 「ご子息の嫁に!」  そう言ったまま、木下は二の句が継げなかった。ショウダのソク、勝彦と言うそのソクは、ハタチを2つ3つも越していながら、子供のようにたわいもない白痴だった。白痴に近い男だった。そうだ! トシだけは似合っている。が、瑠璃子の夫としては、何と言う不倫な、不似合いな配偶だろう。かねのために旧知を売った木下にさえ、ショウダの思い上がった暴虐が、不快に面憎く感ぜられた。 「なに、儂があのお嬢さんと結婚する必要は、少しもないのだ。かねの力で、あのお嬢さんを、左右してやればそれでいいのだよ。かねの力が、どんなに大きいかを、あのお嬢さんと、ああそうそう、もう一人の人間とに、思い知らしてやればいいのだよ。」  ショウダは、何物も恐れないように、傲然と言い放った。  ちょうど、その時だった。ショウダの後ろのドアが、ドンドンと、激しく打ち叩かれた。 「電報/ 電報/」と、誰かが大声で叫んだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「電報/ 電報。」  ドアは、続け様に割れるように叩かれた。今まで、傲然と反り返っていたショウダは、急に悄気切ってしまった。彼はテレ隠しに、苦笑しながら、 「おい! 勝彦/ おい! よさないか、お客様がいるのだぞ。おい! 勝彦。」  客を憚って、高い声も立てず、低い声で制しようとしたが、相手は聴かなかった。 「電報/ 電報。」強い力で、ドアは再び続けざまに、乱打された。 「まあ! お兄様/ 何を遊ばすのです。さあ! あっちへいらっしゃい。」優しく制している女の声が聞こえた。 「電報だい! 電報だい! 本当に電報だよ。美奈さん。」男は抗議するように言った。 「あら! 電報じゃありません、お客様のご名刺じゃありませんか、それなら早くお取次ぎ遊ばすのですよ。」  そうした問答が、聞こえたかと思うと、ドアが音もなく開いて、十六──恐らく七にはなるまい少女が姿を現した。色の浅黒い、眸のいきいきとした可愛い少女だった。彼女は、兄の恥を自分の身に背おったように、顔を真っ赤にしていた。 「お父様/ お客様でございます。」  客に、丁寧に会釈をしてから、父に向かって名刺を差し出しながら、しとやかそうに言った。傲岸な父の娘として、白痴の兄の妹として、彼女は狼に伍した羊のように、美しく、しとやかだった。 「木下さん。これが娘です。」  そう言ったショウダの顔には、ムスメ自慢の得意な微笑が、アリアリと見えた。が、彼の眼が、開かれたドアの所に立って、キョトンと室内を覗いている長男のホウへ転ずると、急にまた悄気てしまった。 「ああ/美奈さん。兄さんを早う向こうへ連れて行ってね。それから、杉野さんをお通しするように。」  娘に、優しく言い付けると、客のホウへ向きながら、 「ご覧の通りの馬鹿ですからね。唐沢のお嬢さんのような立派な聡明な方に、来ていただいて、引き回していただくのですね。ハハハハハ。」  馬鹿な長男が去ると、ショウダはまた以前のような得意な傲岸な態度に還って行った。  そこへ、小間使いに案内されて、入って来たのは、杉野子爵だった。 「ヤア! ショウダさん! 懸賞金はやっぱり私のものですよ。とうとう、センポウでシロハタを上げましたよ、ハハハハ。」 「シロハタをね、なるほど。ハハハハハ。」ショウダは、凱旋の将軍のように哄笑した。 「案外’脆かったですね。」木下は傍から、合槌を打った。 「それがね。令嬢が、案外’脆かったのですよ。お父様が、監獄へ行くかも知れないと聞いて、狼狽したらしいのです。チチ一人’子一人の娘としては、無理はないとも思うのです。私の所へ、今朝そっと手紙を寄越したのです。父に対する告訴を取り下げた上に、唐沢家に対する債権を放棄してくれるのなら/ショウダケへ輿入れしてもいいと言うのです。」 「なるほど、うむ、なるほど。」  ショウダは、血の匂いを嗅いだ食人鬼のように、満足そうな微笑を浮べながら、頷いた。 「ところが、令嬢に註文があるのです。ショウダ君/ お喜びなさい! 私に対する懸賞金は倍増しにする必要がありますよ、令嬢の註文がこうなのです。同じショウダケへ嫁ぐのなら、息子さんよりも、やっぱりお父様のお嫁になりたい。男性的な実業家の夫人として、社交界に立って見たいとこう言ってあるのです。手紙をお眼にかけてもいいですが。」  そう言いながら、子爵はポケットから、瑠璃子の手紙を取り出した。ちょうど-カタキから来た投降状でも出すように。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  凱旋の将軍が、敵の大将の首実検をでもするように、ショウダは瑠璃子が杉野子爵宛てに寄越した手紙を取り上げた。得意な、満ち足りたと言ったような、賤しい微笑が、その赤い顔一面に拡がった。 「うむ! 成る程/ 成る程。」  舌鼓をでも打つように、一句一句を貪るように読み了ると、彼は腹を抱えんばかりに哄笑した。 「ハハハハハ。強いようでも、やっぱりオナゴは弱いものじゃ。ハハハハハ。なにも、あのお嬢さんを嫁にしようなどとは、夢にも考えていなかったが、こうなると一番/若返るかな、ハハハハハ、じゃ、杉野さん、どうかよろしくね。あのショウモン全部は、お嬢様に、マリエジのプレゼントとして差しあげる。そうだ! 差し上げる期日は、結婚式の当日と言うことにしよう。それから、支度金は軽少だが、二万円差し上げよう。そうそう、貴方がたに対するお礼もあったけ。」  王女のように、美しく気高い乙女を、とうとう征服し得たと言う喜びに、ショウダは有頂天になっていた。彼は、ベルを鳴らして女中を呼ぶと、 「お嬢さんに、そう言うのだ、儂の手提金庫に小切手帳が入っているから持って来るように。」と命じた。  良心を悪魔に、売り渡した木下と杉野子爵とは、自分達の良心の代価が、いくらになるだろうかと銘々心の裡で、ショウダの持つ筆の先に現れる数字を、貪慾に空想しながら、美奈子が小切手帳を持って、入って来るのを待っていた。 「十八の娘にしては、なかなか達筆だ! 文章も立派なものだ!」  ショウダは、なお飽かず瑠璃子の手紙に、魂を乱されていた。  が、ちょうどその同じ瞬間に、瑠璃子の手紙に依って、魂を乱されていたのはショウダカツヘイだけではなかった。  瑠璃子は、杉野子爵に宛てて、1通の手紙を書くのと同時に、その息子の杉野直也に対しても、1通の手紙を送った。杉野子爵に対する手紙は、冷たい微笑と/堅い鉄のような心とで書いた。直也に送った手紙は、熱い涙と/堅い鉄のような心とで書いた。  ショウダカツヘイが、一方の手紙を読んで、有頂天になったと同じに、直也は他の一方の手紙を読んで、奈落に突落されたように思った。 ◇。◇。◇。  父を恐ろしい恥辱より救い、唐沢一家を滅亡より救う道は、これよりほかにはないのでございます。‥‥  法律の力を悪用して、善人を苦しめる悪魔を懲らしめる手段は、これよりほかにはないのでございます。わたくしの行動を奇嬌だとお笑い下さいますな。芝居っ気があるとお笑い下さいますな。現代に於いては、万能力を持っている-かねに対抗する道は、これよりほかにはないのでございます。‥‥名ばかりの妻、そうです、わたくしはありとあらゆる手段と謀計とで以って、わたくしの貞操を/あの悪魔のために-けがされないように努力する積りです。北海道の牧場では、よく牡牛と羆とが格闘するそうです。わたくしとショウダとの戦いもそれと同じです。牡牛が、羆の前足で、搏たれない裡に、その鉄のような角を、敵の脾腹へ突き通せば牡牛の勝利です、わたくしも、自分の操を-けがされない裡に、立派にあの男を倒してやりたいと思います。  わたくしの結婚は、愛の結婚でなくして、憎しみの結婚です。それに続く結婚生活は、絶えざる不断の格闘です。‥‥  が、どうかわたくしを信じて下さい。わたくしには自信があります。半年と経たない裡に/精神的にあの男を殺してやる自信があります。  直也様よ、わたくしのためにどうか、勝利をお祈り下さい。 ◇。◇。◇。  手紙はなお続いた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  わたくしは、勝利を確信しています。が、それは実質の勝利で、形から言えば、わたくしは-かねのためにショウダに贖われる女奴隷と、等しいものかも知れません。わたくしが、自分の操を清浄に-たもちながら、ショウダを倒し得ても、社会的にはわたくしは、ショウダの妻です。ナンピ-トがわたくしの心も身体も乙女であることを信じてくれるでしょう。わたくしは貴方だけには、それを信じて戴きたいと思います。が、わたくしにはそれを強いる権利はありません。  マンリファン(男性化)と言う言葉があります。わたくしの現在はそれです。わたくしは女性としての恋を捨て、優しさを捨て/慎しやかさを捨てて、ただ復讐と膺懲のために、狂奔する化物のような人間になろうとしているのです。顧みると、自分ながら、浅ましく思わずには、いられません。が、悪魔を倒すのには、悪魔のような心と謀計とが必要です。  貴方を愛し、また貴方から愛されていた無垢な少女は、残酷な運命の悪戯から、全ての女性らしさを、自分から捨ててしまうのです。全ての女性らしさを、復讐の神に捧げてしまうのです。愛も恋も、慎しやかさも淑やかさも、その黒髪も白きハダエも。  次のことを申し上げるのは、一番厭でございますが、ショウダからの最初の申し込みを取り継がれた方は、貴方のお父様です。従って、求婚に対するわたくしの承諾も、順序として、貴方のお父様に、取次いでいただかねばなりません。わたくしは、貴方に対する、この不快な恐ろしい手紙を書いたあとに、貴方のお父様宛てに、もう一つの、もっと不快な恐ろしい手紙を書かねばなりません。  それを思うと、わたくしの心が暗くなります。が、わたくしはあくまで強くなるのです。ああ、悪魔よ! もっとわたくしの心を荒ませておくれ! わたくしの心から、最後の優しさと恥しさを奪っておくれ! ◇。◇。◇。  一句一句’鋭いア-イクチの切先で、えぐられるように、読み了った直也は最後の1章に来ると、鉄槌で横ざまに殴り付けられたような、恐ろしい打撃を受けた。  最初は、たといどんな理由があるにしろ、自分を捨てて、ショウダに嫁ごうとする瑠璃子が恨めしかった。心を喰い裂くような激しい嫉妬を感じた。が、だんだん読んで行く裡に、唐沢家に対するショウダの迫害の原因が、ショウダに対する自分の罵倒であったことが、マザマザと分かって来た。瑠璃子を唐沢ケから奪おうとするのは、つまり自分の手から奪おうとするのだ。ショウダの、自分に対する皮肉な/恐ろしい復讐なのだ。意趣返し-なのだ。瑠璃子は、復讐と膺懲の手段として、結婚すると言う。が、それを自分が漫然と見ていられるだろうか。かよわい女性が、貞操の危険を冒してまで、戦っている時に、第一の責任者たる自分が、茫然と見ていられるだろうか。が、そんなことはとにかく直也には、自分の恋人がたとい操は許さないにしても、ショウダと──:豚のように不快なショウダと、形式的にでも夫と呼び妻と呼ぶことが、堪まらなかった。瑠璃子は、飽くまでも、操を-けがさないと言うが、そんなことは、聡明ではあるにしろ、まだ年の若い彼女のロマンチックな空想で、たとい彼女の決心が、どんなに堅かろうとも、一旦結婚した以上、ケダモノのように強いショウダの為に、ムザムザと踏み躙られてしまいは-せぬか。どんなに強い精神でも、鉄のように強い腕には、敵せない時がある。瑠璃子の心が火のように激しく、石のように堅くても、薄物にも堪えないような、その優しい肉体は、ショウダの強い把握のために、押し潰されてしまいは-せぬか。そう考えると、直也の心は、恐ろしい苦悶と焦燥のために、激しく動乱した。が、それよりも、自分の父が自分の恋人を奪う悪魔の手下であることを知ると、彼はフンヌと恥辱とのために、ギャクジョウした。  彼は瑠璃子の手紙を握りながら、父の部屋へかけ込んだ。父の姿は見えないで、女中が座敷を掃除していた。 「お父様はどうした。」  彼は女中を叱咤するように言った。 「今しがた、ショウダ様へいらっしゃいました。」  瑠璃子の承諾の手紙を読むと、鬼の首でも取ったように、ショウダの所へ駆け付けたのだと思うと、直也の心は、恐ろしいフンヌのために燃え上がった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  美奈子が、小切手帳を持って来ると、ショウダは、傍らの小さいデスクの上にあった金蒔絵の硯箱を取寄せて/不器用な手付きで墨を磨りながら、左の手で小切手帳を繰拡げた。 「ハハハハハ、貴方にも、お礼をうんと張り込むかな。」彼は、そう得々と哄笑しながら、最初のイチヨウに、金二万円ナリと、小学校のシゴネンセイくらいの悪筆で、そのくせ溌剌と筆太に書いた。それは無論、支度料として、唐沢ケへ送るものらしかった。  その次のイチヨウを、木下も杉野も、爛々と眼を、梟のように光らせて、見詰めていた。ショウダは、無造作に壱万円ナリと書き入れると、その次のイチヨウにも、同じだけの金額を書き入れた。 「どうです。これで不足はないじゃろう。ハハハハハ。」と、ショウダは肩を揺がせながら笑った。  食事を与えられた犬のように、何の躊躇もなく、二人がその紙片に手を出そうとしている時だった。ショウダの後ろのドアが、軽く叩かれて、小間使いが入って来て、 「旦那様/ あの/杉野さんと言う方が、ご面会です。」と、言った。 「杉野/」と、ショウダは首を-かしげながら言った。「杉野さんならここにいらっしゃるじゃないか。」 「いいえ! お若い方でございます。」 「若い方? いくつくらい?」と、ショウダは訊き返した。 「ニジュウサンシの方で、学生の服を着た方です。」 「ううむ。」と、ショウダはちょっと考え込んだが、ふと杉野子爵のほうを振り向きながら、 「杉野さん! 貴方のご子息じゃないかね。」と、言った。 「私の倅、私の倅がお宅へ伺うことはない。もっとも、私にでも用があるのかな。そうじゃありませんか。私に会いたいと言うのじゃありませんか。」  子爵は小間使いのほうを振り向きながら言った。小間使いは首を振った。 「いいえ! ご主人にお目にかかりたいと仰るのです。」 「ああ/分かった! 杉野さん! 貴方のご子息なら、僕の所へ来る理由が、大いにあるのです。殊に今の場合、唐沢のお嬢さんが、私に屈伏しようと言う今の場合、是非とも-こなければならない方です。そうだ! 私も会いたかった。そうだ! 私も会いたかった! おい、お通しするのだ。主人もお待ちしていましたと言ってね。貴方がたは、別室で待っていただくかね。いや、立会人があったほうが、結局いいかな。そうだ! 早くお通しするのだ!」  興奮した熊のように、ショウダはテーブルに沿うて、二’三歩ずつ左右に歩きながら、叫んだ。  杉野子爵には、ショウダの言った意味が、十分に判らなかった。なんの用事があって、自分の息子が、ショウダを尋ねて来るのか見当も立たなかった。が、それは兎も角、自分がショウダから、疚しい-かねを受け取ろうとする現場へ、肉親の子──:しかも、その潔白な性格に対しては、親が三目もヨンモクも置いている子が──:突然’現れて来ることは、いかにも愧しいキマリの悪い事に違いなかった。彼は顔には現さなかったが、心の裡では、かなり狼狽した。ショウダが、早く気を利かして、小切手帳をしまってくれればいい、くれるものは、早くくれて、早くしまってくれればいいと、虫のいいことを、考えていたけれど:、ショウダは-みょうに興奮してしまって、小切手帳のことなどは、念頭にもないようだった。マザマザと見えている壱万円ナリと言う金額が、杉野や木下らの罪悪を、ありありと語っているように、子爵には心苦しかった。 「一体、私の倅はなんだって、貴方をお尋ねするのです。前からご存じなのですか。なんの用事があるのでしょう。」杉野子爵は、堪らなくなって訊いた。 「いや、今にすぐ判ります。やっぱり、今度の私の結婚に就いてです。が、媒介のコンミッションを貰いに来るのでないことは、確かですよ。ハハハハハ。」  と、ショウダは腹を抱えるように哄笑した。その哄笑が終らないうちに、彼の後ろのドアが、静かに開かれて、その男性的な顔を、ソウハクに緊張させている、杉野直也が姿を現した。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  直也の姿を見ると、ショウダの哄笑が、ピタリと中断した。相手の決死の-ぎょうそうが、傲岸なショウダの心にも鋭い刃物に触れたような、キミ悪い感じを与えたのに違いなかった。が、彼はさり気なく、鷹揚に、徹頭徹尾’勝利者であると言う自信で言った。 「いやあ! 貴方でしたか。いつぞやは大変失礼しました。さあ! どうかこっちへお入り下さい! ちょうど、貴方のお父様も来ていらっしゃいますから。」  うわべだけはかなり鄭重に、直也を引いた。直也は、その口を一文字に引きしめたまま、黙々として一言も発しなかった。彼は、父のほうをなるべく見ないように──:それは父に対する遠慮ではなくして、敬虔なキリスト教徒が/異教徒と同席する時のような、憎悪と侮蔑とのために、なるべく父のほうを見ないように:、ショウダのちょうど向かい側にテーブルを隔てて相対した。 「どう言うご用か、知りませんが、よく入らっしゃいました。貴方があんなに軽蔑なさった成金の家へも、尋ねて来て下さる必要が出来たと見えますね。ハハハハハ。」  ショウダは、直也と面と向かって立つと、すぐ挑戦の第一の弾丸を送った。  直也は、それに対して、何かを言い返そうとした。が、彼は激しい怒りで、口の周りの筋肉が、ピクピクと痙攣するだけで、言葉は少しも、出て来なかった。 「どう言うご用です。承ろうじゃありませんか。どう言うご用です。」  ショウダはのしかかるように畳かけて訊いた。直也は、心の裡に沸騰する怒りを、どう現してよいか、分からないように、暫くは両手を震わせながら、ショウダの顔を睨んで立っていたが、突如として口を切った。 「貴方は、良心を持っていますか。」 「良心を!」と、ショウダはすぐ受けたが、問いが余りに唐突であったため/暫くは言葉に窮した。 「そうです。良心です。普通の人間には、そんなことを訊く必要はない。が、人間以下の人間には、訊く必要があるのです。貴方は良心を持っていますか。」  直也は、テーブルを叩かんばかりに、激しく迫った。 「アハハハハハ。良心/ うむ、そんな物はよく貧乏人が持ち合わしているものだ。そして、それを金持ちに売り付けたがる。ハハハハ、私も度々買わされた覚えがある。が、私自身にはあいにく良心の持ち合せがない、ハハハハ。いつかも、貴方に言った通り、かねさえあれば、良心なんかなくても、結構世の中が渡って行けますよ。良心は、羅針盤のようなものだ。ちっぽけな帆前や、たかが五百トンや千トンの船には、羅針盤が必要だ。が、3万とか4万とか言う大軍艦になると、羅針盤も何も要りやしない、大手を振って大海が横行出来る。ハハハハ。儂なども、羅針盤の要らない軍艦のようなものじャ。ハハハハ。」  ショウダは、飽くまでも、自分の優越を信じているように、出来るだけ直也を、じらすように、ゆっくりと答えた。  それを聴くと、直也は堪らないように、わなわなと身体を震わせた。 「貴方は、自分がやったことを恥だとは思わないのですか。卑劣な盗人でも恥じるような手段を廻らして、唐沢ケを迫害し、不倫な結婚を遂げようと言うような、浅ましいやり方を、恥ずかしいとは思わないのですか。貴方は、それを恥ずるだけの良心を持っていないのですか。」  直也は、吃々とどもりながら、威丈高に罵った。が、ショウダはビクともしなかった。 「お黙りなさい。国家が許してある範囲で、正々堂々と行動しているのですよ。何を恥じる必要があるのです。貴方は、白昼公然と、私の-かねの力を、あざ嗤った。が、ご覧なさい! 貴方は、かねの力で自分のお父様を買収され、あなたの恋人を、公然と奪われてしまったではありませんか。貴方こそ、自分の不明を恥じて、私の前でいつかの暴言を謝しなさい! 唐沢のお嬢さんは、もうこの通り、ちゃんと前非を悔いている。ご覧なさい! この手紙を!」  そう言いながら、ショウダは得々として、瑠璃子の手紙を直也に突き付けたとき、彼の心は火のような憤りと、恋人を奪われた墨のような恨みとで、狂ってしまった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「ご覧なさい! 私は、自分の息子の嫁に、するために、お嬢さまを所望したのだが、お嬢さまのほうから、却って私の妻になりたいと望んでおられる。有力な/男性的な実業家の妻として、社会的にも活動して見たい! こう書いてある。アハハハ。どうです! お嬢様にも、ちゃんと私の価値が判ったと見える。かねの力が、どんなに偉大なものかが判ったと見える! アハハハ。」  ショウダは、得々とその大きい鼻を、うごめかしながら、言葉を切った。  直也は、湧き立つばかりのフンヌと、嵐のような嫉妬に、自分を忘れてしまった。彼は瑠璃子の手紙を見たときに、ショウダと媒介ニンたる自分の父とに、面と向かって、その不正と不倫とを罵り:、少しでも残っているショウダの良心を、呼び覚して、不当な/暴虐な計画を思いとどまらせようと決心したのだが、実際に会って見ると、自分のそうした考えが、ケダモノに道徳を教えるのと同じであることを知った。そればかりでなく、ショウダの逆襲的嘲弄に、直也自身まで、ケダモノのように荒んでしまった。彼’の手は、いつの間にか知らず識らず、ポケットの中に入れて来たピストルにかかっていた。そのピストルは、今年の夏、彼が日本アルプスの乗鞍ヶ岳から薬師ヶ岳へ縦走したときに、護身用として持って行って以来、つい机の引出しに入れて置いた。彼はゲッコウして家を出るとき、ふとこのピストルの事が、頭に浮かんだ。ショウダの家へ、単身’乗り込んで行く以上、召使いや運転手や下男などの多数から、どんな暴力的な侮辱を受けるかも知れない。そうした場合の用意に持って来たのだが、しかし今になって見ると、それが直也に、もっと血腥い決心の動機となっていた。  暴にムクユルには暴を以ってせよ。相手が-かねを背景として、暴を用いるなら、こちらは死を背景とした暴を用いてやれ。フンヌと嫉妬とに狂った直也は、そう考えていた。そうした考えが浮かぶと共に、直也の顔には、死そのもののような決死のソウが浮かんでいた。 「貴方の、この不正な不当な結婚を、中止なさい。中止すると誓いなさい! でなければ‥‥でなければ‥‥。」そう言ったまま、直也の言葉もさすがに後が続かなかった。 「でなければ、どうすると言うのです。アハハハハハハ。貴方は、このショウダを脅迫するのですな。こりゃ面白い! 中止しなければ、どうすると言うのです。」  直也は、無我夢中だった。彼は、自分も/父も/母も/恋人も、国の法律も、何もかも忘れてしまった。ただ目の前スーシャクの所にある、大きい赤ら顔を、どうにでも叩き潰したかった。 「中止しなければ‥‥こうするのです。」  そう叫んだ刹那、彼の右の手は、鉄火の如くポケットを放れ、水平に突き出されていた。その手先には、白いツヤのある金属が/鈍い光を放っていた。 「何/ 何をするのだ。」と、ショウダが、悲鳴とも’怒声とも付かぬ声を挙げて、ドアのホウへタジタジと二’三歩後ずさりした時だった。  直也の父は、狂気のように息子の右の腕に飛び付いた。 「直也/ 何をするのだ! 馬鹿な。」  その声は、泣くような/叱るような悲鳴に近い声だった。  父の手が子の右の手に触れた刹那だった。轟然たる響きは、室内の人々の耳を劈いた。  その響きに応ずるように、ショウダも/木下も/子爵も「アッ」と、叫んだ。それと同時に、どうと誰かが崩れるように倒れる音がした。絹を裂くような悲鳴が、それに続いて起こった。その悲鳴は、ショウダの口から洩る-るような、太いあさましい悲鳴とは違っていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  父の手が直也の手に触れたちょうどその刹那に、発せられた玉は、皮肉にも二十貫に近いショウダの巨躯を避けて:、わずかに開かれたドアの隙から、主客の激しい口論に、父の安否を気遣って、そっと室内をのぞき込んでいたショウダの娘/美奈子の、かよわい肉体を貫ぬいたのであった。  ショウダは娘の悲鳴を聞くと、自分の身の危うさをも忘れて飛び付くように、娘の身体に掩いかかった。  美奈子は、二’三度起き上ろうとするように、身体を悶えたあとに、ぐったりと身体を、青い絨毯の上に横たえた。絶えいるような悲鳴が続いて、明石縮らしい単衣の肩の辺りに出来た赤黒いシミが、見る見る裡に胸一面に拡がって行くのだった。 「美奈子/ 気を確かに持て! おい! 繃帯を持って来い! なければ白’木綿だ! 近藤さんを呼べ! そうだ! 自動車を迎えにやれ! いなかったら、誰でもいい/外科の博士を。そうだ! その前に、誰でもいいから、近所の医者を呼んで来い! 早く、早く、早くだ!」  狼狽して、前後左右にただウロウロする、召使いの男女をショウダは声を枯らして叱咤した。彼はそう言いながらも、右の掌で、娘の傷口を力’一杯’押さえているのだった。  直也は、自分の放った弾丸が、思いがけない結果を生んだのを見ながら、彼は魂を奪われた人間のように、茫然として立っていた。色は土の如く蒼く、眼は死んだ魚のそれのように光を失った。彼はまだピストルを握ったまま、突っ立っていた。直也の父も、木下も、この犯人の手から、ピストルを奪い取ることさえ忘れていた。殊に、子爵の顔は子のそれよりも、血の気がなかった。彼は自分の罪が、ヒシヒシと’胸にこたえて来るのを感じた。自分の野卑な、狡猾な行為が、子の上に覿面に報いて来たことが、恐ろしかった。彼は子の短慮と暴行とを-しっすべき言葉も、権威も持っていなかった。彼の身体を支えている足は、絶えずわなわなと震えた。  ショウダは、娘の肩口を繃帯で、幾重にもクルクルと、捲いてしまうと、やっと小康を得たように、室内へ帰って来た。その大きい顔は殺気を帯びて物凄いソウを示した。 「お蔭で傷は浅いです。可哀そうに、あれはたいそう親思いですから、あんなトバシリを喰うのです。」  彼は、氷のような薄笑いを含んで、直也の顔をマジマジと見詰めながら言った。赤手にして一千万円を-こゆる暴富を、二’三年の裡に、カクシュした面魂が躍如として、その顔に動いた。 「いや、私は暴に報いるに、暴を以ってしません。ただ、国の公正なる法律に、あなたの処分を任せるだけです。杉野さん! お気の毒ですが、ご子息はすぐ、警察の方へお引き渡ししますから、そのおつもりでいて下さい。おい/警視庁の刑事課へ電話をかけるのだ。そして、殺人未遂の犯人があるから、すぐ来てくれと。いいか。」  ショウダは、冷然として、鉄の如く堅く/冷ややかに、商品の註文をでもするような口調で、小間使いに命じた。  小間使いのほうが恐ろしい命令に、躊躇して、ウロウロしている時だった。仮の繃帯が了って、自分の部屋へ運ばれようとしていた美奈子が、父の激しい言葉を、そのかすかな聴覚で、聞きわけたのであろう。彼女は、ふり搾るような声を立てた。 「お父様/ お願いでございます。どうぞ、内済にして下さいませ! わたくしが、ピストルで打たれましたなどは、外聞が悪うございますわ。どうぞ! どうぞ!」  彼女は、哀願するように、力’一杯の声を出した。  ショウダは、娘からの思いがけない抗議に、狼狽えながら、なおも頑然として言った。 「お前さんの知ったことじゃない。お前さんは、そんなことは、一切考えないで、気を落ち着けているのだ。いいか。いいか。」 「いいえ! いいえ! わたくしを打ったために、あの方が牢へ行かれるようなことが、ございましたら、わたくしは生きては、おりません。お父様/ どうぞ、どうぞ、内済にして下さいませ。」  美奈子は、息を切らしながら、とぎれとぎれに言った。傲岸不屈なショウダも、さすがに黙ってしまった。  直也の二つの眼には、あつい湯のような涙が、湧くように溢れていた。初めて、顔を見たばかりの少女の、厚い’情けに対する感激の涙だった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第11話】 【心の武装】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  記憶のよい人々は、あるいは覚えているかも知れない。大正六年の九月の末に、東京大阪の各新聞紙が筆を揃えて報道した唐沢男爵の愛嬢’瑠璃子の結婚を。それは近年にないセンセイショナルな結婚であった。  この結婚が、一世の人心を湧かし、かまびすしい世評を生んだ第一の原因は、その新郎新婦の年齢が恐ろしいほど隔たっていた為であった。二’三の新聞は、第二の小森幸子事件であると称して、世道’人心に及ぼす悪影響を嘆いた。小森幸子事件とは、ついそのロクシチ年前、ときの宮内大臣’田中伯が、還暦を過ぎた老体を以って、まだハタチを過ぎたばかりの乙女──:爵位と権勢にアコガるる虚栄の女と、婚約をした為に一世の激しい指弾と抗議とを招いた事件だった。  無論、新郎のショウダカツヘイは、当時の田中伯よりも若かった。が、それと同時に、新婦の唐沢瑠璃子は小森幸子などとは比較にならないほど美しく、比較にならないほど名門の娘であり、比較にならないほど若かった。  新聞紙に並べられた新郎新婦の写真を見た者は、男性も女性も、等しく眉を-ひそめた。が、この結婚がかまびすしい世評を産んだ原因は、ただ新郎新婦の年齢の相違ばかりではなかった。もう一つの原因は、成金、ショウダカツヘイが、唐沢家の娘を-かねで買ったと言う噂だった。ある新聞紙は貴族院第一の硬骨を以って、称せらるる唐沢男爵に、そうした卑しい事のあるべき筈はないと、打ち消した。他の新聞紙はあたかも事件の真相を伝える如くに言った、曰く『ショウダカツヘイは唐沢男爵に私淑しているのだ。彼はスウジュウ万円を投じて唐沢家の財政上の窮状を救ったのだ。唐沢男爵が、娘を与えたのは、その恩義に感じたからである。』と。他の新聞紙は、またこんな記事を載せた。結婚の動機は、唐沢瑠璃子の強い虚栄からである。彼女は学習院の女子部にいた頃から、同窓の人々の眉を-ひそめさせるほど、虚栄心’に富んだ女であった、と。そうした記事に伴って女子教育家や社会批評家の意見が紙面を賑わした。ある者は、成金の-かねに任せての横暴が、世の良風美俗を破ると言って憤慨した。ある者は、米国の富豪の娘たちが、欧洲の貴族と結婚して、富と爵位との交換を計るように、日本でも貧乏な華族と富豪が頻々として縁組を始めたことを指摘して、面白からぬ傾向である、華族の堕落であると結論した。  が、そうした轟々たる世論をよそに、ショウダは結婚の準備をした。春の園遊会に、十万円を投じて惜しまなかった彼は、晴れの結婚式場には、黄金の花を敷くばかりの意気込みであった。彼は、自分の結婚に対して非難攻撃が高くなればなるほど、反抗的に大ぴらに/華美に豪奢に、式を挙げようと決心していた。  彼は、あらゆる手段で、チョウヤの名流を、その披露の式場に蒐めようとした。彼は、あらゆる縁故を辿って、貴族顕官の列席を、頼み回った。  九月二十九日の夕であった。日比谷公園の樹の間に、薄紫のアーク灯が、ほのめき始めた頃から幾台も幾台もの自動車が、北から南から、西から東から:、軽快な車台で夕暮れの空気を切りながら、山下門の帝国ホテルを目指して集まって来た。最新輸入の新しいカタの自動車と交じっては、昔ゆかしい定紋の付いた箱馬車に、栗毛の駿足を並べて、優雅に上品に、軋らせて来る堂上華族も見えた。さすがに広いホテルの玄関先も、後から後から集まって来る馬車や自動車を、収め切れないで/はみ出された自動車や馬車は往来に沿うて/一町ばかりも並んでいた。  祝宴が始まる前の控えじょうの大広間には、余興の舞台が設けられていて、今しがた帝劇の嘉久子と浪子とが、二人道成寺を踊り始めたところだった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  新郎のカツヘイは、控室の入口に、新婦の瑠璃子と並び立って、次々に到着する人々を迎えていた。  彼は嘘から出た真と言う言葉を心の裡で思い起こしていた。本当に、彼の結婚は嘘から出た真であった。彼は、妙にこじれてしまった意地から、相手を苦しめる為に、申し込んだ結婚が、相手が思いのほかに、脆かった為、手軽に実現したことが少しくすぐったいようにも思った。それと同時に、名門のたった一人の令嬢をさえ、自分の-かねの力で、とうとう買いえたかと思うと、心の底からむらむらと湧く/得意の情を押えることが出来なかった。  が、結婚の式場に連なるまで、彼は瑠璃子を高値で贖った装飾品のようにしか思っていなかった。五万円に近い大金を投じて、ひかした愛妓に対するほどの感情をも持っていなかった。『このお嬢さん/きっとむずがるに違いない。なに、むずかったって、タカの知れた子供だ。ふふん。』と言ったような気持ちで/神聖なるべき式場に連なった。  が、雪のように白い白紋綸子の振袖の上に/目も-さむるような唐織錦の裲襠を被た瑠璃子の姿を見ると、彼は生れて始めて感じたような気高さと美しさに、打たれてしまって:、神官が朗々と唱え上げる祝詞の言葉なども耳に入らぬほど、じっと瑠璃子の姿に、魅せられていた。その輪廓の正しい顔は凄いほど澄みわたって、神々しいと言ってもいいような美しさが、カツヘイの不純な心持ちをさえ、浄めるようだった。  式が、無事に終って、大神宮から帝国ホテルまでの目と鼻の距離を、初めて自動車に同乗したときに/言い知れぬ嬉しさが、カツヘイの胸の中に、こみ上げて来た。彼は、どうかして、最初の言葉を掛けたかった。が、日頃’傲岸不遜な、人を人とも思わないカツヘイであるにも拘わらず、話しかけようとする言葉が、一つ一つ咽喉にからんでしまって:、小娘か何かのように、その四十男の大きい顔が、ほんの少しではあるが、赤らんだ。彼は、唐沢ケをあんなにまで、迫害したことが、後悔された。瑠璃子が、自分のことを一体どう思っているだろうと、言うことが一番’心配になり始めた。  式服を着がえて、いま勝平の横に立っている瑠璃子は、前よりもっと美しかった。ゴショドキ模様をムナダカに総縫いにした黒縮緬の振袖が、そのスラリとした白皙の身体に、しっくりと似合っていた。カツヘイは、こうして若い美しい妻を得たことが、自分の生涯を彩る第一の幸福であるようにさえ思われた。今までは、彼のただ一つの誇りは、金力であった。が、今はそれよりも、もっと誇っていいものが、得られたようにさえ思った。  大臣を初め、政府の高官達が来る。実業家が来る。軍人が来る。唐沢家の関係から、貴族院に籍を置く、伯爵や子爵が殊に多かった。大抵は、夫人を同伴していた。美人の妻を持っているので、有名な小早川伯爵が来たとき、カツヘイは同伴した伯爵夫人を、自分の新妻と比べて見た。伯爵夫妻が、会釈して去った時、カツヘイの顔には、得意な微笑が浮かんだ。虎の門第一の美人として、謳われたことのある勧業銀行の総裁吉村氏の令嬢が、その父に伴われて、その美しい姿を現わしたとき、カツヘイはまた思わず、自分の新妻と比べて見ずには-いられなかった。無論、この令嬢も美しいことは美しかった。が、その美しさは、華美な陽気な美しさで、瑠璃子のそれに見るような澄んだ神々しさはなかった。 『やっぱり、育ちが育ちだから。』カツヘイは、口の中で、こんなふうに、新しい妻を讃美しながら、日本じゅうで、一番得意な人間として、後から後からと続いて来る客に、いつもに似ない愛嬌を振り蒔いていた。  来客の足が、やや薄らいだ頃だった。この結婚を纏めた殊勲者である木下が新調のフロックコートを着ながら、ニコニコと入って来た。 「ヤア! おめでとうございます。おめでとうございます!」  彼はカツヘイに、ペコペコと頭を下げてから、その傍らの新夫人に、丁寧に頭を下げたが、今までは全ての来客の祝賀を、神妙に受けていた瑠璃子は/木下の顔を見ると、その高島田に結った頭を、昂然と高く持したまま、1寸は愚かイチブも動かさなかった。勝手が違って、狼狽する木下に、一瞥も与えずに、彼女は怒れる女王の如き、冷然たる儀容を崩さなかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  祝宴が開かれたのは、午後七時を回っていた時分だった。シャンデリアの華やかな昼のような光の-したに/五百人を越す紳士と/その半分に近い婦人とが淑かに席に着いた。紳士は、大抵フロックコートか、五つ紋の紋付であったが、婦人達は今日を晴れと銘々きらびやかな盛装を競っていた。  花嫁と言ったような心持ちは、少しも持たず、戦場にでも出るような心で、身体には錦繍を纏っているものの、心には甲冑を装うている瑠璃子ではあったが:、こうして沢山の紳士淑女の前に、花嫁として晒されると、必死な覚悟をしている彼女にも、恥しさが一杯だった。列席の人々は、結婚が非常なセンセイションを起こしただけ、それだけ、花嫁の顔を、ジロジロと見ているように、瑠璃子には思われた。かねで操を左右されたものと思われているかも知れないことが、瑠璃子には──勝気な瑠璃子には、死に勝る恥のようにも思われた。が、彼女は全力を振るって、そうした恥しさと戦った。人は何とも思え、自分は正しい/勇ましい道を辿っているのだと、彼女は心の中で、ともすれば撓みがちな勇気を振い起こした。  が、苦しんでいるものは、瑠璃子だけではなかった。新郎のカツヘイと、一尺も離れないで、黙々と席に就いている父の顔を見ると、瑠璃子は自分の苦しみなどは、父の十分の一にも足りないように思った。自分は、自分から進んで、こうした苦痛を買っているのだ。が、父は最愛の娘を敵に与えようとしている。たとい、それが娘自身のハツ意であるにしろ、男子として、殊に硬骨な父として、どんなに苦しい/無念なことであろうかと思った。  が、苦しんでいる者は、ほかにもあった。それは今宵の月下氷人を勤めている杉野子爵だった。子爵は、瑠璃子が自分の息子の恋人であることを知ってから、どれほど苦しんでいるか分からなかった。瑠璃子に対するショウダの求婚が、本当は自分の息子に対する、復讐であったことを知ってから、彼はその復讐の手先になっていた、自分のあさましさが、しみじみと感ぜられた。殊に、そのために、息子が殺傷の罪を犯したことを考えると、彼は立っても坐っても、いられないような良心の苛責を受けた。  日比谷大神宮の神前でも、彼は瑠璃子の顔を、仰ぎ見ることさえなし得なかった。彼は、瑠璃子親子の前には、罪を待つ罪人のように、悄然とそのコウベを垂れていた。  今宵の祝賀の的であるべき花嫁を初め、親や仲人が、銘々の苦しみに悶えているにも拘わらず、祝賀の宴は、飽くまでも華やかだった。アタイ高い洋酒が、次から次へと抜かれた。料理人が、懸命の腕を振るった珍しい料理が後から後から運ばれた。低くはあるが、華やかなさざめきがテーブルからテーブルへ流れた。  デザートコースになってから、貴族院議長のT公爵が立ち上がった。公爵は、貴族院の議場の名物である、その荘重な態度を、いつもよりも、もっと荘重にして言った。 「私は、ここにご列席になった皆様を代表して、ショウダ唐沢両家の万歳を祈り、新郎新婦の前途を祝したいと思います。どうか皆様/新郎新婦の前途をいおうてご乾杯を願います。」  公爵は、そう言いながら、そのなみなみと、つがれたシャンペン酒の盃を、自分と相対して立っている逓相の近藤男爵の盃に、カチリと触れさせた。  それと同時に、公爵の音頭で、ショウダ唐沢両家の万歳が、一斉に三唱された。  ちょうどその時であった。その祝辞を-うくるべく立ち上ろうとした唐沢男爵の顔が、急に青ざめたかと思うと、ヒョロヒョロとその長身の身体が後ろに二’三歩よろめいたまま、枯木の倒れるように、力なく床の上に崩れ落ちた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  唐沢男爵の突然な卒倒は、晴れの盛宴を滅茶苦茶にしてしまった。さすがに、心の利いた給仕人は、手早く一室に担ぎ込んだが、列席の人々の動揺は、どうともすることが出来なかった。瑠璃子は、花嫁である身分も忘れて、父の傍らに駆け付けたまま、晴着の振袖を気にしながら、懸命に介抱した。  給仕人が、必死になって最後のコーヒーを運ぶのを待ち兼ねて、仲人の杉野子爵は立って来客達に、列席の労を謝した。それを機会に、今まで浮腰になっていた来客は、潮の引くように、一時に流れ出てしまって、煌々たる電灯の光の流れているオオ広間には、カツヘイを初めとし/シゴニンの人々が寂しく取り残されただけだった。  瑠璃子の父は、幸いに軽い脳貧血であった。呼びにやった医者が来ない前に、もう、常態に復していた。が、彼は黙々として自分を取り囲んでいる杉野やカツヘイには、一言も言葉をかけなかった。  父が、用意された自動車に、やっと恢復した身体を乗せて、今宵からは、最愛の娘と離れて、ただ一人住むべき’家へ帰って行く後ろ姿を見ると:、鉄のように冷たくつぼんでいる瑠璃子の心も、底から掻き回されるような痛みを感ぜずには-いられなかった。  瑠璃子は、父の自動車に身体をピッタリと付けながら、小声で言った。 「お父様/暫くご辛抱して下さいませ。じきにお父様の許へ帰って行きます。どうぞ、わたくしを信じて待っていて下さいませ。」  さすがに彼女の眼にも、湯のような涙が、ほたほたと溢れた。  父は、瑠璃子の言葉を聴くと大きく肯きながら、 「お前の決心を忘れるな。お父さんが、今宵’受けた恥を忘れるな。」  父が低くしかし、力強くこう呟いた時、自動車は軽く滑り出していた。  父を乗せた自動車が、出で去ったあとの車寄せに付けられた自動車は、ショウダがついこのあいだ、イタリーから求めた/華麗なフィヤット型の大自動車であった。新郎新婦を、その幾久しきゴウキンのトコに送るべき/めでたき乗り物だった。  瑠璃子は、夫──それに違いはなかった──に招かるるまま、相並んで腰を降ろした。が、その美しい唇は彫像のそれのように、堅く堅く結ばれていた。  カツヘイは、どうにかして、瑠璃子と言葉を交えたかった。彼は、瑠璃子の美しさがしみじみと、感ぜられれば感ぜられるだけ、ただ黙って、並んでいることが、いよいよ苦痛になり出した。  彼は、瑠璃子の顔色を-うかがいながら、怖ず怖ず口を開いた。 「大変沈んでおられるようじゃが、そう心配せいでもようござんすよ。儂だって貴方が思っているほど、無情な人間じゃありません。貴方のお父様を、苛めて済まんと思っているのです。罪滅ぼしに、出来るだけのことはしようと思っているのです。貴方も、儂をカタキのように思わんでな。これも縁じゃからな。」  カツヘイは、誰に対しても、使ったことのないような、丁寧な訛のある言葉で、哀願するような口調でしみじみと話し出した。が、瑠璃子は、黙々として言葉を出さなかった。二人の間に重苦しい沈黙が暫く続いた。 「実は恥を言わねばならないのだが、今年の春、儂の家の園遊会で、貴方を見てから、年甲斐もなく、ハハハハハ。それで、つい、心にもなく貴方のお父様までも、苦しめて、どうも何とも済まないことをしました。」  カツヘイは、瑠璃子の心を解こうとして心にもない嘘を言いながら、大きく頭を下げて見せた。  その刹那に、美しい瑠璃子の顔に、皮肉な微笑が動いたかと思うと、彼女の様子は、一瞬の裡に変わっていた。 「そんなに言って下さると/わたくしのほうが却って痛み入りますわ。わたくしのような者を、それほどまでして、望んで下さったかと思うと、ホホホホホ。」  と、車内の薄闇の裡でもハッキリと判るほど、瑠璃子はカツヘイの方を向いて、嫣然と笑って見せた。カツヘイは、その一笑を投げられると、魂を奪われた人間のように、フラフラとしてしまった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  瑠璃子の嫣然たる微笑を浴びると、カツヘイはシャンペン酒の酔いが、だんだん回って来たその大きい顔の相好を、たわいもなく崩してしまいながら、 「ああ、そうでがすか。貴方の心持ちはそうですか、それを知らんもんですから、心配したわい。」  彼は余りのうれしさに、生まれ故郷の訛りを、スッカリ丸出しにしながら、身体に似合わない優しい声を出した。 「貴方が心の中から、私のところへ、喜んで来て下さる。こんな嬉しいことはない。貴方のためなら儂の財産をみんな投げ出しても惜しみは-せん。アハハハハハ。」  ショウダは、恥しそうに顔をふしている瑠璃子の、薄闇の中でも、くっきりと白い襟足を、貪るように見詰めながら、有頂天になって言った。 「貴方が来てくだされば、儂も今までの三倍も五倍もの精力で、働きますぞ。うんと-かねを儲けて、貴方の身体をダイヤモンドで埋ずめて上げますよ。アハハハハハハ。」  ショウダは、どうかして、瑠璃子の微笑と歓心とを勝ちえようと、懸命になって話しかけた。  十時を過ぎたお濠端の闇を、瑠璃子を乗せた自動車を先頭に、美奈子を乗せた自動車を中に、召使い達の乗った自動車を最後に、三台の自動車は、瞬く裡に、日比谷から三宅坂へ、三宅坂から五番町へと殆ど3分もかからなかった。  瑠璃子が、夫に扶けられて、自動車から宏壮な車寄せに、降り立った時、さすがにその覚悟した胸が、激しくときめくのを感じた。単身’敵の本城へ乗り込んで行く、刺客のような緊張と不安とを感じた。カツヘイに扶けられている手が、かすかに震えるのを、彼女は必死に制しようとした。  瑠璃子が、カツヘイに従って、玄関へ上がろうとした時だった。そこに出迎えている、多数の召使いの前に、ヌッとつッ立っている若者が、急にカツヘイに縋り付くようにして言った。 「お父さん! お土産だい! お土産だい!」  カツヘイは、縋り付かれようとする手を、瑠璃子の手前、きまり悪そうに、払い退けながら、 「ああ分かっている、分かっている。後で、沢山やるからな。さあ! こちらへおいで。お前の新しいお母様が出来たのだからな。挨拶をするのだよ。」  カツヘイは、その若者を拉しながら先に立った。若者は、振り向き振り向き瑠璃子の顔をジロジロと珍らしそうに見詰めていた。  カツヘイは先に立って、自分の居間に通った。 「美奈子も、ここへおいで。」  彼は、娘を呼び寄せてから、改めて瑠璃子に挨拶させたあと、カツヘイはその見るからに傲岸な顔に、恥ずかしそうな表情を浮べながら、自分の息子を紹介した。 「これが儂の息子ですよ。ご覧のとおりの人間で、貴方にさぞ、ご面倒をかけるだろうと思いますが、ゼヒ、面倒を見てやっていただきたいのです。少し足りない人間ですが、悪気はありませんよ。極く単純で、こっちの言うことはかなり聴くのです。おい勝彦/ これが、お前のお母様だよ。さあさあ挨拶するのだ。」  勝彦は、瑠璃子の顔を、ジロジロと見詰めていたが、父にそう促されると/急に気が付いたように、 「お母様じゃないや。お母様は死んでしまったよ。お母様は、もっと汚い婆あだったよ。この人は綺麗だよ。この人は美奈ちゃんと同じように、綺麗だよ。お母様じゃないや、ねえそうだろう、美奈ちゃん。」彼は妹に同意を求めるように言った。妹は顔を、火のように赤くしながら、兄を制するように言った。 「お母様と申し上げるのでございますよ。お父様のお嫁になって下さるのでございますよ。」 「何んだ、お父様のお嫁/ お父様は、ずるいや。儂に、お嫁を取ってくれると言っていながら、取ってくれないんだもの。」  彼は、約束した菓子を貰えなかった子供のように、すねて見せた。  瑠璃子は、その白痴な息子の不平を聞くと、カツヘイが中途から、世間体を憚って、自分を息子の嫁にと、言い出したことを、思い出した。かねで以って、こんな白痴の妻──:否/弄び物に、自分をしようとしたのだと思うと、カツヘイに対する憎悪がまた新しく心の中に蒸し返された。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  勝彦と美奈子とが、彼等自身の部屋へ去った頃には、夜は十一時に近く、新郎新婦が新婚のトコに入るべき時刻は、刻々に迫っていた。  カツヘイは、さっきから全力を尽くして、瑠璃子の歓心を買おうとしていた。彼は、急に思い出したように、 「おお/そうそう、貴方に、マリエイジプレゼントとして、差し上げるものがありましたっけ。」  そう言いながら、彼は自分の背後に据え付けてある小型の金庫から、一束の証書を取り出した。 「貴方のお父様に対する債権の証文は、みんな蒐めた筈です。さあ、これをいま貴方に進上しますよ。」  彼は、その十五万円に近い証書の金額に、何の執着もないように、無造作に、瑠璃子の前に押しやった。  瑠璃子は、その一束を、チラリと見たが、さすがにその白いホオに、興奮の色が動いた。彼女は、ニサンプンの間、それを見るともなく見詰めていた。 「あの/マッチは、ございますまいか。」彼女は、いきなりそう訊いた。 「マッチ?」カツヘイは、瑠璃子の突然な言葉を解し得なかった。 「あの/マッチでございますの。」 「ああ/マッチ! マッチなら、いくらでもありますよ。」彼は、そう言いながら、身を反らして、そこのマンテルピースの上から、マッチの小箱を取って、瑠璃子の前へ置いた。 「マッチで、何をするのです。」カツヘイは不安らしく訊ねた。  瑠璃子は、その問いを無視したように、黙って椅子から立ち上がると、鉄盤で掩うてあるストーヴの前に/さっき三度目に着替えた江戸紫の金紗縮緬の袖を気にしながら、うずくまった。 「貴方、ガスが出ますかしら。」彼女は、そこで突然/カツヘイを、見上げながら、馴々しげな微笑を浴びせた。  初めて、貴方と呼ばれた嬉しさに、カツヘイはまた相好を崩しながら、 「出るとも、出るとも。ガスは止めてはない筈ですよ。」  カツヘイが、そう答え了らない裡に、瑠璃子の華奢な白い手の中にマッチは燃えて、迸り始めたガスに、軽い爆音を立てて、移っていた。  瑠璃子は、その火影に白い顔をほてらせて、暫く立っていたが、ふと身体をひるがえすと、テーブルの上にあった証書を、軽く無造作に、薪をでも投げるように、漸く燃え盛りかけた火の中に投じてしまった。  呆気に取られているカツヘイを、にっこりと振り向きながら、瑠璃子は言った。 「水に流すと言うことがございますね。わたくし達は、この証文を火で焼いたように、これまでのいろいろな感情の行き違いを、火に焼いてしまおうと思いますの‥‥ホホホホ:、火に焼く! そのほうがよろしゅうございますわ。」 「ああそうそう、火に焼く、そうだ、あとへ何も残さないと言うことだな。そりゃ結構だ。今までの事は、スッカリ無いものにして、お互いに信頼し/愛し合って行く。貴方が、その気でいてくれれば、こんな嬉しいことはない。」  そう言いながら、カツヘイは瑠璃子に最初の接吻をでも与えようとするように、その眸を異常に、輝かしながら、彼女のそばへ近寄って来た。  そう言う相手の気配を見ると、瑠璃子は何気ないように、元の椅子に帰りながら、端然たる様子に帰ってしまった。  その時に、ドアが開いた。 「あちらのご用意が出来ましたから。」  女中は、淑やかにそう言った。  絶体絶命の時が迫って来たのだ。 「じゃ、瑠璃さん! あちらへ行きましょう。/古風に盃事をやるそうですから、ハハハハハハ。」  カツヘイが、卑しい肉に飢えたケダモノのように笑ったとき、さすがに瑠璃子の顔は青ざめた。  が、彼女の態度は少しも乱れなかった。 「あの、ちょっと電話をかけたいと思いますの。父のその後の容体が気になりますから。」  それは、この場合/突然ではあるが、もっともな希望だった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「電話なら、女中にかけさせるがいい。おい唐沢さんへ‥‥。」  と、カツヘイが早くも、女中に命じようとするのを、瑠璃子は制した。 「いいえ! わたくしが自身で掛けたいと思いますの。」 「自身で、うむ、それなら、そこに卓上電話がある。」  と、言いながら、カツヘイは瑠璃子の後ろを指し示した。  いかにも、今まで気が付かなかったが、そこの小さいマホガニーのテーブルの上に、卓上電話が置かれていた。  瑠璃子は、淑やかに椅子から、身を起こしたとき、彼女の眉宇の間には、凄まじい決心の色が、アリアリと浮かんでいた。 「あのう。番町の二八九一番/」  瑠璃子は、送話器にその紅の色の美しい唇を、間近く寄せながら、低く呟くように言った。 「番町の二八九一番/」  そう繰り返しながら、送話器を持っている瑠璃子の白い手は、かすかにかすかに震えていた。彼女は暫くの間、耳を傾けながら待っていた。やっと相手が出たようだった。 「ああ/唐沢ですか。わたくし/瑠璃子なのよ、貴方は婆や。」  相手の言葉に聞き入るように、彼女は受話器にじっと、耳を押し付けた。 「そう。あなたの方から、電話を掛けるところだ-ったの。それは、ちょうどよかったのね。それでお父様のご容体は。」  そういい捨てると、彼女はまたじっと聞き入った。 「そう!‥‥それで‥‥入沢さんが、いらしったの!‥‥それで、なるほど‥‥。」  彼女は、短い言葉で受け答えをしながらも、その白いオモテは、だんだん深い憂慮に包まれて行った。 「えぃ! 重体/ 今夜じゅうが‥‥もっと、ハッキリと言って下さい! 聞えないから。なに、なに、お父様は帰って来てはいけないって! でもお医者は何と仰るの? えぃ! 呼んだほうがいいって! わたくし! どうしようかしら。ああああ。」  彼女は、もうスッカリ取り乱してしまったように、身を悶えた。 「どうしたのだ。どうしたのだ。」  カツヘイは、さすがに色を変えながら、瑠璃子のそばに、近づいた。 「あのう、お父様が、宅の玄関で二度目の卒倒を致しましてから、容体が急変してしまったようでございますの。わたくし/こうしてはおられませんわ。ねえ! ちょっと帰って来ましてもようございましょう。お願いでございますわ。ねえ貴方/」  瑠璃子は、涙に濡れたホオに、寂しい哀願の微笑を湛えた。 「ああ/いいとも、いいとも。お父様の大事には代えられない。すぐ自動車で行って、しっかり介抱して上げるのだ。」 「そう言って下さると、わたくし/本当に嬉しゅうございますわ。」  そう言いながら、瑠璃子はカツヘイに近づいて、肥った胸に、その美しい顔を埋ずめるような様子をした。カツヘイは、心の底から感激してしまった。 「ゆっくりと行っておいで、向こうへ行ったら、電話で容体を知らしてくれるのだよ。」 「すぐお知らせしますわ。でも、こちらから訊ねて下さると困りますのよ。父は、ショウダへは決して知らせてはならない。大切な結婚の当夜だから、死んでも知らしてはならないと申しているそうでございますから。」 「うむ/よしよし。じゃ、よく介抱して上げるのだよ。出来るだけの手当てをして上げるのだよ。」  自動車の用意は、すぐ整った。 「容体がよろしかったら、今晩中に帰って参りますわ。悪かったら、明日になりましてもごめんあそばしませ。」  瑠璃子は、自動車の窓から、親しそうにカツヘイを見返った。 「もう遅いから、今宵は帰って-こなくってもいいよ。明日は、儂が様子を見に行って上げるから。」  カツヘイは、もういつの間にか、親切な溺愛する夫になり切ってしまっていた。 「そう。それは有難うございますわ。」  彼女は、爽やかな声を残しながら、戸外の闇に滑り入った。が、自動車が英国大使館前の桜並木のコノシタ闇を縫うている時だった。彼女のオモテには、父の危篤を憂うるような表情は、痕も-とどめていなかった。人を思うとおりに、弄んだウィッチの顔に見るような、必死な薄笑いが、その高貴なオモテに宿っていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第12話】 【護りの騎士】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  名ばかりの妻、これは瑠璃子が最初考えていたように、生易しいことではなかった。彼女は、自分の操を守るために、あらゆる手段と謀計とを廻らさねばならなかった。  結婚後暫くは、父の容体を口実に、瑠璃子はショウダの家に帰って行かなかった。カツヘイは毎日のように、瑠璃子を訪れた。日に依っては、午前午後の二回に、この花嫁の顔を見ねば気が済まぬらしかった。  彼は訪問のたび毎に、瑠璃子の歓心を買うために、高価な贈り物を用意することを、忘れなかった。  それが、ある時はダイヤ入りの指輪だった。ある時は、プラチナの腕時計だった。ある時は、真珠の首飾りだった。瑠璃子は、そうした贈り物を、子供が玩具を貰うときのように、無邪気に/なんの感謝なしに受け取った。  が、父の容体を口実に、いつまでも、実家に-とどまることは、許されなかった。それは、事情が許さないばかりでなく、彼女の自尊心が許さなかった。敵を避けていることが、勝気な彼女に心苦しかった。もっと、身体を危険に晒して勇ましく戦わなければならぬと思った。形式的にでも、結婚した以上、カタチの上だけでは飽くまでも、妻らしくしなければならないと思った。敵の卑怯に報いるに卑怯を以ってしてはならない。こちらは、飽くまでも、正々堂々と戦って勝たねばならない。そう思いながら、彼女はカツヘイが迎えの自動車に同乗した。  久しぶりに、瑠璃子と同乗した嬉しさに、カツヘイは訳もなく笑い崩れながら、 「アハハハハハ。そんなに、お里を恋しがらなくてもいいよ。親ひとり仔ひとりのお父様に別れるのは寂しいだろう。が、何も心配することはないよ。儂を恐がらなくってもいいよ。儂だって、こんな顔をしているが、お前さんを取って喰おうと言うのじゃないよ。娘/ そうだ、美奈子に新しい姉が出来たと思って、可愛がって上げようと思うのだ。アハハハハハ。」と、カツヘイはどうかして、瑠璃子の警戒を解こうとして、心にもないことを言った。  カツヘイの言葉を聴くと、今まで捗々しい返事もしなかった瑠璃子は、甦えったように、快活な調子で言った。 「オホホホ、本当に、娘にして下さるの、わたくしのお父様になって下さるの! わたくし/本当にそうお願いしたいのよ。本当のお父様になっていただきたいのよ。」  そう言いながら、彼女は-こぼるるような嬌羞を、そのしなやかな体’一面に湛えた。 「ああ、いいとも、いいとも。」カツヘイは、人の好い本当のテテオヤのように頷いて見せた。 「ホホホホ、それは嬉しゅうございますわ、本当に、わたくしを娘にして下さいませ。それも、ほんの少しの間ですの。お約束しますわ。半年、本当に半年でいいのよ。でも、そうじゃございませんか。わたくし、まだトシヨワの十八でございましょう。学校を出てから、まだ半年にしかなりませんのですもの。それに、今度の話でございましょう、それに、いろいろな事件で、興奮して、まだその興奮が続いているのでございましょう。結婚生活に対する-なんの準備も出来なかったのでございますもの。貴方の本当の妻になるのには、もう少し心の準備が欲しいと思いますの。貴方に対する愛情と信頼とを、もっと心の中で、準備したいと思いますの。だから、暫くの間、本当に美奈子さんの姉にして置いて下さいませ。『源氏物語』に、末摘花と言うのがございましょう。あれでございますの。」  そう言いながら、瑠璃子はにっこりと笑った。カツヘイは、妖術にでもかかったように、ぼんやりと相手の美しい唇を見詰めていた。瑠璃子は相手を人とも思わないように傍若無人だった。 「ねえ! お父様/ わたくしの可愛いお父様/ そうして下さいませ。」  そう言いながら、彼女はそのスラリとした身体を、カツヘイにしなだれるように、寄せかけながら、その白い手を、カツヘイの膝の上に置いて静かに軽く叩いた。  瑠璃子の乙女の如く慎しく/娼婦の如く大胆な媚態に、心を奪われてしまったカツヘイは、自分の答えがどう言うことを約束しているかも考えずに答えた。 「ああ/いいとも、いいとも。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  カツヘイは心の裡で思った。どうせ籠の中に入れた鳥である。そのうちには、自分の強い男性としての力で征服して見せる。男性の強い腕の力には、全ての女性は、何時の間にか、掴み潰されているのだ。彼女も、しばらくの間、自分の掌中で、小鳥らしい自由を楽しむがいい。その裡に、男性の腕の力がどんなに信頼すべきかが、だんだん分かって来るだろう。  カツヘイはそうした余裕のある心持ちで、瑠璃子の請いを容れた。  が、それがカツヘイの違算であったことが、すぐ判った。十日経ちハツカ経つ裡に、瑠璃子の美しさはカツヘイの心を、ヒにヨについで悩した。若い新鮮な女性の肉体から出る匂いが/カツヘイの旺盛な肉体の、あらゆる感覚を刺戟せずにはいなかった。  その夜も、カツヘイは若い妻を、帝劇に伴った。彼はボックスの中に瑠璃子と並んで、席を占めながら/眼は舞台の方から、しばしば帰って来て:、愛妻の白い美しい襟足から、そのほっそりとした撫肩を-つとうて、膝の上に、慎しやかに置かれた手や、その手を載せているふくよかな、両膝を、貪るように見詰めていた。彼は、こうして妻と並んでいると、身も心も溶けてしまうような陶酔を感じた。そうした陶酔の覚め際に、彼の激しい情火が、ムラムラと彼の身体全体を、嵐のように包むのだった。  瑠璃子は、カツヘイのそうした悩みなどを、少しも気が付かないように、雲雀のように快活だった。彼女は、カツヘイとの感情の経緯を、もうスッカリ忘れてしまったように、本当の娘にでも、なりきったように、カツヘイに甘えるように纏わっていた。 「おい瑠璃さん。もう、お父様ごっこも大抵にしてよそうじゃないか、貴方も、少しは私が判っただろう。ハハハハハ。約束の半年をひと月とかフタツキとかに、縮めて貰えないものかねえ!」  カツヘイは、その夜/自動車での帰途、冗談のように、妻の柔かい肩を軽く叩きながら、囁いた。 「まあ! 貴方も、せっかちですのねえ。わたくし達には許嫁時代というものが、なかったのですもの。もっと、こうして楽しみたいと思いますもの。何かが来ると言うことのほうが、何かが来たと言うことよりも、どんなに楽しいか。それにわたくし/本当はもっと処女でいたいのよ。ねえ、いいでしょう。わたくしの我儘を、許して下さってもいいでしょう!」  そう言う言葉と様子とには、溢れるような媚びがあった。そうした言葉を、聴いていると、カツヘイは、タジタジとなってしまって、一言でも逆うことは出来なかった。  が、その夜、カツヘイは自分一人寝室に入ってからも、若い妻のすべてが、彼の眼にも、鼻にも、耳にもこびり付いて離れなかった。眼の中には、彼女の柔らかい白い肉体が、人魚のように、艶めかしい媚態を作って、いつまでもいつまでも、浮かんでいた。鼻には、彼女の肉体の持っている芳香が、ほのぼのといつまでも、漂っていた。耳には、そうだ! 彼女の快活な湿りのある声や、機智に富んだ言葉などが、いつまでもいつまでも消えなかった。  彼は、そうした妄想を去って、どうかして、眠りを得ようとした。が、彼が努力すれば努力するほど、眼も耳も冴えてしまった。おしまいには、見上げて居る天井に、幾つも幾つも妻の顔が、現れて、媚びのある微笑を送った。 『彼女は、ただ恥かしがっているのだ。乙女としての恥かしさに過ぎないのだ。それは、こちらから取り去ってやればそれでいいのだ!』  彼は、そう思い出すと、一刻も自分のベッドにじっと、身体を落ち着けていることが出来なかった。子供らしい乙女らしい恥らいを、そのままに受け入れていた自分が、あまりにお人好しのように思われ始めた。  彼は、フラフラとして、ベッドを離れて、夜更けの廊下へ出た。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  廊下へ出て見ると、カジン達はみんな寝静まっていた。まだ10月の半ばではあったが、広い洋館の内部には、深夜の冷気が、ひやひやと、流れていた。が、激しい情火に狂っているカツヘイの身体には、夜の-つめたさも感じられなかった。彼は、自分の家の中を、ヌスビトのように、忍びやかに、夢遊病者のように覚束なく、瑠璃子の部屋の方向へ歩いた。  彼女の部屋は、階下に在った。廊下の燈火は、大抵’消されていたが、階段に取り付けられている電灯が、階上’にも階下にも、ほのかな光を送っていた。  カツヘイは、彼女に与えた約束を男らしくもなく、取り消すことが心苦しかった。彼女に示すべき自分の美点は、男らしいと言う事より、ほかには何もない。彼女の信頼を得るように、男らしく強く堂々と、行動しなければならない。それが、彼女の愛を得る唯一の方法だとカツヘイは心の中で思っていた。それだのに、彼女に一旦与えた約束を、取り消す。男らしくもなく破約する。が、そうした心苦しさも、カツヘイの身体全体に、いまウシオのように漲って来る激しい慾望を、どうすることも出来なかった。  階段を-おりて、左へ行くと応接室があった。右へ行くと美奈子の部屋があり、その部屋と並んで瑠璃子に与えた部屋があった。  瑠璃子の部屋に近づくに従って、カツヘイの心には激しい動揺があった。それは、年若い少年が/初めて恋人の唇を知ろうとする刹那のような、激しい興奮だった。彼は、そうした興奮を抑えて、じっと瑠璃子の部屋へ忍び寄ろうとした。  ちょうど、その時に、カツヘイは吾を忘れて『アッ』と叫び声を挙げようとした。それは、今’彼が近づこうとしたそのドアに、一人の人間が/紛れもない一人の男性が、ピッタリと身体を寄せていたからである。冷たい-悪寒が、カツヘイの身体を流れて、爪の先までをも震わせた。彼は、電気に掛けられたように廊下の真ん中へ’立ち竦んでしまった。  が、相手はカツヘイの近づくのを知っている筈だのに、ピクリとも身体を動かさなかった。ドアに-ほり付けられている木像か何かのように、闇の中にじっと立ち尽しているようだった。 『泥棒/』最初カツヘイは、そう叫ぼうかとさえ思ったが、彼の四十男に相当した冷静が/彼の口を制したが、その次に、ムラムラと彼の心を閉したものは、漠然たる嫉妬だった。一人の男性が、妻の寝室のドアの前に立っている。それだけで、カツヘイの心を狂わすのに充分だった。  彼は、握りしめた拳を、顫わしながら、必死になって、一歩一歩ドアに近づいた。が、相手はキミの悪いほど、冷静にピクリとも動かない。カツヘイが、最後の勇気を鼓して、相手の胸倉を掴みながら、低く、 「誰だ!」と、叱した時、相手はカツヘイの顔を見て、ニヤリと笑った。それは紛れもなく勝彦だったのである。  自分の子の卑しい笑い顔を見たときに、剛愎なカツヘイも、ガンと鉄槌で殴られたように思った。言い現し方もないような不快な、あさましいと言った感じが、彼’の胸の裡に一杯になった。自分の子があさましかった。が、あさましいのは、自分の子だけではなかった。もっと、あさましいのは、自分自身であったのだ。 「お前/ 何をしているのだ! ここで。」  カツヘイは、低くうめくように訊いた。が、それは勝彦に訊いているのではなく、自分自身に訊いているようにも思われた。  勝彦は、離れの日本マのほうで寝ている筈なのだ。が、それがもう夜の二時過ぎであるのに、瑠璃子の部屋の前に立っている。それは、カツヘイに取っては、たえられないほど、不快なあさましい想像の種だった。 「何をしているのだ! こんなところで。こんなに遅く。」いつもは、馬鹿な息子に対し/かなり寛大である父であったが、今宵に限っては、彼は息子に対してかなり激しい憎悪を感じたのである。 「何をしていたのだ! おい!」  カツヘイは、鋭い眼で勝彦を睨みながら、その肩の所を、グイと小突いた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「ここに何をしていたのだ、ここに!」  父が、必死になって責め付けているのにも拘らず、勝彦はただニヤリニヤリと、たわいもなく笑い続けた。薄キミのわるいとりとめもなき子の笑いが、ちょうど自分の恥ずかしい行為を、嘲笑っているかのように、カツヘイには思われた。  彼は、瑠璃子や”また、すぐ次のドアの裡に眠っている美奈子の夢を破らないようにと、気を付けながらも、声がだんだん激しくなって行くのを抑えることが出来なかった。 「おい! こんなに遅く、ここに何をしていたのだ。おい!」  そう言いながら、カツヘイは再び/子の肩を突いた。父にそう突き込まれると、白痴相当に、勝彦は顔を赤らめて、口ごもりながら言った。 「姉さんの所へ来たのだ。姉さんの所へ来たのだ。」姉さん、勝彦はこの頃、瑠璃子をそう呼びならっていた。 「姉さん! 姉さんの所へ!」  カツヘイは、そう言いながらも、自分自身/地の中へ、入ってしまいたいような、浅ましさと恥しさとを感じた。が、それと同時に、韮を噛むような嫉妬が、ホンの僅かではあるが、心の裡に萌して来るのを、どうすることも出来なかった。が、父のそうした心持ちを、嘲るように、勝彦はまたニタリニタリと愚かな笑いを、笑いつづけている。 「姉さんの所へ何をしに来たのだ。なんの用があって来たのだ。こんなに夜遅く。」  カツヘイは、心の中の不愉快さを、じっと抑えながら、訊く所まで、訊き質さずには-いられなかった。 「何も用はない。ただ顔を見たいのだ。」  勝彦は、平然と/それが普通な/当然な事ででもあるように言った。 「顔を見たい!」  カツヘイは、そう口では言ったものの、眼が-くらむように思った。他人は、誰も居合わさない場所ではあったが、自分の顔を、両手で掩い隠したいとさえ思った。  彼は、もうこの上、勝彦に言葉を掛ける勇気もなかった。が、今にして、息子のこうした’心を、刈り取って置かないと、どんな恐ろしい事が起こるかも知れないと思った。彼は不快と恥しさとを制しながら言った。 「おい! 勝彦/これから、夜中などに、お姉さんの部屋へなんか来たら、いけないぞ! 二度とこんな事があると、お父様が承知しないぞ!」  そう言いながら、カツヘイは、わが子を、恐ろしい眼で睨んだ。が、子はケロリとして言った。 「だって、お姉さまは、来てもかまわない/ と言ったよ。」カツヘイは、頭からガンと殴られたように思った。 「来てもかまわない! いつ、そんな事を言った? いつそんなことを言った?」  カツヘイは、思わず普段の大声を出してしまった。 「いつって、いつでも言っている。部屋の前になら、いつまで立っていてもいいって、番兵になってくれるのならいいって!」 「じゃ、お前は今夜だけじゃないのか。馬鹿な奴め! 馬鹿な奴め!」  そう言いながらも、カツヘイは子に対して、かなり激しい嫉妬を-いだかずには-いられなかった。  それと同時に、瑠璃子に対しても、恨みに似た激しい感情を持たずには-いられなかった。 「そんな事を’姉さんが言った! 馬鹿な! 瑠璃子に訊いて見よう。」  彼は、息子を押し退けながら、その後ろのドアを、右の手で開けようとした。が、それは釘付けにでもされたように、ピタリとして、少しも動かなかった。彼は声を出して、叫ぼうとした。  その途端に、ガタリとドアが開く音がした。が、開いたのはそのドアではなくして、美奈子の寝室のドアであった。  純白の寝巻を付けた少女はまろぶように、父のそばに走り寄った。 「お父様/ 何と言うことでございます。何も言わないで、お休みなさいませ。お願いでございます。お姉様にこんなところを見せては親子の恥ではございませんか。」  美奈子の心からの叫びに、打たれたように、カツヘイは黙ってしまった。  勝彦は、相変らず、ニヤリニヤリと妹の顔を見て笑っていた。  この時、ドアのあなたのベッドの上に、夢を破られた女は、親子の間の浅ましい葛藤を、聞くともなく耳にすると:、その美しい顔に、凄い微笑を浮べると、雪のような羽根ブトンをまた再びふかぶかと、被った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  自分の寝室へ帰って来てからも、カツヘイは悶々として、眠られぬ一夜を過してしまった。恋する者の心が、競争者の出現に依って、焦り出すように、カツヘイの心も、今までの落ち着き、冷静、剛愎の全てを無くしてしまった。競争者、それが何と言う堪らない競争者であろう。それが自分の肉親の子である。肉親の父と子が、一人の女を巡って争っている。親が女の許へ忍ぶと/子が先回りしている。それは、カツヘイのような-かねのほかには、物質のほかには、何物をも認めないような/堕落した人格者に取っても堪らないほどあさましいことだった。  もし、勝彦が普通の頭脳があり、道義の何物かを知っていれば、罵り辱めて、反省させることも容易なことであるかも知れない。(もっとも、カツヘイに自分の息子の不道徳を責め得る資格があるかどうかは疑問であった。)が、勝彦は盲目的な本能と/烈しい慾望のほかは、何も持っていない男である。相手が父の妻であろうが、何であろうが、ただ美しい女としか映らない男である。それに人並外れたゴウリキを持っている彼は、どんな乱暴をするかも分からなかった。  その上に、カツヘイは自分の失言に対する苦い記憶があった。彼は、一時瑠璃子を勝彦の妻にと思ったとき、その事を冗談のように勝彦に、言い聴かせたことがある。何事をも、すぐ忘れてしまう勝彦ではあったが、事柄が事柄であっただけに、その愚かな頭のどこかにこびり付かせているかも知れない。そう考えると、カツヘイの頭は、いよいよ重苦しく濁ってしまった。 『そうだ! 勝彦を遠ざけよう。葉山の別荘へでも追いやろう。何とか賺して、東京を遠ざけよう。』カツヘイはわが子に対して、そうした隠謀をさえ考え始めていた。  興奮と煩悶とに労れたカツヘイの頭も、四時を打つ時計の音を聴いたあとは、いつしか朦朧としてしまって、寝苦しい眠りに落ちていた。  眼が覚めた時、それはもう九時を回っていた。朗かな10月の朝であった。青い紗のカーテンを透かした明るい日の光が、部屋中に快い明るさを湛えた。  朝の爽やかな心持ちに、カツヘイは昨夜の不愉快な出来事を忘れていた。膨大な身体を、ベッドから、ムクムクと起すと、上草履を突っかけて、朝の快い空気に吸い付けられたように、ヴェランダに出た。彼は自分の宏大な、広々と延びている庭園を見ながら、両手を高く拡げて、快い欠伸をした。が、彼が拡げた両手を下ろした時だった。十間ばかり離れた若い楓の植込みの中を、泉水のホウへ降りて行く勝彦の姿を見た。彼に似て、膨大な立派な体格だった。が、歩いて行くのは勝彦一人ではなかった。勝彦の大きい身体の蔭から、ときどきちらちら美しい色彩の着物が、見えた。カツヘイは、最初、それが美奈子であることを信じた。勝彦は白痴ではあったが、美奈子だけには、やさしい大人しい兄だった。カツヘイはいつもの通り兄妹の散歩であると思っていた。が、植込みの中の道が右に折れ、カツヘイの視線と一直線になったとき、その男女は相並んで、後ろ姿をカツヘイに見せた。女は紛れもなき瑠璃子だった。しかも彼女の白い、遠目にも、くっきりと白い手は、勝彦の肩、そうだ、肩よりも少し低い所へ、そっと後ろから当てられているのだった。  それを見たとき、カツヘイは煮えたぎっている湯を、飲まされたような、凄じい気持ちになっていた。ニヤリニヤリと悦に入っているらしいわが子の顔が、アリアリと目に見えるように思った。彼は、ヴェランダから飛び降りて、わが子の顔を/思うさま、殴り付けてやりたいような恐ろしい衝動を感じた。  が、それにも増して、瑠璃子の心持ちが、グッと胸に-こたえて来た。夕べの騒ぎを知らぬ筈がない、親子の間の、浅ましいシーンを知らぬ筈がない。隣の部屋の美奈子さえ、眼を覚ましているのに、瑠璃子が知らない筈はない。知っていながら、夕べの今日’勝彦をあんなに近づけている。  そう思うと、カツヘイは、瑠璃子の敵意を感ぜずには-いられなかった。そうだ! 自分が小娘として、つまらない油断や、約束をしたのが悪かったのだ。言わば降伏した敵将の娘を、妻にしているようなものである。美しい顔の下に、どんな害心をゾウしているかも知れない。  が、そう警戒’は-しながら、瑠璃子を愛する心は、少しも減じなかった。それと同時に、目の前のシーンに対する嫉妬の心は少しも減じなかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  カツヘイが、ヴェランダの欄干に、釘付けにされながら、二人の後ろ姿が全く見えなくなった若い楓の林を、じっと見詰めている時に、その’林の向こうにある泉水の畔から、瑠璃子の華やかな笑いが手に取るように聞えて来た。  それは、雲雀の歌うように、自由な快活な笑いだった。結婚して以来、もうひと月’以上の日が経つ内、カツヘイに対しては決して笑ったことのないような/自由な快活な笑い声であった。ここからは見えない泉水のほとりで、たとい馬鹿ではあるにしろ年齢だけは若い、身体だけは堂々と立派な勝彦が、瑠璃子と相並んで、打ち興じている有様が、カツヘイの眼に、マザマザと映って来るのであった。  彼は苦々しげに、二人に向かってでも吐くように、唾を遥かな地上へ吐いてから、その太い眉に、深い決心の色を-こめながら、階下へ降りて行った。  カツヘイは、抑え切れない不快な心持ちに、悩まされつつ、罪のない召使いを、叱り飛ばしながら、漸く顔を洗ってしまうと、苦り切った顔をして、朝の食卓に就いた。いつも朝食を一緒にする筈の瑠璃子はまだ庭園から、帰って来なかった。 「奥さんはどうしたのだ。奥さんは!」カツヘイは、オドオドしている十ゴロクの小間使いを、噛み付けるように叱り飛した。 「お庭でございます。」 「庭から、早く帰って来るように言って来るのだ。儂が起きているじゃないか。」 「ハイ。」小さい小間使いは、カツヘイの凄まじい様子に、縮み上がりながら、瑠璃子を呼びに出て行った。  瑠璃子が、入って-くれば、この押え切れない憤りを、彼女に対しても、洩そう。白痴の子を弄んでいるような、彼女の不謹慎を思い切り責めてやろう。カツヘイはそう決心しながら、瑠璃子が入って来るのを待っていた。  ニサンプンも経たない裡に、衣ずれの音が、廊下にしたかと思うと、瑠璃子は少女のようにいそいそと快活に、駆け込んで来た。 「まあ! お早う! もう起きていらしったの。わたくし/ちっとも、知らなかったのよ。お寝坊の貴方の事だから、どうせ十一時近くまでは大丈夫だと思っていたのよ。夕べ/あんなに遅く帰って来たのに、よくまあ早くお目覚めになったこと。この花’美しいでしょう。一番大きくて、一番色の激しい花なのよ。わたくしこれが大好き。」  そう言いながら、瑠璃子は右の手に折りもっていた、真紅の大輪のダリヤを、テーブルの上の一輪挿しに投げ入れた。  カツヘイは、どうかして瑠璃子をたしなめようと思いながらも、彼女の快活な言葉と、矢継早の微笑に、面と向かうと、彼は我にもあらず、全ての言葉が咽喉のところに、からんでしまうように思った。 「昨夜、よくお眠りになって? わたくし/芝居で疲れましたでしょう、今朝まで、グッスリと寝入ってしまいましたのよ。こんなに、よく眠られたことはありませんわ、近頃。」  昨ヤの騒ぎを、親子三人のあさましい騒ぎを、知っているのか知らないのか、瑠璃子はその美しい顔の筋肉を、一筋も動かさずに、華奢な指先で、軽く箸を動かしながら、カツヘイに話しかけた。  カツヘイは、心の裡に、わだかまっている気持ちを、瑠璃子に向かって、洩すべき糸口を見い出すのに苦しんだ。相手が、昨夜の騒ぎを、少しも知らないと言うのに、それを材料として、話を進めることも出来なかった。  彼は、瑠璃子には、一言も答えないで、そのいらいらしい気持ちを示すように、自棄に-せわしく箸を動かしていた。  カツヘイの不機嫌を、瑠璃子は少しも気に止めていないように、平然と、その美しい微笑を続けながら、 「わたくし、今日’三越へ行きたいと思いますの。連れて行って下さらない?」  彼女は、プリプリしているカツヘイに、なお小娘か何かのように、甘えかかった。 「駄目です。今日は東洋造船の臨時総会だから。」  カツヘイは、瑠璃子に対して、初めて荒々しい言葉を使った。彼女はその荒々しい語気を跳ね返すように言った。 「あら、そう。それでは、勝彦さんに一緒に行っていただくわ。‥‥いいでしょう。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  勝彦の名が瑠璃子の唇を洩れると、カツヘイの大きい顔は、ますます苦り切ってしまった。  相手のそうした表情を少しも眼中に置かないように、瑠璃子は無邪気にしつこく言った。 「勝彦さんに、連れて行っていただいたらいけませんの。一人だと何だか心細いのですもの。わたくし一人だと買い物をするのに何だか決まりが付かなくって困りますのよ。ウワベだけでもいいから/いいとか何とか合槌を打って下さる方が欲しいのよ。」 「それなら、美奈子と一緒にいらっしゃい。」  カツヘイは、怒った牡牛のようにプリプリしながら、それでも正面から瑠璃子をたしなめることが出来なかった。 「美奈子さん。だって、美奈子さんは、三時過ぎでなければ学校から、帰って来ないのですもの。それから支度をしていては、遅くなってしまいますわ。」  瑠璃子は、大きい駄々っ子のような表情を見せながら、そのくせ顔だけは、微笑を絶たなかった。カツヘイはまた黙ってしまった。瑠璃子は追撃するように言った。 「どうして勝彦さんに一緒に行っていただいては、いけませんの。」  カツヘイの顔色は、咄嗟に変わった。その顳顬の筋肉が、ピクピク動いたかと思うと、彼は震える手で箸を降ろしながら、それでも声だけは、平静な声を出そうと努めた-らしかったが、変に上ずッてしまっていた。 「勝彦/ 勝彦勝彦と、貴方はよく口にするが、貴方は勝彦を一体なんだと思っているのです。もう、ひと月’以上この家にいるのだから、気が付いたでしょう。親の身として、口にするさえ恥ずかしいが、あれは白痴ですよ。白痴も白痴も、ご覧の通り/東西も弁じない白痴ですよ。ああ言う者を三越に連れて行く。それはこのショウダの恥、ショウダ一家の恥を、世間へ広告して歩くようなものですよ。貴方も、動機は兎も角、一旦この家の人となった以上、こう言う-馬鹿息子があると言うことを、広告して下さらなくってもいいじゃありませんか。」  カツヘイは、結婚して以来、初めて荒々しい言葉を、瑠璃子に対して吐いた。が、象牙の箸を飯椀の中に止めたまま、じっと聴いていた瑠璃子は、眉一つさえ動かさなかった。カツヘイの言葉が終わると、彼女は驚いたように、眼を丸くしながら、 「まあ! あんなことを。そんな邪推していらっしゃるの。わたくし/勝彦さんを馬鹿だとか白痴だとか賤しめたことは、一度もありませんわ。あんな無邪気な純な方はありませんわ。それは、少し足りないことは足りないわ。それは、お父様の前でも申し上げねばなりません。でも、あんなに正直な方に、わたくし/初めてお目にかかりましたのよ。それにわたくしの言ったことなら、何でもして下さるのですもの。このあいだ、お家が広いので、夜’寝室の中に、一人いると何だか寂しく心細くなると、申しますと、勝彦さんは、それなら毎晩/部屋の外で番をしてやろうと仰るのですよ:、わたくし/冗談だとばかり、思っていますと、”一昨夜’二時過ぎに、廊下に人の気配がするので、ドアを開けて見ますと、勝彦さんが立っていらっしゃるじゃありませんか。それが、ちょうどチュウ世紀のナイトが、貴婦人を護る時のように、儼然として立っていらっしゃるのですもの。わたくし/可笑しくもあれば、有難くも思ったわ。わたくしこの頃、智恵のある怜悧な方には、飽き飽きしていますの。また、その智恵を、人を苦しめたり陥れたりする事に使う人達に、飽き飽きしていますのよ。また、人が傷つけ合ったり陥れ合ったりする世間その物にも、愛想が尽きていますのよ。わたくし、勝彦さんのような、のんびりとした太古の心で、生きている方が、大好きになりましたのよ。貴方の前でございますが、どうして勝彦さんを捨てて、貴方を選んだかと思うと、後悔していますのよ。オホホホホホホ。」  爽やかなサツキの流れが、蒼い野を走るように、瑠璃子は雄弁だった。黙って聴いていたカツヘイの顔は、怒りと嫉妬のために、黒ずんで見えた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第13話】 【余りに脆き】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  カツヘイは、冗談かそれとも真面目かは分からないが、人を馬鹿にしているように、からかっているように、勝彦を賞める瑠璃子の言葉を聞いていると、思わずカッとなってしまって:、手に持っている茶碗や箸を、彼女に投げつけてやりたいような/烈しい嫉妬と怒りとを感じた。が、口先ではそんな厭がらせを言いながらも、顔だけはこのごろの秋の空のように、澄みわたった麗かな瑠璃子を見ていると、不思議に手が竦んで、茶碗を投げ付くることは愚か、一指を-ふるることさえも、為し得なかった。  が、カツヘイは心の中で思った。このままにして置けば、瑠璃子と勝彦とは、日増に親しくなって行くに違いない。そして自分を苦しめるのに違いない。少くとも、当分の間、自分と瑠璃子とが本当の夫婦となるまで、どうしても二人を引き離して置く必要がある。カツヘイは、咄嗟にそう考えた。 「アハハハハハ。」彼は突然’取って付けたように笑い出した。「まあいい! 貴方がそんなに馬鹿が好きなら連れて行くもよかろう。貴方のようなのは、天邪鬼と言うのだ。アハハハハハ。」  カツヘイは、嫉妬とフンヌとを心の底へと、押し込みながら、何気ないように笑った。 「どうも、有難う。やっと、お許しが出ましたのね。」瑠璃子も、サラリと何事もなかったように微笑’した。  その時に、カツヘイは急に思い付いたように言った。 「そうそう。貴方に話すのを忘れていた。このあいだじゅう頭が重いので、一昨日、近藤に診て貰うと、神経衰弱のキミらしいと言うのだ。海岸へ’でも行って、少し静養したらどうだと言うのだがね、そう言われると、儂もこの七月以来/会社の創立や何かで、毎日のように飛び回っていたものだからね:、精力主義の儂もかなりグダグダになっているのだ。神経衰弱だなんて、大したこともあるまいと思うが、まあ暫く葉山へでも行って、ひと月ばかり遊んで来ようかと思うのだ。もっとも、彼処からじゃ、毎日東京に-かよっても訳はないからね。それに就いては、是非貴方に一緒に行っていただきたいと思うのだがね。」カツヘイは、熱心に、退引ならないように瑠璃子に言った。 「葉山へ!」と言ったまま、さすがに彼女は二の句を言い淀んだ。 「そうです! 葉山です。彼処に、林子爵が持っていた別荘を、この春’譲って貰ったのだが、この夏美奈子が避暑に行っただけで、儂はまだ二’三度しか泊まっていないのだ。秋のほうが、静かでよいそうだから、ゆっくり滞在したいと思うのだが。」  カツヘイは、落ち着いた口調で言った。葉山へ行くことは、何の意味もないように言った。が、瑠璃子には、その言葉の奥に潜んでいるカツヘイのよからぬ意思を、明らかに読み取ることが出来た。葉山で二人だけになる。それがどう言う結果になるかは瑠璃子にはかなりハッキリ分かるように思った。が、彼女はそうした危機を、未然に-さくることを、潔しとしなかった。どんな危機に陥っても、自分自身を立派に守って見せる。彼女には、女ながらそうした激しい最初の意気が、ピクリとも揺らいでいなかった。 「結構でございますわ、わたくしも、そんな所で静かな生活を送るのが大好きでございますのよ。」  彼女は、その清麗なオモテに、少しの曇も見せないで、爽やかに答えた。 「ああ/行ってくれるのか。それは有難い。」  カツヘイは、心から嬉しそうにそう言った。葉山へさえ、伴って行けば、当分’勝彦と引き離すことが出来る上に、そこでは召使いを除いたほかは、瑠璃子と二人きりの生活である。殊に、鍵のかかり得るような西洋室はない。瑠璃子を肉体的に支配してしまえば、たかが一個の少女である。普通の乙女がどんなに嫌い抜いていても、結婚してしまえば、男の腕に縋り付くように、彼女も一旦その肉体を征服してしまえば、余りに脆き一個の女性であるかも知れない。カツヘイはそう思った。 「それならちょうどようございますわ。三越へ行って、あちらで入り用な品物を揃えて参りますわ。」  彼女は、身に迫る危険な場合を、少しも意に介しないように、寧ろいそいそとしながら言った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  愛し合った夫であるならば、それは楽しい新婚旅行である筈だけれども、瑠璃子の場合は、そうではなかった。カツヘイと二人きりで、東京を離れることは、彼女に取っては死地に入ることであった。東京の屋敷では、人目が多いだけに、カツヘイも一旦与えた約束の手前、理不尽な振舞に出ることは出来なかったが、葉山では事情が違っていた。今までは敵と戦うのに、地の利を得ていた。小さいながらも、彼女の城廓があった。殊に盲目的に、彼女を護っている勝彦と言う番兵もあった。が、葉山には、何もなかった。彼女は赤手にして、敵と渡り合わねばならなかった。勝敗は、天に任せて、とにかくに、最後の必死的な戦いを、戦わねばならなかった。  そうした不安な期待に、心を乱されながらも、彼女はいろいろと、別荘生活に必要な準備を整えた。彼女は、当座の着替えや化粧道具などを、一杯に詰め込んだ大きなトランクの底深く、ひと振りの短剣を-いれることを忘れなかった。それが、夫と二人きりの別荘生活に対する第一の準備だった。  父の男爵が、瑠璃子の激しい/執拗な希望に、とうとう動かされて、不承ブショウに結婚の承諾を与えて、最愛の娘を、憎み賤しんでいた男に渡すとき、男爵は娘に最後の贈り物として、ひと振りの短剣を手渡した。 「これは、お前のお母様が家へ来るときに持って来た守り刀なのだ。昔の女は、常に懐刀を離さずに、それで自分の操を守ったものだ。貴方も普通の結婚をするのなら、こんなものは不用だが、今度のような結婚には、是非必要かも知れない。これで、貴方の現在の決心を、しっかりと守るようになさい。」  父の言葉は簡単だった。が、意味は深かった。彼女はそのア-イクチを身辺から離さないで、最後の最後の用意としていた。そうした最後の用意が、いかなる場合にも、彼女を勇気付けた。牡牛のように大きいカツヘイと相対していながら、彼女は一度だって、怯れたことはなかった。  瑠璃子が暫く東京を離れると言うことが分かると、一番に驚いたのは勝彦だった。彼は瑠璃子が準備をし始めると、自分も一緒に行くのだと言って、父の大きいトランクを引っ張り出して来て、自分の着物や持ち物を滅茶苦茶に詰め込んだ。おしまいには、自分の使っている洗面器までも、詰め込んで召使い達を笑わせた。彼は、瑠璃子に捨てて置かれないようにと、一瞬の間も瑠璃子を見失わないようにあとへ後へと付き纏った。  それを見ると、カツヘイは眉を顰めずには-いられなかった。  出立の朝だった。自分が捨てて置かれると言うことが分かると、勝彦は狂人のように暴れだした。毎年一度か二度は、発作的に狂人のようになってしまう彼だった。彼は瑠璃子と父とが自動車に乗るのを見ると、自分も裸足で駆け降りて来ながら、ドアを無理矢理に開けようとした。執事や書生がサンヨニンで抱き止めようとしたが、馬鹿力の強い彼は、後ろから抱き付こうとする男を、二’三人もそこへ振り飛ばしながら、自動車に縋り付いて離れなかった。  白痴でありながらも、必死になっている顔色を見ると、瑠璃子はかなり心を動かされた。主人に慕い纏わって来る動物に対するようないじらしさを、この無智な勝彦に対して、いだかずには-いられなかった。 「あんなに行きたがっていらっしゃるのですもの。連れて行って上げてはいけないのですか。」  瑠璃子は夫を振り返りながら言った。その微笑が、ちょっと皮肉な色を帯びるのを、彼女自身制することが出来なかった。 「馬鹿な!」  カツヘイは、苦り切って、イチゴンに斥けると、自動車の窓から顔を出しながら言った。 「遠慮をすることはない。グングン引き離してあっちへ連れて行け。暴れるようだったら、いつかの部屋へ監禁してしまえ。当分の間、監視ニンを付けて置くのだぞ、いいか。」  カツヘイは、叱り付けるように怒鳴ると、ちょうど勝彦の身体が、大ぜいの力で車体から引き離されたのを幸いに、運転手に発車の合図を与えた。  動き出した車の中で瑠璃子はちょっと居ずまいを正しながら、後ろに続いている勝彦のあさましい怒号に耳を掩わずには-いられなかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  葉山へ移ってから、二三日の間は、麗かな秋日和が続いた。東京では、とても見られないような薄緑の朗かな空が、山と海とを掩うていた。海は毎日のように静かで/波の立たない海面は、ときどき緩やかなうねりが滑かに起伏’していた。海の色も、真夏に見るような濃藍の色を失って、それだけ親しみ易い軽い藍色に、はるばると続いていた。その果てに、伊豆の連山が、淡くほのかに晴れ渡っているのだった。  10月も終いに近い葉山の町は、洗われたように静かだった。どの別荘も、どの別荘も堅く閉されて/人の気配がしなかった。  ご用邸に近い海岸にあるショウダ別荘は、裏門を出ると、もうそこの白い砂地には、崩れた波の名残りが、白いホーマ-ツを立てているのだった。  カツヘイは、葉山からも毎日のように、東京へ通っていた。夫の留守の間、瑠璃子はナンピ-トにも煩わされない静寂の裡に、浸っていることが出来た。  瑠璃子はよく、ひとり/海岸を散歩した。人影の稀な海岸には、自分一人の影が、寂しく砂の上に映っていた。遥に遥に悠々と拡がっている海や、その上を限りなく広大に掩うている/秋の朗かな大空を見詰めていると、人間の世のあさましさが、しみじみと感ぜられて来た。自分自身が、復讐に狂奔して、心にもない偽りの結婚をしていることが、あさましい罪悪のように思われて、とりとめもなく、心を苦しめることなのであった。  葉山へ移ってから、三’四日の間、カツヘイは瑠璃子を安全地帯に移し得たことに満足したのであろう。人のよい好々爺になり切って、夕方/東京から帰って来る時には、瑠璃子の心を喜ばすような品物や、おいしい食物などをお土産にすることを忘れなかった。  葉山へ移ってから、ちょうど五日目の夕方だった。その日は、昼過ぎから空模様があやしくなって、海岸へ打ち寄せる波の’音が、刻一刻凄じくなって来るのだった。  海に馴れない瑠璃子には、高く海岸に打ち寄せる波の’音が、何となく不安だった。別荘番の親父は暗く澱んでいる海の上を、低く飛んで行く雲の脚を見ながら、『今宵は時化かも知れないぞ。』と、幾度も幾度も口ずさんだ。  夕刻になるに従って、風はだんだん吹き募って来た。暗く暗く暮れて行く海のオモテに、白い大きい浪がしらが、後から後から走っていた。瑠璃子は硝子戸の裡から、不安な眉をひそめながら、海の上を見詰めていた。激しい風が砂を捲いて、パラパラと硝子戸に打ち突けて来た。 「ああ/早く雨戸を閉めておくれ。」  瑠璃子は、狼狽して、召使いに命じると、ピッタリと閉ざされた部屋の中に、今宵に限って、妙に薄暗く思われる電灯の下に、小さく縮かまっていた。人間同士の争いでは、非常に強い瑠璃子も、こうした自然の脅威の前には、普通の女らしく臆病だった。海岸に立っている、地形の脆弱な家は、ときどき今にも吹き飛ばされるのではないかと思われるほど、打ち揺らいだ。海岸に砕けている波は、今にもこの家を呑みそうに轟々たる響きを立てている。  瑠璃子には、結婚して以来、初めて夫の帰るのが待たれた。いつもは、夫の帰るのを考えると、妙に身体が、引き緊ってムラムラとした悪寒が、胸を衝いて起こるのであったが、今宵に限っては、不思議に夫の帰るのが待たれた。カツヘイの鉄のようなカイナが何となく頼もしいように思えた。逗子の停車じょう-から自動車で、危険な海岸伝いに帰って来ることが何となく危まれ出した。 「こう荒れていると、鐙摺のところなんか、危険じゃないかしら。」と女中に対して瑠璃子は、我にもあらず、そうした心配を口に出してしまった。  その途端に、吹き募った嵐は、かなり宏壮な建物を打ち揺すった。鎖で地面へ繋がれている廂が、吹きちぎられるようにメリメリと音を立てた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「こんなに荒れると、本当に自動車はお危のうございますわ。いっそこんな晩は、あちらでお泊まりになるとおよろしいのでございますが。」  女中も主人の身を案ずるようにそう言った。が、瑠璃子は是非にも帰って貰いたいと思った。いつもは、顔を見ているだけでも、ともすればムカムカして来るカツヘイが、何となく頼もしく/力強いように感ぜられるのであった。  日が、トップリ暮れてしまった頃から、嵐はますます吹き募った。海は頻りに轟々と吼え狂った。波は岸を超え、常には干乾びた砂地を走って、別荘の土手の根元まで押し寄せた。 「潮が満ちて来ると、もっと波がひどくなるかも知れねえぞ!」  海の模様を見るために出ていた、別荘番の親父は、漆のように暗い戸外から帰って来ると、不安らしく呟いた。 「まさか、このあいだのような大嵐にはなりますまいね。」  女中も、それに釣り込まれたように、オドオドしながら訊いた。皆の頭に、まだひと月にもならない十月一日の嵐の記憶が/マザマザと残っていた。それは、東京の深川本所に大津波を起こして、多くの人命を奪ったばかりでなく、湘南各地の別荘にも、かなり酷い惨害を蒙らせたのであった。 「まさか先度のような大嵐にはナるまいかと思うが、時刻も風の向きもよく似ているでなあ!」  親父は、心なしか瑠璃子達を脅すように、首を-かしげた。  夜に入ってから、間もなく雨戸を打つ雨の音が、ボツリボツリと聞え出したかと思うと、それが忽ち盆を覆すような大雨となってしまった。天地を洗い流すような雨の音が、瑠璃子達の心をいっそう不安に充たしめた。  恐ろしい風が、グラグラと家を吹き揺すったかと思う途端に、電灯がふっと消えてしまった。こうした場合に、明かりの消えるほど、心細いものは無い。女中は闇の中から手探りにやっと、ランプを探し当てて火を点じたが、仄暗い光は、いっそう瑠璃子の心を滅入らしてしまった。  暗い明かりの下に集まっている瑠璃子と女中達を、もっと脅かすように、風は空を狂い回り、波は頻りなしに岸を噛んで殺到した。  風は少しも緩みを見せなかった。雨を交えてからは、有力な味方でもが加わったように、ますます暴威を加えていた。風と雨と波とが、サンポウから人間の作った自然の邪魔物を打ち砕こうとでもするように力を協せて、この建物を強襲した。  ガラガラと、どこかで物の砕け落ちる音がしたかと思うと、それに続いて海に面している廂が吹き飛ばされたと見え、ベリベリと言う凄まじい音が、家全体を震動した。今までは、それでも、慎しく態度の落ち着きを失っていなかった瑠璃子も/つい度を失ったように立ち上がった。 「どうしようかしら、今の裡に避難しなくてもいいのかしら。」  そう言う彼女の顔には、恐怖の影がアリアリと動いていた。人間同士の交渉では、烈女のように、強い彼女も、自然の恐ろしい現象に対しては、女らしく弱かった。  女中達も、色を失っていた。女中は声を挙げて/別荘番の親父を呼んだけれども、風雨の’音に遮られて、別荘番の家までは、届かないらしかった。  ベリベリと言う廂の飛ぶ音は、なお続いた。その度に、家がグラグラと/今にも吹き飛ばされそうに揺らいだ。  ちょうど、この時であった。瑠璃子の心が、不安と恐怖のどん底に陥って、藁にでも縋り付きたいように思っている時だった。凄まじい風雨の’音にも紛れない、勇ましい自動車のサイレンが、暗い闇を衝いてかすかにかすかに聞えて来た。 「ああ/お帰りになった!」瑠璃子は甦えったように、思わず歓喜に近い声を挙げた。その声には、夫に対する妻としての信頼と愛とが籠っていることを否定することが出来なかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  /風雨の激しい音にも消されずに、サイレンの響きは忽ちに近づいた。門内の闇がパッと明るく照されて、その光の裡に/雨が銀糸を連ねたように降っていた。  瑠璃子と女中たち二人とは、その燦然と輝く自動車のヘッドライトに吸われたように、玄関へ駆け付けた。  微醺を帯びたカツヘイは、その赤い大きい顔に、嵐などは、少しも心に止めていないような、悠然たる微笑を湛えながら、のっそりと車から降りた。 「お帰りなさいまし、まあ大変でございましたでしょうね。お道が。」  瑠璃子のそうした言葉は、いつものように形式だけのものではなく、それに相当した感情が、ピッタリと動いていた。 「なに、大したことはなかったよ。それよりもね、貴方が蒼くなっているだろうと思ってね。このあいだの大嵐で、みんなびくびくしている時だからね。いや、鎌倉まで一緒に乗り合わして来た友人にね、この嵐じゃ道が大変だから、鎌倉で泊まって行かないかと、言われたけれどもね。やっぱりこっちが心配でね。是非葉山へ行くと言ったら、冷かされたよ。美しい若い細君を貰うと、それだから困るのだと、ハハハハハハ。」  凄じい風の’音、激しい雨の音を、聞き流しながら、カツヘイは愉快に哄笑した。自然の脅威を跳ね返しているようなカツヘイの態度に接すると、瑠璃子は心強く/頼もしく思わずには-いられなかった。男性の強さが、今’始めて感ぜられるように思った。 「わたくし”どうしようかと思いましたの。廂がベリベリと吹き飛ばされるのですもの。」  瑠璃子は、まだ不安そうな眼付きをしていた。 「なに、心配することはない。十月一日の嵐の時だって、土手が少しばかり、崩されただけなのだ。あんな大嵐が、二度も三度も続けて吹くものじゃない。」  カツヘイは、瑠璃子が後ろから、着せかけた褞袍に、くるまりながら、どっかりと腰を降ろした。  が、カツヘイのそうした言葉を、裏切るように、風は刻々吹き募って行った。かなり、ピッタリと閉されている雨戸までが、今にも吹き外されそうに、バタバタと鳴り響いた。 「さあ! お酒の用意をして下さらんか、こうした晩は、お酒でも飲んで、大いに嵐と戦わなければならん、ハハハハ。」  カツヘイは、嵐の’音に、怯えたように耳をそばだてている瑠璃子にそう言った。  サカズキの用意は、整った。カツヘイは吹き荒ぶ嵐の’音に、耳を傾けながら、チビリチビリと盃を重ねていた。 「わたくし、本当に早く帰って下さればいいと思っていましたのよ。男手がないと何となく心細くってよ。」 「ハハハ、瑠璃子さんが、儂を心から待ったのは今宵が始めてだろうな、ハハハハハ。」  カツヘイは機嫌よく哄笑した。 「まあ! あんなことを、毎日’心からお待ちしているじゃありませんか。」  瑠璃子は、ついそうした心易い言葉を出すような心持ちになっていた。 「どうだか。分かりゃしませんよ。親父め、なるべく遅く帰って-くればいいのに。こう思っているのじゃありませんか。ハハハハハ。」  瑠璃子の今宵に限って、温かい態度に、カツヘイは心から悦に入っているのだった。 「それも、無理はありません。貴方が内心’儂を嫌っているのも、全く無理はありません。当然です、当然です。儂も嫌がる貴方を、いつまでも名ばかりの妻として、束縛していたくはないのです。これが、どんな恐ろしい罪かと言うことが分かっているのです。所がですね。初めは-ほんの意地から、結婚した貴方が、一旦形式だけでも同棲して見ると、‥‥一旦貴方をそばに置いて見ると、死んでも貴方を離したくないのです。いや、死んでも貴方から離れたくないのです。」  余程酒が進んで来たと見え、カツヘイはクダを捲くようにそう言った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  風はますます吹き荒れ/雨はますます降り募っていた。が、カツヘイは戸外のそうした物音に、少しも気を取られないで、瑠璃子がついでやった酒を、チビリチビリと嘗めながら、熱心に言葉を継いだ。 「まあ、簡単に言って見ると、すっかり心から貴方に惚れてしまったのです! 儂は今年四十五ですが、この年まで、本当に女と言うものに心を動かしたことはなかったのです。勝彦や美奈子の母などとも、ただ、ありきたりの結婚で、給金の要らない高等な女中をでも、傭ったように-かんがうて、接していたのです。かねが出来るのに従って、かねで自由になる女ともたくさん接して見ましたが、どの女もどの女も、ただ玩具か何かのように、弄んでいたのに過ぎないのです。儂は女などと言うものは、酒や煙草などと同じに、我々’男子の事業の疲れを慰めるために存在している者に過ぎないとまで高を括っていたのです。所がです、儂のそうした考えは貴方に会った瞬間に、見事に打ち破られていたのです。男子の為に作られた女でなくして、女自身のために作られた女、儂は貴方に接していると、すぐそう言う感じが頭に浮かんだのです。男の玩具として作られた女ではなくして、男を支配するために作られた女、儂は貴方を、そう思っているのです。それと一緒に、今まで女に対して懐いていた侮蔑や軽視は、貴方に対してはだんだん無くなって行くのです。その反対に、1種の尊敬、まあそう言った感じが、だんだん胸の中に萌して来たのです。結婚した当座は、なんのこの小娘が、儂を嫌うなら嫌って見ろ! 今に、征服してやるから。と、こう思っていたのです。所が、今では貴方の前でなら、どんなに頭を下げても、いいと思い出したのです。貴方の愛情を、得るためになら、どんなに頭を下げても、いいと思い始めたのです。どうです、瑠璃子さん! 儂の心が少しはお分かりになりますか。」  カツヘイは、そう言って言葉を切った。酔っては-いたが、その顔には、一本気な真面目さが、アリアリと動いていた。こうした心の告白をするために、わざとサカズキを重ねているようにさえ、瑠璃子に思われた。 「儂は、世の中に/かねより貴いものは無いと思っていました。儂は-かねさえあれば、どんな事でも出来ると思っていました。実際’貴方を妻にすることが、出来た時でさえ、かねがあればこそ、貴方のような美しい名門の子女を、自分の思いどおりにすることが出来るのだと思っていたのです。が、儂が貴方を、かねで買うことが出来たと想ったのは、儂の考え違いでした。かねで儂の買いえたのは、ただ妻と言う名前だけです。貴方の身体をさえ、まだ自分の物に、することが出来ないで苦しんでいるのです。まして、貴方の愛情の切れ端でも、儂の自由にはなっていないのです。儂は貴方の儂に対する態度を見て、つくづく悟ったのです。儂の全財産を投げ出しても、貴方の心の切れ端をも、買うことが出来ないと言うことを、つくづく悟ったのです。が、そう思いながらも、儂は貴方を思い切ることが出来ないのです。儂は-かねで買い損ったものを、儂の真心で、買おうと思い立ったのです。いや、買うのではない、貴方の前に跪いて、買うことの出来なかったものを哀願しようとさえ思っているのです。また、そうせずには-いられないのです。さっきも申しました通り、もう一刻も貴方なしには生きられなくなったのです。」  変に言葉までが改まったカツヘイは、恋人の前に跪いている若い青年か、何かのように、ゲキしていた。彼の大きい真っ赤な顔は、どこにも偽りの影がないように、真面目に緊張していた。彼は大きい眼をむきながら、瑠璃子の顔を、じっと見詰めていた。敵意のある凝視なら、睨み返し得る瑠璃子であったが、そうした火のような熱心の凝視には/却って堪えかねたのであろう、彼女は、眩しいものを-さけるように、じっと顔を俯けた。 「どうです! 瑠璃子さん! 儂の心を、少しは了解して下さいますか。」  カツヘイの声は、瑠璃子の心臓を衝くような力が籠っていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  酒の力を借りながら、その本心を告白しているらしいカツヘイの言葉を、聴いていると、今まではブルータルな、俗悪な男:、精神的には救われるところのない男だと思い捨てていたカツヘイにも、人間的な善良さや弱さを、感ぜずには-いられなかった。  あれだけ、傲岸で黄金の万能を、主張していた男が、かねで買えない物が、世の中にゲンとして存在していることを、潔く認めている。かねでは、人の心の愛情の欠片をさえ、買いえないことを告白している。彼は、いま自分の非を悟って、瑠璃子の前に平伏’して/彼女の愛を哀願している。敵は脆くも、くだったのだ。そうだ! 敵は余りにも、脆くもくだったのだ、瑠璃子は心の裡で思わず、そう叫ばずには-いられなかった。 「瑠璃子さん! 儂はお願いするのだ。儂は、儂の前非を悔いて貴方に、お願いするのじゃ。貴方は、心から儂の妻になって下さることは出来んでしょうか。これまでの偽りの結婚を、儂の真心で浄めることは出来んでしょうか。儂は、この結婚を浄めるために、どんなことをしてもいい。儂の財産を、みんな投げ出してもいい。いや儂の身体も命もみんな投げ出してもいい。儂は、貴方から、夫として信頼され/愛されさえすれば、どんな犠牲を払ってもいいと思っているのです。儂は、さっき自動車から降りて、貴方と顔を見合せた時、儂は結婚して以来初めて幸福を感じたのです。今日だけは、貴方が心から儂を迎えてくれている。貴方の笑顔が心からの笑顔だと思うと、儂は初めて結婚の幸福を感じたのです。が、それも落ち着いて考えて見ると、貴方が儂を喜んで迎えてくれたのも、夫としてではない、ただこんな恐ろしい晩に必要な男手として喜んでいるのだと思うと、また急に情けなくなるのです。儂が貴方を、賤しい手段で、妻にしたと言う罪を、儂の貴方に対する現在の真心で浄めさせて下さい!」  カツヘイは、酒のために、気が狂ったのではないかと思われるほどにゲッコウしていた。瑠璃子は相手の激しい情熱に咽せたように/何時の間にか知らず知らず、それに動かされていた。 「瑠璃子さん、貴方も今までの事は、心から水に流して、儂の本当の妻になって下さい。貴方が心ならずも、儂の妻になったことは、不幸には違いない。が、一旦’妻になった以上、貴方が肉体的には、妻でないにしろ、世間では誰も、そうは思っていないのです。社会的に言えば、貴方は飽くまでも、ショウダカツヘイの妻です。貴方も、こうした羽目に陥ったことを、不幸だと諦めて、心から儂の妻になって下さらんでしょうか。」  カツヘイの眼は、熱のあるように輝いていた。瑠璃子も、相手の熱情に、ついフラフラと動かされて、思わず感激の言葉を口走ろうとした。が、その時に彼女の冷たい理性が、やっとそれを制した。 『相手が余りに脆いのではない! お前のほうが余りに脆いのではないか。お前は、最初のあれほど激しい決心を忘れたのか。正義のために、私憤ではなくして、むしろ公憤のために、相手を倒そうと言う強い決心を忘れたのか。カツヘイの口先だけの懺悔に動かされて、余りに脆くお前の決心を捨ててしまうのか。お前はカツヘイの態度を疑わないのか。彼は、お前に降伏したような様子を見せながら、お前を肉体的に、征服しようとしているのだ。兜を脱いだようなふうを装いながら、お前に飛び付こうとしているのだ。お前が、カツヘイの告白に感激して、お前の手を与えてご覧/ 彼は、その手を戴くようなふうをしながら、何時の間にかお前を踏み躙ってしまうのだ。お前は敵の暴力と戦うばかりでなく、敵の甘言とも戦わなければならぬ。敵は、お前のプライドに媚びながら、逆にお前を征服しようとしているのだ。余りに脆いのは敵でなくしてお前だ。』  瑠璃子の冷たい理性は、覚めながらそう叫んだ。彼女は、ハッと眼が覚めたように、居ずまいを正しながら言った。 「あら、あんな事を仰って? 最初から、本当の妻ですわ。心からの妻ですわ。」  そう言いながら、彼女は冷たい、しかしながら、美しい笑顔を見せた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第14話】 【嵐を衝いて】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  カツヘイは、瑠璃子の言葉だけは、打ち解けていても、笑顔は氷のように冷たいのを見ると、絶望したように言った。 「ああ/貴方は、どうしても儂を理解して下さらぬのじゃ。儂の最初の罪をどうしても許して下さらぬのじゃ。貴方は、儂と勝彦とを、操って儂に、畜生道の苦しみを見せようとしているのじゃ。よい、それならよい! それならそれでよい! 貴方が、いつまでも儂をカタキと見るのなら、儂も、儂もカタキになっていてもいい。儂が貴方の前に、跪いてこれほどお願いしているのに、貴方は儂の真心を受け容れて下さらんのじゃから。」  もうさっきから、一升以上も飲み乾しているカツヘイは、濁った眸を見据えながら、威丈高に瑠璃子にのしかかるような態度を見せた。相手が-したでから出ると、ついホロリとしてしまう瑠璃子であったが/相手が正面からかかってくれれば、一足だって踏み退く彼女ではなかった。  相手の態度が急変すると、瑠璃子はさっきのカツヘイの神妙な態度は、ただ自分を説き落すための、偽りの手段であったことが、ハッキリしたように思った。 「あら、あんな事を仰って、貴方の真心は、初めから分かっているじゃありませんか。」  瑠璃子は、相手の脅しを軽く受け流すように、にっこりと笑った。 「ああ、貴方のその笑顔じゃ。それは儂を悩ますと同時に、嘲けり/恥しめ/罵しっているのじゃ。ああ/俺は貴方のその笑顔に堪えない。儂は貴方のその笑顔を、初めは-どんなに楽しんでいたか分からないが、だんだん見ていると、貴方のその美しい笑顔の皮一つ下には、儂に対する憎悪と嘲笑とが、一杯に充ちているのだ。貴方の笑顔ほど皮肉なものは無い。貴方の笑顔ほど、儂の心を突き刺すものは無い。貴方は、その笑顔で儂を悩まし/殺そうとしているのだ。いや、儂ばかりじゃない! あの馬鹿の勝彦をまで悩ましておるのじゃ。」  カツヘイの態度には、いよいよ乱酔の兆しが見えていた。彼’の眸は、怪しい輝きを帯び、狂人か何かのように瑠璃子をジロジロと見詰めていた。  風も雨も、海岸のこの一角に、その全力を蒐めたかのように、ますます吹きすさび/降りまさった。が瑠璃子は人と人との必死の戦いのために、そうした嵐の音をも、聞き流すことが出来た。 「疑心暗鬼と言うことがございますね。貴方のは、それですよ。わたしを疑ってかかるから、わたしの笑顔までが、夜叉のオモテか何かのように見えるのでございますよ。」  そう言いながらも、瑠璃子は/その美しい冷たい笑いを絶たなかった。カツヘイは、その大きい身体をのたうつようにして言った。 「貴方は、儂を飽くまでも、馬鹿にしておられるのじゃ。貴方は人間としての儂を信用しておられんのじゃ。貴方は、儂の人格を信じておられないのじゃ。儂に人間らしい’心のあることを信じておられないのじゃ。よし、貴方が儂を人間として扱って下さらないなら、儂はケダモノとして、貴方に向かって行くのじゃ。儂はケダモノのように、貴方に迫って行くのじゃ。」  カツヘイの眸はモユルように輝やいた。 「そうだ! 儂はケダモノとして貴方に迫って行くほかはない!」  そう言ったかと思うと、カツヘイは羆が人間を襲う時のように、のッと立ち上がった。  瑠璃子も弾かれたように、立ち上がった。  立ち上がったカツヘイは、フラフラとよろめいて/やっと踏み堪えた。彼はその凄まじい眸を、真ん中に据えながら、瑠璃子のホウへジリジリと迫って来た。  かよわい瑠璃子の顔は、真っ青だった。身体はかすかに震えていたけれども、悪びれた所は少しもなかった。その美しい眉宇は、キッと、引きしまって、許すまじき色が、アリアリと動いた。  ちょうど、その時だった。風に煽られた大雨が一頻り/沛然として降り注いで来た。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  あるるままに、夜は十二時に近かった。  台所にいる筈の女中達は、眠りこけてでもいるのだろう、話し声ひとつ聞えて来なかった。ただ吹きあるる/ダイ風雨の裡にカツヘイと瑠璃子とだけが、取り残されたように、睨みながら、相対していた。  空に風と雨とが、戦っているように、地に彼等は戦っているのだった。瑠璃子は戦うべき力もなかった。武器も持ってはいなかった。ただ彼女の態度に備る天性の美しい威厳一つが、カツヘイの獣的な攻撃を躊躇させていた。が、その躊躇も、永く続く筈はなかった。カツヘイの眼が、だんだん’狂暴な色を帯びると共に、彼は勢いモウに瑠璃子に迫って来た。彼女は、相手の激しい勢いに圧されるように/ジリジリと後退りをせずには-いられなかった。  カツヘイの今’少し前の懺悔や告白が、こうした態度に出るまでの径路であった──:一旦シタテから説いて見て、それで行かなければ腕力に訴える──かと思うと、カツヘイに対して、懐いていた一時の好感は、煙のようになくなって、ただ苦い苦い憎悪の滓だけが、残っていた。指ひとつ触れさせてなるものか、そうした堅い決意が、彼女の繊細な心臓を、鉄のように堅くしていた。  が、彼女の精神的な強さも、カツヘイの肉体の上の優越に打ち勝つことが出来なかった。何時の間にか追い詰められたように、部屋の一方に、海に面した硝子戸のホウへ、のがる-る道のない硝子戸のホウへ、瑠璃子は圧し付けられている自分を見い出した。  そこで、追い詰められた牝鹿と獅子とのように、二人は暫くは相対していた。  嵐は、少しも勢いを減じていなかった。岸を噛んで殺到する波濤の響きが、前よりも、もっと恐ろしく聞えて来た。が、相争っている二人の耳には、波の’音も風の’音も聞えては来なかった。 「何をなさるのです。貴方は?」  カツヘイが、その固太りの大きい手を差し出そうとした時、瑠璃子は初めて声を出して叱した。 「何をしようと、儂の勝手だ。夫が妻を、生かそうが殺そうが。」  カツヘイは、そう言いながら、再び猿臂を延ばして、瑠璃子の柔かな、やさ肩を掴もうとしたが、軽捷な彼女に、ひらりと身体を-よけられ-ると、酒に酔った足元は、ふらふらと二三歩よろめいて、のめりそうになった。 「恥をお知りなさい! 恥を! 妻ではございましても奴隷ではありませんよ。暴力を振うなんて。」  彼女は、汚れた者を叱するように、吐き捨てるように言った。彼女の声は、さすがにわなわなと震えていた。 「なに! 恥を! 恥も何もあるものか、儂はもうケダモノになり切っているのじゃ。」  カツヘイは、そう言ったかと思うと/前よりももっと激しい勢いで瑠璃子に迫った。こうしたあさましい人間の争いを、讃美するかのように、風は空中に凄まじい歓声を挙げ続けている。  瑠璃子は、ふとそのとき護り刀のことを思い出した。こうした非常な場合には、それを抜き放って自分を護るほかはない。が、そう思い付いたものの、それはトランクの底深く、しまってあるので、急場の今は、何の援けにもならなかった。  彼女は、最後の手段として、声を振りしぼって女中を呼んだ。が、彼女の呼び声は、風雨の’音に消されてしまって、台所のほうからは、物音も聞えて来なかった。  瑠璃子が、いよいよ窮したのを見ると、カツヘイはいよいよ威丈高になった。彼は、ケダモノそのままの-ぎょうそうを現していた。仄暗いランプの光で、眼が物凄く光った。 「アレ!」と、瑠璃子が身を避けようとした時、カツヘイの強い腕は、彼女の弱い二の腕を、グッと握り占めていた。 「何をするのです。お放しなさい!」  彼女は必死になって、振りほどこうとした。が、強い把握は、容易に解けそうもなかった。 「何を! 何をするのです!」  瑠璃子は、死に者狂いになって突き放した。が、突き放されたカツヘイは、前よりも二倍の狂暴さで、再び瑠璃子に飛びかかった。  その時だった。瑠璃子の後ろの雨戸と硝子戸とが、バタバタと音を立てて外れると、恐ろしい一陣の風が、サッと部屋の中へ’吹き込んだ。  ランプは忽ちに消えてしまった。が、明かりの消える刹那だった。風と共に飛び込んで来た一個の黒影が/今’瑠璃子に飛びかかろうとするカツヘイに、横合いからどうと組み付くのが、明かりの-きゆるたゆたいの瞬間に瞥見された。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  硝子戸の外れるのと共に、部屋の中へ’吹き入った風と雨とは、忽ちに、二十ジョウに近い大広間に渦巻いた。トコのマの掛軸が、バラバラと吹き捲られて、跳ね落ちると、ガタガタと激しい音がして、鴨居のガクが落ちる、六曲の金屏風が吹き倒される。一旦吹き込んだ風は逃れ口がないために、室内の闇をジュウオウに駆け回って、いつまでもいつまでも狂奔した。  しかも、この風雨の荒れ狂う漆黒の闇の中に、カツヘイは飛び込んだ黒影と、必死の格闘を続けていたのだ。 「貴様は誰だ! 誰だ!」  不意の襲撃に驚いたらしくカツヘイは、狼狽して怒号した。が、相手は黙々として返事をしなかった。  肉と肉とが、相搏つ音が、風雨の’音にも紛れず、凄まじい音を立てた。身体と身体とが、打ち合う音、筋肉と筋肉とが、軋み合う音、それは風雨の争いにも、負けないほどに恐ろしかった。  そのうちに/どうと’家じゅうを揺がせる地響きを打って、一方が投げ出される音が聞こえた、それに続いて転がり合いながら、格闘する凄まじい音が続いた。 「強盗だ! 強盗だ! 早く爺やを呼んで来い! 瑠璃子/ 瑠璃子/」  戦いが不利と見えて、カツヘイの声は悲鳴に近かった。  瑠璃子は、物事の激しい変化に、気を奪られたように、ボンヤリ闇の中に立っていた。身に迫った危険を、思いがけなく脱し得た安心と、新しく突発した危険に対する不安とで、心が一種不思議な動乱の中に在った。  カツヘイの悲鳴を聴いていると、助けてやらねばならぬと思いながら、1種の小気味よさを感ぜずには-いられなかった。自分にケダモノの如く迫って来た彼が、突然の侵入者に依って、脆くも取って伏せられている。そう思うと瑠璃子の動乱した胸にも皮肉な快感が、ぞくぞくとこみ上げて来る。  格闘はなお続いた。組み合いながら、座敷じゅうをのたくっている恐ろしい物音が絶えなかった。 「瑠璃子/ 瑠璃子/ 早く、早く。」  援けを呼ぶカツヘイの声は、だんだん/苦しそうに喘いで来た。  瑠璃子の心の裡に、もっとカツヘイを苦しませてやれ、こうした不意の出来事に依って、もっと彼を懲らしてやれと言う、カツヘイに対する憎悪の心持ちと:、いつもの憎悪はとにかく、不時の災難に苦しんでいる相手を、援けてやろうと言う人間的な心持ちとが、相争った。  その裡に、ゼイゼイと息も絶えそうに、喘ぎ始めたカツヘイの声が、聞え出した。 「苦しい! 苦しい! 人殺し! 人殺し!」  カツヘイは、とうとう最後の悲鳴を出してしまった。そうした声を聞くと、瑠璃子の心にも、カツヘイに対する憐れみが湧かずにはいなかった。彼女は、始めて我に返ったように、台所のほうに駆け出しながら、大声を出した。 「爺や! 爺や! 早く来ておくれ! 泥棒/ 泥棒/」  瑠璃子の声も、スッカリ上ずッてしまっていた。が、そう叫んだ時、彼女の頭の中に突然’恋人の直也の事が閃いた。彼は、カツヘイを射とうとして誤って、美奈子を傷つけた為、危うく罪人となろうとしたのを、カツヘイに対する父の子爵の哀訴のために、告訴されることを免れた。が、彼は敵のカツヘイからそうした恩恵を受けたことを、死ぬほど恥しがって、学業を捨ててしまって、遠縁の親戚が経営している/ボルネオのゴム園に走ろうとしている。瑠璃子は、そんな噂を、耳にはさんでいる。が、あの多血性な恋人は、そうした逃避的な態度を、捨てて、その恋のカタキを倒すために、再び風雨の夜に乗じて迫ったのであろうか。否、自分に訣別するため、よそながら自分を見ようとした時、偶然’自分が危難に遭遇したため、前後の思慮もなく飛び込んだのではないだろうか。  強盗/ 泥棒/ 強盗や泥棒が、ああした襲撃を為すだろうか。もし、あれが直也だ-ったら、たとい、カツヘイを倒したにしろ、彼の一生はムザムザと埋もれてしまうのだ。もっとも、今でも自分のために、半分’埋もれかけているのだが。  そう思うと、瑠璃子は爺やを呼ぶ声も出なくなってしまって、再びそこへ立ち竦んだ。  が、瑠璃子の声に騒ぎ立った女中は、声を振りしぼって爺やを呼んだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  叫び立てる女中達の声に、別荘番の爺やは驚いて駆け付けて来た。強盗だと聴くと、いきなり取って返して、古い猟銃用の村田銃を持って来た。彼は手早く台所の棚から、カンテラを取り出すと、取り乱す様子もなく、明かりを点じて、戸外同様に風雨の荒れ狂う広間のホウへと、勇ましく立ち向かった。もう六十を越した老人ではあったが、根が漁師育ちであるだけに、胆力はガッシリと-すわっていた。  瑠璃子は、カツヘイと相搏っている相手が、もしや恋人の直也でありはしないかと思うと、この一徹の老人が、一気に銃口を向けや-しないかと思う心配で、心が怪しく乱れた。それかと言って、強盗であるかも知れぬ闖入者を、庇うような口は利けなかった。台所に震えている女中をあとに残しながら、固唾を飲みながら、老人のあとから、ついて行った。  座敷は、風雨で滅茶苦茶になっていた。部屋の中に渦巻く風のために、硝子戸が三枚も外れていた。そこから吹き入る雨のために、水を流したように、濡れた畳が、カンテラの光に物凄く映っていた。今にも、天井が吹き抜かれるように、バリバリと恐ろしい音を立てて、鳴り続けた。  老人は、カンテラの光を翳しながら、 「旦那/ 旦那/ 喜太郎が参りましたぞ!」と次の間から、先ず大声で怒鳴った。  が、カツヘイはそれに対して、何とも答えなかった。ただカツヘイが発しているらしい低いうめき声が聞えるだけだった。 「旦那/ 旦那/ しっかりなさい!」  そう言いながら、喜太郎は暗い座敷の中を、カンテラで照しながら、駈け込んだ。その光で、ほのグラく照らし出された大広間の真ん中に、カツヘイは仰向けに打ち倒れながら、苦しそうにうめいているのだった。 「旦那/ 旦那/ しっかりなさい! 喜太郎が参りましたぞ! 泥棒はどうしただ!」  喜太郎は、カツヘイの耳許で勢いよく叫んだ。が、カツヘイはただ低く、喘息病みか何かのように/咽喉のところで、低く呻くだけだった。 「旦那/ 怪我をしたか。どこだ! どこだ!」  老人は、狼狽しながら、その太い堅い手で、カツヘイの身体を撫で回した。が、どこにも傷らしい傷はなかった。が、それにも拘わらず、半眼に開かれているカツヘイの眼は、白く釣り上がっている。 「ああ! こりゃいけねえ。奥様、こりゃいけねえぞ。」  そう言いながら、老人はカツヘイの身体を半ば抱き起すようにした。が、大きい身体は少しの弾力もなく/石の塊か何かのように重かった。  瑠璃子は、さすがに驚いた。 「もし、あなた! もしあなた! あなた!」  彼女は、名ばかりの夫の胸に、縋り付くようにして叫んだ。が、カツヘイの身体に残っている生気は、こうしている間にも、だんだん消えて行くように思われた。  おずおず震えながら、座敷へ近づいて来た女中を顧みながら、瑠璃子はハッキリと/少しも取り乱さない口調で言った。 「ブランデーの壜を大急ぎで持っておいで。それから、吉川様へ/すぐおいで下さるように電話をおかけなさい! すぐ! 主人が危篤でございますからと。」  女中の一人は、すぐブランデーの壜を持って来た。瑠璃子は、それをコップにつぐと、甲斐甲斐しくカツヘイの口を割って、口中へ注ぎ入れた。  カツヘイの青ざめていた顔が、心持ち赤く興奮するように見えた。彼の釣り上った眼が、ほんの僅かばかり、人間の眼らしい光を恢復したように見えた。 「旦那/ 旦那/ 相手はどうしただ。強盗ですか。どちらへ逃げました。」  老人の別荘番は、主人のカタキを取りたいような意気込みで訊いた。  カツヘイはその大きい声が、消えかかる聴覚に聞こえたのだろう、口をモグモグさせ始めた。 「何でございますか。何でございますか。」  瑠璃子も、カツヘイを励ますために、そう叫ばずには-いられなかった。  その時に、部屋の薄暗い一隅で、何者とも知れず/カラカラと悪魔の嗤うように声’高く笑った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  カンテラの光の届かない部屋の一隅から、急にカラカラと頓狂に笑い出す声を聴くと、元気のある/度胸の据わった喜太郎までが、ハッと色を変えた。村田銃のホウへ差し延ばした左の手が、二’三度銃身を掴みそこな-っていた。勝気な瑠璃子の襟元をも、キミの悪い冷た-さが、ぞっと襲って来た。 「誰だ! 誰だ!」  喜太郎は狼狽えながら、しわがれた声で闇の中の見知らぬ人間を誰何した。が、相手はまだ笑い声を収めたまま、じっとしている。 「誰だ! 誰だ! 黙っていると、射ち殺すぞ!」  相手が黙っているので、勢いを得た喜太郎は、村田銃を取り上げながら、そのホウへ差し向けた。  暗い片隅にうずくまっている人間の姿が、差し向けられたカンテラの明かりで、朧げながら判って来た。 「誰だ! 誰だ! 出て来い! 出て来い! 出てこないと射つぞ!」  喜太郎は、ますます勢いを得ながら/それでも飛び込んで行くほどの勇気もないと見えて、間を隔てながら、叫んでいた。  相手が、割に落ち着いているところを見ると、それが強盗でないことは、判っていた。が、不意に耳を襲った頓狂な笑い声に依っては、それがナンピ-トであるかは、瑠璃子にも判らなかった。彼女は、じっと眸を凝して、それが自分の怖れている如く、恋人の直也ではありはしないかと、闇の中を見詰めていた。  ちょうどその時に、喜太郎の大きい怒声に依って、朧気な意識を恢復したらしいカツヘイは、低くうめくように言った。 「射つな、射ったらいけないぞ!」  それは、一生懸命な/必死な言葉だった。そう言ってしまうと、カツヘイはまた/グタリと死んだようになってしまった。  主人の言葉を聴くと、喜太郎は何かを悟ったように鉄砲を、投げ出すと、じりじりと見知らぬ男のほうに近づいた。男は、喜太郎が近づくと、だんだんうずくまったままで、身を-ひかしていたが、壁の所まで、追い詰められると、矢庭に、スックと立ち上がった。瑠璃子は、また恐ろしい格闘のシーンを想像した。が、瑠璃子の想像は忽ち裏切られた。 「ヤア! 若旦那じゃねえか!」  喜太郎は、驚きとも何とも付かない、調子外れの声を出した。  瑠璃子も、その刹那/弾かれたように立ち上がった。 「奥様/ 若旦那だ! 若旦那だ。」  喜太郎は、意外なる発見に、狂ったように叫び続けた。瑠璃子も思わず、瀕死のカツヘイのそばを離れると、二人が突っ立ちながら、相対しているホウへ近づいた。  いかにも、その男は勝彦だった。いつも見馴れている大島の普段着が、雨でズブ濡れに濡れている。髪の毛も、雨を浴びて黒く凄く光っている。日頃は、グロテスクな顔ではあるが、何となく温和であるのが、今宵は殺気を帯びている。それでも、瑠璃子の顔を見ると、少し顔を赤らめながら、ニタリと笑った。  暫くの間は、瑠璃子も言葉が出なかった。が、全ては明らかだった。東京の家に監禁せられていた彼は、瑠璃子を慕うの余り、監禁を破って、東京から葉山まで、風雨を衝いて、やって来たのに違いなかった。 「お父様をあんなにしたのは、貴方でしたか。」  瑠璃子は、かなり厳粛な態度でそう訊いた。  勝彦は、黙って頷いた。 「東京から、一人で来たのですか。」  勝彦は黙って頷いた。 「汽車に乗ったのですか。」  勝彦は、また黙って頷いた。 「お父様を、どうしてあんなにしたのです。どうしてあんなにしたのです。」  瑠璃子に、そう問い詰められると、勝彦は顔を赤めながら、モジモジしていた。もし勝彦が、聡明な青年であったならば、簡単に率直に、しかも貴夫人を救ったナイトのように勇ましく、 『貴方を救うために。』と答え得たのであるが。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  瑠璃子から、何と訊かれても、勝彦は何とも返事はしないで、ただニタリニタリと笑い続けているだけだった。  老人の喜太郎は、張り詰めていた勇気が、急に抜け出してしまったように言った。 「仕様のない若旦那だ。こんな晩に東京から、飛び出して来て、旦那をとっちめるなんて、理窟のねえ事をするのだから、始末におえねえや。奥様/ こんな人に構っているよりか/旦那の容体が大事だ!」  喜太郎は、勝彦を噛んで捨てるように非難しながら、座敷の真ん中に、生死も判らず横わり続けているカツヘイのホウへ行った。  が、瑠璃子は喜太郎のように心から勝彦を、非難する気には、なれなかった。口では勝彦を咎めるようなことを言いながら、心の中ではこの勇敢な救い主に、一味温かい感謝の心を持たずには-いられなかった。  ちょうど、その時に、カツヘイのうめき声が、急に高くなった。瑠璃子は思わず、そのほうに引き付けられた。  彼’の顔面の筋肉が、頻りに痙攣し、太い大きい四肢は、最後のありったけの力を込めたように、激しく畳の上にのたうった。 「水/ 水。」  カツヘイは、苦しそうな呻き声を洩らした。  女中が、転がるように持って来た水を、コップのまま口へ-そそごうとしたが、思いどおりにはならないらしい口元の筋肉は、当てがわれたコップの水を、咽喉の辺りから胸にかけてこぼしてしまった。瑠璃子は、それを見ると、コップの水を一息飲みながら、口移しにカツヘイの口中へ注いでやった。名ばかりではあるが、妻としての情であった。  水に依って、潤されたカツヘイの咽喉は、初めてハッキリした苦悶の言葉を発した。 「ああ/苦しい。胸が苦しい。切ない。」  彼は、そう叫びながら、心臓の辺りを幾度も掻きむしった。 「すぐ医者が参ります。もう少しのご辛抱です。」  瑠璃子も、オロオロしながら、そう答えた。瑠璃子の言葉が、耳に通じたのだろう。彼は、虚ろな視線を妻のほうに差し向けながら、 「瑠璃子さん、儂が悪かった。みんな、儂が悪かった。許して下さい!」  彼は、体中に残った精力を蒐めながら、やっと切々に言った。つい一時間前の告白を疑った瑠璃子にも、男子のこうした瀕死の言葉は疑えなかった。瑠璃子の冷たく閉じた心臓にも、それが針のように刺し貫いた。 「ああ/苦しい。切ない! 心臓が裂けそうだ!」  カツヘイは、心臓を両手で抱くようにしながら、畳の上を、二’三回転げ回った。 「美奈子/ 美奈子はいないか!」  彼は、いきなり苦しそうに、ハンミを起こしながら、座敷じゅうを見回した。併し美奈子がそこにいる訳はなかった。ニサン秒間身体を支え得ただけで、またどうと後ろへ倒れた。 「美奈子さんもすぐ来ます。電話で呼びますから。」  瑠璃子は、耳許に口を寄せながら、そう言った。 「ああ/苦しい! もういけない! 苦しい! 瑠璃子さん! 頼みます、美奈子と勝彦のこと。貴方は、儂を憎んでいても、子供達は憎みはしないでしょう。貴方を頼むよりほかはない! 儂の罪を許して子供達を見てやって下さい! 頼みます! 勝彦/ 勝彦。」  彼は、そう言いながら、再び身体を起こそうとした。愚かなる子に、最後の言葉をかけようとしたのであろう。が、愚かなる子は、父の臨終の苦しみをよそに、以前のままに、ケロリとして立ったまま、この場の異常なシーンを、ボンヤリと凝視しているだけであった。 「ああ/苦しい! 切ない!」  カツヘイは最後の苦痛に入ったように、何物かを掴もうとして、二’三度虚空を掴んだ。瑠璃子は、その時始めて心から、夫のために、その白い二つの手を差し延べた。カツヘイは、瑠璃子の白い腕に触れると/それを命の最後の力で握りしめながら、また差し延べられた手に、瑠璃子からの許しを感じながら、妻からの情を感じながら、最後の息を引き取ってしまったのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  カツヘイの最後の息が絶えようとしている時に、医師がやって来た。レインコートの下へまで、激しい雨が-しみ入ったと見え、洋服のところどころから、雫がタラタラと落ちていた。 「車で来ようと思ったのですが、家を二間ばかり離れると、すぐ吹き倒されそうになりましたから、徒歩で来ました。風が北へ回ったようですから、もう大丈夫です。まさか、先度のようなことはありませんでしょう。」  医師は、さすがに職業的な落ち着きを見せながら、女中達の出迎えを受けて、座敷へ通って来た。 「お電話じゃ十分判りませんでしたが、どうなさったのです。強盗と組打ちをなさったと言うのは本当ですか。」  医師は、横わっているカツヘイのそば近く、膝行り寄りながら、瑠璃子にそう訊いた。  瑠璃子は、さすがに落ち着きを失わなかった。 「いいえ! 女中が狼狽えて、そんなことを申したのでございましょう。強盗などとは嘘でございます。お恥ずかしいことでございますが、つい息子と‥‥。」  そう言ったものの、あとは続け得なかった。医師はすぐその場の事情を呑み込んだように、カツヘイの身体に手をやって、一通り検めた。 「どこもお怪我はないのですね。」 「はい! 怪我はないようでございます。」瑠璃子は静かに答えた。 「ご心配はありません。どこか打ち所が悪くって気絶をなさったのです。」  医師は事もなげにそう言いながら、その夜目にも白い手を脈に触れた。五秒/十秒、医師はじっと耳を傾けていた。それと同時に、彼の眸に、カツヘイの青ざめて行く顔色が映ったのだろう。彼は、急に狼狽したように前言を打ち消した。 「ああ/こりゃいけない!」  そう言いながら、彼は手早く聴診器を、鞄の中から、引きずり出しながら、カツヘイの肥り切った胸の中の心臓を、探るように、幾度も幾度も当てがった。 「ああ/こりゃいけない!」  彼は再び絶望したような声を出した。 「いけませんでございましょうか。」  そう訊いた瑠璃子の声にも、深い憂いが含まれていた。 「こりゃいけない! 心臓麻痺らし-いです。いつか診察したときにも、よくご注意して置いた筈ですが、かなり酷い脂肪シンだから、よくご注意なさらないと、すぐ心臓麻痺を起こし易いと、幾度も言った筈ですが。喧嘩だとか格闘だとか、興奮するようなことは、一切してはならないと、注意して置いたのですがね。」  医師は、いかにも、自分の与えた注意が守られなかったのが、遺憾に堪えないように、耳は聴診器に当てがいながら、幾度も繰り返した。 「心臓の周囲に、脂肪が溜ると、非常に心臓が弱くなってしまうのです。火事の時などに、駈け出しただけで、倒れてしまう人があるのです。それに酒を召し上っていたのですね。酒を飲んでいる上に、激しい格闘をやっちゃ堪りません。お子さんとなら、またなんだって/早くお止めに-ならなかっ-たのです。」  そう言われると、瑠璃子の良心は、グイと何かで突き刺されるように感じた。 「もう駄目だとは思いますが、諦めのために、カンフル注射をやって見ましょう。」  医師は、手早くその用意をしてしまうと、いま肉体を去ろうとして、たゆとうている魂を、呼び返すために、巧みに注射バリを操って、イットウのカンフルを体内に注いだ。  医師は、注射の反応を待ちながらも、二’三度人工呼吸を試みた、が、カツヘイの身体は、刻一刻、人間特有の温かみと生気とを失いつつあった。その大きい顔に、死相がアリアリと刻まれていた。 「お気の毒ですが、もう何とも仕方がありません。」  医師は、死に対する人間の無力を現すように、悄然と最後の宣告を下した。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  戦いは終った。不意に/突然に/意外に、敵は今/彼女の目の前に、何の力もなく/なんの意地もなく土塊の如くに横わっている。  彼女は見事に勝った。勝ったのに違いなかった。傲岸な、かねの力に依って、人間の道を蔑しようとした相手は倒れている。そうだ! 勝利は明らかだ。  が、カツヘイの死に顔をじっと見詰めている時に、彼女の心に湧いて来たものは、勝ちの喜びではなくして/むしろ勝ちの悲しみだった。勝利の悲哀だった。確かに勝って-いる。が、カツヘイの肉体に勝った如く、彼の精神にも勝ち得ただろうか。カツヘイは、その瀕死’の刹那に於いて、精神的にも瑠璃子に破られていただろうか。  いな! いな! 瑠璃子自身の良心が、それを否定している。いよいよ、死が迫って来た時のカツヘイの心は、彼の一生の全ての罪悪を償い得るほどに、美しく輝いていたではないか。  彼は、自分の許しを瑠璃子に乞うた上、二人の-まなごの行く末を、瑠璃子に頼んでいる。彼は名ばかりの妻から、夫として/堪えがたき反抗’を受けながら、なお彼女に美しき信頼を置こうとしている。  それよりも、もっと瑠璃子の心を穿ったものは、彼が臨終の時に示した子供に対する、綿々たる愛だった。格闘の相手が──従って彼の死の原因が──勝彦であることを知りながらも、この愚かなる子の行く末を、苦しき臨終の刹那に気遣っている。彼の人間らしい心は、そのシニドコに於いて、燦然として輝いたではないか。  彼を敵として結婚し、結婚してからも、彼に心身を許さないことに依って、彼に悶々の悩みを嘗めさせ:、それが半ば偶然であるとは言え、勝彦を操ることに依って、畜生道の苦しみを味わせた自分を/死の刹那に於いて心から信頼している。そうした言葉を聴いたとき、瑠璃子の良心は、かなり深い痛手を負わずには-いられなかった。  悪魔だと思って刺し殺したものは、意外にも人間のソウを現している。が、刺し殺した瑠璃子自身は、刺し殺す径路に於いて、刺し殺した結果に於いて、悪魔に近いものになっている。  自分の一生を犠牲にして、倒したものは、意外にも倒しガイのないものだった。恋人を捨てて、乙女としての誇りを捨てて、世の悪評を買いながら、全力を尽くして、戦った戦いは、戦いバエのしない無名の戦いだった。  負けたカツヘイは、負けながら、そのシニドコに人間として救われている。が、見事に勝った瑠璃子は、救われなかった。  自分の一生を賭してかかった仕事が、空虚な幻影であることが、分かった時ほど、人間の心が弛緩し/堕落することはない。  彼女の心は、そのとき以来/別人のように荒んだ。/清浄なる乙女時代に立ち帰ることは、その肉体は許しても、心が許さなかった。敵と戦うために、自分自身/心に塗った毒は、いつの間にか、心のうち深く-しみ入って消えなかった。  その上に、もっと悪いことには、名ばかりの妻として、擅にした物質ジョウの栄華が、何時の間にか、彼女の心に魅力を持ち始めていた。  彼女は、荒んだ心と、乙女としての新鮮さと、未亡人としての妖味とを兼ね備えた美しさと、その’美を飾るあらゆる自由とを以って:、いつとなく、世間のあらゆる男性の間に、孔雀の如く、その双翼を拡げていた。  怪頭醜貌の女怪ゴルゴンは、見る人をして悉く石に-かせしめたとギリシヤ神話は伝えている。  コクハツ’皎歯’清麗’真珠の如く、艶容人魚の如き瑠璃子は、その聡明なる機智と、その奔放自由なる所作とを以って、彼女を見、彼女に近づくものを、果たして何物に-かせしめるであろうか。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第15話】 【魅惑】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  奇禍のために死んだ青年の手記を見たあとも、美しき瑠璃子夫人は、なお信一郎の心に、一つの謎として-とどまっていた。手記に依れば、青年を飜弄し、彼をして、形は奇禍であるが、心持ちの上では、自殺を遂げしめた彼女なる女性が、瑠璃子夫人であるようにも思われた。が、夫人その人は、信一郎の目前で、青年の最後の怨みが籠っている筈の、時計の持ち主であることを否定していた。  信一郎は、夫人の白いしなやかな手で、軽く/五里霧中の裡へ、突き放されたように思った。血腥い青木淳の死と、美しい夫人とを、不思議な糸が、結び付けて、その周囲を、神秘な霧が幾重にも閉ざしている。その霧の中に、チラチラと時折、瞥見するものは、半面紫色になった青年の死に顔と、艶然たる微笑を含んだ夫人のコウギョクの如き美観とであった。  青年から、瀕死の声で、返すことを頼まれた時計は、──:青年の怨みを込めて、返さなければならぬ時計は、あやふやな口実のもとに、謎の夫人の手に、手軽に手渡されている。信一郎は、死んだ青年に対する責任感からも、この謎を一通りは解かねばならぬと思った。時計が、その真の持ち主に、青年の望んだ通りの意味で、返されることの為に、出来るだけは尽さねばならぬことを感じた。  が、その謎を解くべき、唯一の手がかりなる時計は、既に夫人の手に渡っている。ただ、それの受け取のように、夫人から贈られた慈善音楽会のイチヨウの入場券が、信一郎の紙入れに、何の不思議もなく残っているだけである。  が、この何の奇もない入場券と、『是非おいで下さいませ。その節お目にかかりますから。』と言う夫人の言葉とが、今の場合/夫人に近づく、従って夫人の謎を解くべき唯一の心細い/頼りない手がかりだった。夫人と信一郎とを結び付けている細い細い蜘蛛の糸のような、繋ぎであった。もっとも、どんなに細くとも、蜘蛛の糸には、それ相応の粘着力はあるものだが。  音楽会の期日は、六月の最後の日曜だった。その日の朝までも、信一郎の心には、妙に躊躇する心持ちもあった。お前は、青年に対する責任感からだと、お前の行為を解釈しているが、本当は一度言葉を交えた瑠璃子夫人の美貌に惹き付けられているのではないか。彼’の心の裡で、反噬するそうした叫びもあった。その上、今日までは、こうした会合へ出るときは、き-っと新婚の静子を伴わないことはなかった。が、今日は妻を伴うことは、考えられないことだった。会場で出来るだけ、夫人に接近して/夫人を知ろうとするためには、妻を同伴することは、足手まといだった。  昼食を済ましてからも、信一郎は音楽会に行くことを、妻に打ち明けかねた。が、外出をするためには、着替えをすることが、必要だった。 「ちょっと散歩に。」と言ってブラリと、着流しのまま、外出する訳には行かなかった。 「ちょっと音楽会に行って来るよ。着物を出しておくれ。」  そうした言葉が、どうしても気軽にでなかった。それは、何でもない言葉だった。が、信一郎に取っては、妻に対して吐かねばならぬ最初の冷たい言葉だった。 「音楽会に行くから、お前も仕度をおしなさい。」  そうした言葉だけしか、聞かなかった静子には、それがかなり冷たく響くことは、信一郎には/余りによく判っていた。  彼は、ぼんやり縁側に立っているかと思うと、また、何かを思い出したように二階へ上った。が、机の前に坐っても、少しも落ち着かなかった。彼は、思い切って妻に言う積りで、再び下へ降りて来た。  が、解き物をしながら、階段を降りて来る夫の顔を見ると、心の裡の幸福が、自然と弾み出るような微笑を浮べる妻の顔を見ると、手軽に言ってのける筈の言葉が、またグッと咽喉にからんでしまった。 「あら! 貴方、さっきから何をそんなに、ソワソワしていらっしゃるの?」  無邪気な妻は夫の図星を指してしまった。指されてしまうと、信一郎は却って落ち着いた。 「うっかり忘れていたのだ。今日は専務が米国へ行くのを送って行かなければならないのだった!」  彼は、咄嗟に今日’出発する筈の専務のことを思い出したのだ。 「ナンジの汽車? これから行っても、間に合うのでございますか?」  静子はちょっと心配そうに言った。 「間に合うかも知れない。確か二時に新橋を立つ筈だから。」  そう言いながら、信一郎は柱時計を見上げた。それは、一時を回ったばかりだった。 「じゃ、早くお仕度なさいまし。」解き物を、掻きやって、妻は、甲斐甲斐しく立ち上がった。  信一郎は、最初の冷たい言葉を言う代わりに、最初の嘘を言ってしまった。そのほうが、ズッと悪いことだが。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  その日の音楽会は、ロシアのピアニスト/若きセザレヴィッチ兄妹の独奏会だった。  去年から今年にかけて、故国の動乱を避けて、さすらいの旅に出た露西亜の音楽家たちが、イクニンもイクニンも東京の楽壇を賑わした。そのなかには、ピアノやセロやヴァイオリンの世界的メイシュさえ交じっていた。セザレヴィッチ兄妹もやっぱり、さすらいの旅の寂しさを、背おっている人だった。殊に、妹のアンナ・セザレヴィッチのどこか東洋的な、日本人向きの美貌が、兄妹の天才的な演奏と共に、楽壇の人気をさらっていた。その日の演奏は、確かサンヨ-ンカイメの演奏会だった。上流社会の貴夫人達の主催にかかる、その日の演奏会の純益は、東京にいる亡命のロシア人たちの窮状を救うために、投ぜられる筈だった。  信一郎が、その日の会場たる/上野の精養軒の階上の大広間の入口に立った時、会場はザッと一杯’だった。が、人数は三百人にも足らなかっただろう。七円と言う高い会費が、今日の聴衆を、かなり貴族的に制限していた。極楽鳥のように着飾った夫人や令嬢が、ズラリと静粛に並んでいた。その中に諸所’瀟洒なモオニングを着て、楽譜を手に持っている、音楽研究の若殿様と言ったような紳士が、二’三人ずつ交じっていた。信一郎は聴衆を一瞥した刹那に、すぐ油に交じった水のような寂しさを感じた。こうした華やかなグループの中に、クインのように立ち働いているショウダ夫人が、自分に──片隅に小さく控えている自分に、少しでも注意を向けてくれるかと思うと:、妻の手前を-つくろってまで、出席した自分が、何だか心細く/馬鹿馬鹿しくなって来た。  信一郎が、席に着くと間もなく、妹のほうのアンナが、華やかな拍手に迎えられて/壇上に現われた:、スラヴ美人の典型と言ってもいいような、碧い眸と、白い雪のようなホオとを持った/美しい娘だった。彼女は微笑を含んだ会釈で喝采に応えると、水色のスカートをひるがえしながら、快活にピアノに向かって腰を降ろした。と、思うと、その白い蝋のような繊手は、すぐ霊活な蜘蛛か何かのように、鍵盤の上を、駈け回り始めた。曲は、露西亜の国民音楽家の一人として名高いボロディンのバラッドだった。  その素朴な、軽快な旋律に、耳を傾けながら、信一郎の注意は、半ば聴衆席の前半のほうに走っていた。彼は、若い婦人の後ろ姿を、それからそれと一人一人検めた。が、たった一度、相見ただけの女は、後ろ姿に依っては、すぐそれと分かりかねた。  妹の演奏が終ると、美しい花環が、幾つも幾つも、’壇上へ運ばれた。露西亜の少女は、それを一々溢れるような感謝で受け取ると、子供のように喜びながら、ピアノの上へ幾つも幾つも置き並べた。余り沢山置き並べるので、演奏の邪魔になりそうなので、司会者があわてて取り降ろした。聴衆が、この少女の無邪気さをどっと笑った。信一郎も、少女の美しさと無邪気さとに、引きずられて、つい笑ってしまった。  ちょうどその途端、信一郎の肩を軽くパットするものがあった。彼は驚いて、振り返った。そこに微笑’する美しき瑠璃子夫人の顔があった。 「よくいらっしゃいましたのね。さっきからお探ししていましたのよ。」  信一郎の言うべきことを、向こうで言いながら、瑠璃子は、信一郎と並んで/そこに空いていた椅子に腰を下ろした。 「あまりお見えにならないものですから、いらっしゃらないのかと思っていましたのよ。」  信一郎の方から、改めて挨拶する機会のないほど、向こうは親しく馴々しく、友達か何かのように言葉をかけた。 「先日は、どうも失礼しました。」  信一郎は、遅ればせに、ドギマギしながら、挨拶した。 「いいえ! わたくしこそ。」  彼女は、小波ひとつ立たない/池のオモテか何かのように、落ち着いていた。  ちょうど、その時に兄のニコライ・セザレヴィッチが壇上に姿を現した。が、瑠璃子夫人は立とうとはしなかった。 「わたくし、暫らくここで聴かせていただきますわ。」  彼女は、信一郎に言うともなく独り言のように呟いた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  ちょうどその時、兄のセザレヴィッチの奏き初めた曲は、ショパンのプレリュウドだった。聴衆は、水を打ったようなシジマの裡に、全身の注意を二つの耳に蒐めていた。が、その中で、信一郎の注意だけは、彼の左半身の触覚に、溢れるように-満ち渡っていた。彼の左側には、瑠璃子夫人が、坐っていたからである。彼女は、故意にそうしているのかと思われるほどに、その華奢な身体を、信一郎のホウへ寄せかけるように、坐っていた。  信一郎は、淡彩に夏草を散らした薄葡萄色の、金紗縮緬の着物の下に、軽く波打っている彼女の肉体の暖かみをさえ、感じ得るように思った。  彼女は、演奏が初まると、すぐ独り言のように、「レインドロップスのプレリュウドですわね。」と、軽く小声で言った。それは、いかにもショパンの数多い前奏曲のうち、『雨だれの前奏曲』として、知られたる傑作だった。  彼女は、演奏が進むに連れて、彼女の膝の、夏草模様に、実物剥製の蝶が、群れ飛んでいる辺りを、そこに目に見えぬ鍵盤が、あるかのように、白い細い指先で、軽くしなやかに、打ち続けているのだった。しかも、それと同時に、彼女の美しいプロフィイルは、本当に音楽が解るものの感ずる/恍惚たる喜悦で輝いているのだった。そこには日本の普通の女性には見られないような、精神的な美しさがあった。思想的にも、感覚的にも、開発された本当に新しい女性にしか、許されていないような、神々しい美しさがあった。  信一郎は、ときどき彼女の横顔を、そのくっきりと通った襟足を、そっと見詰めずには-いられないほど、彼女独特の美しさに、心を惹かされずには-いられなかった。  曲が、終りかけると、彼女はナンピ-トよりも、先に慎しい拍手を送った。  快い緊張から夢のように醒めながら、彼女は信一郎を顧みた。 「妹のほうが、技巧は確かですけれども、どうも兄のほうが、奔放で、自由で、それだけ天才的だと思いますのよ。」 「僕も同感です。」信一郎も、心からそう答えた。 「貴方、音楽お好き? ホホホホ、わざわざ来て下さったのですもの、お好きに決まっていますわね。」  彼女は、二度目に会ったばかりの信一郎に、少しの気兼もないように、話した。 「好きです。高等学校にいたときは、音楽会の会員だったのです。」 「ピアノお奏きになって?」 「簡単なバラッドや、マーチくらいは奏けます。ハハハハハ。」 「ピアノお持ちですか。」 「いいえ。」 「じゃ、わたくしの宅へときどき、奏きにいらっしゃいませ。誰も気の置ける人はいませんから。」  彼女は、薄キミの悪いほど、馴々しかった。その時に、壇上には、妹のアンナが立っていた。 「バラキレフの『イスラメイ』を演るのですね。随分難しいものを。」  そう言いながら、彼女は立ち上がった。 「みんなが、わたくしを探しているようですから、失礼いたしますわ。会が終りましたら、下’の食堂でお茶を一緒に召上りませんか。約束して下さいますでしょうね。」 「ハア! 結構です。」  信一郎は、何かの命令をでも、受けたように答えた。 「それでは後ほど。」  彼女は、軽く会釈すると、静まり返っている聴衆の間の通路を、悪びれもせず遥か前方の自分の席へ帰って行った。信一郎はかなり熱心な眼付きで、彼女を見送った。  彼女が、席に着こうとしたとき/彼女の席の周囲にいた、多くの男性と女性とは、彼女が席に帰って来たのを、女王でもが、帰還したように、銘々に会釈した。彼女が多くの男性に囲まれているのを見ると、信一郎の心は、妙な不安と動揺とを感ぜずには-いられなかったのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  それから、演奏が終ってしまうまで、信一郎は、ピアノの快い旋律と、瑠璃子夫人の残して行った魅惑的な移り香との中に、恍惚として夢のような時間を過してしまった。  最後の演奏が終って、華やかな拍手と共に、皆が立ち上がったとき、信一郎は夢から、さめたように席を立ち上がった。  彼は、自分からさっきの約束を守るために、瑠璃子夫人を探し求めるほど大胆ではなかった。それかと言って、そのまま帰ってしまうには、彼は夫人の美しさに、支配され過ぎていた。彼は聴衆に先立って階段を降りたものの、階段の下で誰かを待ってでもいるように、躊躇していた。  美しい女性の流れが、暫くは階段を滑っていた。が、待っても、待っても夫人の姿は見えなかった。  彼が、待ちあぐんでいる裡に、聴衆は-おり切ってしまったと見え、下足の前に佇んでいる人の数がだんだん’疎らになって来た。  彼は『一緒にお茶を飲もう。』と言うことが、ただちょっとした、夫人のお世辞であったのではないかと思った。それを金科玉条のように、一生懸命に守って、待ちつづけていた自分が、少し馬鹿らしくなった。夫人は、きっと混雑を避けて、別の出口から、もうとっくに帰り去ったに違いない。そう思って、彼は軽い失望を感じながら、キビスを返そうとした時だった。階段の上から、軽い靴音と、やさしい衣擦れの’音と、流暢なフランス語の会話とが聞えて来た。彼が、軽い驚きを感じて、見上げると、階段の中途を静かに下りかかってい-るのは、今日のスタアなるアンナ・セザレヴィッチと/瑠璃子夫人とだった。その二人の洗い出したような鮮かさが、信一郎の心を、深く-ふかく動かした。1種’敬虔な心持ちをさえ-いだかせた。白皙なロシア美人と並んでも、瑠璃子夫人の美しさは、その特色を立派に発揮していた。殊に、そのスラリとして高い長身は、全ての日本婦人が白人の女性と並び立った時の醜さから、彼女を救っていた。  信一郎は、うっとりとして、名画の美人画をでも見るように、暫くは見詰めていた。  それと同じように、彼を驚かしたものは/瑠璃子夫人の暢達なフランス語であった。仏法出の法学士である信一郎は、かなり会話にも自信があった。が、水のほとばしるように、自然に豊富に、美しい発音を以って、語られている言葉は、信一郎の心を魅し去らずにはいなかった。  瑠璃子は、階段の傍らに、ボンヤリ立っている信一郎には、一瞥も与えないで、アンナを玄関まで送って行った。  そこで、後から来た兄のセザレヴィッチを待ち合わすと、兄妹が自動車に乗ってしまうまで、主催者の貴婦人達と一緒に見送っていた。彼女ひとり、兄妹を相手に、始終快活に談笑しながら。  兄妹を乗せた自動車が、去ってしまうと、彼女は、初めて信一郎を見付けたように、いそいそと彼のそばへやって来た。 「まあ! 待っていて下さいましたの。随分お待たせしましたわ。でも兄妹を送り出すまで、幹事として責任がございますの。」  彼女は、そう言いながら、帯の間から、時計を取り出して見た。それはやっぱりプラチナの時計だった。それを見た刹那、不安な/嫌な連想が、稲妻のように、信一郎の心を馳せ過ぎた。 「おやもう、六時でございますわ。お茶なんか飲んでいますと、遅くなってしまいますわ。いかがでございます。あのお約束は、またのことにして下さいませんか。ねえ! それでいいでございましょう。」 「ハア! それで結構です。」  信一郎は、従順な-しもべのように答えた。 「あなた! お宅はどちら!」 「信濃マチです。」 「それじゃ、院線でお帰りになるのですか。」 「市電でも、院線でもどちらででも帰れるのです。」 「それじゃ、院線でお帰りなさいませ。万世橋でお乗りになるのでしょう。わたくしの自動車で万世橋までお送りいたしますわ。」  彼女は、それが何でもないことのように、微笑’しながら言った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  わずか二度しか逢っていない、しかも確かな紹介もなく/妙な事情から、知り合いになっている男性に──:その職業も/位置も/身分も十分’分かっていない男性に、突然’自動車の同乗を勧める瑠璃子夫人の大胆さに、勧められる信一郎のほうが、却ってタジタジとなってしまった。信一郎は、ちょっと狼狽しながら、急いでそれを断ろうとした。 「いいえ恐れ入ります。電車で帰ったほうが勝手ですから。」 「あら、そんなに改まって遠慮して下さると困りますわ。わたくし/本当は、お茶でもいただきながら、ゆっくりお話がしたかったのでございますよ。それだのに、ついこんなに遅くなってしまったのですもの。せめて、一緒に乗っていただいて、お話ししたいと思いますの。死んだ青木さんのことなども、お話ししたいことがございますのよ。」 「でもご迷惑じゃございませんか。」  信一郎は、もうかなり、同乗する興味に、動かされながら、それでも口先ではこう言って見た。 「あら、ご冗談でございましょう。ご迷惑なのは、貴方ではございませんか。」  夫人の言葉は、銘刀のように鮮やかな冴えを持っていた。信一郎が、夫人の奔放な言葉に-あっせられたように、モジモジしている間に、夫人はボーイに合図した。ボーイは、玄関に立って、声’高く自動車を呼んだ。  暮れなやむ初夏の宵の夕闇に、いま点火したばかりの、眩しいようなヘッドライトを輝かしながら、青山の葬場で一度見たことのある青色’大型の自動車は、軽い爆音を立てながら、玄関へ横付けになった。会衆は悉く散じ去って、供待ちする俥も自動車一台も残っていなかった。 「さあ! 貴方から。」  信一郎の確かな承諾をも聴かないのにも拘わらず、夫人はそれに決まった事のように、信一郎を促した。  そう勧められると、信一郎は不安と幸福とが、半分ずつ交じったような心持ちで、胸が掻き乱された。彼は、心から同乗することを欲していたのにも拘わらず、乗ることが何となく不安だった。その踏み段に足をかけることが、何だか行方知らぬ運命の岐路へ、一歩を踏み出すように不安だった。 「あら、何をそんなに遠慮していらっしゃるの。じゃ、わたくしがお先に失礼しますわ。」  そう言うと、夫人は軽やかに、紫のフェルトの草履で、ステップを軽く踏んで、ヒラリと車中の人になってしまった。 「さあ! 早くお乗りなさいませ。」  彼女は振り返って、微笑と共に信一郎をさしまねいた。  相手が、そうまで何物にも囚われないように、奔放に振舞っているのに、男でありながら、こだわり通しにこだわっていることが、信一郎自身にも、厭になった。彼は、思い切って、ステップに足を踏みかけた。  信一郎は、車中に入ると、夫人と対角線的に、前方の腰かけを、引き出しながら、腰を掛けようとした。  夫人は驚いたように、それを制した。 「あら、そんなことをなさっちゃ、困りますわ。まあ、殿方にも似合わない、何と言う遠慮深い方でしょう。さあこちらへおかけなさい! わたくしと並んで。そんなに遠慮なさるものじゃありませんよ。」  信一郎を、窘めるように、叱るように、夫人の言葉は力を持っていた。信一郎は、今は止むを得ないと言ったように、夫人と擦れ擦れに腰を降ろした。夫人の身体を掩うている金紗縮緬のいじり痒いような触感が、着物越しに、彼の身体に浸みるように感ぜられた。  給仕やボーイなどの挨拶に送られて、自動車は滑るように、玄関前の緩い勾配を、公園の青葉の闇へと、進み始めた。  給仕人’たちの挨拶が、耳に入らないほど、信一郎は、激しい興奮の裡に、夢みる人のように、恍惚としていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  つい知り合ったばかりの女性、しかも美しく高貴な女性と、たった二度目に会ったときに、もう既に自動車に、同乗すると言うことが:、信一郎には、さながら美しい夢のような、二十世紀のロマンスの主人公になったような、不思議な歓びを与えてくれた。万世橋駅までのサンヨンプンが、彼の生涯に再び得がたい/貴重なサンヨンプンのように思われた。彼の生涯を通じて、宝石のように輝く、尊い瞬間のように思われた。彼は、その時間を心の底から、享け入れようと思っていた。が、そう決心した刹那に、もう自動車は、公園の蒼いコノシタ闇を、あとに残して、上野山下に拡がる初夏の夜、そうだ、豊かに輝ける夏の夜の/えがけるが如き、光と色との中に、駆け入っているのだった。ときは速い翼を持っている。が、このサンヨンプンの時間は、電光その物のように、アッと言う間もなく過ぎ去ろうとしている。  試験の答案を書く時などに、時間が短ければ短いほど、冷静に筆を運ばなければならないのに、時間があまりに短いと、却ってわくわくして、少しも手が付かないように:、信一郎も飛ぶが如くに、過ぎ去ろうとする時間を前にして、ただ茫然と手を-こまねいているだけだった。  然るに、瑠璃子夫人は悠然と、落ち着いていた。親しい友達か、でなければ自分の夫とでも、一緒に乗っているように、微笑を車内の薄闇に、漂わせながら、急に話しかけようと-もしなかった。  ちょうど、自動車が松坂屋の前にさしかかった時、信一郎は、やっと──:と言っても、ただ一分間ばかり黙っていたのに過ぎないが──:会話の糸口を見付けた。 「さっき、ちょっと立ち聞きした訳ですが、大変フランス語が、お上手でいらっしゃいますね。」 「まあ! お恥ずかしい。聴いていらしったの。動詞なんか滅茶苦茶なのですよ。単語を並べるだけ。でもあのアンナと言う方、大変感じのいい方よ。大抵お話が通ずるのですよ。」 「どうして滅茶苦茶なものですか。大変感心しました。」  信一郎は心でもそう思った。 「まあ! お賞めに与かって有難いわ。でも、本当にお恥ずかしいのですよ。ほんの二年ばかり、お稽古しただけなのですよ。貴方は仏法の出身でいらっしゃいますか。」 「そうです。高等学校時代から、ロクシチネンもやっているのですが、それで会話と来たら、丸切り駄目なのです。よく、会社へフランス人が来ると、私だけがフランス語が出来ると言うので、応接を命ぜられるのですが、そのたび毎に、閉口するのです。奥さんなんか、このまますぐ外交官夫人として、パリー辺りの社交界へ送り出しても、/立派なものだと思います。」  信一郎は、つい心からそうした讃辞を呈してしまった。 「外交官の夫人/ ホホホ、わたくしなどに。」  そう言ったまま、夫人の顔は急に曇ってしまった。外交官の夫人。彼女の若き日の憧れは、未来の外交官たる直也の妻として、遠く海外の社交界に、日本婦人の華として、咲き出ずることではなかったか。彼女が、フランス語の稽古をしたことも、みんなそうした日のための、準備ではなかったか。それもこれも、今では煙の如く空しい過去の思い出となってしまっている。外交官の夫人と言われて、彼女の華やかな表情が、急に光を失ったのも無理はなかった。  瞬間的な沈黙が、二人を支配した。自動車は御成街道の/電車の右側の坦々たる道を、速力を加えて疾駆していた。万世橋までは、もう三町もなかった。  信一郎は、もっとピッタリするような話がしたかった。 「フランス文学は、お好きじゃございませんか。」  信一郎は、夫人の顔を窺うように訊いた。 「あのう──好きでございますの。」  そう言ったとき、夫人の曇っていた表情が、華やかな微笑で、拭い取られていた。 「大好きでございますの。」  夫人は、再び強く肯定した。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「フランス文学が大好きですの。」と、夫人が答えた時、信一郎はそこに夫人に親しみ/近づいて行ける会話の範囲が、急に-ひらけたように思った。文学の話、芸術の話ほど、人間を本当に親しませる話はない。同じ文学なり、同じ作家なりを、両方で愛していると言うことは、ある未知の二人をかなり親しみ/近づける事だ。  信一郎は、初めて夫人と交すべき会話の題目が見付かったように喜びながら、勢いよく訊き続けた。 「やはり近代のものをお好きですか、モウパッサンとかフローベルなどとか。」 「はい、近代のものとか、クラシックスとか申し上げるほど、沢山はよんでおりませんの。でも、モウパッサンなんか大嫌いでございますわ。どうも日本の文壇などで、フランス文学とかロシア文学だとか申しましても、英語のチープエジションのある作家ばかりが、流行っているようでございますわね。」  信一郎は、瑠璃子夫人の辛辣な皮肉に苦笑しながら訊いた。 「モウパッサンが、お嫌いなのは僕も同感ですが、じゃ、どんな作家がお好きなのです?」 「一等好きなのは、メリメですわ。それからアナトール・フランス、オクターヴ・ミルボーなども嫌いではありませんわ。」 「メリメは、どんなものがお好きです。」 「みんないいじゃありませんか。カルメンなんか、日本では通俗な名前になってしまいましたが、原作は本当にいいじゃありませんか。」 「あのヒロインをどうお考えになります。」 「好きでございますよ。」  言下にそう答えながら、夫人はにっこりと笑った。 「わたくし/そう思いますのよ。女に捨てられて、女を殺すなんて、本当に男性の暴虐だと思いますの。男性の甚だしい我儘だと思いますの。大抵の男性は、女性から女性へと心を移していながら、平然と済ましていますのに、女性が反対に男性から男性へと、心を移すと、すぐ何とか非難を受けなければなりませんのですもの。わたくし、ホセに刺し殺されるカルメンのことを考えるたび毎に、男性の我儘と暴虐とを、憤らずには-いられないのです。」  夫人の美しい顔が、興奮していた。やや薄赤くほてったホオが、悩しいほどに、チャーミングであった。  信一郎は生れて始めて、男性と対等に話し得る、立派な女性に会ったように思った。彼は、はしなくも、自分の愛妻の静子のことを考えずには-いられなかった。彼女は、愛らしく/慎しく/従順貞淑な妻には違いない。が、趣味や思想の上では、自分の間に手の届かないように、広い広い隔たりが横わっている。天気の話や、衣類の話や、食物の話をするときには立派な話相手に違いない。  が、話が少しでも、高尚になり/精神的になると、もう小学生と話しているような、もどかしさと頼りなさがあった。同伴の登山者が、わずか一町か二町か、離れているのなら、麾いてやることも出来れば、声を出して呼んでやることも出来た。が、二十町も三十町も離れていれば、どうすることも出来ない。信一郎は、趣味や思想の生活では、静子に対してそれほどの隔たりを感ぜずには-いられなかった。  が、彼は今までは、諦めていた。ニホンフジンの教養が現在の程度で止まっている以上、そうしたことを、妻に求めるのは無理である。それは妻一人の責任ではなくして、日本の文化そのものの責任であると。  が、彼はいま瑠璃子夫人と会って話していると、日本にも初めて新しい、趣味の上から言っても、思想の上から言っても/優に男性と対抗し得るような女性の存在し始めたことを知ったのである。夫人と話していると、妻の静子に依って充されなかった欲求が、わずかサンヨンプンの同乗に依って、十分に充たされたように思った。  そう思ったとき、その貴いサンヨンプンカンは、過ぎていた。自動車は、万世橋のハシジョウを、やや速力を緩めながら、走っていた。 「いやどうも、大変有難うございました。」  信一郎は、そう挨拶しながら、降りるために、腰を浮かし始めた。  その時に、瑠璃子夫人は、突然’何かを思い出したように言った。 「あなた! 今晩おひまじゃなくって?」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「あなた! 今晩おひまじゃなくって?」  と、言う思いがけない問いに、信一郎は立ち上ろうとした腰を、つい下ろしてしまった。 「暇と言いますと。」  信一郎は、夫人の問いの真意を-げしかねて、ついそう訊き返さずには-いられなかった。 「何かお宅にご用事があるかどうか、お伺いいたしましたのよ。」 「いいえ! 別に。」  信一郎は夫人が、何を言い出すだろうかと言う、軽い好奇心に胸を動かしながら、そう答えた。 「実は‥‥。」夫人は、微笑を含みながら、ちょっと云い澱んだが、「今晩、演奏が済みますと、あの兄妹のロシア人を、晩餐かたがた帝劇へ案内してやろうと思っていましたの。それでボックスを買って置きましたところ、向こうが止むを得ない差し支えがあると言って、辞退しましたから/わたくし一人でこれから-まいろうかと思っているのでございますが、一人ボンヤリ見ているのも、何だか変でございましょう。いかがでございます、もし、およろしかったら、付き合って下さいませんか。どんなに有難いか分かりませんわ。」  夫人は、心から信一郎の同行を望んでいるように、余儀ないように誘った。  信一郎の心は、そうした突然の申し出を聴いた時、かなり動揺せずにはいなかった。今までのサンヨンプンカンでさえ彼に取ってどれほど貴重なサンヨンプンカンであるか分からなかった。夫人の美しい声を聞き、その華やかな表情に接し、女性として驚くべきほど、進んだ思想や趣味を味わっていると、彼には今まで、閉されていた楽しい世界が、夫人との接触に依って、洋々と開かれて行くようにさえ思われた。  そうした夫人と、今宵一夜を充分に、語ることが出来ると言うことは、彼にとってどれほどな、幸福と喜びを意味しているか分からなかった。  彼は、すぐ同行を承諾しようと思った。が、その時に妻の静子の面影が、チラッと頭を掠め去った。新橋へ、人を見送りに行ったと言う以上、二時間もすれば帰って-くるべき筈の夫を:、夕餉の支度をおえて、ボンヤリと待ちあぐんでいる妻のあどけない面影が、暫く彼の頭を支配した。その妻を、十時過ぎ、恐らく十一時過ぎまでも待ちあぐませることが、どんなに妻の心を傷ませることであるかは、彼にもハッキリと分かっていた。 「いかがでございます。そんなにお考えなくっても、手軽に決めて下さっても、およろしいじゃありませんか。」  夫人は躊躇している信一郎の心に、拍車を加えるように、やや高飛車にそう言った。信一郎の顔をじっと見詰めている夫人のノーブルな/おごそかに美しいオモテが、信一郎の心の内の静子の慎しい/可愛い面影を打ち消した。 「そうだ! 静子と過すべき晩は、これからの長い結婚生活に、幾夜だってある。飽き飽きするほど幾夜だってある。が、こんな美しい夫人と、一緒に過すべき機会が/そう幾度もあるだろうか。こんなロマンチックな美しい機会が、そう幾度だってあるだろうか。生涯に再びとは得がたい/ただ一度の機会であるかも知れない。こうした機会を逸しては‥‥。」  そう心の中で思うと、信一郎の心は、籠を放れた鳩か何かのように、フワフワとなってしまった。彼は思い切って言った。 「もし貴方さえ、ご迷惑でなければお伴’いたしてもいいと思います。」 「あらそう。付き合って下さいますの。それじゃ、すぐ、丸の内へ!」  夫人は、あとの言葉を、運転手へ通ずるように声’高く言った。  自動車は、緩みかけた爆音を、再び高く上げながら、シャシュを転じて、夜の須田町の混雑の中を泳ぐように、駆け-り始めた。  電車道の、ペーヴメントが悪くなっているせいか、車台は頻りに動揺した。信一郎の心も、それに連れて、軽い動揺を続けている。  車が、小川町のカドを、急に曲ったとき、夫人は思い出したように、とぼけたように訊いた。 「失礼ですが、奥様おありになって?」 「はい。」 「ご心配なさらない! 黙って-いらしっては?」 「いいえ。決して。」  信一郎は、言葉だけは強く言った。が、その声には一種の不安が響いた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第九章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  帝劇の南側の車寄せの階段を、夫人と一緒に上るとき、信一郎の心は、再び動揺した。この晴れがましい建物の中に、そこにはどんな人々がいるかも知れない群衆の中へ、こうした美しい、それだけ人目を惹き易い女性と、たったふたり連れだって、公然と入って行くことが、かなり気になった。  が、信一郎のそうした心遣いを、救けるように、舞台では今ちょうど幕が開いたと見え、廊下には、遅れた二’三の観客が、急ぎ足に、シートへ帰って行くところだった。  夫人と並んで、広い空しいボックスの一番前方に、腰を下ろしたとき、信一郎はやっと、自分の心が落ち着いて来るのを感じた。舞台が、煌々と明るいのに比べて、観客席が、仄暗いのが嬉しかった。  夫人は席へ着いたとき、ニサンプンばかり舞台を見詰めていたが、ふと信一郎のほうを振り返ると、 「本当にご迷惑じゃございませんでしたの。芝居はお嫌いじゃありませんの。」 「いいえ! 大好きです。もっとも、今の歌舞伎芝居にはかなり不満ですがね。」 「わたくしも、そうですの。ほかに行くところもありませんからよく参りますが、わたくしたちの実生活と歌舞伎芝居の世界とは、もう/丸きり違っているのでございますものね。歌舞伎に出て来る女性と言えば、みんな個性のない/自我のない、古い道徳の人形のような女ばかりでございますのね。」 「同感です。全く同感です。」  信一郎は、心から夫人の秀れた見識を讃嘆した。 「親や夫に臣従しないで、もっと自分本位の生活を送ってもいいと思いますの。古い感情や道徳に囚われないで、もっと解放された生活を送ってもいいと思いますの。英国のある近代劇の女主人公’が、男がスカイラークのように、多くの女と戯れることが出来るのなら、女だってスカイラークのように、多くの男と戯れる権利があると申しておりますが、そうじゃございませんでしょうか。わたくしもそう思うことがございますのよ。」  夫人は、周囲の静けさを乱さないように、出来るだけ信一郎の耳に口を寄せて語りつづけた。夫人の温い薫るような呼吸が、信一郎のほてったホオを、柔かに撫でるごとに、信一郎は身体じゅうが、とろけてしまいそうな魅力を感じた。 「でも、貴方なんか、そうした女性は、お好きじゃありませんでしょうね。」そう、信一郎の耳に、あたたかく囁いて置きながら、夫人は顔を少し離してにっこりと笑って見せた。男の心を、掻き乱してしまうような媚びが、そのスラリとした身体全体に動いた。  夫人の大胆な告白と、美しい媚びのために、信一郎は、目が眩んだように、フラフラとしてしまった。美しい妖精に魅せられた少年のように、信一郎は顔を薄赤く、ほてらせながら、ただ茫然と黙っていた。  夫人は、ひらりと身を躱すように、真面目な/しんみりとした態度に帰っていた。 「でも、わたくし、こんな打ち解けたお話をするのは、貴方が初めてなのよ:、文学や思想などに、理解のない方に、こんなお話をすると、すぐ誤解されてしまうのですもの、わたくし、かねてから、貴方のようなお友達が欲しかったの:、本当にわたくしの心持ちを、聴いて下さるような男性のお友達が、欲しかったの:、二人の異性の間には、真の友情は成り立たないなどと言うのは嘘でございますわね、異性の間の友情は、恋愛への階段だなどと言うのは、嘘でございますわね。本当に自覚している異性の間なら、立派な友情がいつまでも続くと思いますの。貴方とわたくしとの間で、先例を開いてもいいと思いますわ。ホホホホ。」  夫人は、真の友情を説きながらも、その美しい唇は、悩ましきまでに、信一郎の右のホオ’近く寄せられていた。信一郎は、うっとりとした心持ちで、アヘン吸入者が、毒と知りながら、その恍惚たる感覚に、身体を任せるように、夫人の蜜のように甘い呼吸と、音楽のように美しい言葉とに全身を浸していた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第16話】 【客間の女王】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  帝劇のボックスに、夫人と肩を並べて、過した数時間は、信一郎に取っては、夢とも-うつつとも’分かちがたいような/恍惚たる時間だった。  夫人の身体全体から出る、馥郁たる女性の香りが、彼の感覚を爛らし、彼の魂を溶かしたと言ってもよかった。  彼は、その夜、半蔵門まで、夫人と同乗して、そこで新宿行きの電車に乗るべく、彼女と別れたとき、自動車の窓から、夜目にもくっきりと白い顔を、のぞかしながら、 「それでは、この次の日曜にきっと-お訪ね下さいませ。」と、媚びるような美しい声で叫んだ夫人の声が、彼の心の底の底まで徹するように思った。彼は、そこに化石した人間のように立ち止まって、葉桜のコノシタ闇を、ほのぼのと照し出しながら、遠く去って行く自動車の車台のあとの青色の明かりを、いつまでもいつまでも見送っていた。彼のホオには、なお夫人の甘い快い息の匂いが漂うていた。彼’の耳の底には、夫人のこの世ならぬ美しい声の余韻が残っていた。彼の感覚も心も、夫人に酔うていた。  彼’の耳に囁かれた夫人の言葉が、甘い蜜のような言葉が、一つ一つ記憶の裡によみがえって来た。『自分を理解してくれる最初の男性』とか、『そんな女性をお好きじゃありませんの』と言ったような馴々しい言葉が、それが語られた刹那の夫人の美しい媚びのある表情と一緒に、信一郎の頭を悩ました。  自分が、生まれて始めて会ったと思うほどの美しい女性から、ただ一人の理解者として、馴々しい信頼を受けたことが、彼の心を攪乱し、彼の心を有頂天にした。  彼’の頭の裡には、もう半面紫色になった青木淳の顔もなかった。謎のプラチナの時計もなかった。愛している妻の静子の顔までが、この﨟たけた瑠璃子夫人の美しい面影のために、しばしば掻き消されそうになっていた。  十二時近く帰って来た夫を、妻はいつものように無邪気に、何の疑念もないように、いそいそと出迎えた。そうした淑かな妻の態度に接すると、信一郎はかなり、心の底に良心の苛責を感じながらも、しかも今まではかなり美しく見えた妻の顔が、平凡に単純に、見えるのをどうともすることが出来なかった。  その次の日曜まで、彼は絶えず、美しい夫人の記憶に悩まされた。食事などをしながらも、彼の想像は美しい夫人を頭の中に-えがいていることが多かった。 「あら、何をそんなにぼんやりしていらっしゃいますの、今度の日曜は何日? と言ってお尋ねしているのに、ただ『うむ/ うむ/』と言っていらっしゃるのですもの。何をそんなに考えていらっしゃるの?」  静子は、夫がボンヤリしているのが、可笑しいと言いながら、給仕をする手を止めて、笑いこけたりした。夫が、他の女性のことを考えて、ボンヤリしているのを、可笑しいと言って無邪気に笑いこける妻のいじらしさが、分からない信一郎ではなかったが:、それでも彼は刻々に頭の中に、浮かんで来る美しい面影を拭い去ることが出来なかった。  とうとう夫人と約束した次の日曜日が来た。そのあいだの一週間は、信一郎に取っては、ひと月もふた月もに相当した。彼は、自分がその日曜を待ちあぐんでいるように、夫人がやっぱりその日曜を待ち望んでいてくれることを信じて疑わなかった。  夫人が、自分をただ一人の真実の友達として、選んでくれる。夫人と自分との交情が発展して行く有様が、いろいろに頭の中に-えがかれた。異性の間の友情は、恋愛の階段であると、夫人が言った。もしそれがそうなったら、どうしたらよいだろう。あの自由奔放な夫人は、きっと云うだろう。 「それが、そうなったって、別に差し支えはないのよ。」  夫のない夫人はそれで差し支えがないかも知れない。が、自分はどうしたらいいだろう。妻のある自分は。結婚してマもない愛妻のある自分は。  信一郎は、そうした取りとめもない空想に頭を悩ましながら、七月の最初の日曜の午後に、夫人を訪ねるべく家を出た。  夫人を訪ねるのも、二度目であった。が、妻を欺くのも二度目であった。 「社の連中と、午後から郊外へ行く約束をしたのでね。新宿で待ち合わして、多摩川へ行く筈なのだよ。」  帽子を持って送って出た静子に、彼は何気なくそう言った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  電車に乗ってからも、妻を欺いたと言う心持ちが、かなり信一郎を苦しめた。が、あの美しい夫人が自分が尋ねて行くのを、じっと待っていてくれるのだと思うと、電車の速力さえいつもよりは、鈍いように思われた。  夫人と会ってからの、談話の題目などが、頭の中に次から次へと、浮かんで来た。文芸や思想の話に就いても、今日はもっと、自分の考えも話して見よう。自分のいつもの造詣を、十分披瀝して見よう。信一郎はそう考えながら、夫人のそれに対する溌剌たる受け答えや表情を絶えず頭の中に描き出しながら/何時の間にか五番町の宏壮な夫人の邸宅の前に立っている自分を見い出した。  お濠の土手のアオクサや、向こう側の堤の松や、大使館前の葉桜の林などには、十日ほど前に来たときなどよりも、もっと激しい夏の色が動いていた。  十日ほど前には、かなりびくびくと-くぐった花崗石らしい大石門を、今日はかなり自信に充ちた歩調で-くぐることが出来た。  楓を植え込んである馬車回しのなかに、ただ一本の百日紅が、もうかなり強い日光の中に、赤く咲き乱れているのが目に付いた。  さすがに、大理石の柱が、並んでいる車寄せに立ったとき、胸があやしく動揺するのを感じた。が、夫人が別れ際に、再び繰り返して、 「本当におひまなとき、いつでもいらしって下さい。誰も気の置ける人はいませんのよ。わたくしがお山の大将をしているのでございますから。」と、言った言葉が、彼に元気を与えた。その上に、あれほど堅く約束した以上、きっと心から待っていてくれるに違いない。心から、歓び迎えてくれるに違いない。そう思いながら、彼は「プッセ(押せ)!」と、フランス語で書いてある呼鈴に手を触れた。  この前、来たときと同じように、小さい軽い靴音が、それに応じた。ドアが静かに押し開けられると、一度見たことのある少年が、名刺受けの銀の盆を、手にしながら、笑窪のある可愛い’顔を現した。 「あのう、奥様にお目にかかりたいのですが。」  信一郎が、そう言うと少年は待っていたと言わんばかりに、 「失礼でございますが、渥美さまとおっしゃいますか。」  信一郎は軽く頷いた。 「渥美さまなら、すぐどうかお通り下さいませ。」  少年は、慇懃にドアを開けて、奥を指さした。 「どうかこちらへ。今日は奥のほうの客間にいらっしゃいますから。」  敷き詰めてある青い絨毯の上を、少年のあとから歩む信一郎の心は、かなり激しく興奮した。自分の名前を、ちゃんと玄関番へ伝えてある夫人の心遣いが、嬉しかった。一夜/夫人と語り明したことさえ/生涯に二度と得がたい幸福であると思っていた。それが、一夜限りの空しい夢と消えないで、実生活の上に、ちゃんとした’根を下ろして来たことが、信一郎にはこの上なく嬉しかった。彼は絨毯の上を、しっかりと歩んでいた積りであったが、もし傍観者があったならば、その足付きが、まるきり躍っているように見えたかも知れない。夫人と、美しい客間で二人ぎり、何の邪魔もなしに、日曜の午後を愉快に語り暮らすことが出来る。そうした楽しい予感で、信一郎の心は、はち切れそうに一杯だった。  長い廊下を、10間ばかり来たとき、少年は立ち止まって、そこのドアを指した。 「こちらでございます。」  信一郎は、その中に瑠璃子夫人が、腕椅子に身体をう-ずませるように掛けながら、自分を待っているのを想像した。  彼は、興奮の余り、かすかに震えそうな手をドアのハンドルにかけた。彼が、胸一杯の幸福と歓喜とに充されて、そのドアを静かに開けたとき、部屋の中から、波の崩れるように、ワーッと彼を襲って来たものは、数多い男性が一斉に笑った笑い声だった。  彼は、不意に頭から、水をかけられたように、ゾッとして立ち竦んだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  彼がハッと立ち竦んだ時には、もう半身は客間の中に入っていた。  全てが、意外だった。瑠璃子夫人の華奢なスラリとした、身体の代わりに、そこに十人に近い男性が色々な椅子に、いろいろな姿勢で以って陣取っていた。瑠璃子夫人はと見ると、これらの惑星に囲まれた太陽のように、客間の中央に、女王のような美しさと威厳とを以って:、大きい、彼女の身体を埋ずめてしまいそうな腕椅子に、ゆったりと腰を下ろしていた。  楽しい予想が、滅茶滅茶になってしまった信一郎は、もし事情が許すならば、一目散に逃げ出したいと思った。が、彼が一足’踏み入れた瞬間に、もうみんなの視線は、彼の上に集まっていた。 「ああ、お前もやって来たのだな。」と、言ったような表情が、薄笑いと共に、彼等の顔の上に浮かんでいた。信一郎は、そうした表情に依って/かなり傷つけられた。  瑠璃子夫人は、さすがに目敏く彼を見ると、すぐ立ち上がった。 「あ、よくいらっしゃいました。さあ、どうぞ。お掛け下さいまし。さっきからお待ちしていました。」  そう言いながら、彼女は部屋の中を見回して、カラ椅子を見付けると、そのカラ椅子のすぐそばにいた学生に、 「ああ/阿部さん/ちょっとその椅子を!」と、言った。  するとその学生は、命令をでも受けたように、 「はい!」と、言って気軽に立ち上がると、その椅子を、夫人の美しい眼で、命ずるままに、夫人の腕椅子のすぐそばへ持って来た。 「さあ! お掛けなさいませ。」  そう言って、夫人は信一郎をさしまねいた。どちらかと言えば、ショウシンな信一郎は、多くの先客を押し分けて、夫人のそば近く坐ることが、かなり心苦しかった。彼は、自分のホオが、かなりほてって来るのに気が付いた。  信一郎が椅子に着こうとすると/夫人はちょっと押しとどめるようにしながら言った。 「そうそう。ちょっとご紹介して置きますわ。この方、法学士の渥美信一郎さん。三菱へ出ていらっしゃる。それから、ここにいらっしゃる方は、──:そう/右の端から順番に起立していただくのですね、さあコヤマさん!」  と彼女は傍若無人と言ってもよいように、一番ヴェランダの近くに坐っている、若い/モーニングを着た紳士を指した。紳士は、素直に/モジモジしながら立ち上がった。 「外務省に出ていらっしゃるコヤマ男爵。その次の方が、洋画家の永島龍太さん。その次の方が、帝大のブン科の三宅さん、作家志望でいらっしゃる。その次の方が、慶応の理財科の阿部さん、第一銀行の重役の阿部保さんのお子さん。その次の方が日本生命へ出ていらっしゃる深井さん、高商出身の。その次の方が、寺島さん、ご存じ? 近代劇協会にいたことのある方ですわ。その次の方は、芳岡さん! 芳岡伯爵の長男でいらっしゃる。彼処に一人離れていらっしゃる方が、富田さん! 政友会の少壮代議士として有名な方ですわ。みんな私のお友達ですわ。」  夫人は、夫人の眼に操られて、次から次へと立ち上がる男性を、出席簿でも調べるように、淀みなく紹介した。  信一郎は、かなり激しい失望と幻滅とで、夫人の言葉が、耳に入らぬほど不愉快だった。自分一人を友達として選ぶと言った夫人が、十人に近い男性を、友人として自分に紹介しようとは、彼はフンヌと嫉妬との入り交じったようなゲッコウで、眼が-くらめくようにさえ感じた。彼はすぐ席を蹴って帰りたいと思った。が、何事もないように、こぼれるように微笑’している夫人の美しい顔を見ていると、胸の中の激しいフンヌが春風に解くるように、何時の間にか、消えてゆくのを感じた。  コロネーションに結った黒髪は、夫人の長身にピッタリと似合っていた。黒地に目も醒めるような白い棒縞のお召が、夫人の若々しさをいっそう引立てていた。白地のフランスチリメンの丸帯に、施された薔薇の刺繍は、匂入りと見え、人の心を魅するような芳香が、夫人の身辺を包んでいる。  信一郎の失望もフンヌも、夫人の鮮やかな姿を見ていると、何時の間にか撫でられるように、なごんで来るのだった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「渥美さん! いま大変な議論が始まっているのでございますよ。明治時代第一の文豪は、誰だろうと言う問題なのでございますよ。貴方のお説も伺わして下さいませな。」  夫人は、信一郎を会話の圏内にいれるように、取りなしてくれた。が、初めて顔を合わす未知の人々を相手にして、すぐおいそ-れ/ と文学談などをやる気にはなれなかった。その上に、夫人から、帝劇のボックスで聴いた「こんなに打ち解けた話をするのは、貴方が初めてなのよ。」と、言うような、今となっては白々しい嘘が、彼の心を-えぐるように思い出された。 「だって奥さん! 独歩には、いい芽があるかも知れません。が、しかしあの人は先駆者だと思うのです。本当に完成した作家ではないと思うのです。」  信一郎が、何も言い出さないのを見ると、三宅と言うブン科の学生が、かなり熱心な口調でそう言った。さっきから続いて、明治末期の小説家国木田独歩を論じているらしかった。 「それに、独歩のような作品は、外国の自然派の作家にはいくらでもあるのだからね。先駆者と言うよりも、ある意味では移入者だ。日本の文学に対して、ある新鮮さを寄与したことは確かだが、それがあの人の創造であるとは言われないね。外国文学の移植なのだ。ねえ! そうではありませんか、奥さん!」  モーニングを着たコヤマ男爵は、自分の見識に対する夫人の賞讃を期待しているように、自信に充ちて言った。 「でもわたくし、かなり独歩を買っていますのよ。明治時代の作家で、本当に人生を見ていた作家は、独歩のほかに/そう沢山はないように思いますのよ。ねえ、そうじゃございませんか。渥美さん。」  夫人は、多くの男性の中から、信一郎だけを、選んだように、信一郎の賛意を求めた。が、信一郎は不幸にも、独歩の作品を、余り沢山読んでいなかった。シゴネンも前に、『運命論者』や『牛肉とバレイショ』などを読んだことがあるが、それがどう言う作品であったか、もう記憶にはなかった。が、夫人に話しかけられて、ただ盲従的に返答することも出来なかった。その上、彼は周囲の人達に対する手前、何かかにか自分の意見を言わねばならぬと思った。 「そうかも知れません。が、明治文壇の第一の文豪として推すのには、少し偏しているように思うのです。やはり、月並ですが、明治の文学はコーヨーなどに代表させたいと思うのです。」 「尾崎紅葉/」コヤマ男爵は、『クスッ』と冷笑するような口調で言った。 「『金色夜叉』なんか、今読むと全然通俗小説ですね。」  ブン科の学生の三宅が、その冷笑を説明するように、吐き出すように言った。  瑠璃子夫人は、三宅の思い切った断定を嘉納するように、ニッと微笑を洩らした。信一郎は初めて、口を入れて、すぐ横っ面を叩かれたように思った。瑠璃子夫人までが、微笑で以って、相手の意見を裏書きしたことが、更に彼’の心を傷つけた。彼は思わず、ムカムカとなって来るのをどうともすることが出来なかった。彼は、自分の顔色が変わるのを、自分で感じながら、死身になって’口を開いた。 「『金色夜叉』を通俗小説だと言うのですか。」  彼の口調は、詰問になっていた。 「無論、それは読む者の趣味の程度に依ることだが、僕には全然通俗小説だと思われるのです。」  若いブン科大学生は、何の遠慮もしないで、彼の信念を昂然と語った。 「それは、貴方が作品と時代と言うことを考えないからで-す。現在の文壇の標準から言えば、『金色夜叉』のテーマなんか、通俗小説に違いないです。が、しかしそれは『金色夜叉』の書かれた明治三十五年から、現在まで二十年も経過していることを忘れているからです。現在の文壇で、貴方が芸術的小説だと信じているものでも、二十年も-たてば、みんな通俗小説になってしまうのです。過去の作品を論ずるのには、時代と言うことを考えなければ駄目です。『金色夜叉』は今’読めば通俗小説かも知れませんが、明治時代の文学としては、立派な代表的作品です。」  信一郎は、思いのほかに、スラスラと出て来る自分の雄弁に興奮していた。 「過去の文学を論ずるには、やはり文学史的に見なければ駄目です。」  彼は、きっぱりと断定するように言った。 「それもそうですわね。」  瑠璃子夫人は、信一郎の素人離れした主張を、感心したように、しみじみそう言った。信一郎は俄に勇敢になって来た。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  瑠璃子夫人が、新来の信一郎、殊に文学などの分かりそうもない会社員の信一郎の言葉に、賛成したのを見ると、今度は三宅とコヤマ男爵との二人が、躍起になった。  殊に青年の三宅は、その若々しい浅黒い顔を、心持ち薄赤くしながら/かなり興奮した調子で言った。 「時代が-たてば、どんな芸術的小説でも、通俗小説になる。そんな馬鹿な話があるものですか。芸術的小説はいつが来たって、芸術的小説ですよ。日本の作家でも、西鶴などの小説には、いつが来ても亡びない芸術的分子がありますよ。天才的な閃きがありますよ。それに比べると、尾崎紅葉なんか、徹頭徹尾通俗小説ですよ。コーヨーの考え方とか物の見方と言うものは、常識の範囲を、1歩も出ていないのですからね。ただ、洗煉された常識に過ぎないのですよ。例えば『三人妻』など言う作品だって/いかにも三人の妻の性格を描き分けてあるけれども、それが世間に有り触れた常識的タイプに過ぎないのですからね。コーヨーを以って、明治時代の文学的常識を、代表させるのなら差し支えないが、第一の文豪として、コーヨーを推すくらいなら、むしろ露伴/柳浪/美妙、そんな人のほうを僕は推したいね。」  三宅の語り終るのを待ちかねたように、コヤマ男爵は、横から口を入れた。 「第一『金色夜叉』なんか、あんなに世間で読まれていると言うことが、通俗小説である第一の証拠だよ。バンニン向きの小説なんかに、碌なものがある訳はないからね。」  二人の、攻撃的な/挑戦的な口調を聴いていると、信一郎もつい、ムカムカとなってしまった。瑠璃子夫人はと見ると、その平静な顔に、けしかけるような微笑を湛えて、『貴方も負けないで、しっかりおやりなさい。』と、言うように信一郎の顔を見ていた。 「それは可笑しいですな。」  そう言いながら、信一郎はどこか貴族的な傲慢さが、漂うているコヤマ男爵の顔をじっと見た。 「そんな暴論はありませんよ。広く読まれているのが、通俗小説の証拠ですって、そんな暴論はないと思いますね。そう言う議論をすれば、シェクスピアの戯曲だって、通俗戯曲だと言うことになるじゃありませんか。ホーマアの-しだって、ダンテのシン曲だって、みんな広く読まれていると言う点で、通俗的作品と言うことになりそうですね。僕は、そうは思いませんよ。それと反対に、立派な芸術的作品ほど、時代が-たてば、だんだん通俗化して行くのだと思うのですね。トルストイの作品が日本などでもだんだん通俗化して来たように、通俗化して行かない作品こそ、却って何かの欠陥があると思うのですね。ご覧なさい! 馬琴でも西鶴でも、通俗化して行けばこそ、後代に伝わるのじゃありませんか。『金色夜叉』が通俗化しているからと言って、あの小説の芸術的価値を否定することは出来ませんよ。僕は芸術的に秀れていればこそ、民衆の教養が進むに従って、だんだん通俗化して行ったのだと思うのです。コーヨーの考え方や、見方はいかにも常識的かも知れません。が、しかし作品全体の味とか/その表現などにこそ、却って芸術的な価値があるのじゃありませんか。あの作品の規模の大きさから言っても、画面的に描き出す手腕から言っても、明治時代/無二の作家と言ってもよいと思うのです。いや、あの鼈甲牡丹のように、絢爛’華麗な文章だけを取っても、優に明治文学の代表者として、推す価値が充分だと思うのです。」  信一郎は、かなり熱狂して喋った。法科に籍を置いていたが、高等学校に入学の当時には、父の反対さえなければ、喜んでブン科をやった筈の信一郎は、文学に就いては自分自身の見識を持っていた。  信一郎の意外な雄弁に、半可な文学ツウに過ぎないコヤマ男爵は、もうとっくに圧倒されたと見え、その白いホオを、心持ち赤くしながら、不快そうに黙ってしまった。  三宅は、言い込められた悔しさを、どうかして晴そうと、駁論の筋道を考えているらしく/口の辺りをモグモグさせていた。 「渥美さんは、本当に立派な文芸批評家でいらっしゃる。わたくし/全く感心してしまいましたわ。」  瑠璃子夫人は、心から感心したように、賞讃の微笑を信一郎に注いだ。  信一郎は、女王の御前仕合で、見事な勝利を獲た騎士のように、晴れがましい/揚々たる気持ちになっていた。 「しかし‥‥。」と、三宅と言う青年が、必死になって駁論を始めようとした時だった。  廊下に面したドアを、ソトからコツコツと叩く音がした。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「誰方?」  夫人は、ドアを叩く音に応じてそう言った。 「僕です。」  外の人は明晰な、美しい声でそう答えた。 「あら、秋山さんなの。ちょうどよいところへ。」  夫人は、そう言いながら、いそいそと椅子を離れた。信一郎が、入って来たときは、夫人はただ椅子から、腰を浮かしただけだったのに。  夫人が、手ずからドアを開けると、『僕です。』と、名乗った男は、軽く会釈をしながら、入って来た。信一郎は、ひと目見たときに、どこかで見覚えのある顔だと思ったが、ちょっと思い出せなかった。が、ひと目見ただけで、作家か美術家であることは、すぐ解った。白い面長な顔に、黒い長髪を獅子の立髪か何かのように、振り乱していた。が、頭は極端に奔放であるにも拘わらず、薩摩上布の着物に、鉄無地の絽の薄羽織を着た姿は、かなり瀟洒たるものだった。夫人はその男とは、立ちながら話した。 「暫くご無沙汰致しました。」 「本当に長い間お見えになりませんでしたのね。箱根へお出でになったって、新聞に出ていましたが、いらっしゃらなかったの。」 「いや、どこへも行きやしません。」 「それじゃ、やっぱり例の長篇で苦しんでいらしったの。本当に、わたくしの家へいらっしゃる道を忘れておしまいになったのかと思っていましたの。ねえ! 三宅さん。」  夫人は、三宅と言う学生を顧みた。 「ヤア!」 「ヤア!」  三宅とその男とは顔を見合わして挨拶した。 「本当に、暫くお見えになりませんでしたね。貴方が、いらっしゃらないと、ここのサロンも淋しくていけない。」  三宅は、後輩が先輩に迎合するような、口の利き方をした。 「さあ! 秋山さん! こっちへお掛けなさいませ。本当によい所へいらしったわ。いま貴方に断定を下していただきたい問題が、起こっていますのよ。」  そう言いながら、今度は夫人自ら、空いた椅子を、自分の傍らへ、置き換えた。 「さあ! お掛けなさいませ! 貴方のご意見が、伺いたいのよ。ねえ! 三宅さん!」  信一郎に、説きおされていた三宅は、援兵を得たように、勇み立った。 「さあ、是非秋山さんのご意見を伺いたいものです。ねえ! 秋山さん、いま明治時代の第一の小説家は、誰かと言う問題が、起こっているのですがね、貴方のお考えは、どうでしょう。こう言う問題は、専門家でなければ駄目ですからね。」  三宅は、最後の言葉を、信一郎に当てこするように言った。瑠璃子夫人までが、その最後の言葉を説明するように信一郎に言った。 「この方、秋山正雄さん、ご存じ! あの赤門派の新進作家の。」  秋山正雄、そう言われて見れば、最初見覚えがあると思ったのは、間違っていなかったのだ。信一郎が一高の一年に入った時、その頃三年であった秋山氏はブン科の秀才として、いつも校友会雑誌に、詩や評論を書いていた。それが、大学を出ると、見るマに、メキメキと売り出して、今では新進作家の第一人者として文壇を圧倒するような盛名を馳せている。その上、教養の広く多方面な点では/若い小説家としては珍らしいと言われている人だった。  信一郎は、自分が有頂天になって、喋べった文学論が、こうした人に依って、批判される結果になったかと思うと、かなりイヤな羞しい気がした。有頂天になっていた彼の心持ちは/忽ち奈落の底へまで、引きずり落された。場合に依っては、この教養の深い文学シャ──しかも先輩に当たっている──と、文学論を戦わせなければならぬかと思うと、彼は思わず冷や汗が背中に湧いて来るのを感じた。  信一郎の心が、不快な動揺に悩まされているのをよそに、秋山氏は、いま火を点けたキングチの煙草を燻らしながら、落ち着いた調子で言った。 「それは、大問題ですな。僕の意見を述べる前に、とにかく皆様のご意見を承わろうじゃありませんか。」  そう言いながら、秋山氏は額に掩いかかる長髪を、二’三度続けざまに後ろへ掻き上げた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「だいぶいろいろなご意見が出たのですがね。ここにいらっしゃる渥美君、確かそう仰しゃいましたね。」三宅は、ちょっと信一郎の方を振り返った。「大変コーヨーをお説きになるのです。コーヨーを-おいて明治時代の文豪は、ほかにないだろうと、こう仰るのです。文章だけを取っても、鼈甲牡丹のような絢爛さがあるとか何とか仰るのです。」  三宅が、秋山氏に信一郎の持説を伝えている語調の中には、『この素人が』と言った語気が、ありありと動いていた。秋山氏は、いかにも小説家らしく澄んだ眼で、信一郎のほうをジロリと一瞥したが、吸いさしのキングチの火を、鉄の灰皿で、擦り消しながら、「鼈甲牡丹の絢爛さ! なるほど、うまい形容だな。だが、紛いの鼈甲牡丹ならサンヨン十銭で、そこらの小間物屋に売っていそうですね。」  瑠璃子夫人を初め、一座の人々が、秋山氏の皮肉を、どっと笑った。 「コーヨー山人の絢爛さも、きいちゃん、みいちゃん的読者を喜ばせる紛いの鼈甲牡丹じゃありませんかね。ちょっと見は、ツヤがあっても、触って見ると、牛の骨か何かだと言うことが、すぐ分かりそうな。」  秋山氏が、文壇での論戦などでも、自分自身の溢れるような才気に乗じて、常に相手を馬鹿にしたような、おひゃらかしてしまうような態度に出ることは、信一郎はかねがね知っていた。それが、妙な羽目から、自分一人に向けられているのだと思うと、信一郎は不愉快ともフンヌとも付かぬ気持ちで、胸が一杯だった。が、こうした文学者を相手に、議論を戦わす勇気も自信もなかった。相手の辛辣な皮肉を黙々として、聴いているほかはなかった。ただ、文壇の花形ともある秋山氏が、自分などの素人を捕まえて、真っ向から皮肉を浴びせているのが、かなり大人げないようにも思われて、それが恨めしくも、憤ろしくもあった。 「第一『金色夜叉』なんか、今読んで見ると全然通俗小説ですね。」  秋山氏は、一刀のもとに、何かを両断するように言った。  瑠璃子夫人は、『おや。』と言ったような’軽い叫びを挙げながら言った。 「三宅さんも、さっきそんなことを言ったのよ。あ、分かった! 三宅さんのは秋山さんの受け売りだったのね。」  三宅は、赤面したように、頭を掻いた。一座は、信一郎を除いて、皆ドッと笑った。  秋山氏は、皮肉な微笑を浮べながら、 「いや、三宅君と期せずして意見を同じくしたのは、光栄ですね。」  一座は、秋山氏の皮肉を、またドッと笑った。その笑いが静まるのを待ち兼ねて、三宅が言った。 「今’僕が、その『金色夜叉』通俗小説論を持ち出したのです。すると、渥美さんが言われるのです。現在の我々の標準で律すれば、『金色夜叉』は通俗小説かも知れない。が、作品を論ずるには、その時代を考えなければならない。文学史的に見なければならない。こう仰るのです。」 「文学史的に見る。それはタクケンだ。」秋山氏は、ニヤニヤと/冷笑とも微笑とも付かぬ笑いを浮べながら言った。 「だが、コーヨー山人と同時代の人間が、みんな我々の眼から見て、通俗小説を書いているのなら、『金色夜叉』が通俗小説であっても、一向’差し支えないが:、コーヨー山人と同時代に生きていて、我々の眼から見ても、立派な芸術小説をかいている人がほかにあるのですからね。いくら文学史的に見ても、コーヨーを第一の小説家として、許すことは僕には出来ませんね。文学史的に見れば、コーヨー山人などは、明治文学の代表者と言うよりも、徳川時代文学のデンショウですね。あの人の考え方にも、見方にも描き方にも、徳川時代文学の殻が、こびりついているじゃありませんか。」  さすがの信一郎も、黙っていることは出来なかった。 「そう言う見方をすれば、明治時代の文学は、全体として徳川時代の文学の伝統を引いているじゃありませんか。何も、コーヨーひとりだけじゃないと思いますね。」 「いや、徳川時代文学の糟粕などを、少しも嘗めないで、明治時代独特の小説をかいている作家がありますよ。」 「そんな作家が、本当にありますか。」  信一郎もかなりゲキした。 「ありますとも。」  秋山氏は、水の如く冷たく言い放った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第17話】 【汝/妖婦よ!】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「誰です。一体その人は。」  信一郎は、かなり急き込んで訊いた。  が、秋山氏は落ち着いたまま、冷然として言った。 「しかし、こう言う問題は、銘々の主観の問題です。僕が、この人がこうだと言っても、貴方にそれが分からなければ、それまでの話ですが、とにかく云って見ましょう。それは、誰でもありません。あの樋口イチヨウです。」  秋山氏は、それに少しの疑問もないように、ハッキリと言い切った。  瑠璃子夫人は、それを聴くと、躍り上るようにして喜んだ。 「イチヨウ! わたくしスッカリ忘れていましたわ。そうそう/イチヨウがいますね。わたくしが、今まで読んだ小説の女主人公’の中で、あの『たけくらべ』の中の美登利ほど好きな女性はないのですもの。」 「ごもっともで-す。勝気で意地っ張りなところが貴方に似ているじゃありませんか。」  秋山氏は、夫人を揶揄するように言った。 「まさか。」  と、夫人は打ち消したが、その比較が、彼女の心持ちに媚び得たことは明らかだった。 「イチヨウ! そうそう/あれは天才だ、夭折した天才だ! イチヨウに比べると、コーヨーなんか/才気のある凡人に過ぎませんよ。」  コヤマ男爵は、信一郎に言い伏せられた腹癒せがやっと出来たように、得々として口を挟んだ。 「そうだ! 『たけくらべ』と『金色夜叉』とを比べて見ると、どちらが通俗小説で、どちらが芸術小説だか、ハッキリと分かりますね。渥美さんのご意見じゃ、『金色夜叉』よりもロクシチネンも早く書かれた『たけくらべ』のほうが、もっと早く通俗小説になっている筈だが、我々が今読んでも『たけくらべ』は通俗小説じゃありませんね。決してありませんね。」  三宅も、信一郎のほうを意地悪く見ながら、そう言った。  そこにいた多くの人々も、銘々に口を出した。 「『たけくらべ』! ありゃ明治文学’第一の傑作ですね。」 「ありゃ、僕も昔読んだことがある。ありゃ確かにいい。」 「ああそうそう、ヨシワラの付近が、光景になっている小説ですか、それなら私も読んだことがある。坊さんの息子か何かがいたじゃありませんか。」 「女主人公’が、それを密かに恋している。が、勝気なので、口には言い出せない。そのうちに、ちょっとした意地から不和になってしまう。」 「シンニョとか何とか言う坊さんの子が、下駄の緒を切らして困っていると、美登利が、紅入友禅か何かの切れを出してやるのを、シンニョが妙な意地と遠慮とで使わない。あの光景なんか/今でもハッキリと思い出せる。」  代議士の富田氏までが、そんなことを言い出した。こうした一座の迎合を、秋山氏は冷然と、聴き流しながら、最後の断案を下すように言った。 「とにかく、明治の作家のうちで、本当に人間の心を-えがいた作家は、イチヨウのほかにはありませんからね。硯友社の作家が、文章などに浮き身を窶して、本当に人間が-えがけなかった中で、イチヨウだけは嶄然として独自の位置を占めていますからね。一代の驕児’高山樗牛が、イチヨウだけには頭を下げたのも無理はありませんよ。僕は明治時代第一の文豪としてイチヨウを推しますね。」  秋山氏は、いかにも芸術家らしい冷静と力とを以って、昂然とそう言い放った。  信一郎は、もうさっきからじりじりと湧いて来る不愉快さのために、一刻もじっとしては-いられないような心持ちだった。全てが不愉快だった。全てが、癪に触った。樫の’棒をでも持って、一座の人間を片っ端から、殴り付けてやりたいようにいらいらしていた。  そうした信一郎の心持ちを、知ってか知らずにか、夫人は何気ないように微笑’しながら、 「渥美さん! しっかり遊ばしませ。大変お旗色が悪いようでございますね。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  信一郎が、フラフラと立ち上がるのを見ると、皆は彼が大いに論じ始めるのかと思っていた。が、いま彼’の心には、樋口イチヨウも/尾崎紅葉もなかった。ただ、瑠璃子夫人に対する──夫人の/移り易きこと/浮草の如き/不信に対する憎しみと、恨みとで胸の中が燃え狂っていたのだった。  彼は一刻も早くこの席を脱したかった。彼はそこに集まっている男性に対しても、激しい憎悪と反感とを感ぜずには-いられなかった。 「奥さん! 僕は失礼します。僕は。」  彼は、感情の激しい渦巻のために、何と挨拶してよいのか分からなかった。  彼は、吃りながら、そう言ってしまうと、泳ぐような手付きで、並んだ椅子の間を分けながらドアのホウへ急いだ。  さすがに一座の者は固唾を飲んだ。今まで瑠璃子夫人を差しはさんで、鞘当的な論戦の花が咲いたことは幾度となくあったが、そんな時に、形もなく打ち負かされたほうでも、こんなにまで取り乱したものは一人もなかった。  真っ青な顔をして、憤然として、立ち出でて行く信一郎を、皆は呆気に取られて見送った。  信一郎は、もう美しい瑠璃子夫人にも何の未練もなかった。あとに残した華やかな客間を、心の中’で唾棄した。夫人の艶美な微笑’も蜜のような言葉も、今は空の空なることを知った。否、空の空なるか、ではなくして、その中に恐ろしい毒を持っていることを知った。それは、目的のための毒ではなくして、毒のための毒であることを知った。彼女は、目的があって、男性を翻弄しているのではなく、ただ翻弄することの面白さに、翻弄していることを知った。自分の男性に対する魅力を、楽しむために、無用に男性を魅していることを知った。ちょうど、激しい毒薬の所有者が、その毒の効果を自慢して妄に人を毒殺するように。 『汝/妖婦よ!』  信一郎は、心の中で、そう叫び続けた。彼は、客間から玄関までの10間に近い廊下を、電光の如くに歩んだ。  周章てて見送ろうとする玄関番の少年にも、彼は一瞥をも与えなかった。  彼は突き破るような勢いで、玄関のドアに手をかけた。  が、その刹那であった。  信一郎の興奮した耳に、冷水を注ぐように、 「渥美さん! 渥美さん! ちょっとお待ち下さい。」と、言う夫人の美しい言葉が聞えて来た。信一郎はそれを船人の命を奪うサイレンの声として、そのまま聞き流して、戸外へ飛び出そうと思った。が、彼のそうした決心にも拘わらず、彼の右の手は、しびれたように、ドアのハンドルにかかったまま動かなかった。 「どうなすったのです。本当にびっくりいたしましたわ。何をそんなにお腹立ち遊ばしたの。」夫人は小走りに信一郎に近づきながら、可愛い小さい息を弾ませながら言った。  心配そうに見張った黒い美しい眸、象牙彫のように気高い鼻、端正な唇、皎い艶やかなホオ:、こうした神々しい﨟たけた夫人の顔を見ていると、彼女の嘘、偽りが、夢にもあろうとは思われなかった。彼女の微笑や言葉の中に、微塵’賤しい虚偽が、潜んでいようとは思われなかった。 「どうして、そんなに早くお帰り遊ばすの。わたくし、皆さんがお帰りになった後で、貴方とだけで、ゆっくりお話ししていたかったの。秋山さんと言う方は、本当にアマンジャクよ。反対のために反対していらっしゃるのですもの。それをまた、みんなが迎合するのだから、厭になってしまいますわね。サロンにいらっしゃるのがお厭なら、ライブラリーのホウへ、ご案内いたしますわ。あなたのお好きな『紅葉全集』でも、お読みになって、待っていらっしゃいませ。わたくし、もう三十分もすれば、何とか口実を見付けて、皆さんに帰っていただきますわ。ほんの少しの間、待っていて下さらない?」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 『ほんの少し待っていて下さらない?』と、言う夫人の言葉を聴くと、『汝/妖婦よ!』と、心の中で叫んでいた信一郎の決心も、またグラグラと揺ごうとした。  が、彼は揺ごうとする自分の心を、辛うじて、最後の所で、グッと引き止め-ることが出来た。お前はもう既に、夫人の蜜のような言葉に乗ぜられて、散々な目にあったではないか。再びお前は、夫人から何を求めようとしているのだ。お前が夫人の言葉を信ずれば、信ずるほど、夫人のお前にアタウルものは、幻滅と侮辱とのほかには、何もないのだ。男性の威厳を思え! 今日’夫人から受けた幻滅と侮辱とは、まだ夫人に対するお前の幻覚を破るのに足りなかったのか。男性の威厳を思え! 夫人の言葉をスッパリと突き放してしまえ! 信一郎の心の奥に、弱いながら、そう叫ぶ声があった。  信一郎は、心の中に夫人の美しさに、抵抗し得るだけの勇気を、やっと蒐めながら言った。 「でも、奥さん! 私、このままおイトマいたしたほうがいいように思うのです。ああした立派な方が集まっている客間には、私のような者は全く無用です。どうも、大変お邪魔しました。」  信一郎は、かなりキッパリと断りながら、急いでクビスを返そうとした。 「まあ! 貴方、何をそんなにお怒り遊ばしたの、何かわたくしが貴方のお気に触るようなことをいたしましたの:、折角いらして下すって、すぐお帰りになるなんて、あんまりじゃありませんか。客間に集まっていらっしゃる方なんて、わたくし/仕方なくお相手いたしておりますのよ。わたくしが、わたくしのほうから求めてお友達になりたいと思ったのは、本当は貴方お一人なのですよ。」  信一郎は、そう言いながら、何事もないように、笑っている夫人の美しさに、ある凄味をさえ感じた。夫人の口ぶりから察すれば、夫人は周囲に集まっている男性を、蠅同様に思っているのかも知れない。もし、そうだとすると、信一郎なども、新来の/ウブな蠅として、ただちょっとした珍しさに引き止められているのかも知れない。そうしたウワベだけの甘言に乗って、ウカウカと夫人の手の上などに、止まっているうちには、あの象牙ボネの華奢な扇子か何かで、ビシャリと一打ちにされるのが、当然の帰結であるかも知れないと信一郎は思った。 「でも、今日は帰らせていただきたいと思います。また改めて伺いたいと思いますから。」  信一郎は、かなり強くなって、キッパリと言った。  夫人も、さすがにそれ以上は、勧めなかった。 「あらそう。どうしてもお帰りになるのじゃ仕方がありませんわ。やっぱり、わたくしの心持ちが、貴方にはよく分からないのですね。じゃ、左様なら。」  夫人は、淡々として、そう言い切ると、グルリと身体を廻らして、客間のホウへ歩き出した。  夫人から引き止められている内は、それを振り切って行く勇気があった。が、こうあっさりと軽く突き放されると、信一郎は何だか、拍子抜けがして-さみしかった。  夫人と別れてしまうことに依って、異常な/絢爛な人生の悦楽を、味わう機会が、永久に失われてしまうようにも思われた。自分の人生に、明けかかったロマンスの曙が、またそのまま夜のホウへ、逆戻りしたようにも思われた。  が、危険な華やかな毒草の美しさよりも、慎しい、しおらしい花の美しさが、今’彼’の心の裡によみがえった。  さみしい/しかし安心な、暗い/しかし質素な心持ちで、彼は大理石の丸柱の立った車寄せを静かに下った。もうこの家を二度と-おとなうことはあるまい。あの美しい夫人の面影に、再び咫尺することもあるまい。彼がそんなことを考えながら、トボトボと門のホウへ歩みかけた時だった。彼はふと、門への道に添う植込みの間から、左に透けて見える庭園に、語り合っている二人の男性を見たのである。彼は、その人影を見たときに、ゾッとしてそこに立ち止まらずには-いられなかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  信一郎が、驚いて立ち竦んだのも、無理ではなかった。玄関から門への道に添う植込みの間から、透けて見える、キチンと整った庭園のちょうど真ん中に、庭石に腰かけながら、語り合っている二人の男を見たのである。  二人の男を見たことに、不思議はなかった。が、その二人の男が、両方とも、彼の心に恐ろしい激動を与えた。  彼のほうへオモテを向けて、腰を下ろしている学生姿の男を見た時に、彼は思わず『アッ!』と、声を立てようとした。ヒンのよい鼻、白皙のオモテ、それは自分の介抱を受けながら、横死した青木淳と瓜二つの顔だった。それが、白昼の、かほど、けざやかな太陽の下の遭遇でなかったならば、彼はそれを/不慮の死を遂げた青年の亡霊と思い誤ったかも知れなかった。  が、彼の理性が働いた。彼は一時は、驚いたものの/すぐその青年が、いつかの葬場で見たことのある青木淳の弟であることに、気が付いた。  しかし、彼が最初の驚きから、やっと恢復した時、今度は第二の驚きが彼を待っていた。青年と相対して語っている男は、紛れもなく海軍士官の軍服を着けている。海軍士官の軍服に気が付いたとき、信一郎の頭に、電光のように閃いたものは、村上海軍大尉という名前であった。青年が、遺して行った手記の中に出て来る村上海軍大尉と言う名前だった。  青木淳が、激しいフンコンを以って、ノートに書き付けた文句が、信一郎の心に、アリアリと甦って来た。 ◇。◇。◇。 『昨日’自分は、村上海軍大尉と共に、彼女の家の庭園で、彼女の帰宅するのを待っていた。その時に、自分はふと、大尉がその軍服の腕を捲り上げて、腕時計を出して見ているのに気が付いた。よく見ると、その時計は、自分の時計に酷似しているのである。自分はそれとなく、一見を願った。自分が、その時計を、大尉の頑丈な手首から、取り外したときの驚きは、どんなであったろう。もし、大尉がそこに居合せなかったら、自分は思わず叫声を挙げたに違いない。』 ◇。◇。◇。  信一郎は、青木淳の弟と語っている軍服姿の男を見たときに、それが手記の中の村上大尉であることに、もう何の疑いもなかった。もし、それが、村上海軍大尉であるとしたならば、青木淳と大尉との双方に、同じプラチナの時計を与えて、『これは、わたくしの貴方に対する愛の印として、貴方に差し上げますのよ。本当は、掛け替えのない秘蔵の品物ですけれど。』と、言いながら二人を翻弄し去った女性が、果たしてナンピ-トであるかが、信一郎にはもうハッキリと分かってしまった。 『汝/妖婦よ!』  彼は心のうちで再びそう声’高く、叫ばずには-いられなかった。  が、信一郎の心を、もっと痛めたことは、兄が恐ろしく美しい蜘蛛の糸に操られて、悲惨な横死を──形は奇禍であるが、心は自殺を──遂げたと言うことを夢にも知らないで:、その肉親の弟が、また同じ蜘蛛の網に、ウカウカとかかりそうになっていることだった。いや恐らくかかっているのかも知れない。いや、兄と同じように、もうプラチナの時計を貰っているのかも知れない。ああして、話しているうちに、相手の海軍大尉の腕時計に、気が付くのかも知れない。兄の血と同じ血を持っている筈の弟は、それを見て兄と同じように激昂する。兄と同じように自殺を決心する。  そう考えて来ると、信一郎は、烈々と輝いている七月の太陽の下に、なお辺りが暗くなるように思った。兄が陥った深淵へまた、弟が落ちかかっている。それほど、悲惨なことはない。そう思うと、信一郎は、 『おい! きみ!』と、高声に注意してやりたい希望に動かされた。が、それと同時に、血を分けた兄弟を、兄に悲惨な死を遂げしめた上に、更に弟をも近づけて、翻弄しようとする毒婦を憎まずには-いられなかった。 『汝/妖婦よ!』彼は、心の中でもう一度そう叫んだ。が、信一郎が、これほど心を痛めているにも拘らず、当の青年は、何が可笑しいのか、軽く上品に笑っているのが、手に取るように聞えて来た。  信一郎は、見るべからざるものを見たように、オモテを背けて足早に門を駈け-いでたのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  新宿行きの電車に乗ってからも、信一郎の心はフンヌや憎悪の激しい渦巻で一杯だった。  瑠璃子夫人こそ、プラチナの時計を返すべき当の本人であることが解ると、夫人の美しさや気高さに対する讃嘆の心は、影もなくなって、憎悪と軽い恐怖とが、信一郎の心に湧いた。  青木淳の死の原因が、直接ではなくても、間接な原因が、自分であることを知りながら、嫣然として時計を受け取った夫人の態度が、空恐ろしいように思い返された。『わたくしが預って本当の持ち主に返して上げます。』と、事もなげに言い放った夫人の美しい面影が、空恐ろしいように思い返された。 ◇。◇。◇。 『が、彼女と面と向かって、不信を詰責しようとしたとき、自分は却って、彼女から忍びがたい辱めを受けた。自分は小児の如く、翻弄され、奴隷の如く卑しめられた。しかも美しい彼女の前に出ると、唖のようにたわいもなく、黙り込む自分だった。自分は憤りと恨みとの為にわなわな震えながら/しかも指一本彼女に触れることが出来なかった。自分は力と勇気とが、欲しかった。彼女の華奢な心臓を、一思いに突き刺し得るだけの力と勇気とを。‥‥彼女を心から憎みながら、しかも片時も忘れることが出来ない。彼女が彼女のサロンで多くの異性に取り囲まれながら、あの悩ましき媚態を惜しげもなく、示しているかと思うと、自分の心は、夜の如く暗くなってしまう。自分が彼女を忘れるためには、彼女の存在を無くするか、自分の存在を無くするか二つに一つだと思う。‥‥そうだ、いっ-そ死んでやろうか-しら。純真な男性の感情を弄ぶことが、どんなに危険であるかを、彼女に思い知らせてやるために。そうだ、自分の真実の血で、彼女の偽の贈り物を、真っ赤に染めてやるのだ。そして、彼女の僅かに残っている良心を、辱めてやるのだ。』 ◇。◇。◇。  青木淳の遺して逝った手記の言葉が、太陽の光に晒されたように、何の疑点もなくハッキリと解って来た。彼女が、瑠璃子夫人であることに、もう何の疑いもなかった。純真な青年の感情を弄んで彼を死に導いた彼女が、瑠璃子夫人であることに、もう何の疑いもなかった。 『汝/妖婦よ!』  信一郎は、充分な確信を以って、心の中でそう叫んだ。青年は、彼女に対して、綿々の恨みを呑んで死んだのである。プラチナの時計を『返してくれ。』と言うことは、『叩き返してくれ。』と言うことだったのだ。彼女の僅かに残っている良心を辱めてやるために、叩き返してくれと言うことだった。  そうだ! それを信一郎は、瑠璃子夫人のために、不得要領に捲き上げられてしまったのである。 『取り返せ。もう一度取り返せ! 取り返してから、叩き返してやれ!』  信一郎の心に、そう叫ぶ声が起こった。『それで彼女の僅かに残っている良心を辱めてやれ。お前は死者の神聖な遺託に背いてはならない。これから取って返して、お前の義務を尽さねばならない。あれほど青年の恨みの籠った時計を、不得要領に、返すなどと言うことがあるものか。もう一度やり直せ。そしてお前の当然な義務を尽せ。』  信一郎の心のうちのある者が、そう叫び続けた。が、心のうちの他の者は、こう呟いた。 『危うきに近寄るな。お前は、あの美しい夫人と太刀打ちが出来ると思うのか。お前は、今の今まで危うく夫人に翻弄されかけていたではないか。夫人の張る網から、やっと逃れ得たばかりではないか。お前が血相を変えて駈け付けても、また夫人の美しい魅力のために、手もなく丸められてしまうのだ。』  こうした硬軟二様の心持ちの争いの裡に、信一郎は何時の間にか、自分の家’近く帰っていた。停留場からは、一町とはなかった。  電車通りを、右に折れたとき、半町ばかり彼方の自分の家の前あたりに、一台の自動車が、止まっているのに気が付いた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  信一郎の興奮していた眸には、最初その自動車が、漠然と映っているだけだった。それよりも、彼は自分の家が、近づくに従って、『社の連中と多摩川へ行く/』などと言う口実で、家を飛び出しながら、二時間も経たない裡に、早くも帰って行くことが、心配になり出した。また早く、帰宅したことに就いて、妻を納得させるだけの、口実を考え出すことが、かなり心苦しかった。彼は、電車の中でも、どこかほかで、ゆっくり時間を潰して、夕方になってから、帰ろうかとさえ思った。が、彼の本当の心持ちは、一刻も早く家に帰りたかった。妻の静子の優しい/温順な面影に、一刻も早く接したかった。危険な冒険を経た者が、平和な休息を、ひたすら欲するように:、他人との軋轢や争いに胸を傷つけられ、瑠璃子夫人に対する幻滅で心を痛めた信一郎は、家庭の持っている平和や、妻の持っている温味の裡に、一刻も早く、浴したかったのである。たとい、もう一度妻を欺く口実を考えても、一刻も早く家に帰りたかったのである。  が、彼が一歩一歩、家に近づくに従って、自分の家の前に停まっている自動車が、気になり出した。勿論、この近所に自動車が、停まっていることは、珍らしいことではなかった。彼’の家から、ついゴロッ軒向こうに、ある実業家の愛妾が、住まっているために、三日にあげず、自動車がその家の前に、永く長く停まっていた。今日の自動車も、やっぱりいつもの自動車ではないかと、信一郎は最初思っていた。が、近づくに従って、いつもとは、かなり停車の位置が違っているのに気が付いた。どうしても、彼の家を訪ねて来た訪客が、乗り捨てたものとしか見えなかった。  が、だんだん’家に近づくに従って、恐ろしい事実が、漸く分かって来た。何だか見たことのある車台だと言う気がしたのも、無理ではなかった。それは、紛れもなくあの青色’大型の、イタリー製の自動車だった。信一郎も一度乗ったことのある、あの自動車だった。そうだ、この前の日曜の夜に、ショウダ夫人と同乗した自動車に、寸分も違っていなかった。  夫人が、訪ねて来たのだ! そう思ったときに、信一郎の心は、激しく打ち叩かれた。当惑と、ある恐怖とが、胸一杯に充ち満ちた。  出先で、妖怪に逢い/這々のテイで自分の家に逃げ帰ると、その恐ろしい魔物が、先回りして、自分の家に入りこんでいる。昔の怪談にでもありそうな、絶望的な出来事が、信一郎の心を、底から覆してしまった。瑠璃子夫人の美しい脅威に慄いて、家庭の平和の裡に隠れようとすると、相手は、先回りして、その家庭の平和をまで、掻き乱そうとしている。静かな慎しい家庭と、温和な妻の心をまでも掻き乱そうとしている。  信一郎は、当惑と恐怖とのために、暫くは、道の真ん中に立ち竦んだまま、どうしてよいか分からなかった。その裡に、信一郎の絶望と、恐怖とは、夫人に対する激しい反抗に、変わって行った。  大人しい妻が、美しい、溌剌たる夫人の突然な訪問を受けて狼狽している有様が、ありありと浮かんで来た。自分が、妻に内密で、ああした美しい夫人と、交わりを結んでいたと言うことが、どんなに彼女を痛ましめたであろうかと思うと、信一郎は一刻も、じっとしてはいられなかった。大人しい妻が夫人のために、どんなに言いくるめられ、どんなに飜弄されているかも知れぬと思うと、一刻も逡巡しているときではないと思った。自分の彼女に対する不信は、後でどんなにでも、許しを乞えばいい。今は妻を、美しい夫人の圧迫から救ってやるのが第一の急務だと思った。  それにしても、夫人は何の恨みがあって、これほどまで、執拗に自分を悩ますのであろう。自分を欺いて、客間へ招んで恥を掻かせた上に、自分の家庭をまで、掻き乱そうとするのであろうか。今は夫人の美しさに、怖れているときではない。戦え! 戦って、彼女の僅かに残っているかも知れぬ良心を辱めてやる時だ! そうだ! 死んだ青木淳のためにも、弔合戦を戦ってやる時だ! そう思いながら、信一郎は必死のユウを振るって、テキの城の中へ’でも飛び込むような勢いで、自分の家へ飛び込んだのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  玄関先に立っている、もしくは客間に上がり込んでいる妖艶な夫人の姿を、想像しながら、それに必死に突っかかって行く覚悟のホゾを固めながら、信一郎は自分の家の門を、くぐった。  見覚えのある運転手と助手とが、玄関に腰を下ろしているのが先ず眼に入った。信一郎は、彼等を/悪魔の手先か何かを見るように、憎悪と反感とで睨み付けた。が、夫人の姿は見えなかった。手早く目をやった玄関の敷石の上にも、夫人の履物らしい履物は脱ぎ捨ててはなかった。信一郎は、少しは救われたように、ホッとしながら、玄関へ入ろうとした。  運転手は素早く彼の姿を見付けた。 「いやあ。お帰りなさいまし。さっきからお待ちしていたのです。」  彼は、馴れ馴れしげに、話しかけた。信一郎はそれが、かなり不愉快だった。が、運転手は信一郎を、もっと不愉快にした。彼は、不遠慮に大きい声で、奥のホウへ呼びかけた。 「奥さん! やっぱり、お帰りになりましたよ。どこへもお回りにならないで、すぐお帰りになるだろうと思っていたのです。」  運転手は、いかにも自分の予想が当たったように、得意らしく言った。運転手が、そう言うのを聴いて、信一郎は冷や汗を流した。運転手と妻とが、どんな会話をしたかが、彼には明らかに分かった。 「ご主人はお帰りになりましたか。」  運転手は、最初そう訊ねたに違いない。 「いいえ、まだ帰りません。」  妻は、自身もしくは女中をしてそう答えさせたに違いない。 「それじゃ、お帰りになるのをお待ちしていましょう。」  運転手は、そう言ったに違いない。 「あの、会社の人達と一緒に、多摩川へ行きましたのですから、帰りは夕方になるだろうと思います。」  何も知らない、信一郎を信じ切っている妻は、そう答えたに違いない。それに対して、この不遠慮な運転手はこう言い切ったに違いない。 「いいえ、すぐお帰りになります。只今’私の宅からお帰りになったのですから、よそへお回りにならなければ三十分もしない裡に、お帰りになります。」  初めて会った他人から、夫の背信を教えられて、妻はかなり心を傷つけられながら/赤面して黙ったに違いない。そう思うと、突然’運転手などを寄越す瑠璃子夫人に、彼は心からなるフンヌを感ぜずには-いられなかった。  信一郎は、かなり激しい、叱責するような調子で運転手に言った。 「一体なんの用事があるのです?」  運転手は、ニヤニヤ/キミ悪く笑いながら、 「宅の奥様のお手紙を持って参ったのです。なんのご用事があるか私には分かりません。返事を承わって来い! お帰りになるまで、お待して返事を承わって来い! と、申し付けられましたので。」  運転手は、待っていることを、言い訳するように言った。  手紙を持って来たと聴くと、信一郎はかなり狼狽した。妻に、内緒で、ある女性を訪問したことが露顕している上に、その女性から急な手紙を貰っている。そうしたことが、どんなに妻の幼い/純な心’を傷つけるかと思うと、信一郎は顔の色が蒼くなるまで当惑した。彼は、妻に知られないように、手早く手紙を受け取ろうと思った。 「手紙/ 手紙なら、早く出したまえ!」  信一郎は、低く/かなり狼狽した調子でそう言った。  運転手が、何か言おうとする時に、夫の帰りを知った妻が、急いで玄関へ出て来た。彼女は、夫の顔を見ると、ニコニコと嬉しそうに笑いながら、 「お手紙なら、こちらにお預りしてありますのよ。」と、言いながら、薄桃色の瀟洒な封筒の手紙を差し出した。暢達な女文字が、半ば血迷っている信一郎の眼にも美しく映った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第18話】 【面罵】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  妻から、ショウダ夫人の手紙を差し出されて見ると、信一郎は激しい羞恥と当惑とのために、顔がほてるように熱くなった。平素は、何の隔てもない妻の顔が、眩しいもののように、まともから見ることが出来なかった。  が、静子の顔は、いつもと寸分違わぬように穏やかだった。春のように穏やかだった。夫の不信を咎めているような顔色は、少しも浮かんでいなかった。見知らぬ女性から、夫へ突然’舞い込んで来た手紙を、疑っているような様子は、少しも見えなかった。夫の帰宅を、いそいそと出迎えているいつもの優しい静子だった。  信一郎は、妻の神々しいまでに、慎しやかな様子を見ると、却って心が咎められた。これほどまでに自分を信じ切っている妻を欺いて、他の女性に、好奇心を、懐いたことを、後悔し/心の中で懺悔した。  妻が差出した夫人の手紙が、悪魔からの呪符か何かのように、厭わしく感ぜられた。もし、人が見ていなかったら、それを、封も切らないで、寸断することも出来た。が、妻が見て居る以上、そうすることは却って彼女に疑惑を起させる所以だった。信一郎は、おずおずと封を開いた。  手紙と共に封じ込められたらしい、高貴な香水の匂いが、信一郎の鼻を魅するように襲った。が、もうそんなことに依って、魅惑せらるる信一郎ではなかった。  彼は敵からの手紙を見るように/警戒と憎悪とで、あわただしく貪るように読んだ。 ◇。◇。◇。 『さっきは貴方を試したのよ。わたくしの客間へ、わたくしとフラートしに来る多くの男性と貴方が、違っているかどうかを試したのですわ。わたくしはフラートすることには倦き倦きしましたのよ。本当の情熱がなしに、恋をしているような真似をする。フラーテイション! わたくしは、それに倦き倦きしましたのよ。身体や心は、少しも動かさないで、手先だけで、恋をしているような真似をする。恋をしているような所作だけをする。恋をしているような姿勢だけを取る。わたくしは、わたくしの周囲に集まっている、そうしたギレン者のお相手をすることには、本当に倦き倦きしましたのよ。わたくしは真剣な方が、欲しいのよ。男らしく真剣に振舞う方が欲しいのよ。全ての動作を手先だけでなく心の底から、行う方が欲しいのよ。  貴方が忿然として座を立たれたとき、わたくしが止めるのも、きかず、憤然として、お帰り遊ばす後ろ姿を見たとき、この方こそ、何事をも真剣になさる方だと思いましたの! 何事をなさるにも手先や口先でなく、心をも身をも、打ち込む方だと思いましたの。わたくしが長い間、探ねあぐんでいた本当の男性だと思いましたの。 【信一郎様/】  貴方はわたくしのテストに、立派に及第遊ばしたのよ。  今度は、わたくしが試される番ですわ、わたくしは進んで貴方に試されたいと思いますの。わたくしが、貴方のために、どんなことをしたか、どんなことをするか、それをお試しになるために、すぐこの自動車でいらしって下さい!瑠璃子』 ◇。◇。◇。  手紙の文句を読んでいるうちに、瑠璃子夫人の怪しきまでに、美しい記憶が、殺されそこなった蛇か何かのように、また信一郎の頭の中に、ムクムクと動いて来た。  夫人の手紙を、読んで見ると、夫人の心持ちが、満更虚偽ばかりでもないように、思われた。あの美しい夫人は、彼女を囲む/阿諛や/追従や/甘言や、/ギレンに倦き倦きしているのかも知れない。実際彼女は純真な男性を、心から求めているかも知れない。そう思っていると、夫人の真紅の唇や、白き透き通るようなホオが、信一郎の目の前に髣髴した。  が、次の瞬間には/青木淳の紫色の死に顔や、今さっき見たばかりの、青木淳の弟の姿などが、アリアリと浮かんで来た。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  手紙を読んだ刹那の陶酔から、醒めるに従って、夫人に対する憤ろしい心持ちが、また信一郎の心に甦って来た。こうした、人の心に喰い込んで行くような誘惑で、青木淳を深淵へ誘ったのだ。否/青木淳ばかりではない、青木淳の弟も、あの海軍大尉も、否/彼女の周囲に集まる全ての男性を、人生の真面目な行路から踏み外させているのだ。彼女を早くも嫌って恐れて、逃れて来た自分にさえ、なお執念ぶかく、その蜘蛛の糸を投げようとしている。恐ろしい妖婦だ! 男性の血を吸うヴァンパイアだ。そう思って来ると、信一郎の心に、半面’血に-まみれながら、 『時計を返してくれ。』  と絶叫した青年の面影が、又ありありと浮かんで来た。そうだ! あの時計は、不得要領に捲上げらるべき性質の時計ではなかったのだ! 青年の恨みを、十分に込めて叩き返さなければならぬ時計だったのだ! 殊に、青年の手記のうちの彼女が、瑠璃子夫人であることが、ハッキリと分かってしまった以上、自分にその責任が、ゲンとして存在しているのだ。恐ろしいものだからと言って、オモテを背けて逃げてはならないのだ! 青年に代わって、彼が綿々の恨みを、代言してやる必要があるのだ! 青年に代わって、彼女の僅かしか残っていぬかも知れぬ良心を辱めてやる必要があるのだ! そうだ! 一身の安全ばかりを計って/逃げてばかりいる時ではないのだ! そうだ! 彼女がもう一度の面会を望むのこそ、勿怪の幸いである。その機会を利用して、青年の魂を慰めるために、青年の弟を、彼女の危険から救うために、否/全ての男性を彼女の危険から救うために、彼女の高慢な心を、取りひしいでやる必要があるのだ。  信一郎の心が、こうした義憤的な興奮で、充された時だった。妻の静子は、──神の如く/何事をも疑わない静子は、信一郎を促すように言った。 「急なご用でしたら、すぐいらしっては、いかがでございます。」  妻のそうした純な、少しの疑惑をも、差し挟まない言葉に、接するに付けても、信一郎は夫人に叩き返したいものが、もう一つ殖えたことに気が付いた。それは、夫人から受けたこの誘惑の手紙である。妻に対する自分の愛を、蔭ながら、妻に誓うため、夫人のオモテに、この誘惑の手紙を、投げ返してやらねばならない。  信一郎の心は、いま最後の決心に到達した。彼は、その白いオモテを、薄赤く興奮させながら、妻に言うともなく、運転手に命ずるともなく叫んだ。 「じゃ/すぐ引返すことにしよう。早くやっておくれ!」  彼は、自分自身興奮のために、身体が軽く震えるのを感じた。 「畏まりました。七分もかかりません。」  そう言いながら、運転手と助手とは、軽快に飛び乗った。 「じゃ、静子、行って来るからね。ホンのちょっとだ! すぐ帰って来るからね。」  信一郎は、小声で言い訳のように言いながら、妻の顔を、なるべく見ないように、車中の人となった。  が、ガソリンが爆発を始めて、まさに動き出そうとする時だった。信一郎は、あわてて窓から、首を出した。 「おい! 静子/ おれの本箱の下の引き出しの、確か右だったと思うが、ノートが入ってる。それを持って来ておくれ!」 「はい。」と言って気軽に、立ち上がった妻は、二階から大急ぎで、そのノートを持って降りて来た。 『これが、武器だ!』信一郎は、妻の手からそれを受けとりながら、心の中でそう叫んだ。  ツマグロの鹿の血と、疑着の相ある女の生き血とを塗った横笛が、入鹿を亡ぼす手段の一つであるように、瑠璃子夫人の急所を突くものは、青木淳の残したこのノートのほかにはないと、信一郎は思った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  五番町までは、一瞬の間だった。  こうした行動に出たことが、いいか悪いか迷う暇さえなかった。信一郎の頭の中には、瑠璃子夫人の顔や、妻の静子の顔や、非業に死んだその男の顔や、今日’サロンで見たいろいろな人々の顔が、嵐のように渦巻いているだけだった。が、その渦巻の中で彼は自ら強く決心した。『彼女の誘惑を粉砕せよ!』と。  もう再びは-くぐるまいと決心した花崗岩の石門に、自動車は速力を僅かに緩めながら進み入った。もう再びは、足を踏むまいと思った車寄せの石段を、彼は再び昇った。が、さっきは夫人に対する讃美と憧れの心で、胸を躍らしながら、が、今は夫人に対する反感とフンヌとで、心を狂わせながら。  取次ぎに出たものは、あの可愛い少年の代わりに、十七ばかりの少女だった。 「奥様がお待ちかねでございます。さあ、どうかお上がり下さいませ。」  信一郎は、それに会釈するだけの心の余裕もなかった。彼は黙々として、少女のあとに従った。  少女はさっきのサロンのホウへ導かないで、玄関のホールから、すぐ二階へ導く階段を上って行った。 「あの、お部屋のほうにお通し申すように仰っていましたから。」  信一郎がちょっと躊躇するのを見ると、少女は振り返ってそう言った。  階段を昇り切った取っ付きの部屋が、夫人の居間だった。少女は軽くノックしたが、内から応ずる気配がしなかった。 「あら! いらっしゃらないのかしら。それではどうか、お入りになって、お待ち下さいませ。きっと、お化粧部屋のほうにいらっしゃるのですから。」  そう言って、少女はドアを開けた。  信一郎は、おそるおそるその華麗な室内に足を踏み入れた。部屋の中には、夫人の繊細な/洗煉された趣味が、隅から隅まで、行きわたっていた。敷き詰めてある薄桃色の絨毯にも、水色のカーテンにも、ピアノの上に載せてある一輪挿しの花瓶にも、マホガニーの小さい書架に、並べてある美しい装幀のフランスの小説にも:、雪のように白い絹で張りつめられた壁にかかっているクールベーらしい風景画にも/マンテルピースの上の少女のブロンズにも、夫人の高雅な趣味が光っていた。全ての装飾が、金で光っているだけではなく、その洗煉された趣味で光っているのだった。  信一郎は、部屋の装飾に、現われている夫人の教養と趣味とに、接すると、昂めよう昂めようとしている反感が、何時の間にか、その鋭さを減じて行くような危険を、感ぜずには-いられなかった。  が、こうした美しい部屋も、彼女の毒の花園なのだ。彼女が、異性を惑わす魅力の一つなのだ。信一郎は、そう言うふうに考え直しながら、青色の羽根蒲団の敷いてある籐椅子に、腰をおろしていた。窓からは、宏大な庭園が、七月の太陽に輝いているのが見えた。  夫人は、なかなか姿を見せなかった。小間使いが氷の入ったシロップを持って来たあとも、なかなか姿を見せなかった。  彼は、所在なさに、室内の装飾をあれからこれへと、見直していた。その裡に、ふと3尺とは離れていないデスクの上に、眼が付いた。そこには、さっき信一郎が受け取ったのと同じ色のレターペイパーと、金飾りの華やかな婦人持ちの万年筆とが、置かれていた。さっきの手紙は、恐らくこのマホガニーの小さいテーブルで書いたのに違いない。そう思って見ているうちに、ふと一枚のレターペイパーに、英語かフランス語かが書かれているのに気が付いた。彼の好奇心は、動いた。彼は、少し上体を、そのほうに延ばしながら、それを読んだ。 【(Shinichiro)】  彼は、自分の名前が書かれているのに驚いた。が、その次の二字を見たときに、彼の驚きは10倍した。 【(Shinichiro, my love!)】 『信一郎、マイラヴよ!』  しかも、その同じ句がそのレターペイパーの上に、鮮やかな筆触で幾つも幾つも走り書きされているのだった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 『信一郎、マイラヴよ!』  信一郎の頭は、この短い文句でスッカリ掻き乱されてしまった。彼はジュウシチハチの少年か何かのように、我にも-あらず、ホオが熱くほてるのを感じた。夫人に対して、張り詰めていた心持ちが、ともすれば揺ぎ始めようとする。  彼は、心の中で幾度も叫んだ。夫人の技巧の一つだ。誘惑の技巧の一つだ。自分の眼に入るように、わざとこんな文句を、書き散らして置いたのだ。見え透いた技巧なのだ! が、そう言う考えのあとから、また別な考えが浮かんで来た。あの利口な/聡明な夫人が、こんな露骨な趣味の悪い技巧を弄する訳はない! やっぱり、夫人の本心から出た自然の書き散らしに違いない。信一郎の心の中の男性に共通な自惚れが、ムクムクと頭を擡げようとする。あのさっき受け取った手紙も、こうして見ると、夫人の本心を語っているのかも知れない。夫人を妖婦のように思うのも、みんな自分の邪推かも知れない。彼女は、男性との恋愛ごっこに飽き飽きしているのだ。彼女の周囲に、集まる胡蝶のようなギレン者に、飽き飽きしているのだ。本当に、心をも身をも捨ててかかる、真剣な異性の愛に飢えているのかも知れない。世馴れたダンディ風の男性に、飽きたらない彼女は、自分のようなウブな/生真面目な男性を求めていたのかも知れない。  夫人に対する信一郎の敵意がもう半ば崩れかけている時だった。 「ごめん下さいまし。」  銀鈴に触れるような爽やかな声と共に、夫人は静かにドアをあけて入って来た。  湯上がりらしく、その顔は、シラギヌか何かのように艶々しく輝いていた。縮緬の桔梗の模様の浴衣が、そのスッキリとした身体の輪廓を、艶美に描き出していた。  わずかシゴシャクの間隔で、じっとその美しい眸を投げられると、信一郎の心は、催眠術にでもかかったような、陶酔を感ずるのを、どうともすることが出来なかった。 「まあ! 本当によくいらっしゃいましたこと。わたくし、もうあれ切りか-と思いましたの。もう、あれ切り来て下さらないのかと思っていましたよ。」  信一郎が、彼女の入って来たのを見て、立ち上がろうとするのを、制しながら、信一郎と向きあって小さいテーブルを隔てながら、腰を下ろした。  信一郎は、ともすれば後じさりしそうな自分の決心に、頻りに拍車を与えながら、それでも最初の目的通り、夫人と戦って見ようと決心した。 「さっきは大変失礼しましたこと。あの方達を-かえしてしまった後で、ゆっくり貴方とお話がしたかったのよ。差し上げましたお手紙/ご覧下すって?」 「見ました。」  信一郎は、自分の決心を、動かすまいと、しっかりと言い放った。 「どうお考え遊ばして?」  夫人は、追窮するように、美しく笑いながら訊いた。信一郎は、かなりハッキリした口調で言った。 「貴方の本当のお心持ちが、分からないものですから、どうお答えしてよいか当惑するだけです。」 「あれでお分かりにならないの。あれで、十分分かって下すってもいいと思いますの。わたくしが、貴方のことをどう考えていますか。」  夫人の顔にかなり、真剣な色が動いた。信一郎も、あるだけの力を以って言った。 「奥さん! どうか記憶して置いて下さい! 僕には妻がありますから、家庭がありますから、貴方の危険なお戯れのお相手は出来ませんから。」  信一郎は、妻の静子の面影や、青木淳の死相を心の味方として、この強敵に向かって/ハッキリと断言した。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  その刹那、夫人の顔が、さすがに鋭く緊張した。 「あら、貴方までが、そんなことを考えていらっしゃるの。わたくしが貴方の家庭を乱すような女だと思っていらっしゃるの。貴方にも、やっぱりわたくしの真意が分かって下さらないのですわね。わたくしが、何を求めているかが、やっぱり分かって下さらないのですわね。わたくしは、わたくしの周囲のギレン者には飽き飽きしたと申しているではありませんか。わたくしはギレンの相手ではなく、本当のお友達が欲しいのです。本当の男性らしい男性のお友達が欲しいのです。わたくしが、この方こそと思ってお-えらみした貴方からそんな誤解を受けるなんて、わたくしには忍びがたい恥辱ですわ。」  そう言っている夫人の顔には、もうあの美しい微笑’は浮かんでいなかった。少しく、フンヌを帯びた顔は、振い付きたいような美しさで、輝いていた。  美しい夫人の顔に、フンヌの色が浮ぶのを見ると、信一郎は心の中で、かなりタジタジとなった。が、彼は自分のため、青木淳のため、また夫人その人のためにも、夫人の妖婦的な魂と、戦わねばならぬと決心した。彼は、夫人の美しい顔から、出来るだけオモテを背けながら言った。 「いや! 貴方のお心が、分からないのではありません。僕を、真のお友達として、多くの男性から選んで下さる。それは僕として、光栄です。が、奥さん! 僕は貴方からエラマれると言うことがかなり危険なことであるような気がするのです。僕は、安穏な家庭の幸福で、満足している平凡な人間です。どうか僕を、このままに残して置いて下さい!」  信一郎の語気は、かなり-つよかった。 「まあ! 何と言うことを仰るのです。わたくしを、爆弾か何かのように、触ることさえ、お嫌いだと言うのですね。」  夫人は、半ば冗談のように、言おうとしたが、信一郎の心の中の敵意を、アリアリと感じたと見え、さっきまでの夫人とは、丸切り違ったような鋭さが、その美しさの裏に、潜み始めていた。 「いや! 奥さん、こんなことを申し上げては、失礼かも知れませんが、僕は貴方にエラマれて飛んだ目にあった/ある男性のことを知っているのです。その男も、真面目な/ウブな男でしたから、僕が貴方にエラマれたのと、同じような意味で、貴方にエラマれたのではないかと思うのです。もし、同じような意味でエラマれたとすると、その男が飛んだ目に逢ったように、僕もいつかは、飛んだ目に逢いそうです。ハハハハ。」  信一郎は、懸命な勇気を以って、言い終ると調子外れの笑い方をした。彼は激しい興奮のために、妙に上ずッてしまっていたのである。  夫人の顔色が、ちょっと変った。が、少しも取り乱す様子はなかった。彼女は、信一郎の顔を、じっと見詰めていたが、憫笑するような笑いを、ホオの辺りに浮べると、ちょっと腰を浮かして、傍らのテーブルの上の呼鈴を押しながら言った。 「貴方とわたくしとは、やっぱり縁なき衆生だったのですわね。やっぱりあれっ切りにして置けばよかったのですわね。わたくしの思い違いよ。貴方を、スッカリ見損っていたのですわね。貴方の躊躇や、臆病を、わたくし/反対に解釈していたのですわ。わたくし/男性の中で臆病な方が、一等嫌いなのですわ。差し出された女の唇に、接吻を与えるほどの勇気さえないような男性が、一等嫌いなのでございますよ。オホホホホホ。わたくし自身、ご覧の通りのお転婆でございますから、やっぱり強い男性のかたが、一等好きなのでございますよ。」  信一郎の攻撃に対する夫人の反撃は、激しかった。信一郎は夫人の真っ向からの侮辱に、目が眩んだ。彼は屈辱とフンヌとのために、胸がくらくらするように煮えた。信一郎が口籠りながら何か言おうとしたときに、呼鈴に応じてさっきの小間使いが顔を出した。夫人は冷静な口調で、ハッキリと言った。 「お客様がお帰りになるそうだから、自動車の支度をするように。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  西洋では、厭な来客を追い帰すとき、また来客と喧嘩したとき、『ドアを指さし示す』ことが、習慣である。すぐ出て行ってくれと言う意味である。客に対する絶大の侮辱であり、挑戦である。  が、来客の前で、勝手にカエリジタ-クを、整えてやることも、『ドアを指さし示す』ことと同じ程度の侮辱に違いない。  夫人は、自分の好意を、相手が跳ね返したと知ると、それを10倍もの激しさで、跳ね返し得る女であった。  信一郎は、平手で真っ向から顔を、ピシャリと、叩かれたような侮辱を感じた。もし、相手が女性でなかったら、立ち上がりざま殴り付けてでもやりたいような激怒を感じた。それと同時に、突き放されたような-さみしさが、激怒の陰に潜んでいることをも、感ぜずには-いられなかった。  信一郎の顔が、激怒のために、真っ赤に興奮しているのにも拘わらず、夫人はその白いオモテが、心持ち蒼んでいるだけで、冷然として/彫像か何かのように動かなかった。  信一郎も、相手から受けた、余りに思いがけない侮辱の為に、暫くは、口さえ利けなかった。  夫人も、黙々として一語も洩らさなかった。そのうちに、バタバタと廊下に軽い足音がしたかと思うと、さっきの女中が、顔を出した。 「あの、お仕度が出来まし-てございます。」 「そう。」と、夫人は軽く会釈して、女中を去らせると、静かに信一郎のほうを振り向きながら、彼女の最後の通牒を送った。 「それでは、どうかお帰り下さいませ。わたくしがお呼び立ていたした罪は、幾重にもお詫いたしますわ。でも、お互いに理解しない者同士が、いつまで向かい会っていても、全く無意味だとも思いますわ。どうか安穏なご家庭で/いつまでも平和にお暮らし遊ばせ!」  夫人は、ちょっと皮肉な微笑を浮べると、静かに立って信一郎に、ドアのほうを指さし示した。  信一郎の心は、激しい恥辱のために、裂けんばかりに、張り詰めていた。このまま、帰ってしまえば、徹頭徹尾/全敗である。どんなに、相手が美しい夫人であるとは言え、男性たるものが、こうも手軽に、人形か何かのように飜弄せられることは、どうにも堪らないことだと思った。今こそ全力を尽して彼女と、戦うべき日であると思った。/激怒のために、波立つ胸を、彼はじっと抑え付けながら言った。 「奥さん! 折角ですが、僕にはまだ帰られない用事があります。」  信一郎の言葉は、かなり震えを帯びていた。 「おや! ご用事。それじゃすぐ承わろうじゃありませんか。わたくし、またこんな部屋には、一刻もおとどまりになるお心はなくなったのだろうと思っていました。」  夫人は、凄いほどに、落ち着いていた。  信一郎は、真っ青になりながら、懸命に/冷静な態度を失うまいとした。 「奥さん! 帰るときが-くれば、お指図を待たなく-っても帰ります。が、只今伺ったのは、貴方のお手紙の為ばかりじゃないのです。僕がどんなに軽薄な人間でも、一度席を蹴って帰った以上、貴方のお召状だけで、ノメノメとやっては来ません。」 「おや! それでは、わたくしはその点でも飛んだ思い違いをしていましたのね。」  夫人は、針のような皮肉を含みながら、冷やかに笑った。信一郎はいらだった。 「貴方に申しあぐべきこと、当然お願いすべき用事があればこそ参ったのです。それが済むまでは、貴方が幾ら帰れと仰ったって、帰れません。貴方も一度僕と会った以上、自分の事だけが、済んだと言って、そう手軽に僕を追い返す権利はありません。」 「大変ごもっと-もな仰せです。それではその用事とかを承わろうじゃありませんか。」  夫人の皮肉な態度は突き刺すようなトゲトゲしさを帯び始めた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  夫人の皮肉なトゲに、突き刺されながらも、信一郎は、やっと自分自身を支えることが出来た。 「用事と言って、ほかではありませんが、いつか貴方にお預けして置いたあのプラチナの時計を、返していただきたいと思うのです。死んだ青木君から遺託を受けたあの時計をです。」  信一郎は、一生懸命だった。彼は、身体がゲッコウのために、わななこうとするのをやっと、抑えながら喋べった。が、その声は変に咽喉にからんでしまった。  夫人の-つめたさは、いよいよ加わった。その美しいオモテは、象牙で刻んだ仮面’か何かのように、冷たく光っていた。『何を!』と言ったような利かぬ気の表情が、その小さい真っ赤な唇のあたりに動いていた。 「あら、あれはわたくしにお預けして下さったのじゃないのですか。一旦お預けして下さった以上、男らしくもないじゃありませんか。また返せなどと仰るのは。」  信一郎を揶揄っているように、冷かしているように、夫人の語気は、ますます辛辣になって行った。 「いや、お預けしたことは、お預けしました。が、それは返すべき相手が分からなかったからです。また、どう言う心持ちで返すのかが、分からなかったからです。今こそ、返すべき女性がハッキリと分かったのです。また、どう言う態度で、あの時計を返すべきかも、ハッキリと分かったのです。僕は、あの時計を貴方から返していただいて、その本当の持ち主に、一番適当な態度で、返さねばならぬ責任を/青木君に対して、感じているのです。どうかすぐお返しを願いたいと思います。」  夫人の顔は、さすがに少しく動揺した。が、信一郎が予想していたように、狼狽の様子は露ほども見せなかった。 「そんなに、面倒臭い’時計なのですか、それじゃ、お預りするのではなかったわ。それじゃ只今すぐお返しいたしますわ。」  夫人は、手軽に、借りていたマッチをでも返すように、手近のベルを押した。  二人は、黙々として、暫く相対している裡に、以前の小間使いが、ドアを静かに-あけた。 「あのね。応接室の、確かマンテルピースの上の手文庫の中だったと思うのだがね。壊れた時計がある筈だから持って来て下さいね。もし手文庫の中になかったら、あの辺りを探してご覧。 確かあの近所に放り散らかして置いた筈だから。」  信一郎が、あれほどまでに、心を労していた時計を、夫人は壊れた玩具か何かのように、放りっぱなしにしていたのだった。青木淳が臨終にあれほどの恨みを込めた筈の時計は、夫人に依って、意味のない一個の壊れ時計として、炉棚の上に、信一郎から預かった時以来忘れられていたのである。  夫人から、そんなにまで手軽く扱われている品物に就いて、返すとか返さないとか、躍起になっていることが、信一郎にはちょっと気恥しいことのように思われた。  が、夫人のああした言葉や態度は、心にもない豪語であり、擬勢である:、口先でこそあんなことを言いながらも、彼女にも人間らしい心が、少しでも残っている以上、心の中ではかなり良心の苛責を受けているのに違いない。信一郎は、やっとそう思い返した。  小間使いは、探すのに手間が取れたと見え、暫くしてから帰って来た。そのふっくらとした小さい手の裡には、信一郎には忘れられない時計が、薄キミのわるい光を放っていた。  夫人は小間使いから、無造作にそれを受け取ると、信一郎のテーブルの上に軽く置きながら、 「さあ! どうぞ。よくあらためてお受け取り下さいませ! お預りしたときと、寸分違っていない筈ですから。」  夫人は、毒を食らわば皿までと言ったように、飽くまでも皮肉であり/冷淡であった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  信一郎は、差し出されたその時計を見たときに、その時計の胴に薄く残っている血痕を見たときに、弄ばれて非業’の死に方’をした青年’に対する義憤の情が、旺然として胸に湧いた。それと同時に、青年を弄んで、間接に彼を殺しながら/しかも平然として彼の死を冷視している──:神聖な形見の時計をさえ、蔑み切っている夫人に対して、モユルような憎しみを、感ぜずには-いられなかった。  信一郎は、かすかに震える手で、その時計を拾い上げながら、夫人のオモテを真っ向から見詰めた。 「いや、確かにお受け取りしました。お預けした品物に相違ありません。」  彼の言葉も、いつの間にか、敵意のある切口上に変わっていた。 「ところが、奥さん!」信一郎は、満身の勇気を振いながら言った。 「一旦お返し下さったこの時計を──改めて、そうです、青木君の意志として──:私は、改めて貴方に受け取っていただきたいのです。」  そう言って、信一郎は、夫人の顔をじっと見た。どんなに厚顔な夫人でも、少しは狼狽するだろうと予期しながら。が、夫人の顔は、やや殺気を帯びているものの、その整った顔の筋肉ひとつさえ動かさなかった。 「何だか手数のかかるお話でございますのね。子供のお客様ごっこじゃありますまいし、お返ししたものを、また返していただくなんて、もう/一度お預かりしただけで、懲り懲りいたしましたわ。」  夫人は噛んで捨てるように言った。  信一郎は、夫人の白々しい態度に、心の底まで、憎しみとフンヌとで、煮え立っていた。 「いや、このたびはお預けするのではないのです。いや、最初からこの時計は貴方にお預けすべきでなく/お返ししなければならぬ時計だったのです。時計の元の持ち主として、貴方に受け取っていただくのです。貴方は、この品物を当然’受け取るべきお心覚えがあるでしょう。ないとは、まさか仰しゃれないでしょう。」  信一郎も、女性に対する全ての遠慮を捨てていた。二人は男女の性別を超えて、格闘者として、相対していた。  信一郎に、そう言い切られると、夫人は暫く黙っていた。白い瓢の種のような綺麗な歯で、シタ唇を二’三度噛んだが/やがて気を換えたように、 「それでは、貴方はこの時計の元の持ち主を、わたくしだと仰るのですか。」 「そうです。それを確信してもよい理由があるのです。」信一郎は凛としてそう言い放った。 「おやそう!」夫人は事もなげに受けながら、「貴方が、そうお考えになりたければ、そうお考えになっても、別に差し支えはございませんよ。それでは、この時計もお受け取りして置こうじゃありませんか。どうせ一度は、お預かりした品物ですもの。」  夫人の態度は、いよいよ逆になり、いよいよ毒を含んでいた。 「それで、ご用事と仰るのはこれだけ!」  夫人は信一郎と一刻でも長く同席することが不快で堪らないように/急き立てるように付け加えた。  信一郎は、夫人の自分に対する激しい憎悪に傷つきながら、しかも勇敢に彼の陣地を支えた。 「いや、大変お手間を取らして-あいすみません。が、もう一言、そうです、青木君の言伝があるのです。時計の元の持ち主にこう伝えてくれと頼まれたのです。」  信一郎は、そう言って言葉を切った。  夫人はさすがに、緊張した。やさしく煙っている眉を、ちょっと顰めながら、信一郎が何を言い出すかを待っているようだった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第19話】 【彼女の言い分】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  遺言と言っても、信一郎は青木淳のクチずから受けているのではない。が、彼は青木淳の死ゼンの恨みの籠ったノートを受け継いでいる。 『彼女の僅かに残っている良心を辱めてやる』べき、以心伝心の遺託を、受けているのだった。 「いや、遺言と言っても、ほかではありません。この時計を返すときに元の持ち主にこう言ってくれと頼まれたのです。青木君が瀕死の重傷に苦しみながら、途切れ途切れに言ったことですから、ハッキリとは分かりませんが、何でもこう言う意味だったと思うのです。純真な男性の感情を弄ぶことがどんなに危険であるかを伝えてくれ。弄ぶ女に取っては、それは1時の戯れであるかも知れぬが、弄ばれる男に取っては、それが死であると。奥さん! 貴方は、こう言う話をご存じですか。池の中に多くの蛙が浮かんでいると、子供達が来て石を投げ付ける、その時に蛙がなんて言ったかご存じですか。蛙はこう言ったのです。貴方がたに取って遊戯であることが、我々に取っては死である、と。青木君の死際の言い分も、つまりそれなのです。貴方は、青木君の死を単なる奇禍だと思ってはいけません。形は奇禍ですが、心持ちに於いては立派な自殺です。ただ自動車の偶然の衝突が/あの人の死を、二三日早めたのに過ぎないのです。貴方は青木君の死を奇禍だと考えることに依って、貴方の良心を欺いてはなりません。正しく自殺です。しかも池の中のカエルが、子供が戯れに投げた石に当たって死んだように、貴方が戯れに与えたプラチナの時計に依って死んだのです。蛙がもし人間としての働きがあったならば、その石を子供に投げ返すように、僕は青木君に代わって、この時計を貴方に投げ返すのです。そうです、貴方の良心に向かって投げ返すのです。貴方の心に僅かにでも、良心が残っているのなら、貴方はそれでこの時計を受け止めて下さい。そうしてその受け止めた痛みに依って、貴方の心を浄めていただきたいと思うのです。そうして、男性に対する貴方の危険な戯れを、今日限りよしていただきたいと思うのです。それが青木君の死に対する貴方のせめてもの償いです。僕が、さっき貴方のお戯れの相手をするのは危険だと言ったのはこう言う意味です。青木君の場合はまだ独身ですから、貴方の戯れの犠牲になるものは一人で済むのですが、僕のような既婚者の場合は被害者が複数ですからね。」  信一郎の興奮は、彼をかなりな雄弁家にしてしまった。夫人はと見ると、さすがに彼の言葉がいちいち肺腑を衝いていると見えて、うなだれ気味に、黙々と聴いていた。信一郎は、自分の心が、少しでも夫人の心を悔い改めしめているかと思うと、内心ある感激を感ぜずには-いられなかった。そうだ! この美しき女性を/ただ辱めるだけが、能ではない。自分の言葉に依って、夫人の心を、少しでも浄くし/改めてやりたいと思った。 「いや! 奥さん。僕は何も貴方に恩怨があるのではありません。恩怨がないばかりでなく、ある点では貴方を敬慕しているものです。貴方のその秀れた美しさと、貴方の教養や趣味に対して、心から敬慕しているものです。が、僕は貴方がそうした天分や教養を邪道に使っているのを見ると、本当に心が暗くなるのです。僕は青木君の為にばかりでなく、貴方自身のために、僕の言ったことをよく玩味していただきたいと思うのです。」  こう信一郎が、述べ来った時、今まで傾聴しているような態度をしていた夫人は、つと頭を上げた。 「あの、お言葉中で恐れ入りますが、ご忠告なら、ご免を蒙りたいと思います。ご用事だけを承わる筈であったのでございますから。」  鋼鉄のような凛とした冷たさが、その澄んだ声の内に響いていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 『ご忠告ならば、ご免を蒙る。』と、夫人がきっぱりと言い放つのを聴くと、信一郎は夫人に対して、最後の望みを絶った。青木淳は、『僅かに残っている良心』と、書いている。が、僅かに残っている良心どころか/良心らしいものは、欠片さえ残っていない。女らしい、つつましい心の代わりに、そこに翼を拡げているものは、恐ろしいヴァンパイヤである。純真な男性の血を好んでたしなむ怪物である。夫人の良心に訴えて、少しでも彼女を、いいほうに改めさせてやろうと思ったのは、悪魔にキリストの教えを説くようなものであると思った。  信一郎は外面如菩薩と言う古い言葉を、今更らしく感心しながら、暫くは夫人の顔を、じっと見詰めていたが、 「いや、これは飛んだ失礼をしました。青木君の遺言だけを伝えれば、僕の責任は尽きていたのでした。」  彼は、そう言って潔くこの部屋から出ようとした。が、その時に、彼は青木淳の弟の姿を思い浮べた。そうだ! あの青年を、夫人の危険から救ってやることは、自分の責任だと思った。 「だが、奥さん! 僕は僕の責任として、貴方にもう一言’言わなければならぬことがあるのです。これは貴方に対するおせっかいな忠告じゃないのです。青木君に対する僕の責任の一部として、申し上げるのです。ヒッキョーは青木君の遺言の延長として申し上げるのです。それは、ほかでもありません。貴方がいかなる男性の感情を、どんなに弄ぼうが、それは貴方のご勝手です。いやご勝手と言うことにして置きましょう。だが、青木君の弟の感情を、弄ぶことだけは、僕が青木君に代わって、断然お断りして置きます。まさか、貴方も少しでも、人情がお有りでしたら、兄を深淵へ突き陥した後で、その肉親の弟をも、同じところへ突き陥すような残酷なことはなさるまいとは思いますけれども、念のためにお願いして置くのです。いや/どうもお邪魔しました。」  夫人の顔が、さすがにソウハクに転ずるのを尻目にかけながら、信一郎は、素早く部屋を出ようとした。が、それを見ると、夫人は屹となって呼び止めた。 「渥美さん! お待ちなさい!」  その凛とした声には、女王のような威厳が備わっていた。 「貴方は、自分の仰ることさえ仰ってしまえば、それでお帰りになってもいいとお考えになるのですか。貴方が、わたくしにご用事があるうちは、貴方に帰る権利が、わたくしになかったように、わたくしが貴方に申し上げることが残っている以上/貴方はお帰りになる権利はありません。わたくしは一言だけ貴方に申し上げることが残っています。」  美しい眉は吊り上り、黒い眸は、血走っていた。信一郎を、屹と見詰めて立っている姿は、『怒れる天女』と言ったような、美しさと神々しさとがあった。 「貴方は、いま青木さんの遺言とやらを、長々しく仰しゃいましたが、それをわたくしが受けると思っていらっしゃるのですか。時計こそ、お受けしましたが、そんなご遺言なんか、イチゴン半句だって、お受けする覚えはありません。そんなお言伝を、青木さんから承わるような覚えは、さらさらありません。いま承わったお言葉全部を、そのままご返上します。」  夫人の声にも、憎しみと怒りとが、燃えていた。が、信一郎はたじろがなかった。 「死人に口がないと思って、そんなことを仰っては困ります。貴方を、今日’訪問した客に村上と言う海軍大尉があった筈です。まさか、ないとは仰しゃいまスマイネ。」 「よくご存じですね。」  夫人は、平然として答えた。 「それなら、青木君の遺言を受ける責任と義務とがあります。貴方に、もし少しでも良心が残っていらっしゃるのなら、いま貴方にお目にかけるものを、平然と読めるかどうか試してご覧なさい!」  そう言いながら、信一郎はポケットに曲げて入れていたノートを/夫人の目の前に突き付けた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  信一郎が、眼の前に突き付けたノートを、夫人は事もなげに受け取った。ノートの重さにも堪えないような華奢な手で、それを無造作に受け取った。  鋼鉄の如き心と言うのは、恐らく今の場合の夫人の心を言うのだろう。鬼が出るか蛇が出るか分からないそのノートを、受け取りながら、一糸みだれたところも、怯んだところも見せなかった。 「おや、青木さんのノートでございますのね。」  夫人は、平然と言いながら、最初のページから繰り始めた。繰っているその白い手は、落ち着きかえっている。  が、信一郎は思った。今に見ろ、どんなに白々しい夫人でも、血で書いた青木淳の/フンコンの文字に接すると、きっと良心の苛責に打たれて、女らしい悲鳴を挙げる。彼女の孔雀の如き虚飾の驕りを乱されて、女らしい悔恨に打たれるに違いない。そう思いながら、ページを繰る夫人の手許と、やや蒼んでいる美しいオモテから、一瞬も眼も放たず、じっと見詰めていた。  その裡に、夫人はハタと、青木淳が書き遺した文字を見付けたらしい。さすがに美しい眸は、テーブルの上に開かれたノートのページの上に、釘付けにされたように、止ってしまった。  美しいオモテが、最初’薄赤く興奮して行った。が、それがだんだんソウハ-クになり、唇の辺りが軽く痙攣するように動いていた。  夫人が、深い感動を受けたことは、明らかだった。信一郎は、今にも夫人が、ノートの上に瓦破と泣き伏すことを予期していた。泣き伏しながら、非業に死んだ青年の許しを乞うことを想像した。彼女の美しい目から、真珠のような涙が、ハラハラとほとばしることを待っていた。悔恨と懺悔との美しい涙が。  が、信一郎の予期は途方もなく裏切られてしまった。一時動揺したらしい夫人の表情は、すぐ恢復した。涙などは、一滴だって彼女の長い睫をさえ潤さなかった。  彼女は、一言も言わずに、ノートを信一郎のホウへ押しやった。  信一郎は、夫人のデスペレートな態度に-あっせられて、この上何か言う勇気をさえ挫かれた。  二人は、ニサンプンの間、黙々として相対していた。信一郎は、その険しい/重くるしい沈黙に堪えかねた。 「いかがです。このノートを読んで、貴方は何ともお考えにならないのですか。」  信一郎の声のほうが、却ってあやしい震えをさえ帯びていた。  夫人は、黙して答えなかった。  信一郎は、畳みかけて訊いた。 「貴方は、青木君が血を以って書いた、このノートを読んで、何ともお考えにならないのですか。青木君の言い草じゃないが、貴方の少しでも残っている良心は、このノートを読んで、顫い慄かないのですか。貴方の戯れの作った恐ろしい結果に戦慄しないのですか。」  信一郎は、かなり興奮して突きかかった。  が、夫人は冷然として、氷の如く冷ややかに黙っていた。 「奥さん! 黙っていらしっては分かりません。貴方は! 貴方はこのノートを読んで何ともお考えにならないのですか。」  信一郎は、いらだって叫んだ。 「考えないことはありませんわ。」  彼女の沈黙が冷やかな如く/言葉そのものも冷やかであった。 「お考えになるのなら、そのお考えを承わろうじゃありませんか。」  信一郎はますますいらだった。 「でも、死んだ方に悪いのですもの。」 「死んだ方に悪い! 貴方はまだ死者を蔑もうとなさるのですか。死者を誣いようとなさるのですか。」  信一郎は火の如くゲッコウした。  そのゲッコウに、水を浴びせるように夫人は言った。 「でも、わたくし、このノートを読んで考えましたことは、青木さんも普通の男性と同じように、自惚れが強くて/我儘であると言うことだけですもの。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  夫人の言葉は、信一郎を’唖然-たらしめた。彼は呆気に取られて、夫人の美しい冷やかな顔を見詰めていた。どんな妖婦でも、昔の毒婦伝に出て来るような恐ろしい女でも、自分を恨んで死んだ男の書き置きを、こうまで冷酷に評し去る勇気はないだろう。自分を恨んでいる、血に-にじんだ言葉を自惚れと我儘だと言って評し去る女はないだろう。  が、一時の驚きが去ると共に、信一郎の心に残ったものは、夫人に対する激しい憎悪だった。女ではない。人間ではない。女らしさと、人間らしさとを失った美しい怪物である。その人を少しでも人間らしく考えた自分が、間違っていたのだ。彼は心の中の憎悪を吐き捨てるように言った。 「いやもう、なにも言いたくありません。貴方は、貴方のお考えで、男性を弄ぶことをおつづけなさい! そのうちに、純真な男性の怒りが、貴方を粉微塵に砕く日が来るでしょう。」  信一郎は、床を踏み鳴らさんばかりに、ゲッコウしながら、叫んだ。  が、信一郎が激すれば、激するほど、夫人は冷静になって行った。彼女は、冷たい冷笑をさえホオの辺りに、浮べながら、落ち着き返って言った。 「男性を弄ぶ! 貴方は、女性が男性を弄ぶことを、そんなに恐ろしい罪悪のように考えていらっしゃるのですか。だから、わたくしが男性の我儘だと言うのですわ。もし、男性を弄ぶ女性を、純真な男性の怒りが、粉微塵に砕くとしたなら、今の世間の大抵の男性は、純真な女性の怒りに依って、粉微塵に砕かれる資格があるでしょう:、貴方だって、貴方の純真な奥さんのお心の前に、少しも、恥ずかしいと思うことはありませんか:、貴方がわたくしの良心にお訴えになったように、わたくしも貴方の良心に、それを伺いたいと思いますの。」  夫人の態度は、明らかに熱していた。赤く熱すると言うよりも、白く冷たく/しかも極度に熱していた。 「女性が男性を弄ぶと貴方がた男性は、すぐ妖婦だとか毒婦だとか、あらん限りの悪名を浴びせかける。貴方などは、眼の色を変えてまで、叱責なさろうとする。が、ご覧なさい! 世間の男性がどんなに女性を弄んでいるかを。女性が男性を弄ぶに致しましたところで、それは男性の浮動し易い心を、弄ぶのに過ぎないじゃありませんか。男性が女性を弄ぶ場合は、心も肉体も、名誉も節操も、蹂躙し尽すじゃありませんか。眼にこそ見えませんが、この世間には男性に弄ばれた女性の生きた惨たらしい死骸が、幾つ転がっているかも分かりません。貴方の眼の前にいる女性なども、案外にもそうした生きた死骸の一つだか分かりませんよ。」  夫人の美しい眸は爛々と輝いた。その美しい声は、激しい-ネツのために、震えていた。 「男性は女性を弄んでよいもの、女性は男性を弄んでは悪いもの、そんな間違った男性本位の道徳に、わたくしは一身を賭しても、反抗したいと思っていますの。今の世の中では、国家までが、国家の法律までが、社会のいろいろな組織までが、そうした間違った考え方を、助けているのでございますもの。ご覧なさい! 世の中には、お女郎屋だとか/待合いだとか/お茶屋だとか、男性が女性を公然と弄ぶ機関が存在しているのですもの。そう言うものを国家が許し、法律が認めているのですもの。また、そう言うものが存在している世の中に、住みながら、教育家とか思想家などと言う人達が、晏然として手を拱いているのですもの。女性ばかりに、貞淑であれ! 節操を守れ! 男性を弄ぶな! そんなことを、いくら口を酸くして説いても、わたくしはそれを男性の得手勝手だと思いますの。男性の我儘だと思います。ちょうどこの青木さんのノートが、男性の我儘を示しているように。」  虐げられたる女性全体の、反抗の化身であるように、夫人の態度は、跳ね返る竹の如き鋭さを’持っていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  夫人は、心の中に抑えに抑えていた女性としてのいつもの鬱憤を、1時に晴らしてしまうように、激しく-ほとばしる火花のように喋べり続けた。 「人が虎を殺すと狩猟と言い、紳士的な高尚な娯楽としながら、虎がたまたま人を殺すと、兇暴とか残酷とかあらゆる悪名を負わせるのは、人間の得手勝手です。我儘です。ちょうどそれと同じように、男性が女性を弄ぶことを、当然な普通なことにしながら:、社会的にも妾だとか、芸者だとか、女優だとか娼婦だとか、弄ぶための特殊な女性を作りながら:、反対にたまたま一人か二人かの女性が男性を弄ぶと/妖婦だとか毒婦だとか、あらゆる悪名を負わせようとする。それは男性の得手勝手です。我儘です。わたくしは、そうした男性の我儘に、一身を賭して反抗してやろうと思っていますの。」  彼女は、ちょっと言葉を-とぎらせてから、 「青木さんとの事だって、そうでございますわ。貴方などは、全ての責任をわたくしに負わせようと遊ばす。わたくしが、ショウジョウ無垢な青木さんを迷わしたようなことをお言いになる。が、あの時計だって、わたくしが青木さんに、どうかお受け取りになって下さいと言って、差し出したものじゃあございませんわ。青木さんが、幾度もくれくれと仰ったから差し上げたのよ。自分がおねだりなすったことなどは、ちっとも書いておありにならないのですもの。だから、自惚れが強くって我儘だと申したのですわ。またあの方が、いくら自殺をすると書いておありになっても、それはあの方の詠嘆に過ぎませんわ。もし、自動車が転覆しなかったら、あの方は今日あたりは、わたくしのサロンへお見えになったかも知れませんよ。またたとい自殺の決心が、本当でおありになったとしても、それを私一人の責任のように、ご解釈なさることは、ごめん蒙りたいと思いますわ。だって、あの方の性格の弱さに対してまで、わたくしは責任を持ちたくありませんもの。わたくしとのフラーテイションのちょっとした幻滅で、自殺をなさるような方は、男子としての生存的意志を、持っていないと申し上げてもいいのですもの。わたくしとのいきさつで、自殺なさらなくっても、またなにか別なことで、すぐ自殺してしまう方ですもの。」  信一郎は、夫人の言葉を聴いているうちに、それを夫人の捨鉢な/不貞腐れの言葉ばかりだとは、聞きながされなかった。彼は、その美しい夫人の裡に、いかなる男性にも劣らないような、鋭い理智と批判とを持った一個の新しい女性:、いかなる男性とも、精神的に戦い得るような/新しい強い女性を認めたのである。  彼の夫人に対する憎悪は、三度四度目に、またある尊敬に変わっていた。旧道徳の殻を踏み躙っている夫人を、古い道徳の立場から、非難していた自分が、かなり馬鹿らしいこ-とに気が付いた。  夫人の男性に対する態度は、彼女の淫蕩な動機からでもなく、彼女の妖婦的な性格からでもなく、もっと根本的な主義から/思想から、萌しているのだと思った。 「わたくし、男性がしてもよいことは、女性がしてもよいと言うことを、男性に思い知らしてやりたいと思いますの。男性が平気で女性を弄ぶのなら、女性も平気で男性を弄び得ることを示してやりたいと思いますの。わたくし/一身を賭して男性の暴虐と我儘とを懲らしてやりたいと思いますの。男性に弄ばれて、綿々の恨みを懐いている女性の生きた死骸のために/復讐をしてやりたいと思いますの。本当にわたくしだって、生きた死骸のお仲間かも知れませんですもの。」  そう言いながら、夫人はちょっと頭をうなだれた。緊張し切っていた夫人の顔に、悲しみの色が、サッと流れた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  物凄いと言ってよいか、死身と言ってよいか、とにかく、烈々たる夫人の態度は、信一郎の心をかなり振盪した。  これほどまで、深い根拠から根ざしている夫人の生活を、慣習的な道徳の立場から、非難しようとした自分の愚かさを、信一郎はしみじみと悟ることが出来た。夫人をして彼女の道を行かしめるほかはない。たとい、その道が彼女を、どんな深淵に導こうとも、それは彼女に取って覚悟の前の事に違いない。多くの男性を飜弄した報いのために、たとい彼女自身を亡ぼすとも、それは、彼女としては、主義に殉ずることであり、男性に対する女性の反抗の犠牲となることなのだ。 「いや! 奥さん、僕は貴方のお心が、始めて解ったように思います。僕はそのお心に賛成することは出来ませんが、理解することは出来ます。貴方に忠告がましいことを言ったのを、お詫します。貴方が、一身を賭して、貴方の思い通り、生活なさることを、ハタからかれこれ言うことの愚かさに気が付きました。が、奥さん、僕は、今お暇する前に、たった一つだけお願いがあるのです。聴いて下さるでしょうか。」 「どんなお願いでございましょうか。わたくしにも出来ることでございましたら。」  信一郎が夫人の本心を知ってから、かなり妥協的な心持ちになっているのにも拘わらず、夫人の態度の険しさは、少しも緩んでいなかった。 「ほかでもありません。さっきも申しました通り、青木君の弟だけを、貴方の目指す男性から除外していただきたいと思うのです。青木君の死をまざまざと知っているだけ、あの方の弟までが、貴方の客間に出入りすることは、僕の心を暗くするのです。青木君の死の責任がどちらにありましょうとも、青木君が貴方を恨んで死んだ以上、青木君の弟に対してだけは、慎んでいただきたいと思うのです。」 「貴方は、ご忠告をなさらないと言う口の下から、またそう言うことを仰っていらっしゃるのですね。」そう言いながら、さすがに夫人はちょっと苦笑ともなく/微笑ともなく笑った。「自分の生活だけを自分の思いどおりにしようとするものは、利己主義ではない:、他人の生活をまで、自分の思い通にしようとするものこそ、本当の利己主義だと、ある人が申しましたが、貴方などこそ、本当の利己主義でいらっしゃいますわね。青木さんの弟がわたくしを慕っていらっしゃるとする。そう仮定したとしても、それがあの方としては、一番本当の生活じゃございませんでしょうかしら。それが、あの方として一番本当の生き方じゃございませんかしら。そう言う他人の真剣な生活を、貴方が傍から心配なさることは少しもないと思いますわ。わたくしのために、あの方が、一身を犠牲にするような事があったとしても、あの方としては一番本当の生き方をしたと言う事になりは致しませんでしょうか。」  夫人の考え方は、全ての妥協と慣習とを踏み躙っていた。 「果たしてそんなものでしょうか。僕は断じてそうは思いません。」  信一郎はかなり激しく、抗議せずには-いられなかった。 「それは、銘々の考え方の違いですわ。わたくしは、わたくしの考え方に依って生きる自由を持っています。」  夫人は、この長い激論を打ち切るように言った。 「そうです。それはそうかも知れません。が、貴方が貴方の考えに依って生きる自由があるように、僕も僕の考えを実行する自由を主張するのです。奥さん! 青木君の弟を、あなたの脅威から救うことに、僕は相当の力を尽すつもりです。それは死んだ青木君に対する/僕の神聖な義務だと思うのです。」 「どうか、ご随意に。」夫人は、冷然と言った。 「青木さんの弟に取っては、本当に有難迷惑だとは思いますが、しかし止むを得ませんわ。貴方が躍起になったご忠告が、あの方のわたくしに対するお心を、どのくらい覚まさせるか、ゆっくり拝見したいと思いますわ。」  夫人は、最後の-とどめを刺すように、高飛車に/冷然と笑いながら、言い放った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第20話】 【初恋】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  瑠璃子夫人を、あの太陽に向かって、豪然と咲き誇っている向日葵に譬えたならば:、それとは全く反対に、鉢の中の尺寸の地の上に、楚々として慎ましやかに花を付けるあの可憐なヒナゲシの花のような女性が、夫人の手近にいることを、人々は忘れはしまい。それは言うまでもなく、かの美奈子である。  父のカツヘイが死んだとき十七であった美奈子は、今年十九になっていた。その丸顔の色白のオモテは、乙女そのものの象徴のような、浄さとあどけなさとを以って輝いていた。  男性に対しては、何の真情をも残していないような瑠璃子夫人ではあったが、彼女は美奈子に対しては/母のような慈愛と/姉のような親しさとを持っていた。  美奈子もまた、彼女の若き母を慕っていた。殊に、兄の勝彦が父に対する暴行の結果として、警察の注意のため、葉山の別荘の一室に閉じ込められた為に、彼女の親しい肉親の人々を/全て彼女の周囲から、奪われてしまった寂しい美奈子の心は、自然若い義母に向かっていた。若き母も、美奈子を心の底から愛した。  二人は、過去の苦い記憶を悉く忘れて、本当の姉妹のように愛し合った。瑠璃子が、カツヘイの死んだあとも、ショウダケに-とどまっているのは、一つは、美奈子に対する愛のためであると言ってもよかった。この可憐な少女と、その少女の当然’受け継ぐべき財産とを、守ってやろうと言う心も、無意識の裡に働いていたと言ってもよかった。  従って瑠璃子は、美奈子を’乙女らしく、女らしく/慎しやかに育てて行くために、かなり心を砕いていた。彼女は彼女自身の放縦な生活には、決して美奈子を近づけなかった。  彼女を追う男性が、蠅のように集まって来るサロンには、決して美奈子を近づけなかった。  従って、美奈子は母のサロンに、どんな男性が集まって来るのか、顔だけも知らなかった。無論/紹介されたことなどは、一度もなかった。ただ門の出入りなどに、そうした男性と、擦れ違うことなどはあったが、ただ軽い黙礼のほかは口ひとつ利かなかった。  母が日曜の午後を、華麗な客間で、多くの男性に囲まれて、女王のように振舞っているのをよそに:、美奈子は自分の離れの居間に、日本室の居間に、気に入りの女中を相手に、お琴や挿しバナのおさらいに静かな半日を送るのが常だった。  ときどきは、客間に於ける男性の華やかな笑い声が、遠く彼女の居間にまで、響いて来ることがあったが、彼女の心は、そのために微動だにもしなかった。そうした折など、女中達が、瑠璃子夫人の奔放な、放恣な生活を非難するように、 「まあ! 大変お賑やかでございますわね。奥様もお若くていらっしゃいますから。」  などと、美奈子の心を察するように、忠勤ぶった蔭口を利く時などには、美奈子は、その女中をそれとなく窘めるのが常だった。  が、日曜の午後を、彼女はもっと有意義に過すこともあった。それは、青山に在る父と母とのお墓にお参りすることであった。  彼女は、女中をひとり連れて、晴れた日曜の午後などを、わざと自動車などに乗らないで、青山に父母の墓を訪ねた。  彼女は夢のような幼い時の思い出などに耽りながら、一時間にも近い間、父母の墓石の辺りに低徊していることがあった。  六月の終りの日曜の午後だった。その日は死んだ母の命日に当たっていた。彼女は、女中を伴って、いつものようにお墓参りをした。  墓地には、初夏の日光が、やや暑くるしいと思われるほど、輝かしく照っていた。墓地を仕切っている生垣の若葉が、スイスイと勢いよく延びていた。美奈子は裏の庭園で、切って来た美しいシラユリの花を、メテに持ちながら、懐しい人にでも会うような心持ちで:、墓地の中の小道を幾度も折れながら、父母の墓のホウへ近づいて行った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  晴れた日曜の午後の青山墓地は、そこの墓石の辺りにも、かしこの生垣の裡にも、お墓参りの人影が、チラホラ見えた。  清々しく水が-そそがれて、線香の煙が、白くかすかに立ち昇っているお墓なども多かった。  小さい子供を連れて、亡き夫のお墓に参るらしい若い未亡人や、珠数を手にかけた大家の老夫人’らしい人にも、行き違った。  ショウダケの墓地は、あの有名なN大将の墓から十間と離れていないところにあった。美奈子の母が死んだ時、父は貧乏時代を所帯の苦労に苦しみ抜いて、碌々夫の栄華の日にも会わずに、死んで行った糟糠の妻に対する、せめてもの’心遣りとして、ここに広大な墓地を営んだ。無論、自分自身も、妻の後を追うて、すぐそこに埋められると言うことは夢にも知らないで。  亡き父の豪奢は、周囲を巡っている鉄柵にも、辺りの墓石をあっしているような、一ジョウに近い墓石にも偲ばれた。  美奈子は、女中が水を汲みに行っている間、父母の墓の前に、じっと蹲りながら、心の裡で父母の懐しい面影を描き出していた。世間からは、いろいろに悪評も立てられ、成金に対する攻撃を、一身に受けていたような父ではあったが:、自分に対しては、世に掛け替えのない優しい父であったことを思い出すと、いつものように、追慕の涙が、ホロホロと止めどもなく、二つのホオを流れ落ちるのだった。  女中が、水を汲んで来ると、美奈子は、その花筒の古い汚れた水を、替えほしてから、新しい水を、なみなみと注ぎ入れて、剪り取ったままに、まだ香りの高いシラユリの花を、挿し入れた。こうしたことをしていると、何時の間にか、心が清浄に澄んで来て、父母の霊が、遠い遠い-天の一角から、自分のしていることを、微笑みながら、見ていてくれるような:、頼もしいような/懐しいような、清々しい気持ちになっていた。  美奈子は、花を供えた後も、じっとうずくまったまま、心の中で父母の冥福を祈っていた。微風が、そよそよと、向こうの杉垣の間から吹いて来た。 「本当に、よく晴れた日ね。」  美奈子は、やっと立ち上がりながら、女中を見返ってそう言った。 「左様でございます。本当に、雲のカケひとつだってございませんわ。」  そう言いながら、女中は眩しそうに、晴れわたった夏の大空を仰いでいた。 「そんなことないわ。ほら、あすこにかすったような白い雲があるでしょう。」  美奈子も、空を仰ぎながら、晴々しい気持ちになってそう言った。が、美奈子の見付けたその白いかすかな雲の一片を除いたほかは、空はほがらかに/どこまでも晴れ続いていた。 「今日は余りいいお天気だからすぐ帰るのは惜しいわ。ぶらぶら散歩しながら、帰りましょう。」  そう言いながら、美奈子は女中を促して、懐しい父母の墓を離れた。  いつもは、歩き馴れた道を、青山三丁目の停留場に出るのであったが、その日は清い墓地内を、当てもなくぶらぶら歩くために、わざと道を別な方向に選んだ。  自分の家の墓地から、三十間ばかり来たときに、美奈子はふと、美しく-かり込まれた生垣に囲まれた墓地の中に、若い二人の兄妹らしい男女が、お詣りしているのに気が付いた。  美奈子は、軽い好奇心から、二人の様子をかなり注意して見た。兄のほうは、二ジュウサンシだろう。銘仙らしい白いカスリに、袴を穿いて/麦藁の帽子を被った、スラリとした姿が、どことなく上品な気品を持っていた。妹はと見ると、まだ十五か十六だろう、青味がかった棒縞のお召に/カシミヤの袴を穿いた姿が、質素な周囲と反映して/あざやかに美しかった。  美奈子達が、だんだん近づいて/その墓地の前を通り過ぎようとしたとき、ふと振り返った妹は、美奈子の顔を見ると、微笑を含みながら/軽く会釈した。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  妹らしいほうから会釈されて、美奈子も周章てながら、それに応じた。が、相手が誰だか、容易に思い出せなかった。長い睫に掩われたその黒い眸を、どこかで見たことのあるように思った。が、それがどうしても美奈子には思い出せなかった。 「人違いじゃないのかしら。」  そう思って、美奈子はちょっと’顔を赤くした。  が、美奈子がその墓地の前を通り過ぎようとして、再びその兄妹らしい男女を見返ったとき、今度は兄のほうが、美奈子のほうを振り返っていた。恐らく妹が、挨拶したので、ちょっとした興味を持った為だろう。美奈子の眸は、当然その青年の顔を、正面から見た。その刹那/美奈子は、若い男性と、咄嗟に顔を見合わした恥かしさに、弾かれたように、顔を元に返した。  それはホンの一瞬の間だった。が、その一瞬の間にひと目見た青年の顔は、美奈子の心に、名工が鑿を振るったかのように、ハッキリと刻み付けられてしまった。  彼女は、今まで異性の顔に、自分から注意を向けたことなどは、殆どなかった。が、いま見た青年の顔は、彼女の注意の全てを、支配するような不思議な魅力を持っていた。  白いくっきりとした顔、妹によく似た黒い眸、凛々しく引きしまった唇、顔全体を包んでいる上品な匂い。  お墓参りのあとの、/澄み渡ったような美奈子の心持ちは、忽ち掻き乱されてしまった。彼女ののんびりとしていた歩調は、急に早くなった。彼女の心は、強い力で後ろへ引かれながら、身体だけは彼女の意志とは反対に、前へ前へと急いでいた。ちょうど、恐ろしいものからでも逃れるように。  彼女の乱れていた心が、だんだん-なごんで来るのに従って、さっきの妹のほうから受けた挨拶のことを、考えていた。センポウは、自分を知っているに違いない。少くとも、妹のほうだけは、自分を知っていてくれるに違いない。が、そうは思って見るものの、妹が誰であるかどうしても思い出されなかった。  が、通り過ぎた時に、チラと見た所に依ると、二人が、つい近く失ったばかりの肉親のお墓参りをしていたことだけは、明らかだった。幾本も立っている卒都婆が、どれもこれも墨の匂いが新しかった。  美奈子は、知人の家で、最近に不幸のあった家を、それからそれと数えて見た。が、どうしても兄妹の所属は判らなかった。  妹のほうが、人違いをしたのかも知れない。そう思うことは美奈子は、何だか-さみしかった。やっぱり、こちらが思い出せないのだ。そのうちには、またきっとあの人達と顔を合せる機会があるに違いない。きっと機会が来るに違いない。 「お嬢様/ どっちへいらっしゃるのでございます?」  そう言って呼び止める女中の声に驚いて、美奈子が我に帰ると、美奈子は右に折れるべき道を、ズンズン前へ、出口のない小道のホウへと、進んでいるところだった。 「そちらへいらっしゃいますと突き当たりでございますよ。」  そう言いながら、女中は笑った。 「おや! おや! わたしぼんやりしていたわ。」  美奈子も、てれかくしに笑った。  二人は何時の間にか霞町のホウへ近づいていた。 「霞町から乗って、青山一丁目で乗り換えすることにいたしましょうか。」  女中のハツギに任したように、美奈子は黙って霞町のホウへ、だらだらしたサカを-くだっていた。心の中では、まだ一心に、/その妹’の顔と兄の顔とを等分に考えながら。  シオチョウ行きの電車の昇降台の棒に、美奈子が手をかけたとき、彼女は低く、 「ああ/そうそう!」と、自分自身に言った。  彼女は、やっと妹を思い出した。お茶の水で確か三年か二年か下の級にいた人だ。そうそう! さっき見たときバンドをしていたのをスッカリ忘れていた。向こうではこっちの顔だけを覚えていてくれたのだ。そう思うと、美奈子は兄妹に対して一入なつかしい心が湧いて来た。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  少女の顔だけは、やっと思い出したけれども、名前はどうしても思い出せなかった。家へ帰ってからも、美奈子は、お茶の水にいた頃の校友会雑誌の『校報』などを拡げて、それらしい名前を、思い出そうとしたけれども、やっぱり無駄だった。  自分ながら、どうしてあの兄妹に、不思議に心を惹かされるのか、美奈子には分からなかった。が、兄のほうの白い横顔や、妹の会釈した時の微笑などがどうしても忘れられなかった。自分にも、あんなに親しい兄’があったら、兄の勝彦が、もう少し普通の人間であったら、などと取り止めもないことを、考えながら、やっぱり忘れられないのは、一目’顔を見合わせただけの兄妹だった。否、本当に忘れられないのは、兄のほう一人だけだったかも知れない。ただ兄を想い出すごとに、妹は影の形に伴うごとく、彼女の記憶の裡に、甦って来るのかも知れなかった。異性の兄のほうだけを考えることは、彼女の慎しい処女性が、彼女自身にそれを許さなかった。彼女は、自身でも兄妹のことを考えているように、言い訳しながら、本当は兄だけのことを考えていたのかも知れなかった。  美奈子は、兄のほうの美しい/凛々しい姿を、心の裡で、じっと噛みしめるように、想い出していると/ほのぼのと夜の明けるように、心の裡に新しい望みや、新しい世界が-ひらけて行くように思った。今まで夢にも知らなかったような、美しい世界が-ひらけて行くように思った。  が、それと一緒に、兄妹の名前が、ハッキリと知れないことが、寂しかった。あの時に、偶然逢ったばかりで、今後永く永く、否/一生逢わずに終るのではないかと思ったりすると、淡い掴みどころのないような寂しさが、彼女の心を暗くしてしまうのだった。  彼女は、新しい望みと、寂しさとを一緒に知ったと言ってもよかった。否/彼女の心の少女らしい平和は、永久に破られたと言ってもよかった。  美奈子は、以前よりも大人しい、以前よりも慎しい少女になっていた。  その裡に、彼女の心にも、少女らしいプランが考えられていた。そうだ! この次の日曜にも、お墓参りをして見よう。もし、あの新しい墓の主が、兄妹に取って親しい父か母かであったならば、この次の日曜にも二人はきっと、お詣りをしているのに違いない。  そう考えて来ると、美奈子には次の日曜が-めぐって来るのが、一日千秋’のように、もどかしく待たれた。  が、待たれたその日曜が来て見ると、夕べからの梅雨らしい雨が、じめじめと降っているのだった。 「今日はお墓参りに行こうと思っていたのですけれども。」  美奈子は、朝/母と顔を見合わすと、運動会の日を雨に降られた少女か何かのように、こぼすように言った。瑠璃子には美奈子の失望が分からなかった。 「だって! 美奈さんは、前の日曜にもお参りしたのじゃないの。」 「でも、今日も何だか行きたかったの。わたくし”楽しみにしていたのです。」 「そう! じゃ、車で行って来てはどう。車を-おりてから、三十間も歩けばいいのですもの。」  瑠璃子は、優しく言った。 「でも!」そう言って、美奈子は口籠った。  雨を衝いてでも、風を衝いてでも、自分は行ってもいい。が、向こうは? そう思うと、美奈子は寂しかった。普通にお墓参りをする人が、こんな雨降りの日に出かけて来る訳はない。そう思って来ると、雨降りにでも行こうと言う自分の心、いな/お墓参りと言うことを、ダシに使おうとしている自分の心が、美奈子は急に恥かしくなった。彼女は、われにも-あらず顔を赤くした。 「おや! 美奈さん。何がそんなに恥ずかしいの。お墓参りするのが、そんなに恥ずかしいの?」  明敏な瑠璃子は、美奈子の表情を見逃さなかった。 「あら! そうではありませんわ。」  と、美奈子は周章てて、打ち消したが、彼女の白絹のように白いホオは、耳の付根まで赤くなっていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  その次の日曜は、珍らしい快晴だった。洗い出したようなウルトラマリンの空に、眩しい夏の太陽が/輝かしい光を、一杯に漲らしていた。  美奈子は、朝/目が覚めると、ベッドの白いシーツの上に、緑色のカーテンを透かして、朝の朗かな光が、戯れているのを見ると、急に幸福な感じで、胸が一杯になった。今日は何だか、楽しい/嬉しい出来事に出逢いそうな気がした。彼女は、いそいそとして、トコを離れた。  午前中は、いろいろな事が手に付かなかった。母に勧められて、母のピアノにヴァイオリンを合せたけれども、美奈子はいつになく/幾度も幾度も弾き違えた。 「美奈さんは、今日はどうかしているじゃないの?」と、母から心の裡の動揺を、見透かされると、美奈子の心は、いよいよ掻き乱されて、とうとう中途で合奏を辞めてしまった。  午後になるのを待ち兼ねたように、美奈子はお墓参りに行くための許しを、母に乞うた。いつもはあんなに気軽に、口に出せることが、今日は何だか、言いにくかった。  墓地は、いつものように静かだった。時候がもうスッカリ夏になった為か、この前来たときのように、お墓参りの人達は多くはなかった。が、周囲は、静寂であるのにも拘わらず、墓地に一歩踏み入れると同時に、美奈子の心は、ときめいた。何だか、そわそわとして、足が地に付かなかった。恐いような怖ろしいような、それでいて浮き立つような唆られるような心地がした。  父母のお墓の前に、じっとうずくまったけれども、心持ちはいつものように、しんみりとはしなかった。こんな心持ちで、お墓に向かってはならないと、心で咎めながらも、妙に心が落ち着かなかった。  彼女は、いつもとは違って、何かにあわてたように、父母の墓前から立ち上がった。 「すみや、今日も霞町のホウへ出て見ない!」  美奈子は、ちょっと顔を赤らめながら/何気ないように女中に言った。女中は黙ってついて来た。  美奈子の心は、一歩毎にその動揺を増して行った。彼女は墓石と墓石との間から、今にも麦藁帽の端か、妹のほうのあざやかな着物が、チラリとでも見えは-せぬかと、幾度も透かして見た。が、その辺りは-みょうに静まり返って、人けさえしなかった。  彼女が、決心して足を早めて、心覚えの墓地に近づいて行ったとき、彼女の希望は、今朝からの興奮と幸福とは、煙のようにムザムザと、夏の大空に消えてしまった。  心覚えの墓地は、空しかった。新しい墓の前には、燃え尽きた線香の灰が残っているだけであった。供えた花が、凋れているだけであった。美奈子の心を、寂しい失望が一面に塞してしまった。  せめて墓に-ほり付けてある姓名から、兄妹の姓名を知りたいと思った。が、生け垣ごしに見ただけでは、それがどうしても、確かめられなかった。それかと言って、女中を連れている手前、それを確かめるために、墓地の回りを歩いたりすることも出来なかった。  美奈子は、満されざる空虚を、心の裡に残しながら、寂しくその墓地の前を通り過ぎた。  彼女は、その途端/ふと学校で習った『クイゼを守って兎を待つ』と、言う熟語を思い出した。約束もしない人が、どうして一定の時日に、一定の場所に来ることがあるだろう。そう思って来ると、自分の子供らしさが、恥ずかしいと同時に、寂しい/頼りない気がした。あるいは、あれ切りもう一生逢われない人かも知れない。  彼女は、怏々として、暗いむすぼれた心持ちで電車に乗った。今までは楽しく明るい世の中が、何だか急に翳って来たようにさえ思われた。  が、美奈子の乗った九段両国行きの電車が、三宅坂に止まったとき、運転手台の方から、乗って来る人を見たとき、美奈子は思わずその美しい目を眸った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  美奈子が、驚いて目を眸ったのも、無理ではなかった。車内へツカツカと、入って来て、彼女のすぐ斜め前へ腰を降ろしたのは、紛れもない、墓地で見た/かの青年であった。美奈子が二週間もの間、よそながらもう一度見たいと思っていた/あの青年であった。彼女は、ひと目見たばかりではあったが、上品なその目鼻立ちを見ると、すぐそれと気が付いた。  その青年に、つい目と鼻の位置に坐られると、美奈子は顔を赤らめて、じっと俯むいてしまう女だった。が、心の裡では思った、何と言う不思議なチャンスだろう。その人に逢えると思った場所では、逢えないで、悄然と帰って来る電車の中で、ヒョックリ乗り合わす。何と言う不思議な偶然だろう。そう思うと同時に、不思議な偶然の向こうには、思いがけない幸福でもが、潜んでいるように思われて、さっきまで凋れかえっていた美奈子の心は、別人のように晴れやかに、弾んで来た。が、美奈子は顔を上げて、相手の顔を、じっと見詰めるだけの勇気はなかった。車台の床に投げられている彼女の視線には、青年が持っている細身の籐のステッキの端だけしか映っていなかった。  あの方は、自分の顔を覚えていてくれるかしら。美奈子はそんなことを、わくわくする胸で、取り止めもなく考えていた。とにかく、妹が挨拶をした以上、自分の顔だけくらいは、覚えていてくれるかしら。覚えていてくれれば、どんなに幸福であろうかなどと思ったりした。  電車は、すぐ半蔵門で止った。もう、自分の家までは2分か3分かの間である。動き出せばすぐ止まる、わずかの距離であった。美奈子は、もっともっとこの電車に乗っていたかった。そうだ! 青年の乗っている限り、この電車に乗っていたいと思った。  彼女は、女中をそれとなく先へ降ろして、神田辺りに買い物があると言って、このままずっと乗り続けていようかと思ったりした。が、そうした大胆な計画をなすべく、彼女はあまりに純だった。  その内に、電車はもう半蔵門の停留場を離れていた。英国大使館の前の桜青葉の間を、勢いよく走っていた。美奈子は電車が、いつもの二倍もの速力で走っているように思った。彼女は、最後の一瞥を得ようとして、思い切って顔を持ち上げた。青年は、この前見たときと同じような白いカスリの着物に/絽セルらしい袴を穿いていた。近く見れば見るほど、貴公子らしい/凛々しい面影が、美奈子の小さい胸を圧し付けるように、迫って来るのだった。美奈子は、この青年と向かい合って坐りながら、もっともっと九段までも両国までも:、いないな/もっと遥かに遥かに遠いところまで、一緒に乗って行きたいような、切ない情熱が、胸に湧いて来るのをどうすることも出来なかった。このまま別れてしまうと、またいつ会われるか分からない。二年も三年も、いな/一生もう二度と会われないのではあるまいかなどと思ったりすると、美奈子は、どうしても座席が離れられなかった。が、女中のすみやは、そんなことは少しも頓着しなかった。  五番町の停留場の赤いハシラが見え出すと、主人よりも先に立ち上がった。 「参りましたよ。」  彼女は主人を促すように言った。美奈子がそれに促されて、不承ブショウに席を離れようとしたときだった。おりそうな気配などは、少しも見せなかった青年が、突然’立ち上がると/男らしい活溌さで、素早く車掌台へ出ると、まだ惰力で動いている電車から、軽くヒラリと飛び降りた。 『おや!』女中が、そばにいなかったら、彼女は驚いて声を出したかも知れなかった。 『ご近所の方かしら。』そう思った美奈子は、電車をおりながら美しい眸を凝して、その後ろ姿を見失う-まいと、眼も放たず見詰めていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  美奈子より先に、電車を飛び降りた青年は、その後ろ姿を、じっと彼女から見詰められているとは少しも気が付かないように、籐の細身のステッキを、眩しい日の光の裡に、軽く打ち振りながら、グングン急ぎ足で歩いた。  美奈子は、一体この青年が、近所のどの家に入るのかと、わざと自分の歩調を緩めながら、青年の後ろ姿を眼で追っていた。  その時に、彼女を驚かすような思いがけないことが、起こった。 「おや! あの方、うちへいらっしゃるのじゃないかしら。」  美奈子は、思わずそう口走らずには-いられなかった。  九段のホウへグングン歩いて行くように見えた青年は、美奈子の家の前まで行くと、だんだんその門に吸い付けられるように歩み寄るのであった。  青年は、門の前で、ホンの一瞬の間、佇立した。美奈子は、やっぱり通りがかりに、ちょっと邸内の様子を/軽い好奇心から覗くのではないかと思った。が、佇ずんでちょっと何か考えたらしい青年は、思い切ったように、ぐんぐん’家のなかへ入って行った。ステッキを元気に打ち振りながら。 「お客様ですわ、奥様の。」  女中は、美奈子の前の言葉に答えるように言った。  いかにも、女中の言うとおり、母のサロンを-おとなう青年の一人に違いないことが美奈子にも、もう明らかだった。 「お前、あの方’知っているの?」  美奈子は、心の裡の動揺を押しかくすようにしながら、何気なく訊いた。 「いいえ! 存じませんわ。わたくしはお客マのほうのご用をしたことが、一度もないのでございますもの。きくやなら、きっと存じておりますわ。」  きくやと言うのは、母’についている小間使いの一人だった。  美奈子は、とにかくその青年が、自分の家に出入りしていると言うことを知ったことが、かなり大きい喜びだった。自分の家に出入りしている以上、会う機会、知り合いになる機会が、いくらでも得られると思うと、彼女の小さい胸は、歓喜のために激しく波立って行くのだった。が、それと同時に、母が前から、その青年と知り合っていること、その青年とお友達であることが、不思議に気になり出した。今までは、母がいくら若い男性を、その周囲に惹き付けていようとも、それは美奈子に取って、何の関係もないことだった。が、この青年までが、母の周囲に惹き付けられているのを知ると、美奈子は平気ではいられなかった。かすかではあるが、母に対する美奈子の純な濁らない心持ちが、揺ぎ始めた。  美奈子が、心持ち足を早めて、玄関のホウへ近づいて見ると、青年は取次が帰って来るのを待っているのだろう。そこに、ボンヤリ立っていた。  彼は不思議そうに、美奈子をジロジロと見たが、美奈子がこの家の家人であることに、やっと気が付いたと見え、少し周章て気味に会釈した。  美奈子も周章て、頭を下げた。彼女の白いふっくりとしたホオは、見る見る染めたように真っ赤になった。その時にちょうど、取次の少年が帰って来た。青年は待ちかねたようにそのあとに-ついて入った。  美奈子が、玄関から上がって、奥の離れへ’行こうとして客間の前を通ったとき、一頻り賑やかな笑い声が、美奈子の耳を衝いて起こった。今までは、そうした笑い声が、美奈子の心を-かすりもしなかった。本当に平気に聞き流すことが出来た。が、今日はそうではなかった。その笑い声が、妙に美奈子の神経を衝き刺した。美奈子の心を不安にし、悩ました。あの青年と、自由に談笑している母に対して、羨望に似た心持ちが、彼女の心に起こって来るのをどうともすることも出来なかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  その日曜の残りを、美奈子はそわそわした/少しも落ち着かない気持ちの裡に過さねばならなかった。かの青年が、自分の家の一室にいることが、彼女の心を掻き乱してしまったのだ。  今までは、一度も心に止めたことのないサロンのほうが、絶えず心にかかった。青年が母に対してどんな話をしているのか、母が青年にどんな答えをしているかと言ったようなことを、想像することが、彼女をますます不安にさせ、いらいらさせた。  彼女は、とうとう部屋の中に、じっと坐っていられないようになって、広い庭へ降りて行った。気を紛らすために、庭の中を歩いて見たい為だった。が、庭の中をあっちこっちと歩いている裡に、彼女の足は何時の間にか、だんだん洋館の’ホウへ吸い付けられて行くのだった。彼女の眸は、ときどき我にもあらず、客間のヴェランダのホウへ走るのを、どうともすることが出来なかった。そのヴェランダからは、ときどき思い出したように、華やかな笑い声が外へ洩れた。若い男性の影が、チラホラ動くのが見えた。が、その人らしい姿は、とうとう見えなかった。  大抵は、その日の訪問客を引き止めて、派手に晩餐を振舞う瑠璃子であったが:、その日はどうしたのか、夕方が近づくとみんな客を-かえしてしまって、美奈子とたった二人きり、小さい食堂で、平日のように差し向かいに食卓に就いた。  その夜の瑠璃子は、これまでの通り、美奈子に取って母のような優しさと/姉のような親しみとを持っていた。が、美奈子は母に、ホンのかすかではあるが、今までに持たなかったよ-うな感情を持ち始めていた。母の若々しい/神々しいほどの美貌が、何となく羨ましかった。母が男性と、殊にあの青年と、自由に交際っているのが、何となく羨ましいように、妬ましいように思われて仕方がなかった。が、美奈子はそうしたはしたない感情を、グッと抑え付けることが出来た。彼女はいつもの初々しい/大人しい美奈子だった。  順々に運ばれるコーセスの最後に出たアスパラガスを、瑠璃子夫人がその白魚のような華奢な指先で、摘み上げたとき、彼女は思い出したように美奈子に言った。 「ああそうそう! 美奈さんに相談しようと思っていたの。貴方/この夏はどこへ’行きましょうね。シゴニチの裡に、どこかへ行こうと思っているの。今日なんかもうかなり暑いのですもの。」 「わたし、どこだっていいわ。貴方のお好きなところならどこだっていいわ。」美奈子は、慎ましくそう言った。 「軽井沢は去年行ったし、わたし/今年は箱根へ行こうかしらと思っているの。今年は電車が強羅まで開通したそうだし、便利でいいわ。」 「わたし/箱根へはまだ行ったことがありませんの。」 「それだとなお-いいわ。わたし/温泉では箱根が一番いいと思うの。東京には近いし景色はいいし。じゃやっぱり箱根にしましょうね。明日でも、富士屋ホテルへ電話をかけて/部屋の都合を訊き合せましょうね。」  そう言って、瑠璃子は言葉を切ったが、すぐ何か思い出したように、 「そうそう、まだ貴方にお許しを願わなければならぬことがあるの。オンナデばかりだと何かに付けて心細いから、男のお友達の方に、ひとり一緒に行っていただこうと思うの。貴方、構わなくって?」 「構いませんとも。」美奈子はそう答えた。もし、昨日の美奈子であったら、それをもっと自由に/快活に答えることが出来たであろう。が、今の美奈子はそう答えると共に、胸が怪しく乱れるのを、どうともすることが出来なかった。 「大人しい学生のかたなの。いろいろな用事をして貰うのにいいわ。」  瑠璃子は、いかにもその学生を子供扱いにでもしているような口調で言った。  学生と聴くと、美奈子の胸は更に激しく波立った。押え切れぬ希望と/妙な不安とが、胸一杯に充ち満ちた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第21話】 【箱根行】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「ご機嫌よく行ってら-っしゃいませ。」  玄関に並んだ召使い達が、口を揃えて見送りの言葉を述べるのを後にして、美奈子達の乗った自動車は、門の中から街頭へ、滑かにすべり出した。  乾燥した暑い日が、シゴニチも続いた七月の十日の朝だった。自動車の窓に吹き入って来る風は、それでもやや涼しかったが、空には午後からの暑気を思わせるような白い雲が、あちらこちらにムクムクと湧き出していた。  美奈子は、母と並んで腰をかけていた。前には、母の気に入りの小間使いと/自分の付添いの女中とが、窮屈そうに腰をかけていた。  美奈子は、母から箱根行きのことを訊かされてから、母が一緒に伴って行くと言う青年のことが、絶えず心にかかっていた。が、母のほうからはそれ以来、青年のことは-なんとも口に出さなかった。母が口に出さない以上、美奈子のほうから切り出して訊くことは、内気な彼女には出来なかった。  出立の朝になっても、青年の姿は見えなかった。美奈子は、母が青年を連れて行くことを中止したのではないかとさえ思った。そう思うと美奈子は、失望したような、何となく物足りないような心持ちになった。  自動車が、日比谷公園のそばのお濠端を走っている時だった。美奈子は、やっと思い切って母に訊いて見た。 「あの、学生の方とかをお連れするのじゃなかったの?」  瑠璃子は、初めて気が付いたように言った。 「そうそう。あの方を美奈さんに紹介して置くのだったわ。貴方まだご存じないのでしょう。」 「はい! 存じませんわ。」 「学習院の方よ。ときどき制服を着ていらっしゃることがあってよ。気が付かない?」 「いいえ! 一度もお目にかかったことありませんわ。」 「青木さんと言う方よ。」  母は何気ないように言った。 「青木さん!」美奈子はちょっと驚いたように言った。「その方はこのあいだ、亡くなられたのではございませんの。」  美奈子も、母の男性のお友達の一人なる青木なにがしが、横死したと言うことは、薄々知っていた。 「いいえ! あの方の弟さんよ。兄さんは、帝大のブン科にいらしったのよ。」  ここまで聴いたとき美奈子にはもう全てが、判っていた。この旅行の同伴シャが、ナンピ-トであるかが/もうハッキリと判った。新しく兄を失った青木と言う青年が、彼女が青山墓地で見たその人であることに、もう/なんの疑いも残っていなかった。  美奈子の心は、嵐の下の海のように乱れ立った。かの青年と、少くとも向こう一箇月間一緒に暮らすと言うことが、彼女の心を、取り乱させるのに充分だった。それは嬉しいことだった。が、それは同時に恐ろしいことだった。それは、楽しいことだった。が、それは同時に激しい不安を伴った。  美奈子の心の大きな動揺を、夢にも知らない瑠璃子夫人は、その真っ白な腕首に喰い入っている時計を、チラリと見ながら/独り言のように呟いた。 「もう、九時だから、青木さんはきっと来ていらっしゃるに違いないわ。」  そうだ! 青年は、停車じょう-で待ち合わせる約束だったのだ。もう、ニサンプンのあとにその人と面と向かって立たねばならぬかと思うと、美奈子の心は、とりとめもなく乱れて行くのだった。  が、美奈子は少女らしい勇気を振い起こして、自分の心持ちを纏めようとした。あの青年と会っても、取り乱すことのないように、出来るだけ自分の心持ちを纏めて置こうと思った。美奈子の心持ちなどに、何の容赦もない自動車は、彼女の心が少しも纏まらない内に、もう彼女を東京駅の赤煉瓦の/大きい建物の前に下ろしていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  美奈子らの自動車の着くのを、さっきから待ち受けていたかのように、駅の群集の間から、ゴ六人の青年紳士が、自動車から降り立ったばかりの、瑠璃子夫人の周囲を取り囲むのであった。 「お見送りに来たのですよ。」  皆は、口を揃えて言った。  夫人は軽い快い驚きを、顔に表しながら言った。 「おや! どうしてご存じ?」 「ハハハ、お驚きになったでしょう。お隠しになったって駄目ですよ。我々の諜報局には、奥さんのなさることは、スッカリ判っているのですからね。」  外交官らしい、霜降りのモーニングを着た三十に近い紳士が、冗談半分にそう言った。 「それは驚きましたね、コヤマさん! 貴方/スパイでも使っているのじゃないの? オッホホホ。」  夫人も華やかに笑った。 「使っておりますとも。女中さんなんかにも、気を許しちゃいけませんよ。」 「じゃ! 行き先も判って?」 「判っていますとも。箱根でしょう。しかも、お泊りになる宿屋まで、ちゃんと判っているのです。」  今度は、長髪に黒のアルパカの上着を着て、ボヘミアンネクタイをした、画家らしい男が、そう付け加えた。 「おや! おや! 誰が内通したのかしら?」  夫人は、当惑したらしい、その実は少しも当惑しないらしい表情でそう答えた。  若い男性に囲まれながら、彼等を軽くあしらっている夫人の今日の姿は、またなく鮮やかだった。青磁色の洋装が、そのスラリとした長身に、ピッタリ合っていた。極楽鳥の翼で飾った帽子が、その漆のように匂う黒髪を掩うていた。大粒の真珠の首飾りが、彼女自身のシンボルのように、その白い滑らかな豊かな胸に、垂れ下がっていた。  いつも見慣れている美奈子にさえ、今日の母の姿は一段と美しく見えた。駅のホールに渦巻いている群衆の眼も、一度は必ず夫人の上に-そそがれて、彼等が切符を買ったり/手荷物を預けたりする忙しい手を緩めさせた。  美奈子は、母を囲む若い男性を避けて、一間ばかりも離れて立っていた。彼女は、最初その男達の間に、あの青年のいないのを知った。ちょっと期待が外れたような、安心したような気持ちになっていた。その内に、母を見送りの男性は、ひとり増え”二人’加った。が、かの青年は-いつまで待っても見えなかった。その男性達は、美奈子のほうには、殆ど注意を向けなかった。ただ美奈子の顔を、よそながら知っている二’三人が軽く会釈しただけだった。 「奥さん! まだ判っていることがあるのですがね。」  暫くしてから、紺の背広を着た会社員らしい男が、おずおずそう言った。 「なんです? 仰ってご覧なさい。」  夫人は、微笑’しながら、しかも言葉だけは、命令するように言った。 「言っても構いませんか。」 「構いませんとも。」  夫人は、ニコニコと/絶えず、微笑を絶たなかった。 「じゃ申し上げますがね。」彼は、夫人の顔色を-うかがいながら言った。「青木君を、お連れになると言うじゃありませんか。」  それに付け加えて、皆は口を揃えるように言った。 「どうです、奥さん。当たったでしょう。」  皆の顔には、六ブの冗談と/ヨンブの嫉妬が混じっていた。 「奥さん、いけませんね。貴方は、皆に機会均等だと言いながら、青木君兄弟にばかり、いやに好意を持ち過ぎますね。」  コヤマと言う外交官らしい男が、冗談半分に抗議を言った。  美奈子は、母が何と答えるか、じっと聞き耳を立てていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「まあ! 青木さんを連れて行く-って。嘘ば-っかり。青木さんなんか、まだ兄さんのイミも明けていないくらいじゃありませんか。」  瑠璃子夫人は、事もなげに打ち消した。美奈子は、母’がさっき自分に肯定したことを、こうもヤスヤスと、打ち消しているのを聴いたとき、内心少なからず驚いた。自分に対してはかなり親切な、誠意のある母が、こうも男性に向かっては白々しく出来ることが、かなり異様に聞こえた。 「イミもまだ明けないだろうって。奥さんにも似合わない旧弊なことを仰るのですね。イミくらい明けなくったって、いいじゃありませんか。殊に、奥さんと一緒に行くんだったら、死んだ兄さんだって、冥土で満足しているかも知れませんよ。死んだ青木淳くんの瑠璃子’夫人崇拝は人一倍だったのですからね。あの男の貴方に対する態度は、狂信に近かったのですからね。」  長髪の画家が、ちょっと皮肉らしく言った。  夫人は、美しい顔を、少し曇らせたようだったが、すぐ元の微笑に帰って、 「まあ! 何とでも仰しゃいよ。でも青木さんのいらっしゃらないのは本当よ。論より証拠/青木さんは、お見えにならないじゃありませんか。」 「奥さん! そんなことは、証拠になりませんよ。発車間際に姿を現して、我々がアッと言っている間に、汽笛一声/発車してしまうのじゃありませんか。貴方のなさることは、大抵そんなことですからね。」  この内で、一番年配らしい三十ニサンの/夏の外套を着た紳士が、始めて口を入れた。 「ご冗談でございましょう! 富田さん。青木さんをお連れするのだったら、そうコソコソとはいたしませんよ。まさか、貴方が赤坂の誰かを湯治に連れていらっしゃるのとは違っていますから。」  瑠璃子夫人の巧みな逆襲に、みんなは声を揃えて哄笑した。/富田と呼ばれた紳士は苦笑しながら言った。 「まあ、青木君の問題は、別として、僕も、近々箱根へ行こうと思っているのですが、あちらでお訪ねしても、構いませんか。」  瑠璃子夫人は、微笑を含みながら、しかも乱麻を断つように答えた。 「いいえ! いけませんよ。この夏は男禁制/ 誰かの歌に、こんなのが、あるじゃありませんか。『大方の/恋をば追わず/この夏は/真っ白クサバナ/白きこそよけれ』:わたくしも、そうなのよ、この夏は、本当にタイ人間の生活から、少し離れていたいと思いますの。」 「ところが、奥さん。その真っ白草花と言うのが、案外にも青木ジュニョルだったりするのじゃありませんか。」  コヤマと呼ばれた外交官らしい紳士が、突っ込んだ。 「まあ! 執念深い! 発車するまでに、青木さんが、お見えになったら、その償いとして、皆さんを箱根へご招待しますわ。ご覧なさい、もう切符を切りかけたのに、青木さんはお見えにならないじゃありませんか。」  夫人はそう言いながら、美奈子達を促して改札口のホウへ進んだ。若い紳士達は、蟻の甘きにつくように、夫人のあとから、ゾロゾロと続いた。  夫人が、汽車に乗ったあとも、青木と呼ばれる青年は姿を現さなかった。若い男達は、やっと夫人の言葉を信じ始めた。 「向こうから、お呼び寄せになるかどうかは別として、今日’同行なさらないことだけは、信じましたよ。ハハハハハ。」  コヤマと言う男が、発車間際になって、そう言った。 「まだそんな負惜しみを、言っていらっしゃるの!」  夫人は、そう言いながら、にっこりと笑って見せた。  美奈子は、何が何だったか、判らなくなった。母の自動車の中の言葉では、青木と言う青年が──墓地で逢ったあの人に相違ない青年が──東京駅で待っているようだった。しかも母は、今そのことをきっぱり打ち消している。  美奈子は安心したような、しかも失望したような/妙な心持ちの混乱に悩んでいた。  汽車が出るまで、とうとう青木は姿を、見せなかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  汽車が動き始めても、青木の姿は、とうとう見えなかった。 「それご覧なさい! 疑いはお晴れになったでしょう!」  夫人は、車窓から、その繊細な上半身を現しながら、見送っている人達に、そうした捨て台詞を投げた。  男性達が、銘々いろいろな別辞を返している裡に、汽車は見る見る駅頭を離れてしまった。 「まあ! うるさいたらありはしないわ。こんなトリップの出発を、わざわざ見送ってくれたりなどして。」  夫人は美奈子に対する言い訳のように呟きながら/席に着いた。  母を囲む男性達が、青木の同行を気にかけている以上に、もっと気にかけていたのは美奈子だった。その人と一緒に汽車に乗ったり、一緒に宿屋に泊まったり、同じ食卓に着いたりすることを考えると、彼女の小さい心は、慄いていたと言ってもよかった。それは恐ろしいことであり、同時に、限りなき歓喜でもあったのだ。が、その人はとうとう姿を現わさない。母も前言を打ち消すような事を言っている。美奈子の心配はなくなった。それと同時に、彼女の歓喜も消えた。ただ白々しい寂しさだけが、彼女の胸に残っていた。  美奈子の心持ちを少しも知らない瑠璃子は、美奈子が沈んだ顔をしているのを慰めるように言った。 「美奈さんなんか、どうお考えになって。わたしたち女性を追うているああ言う男性を。ああ言う女性追求者と言ったような人達を。」  美奈子は黙って答えをしなかった。母が交際っている人達を、厭だとも言えなかった。それかと言って、決して好きではなかった。 「あんな人達と結婚しようなどとは、夢にも考えないでしょうね。男性は男性らしく、女性なんかに屈服しないでいる人が、頼もしいわね。」  美奈子も、ついそれに賛成したかった。が、青木と呼ばれるらしい青年も、やっぱりそうした男性らしくない女性追求者の一人かと思うと、美奈子はやっぱり黙っているほかはなかった。 「わたしたちを、追うて来る人でも、身体と心との全てを投じて、来る人はまだいいのよ。あの人達なんか遊び半分なのですもの。狼の散歩かたがた/人のあとからついて行くようなものなのよ。つい、つまずいたら、飛びかかってやろうくらいにしか思っていないのですもの。」  美奈子は、母の辛辣な思い切った言葉に、つい笑ってしまった。男性のことを話すと、敵か何かのように罵倒する母が、何故多くの男性を近づけているかが、美奈子にはただ一つの疑問だった。 「青木さんと言う方、一緒にいらっしゃるのじゃないの?」  美奈子は、やっと、心に懸っていたことを訊いてみた。母は、意味ありげに笑いながら言った。 「いらっしゃるのよ。」 「あとからいらっしゃるの?」 「いいえ!」母は笑いながら、打ち消した。 「じゃ、先にいらっしゃったの?」 「いいえ!」母は、やっぱり笑いながら打ち消した。 「じゃ/いつ?」  母は笑ったまま返事をしなかった。  ちょうどその時に、汽車が品川駅に停車した。シゴニ-ンの乗客が、ドヤドヤと入って来た。  ちょうどその乗客の一番後ろから、麻の背広を着た長身白皙の美青年が、姿を現わした。瑠璃子夫人の姿を見ると、ニッコリ笑いながら、近づいた。右の手には旅行用のトランクを持っていた。 「おや! いらっしゃい!」  夫人は、溢れる微笑を青年に浴びせながら言った。 「さあ! おかけなさい!」  夫人はその青年のために、シートを取って置いたかのように、自分の右に置いてあった小さいトランクを取りのけた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  美奈子は、驚きに目を眸りながら、それでもそっと青年の顔を盗み見た。それは、紛れもなく/かの青年であった。墓地で見、電車に乗り合わし、自分の家を訪ねるのを見た/かの青年に違いなかった。  美奈子は、胸を不意に打たれたように、息苦しくなって、じっと/オモテを伏せていた。  が、美奈子のそうした態度を、乙女に普通な羞恥だと、解釈したらしい瑠璃子は、事もなげに言った。 「これがさっきお話しした青木さんなの。」  紹介された青年は、美奈子のほうを見ながら、丁寧に頭を下げた。 「お嬢様でしたか。いつか一度、お目にかかったことがありましたね。」  そう言われて、『はい。』と答えることも、美奈子には出来なかった。彼女はそれを肯定するように、丁寧に頭を下げただけだったが、青年が自分を覚えていてくれたことが、彼女をどんなに喜ばしたか分からなかった。  青年は、瑠璃子の右側近く腰を降ろした。 「貴方、大変だったのよ。今’東京駅でね。みんな知っていらっしゃるのよ。わたしが今日’立つと言うことを。そればかりでなく貴方が一緒だと言うことまで知っていらっしゃるのよ。だから、極力’打ち消して置いたのよ。もし青木さんが一緒だったら、そのツグノ-イとして皆さんを箱根へご招待しますって。それでもみんな善人ばかりなのよ、おしまいにはわたしの言うことを信じてしまったのですもの。だから、わたしが言わないことじゃないでしょう。品川か新橋かどちらかでお乗りなさいと。わたし、貴方がわたしの言うことを聴かないで、ひょっくり東京駅へ来やしないかと思って、びくびくしていましたの。」  夫人は、弟にでも話すように、馴々しかった。青年は姉の言葉をでも、聴いているように、一言一句に、微笑’しながら頷いた。  それを、黙って聴いている美奈子の心の中に、不思議な不愉快さが、ムラムラと湧いて来た。それは彼女自身にも、一度も経験したことのないような、不快な気持ちだった。彼女は、母に対して、不快を感じているのでなく、青年に対して、不快を感じているのでなく:、ただ母と青年とが、馴々しく話しあっていることが、不思議に、彼女の心に苦い澱を掻き乱すのであった。殊に青年が人目を忍ぶように、品川からただ一人、コッソリと乗ったことが、美奈子の心を、かなり傷つけた。母と青年との間に、何か後ろ暗い翳でもあるように、思われて仕方がなかった。 「どうして、僕が奥さんと一緒に行くことが分かったのでしょう。僕は誰にも言ったことはないのですがね。」  青年はちょっと言い訳のように言った。 「なに/分かっていてもいいのですよ。薄々分かっているくらいが、ちょうどいいのですよ。貴方となら、分かっていてもいいのですよ。」  夫人は、軽い媚を含みながら言った。 「光栄です。本当に光栄です。」  青年は冗談でなく、本当に心から感激しているように言った。  母と青年との会話は、自由に/快活に/馴々しく進んで行った。美奈子は、なるべくそれを聴くまい-とした。が、母が声を低めて言っていることまでが、神経のいらだっている美奈子の耳には、轟々たる車輪の、響きにも消されずに、ハッキリと響いて来るのだった。  母と青年との一問一答に、小さい美奈子の胸は、ますます傷つけられて行くのだった。ときどき母が、 「美奈さん! 貴方はどう思って?」  などと黙っている彼女を、会話の圏内に-いれようとする毎に、美奈子は淋しい微笑を洩すだけだった。  美奈子は、青年の姿を見ない前までは、青年の同行することは、恐ろしいが/同時に限りない歓喜がその中に潜んでいるように思われた。が、それが実現して見ると、それは恐ろしく、寂しく、苦しいだけであることが、ハッキリと分かった。この先ひと月も、こうした寂しさ苦しさを、味わっていなければならぬかと思うと、美奈子の心は、墨を流したように真っ暗になってしまった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  汽車は、美奈子の心の、恋を知り初めた乙女の/苦しみと悩みとを運びながら、ぐんぐん東京を離れて行った。  夫人と青年との親しそうな、しめやかな、会話は続いた。夫人は久し振りに逢った弟をでも、愛撫するように、耳近く口を寄せて囁いたり、軽く叱するように言ったりした。青年は青年で、姉にでも甘えるように、姉から引き回されるのを喜ぶように、柔順に温和に/夫人の言葉を、いちいち微笑’しながらきいていた。  美奈子は、母と青年との会話を、余り気にしている自分が、何だか恥しくなって来た。彼女は、なるべく聞くまい見まいと思った。が、そう努めれば努めるほど、青年の言葉やその白皙のオモテに浮ぶ微笑が、悩ましく耳に付いたり、眼についたりした。  青年のオモテには、歓喜と満足とが充ち溢れているのが、美奈子にも感ぜられた。彼の眼中には、瑠璃子夫人以外のものが、何も映っていないことが、美奈子にもありありと感ぜられた。母のそばにいる自分などは、恐らく青年の眼には、塵ほどにも、芥ほどにも、感ぜられてはいまいと思うと、美奈子は激しい-さみしさで胸が掻き乱された。  が、それよりも、もっと美奈子を寂しくしたことは、今まで愛情の唯一の拠り処としていた母が、たとい一時ではあろうとも、自分よりも青年のホウへ、親しんでいることだった。  大船を汽車が出たとき、美奈子はどうにも、堪らなくなって、向こう側の座席が空いたのを幸いに、景色を見るようなふうをして、そこへ席を移した。  母と青年との会話は、もう聞えて-こなくなった。が、一度掻き乱された胸は、容易く元のようには癒えなかった。  彼女は、こうした苦しみを味わいながら、この先ひと月も過さねばならぬかと思うと、どうにも堪らないように思われ出した。そうだ! 箱根へ着いて二三日したら、何か口実を見付けて自分だけ帰って来よう。美奈子は、小さい胸の中でそう決心した。  ちょうど、そう考えていたときに、 「美奈子さん! ちょっといらっしゃい!」  と、母から何気なく呼ばれた。美奈子は淋しい心を、じっと抑えながら、元の座席へ帰って行った。顔だけには、強いて微笑を浮べながら。 「あなた! 青木さんと、青山墓地で、会ったことがあるでしょう!」  母は、美奈子が坐るのを待ってそう言った。青年の顔を、チラリと見ると、彼もニコニコ笑っていた。美奈子は、何か秘密にしていたことを母に見付けられたかのように、顔を真っ赤にした。 「貴方は覚えていないの?」  母は、美奈子をもっとドギマギさせるように言った。 「いいえ! 覚えていますの。」  美奈子はあわててそう言った。  美奈子は、青年が自分を覚えていてくれたことが、何よりも嬉しかった。 「青木さんの妹さんが、よく貴方を知っていらっしゃるのですって。ねえ! 青木さん。」  夫人は賛成を求めるように、青木のほうを振り返った。 「そうです。たしか美奈子さんより二’三年したなのですが、お顔なんかよく知っているのです。このあいだも『あれがショウダさんのお嬢さんだ』と言うものですからちょっと驚いたのです。僕の妹をご存じありませんか。」  青年は、初めて親しそうに、美奈子に口を利いた。 「はい、お顔だけは存じていますの。」  美奈子は、口の裡で呟くように答えた。が、青年から親しく口を利かれて見ると、美奈子の寂しく傷ついていた心は、バルサムをでも、塗られたようになごんでいた。今まで、恐ろしく寂しく考えられていた避暑地生活に、一筋の微光が漂って来たように思われた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  それから汽車が、国府津へ着くまで、青年は美奈子に、幾度も言葉をかけた。いつも妹を相手にしていると見えて、その言葉には、女性──殊に年下の女性に対する親しみが、自然に籠っていた。青年の一言一言は、美奈子の拗れかかろうとした胸を/春風のように、撫でさするのであった。美奈子は最初陥っていた不快な感情から、いつの間にか、救われていた。自分が、妙にひがんで、嫉妬に似た感情を持っていたことを、はしたないとさえ思い始めていた。  国府津へ着いたとき、もう美奈子は、また元の乙女らしい、感情と表情とを取り返していた。  国府津のプラットフォームに-おり立った時、瑠璃子は駆け寄った赤帽の一人に、命令した。 「あの、自動車を用意させておくれ!──そう、一台じゃ、窮屈だから──二台ね、宮の下まで行ってくれるように。」  赤帽が命を受けて駆け去ったときだった。今まで他の赤帽を指図して/手荷物を下ろさせていた青年が驚いて瑠璃子のほうを振り返った。 「奥さん! 自動車ですか。」  青年の語気はかなり真面目だった。 「そうです。いけないのですか。」  瑠璃子は、軽く揶揄するように反問した。 「あんなにお願いしてあったのに聴いて下さらないのですか。」  大人しい青年は、かなり当惑したように、暗い表情をした。  瑠璃子は、華やかに笑った。 「あら! まだ、あんなことを気にしていらっしゃるの。わたし/貴方が冗談に言っていらしったのかと思ったのですよ。兄さんが、自動車で死なれたからと言って、自動車を恐がるなんて、/迷信じゃありませんか。男らしくもない。自動車が衝突するなんて、一年に一度あるかないかの事件じゃありませんか。そんなことを恐れて、自動車に乗らないなんて。」  夫人は、子供の臆病をでも叱するように言った。 「でも、奥さん。」青年は、かなり懸命になって言った。「兄が、やっぱりこの国府津から自動車に乗ってやられたのでしょう。それからまだひと月も経っていないのです。殊に、今度箱根へ行くと言うと、父と母とがかなり止めるのです。で、やっと、説破して、自動車には乗らないと言う条件で、許しが出たのです。だから、奥さんにも、自動車には乗らないと言って/あれほど申し上げて置いたじゃありませんか。」 「お父様やお母様が、そうしたご心配をなさるのは、もっともと思いますわ。でも貴方までが、それにかぶれると言うことはないじゃありませんか。縁起などと、言う言葉は、現代人の辞書にはない字ですわね。」 「でも、奥さん! 肉親の者が、命を殞した殆ど同じ自動車に、まだひと月も経つか経たないかに乗ると言うことは、縁起だとか何とか言う問題以上ですね。貴方だって、もし近しい方が、自動車でああした奇禍にお逢いになると、きっと自動車がお嫌いになりますよ。」 「そうかしら。わたしは、そうは思いませんわ。だってお兄さんだってわたしにはかなり近しい方だったのですもの。」  そう言って夫人は淋しく笑った。 「でも、いいじゃありませんか。わたしと一緒ですもの。それでもお嫌ですか。」  そう言って、嫣然と笑いながら、青年の顔を覗き込む瑠璃子夫人の顔には、女王のような威厳と/娼婦のような媚びとが、二つながら交じっていた。  瑠璃子の前には、小姓か何かのように、力のないらしい青年は、極度の当惑に口を噤んだまま、その秀でた眉を、深く-ひそめていた。背タケこそ高く、様子こそ大人びているが、名門に育ったこの青年が/対人的にはホンの子供であることが、瑠璃子にも、マザマザと分かった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第22話】 【ある三角関係】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  その裡に、美奈子達の一行は改札口を出ていた。駅前の広場には、赤帽が命じたらしい自動車が二台、美奈子達の一行を待っていた。  青年は、瑠璃子夫人の力に、グイグイ引きずられながらも、自動車に乗ることは、かなり気が進んでいないらしかった。  彼は哀願するように、怖ず怖ずと夫人に言った。 「どうです? 奥さん。僕お願いなのですが、電車で行って下さることは出来ないでしょうか。兄の惨死の記憶が、僕にはまだマザマザと残っているのです。兄を襲った運命が、肉親の僕に、何だか糸を引いているように、不吉な胸騒ぎがするのです。何だか、兄と同じ惨禍に僕が知らず識らず近づいているような、不安な心持ちがするのです。」  青年は、かなり一生懸命らしかった。が、瑠璃子は青年の哀願に耳を傾けるような様子も見せなかった。彼女は、意志の弱い男性を、グングン自分の思い通りに、引き回すことが、彼女の快楽の一つであるかのように言った。 「まあ! 貴方のように、そうセンチメンタルになると、いやになってしまいますよ。わたしは運命だとか胸騒ぎだとか言うような言葉は、大嫌いですよ。わたしは徹底したマテリアリストです。電車なんか、あんなに混んでいるじゃございませんか。さあ、乗りましょう。いいじゃございませんの。自動車が崖から落っこちても、死なば’諸共ですわ。貴方、わたしと一緒なら、死んでも本望じゃなくて? オホホホホホホ。」  夫人は、奔放にそう言い放つと、青年がどう返事するかも待たないで、美奈子を促しながら、一台の自動車に、ズンズン乗ってしまった。  この時の青年は、かなりみじめだった。瑠璃子夫人の前では、手も足も出ない青年の様子が、美奈子にも、かなりみじめに、寧ろ気の毒に思われた。  彼は、泣き出しそうな/強ばった微笑を、強いて作りながら、美奈子達のあとから乗った。 「そんなにクヨクヨなさるのなら、連れて行って上げませんよ。」  夫人は、子供をでも叱るように、愛撫の微笑を目元に湛えながら言った。  青年は、黙っていた。彼は、夫人の至上命令のため、止むなく自動車に乗ったものの、内心の不安と/苦痛と/嫌悪とは、その蒼白い顔にハッキリと現われていた。臆病などと言うことではなくして、兄の自動車での惨死が、善良な/純な彼の心に、自動車に対する:、殊に箱根の──唱歌にもある嶮しい山や、谷の間を縫う自動車に対する不安を、植え付けているのであった。  美奈子は、心の中から青年が、気の毒だった。  母が故意に、青年の心持ちに、逆らっていることが、かなり気の毒に思われた。  自動車が、小田原の町を出はずれた時だった。美奈子は何気ないように言った。 「お母様。湯本から登山電車に乗ってご覧にならない。このあいだの新聞に、日本には始めての登山電車で/スイスの登山鉄道に乗っているような感じがするとか言って、出ていましたのよ。」  美奈子には、優しい母だった。 「そうですね。でも、荷物なんかが邪魔じゃない?」 「荷物は、このまま自動車で届けさえすればいいわ。特等室へ乗れば自動車よりも、楽だと思いますわ。」 「そうね。じゃ、乗り換えて見ましょうか。青木さんは、無論ご賛成でしょうね。」  瑠璃子は、青年の顔を見て、皮肉に笑った。青年は、黙って苦笑した。が、チラリと美奈子の顔を見た眼には/美奈子の少女らしい/優しい好意に対する感謝の情が、ありありと動いていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  富士屋ホテルの華麗な家庭部屋の一つの裡で、美奈子達の避暑地生活は始まった。 『暮らしたし/木賀底倉に/夏ミツキ。』それは昔の人々の、夏の箱根に対する憧れであった。関所は廃れ、街道には草蒸し、交通の要衝としての箱根には、昔の面影はなかったけれども、出で湯は滾々として湧いて尽きなかった。青葉に掩われた谿壑から吹き起こる涼風は、昔ながらに水の如き冷た-さを帯びていた。  殊に、美奈子達の占めた一室は、ホテルの建物の右のヨクの外れにあった。開け放たれた窓には、早川の対岸/明神岳/明星岳の翠微が、手に取るごとく迫っていた。東方、早川の渓谷が、群峰の間にただ一筋、開かれている末遥に、地平線に雲のいぬ/晴れた日の折節には、いぶした銀の如く、ほのかに、雲とも付かず空とも付かず、光っている相模灘が見えた。  設備の整ったホテル生活に、女中達が不用なため、東京へ-かえしてからは、美奈子たち三人の生活は、もっと密接になった。  美奈子は、最初/青年に対して、口も碌々利けなかった。ただ、折々母を介して簡単な二言三言を交えるだけだった。  母が青年と話しているときには、よく自分一人その場を外して、ヴェランダに出て、そこにある籐椅子にいつまでもいつまでも、坐っていることが、多かった。  また何かの’拍子で、青年とただ二人、部屋の中に取り残されると、美奈子はまた、じっとしていることが出来なかった。青年の存在が、息苦しいほどに、身体全体に感ぜられた。  そうした折にも、美奈子は、やっぱりそっと部屋を外して、ヴェランダに出るのが常だった。とにかく、彼女の小さい胸は、やすらう暇もない水鳥の脚のように動いていた。  彼女に一番楽しいのは、夕暮れの散歩かも知れなかった。晩餐が終ってから、美奈子は母と青年との三人で、よく散歩した。早川の断崖に添うた道を、底倉から木賀へ、時には宮城野まで、岩に咽ぶ早川の水声に、夏を忘れながら。  箱根へ来てから、五日ばかり経ったある日の夕方だった。美奈子達が、晩餐が終ってから、食堂を出ようとしたとき、瑠璃子はふとその入口で、その日きたばかりの知合いのフランス大使の令嬢と出会った。日本ズキのこの令嬢は、瑠璃子とはかなり親しい間柄だった。彼女は思いがけない所で、瑠璃子に会ったのをかなり喜んだ。瑠璃子は誘われるままに、大使令嬢の部屋を訪ねて行った。  美奈子と、青年とは部屋に帰ったものの、手持無沙汰に、ボンヤリとして、暮れて行く夕暮れの空に対していた。  二人は、心の中では銘々に、瑠璃子の帰るのを待っていた。が、二十分経っても三十分経っても、瑠璃子は帰りそうにも見えなかった。  青年はいつものように、散歩に出たいと見え、ステッキを持ったり、帽子を手にしたりしながら、瑠璃子の帰るのを待っているらしかった。が、瑠璃子はなかなか帰って来なかった。  青年はやや待ちあぐみかけたらしか-った。彼はもう明るく電灯の点いた部屋の中を、四五歩ずつ往ったり来たりしていたが、半ば独り言のように美奈子に言った。 「お母様は、なかなかお帰りになりませんね。」 「はい。」  窓に倚って/輝き始めた星の光をボンヤリ見詰めていた美奈子は、低い声で/聞こえるか聞こえないかのように答えた。青年は、自分一人で出て行きたいらしかったが、美奈子を一人ぼっちにして置くことが、気が咎めるらしかった。彼は、とうとう言い憎そうに言った。 「美奈子さん。いかがです、一緒に散歩をなさいませんか。お母様をお待ちしていても、なかなかお帰りになりそうじゃありませんから。」  青年は、口籠りながら/そう言った。 「ええっ!」  美奈子は彼女自身の耳を疑っているかのように、つぶらなる目を瞠った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  美奈子に取っては、青年から散歩に誘われたことが、かなり大きな驚きであった。シゴニチ一緒に生活して来たと言うものの、二人向かい合っては、短い会話一つ交したことがなかった。  その相手から、突然’散歩に誘われたのであるから、彼女が驚きの目を瞠ったまま、わくわくする胸を抑えたまま、何とも返事が出来なかったのも、無理ではなかった。  青年は、美奈子の返事が遅いのを、彼女が内心’当惑している為だと思ったのであろう。彼は、自分の突然な申し出の不躾さを恥じるように言った。 「いらっしゃいませんですか。じゃ、僕一人行って来ますから。僕は、ヒの暮方には、どうも部屋の中にじっとしていられないのです。」  青年は、弁解のように、そう言いながら部屋を出て行こうとした。  美奈子は、胸の内で、青年の勧誘に、どれほど心を躍らしたか分からなかった。青年と/たった二人きりで、散歩すると言うことが、彼女にとって/どんな驚きであり/喜びであっただろう。彼女は、驚きの余りに、青年の初めの勧誘に、つい返事をし損じたのであった。彼女は、どんなに青年が、もう一度勧めてくれるのを待ったであろう。もう一度、勧めてさえくれれば、美奈子は心も空に、青年のあとからついて行くのであったのだ。  が、青年には美奈子の心は、分からなかった。彼には、美奈子が返事をしないのが、乙女らしい恥しさと/尻込みのためだとより、思われなかった。彼は、最初から誘わなければよかったと思いながら、ちょっと気まずい思いで、部屋を出た。  青年が、部屋を出る後ろ姿を見ると、美奈子は取り返しの付かないことをしたように思った。もう再びとは、得がたい黄金の’如き機会を、永久に失うような心持ちがした。その上、青年の勧めに、返事さえしなかったことが、彼女の心を咎め始めた。それに依って、相手の心を少しでも傷つけはしなかったかと思うと、彼女は立っても坐っても、いられないような心持ちがし始めた。  一’二分、考えた末、彼女はとうとう堪らなくなって部屋を出た。長い廊下を急ぎ足に駆けすぎた。ホテルの玄関で、草履を穿くと、夏の宵闇の戸外へ、走り-いでた。  玄関前の広場にある噴水のほとりを、透かして見たけれども、その人らしい影は見えなかった。彼女は、とうとう宮の下の通りに出た。  青年の行く道は、分かっていた。彼女は、胸を躍らしながら、底倉のホウへと急いだ。  出で湯マチの夏の夕は、かなり人通りが多かった。その人かと思って近づいて行くと、見知らない若い人であったりした。  が、美奈子が宮の下の賑やかな’通りを出はずれて、段々さみしいガケウエの道へ来かかったとき:、ちょうど道の左側にある理髪店の軒端に佇みながら、若い衆が指している将棋を見ている青年の横顔を見付けたのである。  青年に近づく前に、彼女の小さい胸は、どんなに震えたか分からなかった。でも、彼女はありたけの勇気で、近づいて行った。 「ここにいらっしたのですか。わたくしも、散歩にお供いたしますわ。母は、帰りそうにもありませんですから。」  彼女は、低い小さい声で、途切れ途切れに言った。青年は、驚いて彼女を振り返った。投げた礫が忘れた頃に激しいミズオトを立てたように、青年は自分のちょっとした勧誘が、少女の心を、こんなに動かしていることに、驚いた。が、それは決して不快な驚きではなかった。 「じゃ、お供’しましょうか。」  そう言いながら、青年は歩き始めた。美奈子はニサンシャクも間隔を置きながら従った。夢のような幸福な感じが、彼女の胸に充ち満ちて、踏む足も地に付かないように思った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  初め、連れ立ってから、半町ばかりのあいだ、二人とも一言も、口を利かなかった。初めて、若い男性、しかも心の奥ふかく想っている若い男性とただ二人、歩いている美奈子の心には、散歩をしていると言ったような、のんきな心持ちは少しもなかった。胸が絶えず、わくわくして、息は抑えても抑えても弾むのであった。  青年も、黙っていた。ただ、黙ってグングン歩いていた。二人は、散歩とは思われないほどの早さで、歩いていた。どこへ行くと言う当てもなしに。  早川の渓谷の底遥かに、岩にゲキしている水は、夕闇を透かしてホノジロく見えていた。その水から湧き上がって来る涼気は、浴衣を着ている美奈子には、肌寒く感ぜられるほどだった。  青年が、いつまでも黙っているので、美奈子の心は、妙に不安になった。美奈子は自分が後を追って来たはしたなさを、相手が不愉快に思っているのではないかと、心配し始めた。自分が思い切って後を追って来たことが、軽率ではなかったかと、後悔し始めた。  が、二人がちょうど、底倉と木賀との間を流れている、蛇骨川の橋の上まで、来たときに、青年は初めて口を利いた。立ち止まって空を仰ぎながら、 「ご覧なさい! 月が、出かかっています。」  そう言われて、今まで俯きがちに歩いて来た美奈子も、立ち止まって空を振り仰いだ。  早川の対岸に、空を劃って聳えている、連山の輪廓を、ほのぼのとしたツキシロが、くっきりと浮き立たせているのであった。  相模灘を、渡って来た月の光が今ちょうど箱根の山々を、照し始めようとしている所だった。 「まあ! 綺麗ですこと。」  美奈子もつい感嘆の声を洩らした。 「旧の十六日ですね、きっと。いい月でしょう。空が、あんなによく晴れています。東京の、濁ったような空と比べるとどうです。これが本当にエメラルドと言う空ですね。」  青年は、心ゆくように空を見ながら言った。美奈子も、青年の眸を追うて、大空を見た。夏の宵の箱根の空は、磨いたように澄み切っていた。 「本当に美しい空でございますこと。」  美奈子も、しみじみとした気持ちでそう言った。ちょうど、今までかけられていた沈黙の呪いが解かれたように。 「やっぱり空気がいいのですね。東京の空と違って、塵埃や煤煙がないのですね。」 「山の緑が映っているような空でございますこと。」  美奈子も、つい気軽になってそう言った。 「そうです。本当に山の緑が映っているような空です。」  青年は、美奈子の言った言葉を噛みしめるように繰り返した。  二人は、また暫く黙って歩いた。が、もうさっきのようなギゴチなさは、取り除かれていた。美しい自然に対する讃美の心持ちが、二人の間の、心のカキを、ある程度まで取りのけていた。美奈子は、青年ともっと親しい話が出来ると言う自信を得た。青年も、美奈子に対してある親しみを感じ始めたようだった。  シ五尺も離れて歩いていた二人は、何時の間にか、どちらからともなく寄添うて歩いていた。  美奈子は、相手に話したいことが、山ほどもあるようで、しかもそれを考えに纏めようとすると、何も纏まらなかった。唖が、大切な機会に喋べろうとするように、ただ/いらいら焦り立っているばかりだった。 「そうそう、貴方に申し上げたいことがあったのです。つい、このあいだじゅうから機会がなくて。」  青年は、大切なことをでも、話すように言葉を改めた。動き易い少女の心は、そんなことにまで激しく波立つのだった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  相手がどんなことを言い出すのかと、美奈子は、胸を躍らしながら待っていた。  青年は、ちょっと言い憎そうに、口籠っていたが、やっと思い切ったように言った。 「このあいだじゅうから、お礼を申し上げよう申し上げようと思いながら、ついそのままになっていたのです。このあいだはどうも有難うございました。」  夕闇に透いて見える彼の白いホオが、思いなしか少し赤らんでいるように思われた。美奈子も相手から、思いがけもない感謝の言葉を受けて、我にもあらず、顔がほてるように熱くなった。彼女は、青年から礼を言われるような心覚えが、少しもなかったのである。 「まあ! 何でございますの! わたくし!」  美奈子は、当惑の目を瞠った。 「お忘れになったのですか。お忘れになっているとすれば、僕はいよいよ感謝しなければならぬ必要があるのです。お忘れになりましたですか。くる道で僕があんなに自動車に乗ることを厭がったのを。ハハハハハハ。自分ながら、今から考えると、余り臆病になり過ぎていたようです。お母様から後で散々冷かされたのも無理はありません。が、あの時は本当に恐かったのです。妙に気になってしまったのです。ベソを掻きそうな顔をしていたと、後でお母様に冷かされたのですが、本当にあの時は、そんな気持ちがしていたのです。それに、ショウダ夫人と来ては、極端に意地がわるいのですからね。僕が恐がれば恐がるほど、しつこく苛めようとするのですからね。本当にあの時の、貴方のお言葉は地獄に仏だったのです。ハハハハ。考えて見れば、僕も余り臆病すぎたな。とんだところを貴方がたに見せてしまった!」  青年は、冗談のように言いながらも、美奈子に対する感謝の心だけは、かなり真面目であるらしかった。 「まあ! あんなことなんか。わたくし、本当に電車に乗りたかったのでございますわ。」  美奈子は、顔を真っ赤にしながら、青年の言葉を打ち消した。が、心の中はこみ上げて来る嬉しさで一杯’だった。 「あの時、僕は本当に貴方の態度に、感心したのです。あの時、露骨に僕の味方をして下さると、僕も恥ずかしいし、お母様も意地になって、ああうまくは行かなかったのでしょうが、貴方の自然な/無邪気な申し出には、さすがのショウダ夫人も、すぐ賛成しましたからね。僕は、今までショウダ夫人を、女性の中で最も聡明な人だと思っていましたが:、貴方のあの時の態度を見て、世の中にはショウダ夫人の聡明さとはまた別な/本当に女性らしい聡明さを持った方があるのを知りました。」 「まあ! あんなことを。わたくし”お恥かしゅうございますわ。」  そう言って、美奈子は本当に浴衣の袖で顔を掩うた。乙女らしい嬌羞が、その身体全体に溢れていた。が、彼女の心は、憎からず思っている青年からの讃辞を聴いて、張り裂けるばかりの歓びで躍っていた。  山の端を離れた月は、この峡谷に添うている道へも、その朗かな光を投げていた。美奈子はついニサンシャク離れて、月光の中に匂うている青年の/白皙のオモテを見ることが出来た。青年の黒い眸が、ときどき自分のホウへ向かって輝くのを見た。  二人は、もう/一時間前の二人ではなかった。今まで、遠く離れていた二人の心は、今かなり強い速力で、相求め合っているのは確かだった。  二人は、また黙ったまま、歩いた。が、前のような堅苦しい沈黙ではなかった。黙っていても心持ちだけは-かよっていた。 「もっと歩いても、大丈夫ですか。」  木賀を過ぎて宮城野’近くなったとき、青年は再び沈黙を破った。 「はい。」  美奈子は、慎しく答えた。が、心の裡では、『どこまでもどこまでも』と言う積りであったのだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  木賀から、宮城野まで、ロクシチ町の間、早川の渓谷に沿うた道を歩いている裡に、二人は漸く打ち解けて、いろいろな問いを訊いたり訊かれたりした。  美奈子の乙女らしい無邪気な慎しやかさが、青年の心をかなり動かしたようだった。それと同時に/青年の上品な/素直な/優しい態度が、美奈子の心に、深く-ふかく喰い入ってしまった。  宮城野の橋まで来ると、谷はだんだん浅くなっている。キョウカの水には水車が懸っていて、白金の月光を砕きながら、コトコトと回り続けていた。  月は、もうかなり高く上っていた。水のように澄んだ光は、山や/水や/森や/樹木を、しっとり濡らしていた。二人は、夏の夜の清浄な箱根に酔いながら、かなり長いあいだ/橋の欄干に寄り添いながら、佇んでいた。  美奈子の心の中には、青年に対する熱情が、刻一刻’ウシオのように満ちわたって来るのだった。今までは、どんな男性に対しても感じたことのないような、信頼と愛慕との心が、胸一杯にヒシヒシとこみ上げて来るのだった。  話は、何時の間にか、美奈子の一身の上にも及んでいた。美奈子はとうとう、兄の悲しい状態まで話してしまった。 「そうそう、そんな噂は、薄々聴いていましたが、お兄さんがそんなじゃ、貴方には本当の肉親と言ったようなものは、一人もないのと同じですね。」  青年は悵然としてそう言った。心の中の同情が、言葉の端々に溢れていた。そう言われると、美奈子も、自分の寂しい孤独の身の上が顧みられて、涙ぐましくなる心持ちを、抑えることが出来なかった。 「母が、本当によくしてくれますの。じつの母のように、実の姉のように、本当によくしてくれますの。でも、やっぱり本当の兄か姉かが一人あれば、どんなに頼もしいか分からないと思いますの。」  美奈子は、つい誰にも言わなかった本心を言ってしまった。 「ごもっ-ともです。」青年はかなり感動したように答えた。「僕なども、兄弟の愛などは、今までそんなに感じなかったのですが、兄を不慮に失ってから、肉親と言うもののトオトさが、分かったように思うのです。でも、貴方なんか‥‥。」そう言って、青年はちょっと云い淀んだが、 「今にご結婚でもなされば、今のような寂しさは、自然なくなるだろうと思います。」 「あら、あんなことを、結婚なんて、まだ考えて見たこともございませんわ。」  美奈子は、恥かしそうに周章てて打ち消した。 「じゃ、当分ご結婚はなさらない訳ですね。」  青年は、何故だか執拗に/再び-そう訊いた。 「まだ、本当に考えて見たこともございませんの。」  美奈子は、ますます狼狽しながらも、ハッキリと口では、打ち消した。が、青年がどうしてそうした問題を繰り返して訊くのかと思うと、彼女の顔は焼けるように熱くなった。胸が何とも言えず、わくわくした。彼女は、相手がどうして自分の結婚をそんなに気にするのか分からなかった。が、彼女がある原因を想像したとき、彼女の頭は狂うように熱した。  彼女は、熱にでも浮かされたように、平生の慎みも忘れて言った。 「結婚なんて申しましても、わたくしのようなものと、わたくしのような、何の取りどころもないようなものと。」  彼女の声は、恥かしさに震えていた。彼女の身体も恥かしさに震えていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  美奈子の声は、恥かしさに打ち震えていたけれども、青年はかなり落ち着いていた。余裕のある声だった。 「貴方なんかが、そんな謙遜をなさっては困りますね。貴方のような方が結婚の資格がないとすれば、誰が、どんな女性が結婚の資格があるでしょう。貴方ほど──そう貴方ほどの‥‥。」  そう言いかけて、青年は口を噤んでしまった。が、口の中では、美奈子の慎ましさや美しさに対する讃美の言葉を、噛み潰したのに違いなかった。  美奈子は、青年がこの次に、何を言い出すかと言う期待で、身体全体が焼けるようであった。心が波濤のように動揺した。小説で読んだ若い男女のラヴシーンが、熱病’患者の見る幻覚のように、頭の中に頻りに浮かんで来た。  が、美奈子のもしやと言う期待を裏切るように、青年は黙っていた。月の光に透いて見える白いホオが、やや興奮しているようには見えるけれども、美奈子の半分も熱していないことは明らかだった。  美奈子も裏切られたように、かすかな失望を感じながら、黙ってしまった。  沈黙が五分ばかりも続いた。 「もう、そろそろ帰りましょうか。まるで秋のような冷気を感じますね。着物が、しっとりして来たような気がします。」  青年は、そう言いながら欄干を離れた。青年の態度は、いつもの通りだった。優しいけれども、冷静だった。  美奈子は夢から覚めたように、続いて欄干を離れた。自分だけが、興奮したことが、恥しくて堪らなかった。自分の独り合点の興奮を、相手が気付かなかったかと思うと、恥しさで/地のなかへ’でも隠れたいような気がした。  が、ちょうど二’三町も帰りかけたときだった。青年は思い出したように訊いた。 「お母様は-いつまで、ああして未亡人でいらっしゃるのでしょうか。」  青年の問いは、美奈子が何と答えてよいか分からないほど、出し抜け-だった。彼女は、ちょっと答に窮した。 「いや、実はこんな噂があるのです。ショウダ夫人は、本当はまだ’処女なのだ。そして、将来はきっと再婚せられる。きっと再婚せられる。僕の死んだ兄などは、夫人の口から直接聴いたらしいのです。が、世間にはいろいろな噂があるものですから、貴方にでも伺って見れば本当の事が分かりゃしないかと思ったのです。」 「わたくし、ちっとも存じませんわ。」  美奈子はそう答えるよりほかはなかった。 「こんなことを言っている者もあるのです。夫人が結婚しないのは、ショウダケの令嬢に対して/母としての責任を尽したいからなのだ。だから、令嬢が結婚すれば、夫人も当然’再婚せられるだろう。こう言っている者もあるのです。」  青年は、ホンの噂話のようにそう言った。が、青年の言葉を、噛みしめているうちに、美奈子は傍らの谷間へでも突落されたような/烈しい打撃を感ぜずには-いられなかった。  青年が、自分の結婚のことなどを、訊いた原因が、いまハッキリと分かった。自分の結婚などは、青年にはどうでもよかったのだ。ただ、自分が結婚したあとに起こる筈の、母の再婚を確かめるために、自分の結婚を、口にしたのに過ぎないのだ。それとは知らずに、興奮した自分が、恥しくて恥しくて堪らなかった。彼女の乙女らしい興奮と羞恥とは、物の見事に裏切られてしまったのだ。  彼女は、照っている月が、忽ち暗くなってしまったような思いがした。青年と並んで歩くことが堪らなかった。彼女の幸福の夢は、忽ちにして恐ろしい悪夢と変じていた。  彼女はそれでも、砕かれた心をやっと纏めながら返事だけした。 「わたくし、母’のことはちっとも存じませんわ。」  彼女の低い声には、綿々たる恨みが籠っていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第23話】 【夜の密語】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  青年との散歩が、悲しい幻滅に終ってから、避暑地生活は、美奈子に取って、喰わねばならぬ苦い苦い韮になった。  ひらきかけた蕾が、そうだ! 周囲の暖かさを信じて開きかけた蕾が、周囲から裏切られて思いがけない寒気に逢ったように、傷つき易い少女の心は、深い深い傷を負ってしまった。  それでも、大人しい彼女は、東京へ一人で帰るとは言わなかった。自分ばかり、何の理由も示さずに、先へ帰ることなどは、大人しい彼女には思いも及ばないことだった。  彼女は-とどまって、そうして忍ぶべく決心した。彼女の苦しい-つらい境遇に堪えようと決心した。  青年の心が、美奈子にハッキリと解ってからは、彼女は同じ部屋に住みながら、自分一人いつも片隅にかくれるような生活をした。  青年と母とが、向かい合っているときなどは、彼女は、そっと席を外した。その人から、想われていない以上、せめてその人の恋の邪魔になるま-いと思う、美奈子の心は悲しかった。  そう気が付いて見ると、青年の母に対する眸が、ヒイチニチ’輝きを増して来るのが、美奈子にもありありと判った。母の一顰一笑に、青年が喜んだり悲しんだりすることが、美奈子にもありありと判った。  が、それが判れば判るほど、美奈子は悲しかった。寂しかった。苦しかった。  一人の男に、二人の女、あるいは一人の女に、二人の男、恋愛に於ける三角関係の悲劇は、昔から今まで、数限りもなく、人生に演ぜられたかも判らない。が、瑠璃子と青年と美奈子との三人が作る三角関係では、美奈子だけが一番苦しかった。可憐な優しい美奈子だけが苦しんでいた。 「美奈さん! どうかしたのじゃないの?」  美奈子が、黙ったまま、バルコニーの欄干に、長く長く倚っているときなど、母は心配そうに、やさしく訊ねた。が、そんなとき、 「いいえ! どうもしないの。」  寂しく笑いながら答える、小さい胸の内に、たえられない、苦しみがあることは、明敏な瑠璃子にさえ判らなかった。  青年も、美奈子が、──一度あんなに彼に親しくした美奈子が、また掌を返すように、急に再び疎々しくなったことが、彼の責任であることに、彼も気が付いていなかった。  夕暮れの楽しみにしていた散歩にも、もう美奈子は楽しんでは、行かなかった。少くとも、青年は美奈子が同行することを、厭がってはいないまでも、決して喜んではいないだろうと思うと、彼女はいつも二の足を踏んだ。が、そんなとき、母はどうしても、美奈子一人残しては行かなかった。彼女が二度も断ると母はきっと云った。 「じゃ、わたしたちも行くのをよしましょうね。」  そう言われると、美奈子も不承ブショウに、承諾した。 「まあ! そんなに、おっしゃるのなら参りますわ。」  美奈子は口だけは機嫌よく言って、重い重い鉛のような心を、持ちながら、母のあとから、ついて行くのだった。  が、ある晩、それはちょうど箱根へ’来てから、ハンツキも経った頃だが、美奈子の心は、いつになく滅入ってしまっていた。  母が、どんなに言っても、美奈子は一緒に出る気にはならなかった。その上、いつもは、青年も口先だけでは、母と一緒に勧めてくれるのが、その晩に限って、たった一言も勧めてくれなかった。 「わたくし、今夜はお友達に手紙を書こうと思っていますの。」  美奈子は、とうとうそんな口実を考えた。 「まあ! 手紙なんか、明日の朝’書くといいわ。ね、いらっしゃい。二人だけじゃつまらないのですもの! ねえ、青木さん!」  そう言われて、青年は不服そうに頷いた。青年のそうした表情を見ると、美奈子はどうしても断ろうと決心した。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「でも、わたくし、今晩だけは失礼させて、いただきますわ。一人でゆっくり、お手紙をかきたいと思いますの。」  美奈子が、かなり思い切って、断るのを見ると、母’は-さまでとは、言いかねたらしかった。 「じゃ、美奈さんを残して置きましょうか。」  母は青年に相談するように言った。  そう聴いた青年のオモテに、ある喜悦の表情が、浮かんでいるのが、美奈子は気が付かずには-いられなかった。その表情が、美奈子の心を、むごたらしく傷つけてしまった。 「じゃ、美奈さん! ちょっと行って来ますわ。寂しくない?」  母は、いつものように、優しい母だった。 「いいえ、大丈夫ですわ。」  口だけは、元気らしく答えたが、彼女の心には、口とは丸切り反対に、大きい大きい寂しさが、暗い翼を拡げて、一杯にわだかまっていたのだ。  母と青年との姿が、廊下の外れに消えたとき、ドアの所に立って見送っていた美奈子は、自分の部屋へ駈け込むと、床に崩れるように、うずくまって、安楽椅子のクッションに顔を埋めたまま、暫くは顔を上げなかった。熱い熱い涙が、止め度もなく流れた。自分だけが、この世の中に、生き甲斐のないみじめな人間のように、思われた。誰からも見捨てられたと言ったような寂しさが、心の隅々を掻き乱した。  友達にでも、手紙を書けば、少しでも寂しさが紛らせるかと思って、机の前に坐って見たけれども/纏まった文句は、1行だって、ペンの先には、出て来なかった。母と青年とが、いつもの散歩路を、寄り添いながら、親しそうに歩いている姿だけが、頭の中にこびり付いて離れなかった。  その中に、寂しさと、彼女自身には気が付いていなかったが、人間の心に免れがたい嫉妬とが、彼女を立っても坐っても、いられないように、苛み始めていた。彼女は、高い山の頂きにでも立って、思うさま泣きたかった。彼女は、とうとうじっとしては-いられないような、苛々した気持ちになっていた。彼女は、フラフラと自分の部屋を出た。当てもなしに、戸外に出たかった。暗い道をどこまでもどこまでも、歩いて行きたいような心持ちになっていた。が、母に対して、散歩に出ないと言った以上、ホテルの外へ’出ることは出来なかった。彼女は、ふとホテルの裏庭へ、出て見ようと思った。そこはかなり広い庭園で、昼ならば、遥に相模灘を見渡す美しい眺望を持っていた。  美奈子が、廊下から、そっとその庭へ降り立ったとき、西洋人の夫妻が、腕を組みあいながら、芝生の小路を、逍遥’しているほかは、人影は更に見えなかった。  美奈子は、ホテルの部屋部屋からの火影で、明るく照らし出された明るいほうを避けて/出来るだけ、庭の奥の闇のホウへと進んでいた。  樹木の茂った蔭にあるベンチを、探し当てて、美奈子は腰を降ろした。  部屋部屋の窓から洩れる火影も、ここまでは届いて来なかった。周囲は人里離れた山林のように、静かだった。止宿している西洋の婦人の手すさびらしい、ヴァイオリンの弾奏が、ほのかにほのかに聞えて来るほかは、人声も聞えて来なかった。  闇の中に、たった一人坐っていると、いらいらした、寂しみも、だんだん落ち着いて来るように思った。殊にヴァイオリンのほのかな音が、彼女の傷ついた胸を、撫でるように、かすかにかすかに聞えて来るのだった。それに、耳を澄ましているうちに、彼女の心持ちは、だんだん和らいで行った。  母が帰らないうちに、早く帰っていなければならぬと思いながらも、美奈子は腰を上げかねた。三十分、四十分、一時間近くも、美奈子は、そこに坐り続けていた。その時、彼女は、ふと近づいて来る人の足音を聴いたのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  美奈子は、最初その足音をあまり気にかけなかった。さっきちらりと見た西洋人の夫妻たちが通り過ぎているのだろうと思った。  が、その足音は不思議に、だんだん近づいて来た。二言三言、話し声さえ聞えて来た。それはまさしく、外国語でなく日本語であった。しかも、何だか聞きなれたような声だった。彼女は『オヤ!』と思いながら、振り返って闇の中を透かして見た。  闇の中に、人影が動いた。一人でなく二人連れ-だった。二人とも、白い浴衣を着ているために、闇の中でも、割合はっきりと見えた。美奈子は、じっと二人が近寄って来るのを見詰めていた。十秒、二十秒、その裡にそれがナンピ-トであるかが分かると、彼女は全身に、水を浴びせられたように、ゾッとなった。それは、夜の目にも紛れなく青年と母の瑠璃子とであったからである。しかも、二人は、彼等が恋人同志であることを、明らかに示すように、身体が触れ合わんばかりに、寄り添うて歩いているのである。闇の中で、しかとは判らないが、母の左の手と、青年の右の手とが、堅く握り合せられているように、美奈子には感ぜられた。  美奈子は、恐ろしいものを見たように、身体がゾクゾクと震えた。彼女は、チが口を開いて、自分の体をこのまま呑んでくれればいいとさえ思った。悲鳴を揚げながら、逃げ出したいような気持ちだった。が、身体を動かすと母達に気付かれはしないかと思うと、彼女は、動くことさえ出来なかった。彼女は、そのまま椅子に凍り付いたように、身体を小さくしながら、息を潜めて、母達が行き過ぎるのを待っていようと思った。が、ああ/それが何と言う悪魔の悪戯だろう! 母達は、だんだん美奈子のいるホウへ歩み寄って来るのであった。彼女の心は当惑のために張り裂けるようだった。母と青年とが、もし自分を見付けたらと思うと、彼女の身体全体は、ますます震え立って来た。  が、母と青年とは、闇の中の木陰のベンチに、美奈子がたった一人うずくまっていようとは、夢にも思わないと見え、美奈子のいるホウへ、ますます近づいて来た。美奈子は、絶体絶命だ-った。母達が気の付かない内に、自分のほうから声をかけようと思ったが、声が咽喉にからんでしまって、どうしても出て来なかった。が、美奈子の当惑が、最後の所まで行った時だった。今まで、美奈子のホウへ真っ直ぐに進んで来ていた母達は、つと右のホウへ外れたかと思うと、そこに茂っている樹木の向こう側に、樹木を隔てて/美奈子とは、背中合せの椅子に、腰を下ろしてしまった。  美奈子は、苦しい境遇から、一歩を逃れてホッと一息した。が、またすぐ、母と青年とが、話し始める会話を、どうしても立ち聞かねばならぬかと思うと、彼女はまた新しい当惑に落ちていた。彼女は母と青年とが、話し始めることを聞きたくなかった。それは、彼女にとって余りに恐ろしいことだった。殊に、母と青年とが、ああまで寄り添うて歩いているところを見ると、それが世間並みの話でないことは、余りに判りすぎた。彼女は、自分の母の秘密を知りたくなかった。今まで、信頼し/愛している母の秘密を知りたくなかった。美奈子は、自分の眼がすぐメクラになり、耳がすぐ聾することを、どれほど望んでいたか判らなかった。もし、それが出来なければ、一目散に逃げたかった。もし、それも出来なかったら、両手で二つの耳を堅く堅く掩うていたかった。  が、彼女がどんなに聴くことを、厭がっても、聞えて来るものは、聞えて来ずには、いなかったのである。夜の静かなる闇には、彼等の話し声を妨げる/少しの物音もなかったのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  夜は静かだった。母と青年との話し声は、二間ばかり隔たっていたけれども、手に取るごとく美奈子の耳──その話し声を、毒のように嫌っている美奈子の耳に、ハッキリと聞えて来た。 「稔さん! 一体なんなの? 改まって、話したいことがあるなんて、わたしをわざわざこんな暗い処へ連れて来て?」  そう言っている母の言葉や、アクセントは、いつもの母とは思えないほど、下卑ていて/娼婦か何かのように艶かしかった。しかも、美奈子のいるところでは、一度も呼んだことのない青年の名を、馴々しく呼んでいるのだった。こうした母の言葉を聞いたとき、美奈子の心は、とどめの一太刀を受けたと言ってもよかった。今まで、あんなに信頼していた母にまで裏切られた寂しさと不快とが、彼女の心を滅茶滅茶に引き裂いた。  瑠璃子に、そう言われても、青年はなかなか’話し出そう-とはしなかった。沈黙が、ニサンプンカン彼等の間に在った。  母は、もどかしげに青年を促した。 「早く、おっしゃいよ! 何をそんなに考えていらっしゃるの。早く帰らないといけませんわ。美奈子が、さみしがっているのですもの。歩きながらでは、話せないなんて、一体どんな話なの! 早く言ってご覧なさい! まあ、じれったい人ですこと。」  美奈子は、自分の名を呼ばれて、ヒヤリとした。それと同時に、母の言葉が、蓮っ葉に乱暴なのを聴いて、ますます心が暗くなった。  青年は、それでもなかなか’話し出そう-とはしなかった。が、母の気持ちがかなり浮いているのにも拘わらず、青年が一生懸命であることが、美奈子にも、それとなく感ぜられた。 「さあ! 早くおっしゃいよ。一体なんの話なの?」  母は、子供をでも、すかすように、なまめいた口調で、ミタビ催促した。 「じゃ、申し上げますが、いつものように、はぐらかして下さっては困りますよ。僕は真面目で申しあげるのです。」  青年の口調は、かなり重々しい口調だった。一生懸命な態度が、美奈子にさえ、アリアリと感ぜられた。 「まあ! 憎らしい。わたしが、いつ貴方を、はぐらかしたのです。厭な稔さんだこと。いつだって、貴方のおっしゃることは、真面目で聴いているではありませんか。」  そう言っている母の言葉に、娼婦のような技巧があることが、美奈子にも感ぜられた。 「貴方は、いつもそうなのです。貴方は、いつも僕にそうした態度しか見せて下さらないのです。僕が一生懸命に言うことを、いつもそんな風にはぐらかしてしまうのです。」  青年は、恨みがましく/そう言った。 「まあ、そんなに怒らなく-ってもいいわ。じゃ、わたし/貴方の好きなように、聴いて上げるから/言ってご覧なさい!」  母は、子供を操るように言った。  母の態度は、心にもない立ち聞きをしている美奈子にさえ恥ずかしかった。  青年は、また黙ってしまった。 「さあ! 早くおっしゃいよ。わたし/こんなに待っているのよ。」  母が、青年のホオ近く/口を寄せて、促している有様が、美奈子にもすぐ感ぜられた。 「瑠璃子さん! 貴方には、僕のいま申し上げようと思っていることが、大抵お解りになってはいませんか。」  青年は、とうとう必死な声で/そう言った。美奈子は、予期したものを、とうとう聴いたように思うと、今までの緊張が緩むのと同時に、暗い絶望の気持ちが、心の裡いっぱいになった。それでも彼女は母が、一体どう答えるかと、じっと耳を澄ましていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  瑠璃子は青年をじらすように、落ち着いた言葉で言った。 「解っているかって? 何がです。」  ある空々しさが、美奈子にさえ感ぜられた。瑠璃子の言葉を聴くと、青年は、かなりゲキしてしまった。激しい熱情が、彼の言葉を、震わした。 「お解りになりませんか。お解りにならないと言うのですか。僕の心持ち、僕の貴方に対する心持ちが、僕が貴方をこんなに慕っている心持ちが。」  青年は、もどかしげに、叫ぶように言うのだった。蔭で聞いている美奈子は、胸をハッシと打たれたように思った。青年の本当の心持ちが、自分が心ひそかに思っていた青年の心が、母のホウへ向かっていることを知ると:、彼女は死刑囚が、その最後の判決を聴いた時のように、身体も心も、ブルブル震えるのを、抑えることが出来なかった。が、母が青年の言葉に何と答えるかが、彼女には、もっと大事なことだった。彼女は、砕かれた胸を抑えて、母が何と言い出すかを、一心に耳を澄ませていた。  が、母は容易に返事をしなかった。母が、返事をしない内に、青年のほうが急き立ってしまった。 「お解りになりませんか。僕の心持ちが、お解りにならない筈はないと思うのですが、僕がどんなに貴方を思っているか。貴方のためには、何物をも犠牲にしようと思っている僕の心持ちを。」  青年は、必死に母に迫っているらしかった。震える声が、変に途切れて、ワキギキしている美奈子までが、胸に迫るような声だった。  が、母はいつものように落ち着いた声で言った。 「解っていますわ。」  母の冷静な答えに、青年が満足していないことは明らかだった。 「解っています。そうです、貴方はいつでも、そう言われるのです。僕が、いつか貴方に申し上げたときにも、貴方は解っていると仰ったのです。が、貴方が解っていると仰るのと、解っていないと仰るのと、どこが違うのです。恐らく、貴方は、貴方の周囲に集まっている多くの男性に、みんな一様に『解っている』『解っている』と仰っているのではありませんか。『解っている』程度のお返事なら、お返事していただかなくても、同じ事です。解っているのなら、本当に解っているように、していただきたいと思うのです。」  青年が、一句一語に、興奮して行く有様が、目を閉じて、じっと聴きすましている美奈子にさえ、アリアリと感ぜられた。  が、母は、何と言う冷静さだろうと美奈子でさえ、青年の言葉を、蔭で聴いている美奈子でさえ、胸が裂けるような息苦しさを感じているのに:、面と向かって聴いている当人の母は、息一つ弾ませてもいないのだった。青年が、興奮すればするほど、興奮して行く有様を、じっと楽しんででもいるかのように、落ち着いている母だった。 「解っているようにするなんて? どうすればいいの?」  言葉だけはなまめかしく馴々しかった。  母の取り済ました言葉を、聴くと、青年は火のようにゲキしてしまった。 「どうすればいいの? なんて、そんなことを、貴方は僕にお聞きになるのですか。」青年は、恨めしげに言った。「貴方は僕を、最初から、僕を玩具にしていらっしゃるのですか。僕の感情を、最初から弄んでいらっしゃるのですか。僕が折に触れ、事に臨んで、貴方に申し上げたことを、貴方は何と聴いていらっしゃるのです。」  青年の若い熱情が──、恋の炎が、いま烈々と-ほとばしっているのであった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  青年が、だんだんゲキして来るのを、聴いていると、美奈子はもうこのうえ、隠れて聴いているのが、堪らなかった。  彼女の小さい胸は、いろいろな激しい感情で、張り裂けるように一杯だった。青年の心を知ったための大きい絶望もあった、が、それと同時に、青年の激しい恋に対する優しい同情もあった。母の不誠意な、薄情な態度を悲しむ心も交じっていた。どの一つの感情でも、彼女の心を底から覆えすのに充分だった。  その上、他人の秘密、人の一生懸命な秘密を、盗み聞きしていることが、一番彼女の心を苦しめた。彼女は、もう一刻も、坐っていることが出来なかった。そのベンチが針の蓆か、何かでもあるように、幾度も腰を上げようとした。が、距離は、わずかにニケンくらいしかない。草を踏む音でも聞えるかも知れない。殊に樹木の蔭を離れると、いかなる機みで母達の眼に触れるかも知れない。母達が、自分がいたことに気が付いたときの、驚きと当惑とを思うと、美奈子の立ち上ろうとする足は、そのまますくんでしまうのだった。  美奈子が、退っ引きならぬ境遇に苦しんでいることを、夢にも知らない瑠璃子は、前のように落ち着いた声で静かに言った。 「だから、解っていると言っているのじゃないの。貴方のお心は、よく解っていると言っているのじゃないの。」  青年の声は、前よりももっと迫っていた。 「本当ですか。本当ですか。本心でそう仰っているのですか。まさか、口先だけで言っていらっしゃるのじゃ-ありま-すまいね。」  青年が、そう訊き詰めても母は、黙っていた。青年は、いよいよ焦った。 「本心ならば、証拠を見せて下さい。貴方のお言葉だけは、もう幾度聴いたか分からない。貴方は、それと同じような言葉を、僕に幾度繰り返したか分からない。僕は言葉だけではなく、証拠を見せて貰いたいのです。本心ならば、本心らしい証拠を見せていただきたいのです。」  青年が、焦ってもゲキしても、動かない母だった。 「証拠なんて! わたしの言葉を信じて下さらなければ、それまでよ。お女郎じゃあるまいし、まさか、起請を書くわけにも行かないじゃないの。」  母のレディらしからぬ言葉遣いが、美奈子の心を傷ましめた。 「証拠と言って、品物を下さいと言うのじゃありません。僕が、先日云ったことに、ハッキリと返事をしていただきたいのです。ただ『待っていろ』ばかりじゃ僕はもう堪らないのです。」 「先日言ったことって、何?」  母は、相手をますますじらすように、しかもなまめかしい口調で言った。 「あれを、お忘れになったのですか、貴方は?」  青年は憤然とした-らしかった。 「あんな重大なことを、僕があんなに一生懸命にお願いしたのを、貴方はもう忘れて、いらっしゃるのですか。じゃ、繰り返してもう一度、申し上げましょう。瑠璃子さん、貴方は僕と結婚して下さいませんか。」  結婚と言う思いがけない言葉を聴くと、美奈子は、最後の打撃を受けたように思った。青年の母に対する決心が、これほど堅く進んでいようとは夢にも思っていないことだった。 「あのお話/ あれには貴方、ハッキリとお答えしてあるじゃないの。」  母は、青年の必死な言葉を軽く受け流すように答えた。 「あのお答えには、もう満足出来なくなったのです。」  母のハッキリした答えと言うのは、どんな内容だろうと思うと、美奈子は悪い悪いと思いながら/じっと耳を澄まさずには-いられなかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「あんなお答えには、僕はもう満足出来なくなったのです。あんな生ぬるいお答えには、もう満足出来なくなったのです。貴方は、美奈子さんが、結婚してしまうまで、この返事は待ってくれと仰る。が、貴方のお心だけをお決めになるのなら、美奈子さんの結婚などは、何の関係もないことではありませんか。僕に約束をして下さって、ただ、時期を待てと仰るのなら僕はいつまでも待ちます。五年でも十年でも、二十年でも、否/生涯待ち続けても僕は悔いないつもりです。貴方のはただ『返事を待て』と仰るのです、お返事だけならば、美奈子さんが結婚しようがしまいが、それとは少しも関係なしに、貴方のお心一つで、どうともお決めになることが、出来ることじゃありませんか。僕に約束さえして下されば、僕は喜んで五年でも七年でも待っている積りです。」  青年の声は、だんだん低くなって来た。が、その声に含まれている熱情は、だんだん高くなって行くらしかった。しんみりとした調子の中に、人の心に触れる力が籠っていた。自分の名が、青年の口に上る度に、美奈子は胸をとどろかせながら、息を潜めて聞いていた。  母が何とも答えないので、青年はまた言葉を続けた。 「返事を待て、返事を待ってくれと、仰る。が、その返事がいい返事に決まっていれば、五年七年でも待ちます。が、もし五年も七年も待って、その返事が悪い返事だったら、一体どうなるのです。僕は青春の感情を、貴方に散々弄ばれて、揚句の果てに、突き離されることになるのじゃありませんか。貴方は、僕をどちらとも付かない迷いの裡に、釣って置いて、いつまでもいつまでも、僕の感情を弄ぼうとするのではありませんか。僕は、貴方のなさることから考えると、そう思うよりほかはないのです。」 「まさか、わたしそんな悪人ではないわ。貴方のお心は、十分お受けしているのよ。でも、結婚となるとわたし/考えるわ。一度ああ言う恐ろしい結婚をしているのでしょう。わたし/結婚となると、何か恐ろしい淵の前にでも立っているようで、足が竦んでしまうのです。無論、美奈子が結婚してしまえば、わたしの責任は無くなってしまうのよ。結婚しようと思えば、出来ないことはないわ。が、その時になって、本当に結婚したいと思うか、したくないか、今のわたしには分からないのよ。」  母は、初めて本心の’一部を打ち明けたように言った。 「が、それは貴方の結婚に対するお考えです。僕が訊きたいと思うのは、僕に対する貴方のお考えです。貴方が結婚するかしないかよりも、貴方が僕と結婚するかしないかが、僕には大問題なのです。言葉を換えて言えば、僕を、結婚してもいいと思うほど、愛していて下さるかどうかが、僕には大問題なのです。」  青年の言葉は、一句一句’一生懸命だった。 「つまり、こう言うことをお尋ねしたのです。貴方が、もし、将来結婚なさらないで終るのなら、是非もないことです。が、もし結婚なさるならば、ナンピ-トを-おいても、僕と結婚して下さるかどうかを訊いているのです。時期などは、いつでもいい、五年後でも、十年後でも、構わないのです:、ただ、もし貴方が結婚しようと決心なさったときに、夫として僕を選んで下さるかどうかをお訊ねしているのです。」  青年の静かな言葉の裡には、彼の熾烈な恋が、火花を発していると言ってもよかった。  事理の徹った退引ならぬ青年の問いに、母が何と答えるか、美奈子は胸を震わしながら待っていた。  母は、暫く返事をしなかった。夜は、もう十時に近かった。やや欠けた月が、箱根の山々に、青白い夢のような光を落していた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第24話】 【約束の夜に】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「そのお返事は、出来ないことはないと思うのです。否か応か、どちらかの返事をして下さればいいのです。貴方が、今まで僕に示して下さったいろいろな愛の表情に、ただ裏書きをさえして下さればいいのです。貴方の将来のお心を訊いているのではないのです。現在の、貴方のお心を訊いているのです。現在の、貴方自身のお心が、貴方に分からない筈はないと思うのです。ただ、現在の貴方のお心をハッキリお返事して下さればいいのです。将来、結婚と言う問題が貴方のお考えの裡に起こったときには、僕を夫として選ぼうと現在思っているかどうかを訊かしていただきたいのです。」  青年の問いには、ハッキリとした条理が立っていた。詭弁を弄しがちな瑠璃子にも、もう言い逃れるスベは、ないように見えた。 「わたし、貴方を愛していることは愛しているわ。わたしが、このあいだじゅうから言っていることは、決して嘘ではないわ。が、貴方を愛していると言うことは、必ずしも貴方と結婚したいと言うことを意味していないわ。けれど、貴方に、結婚したいと言う希望が、本当におありになるのなら、わたしはまた別に考えて見たいと思うの。」  瑠璃子の、少しも熱しない返事を訊くと、青年はまた/ゲキしてしまった。 「考えて見るなんて、貴方のそう言うお返事はもう沢山です。『考えて見る』『解っている』そう言う一時ノガレのお返事には、もうあきあきしました。僕は、全かもしくは無を欲するのです。徹底的なお返事が欲しいのです。貴方が、もし『イナ』と仰しゃれば、僕も男です。失恋の苦しみと男らしく戦って、貴方に決して未練がましいことは言わないつもりです、僕は貴方に、承諾してくれとは言わないのです。どちらでも、ハッキリとしたお返事が欲しいのです。こんな中途半端な気持ちのうちに、いつまでも苦しんでいたくないのです。僕は、貴方の全部を掴みたいのです。でなければ僕はむしろ、貴方の全部を失いたいのです、恋は暴君です、相手の占有を望んで止まないのです。」  青年は、男らしく強くは言っているものの、彼が瑠璃子に対して、どんなに微弱であるかは、その震えている’語気で明らかに分かった。 「一体考えて見るなんて、いつまで考えてご覧になるのです。五’六年も考えて見るお積りなのですか。」  青年は、恨みがましくやや皮肉らしく、そう言った。 「いいえ。明後日まで。」  瑠璃子の答えは、一生懸命に-つっ掛って来た相手を、軽く外したような意地悪さと軽快さとを持っていた。  青年は、手軽く外されたために、ムッとして黙った-らしかったが、しかし、答そのものは、手応えがあるので、彼は暫くしてから、口を開いた。 「明後日/ 本当に明後日までですか。」 「嘘は言いませんわ。」  瑠璃子の返事は、殊勝だった。 「じゃ、そのお返事はいつ聴けるのです。」  青年の言葉に、やっと嬉しそうな響きがあった。 「明後日の晩ですわ。」  瑠璃子の本心は知らず、言葉だけにはある誠意があった。 「明後日の晩、やっぱり二人きりで、散歩に出て下さいますか。貴方は、いつでも、美奈子さんをお誘いになる。美奈子さんが、進まれない時でも、貴方は美奈子さんを、いろいろ勧めてお連れになる。僕がどんなに貴方と二人きりの時間を持ちたいと思っている時でも、貴方は美奈子さんを無理にお勧めになるのですもの。」  聴いている美奈子は、もう立つ瀬がなかった。彼女のホオには、涙がほろほろと流れ出した。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  美奈子さんを連れ過ぎると、青年が母に対して恨んでいるのを聴くと、もう美奈子は、一刻も辛抱が出来なかった。悔しさと、恨めしさと、絶望との涙が、止めどもなくホオを伝って流れ落ちた。自分が、心ひそかに思いを寄せていた青年から、邪魔物扱いされていたことは、彼女の魂を踏み躙ってしまうのに、充分だった。もう一刻も、とどまっていることは出来なかった。逃げ出すために、母達に、見付けられようが、見付けられまいが、もうそんなことは問題ではなかった。そんなことは、もう気にならないほど、彼女の心は狂っていた。彼女は、どんなことがあろうとも、もう一秒も-とどまっていることは出来なかった。  彼女は、それでも物音を立てないように、そっと椅子から、立ち上がった。立ち上がった刹那から、脚がわなわなと震えた。一歩踏み出そうとすると、全身の血が、悉く逆流を初めたように、身体がフラフラとした。倒れようとするのをやっと支えた。最後の力を、振い起こした。わななく足を支えて、芝生の上を、静かに静かに踏み占め、椅子から、10間ばかり離れた。彼女は、そこまでは、這うように、身体を沈ませながら辿ったが、そこに茂っている、夜の目には何とも付かない若い樹木の疎林へまで、辿り付くと:、もう最後の辛抱をし尽したように、疎林の中を縫うように、母たちのいる位置を、遠回りしながら、ホテルの建物のホウへと足を早めた。いな/駆け始めた。恐ろしい悪夢から逃げるように。恐ろしい罪と恥とから逃げるように。彼女は、全てを忘れて、若い牝鹿のように、逃げた。  夢中に、庭園を駆けぬけ、夢中に階段を駆け上り、夢中に廊下を走って、自分の寝室へ駆け込むと/彼女はベッドへ身体を瓦破と投げ付けたまま、泣き伏した。  涙は、いくら流れても尽きなかった。悲しみは、いくら泣いても、薄らがなかった。  全ては失われた。全ては、彼女の心から奪われた。新しく得ようとした恋人と一緒に、古くから持っていたただ一人の母を。彼女の愛情生活の唯一の相手であった母を。  春の花園のように、光と愛と美しさとに、充ちていた美奈子の心は、この嵐のために、吹き荒されて、跡には荒寥たる暗黒と/悲哀のほかは、何も残っていなかった。  恋人から、邪魔物扱いされていることが、悲しかった。が、それと同じに、母が──あれほど、自分には優しく、清浄である母が、男に対して、娼婦のように、なまめかしく、不誠実であることが、一番悲しかった。自分の頼み切った母が、夜/そっと眼を覚まして見ると、自分の傍らには、いないで、有明の行燈を嘗めているのを発見した古い怪談の中の少女のように、美奈子の心は、あさましい驚きで一杯だった。  自分に、優しい母を考えると、彼女は母を恨むことは出来なかった。が、あさましかった。恥かしかった。恨めしかった。  母と青年とから、逃れて来たものの、美奈子は本当に逃れているのではなかった。山中で、怪物に会って、駆け込んだ家が、ちょうど怪物の棲家であるように、母と青年とから逃れて来ても、彼等は-あいつづいて、同じこの部屋に帰って来るのだった。  そう思うと、いっそ美奈子は、この部屋から逃げ出したかった。遠く遠く/ナンピ-トにも見い出されない、山の中へ’入って、この悲しみをいつまでもいつまでも泣き明したかった。いな、少くともこの夜だけでも、母と青年との顔を見たくなかった。母と青年とが、並んで帰って来るのを見たくなかった。いな、青年から邪魔物扱いされている以上、もう部屋に-とどまりたくなかった。が、この部屋を離れて、いな母を離れて、彼女は一人どこへ行くところがあろう。ただ一人、縋り付くよすがとした母を離れていずこへ行くところがあろう。そう思うと、美奈子の頭には、死んだ父母の面影が、アリアリと浮かんで来た。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  死んだ父母の面影が、浮かんで来ると、美奈子は懐しさで、胸がピッタリと閉された。  今の彼女の悲しみと、苦しみを、撫でさすってくれる者は、死んだ父母のほかには、広い世の中に誰一人ないように思われた。  そう思うと、亡き父が、あの強いカイナを差し伸べて、自分を招いていてくれるように思われた。その手は世の人々には、どんなに薄情に働いたかも知れないが、自分に対しては限りない慈愛が含まれていた。美奈子は、父のカイナが、恋しかった。父の、その強いカイナに抱かれたかった。そう思うと、自分一人世の中に取り残されて、悲しく情けない目に会っていることが、味キなかった。  が、それよりも、彼女はこの部屋に-とどまっていて、母と青年とが、何知らぬ顔をして、帰って来るのを迎えるのに堪えなかった。どこでもいい、山でもいい、海でもいい、母と青年とのいないところへ逃れたかった。彼女は、泣き伏していた顔を、上げた。フラフラとベッドを離れた。浴衣を脱いで、明石縮の単衣に換えた。手提げを取り上げた。彼女の小さい心は、いま狂っていた。もう何の思慮も、フンベツも残っていなかった。ただ、突き詰めた一途な乙女心が、張り切っていただけである。  彼女が、着物を着がえてしまう間、幸いに母と青年とは帰って来なかった。  彼女は、部屋を駆け出そうとしたとき、咄嗟に兄のことを考えた。兄は、白痴の身を、監禁同様に葉山の別荘に閉じ込められている。が、他の世間の人々に対しては、愚かなあさましい兄であるが、その愚かさの裡にも、肉親に対する愛だけは、残っている。彼女は、彼女がときどき兄を-おとなうときに、兄がどんなに嬉しそうな表情をするかを、覚えている。たとい、自分の現在の苦しみや、悲しみを理解し得る兄ではないにしろ、兄の愚かな、しかしながら純な態度は、きっと自分を慰めてくれるに違いない。少くとも、あの愚かな兄だけは、いつ行ってもきっと、自分に、あの/人の良い、愚かしいがしかし浄い親愛の情を表してくれるに違いない。そう思うと、美奈子は急に、兄に会いたくなった。夜は十時に近かったが”まだ湯本行きの電車はあるように思った。もし、横須賀行きの汽車に間に合わなかったら、国府津か小田原かで、一泊してもいいとさえ思った。  部屋のドアを、そっと開けて、彼女は廊下を窺った。西洋人の少年少女が二人’連れ立って、自分の部屋へ、帰って行くらしいのを除いたほかには人影はなかった。  彼女は、廊下を左へ取った。その廊下を突き当たって左へ降りると、ホテルの玄関を通らないで、広場へ出ることを知っていた。  彼女は、廊下を駆け過ぎた。階段を、一気に駆け降りた。そして、階段の突き当たりにある、ドアを押し開いて、夜の戸外へ、走り出ようとした。  が、そのドアを押し開いた刹那であった。 「おや!」戸外に、叫ぶ声がした。戸外からも、ドアを開けようとした人が、思わず内部から開いたので、驚いて発した声だった。美奈子は、すぐ、そう叫んだ人と、顔を面して立たなければならなかった。それは、正しく母だった。母のあとに、寄り添うように立っているのは、もとより-かの青年だった。 「美奈さんじゃないの!」  母は、かなり驚いていた。狼狽していたと言ってもよかった。美奈子は、全身の血が、凍ってしまったように、じっと身体を縮ませながら、立っていた。 「どうしたの? こんなに遅く?」  青年との会話には、あんな冷静を-たもっていた母が、別人ではないかと思うほど、色を変えていた。  美奈子が、黙っていると、母はますます気遣わしげに言った。 「一体どうしたの、こんなに遅く、着物を着がえて、手提げなんか持って。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  母に問い詰められて、美奈子は、漸くその重い唇を開いた。 「あの、手紙を出しに、郵便局まで行こうと思っていましたの。」  彼女は、生まれて最初の嘘を、ついてしまった。彼女の、蒼い震いを帯びた顔色を見れば、誰が彼女が郵便局へ行くことを、信ずることが出来よう。 「郵便局/」瑠璃子は、反射的にそう繰り返したが、その美しい眉は、深い憂慮のために、暗くなってしまった。「こんなに遅く郵便局へ!」  瑠璃子は、呟くように言った。が、それは美奈子を咎めていると言うよりも、自分自身を咎めているような声だった。  親子の間に、暫くは沈黙が在った。美奈子は、ただ黙って立っているほかは、どうすることも出来なかった。 「郵便局/ 郵便局なら、僕が行って来て上げましょう。」  母の’後ろに立っていた青年は、この沈黙を救おうとしてそう言った。  美奈子は、ちょっと狼狽した。託すべき手紙などは持っていなかったからである。 「いいえ。結構でございますの。」  美奈子は、いつもに似ず、きっぱりと答えた。その拒絶には、彼女の、芽にして、踏み躙られた恋の千万無量の恨みが、籠っていたと言ってもよかった。  聡明な瑠璃子には、美奈子の心持ちが、かなり判ったらしかった。彼女は、涙がにじんでは-いぬかと思われるほどの、やさしい眸で、美奈子を、じっと見詰めながら言った。 「ねえ! 美奈さん。今晩は、よしてくれない。もう十時ですもの、あした早く入れに行くといいわ。ねえ美奈さん! いいでしょう。」  彼女は、美奈子を抱きしめるように、掩いながら、耳許近く、子供でもすかすように言った。  いつもなら、母のイチゴン半句にも背かない美奈子であるが、その夜の彼女の心は、妙にこじれていた。彼女は、黙って返事をしなかった。 「どうしても、行くのなら、わたしも一緒に行くわ。青木さんは、部屋で待っていて下さいね。ねえ! 美奈さん、それでいいでしょう。」  そう言いながら、瑠璃子は早くも、先に立って歩もうとした。  美奈子は、ちょっと進退に窮した。母と一緒に郵便局へ行っても、出すべき手紙がなかった。それかと言って、今まで黙っていながら、今更’行くことをよすとも、言い出しかねた。  その裡に、青年はこの場を-さけることが、彼にとって、一番適当なことだと思ったのだろう。なんの挨拶もしないで、建物の中へ入ると、階段を勢いよく駆け上がってしまった。  母’ひとりになると、美奈子の張り詰めていた心は、ゆるんでしまって、新しい涙が、ホオを伝い出したかと思うと、どんなに-とめようとしても止まらなかった。とうとう、しくしくと声を立ててしまった。  美奈子が泣き始めるのを見ると、瑠璃子は、心から驚いた-らしかった。美奈子の身体を抱えながら叫ぶように言った。 「美奈さん! どうしたの、一体どうしたの。何が悲しいの。貴方ひとり残して置いて済まなかったわ。ごめんなさいね、ごめんなさいね。」  青年に対しては、あれほど冷静であった母が、本当にハタチ前後の若い女に帰ったように、狼狽えているのであった。 「貴方、泣いたりなんかしたら、厭ですわ。今まで貴方の泣き顔は、一度だって、見たことがないのですもの。わたし、貴方の泣き顔を見るのが、何よりも辛いわ。一体どうしたの。わたしが、悪かったのなら、どんなにでもあやまるわ。ねえ、後生だから、訳を言って下さいね。」  そう言っている母の声に、激しい愛と熱情とが、籠っていることを、疑うことは出来なかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  その夜は、美奈子も強いて争いかねて、重い足を返しながら、部屋へ帰って来た。  翌日になると、夜が明けるのを待ちかねていたように、美奈子は母に言った。 「お母様、わたし/葉山へ行って来ようかと思っているの。兄さんにも、随分会わないから、どんな様子だか、わたし/見て来たいと思うの。」  が、母は許さなかった。美奈子の様子が、何となく気にかかっているらしかった。 「もう二三日してから行って下さいね。それだと、わたしも一緒に行くかも知れないわ。箱根もわたし/何だか飽き飽きして来たから。」  その日一杯、いつもは快活な瑠璃子は、妙に沈んでしまっていた。青年には、口ひとつ利かなかった。美奈子にも、用事のほかは、殆ど口を利かなかった。ただ一人、ヴェランダにある籐椅子に、腰を降ろしながら、一時間も二時間も、石のように黙っていた。  瑠璃子の態度が、すぐ青年に反射していた。瑠璃子から、口ひとつ利かれない青年は、所在なさそうに、主人から嫌われた犬のように、部屋の中をウロウロ歩いていた。彼のオドオドした眼は、モユルような熱を帯びながら、瑠璃子の上に、そそがれていた。美奈子は、青年の様子に、抑え切れぬ嫉妬を感じながらも、しかし何となく気の毒であった。犬のように、母を追うている、母の一挙一動に悲しんだり喜んだりする青年の様子が、気の毒であった。  その日は、事もなく暮れた。いつものように、夕方の散歩にも行かなかった。食堂から帰って来ると三人は気まずく三十分ばかり向かい合っていたあとに、銘々自分の寝室に、まだ九時にもならないうちに、退いてしまった。  翌る日が来ても、瑠璃子の様子は前日と少しも変らなかった。美奈子には、ときどき優しい言葉をかけたけれども、青年には一言も言わなかった。青年の顔に、絶望の色が、だんだん濃くなって行った。彼’の眼は、恨めしげに光り始めた。  とうとう、夜が来た。瑠璃子と青年との間に、交わされた約束の夜が来た。  美奈子は、夜が近づくに従って、青年が自分の存在を、どんなに呪っているかも知れないと思うと/部屋にいることが、どうにも苦痛になって来た。  晩餐の食堂’から、帰るときに、美奈子は、そっと母達から離れて、自分ひとりホテルの図書室へでも行こうと思った。そうすれば、青年は彼の希望通り、母とたった二人きりで、散歩に行くことが出来るだろう。母も、自分になんの気兼なしに青年とたった二人、散歩に出ることが出来るだろう。  美奈子は、そう思いながら、そっと母達から離れる機会を待っていた。が、母は故意にやっていると思われるほど、美奈子から眼を離さなかった。美奈子は、仕方なしに、一緒に部屋へ帰って来た。  部屋に帰ってから、暫くの間、瑠璃子は黙っていた。5分’10分’経つに連れて、青年がじりじりし始めたことが、美奈子の眼にも、ハッキリと判った。しかも、青年がいらいらしていることが、自分がいるためであると思うと、美奈子はどうにも、辛抱が出来なかった。自分が、青年の大事な大事な機会の邪魔をしていると思うと、美奈子はどうにも、辛抱が出来なかった。 「わたし、お母様、図書室へ行って来ますわ。ちょっと本が読みたくなりましたから。」  美奈子は、そう言って、母の返事をも待たず、つかつかと部屋を出ようとした。  母は、驚いたように呼び止めた。 「図書室へ行くのなんか/およしなさいね。夕べは出なかったから、今日は散歩に出ようじゃありませんか。」  美奈子は、ちょっと駭いて足を止めた。ふと気が付くと、青年の顔は激しい怒りのために、黒くなっていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  美奈子は、母の真意を測りかねた。  母も、確かに青年とたった二人きり、散歩する約束をした筈である。そして、あの大切な返事を青年に与える約束をした筈である。それだのに、なぜ自分を呼び止めるのであろう。そうした機会を、彼等に与えようとして、席を-はずそうとする、自分を呼び止めるとは。 「ええっ!」美奈子は、つい返事とも、驚きとも何とも付かぬ言葉を出してしまった。 「ねえ! 図書室なんか、明日いらっしゃればいいのに。今夜は強羅公園へ行こうと思うの。ねえ! いいでしょう。」  母はいつもよりも、もっと熱心に美奈子に勧めた。 「でも。」  美奈子は、躊躇した。彼女は、そうためらいながらも、青年の顔を見ずには-いられなかったのである。彼は、部屋の一隅の籐椅子に腰を下ろしていたが、その白い顔は、激しいフンヌのために、充血していた。彼は、爛々たる眸を、恨めしげに母の上に投げて-いたのである。美奈子は、そうした青年の様子を見ることが、心苦しかった。彼女は、青年のために、心の動顛している青年のためにも、母の勧めに、おいそれと従うことは出来なかった。 「いいじゃありませんの。図書室なんか、今晩に限ったことはないのでしょう。ねえ! いらっしゃい。わたし/お願いしますから。」  母は、余儀ないように言った。そう言われれば、美奈子は、同行を強いて断るほどの口実は何もなかった。ただ彼女には、自分を極力’同行せ-しめようとする母の真意が、どうしても分からなかった。 「ねえ! 青木さん! 美奈さんと、三人でなければ面白くありませんわねえ。二人きりじゃ-さみしいし/張り合いがありませんわねえ!」  母は、青年に同意を求めた。  何もかも知っている美奈子は、母のやり方が、恐ろしかった。青年が、嫌いだと言うものを、ぐんぐん咽喉に押し込むような、母の意地の悪い逆な態度が、恐ろしかった。美奈子は、ハラハラした。青年が、母の言葉を、どう取るかと思うと、ハラハラせずには-いられなかった。青年は、果たしてカッとなったらしかった。それかと言って、美奈子の前では、何の抗議を言うことも出来ないらしかった。 「僕/ 僕/ 僕は、今日は散歩に行きたくありません。失礼します、失礼します。」  それが、青年の精一杯の反抗であった。青年の顔は、いまソウハクに変じ、彼の言葉は、激昂のために、震えた。 「何故?」瑠璃子は詰問するように言った。 「何故いらっしゃらない。だって、貴方はさっき食堂で、今夜は強羅まで行こうと仰ったのじゃないの。今になって、よ-そうなんて、それじゃ故意に、わたしたちの感情を害しようとなさっているのだわ。」  青年は、唇をブルブル震わした。が、美奈子の前では、彼は一言も、本当の抗議は言えなかった。 『貴方は約束と違うじゃありませんか。なぜ、美奈子さんをお連れになるのです。』それが、青年の心に、沸々と湧き立っている言い分であった。が、それを、どうして美奈子の前で口にすることが出来るだろう。  青年の、籐椅子の腕に置いている手が、わなわな震えるのが、美奈子は、さっきから気が付いていた。  母の皮肉な逆な態度が、どんなに青年の心を虐げているかが、美奈子にもよく判った。美奈子は、もう一度、青年を救ってやりたいと思った。 「わたくしやっぱり、図書室へ参りますわ。今日’急に、お関所の歴史が知りたくなりましたの。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「お関所の歴史なんか、今夜じゃなくてもいいじゃないの。」  瑠璃子は、美奈子が、再度’図書室へ’行こうと言うのを聴くと、少しじれたように、そう言った。 「どうして-わたしと一緒に行くのが、お嫌いなの。美奈さんも、青木さんも、今夜に限ってどうしてそんなに煮え切らないの。」  瑠璃子は、青年の火のようなフンヌも、美奈子の苦衷も、何も分からないように、平然と言った。 「ねえ! 美奈さん、お願いだから行って下さいね。貴方が、行きたがらないものだから、青木さんまでが、出渋るのですわ。ねえ! そうでしょう、青木さん!」  弱い兎を、いじめる牝豹か何かのように、瑠璃子はどこまでも、皮肉に/逆に逆に出るのであった。美奈子は、青年の顔を見るのに堪えなかった。青年がどんなに怒っているか、また美奈子がいるために、その怒りを少しも洩すことが出来ない苦しさを察すると、美奈子は気の毒で、顔を背けずには-いられなかった。  瑠璃子には、青年のフンヌなどは、眼中にないようだった。それでも、暫くしてから、青年をなだめるように言った。 「さあ! 三人で機嫌よく行こうじゃありませんか。ねえ! 青木さん。何をそんなに、気にかけていらっしゃるの。」  そう、かなり優しく言ってから、彼女は意味ありげに付け加えた。 「わたし/このあいだじゅうから、考えていることがあって、くさくさしてしまったの。散歩でもして、気を晴らしてから、もっとよく考えて見たいと思うの。」  それは、暗に青年に対する言い訳のようであった。まだ、十分に考えが纏まっていないこと、従って今夜の返事を待ってくれと言う意味が、言外に含まれているようだった。  それを聴くと、青年の怒りは幾分、解けた-らしかった。彼は不承ブショウに椅子から、腰を離した。  美奈子も、やっと安心した。やっぱり、母は、真面目に、この二三日/口も利かずに、青年の申し出を、考えたに違いない。それが、とうとう纏りが付かないために、返事の延期を、青年にそれとなく求めたに違いない。それを、青年が不承ブショウではあるが、承諾した以上、今夜の約束は延ばされたのだ。そう思うと、自分が母達に同伴することが、必ずしも青年の恋の機会の邪魔をすることではないと思うと/彼女は漸く同伴する気になった。  三人は、それぞれに、いつもよりは、少しく身拵えを丁寧にした。 「往きと帰りは、電車にしましょうね。歩くと大変だから。」  瑠璃子は、そう言いながら、一番に部屋を出た。青年も美奈子も、黙ってそれに続いた。  三人が、ホテルの玄関に出て、ボーイに送られながら、その階段を降りようとしたときだった。暮れなやむ夏の夕暮れの”まだほの明るい闇を、煌々たるヘッドライトで、照らし分けながら、一台の自動車が、激しい勢いで駈け込んで来た。  美奈子は、塔の沢か湯本あたりから、上って来た外人客であろうと思ったので、あまり注意もしなかった。  が、美奈子と一緒に歩いていた母は、自動車の中から、立ち現われた人を見ると、急に立ち竦んだように目を眸った。いつもは、冷然と澄ましている母の態度に、明らかな狼狽が見えていた。夕闇の中ではあったが、美しい眼が、異様に光っているのが、美奈子にも気が付いた。  美奈子も、驚いて相手を見た。母をこんなに驚かせる相手は、一体なんだろうかと思いながら。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第25話】 【一条の光】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  相手は、まだ三十’になるかならない紳士だった。金縁の眼鏡が、その色白のオモテに光っていた。純白な背広が、かなりよく似合っていた。彼は一人ではなかった。すぐそのあとから、丸顔の可愛いハタチばかりの夫人らしい女が、自動車から降りた。  美奈子は、夫婦とも全然見覚えがなかった。  瑠璃子が、相手の顔を見ると、ハッと驚いたように、紳士も瑠璃子の顔を見ると、ハッと顔色を変えながら、立ち竦んでしまった。  紳士と瑠璃子とは、互いに敵意のある眼付きを交しながら、十秒/二十秒/三十秒ばかり、相対して立っていた。それでも、紳士のほうは、挨拶しようかしまいかと、ちょっと躊躇っているらしかったが、瑠璃子が黙って顔を背けてしまうと、それに対抗するように、また黙って顔を背けてしまった。  が、瑠璃子から顔を背けた相手は、彼女の右に立っている青年の顔を見ずにはいなかった。青年の顔を見たときに、紳士の顔は、前よりも、もっと動揺した。彼の驚きは、前よりも、もっと激しかった。彼は、声こそ出さなかったが、殆んど叫び出しでもするような表情をした。  彼は、あわてたように瑠璃子の顔を見直した。再び青年の顔を見た。そして、青年の顔と瑠璃子の顔とを見比べると、何か汚らわしいものをでも見たような表情をしながら、妻を促して、足バ-ヤに階段を上ってしまった。  美奈子は、何だかそのストレンジャーが、気になったが、母に訊くことが、悪いように思って、どうしても口に出せなかった。すると、ホテルの門を出た頃に、さっきから黙っていた青年が初めて瑠璃子に口を利いた。 「一体いまの人は誰です。ご存じじゃありませんか。」 「いいえ! ちっとも、心当りのない方ですわ。でも、可笑しな人ですわね。わたし達を、じっと見詰めたりなんか-して。」  瑠璃子は、何気なく言った-らしかった。が、声がいつものように、澄んだ自信の充ち満ちた声ではなかった。 「そうですか、ご存じないのですか。でも、センポウは、僕達のことをよく知っているようですねえ。」  青年は、訝しげにそう言った。が、瑠璃子は、聞えないように返事をしなかった。  三人は、底気味の悪い沈黙を、お互いの間に醸しながら、宮の下の停留場から、強羅行きの電車に乗った。  が、電車に乗っても、三人は散歩に行くと言ったような気持ちは少しもなかった。美奈子は、人身御供にでもなったような心持ちで、ただ母の意志に従っていると言うのに過ぎなかった。  青年は、無論’最初から滅入っていた。大事な返事をテイよく延ばされたことが、彼にとっては、何よりの打撃であったのだ。彼が楽しんでいる筈はなかった。  瑠璃子も、最初は二人を促して、散歩に出たのであったが、玄関で紳士に逢ってからは、隠し切れぬ暗い翳が、彼女の美しい顔のどこかに潜んでいるようだった。  夜の箱根の緑の闇を、明るいヘッドライトを照しながら、電車は静かな山腹の空気を震わして、轟々と走りつづけたかと思うと/すぐ終点の強羅に着いていた。  電車を去ってから、かなり勾配の急な坂を二’三町上ると、もう強羅公園の表門に来た。  電車が、強羅まで開通してからは、急に別荘の数が増し、今年の避暑客はかなり多いらしかった。  公園の表門の突き当たりにあるレストランの窓から、明るい光が洩れ、玉を突いているらしい避暑客の高笑いが、絶え間なく聞えていた。  夜の公園にも、涼を求めているらしい人影が、彼方にも此方にもチラホラ見えた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  三人は、レストランの左から、コンクリートで堅めた水泳場のそばを通って、だんだん上の方に登って行った。  公園は、山の傾斜に作られた洋風の庭園であった。箱根の山の大自然の中に、ここばかりちょっと人間が細工をしたと言ったような、こましゃくれた、しかし、厭味のないショウ公園だった。  エンの中央には、山上から引いたらしい水が、噴水となって-ほとばしって、肌寒いほどの涼味を放っていた。  三人は、黙ったまま園内を、あちらこちらと歩いた。誰も口を利かなかった。皆が、舌を-ふうぜられたかのように、黙々としてただ歩き回っていた。  三人が、少し歩き’疲れて、片陰の大きい/楢の樹の下のジネンセキの上に、腰を降ろした時だった。さっきから一言も、口を利かなかった瑠璃子が、突然’青年に向かって話しだした。しかもかなり真剣な声で。 「青木さん! このあいだのお話ね。」  青年は、瑠璃子が何を言っているのか、丸切り見当が付かないらしかった。 「えっ! えっ!」彼はかなり狼狽したように焦っていた。 「このあいだのお話ね。」  瑠璃子は、再び/そう繰り返した。彼女の言葉には、鋼鉄のような冷た-さと堅さがあった。 「このあいだの話?」  青年は、いかにも腑に落ちないと言ったように、首を-かしげた。  ちょうどその時、美奈子は母と青年との真ん中に坐っていた。自分を、中央にして、自分を隔てて母と青年とが、何だかわだかまりのある話をし始めたので、彼女はかなり当惑した。が、彼女にも母が、一体何を話し出すのか/皆目’見当が付かなかった。 「お忘れになったの。センヤのお話ですよ。」  瑠璃子の声は、冗談などを少しも意味していないように真面目だった。 「センヤって、いつのことです。」青年の声が、だんだん緊張した。 「お忘れになったの? 一昨日の晩のことですよ。」  青年が色を変えて驚いたことが、美奈子にもハッキリと感ぜられた。美奈子でさえ、あまりの驚きのために、胸が潰れてしまった。母は、果たして一昨日の’夜のことを、美奈子の前で話そうとしているのかしら、そう思っただけで、美奈子の心は慄いた。 「一昨日の晩/」青年の声は、必死であった。彼は一生懸命の努力で続けて言った。 「一昨日の晩? 何か特別に貴方とお話をしたでしょうか。」  必死に、逃路を求めているような青年の様子が、かなり悲惨だった。美奈子は、他人事ならず、胸が張り裂けるばかりに、母が何と言い出すかと待っていた。 「お忘れになったの。」  瑠璃子は、静かに冷たく言った。冗談を言っているのでもなければ、揶揄っているのでもなければ、じらしているのでもなかった。彼女も、今夜は別人のように真面目であった。 「忘れる? 一昨日の晩/」青年は首を傾げる様子をした。が、彼の態度はいかにも苦しそうであった。「僕には、ちっとも解りません。一昨日の晩、僕が何か申し上げたでしょうか。」  青年の声は、わなわなと震えた。彼はその言葉を、瑠璃子に投げ付けるように言った。  が、その投げ付けたつもりの言葉の裡に、みじめな哀願の調子が、アリアリと響いていた。  青年の哀願の調子を跳ね付けるように、瑠璃子の言葉は、冷たく無情だった。 「一昨日の晩のお話のお返事を、わたし/今夜’致そうと思いますの。」  風が、少し出たせいだろう、冷たい噴水の飛沫が三人の上に降りかかって来た。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  瑠璃子の言葉は、これから判決文を読み上げようとする裁判長の言葉のように、峻厳であった。  青年は瑠璃子の言葉を聴くと、もう黙ってはいられなかった。『抜く抜く』と言う冗談が、本当の白刃になったように、彼はもうそれを真正面から受止めるほかはなかった。 「奥さん、貴方は何を仰るのです。貴方は、お約束をお忘れになったのですか。あれほど僕がお願いしたお約束をお忘れになったのですか。」  美奈子が、真ん中にいることも、もうスッカリ忘れたように、青年は吾を忘れて激昂した。興奮に湧き立った温かい息が、美奈子の冷たいホオに、吐き付けられた。 「お約束? お約束を忘れないからこそ、今夜お返事すると言っているのじゃありませんか。」 「ナン! ナン! 何と仰るのです。」  青年はスックと立ち上がった。もう美奈子を隔てて、話をするほどの余裕もなくなったのであろう、彼は、激しく瑠璃子の前に詰めよった。  美奈子は、浅ましい/恐ろしい物を見たように、オモテを伏せてしまった。 「奥さん! 貴方は、貴方は何を仰るのです。僕/ 僕/ 僕が、一昨夜’申し上げたこと、あのお返事を今、なさろうとするのですか。あの、あのお返事を!」  激しい興奮のために、彼の身体は震え、彼の声は裂け、彼の言葉は咽喉にからんで、容易には出て来なかった。 「まあ! お坐りなさい! そう、貴方のように興奮なさっては、話が、ちっとも分からなくなりますわ。まあ! 坐ってお話しなさいませ。わたし、今夜はよくお話ししたいと思いますから。」  瑠璃子の態度は、水の如く冷たく澄んでいた。たしなめられて、青年は不承ブショウに/元の席に復したが、彼の興奮は容易には去らない。彼は火のように、熱い息を吐いていた。 「坐ります。坐ります。が、あのお話を、今ここでなさるなんて、あんまりではありませんか。あれは、僕だけの私事です。プライヴェートな事です。それを今ここでお話しになるなんて、あんまりではありませんか。あの晩、僕が何と申し上げたのです。あの晩申し上げた事を、貴方は覚えていて下さらないのですか。」  青年は、美奈子が聴いていることなどは、もう構っていられないように、熱狂して来た。  美奈子は、真ん中でじっと聴いているのに堪えられなくなって来た。彼女は、勇気を鼓舞しながら、口を開いた。 「あのう、お母様/ わたくしはちょっと失礼させていただきたいと思いますわ。お話が、お済みになった頃に帰って参りますから。」  美奈子は、皮肉でなく真面目にそう言わずには-いられなかった。  溺れる者は、藁をでも掴むように、青年はもう夢中だった。 「そうです。奥さん! もし貴方が、あの晩の話のお返事をして下さるのなら、失礼ですが、美奈子さんに、ちょっと失礼させていただきたいのです。あれは、僕の私事です。あのお返事なら、僕一人の時に承わりたいのです。」  興奮した青年に、水を浴せるように、瑠璃子は言った。 「いいえ! わたし、美奈さんにも、是非とも聞いていただきたいのですわ。一昨夜も、あんなお話なら美奈さんに立ち合っていただきたいと思ったのです。あんなお話は、二人きりで、すべきものではないと思いますもの。たださえ、わたし/色々な風評の的になって、困っているのですもの。ああいうお話はなるべく陰翳の残らないように、ハッキリとカタを付けて置きたいと思いますの。ねえ、美奈さん、貴方このお話の、ウィットネス(証人)になって下さるでしょうねえ。」 「あ! 奥さん! 貴方は! 貴方は!」  青年は、狂’したように叫びながら立ち上がると、続けざまに、地を踏み鳴らした。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  青年が、狂気したように、叫び出したのにも拘わらず、瑠璃子は、冷然として、語りつづけた。 「美奈さん、貴方には、お話ししなかったけれども、わたし/青木さんから、一昨日の晩、突然’結婚の申し込みを受けたのです。そうして、それに対する諾否のお返事を、今晩しようと言うお約束をしたのです。結婚の申し込みを直接受けたことを、わたし/本当に心苦しく思っているのです。せめて、お返事をするときだけでも貴方に立ち合っていただきたいと思いましたの。」  美奈子は、何と返事をしてよいか、皆目’分からなかった。ただ、彼女にも、ぼんやり分かったことは、美奈子が母と青年の密語を、立ち聞きしたことを、母が気付いていると言うことだった。美奈子が、いたたまれなくなって逃げ出したときの後ろ姿を、母が気付いたに違いないと言うことだった。  そう思うと、自分の心持ちが、明敏な母に、すっかり悟られているように思われて、美奈子は一言も返事をすることさえ出来なかった。  青年の顔は、真っ青になっていた。眼ばかりが、爛々と闇の中に光っていた。 「ねえ! 青木さん。それでは、よく心を落ち着けて聴いて下さいませ! わたし、あの、大変お気の毒ではございますけれども、よくよく考えて見ましたところ、貴方のお申しいでに応ずることが出来ないのでございます。」  瑠璃子の言葉に、闘牛が、とどめの一撃を受けたように、青年の細長い身体が、タジタジと後ろへよろめいた。  彼は、両手で頭を抱えた。身体を左右に悶えた。呟きとも呻きとも付かないものが口から洩れた。  美奈子は、見ているのに堪えなかった。もし、母がそばにいなかったら、走り寄って、青年の身体を抱えて、思うさま慰めてやりたかった。  二分ばかり、青年の苦悶が続いた。が、彼はやっと、その苦悶から這い上がって来た。  母から受けた恥辱のために、彼の眼は血走り、彼の眦は裂けていた。 「あなたのは、お断りになるのではなくて、僕を辱めるのです。僕がそっとお願いしたことを、美奈子さんの前で、貴方にはお子さんかも知れないが、僕には他人です、その方の前で、辱めるのです。拒絶ではなくして、侮辱です。僕は生れてから、こんな辱めを受けたことはありません。」  青年は、血を吐くように叫んだ。青年の言葉は、恨みと怒りのために狂い始めていた。 「貴方は、妖婦です、僕は敢えて、そう申し上げるのです。貴方を、貴婦人だと思って、近づいたのは、僕の誤りでした。僕に、下さった貴方の愛の言葉を、貴方の真実だと思ったのが、僕の誤りでした。真実の愛を以って、貴方の真実な愛を贖うことが出来ると思ったのは、僕の間違いでした。奥さん! 貴方は、あらゆる手段や甘言で、僕を誘惑して置きながら、僕が堪らなくなって、結婚を申し込むと、それを恐ろしい侮辱で、突き返したのです。この恨みは、きっと晴らしますから、覚えていて下さい。覚えていて下さい。」  青年は、狂ったように、瑠璃子を罵りつづけた。  瑠璃子は、青年の罵倒を、冷然と聞き流していたが、青年の声が、漸く絶えた頃に、やっと’口を開いた。 「青木さん! 貴方のように、そう怒るものじゃなくってよ。わたしの貴方に対する愛が、丸切り嘘だと言うのは、余りヒドいと思いますわ。わたしが、貴方を愛していることは本当ですわ。ただ、その愛は夫に対するような愛ではなくて、弟に対するような愛なのです。わたし、昨日今日考えて、やっとそれが分かったのです。わたし、貴方を弟に持ちたいと思うわ。が、貴方を夫にしようとは、夢にも思ったことはないわ。が、夫以外の一番親しいものとして、わたし/貴方にいつまでも、いつまでも、交際っていただきたいと思うのよ。ねえ! 美奈さん。貴方にわたしの心持ちは分からない!」  瑠璃子は、意味ありげに、美奈子を顧みた。今まで少しも、分からなかった今夜の瑠璃子の心持ちが、闇の中に、一条の光が生まれたように、美奈子にもほのぼのと分かって来たように思えた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  美奈子には、母の心持ちが、朝霧の’野に、日の昇るように、ようやく明らかになって来た。  母は自分の心持ちをスッカリ気付いたのだ。青年に対する自分の心持ちをスッカリ知ってしまったのだ。  母が、自分の面前で、何のにべもないように、青年を斥けたのも、みんな自分に対する義理なのだ。自分に対する母の好意なのだ。自分に対する母の心づくしなのだ。そう思うと、激しい恥かしさを感じながら、母に対する感謝の心が、しみじみと、胸の底深く-にじんで出た。  母は、やっぱり自分を愛してくれる、自分のためには、どんなことでも、しかねないのだ。そう思うと、美奈子は、母に対して昨日今日、少しでも飽き足らなく思ったことが、深く悔いられた。  母の心持ちは、もっと露骨になって来た。 「青木さん。貴方が、わたしと結婚なさろうなんて、それは1時の迷いです。貴方のお若い心の1時のウイム(出来心)です。貴方にはわたしの心が少しも分かっていないのです。いいえ、わたしの本体が少しも分かっていないのです。わたしの心が、どんなに荒んでいるか/それが貴方には、少しも分かっていないのです。わたしが、貴方を本当に愛しているかどうかさえ、貴方には分からないのです。そうそう、ワイルドの警句に、『結婚の適当なる基礎は相方の誤解なり。』と言う皮肉な言葉がありますが、貴方のわたしに対する、結婚申込みなんか、本当に貴方の誤解から出ているのです。」  青年には、瑠璃子の言葉などは、少しも耳に入っていないようだった。彼は、激しい怒りのために、口が利けなくなったように、ただ身体を震わせているだけだった。  が、そんなことは少しも意に介せないように、瑠璃子は落ち着いた口調で、話し続けた。 「貴方は、わたしの心持ちが分からないばかりでなく、貴方に対する誰の心持ちも分かっていないのです。貴方には、まだ、本当に人の心が分からないのです。真珠のような美しい──いいえ、どんな宝石にも換えがたいような、美しい心を持った乙女が、貴方に恋しても、貴方には、それが分からないのです。貴方はもっと足を地上に降ろして、しっかり物を見なければならないと思います。」  美奈子は、母の言葉を聴くと、地の中へ’でも消えてしまいたいような恥かしさと、母の自分に対する真剣な心づくしに対する有難さとで、心の中が一杯になってしまった。  が、ここまで黙って聴いていた青年は、憤然として、立ち上がった。 「奥さん! もう沢山です。貴方は、僕を散々辱めて置きながら、この上何を仰しゃろうと言うのです。男として、耐えられないような恥辱を僕に与えて置きながら、このうえ何を言おうと仰るのです。貴方に対する僕の要求は、全か無かです。弟に対する愛、そんな子供だましのようなお言葉で、いつまで僕を操ろうとなさるのです。奥さん、僕はこれで失礼します。二度と貴方には、お目にかからないつもりです。男性に対する貴方の態度が、いつまで天罰を受けずにいるか/よそながら拝見しているつもりです。僕の貴方に対する恋、それは、僕に取っては初恋です。大切な懸命な初恋でした、全てを犠牲にしてもいいと思った初恋です。が、それが‥‥。」  青年は、ここまで言うと、自分自身で、こみ上げて来る悔しさに’堪えきれなくなったように、ハラハラと涙を落した。 「‥‥それが貴方のために、ムザムザと踏み躙られてしまったのだ。覚えていらっしゃい! 奥さん。」  彼は、自分の感情を抑え切れなくなったように、こう叫んだ。  立っている華奢な長身が、いたましくわなわなと震えて、男泣きの涙が、幾筋となく地に落ちた。さっきから美奈子は、青年の様子を見ているのに、堪えないように、目を伏せていたが/何と思ったのかこの時/ふと顔を上げた。 「お母様/」  彼女は掠れたような声で、初めて口を開いた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「お母様/」  そう叫んだ美奈子の言葉には、思い切った乙女の真剣さが、籠っていた。 「お母様、あのう、もう一度、どうぞもう一度、ゆっくりお考え下さいませ。青木さんがどう仰ったのか知りませんが、もう一度考え直して下さいませ。わたくし、わたくし‥‥。」  美奈子は、もっと何か言いたそうだったが、激しい興奮のために、胸が迫ったのだろう、そのまま口籠ってしまった。  去りかけようとした青年は、美奈子の言葉を聴くと、ちょっとためらいながら、美奈子のほうを振り返った。 「美奈子さん。貴方のご厚意は、大変有難うございます。が、もう全ては終ったのです。僕の心は、踏み躙られたのです。僕の心には、いま悲しみと怨みとがあるばかりです。さようなら、貴方には、いろいろ失礼しました。」  そう言い捨てると、青年は弾かれたように、身体をひるがえすと、緩い勾配の芝生の道を、一気に二十間ばかり、駆け降りると:、その白い浴衣を着た長身で、公園の闇を切る姿を見せていたが、すぐ木立の蔭に見えなくなった。  美奈子は、/さみしみとも悲しみとも、あきらめとも付かぬ心で、消えて行く青年の姿を追うていた。  瑠璃子も、ちょっと青年の後ろ姿を見ていたようだったが、すぐ思い返したように立ち上がると、美奈子のそばに寄って来て、すれすれに腰をかけた。 「美奈子さん! 驚いて?」  軽く左の手を、美奈子の肩にかけながら、優しく訊いた。 「はい。青木さんが、お気の毒でございますわ。」  美奈子は、消え入るような声で言った。彼女は暫く考えていたが、 「青木さんなんかよりも、わたし美奈さんに済まないと思っていますの。どうぞ、堪忍して下さい。どうぞ。」  母の声には、深い本心が、アリアリと動いていた。美奈子でさえ、一度も聴いたことのないようなしんみりとした、心の底からにじみ出たような声だった。 「美奈さん。間違っていたら、ごめんなさい。わたし、貴方のお心が分かったの。青木さんに対する貴方のお心が。」  そう、心の底を見抜かれると、美奈子は、サッと色を変えながら、うつ伏してしまった。 「美奈さん、貴方は、一昨日の晩、わたしと青木さんとが、話したことをすっかり、お聴きになったのでしょう。いいえ、貴方がお聴きになったのではなく、貴方がいらっしゃるとは知らずに、わたしたちがいろいろなことを話しましたでしょう。わたし、あの晩”部屋へ帰ろうとして、外出なさろうとする貴方のお顔を見たときに、もう全てが分かったような気がしたのです。絶望その物のような貴方のお顔を見て、わたしは、全てが分かったような気がしたのです。わたしは、それまでにもしやと思ったことが、一’二度あったのです。そのもしやが、本当だと言うことが分かると、わたしは、大変なことが起こったと思ったのです。わたしの犯した失策が、取り返しのつかないものだと言うことを知ったのです。」  母の言葉が、ますます真剣な/悲痛な響きを帯びて来た。  美奈子は、俎上に上ったような心持ちで、母の言葉をじっと聴いているほかはなかった。恥かしさと悲しさとで、裂けるような胸を持ちながら。 「わたし、今度のことで、わたしの生活が全然’破産したことを知ったのです。男性に向かって吐いたツバキが、自分に飛び返って来たことを知ったのです。どうか、美奈さん。わたしの懺悔を聴いて下さい。」  快活な、泣き言などは、ちっとも言ったことのない母の声が、悲しみに潤んでいた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「青木さんなんかに、わたし/初めから、何の興味も持っていなかったのです。青木さんを箱根へ連れて来たのなども、わたしのホンの意地からなのです。ある別な男の方に対するわたしの意地からなのです。ある男の方が、わたしに、青木さんだけは、誘惑してくれては困ると言ったような、おせっかいなことを言ったものですから:、わたしはつい反抗的に、意地であの方を箱根へ連れて来たくなったのです。よそながら、そのおせっかいな人に思い知らせて、やりたくなったのです。美奈子さん、それがわたしの性分なのです。今までのわたしの生活、貴方のお家へ来たことなども、みんなわたしのそう言った性分が、わたしを動かしたのです。」  母はいつになく、しんみりとした/沈んだ調子になっていた。短い沈黙の後で、母は再び口を開いた。 「それは、自分でもどうともすることが出来ない性分です。誰かから抑えられると、その二倍も三倍もの激しさで、跳ね返したいような気になるのです。それが、わたしの性格のフェータル(致命的)な欠陥かも知れません。わたしは自分のそうした性分のために、自分の一生を犠牲にしたのではないかとさえ、このごろ考えているのです。」  母は、こう言って悵然としたが、またすぐ言葉を続けた。 「子供が、触ってはいけないと言われた草花に、却って触りたくなるような心持ちで、青木さんを、わざと箱根へ連れて来たのです。あの人になんの興味があったと言う訳でもないのです、おせっかいなことを言った人に対する意地で、ついそんなことをしてしまったのです。それから、恐ろしい罰を受けようとは夢にも知らなかったのです。」  母の言葉は、沈み切っていた。強い悔いが、彼女の心を苛んでいることを示していた。 「わたしの想像が違ったら、ごめん下さい。貴方の清浄な/純な心に映った男性をわたしが奪うと言う恐ろしいことをしていたのです。美奈さん! 許して下さい。美奈さん。」  涙などは、今まで一度も流したことのない母の声が、潤んでいた。 「貴方に対して、何とお詫びしていいか分からないのです。貴方の心に萌んだ美しい思いの芽をわたしが蹂躙していようとは、わたしが! 貴方を何物よりも愛しているわたしが。」  瑠璃子の眼に、始めて涙が光った。 「取り返しの付かない、恐ろしいことです。わたしが、ただホンの悪戯のために、ホンの意地の為めに、宝石にも換えがたい貴方の純な感情を踏み躙っていようとは、思い出すだけでも、わたしの心は張り裂けるようです。美奈さん! 許して下さい。どうぞ、わたしの罪を許して下さい!」  瑠璃子は苛責に堪えないように、オモテを伏せてしまった。 「まあ! お母様、何を仰るのです。許してくれなんて、わたし、何も‥‥。」  美奈子は、激しい恥しさに堪えながら、母を慰めようとした。 「こんなことは、許しを願えるようなものではないかも知れません。本当に、許しがたいことです。『イントレランス』です。貴方が許して下さっても、わたしの心はいつまでも、いつまでも苦しむのです。わたしが、世の中で一番愛している貴方に、恐ろしい不幸を浴びせていようとは/恐ろしいことです。恐ろしいことです。」  冷静な母の態度も、心の激しいその苛責のために、だんだん乱れて行った。  美奈子は、最初自分の心を母からマザマザと指摘された恥しさで、動乱していたが、それが静まるに連れて、母の自分に対する愛、誠意に/だんだん動かされ始めた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「わたしが、男性に対する意地と反感とでしたことが、男性を傷つけないで、却って女性、しかもわたしには、一番親しい、一番愛している貴方を傷つけようとは、夢にも思わなかったのです。何と言う皮肉でしょう。何と言う恐ろしい皮肉でしょう。」  母の心の悶えは、ますます烈しくなって行くようだった。 「わたしの生活が、破産する日が、とうとう来たのです。わたしの生活の罰が、わたしの最も愛する貴方の上に振りかかって来ようとは。」  瑠璃子の声はかすかに震えていた。 「わたしは、今までどんな人から、どんなにわたしの生活を非難されても、ビクともしなかったのです。わたしの生活態度のために、犠牲者が出ようとも、ビクともしなかったのです。わたしは、孔雀のように勝ち誇っていたのです。全ての男性を踏み躙っていたのです。が、男性ばかりを踏み躙っているつもりで、得意になっていると、その男性に交じって、女性/ しかもわたしには一番親しい女性を踏み躙っていたのです。」  瑠璃子は、そう言い切ると、じっと-オモテを垂れたまま黙ってしまった。  美奈子は、母の真剣な言葉に依って、胸をヒタヒタと打たれるように思った。母が、自分のために何物をも犠牲にしようと言う心持ち、自分を傷つけたために、母が感じている苦悶、そうしたものが美奈子に、ヒシヒシと感ぜられた:、自分をこれほどまで、愛してくれる母には、自分も全てを犠牲にしてもいいと思った。 「お母様/ もう何も、仰って下さいますな、わたし、青木さんのことなんか、本当に何でもないのでございます。」  美奈子は、白いホオを夜目にも、分かるほど真っ赤にしながら、恥ずかしげにそう言った。 「いいえ! 何でもないことはありません。乙女の初恋は、もう二度とは’得がたい宝玉です。初恋を破られた乙女は、人生の半ばを踏み潰されたのです。美奈さん、わたしにはその覚えがあります。その覚えがあります。」  そう言ったかと思うと、あれほど気丈な凛々しい瑠璃子も、顔に袖を掩うたまま、しばらく咽びいってしまった。 「わたしには、その覚えがありますから、貴方のお心が分かるのです。身に比べてしみじみと分かるのです。」  母にそう言われると、今まで抑えていた美奈子の悲しみは、堤をきられた水のように、彼女の身体を浸した。彼女の激しいすすり泣きが、瑠璃子の低いそれを-あっしてしまった。  瑠璃子までが、昔の彼女に帰ったように、二人はいつまでもいつまでも泣いていた。  が、先に涙を拭ったのは、美奈子だった。 「お母様/ 貴方は、決してわたしにお詫びをなさるには、当たりませんわ。本当に悪いのは、お母様ではありません。わたしの父です。お母様の初恋を蹂躙した父の罪が、わたしに報いて来たのです。父の犯した罪が子のわたしに報いて来たのです。お母様のせいでは決してありませんわ。」そう言いながら、美奈子はしくしくと泣きつづけていたが、「が、わたし今晩、お母様のわたしに対するお心を知ってつくづく思ったのです。お母様さえ、それほどわたしを愛して下されば、世の中の全ての人を失ってもわたしは淋しくありませんわ。」  そう言いながら、美奈子は母に対する本当の愛で燃えながら、母のそばにすり寄った。瑠璃子は、彼女の柔らかいふっくりとしたナデカタを、白い手で抱きながら言った。 「本当にそう思って下さるの。美奈さん! わたしもそうなのよ。美奈さんさえ、わたしを愛して下されば、世の中の全ての人を敵にしても、わたしは寂しくないのです。」  二人は浄い愛の火に焼かれながら、夏の夜の宵闇に、その白いホオと白いホオとを触れ合わせた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第26話】 【火を煽る者】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  青年の身体は、燃えた。  激しいフンヌと恨みとのために、火の如く燃え狂った。  彼は、その燃え狂う身体を、何物かに打ち突けたいような気持ちで走った。闇の中を、滅茶苦茶に走った。闇の中を、礫のように走った。滅茶苦茶に、走りでもするほか、彼の嵐のような心を抑える方法は何もなかった。木にでも、石にでも、当たれば当たれ、川にでも谷にでも落ちらば落ちれ、彼はそうしたデスペレートな気持ちで、ケダモノのように/風のように、ただ走りに走った。  強羅の電車停留場まで、一気に駆け降りたけれども、そこには電車の影は、なかった。彼は、そこにニサンプンカン待ったが、心の底から沸々と湧き上がっている感情の嵐は、彼を1分もじっとさせていなかった。電車を待っているような心の落ち着きは、少しもなかった。彼は、宮の下まで、走りつづけようと決心した。そう決心すると、前よりは、もっと激しい勢いで、別荘が両方に立ち並んだ道を、一散に駆け始めた。  初め駆けている間、彼の頭には、何もなかった。ただ、彼をあんなに辱めた瑠璃子の顔が、彼の頭の中で、大きくなったり、小さくなったり、幾つにも分かれて、巴のように渦巻いたりした。  が、だんだん走りつづけて、早川の岸に出たときには、彼の身体が、疲れるのと一緒に、疲労から来る落ち着きが、彼の狂いかけていた頭を、だんだん冷静にしていた。  彼の走る速力が緩むのと同時に、彼’の頭は、だんだんいろいろな事を考え始めていた。  彼が、死んだ兄と一緒に、ショウダの家へ、出入りし始めた頃のことなどが、ぼんやりと頭の中に浮かんで来た。  ショウダ夫人の美しい端麗な容貌や、その溌剌として華やかな動作や、その秀れた教養や趣味に、兄も自分も、若い心を、引き寄せられて行った頃の思い出が、後から後から頭の中に浮かんで来た。  夫人が、多くの男性の友達の中から、特に自分たち兄弟を愛してくれたこと、従って自分達も、頻りに夫人の愛を求めたこと:、そのうちに、兄が夫人に熱狂してしまったこと、兄が夫人の愛を独占しようとしたこと、自分が兄に対して軽い嫉妬を感じたこと、そうしたことが、とりとめもなく、彼’の頭の中に浮かんだ。  実際、自分の兄が、夫人に対して、熱愛を懐いていることを知ったとき、彼は兄に対する遠慮から/心ならずも、夫人に対する愛を抑えていた。  突然な兄の死は、彼を悲しませた。が、それと同時に、彼の心の裡の兄に対する遠慮を取り去った。彼は、兄に対する遠慮から、抑えていた心を、自由に夫人に向かって放った。  夫人は、それを待ち受けていたように、手をさし延べてくれた。兄の偶然な死は、夫人と彼とを忽ち接近せしめてしまった。  彼は、夫人から、蜜のような甘い言葉を、幾度となく聴いた。彼は、夫人が自分を愛していてくれることを、疑う余地は、少しもなかった。  彼はチ-ョクサイに夫人に結婚を求めた。 「わたしも、ぜひそうしていただきたいのよ。でも、もう少し考えさせて下さいよ。貴方、箱根へ一緒に行って下さらない。わたし、この夏は、箱根で暮らそうと思っていますのよ。箱根へ行ってから、ゆっくり考えてお答えしますわ。」  夫人は、美しい微笑でそう言った。  箱根へ同行を誘ってくれる! それは、もうキュウブまでの承諾であると彼は思った。  箱根に於ける避暑生活は、彼に取って地上の極楽である筈であった。  思いきや、そこに地獄の口が開かれていようとは。 「裏切者め!」  青年は、走りながら、思わず右の手のステッキを握りしめた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  ホテルの門に辿り着いたときにも、長い道を駆け続けたために、身体こそやや疲れていたものの、彼のフンヌは少しも緩んではいなかった。部屋へ飛び込めば、すぐトランクの中へ、全てのものを投げ込むのだ。もう、こんな土地には1分だっていたくない。彼女が、帰って来ない裡に、一刻も早く去ってしまうのだ。  彼は心の裡で、そうした決心を堅めながら、激しい勢いで、玄関へ駈け上がった。そこに立っていたボーイが、彼の面色を見ると、驚いて目を眸った。それも、無理はなかった。彼’の眼は血走り、色は青ざめ、広い白いヒタイに、一条の殺気が-ほとばしって、温和な上品ないつもの彼とは、別人のような、血相を示していたからである。が、ボーイが、驚こうが驚くまいが、そんなことはどうでもよかった。彼は驚いたボーイを尻目にかけながら、廊下を走るように駆け過ぎて、廊下の端にある二階への階段を、激しく駆け上がろうとしたときだった。彼は余りに急いだため、余りに夢中であったため、ちょうどその時、上から降りようとした人に、激しくぶっつかってしまった。  余りに強く突き当たったため、彼の疲れていた身体は、ひょろひょろとして、ニサン段’よろけ落ちた。 「いやあ。失礼/」  相手の人は、驚いて彼を支えた。が、衝突の責任は、無論-こっちにあった。 「いいえ。僕こそ。」  彼は、そう答えると、軽く会釈したままで、相手の顔も、碌々見ないで、そのまま階段を駆け上がった。  が、彼がロクシチ段も、駆け上がったときだった。まだ立ち止まって、じっと彼の後ろ姿を見ていた相手の男が、急に声をかけた。 「青木君/ 青木君じゃありませんか。」  不意に、自分の名を呼ばれて、青年は驚いた。彼は、思わず階段の中途に、立ち竦んでしまった。 「ええっ!」  青年は、返事とも驚きとも分からないような声を出した。 「間違っていたらごめん下さい! 貴方は、青木君じゃありませんか。あの、青木淳くんの弟さんの。」  相手は、階段の下から、上を見上げながら、落ち着いた声でそう訊いた。青年は、やや仄暗い電灯の光で、振り上げた相手の顔を見た。意外にも、それはさっき散歩へ出るときに、玄関で逢った、彼の見知らない紳士であった。彼は、どうしてこの男が、自分の名前を知っているのだろうかと、不審に思いながら答えた。 「そうです。青木です。ですが、貴方は‥‥。」  青年は、ちょっと相手が、無作法に呼び止めたことを咎めるように訊き返した。 「いや、ご存じないのは、もっともです。」  そう言いながら、紳士は階段をニサン段上りながら、青年に近づいた。 「お兄さんの知人と言っても、ホンのお知合になったと言うだけに過ぎないのですが、しかしその‥‥。」  紳士は、ちょっと云い澱んだ。青年は、自分がいらいらし切っているときに、何の差し迫った用もなさそうな人から、ただ兄の知人であると言った理由だけで、呼び止められるのに堪えなかった。 「そうですか。それでは、またいずれ、ゆっくりとお話ししましょう。ちょっと只今は、急いでいますから。」  そう言い捨てると、青年は振り切るように、残った階段を駆け上ろうとした。  すると、紳士は意外にも、しつこく青年を呼び止めた。 「ああ/ちょっとお待ち下さい。私も急に、貴方にお話ししたいことがあるのです。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「急に話したいことがある。」未知の男からしつこく言われると、青年はむっとした。何と言う執拗な男だろう。何と言う無礼な男だろうと腹立たしかった。 「いや、どんな急なお話かも知れませんが、僕はこうしては-いられないのです。」  青年は、そう言い切ると、相手を振り払うように、階段を駆け上ろうとした。が、相手はまだ諦めなかった。 「青木君/ ちょっとお待ちなさい。貴方は、お兄さんからの言伝を聴こうとは思わないですか。そうです、貴方に対する言伝です。特に、現在の貴方に対する言伝です。」  そう言われると、青年はさすがに足を止めずには-いられなかった。 「言伝/ 死んだ兄から、そんな馬鹿な話があるものですか。」  青年は嘲るように、言い放った。 「いや、あるのです。それがあるのです。私は、貴方のお顔の色を見ると、それを言わずには-いられなかったのです。貴方は、今かなり危険な深淵の前に立っている。私は貴方がムザムザその中へ陥るのを見るに忍びないのです。お兄さんに対する私の義務として、どうしても一言だけ、注意をせずには-いられないのです。」  そう言いながら、相手は青年と同じ階段のところまで上って来た。 「危険な深淵/ そうです。貴方のお兄さんが、誤って陥った深淵へ貴方までが、同じように落ちようとしているのです。」  青年は、改めて相手の顔を見直した。相手がかなり真面目で、自分に対して好意を持っていてくれることが、すぐ分かった。が、相手が妙に、意味ありげな言い回しをすることが、彼のいらいらしている神経を、更にいら立たせた。 「それが一体どう言うことなのです。僕には少しも分かりませんが。」  青年は、腹立たしげに、相手を叱するように言った。 「それでは、もっと具体的に言いましょう。青木君/ 貴方は、一日も早く、ショウダ夫人から遠ざかる必要があるのです。そうです。一日も早くです。あの夫人’は、貴方の身体を呑んでしまう恐ろしい深淵です。貴方のお兄さんは、それに呑まれてしまったのです。」  紳士は、そう言って、じっと青年の顔を見詰めた。 「貴方は、兄さんの誤ちを再び繰り返してはなりません。これは、私の忠告ではありません、死んだ兄さんのお言伝です。よくお心に止めて置いて下さい!」  そう言うかと思うと、紳士はちょっと青年に会釈したまま、階段をスタスタと降りかけた、もう言うだけのことは、スッカリ言ってしまったと言うふうに。  今度は、青年のほうが、狼狽して呼び止めた。 「待って下さい! 待って下さい! そんなことを本当に兄が言ったのですか。」  紳士は顔だけを振り向けた。 「文字通りに、そう言われたとは言いません。が、それと同じことを私に言われたのです。」 「いつ! どこで?」  青年は、かなり焦って訊いた。 「お兄さんが死なれるすぐ前です。」  そう言って、紳士は淋しい微笑を洩らした。 「死ぬすぐ前? それでは貴方は、兄の臨終に居合わしたと言うのですか。」  青年は、かなり緊張して訊いた。 「そうです。貴方のお兄さんの臨終に居合わした/たった一人の人間は私です。お兄さんの遺言を聴いたたった一人の人間も私です。」  紳士は落ち着いて、静かに答えた。 「ええっ! 兄の遺言を。一体’兄は何と言ったのです。何と言ったのです。その遺言を貴方が、今まで遺族の者に、隠しているなんて!」  青年は、相手を詰問するように言った。 「いや、決して隠してはいません。現在’貴方に、その遺言を伝えているじゃありませんか。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  紳士の言葉は、もう青年の心の底まで、喰い入ってしまった。 「本当に、貴方は兄の臨終に居合わしたのですか。それで、兄は何と言いました。兄は死際に何と言いました?」  青年は、昂奮し/焦った。 「いや、それに就いて、貴方にゆっくりお話ししたいと思っていたのです。ここじゃ、どうもお話ししにくいですが、いかがです僕の部屋へ。」  紳士はかなり落ち着いていた。 「貴方さえお差し支えなけりゃ。」 「じゃ、僕の部屋へ来て下さい。ちょうど妻は、湯に入っていますので誰もいませんから。」  紳士の部屋は、階段を上ってから、左へ二番目の部屋だった。  紳士は、青年を自分の部屋に導くと、彼に椅子を勧めて、自分も青年と二尺と隔らずに相対して腰を降ろした。 「申し遅れました。僕は渥美と言うものですが。」  そう言って紳士は、改めて挨拶した。 「いや、実は避暑に出る前に、貴方に一度是非お目にかかりたいと思っていたのです。貴方にお目にかけたいもの、貴方に申し上げたいこともあったのです。それで、それとなく貴方のお宅へ電話をかけて、貴方の在否を探って見ると、意外にも宮の下へ来ていられると言うのです。それで、実は私は小涌谷のホウへ行くつもりであったのですが、貴方にお目にかかれはしないかと言う希望があったものですから、二三日、ここへ泊まって見る気になったのです。それが、意外にもホテルの玄関で貴方にお目にかかろうとは、貴方ばかりでなくショウダ夫人にお目にかかろうとは。」  紳士はちょっと意味ありげな微笑を洩らしながら、 「実は、お兄さんが遭難されたとき、同乗していたと言う一人の旅客は私なのです。」 「ええっ!」  思わず、青年は、驚きの目を眸った。 「お兄さんの死は、形は奇禍のようですが、心持ちは自殺です。私は、そう断言したいのです。お兄さんは、死に場所を求めて、三保からズソウの間を彷徨っていたのです。奇禍が偶然にお兄さんの自殺を早めたのです。」  紳士の表情は、かなり厳粛であった。彼が、いい加減なことを言っているとは、どうしても思われなかった。 「自殺/ 兄はそんな意志があったのですか。」  青年は驚きながら訊いた。 「ありましたとも。それは、貴方にもすぐ判りますが。」 「自殺/ 自殺の意志。もしあったとすれば、それは-なんのための自殺でしょう。」 「ある婦人のために、弄ばれたのです。」  紳士は苦々しげに言った。 「婦人のために、弄ばれる。」  そう繰り返した青年の顔は、見る見る’色を変えた。彼は、心の中で、ある恐ろしい事実にハッと思い当たったのである。 「それは本当でしょうか。貴方は、それを断言する証拠がありますか。」  青年の眼は、興奮のために爛々と輝いた。 「ありますとも。お兄さんの遺言と言うのも、お兄さんを弄んだ婦人に対して、お兄さんの恨みを伝えてくれと言うことだったのです。」 「ううむ!」  青年は、低く呻るように答えた。 「実は、私はその恨みを伝えようとしたのです。が、その婦人は、恨みを物の見事に跳ねつけてしまったのです。そればかりでなく、死んだお兄さんを辱めるようなことまでも言ったのです。その婦人はお兄さんを弄んで、間接に殺しながら、その責任までも逃れようとしているのです。青木さんが、自殺の決心をしたとしても、それは私のせいではありません、あの方の弱い性格のせいだと、その婦人は言っているのです。そればかりではありません‥‥。」  紳士も、自分自身の言葉にかなり興奮してしまった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  紳士は興奮して叫び続けた。 「そればかりではありません。青木君を弄んで間接に殺しながらまだそれにも懲りないで、青木君の弟である‥‥。」 「ああ/もう沢山です。」青年は、相手に縋り付くような手付きをして言った。「判りました、よく判りました。が、証拠がありますか? 兄が弄ばれて、自殺を決心したと言う証拠がありますか?」  青年の眸は必死の色を浮べていた。 「ありますとも。お見せしましょう。が、そう興奮しないで、ゆっくり気を落ち着けて下さい。」  そう言いながら、紳士は椅子を離れると、部屋の片隅に置いてある大きなトランクに近づいて、それを開きながら、中から一冊のノートを取り出した。 「これです。この筆蹟には覚えがあるでしょう。」  そう言いながら、相手はノートを、籐のテーブルの上に置いた。青年は、焼き付くような眼で、それをじっと見詰めた。表紙の青木淳と言う字が、いかにも懐しい兄の筆蹟だった。 「じゃ、拝見します。」  彼はかすかに、震える手付きで、そのノートを取り上げた。  恐ろしい沈黙が部屋の中に在った。ノートのページのめくられる音が、ときどき気味悪くその沈黙を破った。  2分/3分、青年は、だまって読みつづけた。その中に、青年の腰かけている椅子が、かすかな音を立て始めた。見ると、青年の身体が、怒りのために激しく震えていたのである。 「どうです! これほど、確かな証拠はないでしょう。遭難当時のお兄さんの心持ちが、ハッキリ解っているでしょう。途中で、奇禍に逢われなかったら、お兄さんはきっと、熱海かどこかで、自殺をしておられる筈です。」  紳士は、ノートを覗き込むようにしながら言った。  青年の顔は、恐ろしい感情の激発のために、紫色にふくらんでいた。  紳士は、青年の感情をもっと狂わすように言った。 「そこにプラチナの時計のことが、書いてあるでしょう。お兄さんは、死なれる間際に、その時計を返してくれと言われたのです。偶然にも、その時計は、その偽りの贈り物は、お兄さんの血で、真っ赤に染められていたのです。衝突のときに、ガラスが壊れたと見え、血が時計の胴ににじんでいたのです。」 「それをどうしました。それをどうしました。」  青年は、激情のために、半ば狂っていた。 「無論、それを返したのです。私は、お兄さんの心持ちを酌んで、それを叩き返してやろうと思ったのです。それを返しながら、お兄さんの怨みを、知らせてやろうと思ったのです。ところが、残念にも、私はそれを、手もなく捲き上げられてしまったのです。あの方は、妖婦です。僕達には、とてもまともに太刀打ちは出来ない人です。」 「妖婦/ 妖婦/」  青年は狂ったように、口走った。 「いや、その点で私はお兄さんの、委託に背いてしまったのです。取り返しの付かないことをしてしまったのです。が、その代わり、私は貴方をどうかして、救いたいと思ったのです。お兄さんに対する僕の責任として、貴方が同じ過ちを犯すのを、どうかして救いたいと思ったのです。私は、そのために、あの方に頼んだのです。青木君に対する貴方の後悔として、青木君の弟だけは弄んでくれるな。弟さんだけはどうか、誘惑してくれるな。私は、そう言って事を別けて頼んだのです。それだのに、彼女はそれを冷然と跳ね付けたのです。いや、撥ね付けたばかりではありません。私のそうした依頼を嘲るように、いやそれに対する意地のように、わざと貴方を一緒に連れて来ているのです。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  青年のオモテが、火のような激憤で、埋まるのを見ると、紳士はそれを宥めるように言った。 「いや、貴方がお怒りになり、お驚きになるのももっともです。が、ああした人には、近寄らないのが万全の策です。貴方が怒って先方にぶつかって行くと、いよいよ相手の術策に陥ってしまうのです。あの方の張っている蜘蛛の網の中で/手も足も出なくなってしまうのです。ただ、一刻も早くここを去られるのが得策です。いや、ここばかりではありません。夫人の周囲から、絶対に去られるのが得策です。触らぬ神に祟りなしと言う言葉があります。まして、相手は特別、恐ろしい女神ですから。ハハハハハハハ。」  紳士は軽く笑った、話が、余り緊張して来たのを、わざと緩めようとして。 「しかし、とにかく私としては、これでお兄さんに対する責任を少しは尽したように思うのです。そう言う意味で、貴方が僕の言うことを、よく聴いて下さったのを有難く思うのです。いや、私が一歩遅かったら、貴方もどんな目に逢っているかも知れなかったのです。」  紳士は、自分の忠告が間に合ったことを、喜ぶような顔色を示した。が、彼の忠告は間に合っただろうか。いな、彼の忠告は、ツーレート(後の祭)だった。一時間だけ、遅れ過ぎた。  彼の忠告は、災禍の火を未然に消す風とならずして、却ってその火を煽り立てた。彼が、夫人の危険を説いたときに、青年はもう、夫人から弄ばれていたのだ。否、弄ばれたと思っていたのだ。夫人から、弄ばれた恨みと憤りとに、燃えていた青年の心を、彼はいやが上に煽った。 『お前ばかりではない、お前の肉親の兄も、あの女に弄ばれて、身を誤ったのだ! 身を滅ぼしたのだ!』と。 「いや! ご忠告ありがとう! ご忠告ありがとう!」  青年は、そう言いながら立ち上がった。が、あまり興奮した為だろう、彼は、眼が眩んだように、よろめいた。  紳士は、あわてて、青年の身体を支えた。 「いや、あまりに興奮なさっては困りますよ。お心を落ち着けて、気を静めて!」  が、青年はそれを振り切った。 「いや、捨てて置いて下さい! 大丈夫です、大丈夫です!」  そう言いながら、青年は廊下へよろめきながら出た。『大丈夫です!』と、口では言ったものの、彼はもう決して、大丈夫ではなかった。  彼’の頭の中には、激情の嵐が吹き荒れた。怒りと恨みとの洪水が漲った。理性の燈火は、もうふッつりと消えてしまっていた。 「兄を弄んだ上に、この俺を!」  そう思うと、彼の全身の血は、怒りのためにぐんぐんと煮え返った。 「兄を弄んで間接に、殺して置きながら、まだフタツキと経たない今、この俺を! 箱根まで誘い出して、謂われのない恥辱を与える!」  そう考えると、彼の頭の裡は、燃えた。体中の筋肉が、異様に痙攣した。  もう世の中の他の全ては、彼の頭から消え去った。国家も社会も法律も、父も母も妹も、恐怖も羞恥も、愛も同情も。ただ恐ろしい憎しみだけが残った。その憎しみは、爆発薬のような激しさで、彼’の胸の裡をジュウオウにのたうった。  そうした彼の心の裡に、焼き付いたように残っているのは、さっき読んだ兄の手記中の一節だった。 『そうだ、いっ-そ死んでやろうか-しら。純真な男性の感情を弄ぶことが、どんなに危険であるかを、彼女に思い知らせるために。』  が、兄が死んでも彼女は、少しも思い知ろうとはしなかった。兄の死を冷眼視するほど、彼女が厚顔無恥であるとしたならば、彼女を思い知らせるには、そうだ! 彼女を思い知らせるには。  そう考えたとき、彼の全身の血は、海嘯のように、彼の狂いかけた頭へギャクジョウして来た。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第27話】 【破裂点】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  強羅公園で、お互いの心からなる浄い愛に、溶け合った美奈子と瑠璃子とが、そこに一時間以上も費して、宮の下へ帰って来たのは、夜の10時を回った頃だった。  二人とも、心の裡では、青年のことが気になっていたけれども、それを口に出すことを-避け合った。  が、部屋へ入ったとき、瑠璃子はさすがに青年の寝室のドアに立ち寄って、そっと様子を窺った。 「もう、青木さんは寝たのかしら。」  そう言って、彼女はドアに手をかけて見た。それはいつもになく内部から、鍵が、かけられたと見え、ビクリとも動かなかった。 「ああ。もう、寝ていらっしゃる!」  瑠璃子は、やっと安堵したように言った。  美奈子と瑠璃子とが、同じ寝室に入って、ベッドの中に横わったのは、もう十一時を回った頃だった。  電灯を消してからも、美奈子は母と暫くの間、言葉を交えた。その裡に、十二時が鳴った。彼女は、驚いて眠りに入ろうとした。が、その夜の激しい経験は、──彼女が生まれて以来’初めて出会ったような複雑な、激しい出来事は、彼女の神経を、極度に掻き乱していた。彼女が、いくら眠ろうとあせっても、意識は冴え返って、さっきの恐ろしい情景が、頭の中で幾度も幾度も、繰り返された。青年の凄いほど、緊張した顔が、彼女の頭の中を、巴のように駆け回った。  眠ろう眠ろうと-あせればあせるほど、神経がますますいらだって来た。記憶が、異常に興奮して、自分の生い立ちや、母の死や父の死や、兄の事などが、頭の中に次々に思い浮かんで来た。  その裡に一時が鳴った。  瑠璃子も、ベッドの中で、暫くの間は、眠り悩んでいたようだったが、その裡に、おだやかな鼾の声が聞え始めた。  母が、眠りに就いたのを知ると、美奈子はますますあせっていた。口の中で、数を算えて見たり、深呼吸をして気持ちを落ち着けようと試みたりした。が、それもこれも無駄だった。さっき聴いたばかりの青年の怨みの声が、落ち着こうとする美奈子の心の裡に、幾度も幾度も甦って来た。  その裡に、二時が鳴った。  激しい興奮のために、頭も眼も、疲れ切っていながら、それが妙にいらいらして、眠りはどうしても来なかった。  その裡に、とうとう三時が鳴った。  さすがに、彼女の意識は疲れてしまった。不快な、重くるしい眠りが、彼女のぐたぐたになった頭脳を蝕み始めていた。うつつともなく夢とも無いような、いやな半睡半醒の状態が、暫く続いた。彼女はとろとろとしたかと思うと、ハッと気が付いたり、気が付いたかと思うと、深い泥沼の中に、引きずり込まれるように、いやな眠りの中に、陥って行ったりした。  彼女が、砂を噛むような-うつつと、胸ぐるしい悪夢との間に、さまよっていたときだった。彼女は、何者かが自分を襲って来るような、無気味な感じがした。寝室のドアが、かすかに動いているような感じがした。自分に襲いかかっている人の足音を聴くような気がした。が、それが夢であるか-うつつであるか確かめる気にもなれないほど、彼女の意識は’混沌としていた。  とうとう、悪夢が、彼女を囚えてしまった。彼女は母と一緒に田舎道を歩いていた。それが、死んだ母のようでもあり、現在の母であるようにも思われた。ふと、地平の端に白い何物かが現れた。それが矢のような勢いで、彼女達のホウへ向かって来た。つい、目の前の小川を飛び越したとき、それが白い牡牛であることが、判った。狼狽している美奈子達を目がけて激しい勢いで殺到した。美奈子は悲鳴を挙げながら、逃げた。牡牛は、逃げ遅れた母に迫った。美奈子が、アッと思う間もなく、牡牛の鉄のようなツノは、母の脇腹を抉っていた。母の、恐ろしい呻りごえが美奈子の魂を慄かしたが、母の呻き声を聴いた途端に、悪夢はきれた。が、不思議に呻き声のみは、なお続いていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  悪夢の裡に聴いた呻き声を、美奈子は夢うつつの間に聞き続けていた。 「ううむ! ううむ!」  ハラワタを断つような呻き声が、だんだん彼女の耳の近くに聞え始めた。彼女の意識が、醒めかかるに連れてその呻き声はだんだん高くなった。 「ううむ! ううむ!」  彼女は、とう-とうベッドの上に覚めた。覚めたと同時に、彼女は冷水を浴びたような悪寒を感じた。 「ううむ! ううむ!」  ひきしぼるような悲鳴は、彼女の身辺からマザマザと起こっているのであった。 「お母様/」  それは、悲鳴だった。 「お母様/ お母様/」  美奈子は、続けざまに、縋り付くような悲鳴を揚げた。  母の答えはなかった。  低い、絞り出るような悲鳴が、物凄く闇の中に起こっているだけだった。 「あ! お母様/」  美奈子は、堪らなくなって、ベッドから-まろび落ちた。  母のベッドは、二尺とは離れていなかった。彼女が、震える手を、ベッドのイッタ-ンにかけたとき、生温かい液体が、彼女の手にベットリと、触れた。 「お母様/」彼女の声は、わなわなと震えていた。  彼女の手は、母の胸に触れた。母の華奢な肉体が、手の下でかすかにうごめいた。 「お母様/ お母様/ どう遊ばしたのです。」彼女は、懸命の声を揚げた。  低い呻き声が、しばらく続いていた。 「お母様/ お母様/ 気を確かになさいませ。」美奈子は、狂ったように叫んだ。  母は、激しい苦悩の下から、しぼり出すように答えた。 「明かりを! 明かりを!」  傷つける者、/死なんとする者が、第一に求めるものは光明だった。  美奈子は立ち上がって電灯を探し求めた。あわてているせいか、電灯がなかなか手に触れなかった。  が、ようやくスイッチを-ひねったとき、明るい光は、痛ましい光景を、マザマザと照し出した。母の白い寝巻、白いシーツ、白い毛布に、夜目には赤黒く見える血潮が、ベタベタと一面ににじんでいる。 「アッ!」  美奈子は、ひと目’見ると床’の上に、よろめきながら打ち倒れた。が、母を気遣う心が、すぐ彼女を起ち上らせた。 「お母様/ しっかり-なさいませ!」  彼女は、そう叫びながら、母に縋り付いた。致命の傷を負いながら、彼女は少しも取り乱した様子はなかった。右の脇腹の傷口を、両手でじっと押えながら、全身を掻きむしるほどの苦痛を、その利かぬ気で、その凛々しい気性で、じっと-こらえているのだった。  彼女のかよわい肉体の血は、彼女が抑えている両手の間から、惜しげもなく流れ出しているのだった。  美奈子も一生懸命だった。自分のベッドのシーツを取ると、それを小さく引き裂いて、母の傷口を/幾重にも幾重にもくくった。 「お母様/ 気を確かになさいませ。すぐ医者を呼びますから。」  彼女は、母の耳元に口を寄せて、必死に呼んだ。それが、耳に入ったのだろう、母は、かすかに頭を動かした。大理石のように、ツヤのあった白いホオは、青ざめて、美しい眼は、にぶい光を放ち、眉は釣り上がり、唇は刻一刻’紫色に変わっていた。  美奈子が、寝室を出て、居間のほうにある卓上の電話を取り上げたときだった。彼女は、青年の寝室のドアが開かれて、そこにベッドが空しく横たわっているのを知った。  恐ろしい悲劇の実相が、彼女にはっきりと判った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  医者が来るまで、瑠璃子は恐ろしい苦痛に悶えていた。が、彼女はその苦痛を、じっと-こらえていた。華奢な身体に、致命の傷を負いながら、彼女は悲鳴ひとつ揚げなかった。ただ抑え切れない苦痛を、低いうめき声に洩らしているだけであった。  美奈子のほうが、却ってギャクジョウしていた。彼女は、母の胸に縋りながら、 「お母様/ しっかりして下さい。しっかりして下さい!」と、おろおろ叫んでいるだけだった。  その裡に、瑠璃子は、ふと閉していた眼を開いた。そして、/異様な光を帯び始めた眸で、じっと美奈子を見詰めた。 「お母様/ お母様/ しっかりして下さい!」  美奈子は、泣き声で叫んだ。 「美奈さん!」  瑠璃子は、身体に残っている力を、振りしぼったような声を出した。 「わーたーし、わたし今度は、もう──駄目かも知れないわ。」  一語二語、ハラワタから、絞り出るような声だった。 「お母様/ そんなことを! 大丈夫でございますわ、大丈夫でございますわ。」 「いいえ! わたし、覚悟していますの。美奈さんには、すみませんわね。」  そう言った母の顔は、苦痛のために、ピクピクと痙攣した。  美奈子は、ワアッ! と泣きださずには-いられなかった。 「それで、わたし貴方に、お願いがあるの。あの、電報を打つときに、神戸へも打っていただきたいの!」  瑠璃子は、恐ろしい苦痛に堪えながら、途切れ途切れに話しつづけた。 「神戸/ 神戸って、どなたにです?」  美奈子は、怪しみながら訊いた。 「あの、あの。」瑠璃子は苦痛のために、言い澱んだようだったが、「あの、杉野直也です。わたし、新聞で見たのです。月初めに、ボルネオから帰って、神戸の南洋’貿易会社にいる筈です。死ぬ前に一度’逢えればと思うのです。」  瑠璃子は、やっと喘ぎながら言い終ると、精根が全く尽きたように、ガクリとくずおれてしまった。  二年の間、恋人のことを忘れはてたように見せながらも、シンは心の底深く思い続けていたのであろう。恋人の消息を、よそながら、貪り求めていたのであろう。  医者が、来たのは夏の夜が、はや-しらじらとあけ始める頃であった。  一時間近くもかかったために、瑠璃子は、多量の出血のために、昏々として人事不省の裡にあった。  内科専門の”まだ年若い医者は、覚束ない手付きで、瑠璃子の怪我を見た。  それは、かなり鋭いナイフで、右の脇腹を一突き突いたものだった。/傷口は小さかったが、深さは三寸’を越していた。 「重傷です。私は応急の手当てをしますから、すぐ東京から、専門のかたをお呼び下さい。今のところ命には、別条ないと思いますが、しかし最も余病を併発し易い個所ですから、何とも申せません。」  医者の眉は、憂わしげに曇った。  いたいけな美奈子には、背おい切れないような、大切な仕事を、彼女は激しい悲嘆と驚きとの裡に処理せねばならなかった。その中で、一番厭だったのは、医者が去るのと、入れ違いに入って来た巡査との応答だった。 「加害者は、逃げたのですか。」  美奈子は、何とも答えられなかった。 「その青木と言う学生と、貴方のお母様はどう言うご関係があったのです。」  美奈子は、何とも答えられなかった。 「何か兇行をするに就いて、最近の動機ともなったような事件がありましたでしょうか。」  美奈子は、何とも答えられなかった。ただ、彼女自身、恐ろしい罪の審問を受けているように、心が千々にさいなまれた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  夜は明け放たれた。今日も真夏の、明るい太陽が、箱根の山々を輝々として、照し始めた。が、人事不省の裡に眠っている瑠璃子は、昏々として覚めなかった。生と死の間の懸崖に、彼女の-ほそき命は一縷の糸に依って懸っていた。  その日の二時すぐる頃、美奈子の打った急電に依って、予て美奈子の傷を治療したことのある外科の泰斗’近藤博士が、駆け付けた。が、博士に依って、あらゆる手当てが施されたあとも、瑠璃子の意識は返って来なかった。  その前後から、激しい高熱に襲われ始めた瑠璃子は、取りとめもない譫言を言いつづけた。その譫言の中にも、美奈子は、母が直也と呼ぶのを幾度となく聴いた。  夕暮れになって、瑠璃子の父の老男爵が駆け付けた。瑠璃子の近来の行状を快く思ってはいなかった男爵は、その’娘と一年近くも会っていなかった。が、死相を帯びながら、瀕死のトコに横わっている瑠璃子を見ると、老いた男爵の眼からは、涙が、潸然としてほうり落ちた。娘のこうした運命が、9ブまでは自分の責任だと思うと、娘の額に手をやった男爵の手は、わなわな震えずにはいなかった。  美奈子は、母の兄なる光一にも、電報を打ったけれども、恐らく彼は東京を離れていたのだろう、夜になっても姿を見せなかった。  東京から急を聴いて駆け付けた女中や、執事などで、瑠璃子のトコは賑やかに取巻かれた。が、母を──肉親は繋がっていなくとも心の内では母’とも-あねとも思う瑠璃子を、失おうとする美奈子の心細さは、時の経つと共に、だんだん募って行った。  ちょうど夜の10時に近い頃だった。母はやや安眠に入ったと見え、譫言が、暫らく途絶えて、いやな静けさが、部屋の裡に、漂っていたときだった。廊下に面したドアを、低く、聞えるか聞えないかに、トントンと打つ音がした。女中が立ってそれを開いたが、すぐ美奈子の所へ帰って来た。 「あの、お嬢さま。ホテルの支配人の方が、ちょっとお目にかかりたいと申しております。」  美奈子は、立ち上がってドアの所へ行った。 「どうか、ちょっとこちらへ。」  支配人は、美奈子に廊下へ出ることを求めた。美奈子が、ちょっと不安な気持ちに襲われながら、続いて廊下へ出ると、支配人は声をひそめた。 「お取込みの中を、大変恐れ入りますが、いま箱根町から電話がかかっているのです。実は蘆の湖でコンセキ/水死ニンの死体が上がったと言うのですが、それが二十サンシの学生ふうの方で、舟の中に残して置いたスウツウの遺書で見ると、富士屋ホテルにて、青木、と書いてあったと言うのです。」  そこまで、聴いたとき、美奈子は自分の立っている廊下の床が、ズーッと落ち込むような感じがしたかと思うと、支配人が驚いて彼女の右の肩口を捕えていた。 「ああ/危ない! しっかりして下さい!」  彼女は、最後の力で、自分のよろめく足を支えた。が、暫くの間、天井と床とがグルグル回るような気がした。 「いや、お驚かせしてすみません、ただ青木さんの東京のお処だけが承りたかったのです。」  美奈子が、震える声で、それに答えると、支配人は幾度も詫びながら、倉卒として去った。  もう、美奈子の弱い心は、人生の恐ろしさに、打ち砕かれてしまっていた。彼女が部屋へ帰って来たとき、彼女の顔色は、傷ついている瑠璃子のそれと少しも変わっていなかった。  が、ちょうどその時に、瑠璃子は長い昏睡から覚めていた。美奈子の顔を見ると、彼女は懐しげな眸で/物を言いたそうにした。 「お母様/ お気が付きましたか。」  少し明るい気持ちになりながら、美奈子は母の耳許で叫んだ。 「ああ、美奈さん。まだ? まだ?」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  消えかかる灯のように、瑠璃子の命は、絶えんとして、また続いた。  翌日になって、彼女のネツはだんだん下がって行った。傷の痛みも、だんだん薄らいで行くようだった。が、衰弱が、いたましい衰弱が、彼女の凄艶なオモテに、刻一刻’深く刻まれて行った。  彼女の枕頭に、殆ど付き切っている近藤博士の顔は、それにつれて、憂わしげに曇って行った。 「どうでしょう、助かりましょうか。」  父の男爵は、そばに誰もいないのを見計って、囁くように訊いた。 「希望はあります。けれど‥‥。」  そう答えたまま、博士の口は重く噤まれてしまった。  美奈子は、そうした問いを発することが、恐ろしかった。彼女はただ、力’一杯、心と身体との力’一杯’消え行こうとする母の魂に、縋り付いているほかはなかった。昨夜じゅう、眠らなかった美奈子の身体は綿のように疲れていた。が、彼女は誰が何と勧めても母の病床を去ろうとはしなかった。  瑠璃子は、昏睡から覚める度に、美奈子の耳許近く、同一の問いを繰り返していた。が、その人は容易に、来なかった。電報が運よく届いているかどうかさえ、はっきりしなかった。  午後三時頃だった。瑠璃子は、その衰えた視力で、美奈子をじっと見詰めていたが、ふと気が付いたように言った。 「青木さんは?」  美奈子はぎょっとした。彼女は、暫くは返事が出来なかった。 「青木さんは?」  母は、繰り返した。美奈子は、震える声で答えた。 「どこへ行かれたか分かりませんの。あの晩’からずうっと分かりませんの。」  が、瑠璃子は、美奈子の表情で全てを悟ったらしか-った。寂しい微笑’らしい影が、その唇のほとりに浮かんだ。 「美奈さん、本当を言って下さい。わたし/覚悟していますから。どうせ助からないのですから。」  美奈子は、何とも’口が利けなかった。 「自首したの?」  美奈子は、首を振った。瑠璃子の衰えた顔に、絶望的な色が動いた。 「じゃ、自殺?」  美奈子は、黙ってしまった。彼女の舌は、釘付けられたように動かなかった。 「そう! わたし、そうだと思っていたの。でも今度だけは、わたし/悪意はなかったの。」  そう言いながら、瑠璃子は目を閉じた。美奈子に全てが判っていた。母は、美奈子に対する義理として、青年をあれほど、露骨に斥けたのだった。美奈子に対する彼女の真心が、彼女を、この恐ろしい結果に導いたのだと言ってもよかった。そう思うと、美奈子は身も世もないような心持ちがした。  日暮れに近づくに従って、瑠璃子の容体は、険悪になった。熱が、反対にぐんぐん下がって行った。呼吸が──それも何の力もない──いよいよせわしくなって行った。  博士は、とうとう今夜じゅうが危険だと言うことを、宣言した。  瑠璃子に対して、死の判決文が読まれたときだった。ホテルの玄関に、横付けになった一台の自動車があった。それは昔の恋人の危急に驚いて、瀕死の床を見舞うべく駈け付けて来た直也だった。熱帯地に於ける二年の奮闘は、彼の容貌をも変えていた。一個’白面の貴公子であった彼は、今や赤黒い男性的な顔色と、隆々たる筋肉を持っていた。見るからに、颯爽たる風采と面魂とを持っていた。その昔ながらに美しい眸は、自信と希望とに燃えていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  直也が瑠璃子の部屋に入って来たとき、瑠璃子は夢ともなく-うつつともないように眠っていた。  命そのもの、活動そのものと言ったような直也の姿と、死そのもの、衰弱そのものと言ったような瑠璃子の青ざめた瀕死の姿とは、何と言う不思議な、しかしあわれな、対照をしただろう。青春の美しさと、希望とに輝きながら、肩をならべて歩いた/二年前の恋人同士として、そこに何と言うおそろしい隔たりが出来たことだろう。  美奈子は、看護婦達を遠ざけた。そして、母の耳許に口を寄せて叫んだ。 「お母さま、あの、直也様がいらっしゃいました。」  だんだん、衰えかけている瑠璃子の聴覚には、それが容易には聞えなかった。美奈子は再び叫んだ。 「お母さま、直也様がいらっしゃいました。」  瑠璃子の土のように蒼い顔の筋肉が、かすかに、動いたように思った。美奈子の声が漸く聞こえたのである。美奈子は、三度目に力を込めて叫んだ。 「お母様、直也様がいらっしゃいました。」  ふと母のホオが、──二日の間に青白く萎びてしまったホオが、ほのかにではあるが/うす赤く染まって行ったかと思うと、その落ち窪んだ二つの眼から、大粒の涙がほろほろと、止めどもなく湧き-いでた。と、今まで毅然として立っていた、直也の男性的な顔が、妙にひきつッたかと思うと、彼の赤黒いホオを、涙が、滂沱として流れ落ちた。  美奈子は、恋人同士に、二人きりの/久し振りの、やがて最後になるかも知れない会見を与えようと思った。 「お母様/ それでは、わたくしはお次へ行っておりますから。」  そう言って、美奈子は次の部屋に去ろうとした。すると、意外にも瑠璃子は、瀕死の声を揚げて言った。 「美奈さん! あなたも──どうか/どうかいて下さい。」  それは、かすかな、僅かに唇を洩る-るような声だった。 「お母様、わたくしもいるのですか。わたくしもいるのですか。」美奈子は、再び訊いた。母は、頷いた。いな/肯くように、その重い頭を、動かそうとしたのだ。  やがて、瑠璃子は、その衰えはてた眸を持ち上げながら、何かを探るような眼付きをした。 「瑠璃さん! 僕です、僕です。分かりますか。杉野ですよ。」  直也も、ゲキして来る感情に堪えないように叫びながら、瑠璃子に掩いかぶさるように、その赭い顔を、瑠璃子の顔に触れるような近くへ持って行った。  瀕死の眼にも恋人の顔が分かったのだろう、彼女の衰えた顔にも/嬉しげな微笑の影が動いた。それは本当に影に過ぎなかった。微笑むだけの力も、彼女にはもう残っていなかったのだ。 「直也さん!」  瑠璃子は、消えんとする命の最後の力を、ふりしぼったのだろう、が、しかし、それはかすかな、うめくような声として、唇を洩れたのに過ぎなかった。 「なんです? なんです?」  直也は、瑠璃子の去らんとする魂に、縋り付くように言った。 「わ──た──し、あなたには何も言いませんわ。ただお願いがあるのです。」  それだけ続けるのが、彼女には精一杯だった。 「願いって-なんです?」 「聴いてくれますか。」 「聴きますとも。」  直也は、心の底から叫んだ。 「あの──あの──美奈さんを、貴方にお頼みしたいのです。美奈さんは──美奈さんは──みなし──みなし──みなしご‥‥。」  そこまで、言ったとき、彼女の張り詰めた気力の糸が、ぶつりと切れたように、彼女はぐったりとなってしまった。  母が、直也を呼んだことが、彼女自身のためではなく、母が一番’信頼する直也に、自分の将来を頼む為であったかと思うと、美奈子は母の真心に、その死よりも強き愛に、よよとばかり、泣き伏してしまった。  その夜、瑠璃子の魂は、美しかりし彼女の肉体をエーキュウに離れた。烈々たる炎の如き’感情の動くままに、その短生を、火花の如く散らし去った彼女の勝気な魂は、恐らく-なんの悔いをも-いだくことなく/縹渺として天外に飛び去ったことだろう。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  母を失った美奈子の悲嘆は、限りもなかった。彼女は、世の中の全てを失うとも、母さえ永らえてくれればと、嘆き悲しんだ。  母の亡骸が、棺に納められた後、彼女は涙の裡に母の身辺のものを、片づけにかかっていた。そして、最後に、母が刺されたその夜に、身に付けていた、白い肌襦袢に、手を触れなければならなかった。それには、ところどころ血が-にじんでいた。美奈子は、それに手を触れるのが恐ろしかった。が、母が身に付けたものを、他人の手にかけるのは、厭だった。彼女は、恐る恐るそれを手に取り上げた。そのときに、彼女はふとその襦袢の胴’のところに、布類とは違った堅い手触りを感じた。彼女は驚いて見直した。そこには何か紙きれのようなものが、軽く裏側から別に布を掩うて、縫い付けられていた。彼女はそれを見ようか見まいかと思いまどった。母の秘密を、死後に暴くことになりはしないかと恐れたが、彼女はそれが母の大切な遺書か、何かのようにも思われた。彼女は、思い切って、おそるおそるそれを取り出して見た。意外にも、それは台紙を剥がしたイチヨウの写真だったのである。写真は、絶えず母の肌と触れていたために、薄れてはいたけれども、まぎれもなく直也が、学生時代の姿だった。  美奈子は、その写真を見たときに、母の本当の心が判ったように思った。母が、黄金の力のために偽りの結婚をしたときも、美しき妖婦として、群がる男性を翻弄していたときにも:、彼女の心の底深く、初恋の男性に対する美しき操は、汚れなき真珠の如く/燦然として輝いていたのであった。いな、彼女は初恋の人に対する心と肉体との操を守りながら、初恋を踏み躙られた恨みを、多くの男性に報いていたと言ってもよかった。  美奈子は、母に対する新しい感激の涙に咽びながら、隣室にいた直也を呼ぶと、黙ってその写真と肌襦袢とを示した。  暫く、それを見詰めていた直也は、溢れ-いずる涙が、美奈子の手前/ちょっとは支えていたが、とうとう堪えきれなくなったと見え、男泣きに泣き出してしまった。 ◇。◇。◇。◇。◇。  青木稔と瑠璃子との死に就いて、都下の新聞紙は、その社会部面の過半を割いて、いろいろに書き立てた。が、そのどれもが、瑠璃子夫人を男の血を吸う、美しきヴァンパイアとすることに一致した。中には、夫人の死を、妖婦カルメンの死に比しているものもあった。夫人の華麗奔放、ホウジュウ不羈の生活を伝聞していた人々は、新聞の報道を少しも疑わなかった。夫人の美しさを頌えると同時に、夫人の態度を非難する嵐のような世評の中に在って、夫人の本当の心、その本当の姿を知っているものは、美奈子と直也のほかにはなかった。  が、世の中の千万人から非難されようとも、彼女がこの世の中で愛した、たった二人の男性と女性とから、理解されていることは、大輪の緋牡丹のクズルル如く散り去った彼女に取って、さぞ本望であっただろう。 ◇。◇。◇。◇。◇。  記憶のよい読者は、去年の二科会に展覧された『真珠夫人』と題した肖像画が、秋のシーズンを通じての傑作として、美術批評家たちの讃辞を浴びたことを記憶しているだろう。  それは、清麗高雅、真珠の如き美貌を持った若き夫人の立ち姿であった。しかも、この肖像画の成功は/その顔に巧みに現わされた自覚した近代的女性に特有な、理智的な、精神的な、表情の輝きであると言われていた。その絵を親しく見た人は、画面の右の端に、K-K とサインされているのに気が付いただろう。それは、妹の保護のもとに、芸術の道に精進していた唐沢光一が、妹の横死を悼む涙の裡に完成した力作で、彼女に対する彼が、唯一の手向けであったのであろう。 ◇。◇。◇。◇。◇。  瑠璃子を失った美奈子の運命が、この先どうなって行くか、それは未来のことであるから、この小説の作者にも分からない。が、われわれは彼女を安心して、直也の手に任せて置いてもいいだろうと思う。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【底本:「真珠夫人(ジョウ):」新潮文庫、新潮社】 【   2002(平成14)年8月1日発行】 【:   「真珠夫人(ゲ):」新潮文庫、新潮社】 【   2002(平成14)年8月1日発行】 【ショシュツ:「大阪毎日新聞」:、「東京日々新聞」:】 【   1920(大正9年)6月9日から12月22日】 【◇底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」:(区点番号5の86)を、大振りにつくっています。】 【◇/「甲斐甲斐しく」と「甲斐甲斐しく」の混在は、底本どおりです。】 【入力:kompass】 【校正:トレンドイースト、門田裕志、Juki】 【2014年5月14日作成】 【2016年9月7日修正】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(httpコロン”//www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。