◇。◇。◇。 【鮨】 【岡本かの子】 ◇。◇。◇。 【第1章】 ──── ◇。◇。◇。  東京の下町と山の手の境い目といったような、ひどく’坂や崖の多い街がある。  表通りの繁華から折れ曲って来たものには、別天地の感じを与える。  つまり表通りや新道路の繁華な刺戟に疲れた人々が、時々、刺戟を外して気分を転換する為めに紛れ込むような/ちょっとした街筋──  福ずしの店のあるところは、この町でも一ばん低まったところで、二階建の銅張りの店構えは、サンヨネン前/表だけをゾウサクしたもので:、裏のほうは崖に支えられている柱の足を根継ぎして/古い住宅のままを使っている。  古くからある普通の鮨屋だが、商売不振で、先代の持ち主は看板ごと家作をトモヨの両親に譲って、店もだんだん行き立って来た。  新しい福ずしの主人は、もともと東京で屈指の鮨店で腕を仕込んだ職人だけに、周囲の状況を察して、鮨の品質を上げて行くに造作もなかった。前にはほとんど出前だったが、新しい主人になってからは、鮨盤の前や土間に腰かける客が多くなったので:、始めは、主人夫婦と女の子のトモヨ三人きりの暮しであったが、やがて職人を入れ、子供と女中を使わないでは間に合わなくなった。  みせへ来る客は十人十色だが、全体に就いては共通するものがあった。  あとからも前からもぎりぎりに生活の現実に詰め寄られている、そのあいだをぽっと外して気分を転換したい。  一つ一つ我儘がきいて、ちんまりした贅沢ができて、そして、ここへ来ている間は、くだらなく馬鹿になれる。好みの程度に自分から裸になれたり、仮装したり出来る。たとえ、そこで、どんな安直なことをしても云っても、誰も軽蔑するものがない。お互いに現実から隠れんぼうをしているような者同志の一種の親しさ、そして、かばい合うような懇ろな眼差しで鮨をつまむ手付きや/茶を呑む様子を見合ったりする。かとおもうとまたそれは人間というより木石の如く、はたの神経とはまったく無交渉な様子で/黙々といくつかの鮨をつまんで、さっさと帰って行く客もある。  鮨というものの生む甲斐甲斐しいまめやかな雰囲気、そこへ人がいくら耽り込んでも、乱れるようなことはない。万事が手軽く/こだわりなく行き過ぎて仕舞う。  福ずしへ来る客の常連は、元狩猟銃器店の主人、デパートソト客回り係長、歯科医師、畳屋の伜、電話のブローカー、石膏模型の技術家、児童用品の売り込みにん、ウサギ肉販売の勧誘員、証券商会をやったことのあった隠居─:─このほかにこの町の近くのどこかに棲んでいるに違いない劇場関係の芸人で、劇場が暇な時は、なにか内職をするらしく:、脂づいたような絹ものをぞろりと着て、青白い手で鮨を器用につまんで食べて行く男もある。  常連で、この界隈に住んでいる暇のある連中は散髪のついでに寄って行くし、遠くからこの附近へ用足しのあるものは、その用の前後に寄る。季節によって違うが、日が長くなると午後の四時頃から明かりがつく頃が/一ばん落合って立て込んだ。  めいめい、好み好みの場所に席を取って、寿司種で融通してくれる刺し身や、酢のもので酒を飲むものもあるし、すぐ鮨に取りかかるものもある。 ◇。◇。◇。 【第2章】 ──── ◇。◇。◇。  トモヨの父親である鮨屋の亭主は、ときには仕事場から土間へ降りて来て、黒みがかった押鮨を盛った皿を常連のまん中のテーブルに置く。 「なんだ、なんだ」  好奇の顔が四方から覗き込む。 「まあ、やってご覧、あたしの寝酒の肴さ」  亭主は客に友達のような口をきく。 「こはだにしちゃ味が濃いし──」  ひとつ-つまんだのがいう。 「鯵かしらん」  すると、畳敷きのほうの柱の根に横坐りにして見ていた-かみさん──トモヨの母親──が、は ハ ハ ハ と太り肉を揺すって「みんなお父っつあんに一ぱい食った」と笑った。  それは塩サンマを使った押鮨で、おからを使って程よく塩と脂を抜いて、押鮨にしたのであった。 「お父っさんずるいぜ、ひとりでこっそりこんな旨いものを拵えて食うなんて──」 「へえ、サンマも、こうして食うとまるで違うね」  客たちのこんな話が一しきりがやがや渦まく。 「なにしろあたしたちは、ゼニのかかる贅沢はできないからね」 「お父っさん、なぜこれを、店に出さないんだ」 「冗談いっちゃ、いけない、これを出した日にゃ、他の鮨が-けおされて売れなくなっちまわ。第一、サンマじゃ、いくらも値段がとれないからね」 「お父っつあん、なかなか商売を知っている」  その他、鮨の材料を採ったあとの鰹の中落だの、鮑のハラワタだの、鯛の白子だのを巧みに調理したものが、ときどき常連’にだけ突き出された。トモヨはそれを見て「飽きあきする、あんなまずいもの」と顔を皺めた。だが、それらは常連からくれといってもなかなか出さないで、思わぬときにひょっこり出す。亭主はこのことにかけてだけ意固地でむらっけなのを知っているので/決してねだらない。  よほど欲しいときは、娘のトモヨにこっそり頼む。するとトモヨはメンドくさそうに探し出して与える。  トモヨは幼い時から、こういう男達は見なれて、その男たちを通して世の中を頃合いでこだわらない、いささか稚気のあるものに感じて来ていた。  女学校時代に、鮨屋の娘ということが、いくらか恥じられて、家の出入りの際には、できるだけ友達を近づけないことにしていた苦労のようなものがあって:、孤独な感じはあったが、ある程度までの孤独感は、家の中の父母の間柄からも染みつけられていた。父と母と喧嘩をするような事はなかったが、気持ちはめいめい独立していた。ただ生きて行くことの必要ジョウから、事務的よりも、もう少し本能に食い込んだ協調やらいたわり方を暗黙のうちに交換して、それが反射的にまで発育しているので、世間からは無口で/比較的仲のよい夫婦にも見えた。父親は、どこか下町のビルヂングに支店を出すことに熱意を持ちながら、小鳥を飼うのを道楽にしていた。母親は、物見ユサ-ンにも行かず、着物も買わない代わりに/月々の店の売上げ額から、自分だけの月掛け貯金をしていた。  両親は、娘のことについてだけは一致したものがあった。とにかく教育だけはしとかなくてはということだった。まわりに浸々と押し寄せて来る、知識的な空気に対して、この点では両親は-きせずして一致して/社会への競争的なものは持っていた。 「自分は職人だったからせめて娘は」  と──だが、それから先をどうするかは、全く茫然としていた。  無邪気に育てられ、表面だけだが世事に通じ、軽快で/そして孤独的なものを持っている。これがトモヨの性格だった。こういう娘を誰も目の敵にしたり邪魔にするものはない。ただ男に対してだけは、ずばずば応対して女の子らしい羞らいも、作為の態度もないので:、一時/女学校の教員の間で問題になったが、商売柄、自然、そういう女の子になったのだと判って、いつの間にか疑いは消えた。  トモヨは学校の遠足会で多摩川’べりへ行ったことがあった。春さきの小川の淀みの淵を覗いていると、いくつも鮒が泳ぎ流れて来て、新茶のような青い水の中に尾鰭を閃めかしては、杭根の苔を食んで、また流れ去って行く。するともうあとの鮒が流れ溜って/尾鰭を閃めかしている。流れ来り、流れ去るのだが、その交替は人間の意識の眼には留まらない程すみやかで/微かな作業のようで、いつも若干の同じ魚が、そこに遊んでいるかとも思える。時々は不精そうな鯰も来た。  自分の店の客の新陳代謝はトモヨには/この春の’川の魚のようにも感ぜられた。(たとえ常連というグループはあっても、そのなかの一人一人はいつか変わっている)自分は杭根のみどりの苔のように感じた。みんな自分に軽く触れては慰められて行く。トモヨは店のサーヴィスを/義務とも辛抱とも感じなかった。胸も腰もつくろわない少女じみたカシミヤの制服を着て、有合せの男下駄をカランカラン引きずって、客へ茶を運ぶ。客が情事め-いたことをいって揶揄うと、トモヨは口をちょっと尖らし、片方の肩を一緒に釣上げて 「困るわそんなこと、なんとも返事できないわ」  という。さすがに、それにはごく軽い媚びが声に-よじれて消える。客は仄かな明るいものを/自分の気持ちのなかに点じられて笑う。トモヨは、その程度の福ずしの看板娘であった。 ◇。◇。◇。 【第3章】 ──── ◇。◇。◇。  客のなかの湊というのは、五十過ぎぐらいの紳士で、濃い眉がしらから顔へかけて、憂愁の蔭を帯びている。時によっては、もっと老けて見え、場合によっては情熱的な壮年者にも見えるときもあった。けれども鋭い理智から来る/一種の諦念といったようなものが、人柄の上に冴えて、苦味のある顔を柔和に磨いていた。  濃く縮れた髪の毛を、程よくモジョモジョに分け/フランス髭を生やしている。服装は赫い短靴を埃まみれにしてホームスパンを着ている時もあれば、少し古びた結城で/着流しのときもある。独身者であることはたしかだが/職業は誰にも判らず、店ではいつか先生と呼び馴れていた。鮨の食べ方は巧者であるが、しいてツウがるところも無かった。  サビタのステッキを床にとんとつき、椅子に腰かけてから体を斜に/鮨の握り台のホウへ傾け、硝子箱の中に入っている材料を物憂そうに点検する。 「ほう。今日はだいぶ品数があるな」  と云って/トモヨの運んで来た茶を受け取る。 「カンパチが脂がのっています、それに今日は蛤も──」  トモヨの父親の福ずしの亭主は、いつかこの客の潔癖な性分であることを覚え、湊が来ると無意識に俎板や塗盤の上へ/しきりにフキンをかけながら云う。 「じゃ、それを握って貰おう」 「はい」  亭主はしぜん、ほかの客とは違った返事をする。湊の鮨の食べ方のコースは、いわれなくともトモヨの父親は判っている。マグロの中とろから始まって、つめのつく煮ものの鮨になり、だんだんあっさりした青い鱗のさかなに進む。そして玉子と海苔巻に終る。それで握り手は、その日の特別の注文は、適宜にコースの中へ加えればいいのである。  湊は、茶を飲んだり、鮨を味わったりする間、片手をホオに宛てがうか、そのまま首を下げてステッキの頭に置く両手の上へ顎を載せるかして、じっと眺める。眺めるのは開け放してある奥座敷を通して眼に入る/裏の谷合の木がくれの沢地か、水を撒いてある表通りに、向こうの塀から垂れ下がっている椎の葉の茂みかどちらかである。  トモヨは、初めは少し窮屈な客と思っていただけだったが、だんだんこの客の謎めいた眼の遣りどころを見慣れると:、お茶を運んで行ったときから鮨を食い終るまで、よそばかり眺めていて、一度もその眼を自分の方に振向けないときは、物足りなく思うようになった。そうかといって、どうかして、まともにその眼を振向けられ/自分の眼と永く視線を合せていると、自分を支えている力を暈されて危いような気がした。  偶然のように顔を見合わして、ただ一通りの好感を寄せる程度で、微笑’してくれるときはトモヨは父母とは違って、自分をほぐしてくれるなにか暖か味のある刺戟のような感じを/この年とった客からうけた。だからトモヨは湊がいつまでもよそばかり見ているときは/土間の隅の湯沸しの前で、絽ざしの手をとめて:、たとえば、作り咳’をするとか/耳に立つものの音をたてるかして、自分ながらしらずしらず/湊の注意を自分に振り向ける所作をした。すると湊は、ぴくりとして、トモヨのほうを見て、微笑する。上歯とシタバがきっちり合い、引き締まって見える口の線が、滑かになり、フランス髭の方ハシが目についてあがる─:─父親は鮨を握りながらちょっと眼を挙げる。トモヨのいたずらっ気とばかり思い、また不愛想な顔をして仕事に向かう。  湊はこの店へ来る常連とは/分け隔てなく話す。競馬の話、株の話、時局の話、碁、将棋の話、盆栽の話─:─大体こういう場所の客の間に交わされる話題に洩れないものだが:、湊は、ハチブは相手に話さして、ニブだけ自分が口を開くのだけれども、その寡黙は相手を見下げているのでもなく、つまらないのを我慢しているのでもない。その証拠には、盃の一つもさされると 「いやどうも、僕は身体を壊していて、酒はすっかりとめられているのですが、折角ですから、じゃ、まあ、頂きましょうかな」といって:、細いがっしりとしている手を、何度も振って、さも敬意を表するように鮮やかに盃を受取り、気持ちよく飲んでまた盃を返す。そして徳利を器用に持ち上げて酌をしてやる。その挙動の間に、いかにも人なつこく/他人の好意に対しては、何倍にかして返さなくては気が済まない性分が現れているので、常連の間で、先生はいい人だということになっていた。  トモヨは、こういう湊を見るのは、あまり好かなかった。あの人にしては軽すぎるというような態度だと思った。相手客のほんの気まぐれに振り向けられた親しみに対して、ああまともに親身の情を返すのは、湊の持っているものが減ってしまうように感じた。ふだん陰気なくせに、いったん向けられると、なんという浅ましく/がつがつ人情に飢えている様子を現わす年取った男だろうと思う。トモヨは湊が中指に嵌めている古代エジプトのスカラップのついている銀の指輪さえそういうときは嫌味に見えた。  湊の対応ぶりに有頂天になった相手客が、なお繰り返して湊に盃をさし:、湊も釣り込まれて/少し笑声さえたてながらその盃の遣り取りを始め出したと見るときは、トモヨはつかつかと寄って行って 「お酒、あんまり呑んじゃ体にいけないって云ってるくせに、もう、よしなさい」  と湊の手から盃をひったくる。そして湊の代わりに相手の客にその盃をつき返して黙って行って仕舞う。それは必ずしも湊の体をおもう為でなく、妙な嫉妬がトモヨにそうさせるのであった。 「なかなか世話女房だぞ、ともちゃんは」  相手の客がそういう位でその場はそれなりになる。湊も苦笑しながら相手の客に一礼して自分の席に向き直り、重たい湯呑み茶碗に手をかける。  トモヨは湊のことが、だんだん妙な気がかりになり、却って、そしらぬ顔をして黙っていることもある。湊がはいって来ると、つんと済して立って行って仕舞うこともある。湊もそういう-そぶりをされて、却って明るく薄笑いするときもあるが:、全然、トモヨの姿の見えぬときは物寂しそうに、いつもより一層、表通りや裏の谷合の景色を深々と眺める。 ◇。◇。◇。 【第4章】 ──── ◇。◇。◇。  ある日、トモヨは、籠をもって、表通りの虫屋へ河鹿を買いに行った。トモヨの父親は、こういう飼いものに凝る性分で、飼い方もうまかったが、時々は失敗して数を減らした。が今年ももはや初夏の季節で、河鹿など涼しそうに鳴かせる時分だ。  トモヨは、表通りの目的の店近く来ると、その店から湊が硝子鉢を下げて出て行く姿を見た。湊はトモヨに気がつかないで/硝子鉢をいたわりながら、むこう向きにそろそろ歩いていた。  トモヨは、店へ入って手ばやく店のものに自分の買うものを注文して、籠にそれを入れて貰う間、店先へ出て、湊の行く手に気をつけていた。  河鹿を籠に入れて貰うと、トモヨはそれを持って、急いで湊に追いついた。 「先生ってば」 「ほう、ともちゃんか、珍らしいな、表で逢うなんて」  二人は、歩きながら、互いの買いものを見せ合った。湊は西洋の観賞魚のゴーストフィッシュを買っていた。それは骨が寒天のような肉に透き通って、ハラワタが鰓の下に小さく込み上がっていた。 「先生のおうち、この近所」 「今は、この先のアパートにいる。だが、いつ越すかわからないよ」  湊は珍らしく表で逢ったから/トモヨにお茶でもご馳走しようといって町筋をすこし物色したが、この辺りには思わしい店もなかった。 「まさか、こんなものを下げて銀座へも出かけられんし」 「ううん、銀座なんかへ行かなくっても、どこかその辺の空き地で休んで行きましょうよ」  湊は今更のように漲り亘る新樹の季節を見廻し、ふうっと息をクウに吹いて 「それも、いいな」  表通りを曲ると間もなく崖バタに/病院の焼跡の空き地があって、煉瓦塀の一側がローマの古跡のように見える。トモヨと湊は持ち物を叢の上に置き、足を投げ出した。  トモヨは、湊になにかいろいろ訊いてみたい気持ちがあったのだが、いまこうして傍に並んでみると、そんな必要もなく、ただ、霧のような匂いにつつまれて、しんしんとするだけである。湊のほうが却って弾んでいて 「今日は、ともちゃんが、すっかり大人に見えるね」  などと機嫌よさように云う。  トモヨは何を云おうかと暫く考えていたが、大したおもいつきでも無いようなことを、とうとう云い出した。 「あなた、おすし、本当にお好きなの」 「さあ」 「じゃ何故’来て食べるの」 「好きでないことはないさ、けど、さほど食べたくない時でも、鮨を食べるということが僕の慰みになるんだよ」 「なぜ」  何故、湊が、さほど鮨を食べたくない時でも/鮨を食べるというその事だけが湊の慰めとなるかを話し出した。  ──旧くなって潰れるような家には妙な子供が生れるというものか、大きな家の潰れるときというものは、大人より子供にその脅えが予感されるというものか:、それが激しく来ると、子は母の胎内にいるときから、そんな脅えに命を蝕まれているのかもしれないね─:─というような言葉を冒頭に湊は語りだした。  その子供は小さいときから甘いものを好まなかった。おやつにはせいぜい塩煎餅ぐらいを望んだ。食べるときは、上歯とシタバを叮嚀に揃え/円い形の煎餅の端を規則正しく噛み取った。ひどく湿っていない煎餅なら大概好い音がした。子供は噛み取った煎餅の破片をじゅうぶんに咀嚼して/咽喉へきれいに嚥み下してから/次の端を噛み取ることにかかる。上歯とシタバをまた叮嚀に揃え、そのあいだへまた煎餅の次の端を挟み入れる─:─いざ、噛み破るときに/子供は眼を薄く瞑り/耳を澄ます。  ぺちん  同じ、ぺちんという音にも、いろいろのタチがあった。子供は聞き慣れてその音の種類を聞き分けた。  ある一定の調子の響きを聞き当てたとき、子供はぷるぷると胴震いした。子供は煎餅を持った手を控えて、しばらく考え込む。うっすら眼に涙を溜めている。  家族は両親と、兄と/姉と/召使いだけだった。家中で、おかしな子供と云われていた。その子供の食べ物は他にまだ偏っていた。さかなが嫌いだった。あまり数の野菜は好かなかった。肉類は絶対に近づけなかった。  神経質のくせに/表面は大様に見せている父親は時々 「ぼうずはどうして生きているのかい」  と子供の食事を覗きに来た。一つは時勢のためでもあるが、父親は臆病なくせに大様に見せたがる性分から、家の没落をじりじり眺めながら「なに、まだ、まだ」と負け惜しみを云って潰して行った。子供の小さい膳の上には、いつものように/炒り玉子と浅草海苔が、載っていた。母親は父親が覗くと/その膳を袖で隠すようにして 「あんまり、ハタから騒ぎ立てないで下さい、これさえ気まり悪がって食べなくなりますから」  その子供には、実際、食事が苦痛だった。体内へ、色、香り、味のある塊をいれると、何か身が穢れるような気がした。空気のような食べ物は無いかと思う。腹が減ると飢えは充分感じるのだが、うっかり食べる気はしなかった。床の間の冷たく透き通った水晶の置きものに、舌を当てたり、ホオをつけたりした。飢えぬいて、頭の中が澄み切ったまま、だんだん、気が遠くなって行く。それが谷地の池水を距ててA-丘の後へ入りかける夕陽を眺めているときででもあると(:湊の生れた家もこの辺の地勢に似た都会の一隅にあった。)子どもはこのまま/のめり倒れて死んでも構わないとさえ思う。だが、この場合は窪んだ腹にきつく締めつけてある帯の間に両手を無理にさし込み、体は前のめりのまま首だけ-あおのいて 「お母さあん」  と呼ぶ。子供の呼んだのは、現在の生みの母のことではなかった。子供は現在の生みの母は家族じゅうで一番好きである。けれども子供にはまだ他に自分に「お母さん」と呼ばれる女性があって、どこかに居そうな気がした。自分がいま呼んで、もし「はい」といってその女性が眼の前に出て来たなら/自分はびっくりして気絶して仕舞うに違いないとは思う。しかし呼ぶことだけは悲しい楽しさだった。 「お母さあん、お母さあん」  薄紙が風に慄えるような声が続いた。 「ハアイ」  と返事をして現在の生みの母親が出て来た。 「おや、この子は、こんなところで、どうしたのよ」  肩を揺すって顔を覗き込む。子供は感違いした母親に対して/なんだか恥ずかしく赤くなった。 「だから、三度サンドちゃんとご飯食べておくれと云うに、さ、ほんとに後生だから」  母親はおろおろの声である。こういう心配の揚句、卵と浅草海苔が、この子の一ばんショウに合う食べ物だということが見い出されたのだった。これなら子供には腹に重苦しいだけで、けがされざるものに感じた。  子供はまた、時々、切ない感情が、体のどこからか判らないで/体いっぱいに詰まるのを感じる。そのときは、酸味のある柔らかいものなら何でも噛んだ。生梅や橘の実を捥いで来て噛んだ。さみだれの季節になると子供は/都会の中の丘と/谷合にそれらの実の在処を/それらを啄みに来る烏のようによく知っていた。  子供は、小学校はよく出来た。一度読んだり聞いたりしたものは、すぐ判って/乾板のように脳の襞に焼きつけた。子供には学課の容易さがつまらなかった。つまらないという冷淡さが、却って学課の出来をよくした。  家の中でも学校でも、みんなはこの子供を別物扱いにした。  父親と母親とが一室で言い争っていた末、母親は子供のところへ来て、しみじみとした調子でいった。 「ねえ、おまえがあんまり痩せて行くもんだから/学校の先生と学務委員たちの間で、あれは家庭で衛生の注意が足りないからだという話が持ち上がったのだよ。それを聞いて来てお父つぁんは、ああいう性分だもんだから、私に意地くね悪く当りなさるんだよ」  そこで母親は、畳の上へ手をついて、子供に向かってこっくりと、頭を下げた。 「どうか頼むから、もっと、食べるものを食べて、肥っておくれ、そうしてくれないと、あたしは、朝晩、いたたまれない気がするから」  子供は自分の畸形な性質から、いずれは犯すであろうと予感した罪悪を、犯したような気がした。悪い。母に手をつかせ、お辞儀をさせてしまったのだ。顔がかっとなって体に慄えが来た。だが不思議にも心は却って安らかだった。すでに、自分は、こんな不孝をして悪人となってしまった。こんな奴なら自分は滅びて仕舞っても/自分で惜しいとも思うまい。よし、何でも食べてみよう、食べ馴れないものを食べて体が慄え、吐いたりもどしたり:、その上、体じゅうが濁り腐って死んじまっても好いとしよう。生きていてしじゅう食べ物の好き嫌いをし、人をも自分をも悩ませるよりそのほうがましではあるまいか──  子供は、平気を装って’家のものと同じ食事をした。すぐ吐いた。口中や咽喉を極力無感覚に制御したつもりだが/嚥み下した食べ物が、母親以外の女の手が触れたものと思う途端に、胃袋が不意に逆に絞り上げられた─:─女中の裾から出る剥げた赤いゆもじや/飯炊婆さんの横顔になぞってある黒鬢つけの印象が/胸の中を暴力のように掻き回した。  兄と姉はいやな顔をした。父親は、子供を横顔でちらりと見たまま、知らん顔して晩酌の盃を傾けていた。母親は子供の吐きものを始末しながら、恨めしそうに父親の顔を見て 「それご覧なさい。あたしのせいばかりではないでしょう。この子はこういう性分です」  と嘆息した。しかし、父親に対して母親はなお、おずおずはしていた。 ◇。◇。◇。 【第5章】 ──── ◇。◇。◇。  その翌日であった。母親は青葉の映りの濃く射す縁側へ/新しい茣蓙を敷き、俎板だの/包丁だの/水桶だの/蠅帳だの持ち出した。それもみな買い立ての真新しいものだった。  母親は自分と俎板を距てた向かい側に子供を坐らせた。子供の前には膳の上に一つの皿を置いた。  母親は、腕捲りして、薔薇いろの掌を差出して/手品師のように、手の裏オモテを返して子供に見せた。それからその手を言葉と共に調子づけてこすりながら云った。 「よくご覧、使う道具は、みんな新しいものだよ。それから拵える人は、おまえさんの母さんだよ。手はこんなにもよくきれいに洗ってあるよ。判ったかい。判ったら、さ、そこで──」  母親は、鉢の中で炊きさました飯に/酢を混ぜた。母親も子供もこんこん噎せた。それから母親はその鉢を傍に寄せて、中からいくらかの飯の分量を掴み出して、両手で小さく長方形に握った。  蠅帳の中には、すでに鮨の具が調理されてあった。母親は素早くその中からひときれを取出して/それからちょっと押えて、長方形に握った飯の上へ載せた。子供の前の膳の上の皿へ置いた。玉子焼鮨だった。 「ほら、鮨だよ、おすしだよ。手々で、じかに掴んで食べても好いのだよ」  子供は、その通りにした。はだかの肌をするする撫でられるようなころ合いの酸味に、飯と、玉子のあまみが/ほろほろに交じったあじわいが丁度’舌一ぱいに乗った具合─:─それをひとつ食べて仕舞うと体を母に拠りつけたいほど、おいしさと、親しさが、ぬくめたコウトウのように/子供の身うちに湧いた。  子供はおいしいと云うのが、きまり悪いので、ただ、にいっと笑って、母の顔を見上げた。 「そら、もひとつ、いいかね」  母親は、また手品師のように、手をうら返しにして見せたあと、メシを握り、蠅帳から具の一切れを取りだして押しつけ、子供の皿に置いた。  子供は今度は握った飯の上に乗った/白く長方形の切片を気味悪く覗いた。すると母親は怖くない程度の威丈高になって 「なんでもありません、白い玉子焼だと思って食べればいいんです」  といった。  かくて、子供は、烏賊というものを生れて始めて食べた。象牙のような滑らかさがあって、生餅より、よっぽど歯切れがよかった。子供は烏賊鮨を食べていたその冒険のさなか、詰めていた息のようなものを、ハっ、として顔の力みを解いた。うまかったことは、笑い顔でしか現わさなかった。  母親は、こんどは、飯の上に、白い透きとおる切片をつけて出した。子供は、それを取って口へ持って行くときに、脅かされる匂いに掠められたが、鼻を詰まらせて、思い切って口の中へ入れた。  白く透き通る切片は、咀嚼のために、上品なうま味に衝きくずされ、程よい滋味の圧感に混じって、子供の細い咽喉へ通って行った。 「今のは、たしかに、本当の魚に違いない。自分は、魚が食べられたのだ──」  そう気づくと、子供は、はじめて、生きているものを噛み殺したような征服と新鮮を感じ、辺りを広く見廻したい歓びを感じた。むずむずする両方の脇腹を、同じような歓びで、じっとしていられない手の指で掴み掻いた。 「ひ ひ ひ ひ ひ」  無暗に疳高に子供は笑った。母親は、勝利は自分のものだと見てとると、指についた飯粒を、ひとつひとつ払い落したりしてから:、わざと落ちついて蠅帳のなかを子供に見せぬよう覗いて云った。 「さあ、こんどは、何にしようかね‥‥はてね‥‥まだあるかしらん‥‥」  子供は焦立って絶叫する。 「すし! すし」  母親は、嬉しいのをぐっと-こらえる/少し-ほうけたような─:─それは子供が、母と-しては一ばん好きな表情で、生涯忘れ得ない美しい顔をして 「では、お客さまのお好みによりまして、次を差し上げまあす」  最初のときのように、薔薇いろの手を子供の眼の前に近づけ、母’はまたも手品師のように裏とオモテを返して見せてから/鮨を握り出した。同じような白い身の/魚の’鮨が握り出された。  母親はまず最初の試みに注意深く/色と生臭の無い魚肉を選んだらしい。それは鯛と比良目であった。  子供は続けて食べた。母親が握って皿の上に置くのと、子供が掴み取る手と、競争するようになった。その熱中が、母と子を何も考えず、意識しない/一つの気持ちの痺れた世界に牽き入れた。五つ六つの鮨が握られて、掴み取られて、食べられる─:─その運びに面白く調子がついて来た。素人の母親の握る’鮨は、いちいち大きさが違っていて、形も不細工だった。鮨は、皿の上に、ころりと倒れて、載せた具を傍へ落すものもあった。子供は、そういうものへ却って愛感を覚え、自分で形を調えて食べると/余計おいしい気がした。子供は、ふと、日頃、内緒で呼んでいるも一人の幻想のなかの母と/いま目の前に鮨を握っている母とが/眼の感覚だけか頭の中でか、一致’しかけ/ヒトエの姿に紛れている気がした。もっと、ぴったり、一致して欲しいが、あまり一致したら恐ろしい気もする。  自分が、いつも、誰にも内緒で呼ぶ母はやはり、この母親であったのかしら:、それがこんなにも自分においしいものを食べさせてくれるこの母’であったのなら、内密に心を外の母に移していたのが悪かった気がした。 「さあ、さあ、今日は、この位にして置きましょう。よく食べておくれだったね」  目の前の母親は、飯粒のついた薔薇いろの手を/ぱんぱんと子供の前で気もちよさそうに’はたいた。  それからあともゴ六度、母親の手製の鮨に/子供は慣らされて行った。  ざくろの花のような色の赤貝の身だの、二本の銀色の地色に/竪縞のあるさよりだのに、子供は馴染むようになった。子供はそれから、だんだん平常の飯のサイにも魚が食べられるようになった。身体も見違えるほど健康になった。中学へ入る頃は、人が振り返るほど美しく逞しい少年になった。  すると不思議にも、今まで冷淡だった父親が、急に少年に興味を持ち出した。晩酌の膳の前に子供を坐らせて酒の対手をさしてみたり、玉突きに連れて行ったり、茶屋酒も飲ませた。  そのあいだに’家はだんだん潰れて行く。父親は美しい息子が紺飛白の着物を着て/盃を含むのを見て陶然とする。他所の女にちやほやされるのを見て手柄を感ずる。息子は十六シチになったときには、結局いい道楽者になっていた。  母親は、育てるのに手数をかけた息子だけに、狂気のようになって/その子を父親が台なしにして仕舞ったと怒る。その必死な母親の怒りに対して/父親は張合いもなく/薄苦くモクショウしてばかりいる。家が傾く鬱積を、こういう夫婦争いで両親は晴らしているのだ、と息子はつくづく味気なく感じた。  息子には学校へ行っても、学課が見通せて判り切ってるように思えた。中学でも彼は勉強もしないでよく出来た。高等学校から大学へ苦もなく進めた。それでいて、何かしら体のうちに切ないものがあって、それを晴らす方法は急いで求めても/なかなか見付からないように感ぜられた。永い憂鬱と退屈あそびのなかから大学も出、職も得た。  家は全く潰れ、父母や兄弟も前後して死んだ。息子自身は頭が好くて、どこへ行っても相当に用いられたが、何故か、一家の職にも、栄達にも気が進まなかった。二度目の妻が死んで、五十近くなった時、一寸した投機でかなり儲け、一生’独りの生活には事かかない見極めのついたのを機に/職業も捨てた。それからあとは、ここのアパート、あちらの貸家と、彼の一所不定の生活が始まった。 ◇。◇。◇。 【第6章】 ──── ◇。◇。◇。  今のはなしのうちの子供、それから大きくなって息子と呼んではなしたのは私のことだと/湊は長い談話のあとで、トモヨに云った。 「ああ判った。それで先生は鮨がお好きなのね」 「いや、大人になってからは、そんなに好きでもなくなったのだが、近頃、年をとったせいか、しきりに母親のことを想い出すのでね。鮨までなつかしくなるんだよ」  二人の坐っている病院の焼跡のひとところに/支えの朽ちた藤棚があって、おどろのように藤蔓が宙から地上に這い下り:、それでも蔓の先のほうには若葉を一ぱいつけ、そのあいだから痩せたうす紫の花房が/雫のように咲き垂れている。庭石の根締めになっていたやしおの躑躅が/石を運び去られたあとの穴の側に半面、青黒く枯れて火のあおりのあとを残しながら、半面に白い花をつけている。  庭の端の崖シタは電車線路になっていて、ときどき轟々と電車の行き過ぎる音だけが聞える。  竜の髭のなかのいちはつの花の紫が、夕風に揺れ、二人のいる近くに一本たっている太い棕梠の木の影が、草叢の上にだんだん斜にかかって来た。トモヨが買って来てそこへ置いた籠の河鹿が二声、三声、啼き初めた。  二人は笑いを含んだ顔を見合せた。 「さあ、だいぶ遅くなった。ともちゃん、帰らなくては悪かろう」  トモヨは河鹿の籠を捧げて立ち上った。すると、湊は自分の買った骨の透き通って見えるゴーストフィッシュをも、そのままトモヨに与えて立ち去った。 ◇。◇。◇。 【第7章】 ──── ◇。◇。◇。  湊はその後、すこしも福ずしに姿を見せなくなった。 「先生は、近頃、さっぱり姿を見せないね」  常連の間に不審がるものもあったが、やがてすっかり忘れられてしまった。  トモヨは湊と別れるとき、湊がどこのアパートにいるか聞きもらしたのが残念だった。それで、こちらから訪ねても行けず/病院の焼跡へ暫く佇んだり、辺りを見廻しながら石に腰かけて湊のことを考え/時々は眼にうすく涙さえためて”また茫然として店へ帰って来るのであったが:、やがてトモヨのそうした行為も止んで仕舞った。  このごろでは、トモヨは湊を思い出す度に 「先生は、どこかへ越して、またどこかの鮨屋へ行ってらっしゃるのだろう─:─鮨屋はどこにでもあるんだもの──」  と漠然と考えるに過ぎなくなった。 ◇。◇。◇。 【底本:「岡本かの子全集5」ちくま文庫、筑摩書房】 【1993(平成5)年8月24日第イッサツ発行】 【底本の親本:「第六創作集◇ 老妓抄」中央公論社】 【1939(昭和14)年3月18日】 【初出:「文芸」】 【1939(昭和14)年1月号】 【入力・校正:鈴木厚司】 【1999年3月8日公開】 【2013年4月26日修正】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(httpコロン/スラッシュスラッシュwww.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。