◇。◇。◇。 【真珠の首飾り】 【──クリスマスの物語──】 【レスコーフ】 【神西キヨシ訳】 ◇。◇。◇。 【第1章】 ──── ◇。◇。◇。  さる教養ある家庭で、友人たちがお茶のテーブルをかこみながら、文学談をやっていた。やがて仕組みとか/筋とかいった話になる。なぜ我が国では、そうした方面がだんだん貧弱でつまらなくなって行くのだろうと、口々に慨歎する。わたしはふっと思い出して、亡くなったピーセムスキイの/一風’変わった意見を披露した。彼によると、そうした文学上の不振は、まず第一に鉄道が増えて来たことと関係がある、けだし鉄道は/商業にとってこそ有益だが、文芸にはむしろ害をなす、というのである。 「コンニチの人間はずいぶんほうぼうを旅行してまわるが、ただそれが手っとりばやい暢気な旅なのだ」と、ピーセムスキイは言うのである:、「だから別にこれという強烈な印象ものこらないし、とっくり観察しようにも、相手の物もなければ暇もないから、─:─つまりウワっ滑りになってしまう。だから貧弱になるわけだ。ところが昔はモスクヴァからコストロマーまで、替馬なしで乗りとおすなり、乗合馬車で揺られて行くなり、宿場宿場で乗り換えて行くなりしてみれば、─:─とんだもうろう馭者にぶつかることもあろうし、図々しい相客に出くわすことも、はたごの亭主が悪党で、おさんどんが鼻もちのならぬ不潔もの、といった悲運に際会することもあるわけで、たんと色んな目にあえるというものである。おまけにとうとう堪忍ぶくろの緒が切れたとして(たとえばスープの中に何か変てこなものがはいっていたのでもいい─:─)、そこでそのおさんどんを怒鳴りつけてでもみたまえ。向こうはその返礼に、十そう倍もの悪態を投げ返してくることになって:、その印象たるやちっとやそっとでは抜け出られぬ深刻なものがあろうことは、まずもって請合いである。しかもソイツがぐつぐつと’胸の底の辺にたたなわっている有様は、一日一晩オーヴンの中へ入れっぱなしで醗酵させた麦粥に異ならず、─:─だからつまり、書く物のなかへだって、ぐつぐつと濃く出てくるのは/リの当然である。ところでこんにちじゃ、そうした一切が鉄道式のテンポで運ばれるのだ。皿を手にとる──問答無用である。口へ抛り込む──噛むなんて暇はない。ジリジリジーンと発車のベルが鳴りだせば、もうそれで万事休すだ。汽笛一声、またポッポッポと出てゆく。そして残る印象といえばせいぜい、ボーイが釣銭をちょろまかしおったということぐらいなもので:、そいつを腹の虫のおさまるまで取っちめてやろうにも、今や時すでに遅しなのである」しかじか。  すると客の一人が乗りだして、成程ピーセムスキイの見方は一応おもしろいが、惜しむらくは当たっていないと言い、ディッケンズの例をもちだした。この作家は、すこぶるスピード旅行の流行る国でものを書いたのだが、それでいてその見聞も観察も/なかなか豊富で:、その小説の筋には、別段これといった内容の貧寒さは見られないではないか、というのである。 「もっともこれは、/彼’の書いたクリスマス物語だけは例外じゃあるけれどね。勿論あれだって立派なものにちがいないが、なんといっても単調なところがある。とはいえ、作者の罪を鳴らすのは不当だよ。なにしろあれは、形式があんまり固くきっちりと決まっていて、作者が身動きのとれない感じのする、そんな文学上の一ジャンルなのだからね。いやしくもクリスマス物語と名乗る以上は、ぜひともクリスマスの晩におこった出来ごと─:─つまりご降誕から洗礼祭までに起こった事件をあつかわなけりゃならんし、それにまた、ある程度まずファンタスティクたることを要するし、なんらかの教訓(:よしんばそれが、有害なる迷信を打破するといった性質のものにしてもだ─:─)を含まなければならんし、も一つおまけに、是が非でもめでたしめでたしで終らなければならんのだ。ところが人生には、そうしたお誂えむきの事件はまことに少ないのだから、作者は否でも応でも、その註文にあてはまった筋書をひねり出したり、でっち上げたりしなければならん羽目になる。だからつまりクリスマス物語には、作為の跡だの/単調さだのが、ひどく目につくことになるのさ。」 「成程ね。だが僕は、必らずしも君のその見解には賛成できないね」と、三人目の客がそれに応じた。これはなかなか立派な人物で、その発する一言はぴたりとマトにあたるものがあったのである。だから一同は、よろこんでその声に耳をかたむけた。 「僕はこう思うな」と彼はつづけた、──:「もちろんクリスマス物語には一定のワクはあるにしても/そのワクの中で色々と趣向を変えることが出来るはずだし、その時代なり/時の風俗だのを反映させて、興味津々たる多彩多様さを発揮できもするはずだとね。」 「だが、君はその意見を、いったいナニをもって実証するつもりかね? 成程と思わせるためには、君自身ひとつ、ロシヤ社会の現代生活のなかから、そんな事件をとり出して見せてくれるべきだね。時代とか現代人とかいうものも立派に反映しており、しかもそれなりにクリスマス物語の形式にも註文にもあてはまって、─:─つまりちょいとファンタスティクでもあり、なんらかの迷信の打破にも役だつものであり、おまけにめそめそしたのじゃない、明るい結末のついたものでもある、──そんな奴をね。」 「おやすいご用さ。お望みとあらば、そんな話を一つお目にかけてもいいがね。」 「そいつは是非たのむぜ❢。 ただね、これだけは一つ、しっかり願いたいんだが、その話というのは、ほんとにあった事でないと困るぜ❢」 「ああ、そこはオオブネに乗ったつもりでいたまえ。僕がこれから話そうというのは、本当も本当、正銘いつわりなしの実話な上に、その登場人物がまた、僕にとって頗る親密かつ親愛なる連中なのさ。実をいうとその主人公は、ほかならぬ僕のジツの弟なのだ。あれは、たぶん諸君もご承知かと思うが、なかなか心がけのいい役人でね、それなりにまた、世間の評判もなかなかいい男なんだよ。」  一同は異口同音に、いかにもそれは兄貴のいう通りだと相槌をうった。のみならずその多くは、この語り手の弟なる人物は、まったく一点の非の打ちどころもない立派な紳士だと、太鼓判をおしさえしたのである。 「でまあ」と、相手はこたえた、──:「つまり僕は、諸君が立派な紳士だと言ってくださる、その男のことを話そうというわけなのさ。」 ◇。◇。◇。 【第2章】 ──── ◇。◇。◇。  そう、三年まえの話だがね、弟はクリスマスの休みを利用して、田舎から僕のうちへ’泊りに出てきた。当時あいつは、田舎まわりの役人をしていたのだ。ところがその様子が、いつにない猛烈な剣幕でね、─:─乗り込んでくるなり、いきなり僕や家内に向かって、是が非でも「女房を持たせてくれ」と切りだしたものなのさ。  僕たちは初めのうち、冗談だろうぐらいに思っていた。ところが、どうして奴さん大真面目で:、「女房を世話してください、後生です❢。 このやりきれない孤独地獄から、ぼくを救ってください❢。 独身生活はもうつくづく厭になりました。田舎の連中の小うるさい陰口や/根も葉もない取沙汰には、もうこりごりです。──自分の家庭というものが欲しいんです。夜のひと時を自分のランプのほとりで、可愛い女房と差し向かいになりたいんです。女房を世話してくださいよ❢。」と、しつこくせがみつづける始末なのさ。 「だがまあ、そう足もとから鳥の立つみたいなことを言ったって」と、われわれは一応なだめざるを得ない、──:「成程それは一々’結構なことだし、お前さんの好きなようにするがいいさ。神様から良縁をさずかって、結婚するのが良かろうさ。ただね、そうせっかちなことを言っても困るなあ。だいいち、お前さんの気持ちにもすっぽり嵌り、先方でもお前さんが大好きだ─:─というような娘さんを、まず捜してかからなくちゃなるまいじゃないか。それには’なんといっても時間がかかるよ。」  ところが弟の返事は、 「だからさ、時間はたっぷりあるじゃないですか。聖期節の二週間は、結婚式をあげるわけには行かないのですから、そのあいだに縁談を決めてくださればいいんですよ。そして洗礼祭の晩になったら結婚式をあげて、すぐその足で田舎へたつんです。」 「おやおや」と僕は呆れて、──:「だがね、お前さん、独身生活のわびしさで、/少々’気がふれたんじゃないかね。(『精神病』なんて気の利いた言葉は、当時まだ使われていなかったものでね。)僕はこう見えても、お前さん相手にマンザイの真似をしていられるほどの暇人じゃないんだよ。これからすぐ、裁判所へ出勤しなけりゃならん。まあ僕の留守のまに、うちの女房を相手に、好きなだけ夢物語をやるがいいさ。」  僕にしてみれば、弟の話はどだい問題にならんナンセンスか、まあそうでないまでも、とにかく実現性のすこぶる薄い/一片の空想としか思えなかったのだ。ところが豈図らんや、その日の夕飯どきに帰宅してみると、柿はすでに熟していたという次第なんだ。  家内が僕に言うには、── 「あのね、マーシェンカ・ヴァシーリエヴナさんが見えましてね、晴着の寸法をとるんだから一緒について行ってくれと仰しゃるんですの。そこでわたしが着替えをしていますと、そのひまに二人は(というのはつまり、弟のヤツとその娘さんだがね─:─)お茶のテーブルで差し向かいになっていましたの。そのあとで弟さんは、『そら、あんな素晴らしい娘さんがいるじゃありませんか❢。 この上なんのかんのと選り好みをすることがあるもんですか、─:─あの人を貰ってください❢』って、そりゃもう大騒ぎなんですの。」  僕はこう返事をした、── 「さてさて、舎弟はいよいよ以ってご乱心と決まったわい。」 「まあ、なぜですの」と、家内は逆襲してきた、──:「なぜこれが『ご乱心』にきまっていますの? 常ひごろ、あんなに尊重してらしたことを、なんだっていきなり手の裏を返すようなことを仰しゃるの?」 「僕が尊重してたって、そりゃ一体なんのことだい?」 「そろばん抜きの共鳴よ、心と心の触れ合いよ。」 「いやはや、おっかさんや」と僕は言ったね、──:「そうは’問屋が-おろさんぜ。それが-いいも悪いも、時と場合に’よりけりだよ。その触れ合いというやつが、何かしらこうはっきりした意識、つまり魂や心のはっきり目に見えた長所美点といったものの認識─:─に基いているような場合なら、それももとより結構さ。だがこいつは、──一体なんのことかね‥:‥一目みた途端にもう、一生涯の首かせが出来あがっちまうなんて。」 「そりゃまあそんなものだけど、じゃ一体あなたは、あのマーシェンカのどこが悪いと仰しゃるの?─:─あの子は現にあなたも仰しゃるとおりの、頭のいい、気だての立派な、親切で実意のある娘さんじゃありませんか。それに、あの子のほうでも、弟さんがすっかり気に入ってしまったのよ。」 「なんだって❢。」と僕は思わず絶叫したね、──:「するとお前はもう、あの子の気持ちをまで、首尾よく確かめたというわけなのかい?」 「確かめたと言っちゃ、なんですけれど」と家内はちょっと言いよどんで、──:「でも、見れば分かるじゃないの? 愛というものは、憚りながらわたしたち女の領分ですわよ、─:─ちょっとした芽生えだっても、一目みりゃ一目瞭然ですわ。」 「いやはや’君たち女というものは」と、僕は言ってやった、──:「みんな実に卑劣きわまる仲人だなあ。誰かを一緒にしさえすりゃそれでいいんだ。その先がどうなろうと、──あとは野となれ’山となれなんだ。自分の軽はずみからどんな結果になるか、ちっとは空恐ろしく思うがいいぜ。」 「だって、すこしも」と家内はすましたもので、──:「空恐ろしいことなんかありませんわ。何しろわたしは、二人ともよく知っていますもの。弟さんはあのとおり立派な紳士だし、マーシャはマーシャで、あのとおり可愛らしい娘ですしさ。おまけに二人は、ああしてお互いの幸福のため一生けんめい尽しますって約束した以上、きっと約束は守るにちがいないわ。」 「な、なんだって❢。」と、僕は吾を忘れて情けない声を立てた、──:「あの二人は、もう約束までかわしたのかい?」 「ええ」と家内は答える、──:「そりゃあ、まだ口に出してこそ言わなかったけど、そこは以心伝心というものよ。二人とも趣味も好尚もぴったり合ってるわ。だからわたし、今晩’弟さんと一緒に先方へ出かけていって来ますわ。──弟さんはきっと老人夫婦の気に入るにちがいないし、その先は‥‥」 「へえ、その先は?」 「その先は、二人でいいようにすればいいわ。ただね、余計な口を出さないで下さいよ。」 「いいとも」と僕はいう、──:「いいとも。そんな馬鹿馬鹿しい問題に口を出さずにいられるのは、すこぶる有難い幸せだよ。」 「馬鹿げたことなんかになるもんですか。」 「それは結構。」 「とてもうまく行くにきまってるわ。幸福な夫婦ができあがってよ❢」 「ありがたい幸せだな❢。 ただしだね」と僕は言う、──:「弟のやつもお前も、これだけは一応’心得ておいても無駄じゃあるまいが、マーシェンカの親父さんは、世間に誰知らぬ人とてない/金持ちの握り屋だぜ。」 「それがどうか-しましたの? 残念ながらわたしも、その事だけは反対の余地はありませんけど、かといって別だんあのマーシェンカが、立派な娘さんでなくなるわけでも、立派な嫁さんになれなくなるわけでも、ないじゃありませんか。あなたは、きっと忘れておしまいになったのね、ほら、二度も三度もわたしたちが論じ合ったあの事を。ねえ、思いだしてごらんなさいな、──トゥルゲーネフの小説に出てくる立派な女たちは、よりに-よってみんな、すこぶる俗っぽい両親を持っているじゃありませんか。」 「いや、僕の言うのはそんな事じゃないんだ。いかにもマーシェンカは、実に立派な娘だよ。ところが考えてごらん、あの親父と来たら、上の二人の娘を嫁にやるとき、婿さんを二人とも一杯食わせて、びた一文つけてやらなかったんだぜ。──マーシャにだって、イチモンもよこさないに決まってるよ。」 「どうしてそれが分かりますの? あの親父さんは、あの子が一ばん可愛いのよ。」 「いや、おっかさんや、まあたんと皮算用をしたけりゃしなさいだがね。嫁にやってしまう娘にたいするあの連中の『格別の』愛情なるものが、一体どんなものだか、ちゃんと分かっているじゃないか。みんな一杯食わされるんだよ❢。 それにまた、あいつにして見りゃ、一杯食わさずに済ますわけには行かんのさ、─:─何しろそれが、あの男の立ってる土台なんだからねえ。世間のうわさじゃ、あの男が財産を築きあげたそもそもの始まりは、非常な高利で抵当貸しをしたことだというじゃないか。人もあろうにそんな男から、お前は愛情だの気前のよさだのを捜し出そうとかかっているんだよ。参考までに言っておくが、上の娘たちの婿さんは、二人とも一筋縄ではいかんなかなかの曲者なんだ。それでいながらまんまとあの男に一杯食わされて、今日じゃ犬猿もただならざる仲になっているとすりゃ:、ましてやうちの弟なんぞは、何しろ子供の頃からおっそろしくご念の-いった弱気な奴だから、指をくわえて追っ払われることなんか、朝飯まえだぜ。」 「いったいなんのことですの?」と家内は聞きかえす、──:「その指をくわえる、って仰しゃるのは?」 「まあ、おっかさんや、そらっとぼけなさんな。」 「いいえ、そらっとぼけてなんかいませんわよ。」 「じゃお前、知らないのかい、『指をくわえる』ってことを? マーシェンカにはびた一文よこすまいってことさ、─:─困るというのは、つまりそこだよ。」 「まあ、そんな訳でしたの❢」 「うん、その通りさ。」 「その通り、全くその通りだわ❢。 そりゃまあ、そんなことかも知れませんけど、ただわたしは’ね」と家内はいっかな敗けてはいず、──:「たとえ持参金はなかろうと、ちゃんとした嫁さんを貰うことが、あなたのお考えだと『指をくわえる』ことになろうとは、ついぞ今まで思いも及ばなかったわ。」  どうです、いかにも女らしい可憐な筆法、ないし論理じゃありませんか。ひらりと体をかわす拍子に、お隣づきあいの誼みで、ちくりと一本くるんですからねえ。‥‥ 「僕はなにも、自分のことをとやかく言うんじゃないぜ。‥‥」 「いいえそうです、じゃ一体なぜ‥‥?」 「いやはや、そりゃ酷すぎるぜ、ねえマ・シェール(お前)❢」 「何がひどすぎますの?」 「なにが酷すぎるって、僕が自分のことなんか一言も-いやしないのにさ。」 「でも、考えてらしたわ。」 「いいや、だんぜん考えてもいなかった。」 「じゃ、想像してらしたわ。」 「なにを、馬鹿な。夢にだって想像していなかったよ❢」 「まあ、なんだってそんな金切りごえをお立てになるの?」 「べつに金切り声なんか/立てやしないさ❢」 「だって『なにを』だの‥:‥『馬鹿な』だのって。‥‥そりゃ一体なんですの?」 「それはお前、お前の言うことを聞いてると、ついむしゃくしゃしてくるからさ。」 「へえ、それで分ったわ❢。 そりゃわたしが金持ちの娘で、持参金をかかえて来たら、さぞよかったでしょうとも‥‥」 「げッ、むむむう❢‥‥」  といった次第でね、僕はとうとう嚇として、亡くなった詩人トルストイの言い草を借用すれば:、『初めは’神の如く、終りは豚の如し』の体たらくになっちまったのさ。僕は’さも憤然とした様子をして、─:─けだし正直のところ、あらぬ濡衣をきせられた感じだったからね、─:─頭をふりふり、くるりと相手に背を見せると、書斎へ引揚げてしまった。それも、いざ後ろ手にドアをしめる段になって、なんとしても腹の虫がおさまらず、─:─わざわざドアをまた開けて、こう言ってやったものだ、── 「おい、なんぼなんでも卑劣だぞ❢」  すると家内は澄まし返って、 「メルシ(憚り様)、あなた。」 ◇。◇。◇。 【第3章】 ──── ◇。◇。◇。 「ええ、くそ、なんてざまだい❢。 おまけにそれが、とっても幸福な、ほんの一瞬の間だって波風ひとつ立ったためしのない、夫婦生活’四年間のあげくの果てと来ていやがる❢‥:‥忌々しい、業っぱらだ──やり切れん❢。 なんて馬鹿げたこったろう。しかも事の起りはそもそも何だ❢‥:‥みんな弟のやつのせいじゃないか。おまけにこの俺が大人げもなく、こんなにカンカンに息み返るとは、なんてざまだい❢。 弟のやつはもうちゃんと一人前の大人で、どこの誰が好きになろうと、どこの誰を嫁にもらおうと、自分で判断する資格があるわけじゃないか?‥‥やれやれ、今どきじゃもう、生みの息子にだってそんな指図をするのは流行らんというのに:、いまだに弟は兄貴の言いなり放題にならなきゃならんというのかい。‥‥第一そんな監督をする権利がどこにある?‥‥そもそも、この俺が、これこれの嫁をもらえば行く末はこれこれになるなんて、確信をもって予言できるような、千里眼になれるとでもいうのかい?‥‥マーシェンカはまったく素晴らしい娘だし、うちの女房だってなかなかいい女じゃないか?‥‥おまけにこの俺だって、有難いことに、世間から後ろ指をさされたことはない。だのにその俺たち夫婦が、四年もつづいた幸福な、束の間だって波風ひとつ立ったためしのない暮らしのあげくに:、こうして熊公お鍋みたいに悪態の-つき合いをしちまったんだ。‥‥それというのも元をただせば、一向くだらん、たかが他人の馬鹿馬鹿しい気まぐれからじゃないか。‥‥」  僕はとたんに吾ながら穴へでもはいりたいほど恥ずかしくなる一方、家内が可哀そうで可哀そうでならなくなった。けだし、家内の-ついた屁理窟なんかはきれいに棚へ上げて、何から何まで自分一人のせいにしちまったわけだね。まあ、そうした侘びしくも遣瀬ない気分で、僕は書斎のソファの上で、ぐっすり寝込んじまったという次第さ。ほかならぬわが最愛の女房が手ずから縫ってくれた、ふかふかした綿入れの部屋着にくるまってね。‥‥  しなやかな細君の手で、夫のために縫い上げられた着心地のいい不断着というやつは‥:‥全くへんに情にからんでくる代物だよ❢。 じつに工合がいいし、じつに懐かしいし、おまけに折よくにしろ/折あしくにしろ、まざまざとわれわれ男子の罪悪を思いださせてくれもするし:、いやそれのみか、縫ってくれた白いやわでまでが、まざまざと思いだされて、いきなりそれに接吻して、俺が悪かった、赦しておくれ──と言いたくなっちまう。 「赦しておくれ、ねえお前、さっきはついお前の言葉で、むらむらっとしてしまったが。もうこれからは気をつけるからね。」  そいつがまた、白状するとね、一刻も早く謝まりたくって矢も盾もたまらず、そのヒョウシについ目が覚めちまって、起きあがりざま、書斎からのこのこ出ていったものさ。  見ると──家じゅう真っ暗がりで、シンとしている。 「奥さんは何処だい?」  って女中にきくと、 「奥さまは弟さまとご一緒に、マリヤ・ニコラーエヴナのお父様のところへ、お出ましになりました。只今すぐお茶をお入れしますから」という返事だ。 『こりゃ驚いた❢』と僕は思ったね、──『するとつまり、あいつ/とうとうガを張りとおすつもりだな─:─相変らず弟のやつを、マーシェンカと一緒にしようっていうんだな。‥‥ええ、どうなりと勝手にするがいい。そしてマーシェンカの狸親父に、上の二人の婿さん同様、まんまと化かされてみるがいい。いいやどうして、その段じゃ済むまいぜ。あの婿さんは二人とも相当な曲者だったが、うちの弟ときた日にゃ、あの通りの正直権現、弱気地蔵だからなあ。まあいいさ、──弟のやつも女房のやつも、たんと-だまくらかされるがいいや。仲人という役がどんなに難しいものか、第一課でうんと手を焼いてみるがいいや。』  僕は女中の手からお茶のコップを受けとると、坐りこんで訴訟書類に目をとおしはじめた。それは明日から裁判のはじまる事件で、僕にとってはちょっと骨の折れる仕事だったのだ。  調べ物につい気をとられて、気がついた時はもう真夜中をだいぶ越していたが、家内と弟とは二時という時刻に、二人ともすこぶるご機嫌さんで帰ってきた。  家内が言うことにゃ、── 「いかが、コールド・ビーフを、葡萄酒に水をあしらって召しあがらないこと? わたしたちは、ヴァシーリエヴナさんところで、お夜食をすませて来ましたの。」 「いや」と僕、──:「ご好意は-かたじけないがね。」 「ニコライ・イヴァーノヴィチさんたら、すごく気前を見せてね、わたしたちすっかりご馳走になっちまったわ。」 「成程ね。」 「ええ、──とても愉快で、時のたつのも忘れたほどでしたの。おまけにシャンパンまで出たわよ。」 「そりゃよかった❢。」と僕は答えて、さて肚のうちでこう考えた、─:─『ハハア、あのニコライの悪党め:、うちの弟のご面相から、一目でこりゃいい鴨だわいと見破りおって、腹にイチモツのご馳走攻めと’おいでなすったな。まず当分は、いずれ縁談が本決まりになるまで、ちやほやしておいて、それから矢庭に、──爪牙をあらわそうって寸法だな。』  その一方、家内にたいする僕の感情は又ぞろ悪化して、さっきは別に悪気はなかったんだから赦しておくれ─:─なんていう口上は、今更おかしくって言い出せなくなった。いや、それどころか、もし僕にこれという差迫った用事もなくて、このご両人がおっぱじめた恋愛遊戯の一進一退に、いちいち茶々を入れられるほどの暇人だったとしたら:、てっきり僕は又しても堪忍ぶくろの緒を切らして、何かしら余計な口出しをして、トドのつまり、出ていけ/出ていきます─:─ぐらいの騒ぎになったに相違ないんだが、幸いにして僕はそれどころじゃなかった。つまり、さっきも言ったその訴訟事件というのが、ひどく手ごわい代物でね、僕たちはもう二六時ちゅう裁判所に詰めきりという始末:、このぶんじゃちょっとクリスマスまでに片づく見込みも立たず、したがって僕は家へはただ’飯を食って一寝入りするために帰るだけ:、日中と夜の一部分とはテミス(法律の女神)の祭壇の前ですごすといった体たらくだったのさ。  その一方、家のほうでは、事はどしどし運んでいてね、いよいよクリスマス・イーヴというその夕方に、やっとこさで法廷の仕事から解放されて、ほっとして僕が帰宅してみると:、待ってましたとばかりいきなりもう、豪勢なバスケットを眼の前へ突きつけられて、さあ一つ検分して頂戴という註文なんだ。そのバスケットには、弟のやつがマーシェンカへ贈物にする高価な品々が詰まっているのさ。 「こりゃあ一体なんだい?」 「花聟さんから花嫁さんへのプレゼントですわ」と、家内が説明する。 「うへっ❢。 もうそこまで来たのかい❢。 いやお目出とう。」 「もちよ❢。 弟さんは、もう一ぺんあんたと相談した上でなくちゃ、正式の申込をするのは嫌だと言うんですけど、とにかくああして婚礼を急いでらっしゃるでしょう。ところがあなたといったら、まるでわざと意地わるをしているみたいに、あの厭らしい裁判所に入り浸りなんですもの。とても待っちゃいられなくなって、婚約をとりかわしてしまったのよ。」 「一段と結構じゃないか」と僕、◇「ぼくを待つことなんかありゃしないさ。」 「あなた、それは皮肉ですの?」 「皮肉だなんて、とんでもない。」 「それとも、当てこすりですの?」 「いいや、当てこすりもしやせんよ。」 「どっちにしたって無駄骨ですわよ。だって、いくらあなたがぎゃあぎゃあ仰しゃったところで、あの二人とても幸福なご夫婦になるにきまってますもの。」 「無論さね」と僕、──「きみが太鼓判をおす以上、そうなるにきまってるさ。‥‥諺にもあるじゃないか、『思案あまって貧乏くじ』ってね。選り分けるなんてことは、もともと出来ない相談なのさ。」 「まあまあ」と家内は、プレゼントの籠の蓋をおろしながら、──:「あなたったら、わたくしども女を選り分けるのは、さも貴方がた男の特権みたいに思ってらっしゃるのね。ところが本当は、そんなこと/愚にもつかない空中楼閣なんですわ。」 「へえ、どうして空中楼閣なんだい? ねがわ-くは、娘さんのほうで婿えらびをするのじゃなしに、婿さんのほうから娘さんに求婚するのでありたいものだよ。」 「そりゃ、なるほど求婚はしますわ、──けれど、念入りに選り分けるとか慎重に選り分けるなんていうことは、とてもあり得ないことですわ。」  僕はかぶりを振って、こう言った。── 「もう少し、自分の言ってることを、検討して見ちゃどうかね。例えば僕はこうして、君というものを選んだじゃないか、─:─それというのも、君を尊敬し、君の長所を見抜いたからじゃないか。」 「嘘ばっかり。」 「嘘だって?」 「嘘ですとも、──だって、あなたがこのわたしを選んだのは、決して長所を見ぬいたためなんかじゃないんですもの。」 「じゃ、なんだというんだい?」 「わたしのことを、ちょいといい女だ、と思っただけのことだわ。」 「いやはや、君は自分には長所なんか’ないとでも言うのかい❢」 「とんでもない、長所ならちゃんとあります。でもあなたは、わたしのことをいい女だとお思いにならなかったら、やっぱり結婚はなさらなかったでしょうよ。」  僕は、成程これは一本’参ったと思ったね。 「そうは言うけどね」と、僕は陣容を立てなおして、──:「僕は’まる一年も待って、君の家へかよったじゃないか。どうして僕がそんな真似をしたと思うかね?」 「わたしの顔が見たかったからよ。」 「ちがう、──僕は君の性格を研究していたんだ。」  家内は、ほほほほと笑いだした。 「そら笑いはよしてくれ❢」 「そら笑い’なんかじゃなくてよ。そんなこと仰しゃったって、結局なに一つわたしの研究なんかなさらなかったのよ。それに第一、お出来になるはずもなかったのよ。」 「どうしてだい?」 「言ってもよくって?」 「ああ頼む、言ってくれ❢」 「それは’ね、あなたがわたしに恋しちまったからよ。」 「まあ、それもよかろう。だがそれが僕にとって、君の精神的な性質を見るうえの妨げになったわけでもあるまい。」 「なったわ。」 「いいや、ならん。」 「なったわ。しかも誰にだって妨げになるものなのよ。だから、いくら長いことかかって研究したところで、なんの役にも立ちゃしないのよ。あなたは、相手の女に恋していながら、しかもその女を批判的に見てらっしゃるおつもりだけれど、実は空想的にぼんやり眺めてらっしゃるに過ぎないのよ。」 「ふうむ‥:‥だがなあ」と僕、──:「どうも’君は、なんだかその‥:‥ひどく現実的だなあ。」  そのじつ内心では、成程その通りだ❢。 と思ったね。  家内は言葉をつづけて、── 「思案はもうたくさんだわ、─:─とにかく幸先は’いいんだから、さあ早く服を着かえて、一緒にマーシェンカのところへ行きましょうよ。わたしたち、今日はあの’家でクリスマスを迎えることになっているのよ。それにあなたも、あの子や弟さんに、お目出とうを言わなくちゃいけないわ。」 「恐悦至極」と僕は言って、一緒に出かけた。 ◇。◇。◇。 【第4章】 ──── ◇。◇。◇。  先方に着くと、まず贈物の捧呈式があり、ついで祝詞の言上があり、それからわれわれ一同は、シャンパーニュ州のタエなる美酒にいいかげん酩酊した。  もはや斯くなる上は、思案も相談もトメダテも、いっさい手おくれだ。残されたことはただ一つ、婚約の二人の行く手に待っている幸福にたいする信念を、一同の胸中に守り立てて、シャンパンを飲むだけである。まあそんなあんばいで、あるいは僕の家で、あるいは花嫁の実家で、ヒは夜につぎ、夜はヒについだというわけだった。  そうした気分でいると、時の長さを覚えるなんてことはまずあるまいね?  全くあっと思うまもあらばこそ、たちまちもう大晦日が来ていた。よろこびを待ちもうける気分は、ますます濃くなってくる。世間の人は誰も彼も、よろこびごとを祈念して胸をわくつかせているが、もとより僕たちも敢えて人後に落ちなかった。僕たちは又もやマーシェンカの実家で新年を迎えたが、それこそわれらが先祖の言葉じゃないが『たらふくたべ/酔うた』/もので:、まさに『飲む楽しみはロシヤならでは』という先祖の名言を、みごと実証してのけた次第だった。そのなかで、ただ一つだけ-かんばしくないことがあった。というのは他でもない、──マーシェンカの親父さんは、相変らず持参金のことはおくびにも出さずにいたが、その代り娘に、奇妙奇天烈な贈物をしたのだ。いや、奇妙なばかりじゃなくて、あとになって僕にも分ったことだが、それは全く許すべからざる、縁起の悪い贈物だったのだ。彼は夜食の最中に、一同の眼のまえで、手ずから娘のくびに、立派な真珠の首飾りをかけてやったのだよ。‥‥われわれ男連中は、その品物を一瞥して、むしろ『こいつは素晴らしいわい』と思ったものだった。 「ほほう、──あれは一体どのくらいの値打ちのものかな? 何しろあれほどの品であるからには、名門出の富豪連中がまだ質屋へものを曲げにやるまでにならず:、何かひどく-かねのいるような時には、むしろこのマーシェンカの親父さんみたいな内密の高利ガシの手に、財産を委託するほうを快しとした:、そんなふうの天下泰平な大昔から、秘蔵されているものらしいな」と、まあそんなことを考えた次第なのさ。  その真珠は大粒で、ふっくらと円みがあって、ひどく冴え冴えした色気のものだった。のみならず首飾りの作りは、いかにも昔風の好みで、いわゆるルフィール型とか/瓔珞型とか呼ばれるあれだった。──つまり背後のところは、小粒ながら一ばんまん円なカーフィム真珠でもって始まって、だんだん大粒になるブルミート真珠がそれにつづき、やがて下へ垂れるあたりになると/大豆ほどの粒がつらなって:、最後の真ん中の部分には三粒の/びっくりするほど大きな黒真珠が、群を抜いて美しいカガヨいを放っている、という仕組みなのだった。この見事でもあり/高価でもある贈物の前に出ては、うちの弟のプレゼントなんかは月夜の星も同然、すっかり気おされてしまった。手短に言ってしまえば、われわれむくつけき男連中は、一人のこらずマーシェンカの親父さんの贈物を素晴らしいと思い:、おまけにその首飾りを渡すにあたって老人の述べた言葉までが、気に入ったという始末だった。つまりマーシェンカの親父さんは、そのジ-ュウホウを娘にかけてやってから、こう言って聞かせたのだ、─:─『さあ娘や、これをお前に上げる。ついでに呪文を附けておこうね、──この品は錆も朽ちさすことなく、ぬすびとも奪うことなく、まんいち-うぼうたとしても、かならず業報あり。これは、とこしなえじゃ』とね。  ところが婦人れんになると、なんにつけてもめいめい小うるさいイッカゲンをもちだすものだし、当のマーシェンカなどは、首飾りをもらってから、さめざめと泣きだしたものだった。僕の家内にいたってはなんとしても腹の虫を抑えかねて、うまい機会をつかむと、早速ニコライ・イヴァーノヴィチを窓のところへ引っぱって行って、文句を並べ立てさえしたものだ。相手はまあ親類のよしみで、おしまいまで我慢して拝聴していたがね。なぜ真珠を贈物にして文句を言われたかというと、つまり真珠というものは涙の象徴でもあり/前兆でもあるというのだ。だから真珠は決して新年の贈物には使われないというのだ。  ところが相手もさるもの、ニコライ・イヴァーノヴィチは、まんまと冗談で言いまぎらしてしまったのさ。 「いやそれは」と奴さんは言うんだ、──:「まず第一に、単なる迷信にすぎんですわい。もし誰か奇特な仁があって、ユスーポフ公の奥方がゴルグーブスからお買上げになった真珠の一粒を、この儂に贈物にしようと言われるなら、儂は即座に頂戴しますわ。この儂も、な奥さん、やっぱり昔は一通りそんな縁起をかつぎ回したものでしてな、贈物には何が禁物かぐらいは、ちゃんと心得ておりますよ。娘さんがたに贈ってならんのは、あのトルコ玉ですて。というわけは、ペルシヤ人の考えで行くと、トルコ玉というものは恋患いで死んだ人間の骨だそうですからなあ。また、奥さんがたに贈ってならんのは、キューピッドの矢の入ったムラサキズイショウですて。もっとも儂は、そんなムラサキズイショウをためしに贈物にしたことがありますが、奥さんがたは受納されましてな‥‥」  家内は思わずほほえんだ。相手は言葉をつづけて、── 「そのうちあなたには、そんなのを一つ差し上げるとしましょうて。さて真珠のことですが、一口に真珠といってもじつに千差万別でしてな、かならずしも真珠はどれもみんな、泣きの涙で採集されるものとは限りません。ペルシヤ真珠もあれば、紅海で採れるのもある。真水──すなわちオー・ドゥスで採れたのもあって、これなら採集に涙は要りません。あの多感なマリ・スチューアートは、スコットランドの川でとれた/いわゆるペルル・ドー・ドゥスでなければ身につけなかったけれど、それがべつに幸運を運んで来てくれもしなかったですわい。儂は何を贈物にしたらよいかということを、ちゃんと心得ていて─:─そのよいものを娘に贈るのですが、あなたは騒ぎ立てて/あの子を怖気づかせなさる。そのお礼に、キューピッドの矢の入ったのを差し上げることは取りやめにして:、代りにあの冷静な月光石を献ずることにしましょう。さ、娘や、もうお泣きでない。儂の今やった真珠が涙を運んでくるなどというつまらん考えは、頭から掃き出してしまうがいい。これはそんなのとは訳がちがう。お前の婚礼がすんで翌る日になったら、儂はお前にその真珠の秘密を明かすとしよう。その時になったらお前にも、迷信なんぞちっとも怖れることはないと、ガテンがいくだろうて。‥‥」  といった次第で、その場の騒ぎもおさまって、うちの弟とマーシェンカの婚礼は、主顕節がすむと早々あげられた。さてその翌る日、僕たち夫婦は、若夫婦のご機嫌奉伺に出かけていった。 ◇。◇。◇。 【第5章】 ──── ◇。◇。◇。  行ってみると、向こうのご両人は今しがた起きたところで、ご機嫌も常になく上々吉だった。弟のやつは、新婚の日にそなえてあらかじめ旅館にとっておいた部屋のドアを、手ずから開けて、喜色満面、からからと高笑いしながら、われわれを迎えてくれた。  それを見て僕は、ある古い小説を思いだしちまった。それは新郎が嬉しさ余って発狂するという話だったが、僕がそいつを、当てられた腹いせがてら/弟に話してやると、奴さんこんな返事をした、── 「いや、ちょうど兄さんの言われるようなことが、じっさい僕の身にも起りましてね、こいつはどうも吾ながら’気が変になったのじゃあるまいかと、そう思ってた矢先なんです。今日ここに初日をあけた僕の家庭生活は、我が最愛の妻に期待していたよろこびを僕にもたらしたのみならず、舅どのからまで、予期せざる福運を授けてもらったという次第なんです。」 「そりゃまた一体、何ごとがもちあがったんだい?」 「まあ、ずっとお通りください、お話ししますから。」  家内は僕に耳うちして、 「てっきりあの古狸のやつに一杯食わされたんだわ。」  僕はこたえて、 「おれの知った事じゃないよ。」  さてわれわれが通ると、弟は封の切ってある一通の手紙をわれわれに示した。それはその朝はやく市内郵便で、両人の名宛で配達されたもので、次のような文面だった、── 『真珠にからむ迷信などにびくつくこと一切’無用なり。あの真珠は偽物なれば。』  家内は、どうとばかり尻餅をついちまった。そして、 「ちぇっ、ひどい奴❢。」と、ただ一言。  ところが弟は、マーシェンカが寝室で朝化粧をしている方角を、あごで指してみせながら、こう言うのだ、── 「姉さん、そりゃ違います。あの老人のやり方は正々堂々たるもんですよ。僕はこの手紙をうけ取って、一読おもわず呵々大笑しましたね。‥‥一体なんの泣きべそかくことがあるんです? 僕のさがしていたのは持参金じゃなく、またそれが欲しいとも言いやしませんでした。僕のさがしていたのは、女房だけです。だから、あの首飾りの真珠が本物じゃなく、じつは偽物だったと聞かされたところで、僕はちっとも痛くも痒くもありゃしません。よしんばあの首飾りの値打ちが一万三千ルーブリじゃなくて、ただの三百ルーブリだとしても、─:─僕の女房が幸せでいてくれさえすりゃ、要するにどうだっていいことじゃありませんかね。‥‥ただ一つ僕が心配だったのは、これをどうマーシャに伝えたらいいか、ということでした。思いあぐねて、窓のほうを向いて坐りこんだまま、ドアの掛けがねを下ろし忘れたことに、つい気がつかなかったんです。ゴロップンしてから、ふと振り返ってみると、僕のすぐ後ろに思いがけず舅どのが立っていて、片手に何かハンカチに包んだものを握っているんです。そして、  ──おはよう、婿さんや❢』という挨拶。  僕はとびあがるように立ちあがって、舅さんを抱擁し、こう言いました。  ──いや恐縮です❢。 もう一時間もしたら、二人そろって伺うつもりでいたのに、そちらからわざわざ‥‥。これじゃすっかり順序があべこべで‥:‥恐縮とも有難いとも。‥‥』  ──なあんだ、そんな固苦しいことを❢。 他人じゃあるまいしさ。儂は今、ミサにお参りしてな、─:─お前たち夫婦のことを祈って、それこのとおり”プロスヴィラ(聖餅)を頂いて来てやったという次第なのさ。』  僕は、もう一ぺん舅どのを抱擁して、接吻しました。  ──して、儂の手紙はとどいたかな?』と聞きます。  ──そりゃもう、とどきましたとも。』  と僕はこたえて、おもわず大声で笑いだしました。  向こうは呆気にとられて、  ──何がそうおかしいのかな?』と聞きます。  ──だって、仕様がないじゃありませんか? とっても痛快なんですもの。』  ──痛快だとな?』  ──ええ、そうですとも。』  ──まあいいから、あの真珠を出してごらん。』  首飾りは、ついそこのテーブルの上に、ケースに納めて置いてありました。僕は出して渡しました。  ──虫めがねはあるかな?』  ありません、と僕は答えます。  ──そんなら、儂が持っている。昔からの習慣で、いつもこうして持って歩いているのさ。さあひとつ、留め金のパチンのところを、とっくり見てごらん。』  ──見てどうするんです?』  ──まあいいから、見てごらん。お前さん、ひょっとすると、儂に担がれたとでも思ってやしないかの。』  ──そんなこと、思ってやしませんよ。』  ──いいから見てごらん、見てごらん❢』  そこで虫めがねを当ててみると、そのパチンの一ばん目につかないところに、ブルギニヨン(模造真珠)というフランス文字が、毛彫りになっていました。  ──得心が行ったかな、これがほんとに似せものの真珠だということに?』  ──わかりました。』  ──そこで、儂に何か言いたいことはないかな?』  ──さっき申しあげた通りです。というのはつまり、僕としては痛くも痒くもないということです。もっとも、たった一つお願いがあるんですが‥‥』  ──いいとも、いいとも、遠慮なく言うがいい❢』  ──これをマーシャには黙っていて頂きたいんですが。』  ──ほう、それはまたどうしてかな?』  ──ただそれだけです。‥‥』  ──いや、その謂われが聞きたいのだ。あれにがっかりさせたくないとお言いなのかい?』  ──ええ、まあ、それもあるんですけど。』  ──まだそのほかに何かあるのかい?』  ──ええ、じつはもう一つ、あれの胸の底に、なにかお父さんにたいする反感のようなものが、芽ばえては困ると思うんです。』  ──お父さんにたいする反感?』  ──ええ。』  ──なあんだ、父親にとって、あれはもう切りとったパンの一切れみたいなものさね。もとのパンの塊まりとは縁がきれてるんだ。あれに大切なのは──ご亭主だよ。‥‥』  ──心は仮りの宿りならず、というじゃありませんか』と、僕は言いました:、『心というものは、そんな手狭なもんじゃありません。お父さんへの愛も愛なら、夫にたいする愛も愛です。それにもう一つ、‥:‥もし幸福な夫になりたければ、自分の妻を尊敬できるようでなくちゃなりません。それができるためには、妻の心から、生みの両親にたいする愛や尊敬を、なくさせてはならないと思います。』  ──いやあ、これはどうも❢。 お前さんもなかなか、隅に置けないわい❢』  そう言って、舅は腰掛の腕木に、黙然と指で拍子をとりはじめましたが、やがて立ちあがって、こう言いました。  ──儂は’な、なあ婿さんや、裸一貫で今のシンショをきずき上げた男だが、それにはまあ、色んな手を使ったものさ。/高尚な見方からすれば、儂の使った手のなかには、あまり感服できないものもあるかも知れんが、まあとにかく、それも御時勢だったし:、まあ儂には、ほかにシンショをきずきあげる手だてもなかったわけだ。他人というものを、儂は大して信用もしないし、ましてや愛などというものに至っては、ひとさまの読む小説ぼんとやらいうものの中に書いてあると聞くだけのことで:、正直の話’儂はいつも、人間はみんなお銭をほしがるものだと考えていた。ウエの娘をやった二人の婿さんたちに、儂は持参金をつけてやらなかったが、果たせるかな、あの二人は儂を恨みに思って、いっかな細君を儂のところへよこしたがらない。どんなもんだろうな、──あの婿さんたちとこの儂と、一体どっちが真人間らしいかな? 儂は成程、奴さん-たちに銭こそやらなかったが、奴さん-たちと来た日にゃ、親子の情合いに水をさそうというのだ。ところで儂は、あの二人にゃイチモンだってやることじゃないけれど、お前さんにゃ、財布のひもをゆるめて、ヒトフン-パツさせて貰おうわい❢。 そうとも❢。 いや、今この場で早速、ヒトフン-パツさせて貰いましょ❢』─:─といったわけでしてね、まあこれを見てください❢」  と弟のやつ、五万ルーブリの手形を三枚、僕たちに出して見せたのさ。 「ヘエエ」と僕はあきれて、◇「それをみんな、細君にやれとの御意なのかい?」 「いいえ」と弟、──:「マーシャには五万だけやって置けというんです。そこで僕はこう言いました。  ──ねえ、ニコライ・イヴァーノヴィチ、これは少々もったいな過ぎますよ。‥‥マーシャにしてみれば、あなたから持参金を頂いたりして、却ってくすぐったい思いがしましょうし、ねえさんたちがまた──いや、こいつはいけません。‥‥これじゃきっと姉さん-たちがあれを妬いて、仲たがいの因になりますよ。‥‥そうなっては困ります、ねえさんたちの幸せもお考えになってください、どうぞこのお金は一応お納めくだすって‥:‥いずれそのうち、何かいい風の吹きまわしで、あなたと姉さん-たちのあいだのこだわりが解けほぐれたとき、三人に等分に分けてやってください。その暁にこそ、このお金はわれわれ一同に、悦びをもたらしてくれるというものです。‥‥どうしても僕たちにだけと仰しゃるのでしたら、失礼ながらお断わりします❢』  すると親父さんは立ちあがって、またもや一わたり部屋の中を歩きまわったが、やがて寝室のドアの前に立ち止まると、大声で、  ──マーシャ❢』と呼びました。  マーシャは、もうちゃんと化粧着を羽織って、出て来ました。  ──おめでとう』と、舅さんが言います。  マーシャは父親の手に接吻しました。  ──どうだな、幸せになりたいかな?』  ──そりゃパパ、なりたいわ。それに‥:‥どうやら成れそうですわ。』  ──よしよし。‥‥お前さん運よく、いい聟がねを引き当てたぞ❢』  ──あらパパ、あたし引き当てなんぞしませんわよ。神様から授かったんですわ。』  ──ああ、よしよし。神様がお授けくだすった。じゃ儂は、ちょいと景品をつけさせて貰おうかな。儂は、お前の幸福を、ちっとばかり殖やしてやりたいのさ。ご覧、ここに手形が三枚ある。みんな同じキンダカだ。一枚はお前にやる、残る二枚は姉さん-たちにおやり。お前の手で分けておやり──これはお前の志しだといってな。‥‥』  ──まあパパ❢』  マーシャは最初お父さんの首っ玉へかじりつきましたが、やがていきなりぺたりと床べたに坐りこむと、嬉し涙をぼろぼろこぼしながら、親父さんの膝に抱きつきました。見ると──親父さんも泣いていました。  ──お立ち、お立ち❢』と、親父さんが言います。──『それでお前は、下世話にいう「奥方さま」だ、─:─儂なんぞに土下座’するなんて法はないわい。』  ──でもあたし、ほんとに嬉しくって‥:‥さぞ姉さん-たちが❢‥‥』  ──まあいい、まあいい。儂も嬉しいぞ❢‥:‥どうだな、やっと分ったろう、真珠の首飾りなんか怖くもおそろしくもないことが。そうさ、儂はお前に秘密を明かそうと、わざわざやって来たのだったな。それは他でもない、儂がお前に贈物にした似せの真珠は、儂がずっと以前、心をゆるした親友に一杯食わされた代物なのだよ、‥:‥何しろその来歴というのがな、──かしこしともかしこし、帝室の御物と唐シツの御物とを、一つにつなぎ合わせたキダイの逸品という触れこみなのさ。それに引きかえ、お前さんのご亭主は、この通りの無骨な男じゃあるが、こういう男に一杯くわせるなんていうことは、とても出来ることじゃない、人間のたましいが、だいいち承知をせんわい❢』」 「僕の話というのは、これでおしまいだよ」と、語り手は物語をむすんだ、──:「いかがです、お聞きの通りの現代の出来事ではあり、嘘いつわりのない実話でもあるんだが、それでいて昔ながらのクリスマス物語の註文にもかない、作法にもはまっていると、憚りながら僕は思うんだがね。」 ◇。◇。◇。 【底本:「真珠の首飾り◇ ほか二篇」岩波文庫、岩波書店】 【1951(昭和26)年2月10日第1刷発行】 【2007(平成19)年2月21日第7サツ発行】 【◇「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。】 【入力:oterudon】 【校正:伊藤時也】 【2009年7月15日作成】 【青空文庫作成ファイル:】 【このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(httpコロン/スラッシュスラッシュwww.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。】