◇。◇。◇。◇。◇。 【小公女《ショウ公女》】 【フランセス・ホッヂソン・バァ《ー》ネット】 【菊池寛訳《菊池寛ヤク》】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【はしがき(父兄へ)】 ◇。◇。◇。◇。◇。  この『小公女《ショウ公女》』という物語は、『小公子』を書いた米国のバァ《ー》ネット女史が、その『小公子』の姉妹篇として書いたもので、少年少女読物としては、世界有数のものであります。 『小公子』は、貧乏な少年が、一躍イギリスの貴族の子になるのにひきかえて、この『小公女《ショウ公女》』は、金持《金持ち》の少女が、ふいに無一物の孤児《ミナシゴ》になることを書いています。しかし、強い正しい心を持っている少年少女は、どんな境遇にいても、敢然としてその正しさを枉げない、ということを、バァ《ー》ネット女史は両面から書いて見せたに過ぎないのです。 『小公子』を読んで、何物かを感得された皆さんは、この『小公女《ショウ公女》』を読んで、また別な何物かを得られる事と信じます。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【昭和二年十二月菊池《昭和二年十二月/菊池》 寛】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【印度《インド》からロンドンへ】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ある陰気な冬の日のことでした。ロンドンの市中は、非常な霧のために、街筋には街燈《街灯》が点《-とも》り、商店の飾窓は瓦斯《ガス》の光に輝いて、まるで夜が来たかと思われるようでした。その中を、風変《風変わ》りなどこか変《変わ》った様子の少女が、父親と一緒に辻馬車《/辻馬車》に乗って、さして急ぐともなく、揺られて行きました。父の腕に抱かれた少女は、脚を縮めて坐り、窓越しに往来の人々を眺めていました。  セエ《ー》ラ・クルウ《ー》はまだやっと七歳なのに、十二にしてもませすぎた眼付《眼付き》をしていました。彼女は年中大人《年中’大人》の世界のことを空想してばかりいましたので、自然顔付《自然’顔付き》もませてきたのでしょう。彼女自身も、もう永い永い生涯を生きて来たような気持《気持ち》でいました。  セエ《ー》ラは今、父のクルウ《ー》大尉と一緒に、ボムベイからロンドンに着いたばかりのところなのです。あの暑い印度《インド》のこと、大きな船のこと、甲板のこと、船の上で知り合いになった小母さん達のことなど思い起《起こ》しますと、今《いま》この霧の町を妙な馬車で通っていることさえ、不思議に思われてなりませんでした。セエ《ー》ラは父の方《ほう》にぴたりと身を寄せて、 「お父様《父さま》。」と囀《囁》きました。 「何だえ、嬢や?」クルウ《ー》大尉はセエ《ー》ラをひしと抱きしめて、娘の顔を覗きこみました。「何を考えているの?」 「ねえ、これがあそこなの?」 「うむ、そうだよ。とうとう来たのだよ。」  セエ《ー》ラはほんの七歳でしたが、そういった時の父が、悲しい思い出に打たれていることを悟りました。  父がセエ《ー》ラの口癖の「あそこ」のことを話し出したのは、ずっと前のことでした。母はセエ《ー》ラの生《生ま》れた時亡《とき/亡》くなってしまいましたので、セエ《ー》ラは母のことは何も知らず、したがって恋しいとも思いませんでした。若くて、風采の立派な、情愛の深い父こそは、セエ《ー》ラにとってた《/た》った一人の肉親でした。父子《二人》はいつも一緒に遊び、お互《互い》にまたなきものと思っていました。セエ《ー》ラは皆《みんな》が彼女に聞えないつもりで話しているのを耳にして、父は裕福なのだと知りました。それで、彼女も大きくなれば裕福になるのだと知りました。裕福とはどんなことか、それはセエ《ー》ラには解《分か》りませんでした。が、セエ《ー》ラは美しい平屋建《バンガロー》に住んでいましたし、召使《召使い》はたくさんいましたし、何でもセエ《ー》ラの自由にならないものはありませんので、こんなのが裕福というのかなと彼女は思っていました。  七歳《七つ》になるまでの間にセエ《ー》ラの気がかりになっていたことは、いつか伴《連》れて行かれる「あそこ」のことだけでありました。印度《インド》の気候は子供達《子供たち》の体によくなかったので、印度《インド》で生《生ま》れた子供達《子供たち》は出来るだけ早く英国へ送られ、英国の学校に入れられるのでした。セエ《ー》ラはよその子供達《子供たち》が英国へ帰って行くのを見たり、親達《親たち》が子供から受けとった手紙の話をしているのを、聞いたりしました。で、セエ《ー》ラもいつかは印度《インド》を去ることになるのだろうと思っていました。父が時々してくれる航海の話、新しいお国の話には惹きつけられないでもありませんでした。が、あそこに行けば、父と一緒にいることが出来ないのだと思うと、セエ《ー》ラの胸は痛むのでした。 「パパさんは、あそこへ一緒に行って下さらないの?」そう尋ねたのは五歳《五つ》の時でした。 「一緒に学校へいらっしゃらない? 私、お父さんのおさらいしてあげてよ。」 「でもセエ《ー》ラや、別れているのはそんなに永いことじゃァ《あ》ないのだよ。それにお前は、小さいお嬢さんのたくさんいる素敵な《な-》お家へ行くのだよ。そして、みんなと遊ぶのだよ。お父さんはたくさん御本《ご本》を送って上げる、お前はどしどし大きくなって、一年も経つかたたないうちにすっかり大人になって、利口になって帰ってくる。そうして、お父さんの世話をしてくれる──。」  その時のことを考えると、セエ《ー》ラはうれしくなりました。父のために家の中を片付けたり、父と一緒に馬に乗ったり、父が宴会を催す時には食卓の上座《ショウザ》に坐ったり、父の話相手になったり、父に本を読んであげたり、──そんなことを覚えるためだったら、よろこんで英国へ行こう、とセエ《ー》ラは思いました。セエ《ー》ラは学校でお友達がたくさん出来ることなどは、うれしいとも思いませんでしたが、御本《ご本》をたくさん送ってもらえるのは、うれしいに違いありませんでした。セエ《ー》ラは本が何より好きでした。本さえあれば寂しいとも思いませんでした。それにセエ《ー》ラは、美しい物語を自分で作って、自分で語り聞かせるのが好きでした。時には、それを父に話して聞かせることもありました。父もセエ《ー》ラ同様、その物語を喜んで聞きました。 「ねえ、お父様《父さま》。」セエ《ー》ラは馬車の中でそっといい出しました。「もうここに来たのなら、諦めなければならないわねエ。」  父はセエ《ー》ラがあまりませたことをいうので、笑って、そして彼女に接吻《キス》しました。父はその実ち《/ち》っとも諦めてはいなかったのでしたが、セエ《ー》ラにそうと知らしてはならないと思いました。妙におどけた小さいセエ《ー》ラは、父にとってこそ、なくてはならぬ伴侶《道連れ》だったのです。印度《インド》の家へ帰っても、セエ《ー》ラがあの白い上衣を着て迎えに出て来ないのだとしたら、どんなに寂しいだろう、とクルウ《ー》大尉は思わずには《は-》いられませんでした。父は娘をしかと抱き寄せました。馬車はその時陰気《とき陰気》な街筋《町筋》へがらがらと入って行きました。そこに二人の目ざす家《’家》があったのでした。  その街並は、皆大《みんな大》きな陰鬱《/陰鬱》な煉瓦建《レンガダテ》でした。その一つの家《’家》の、正面の扉の上に、真鍮の名札が輝いていました。そこに黒でこう彫《ほ》ってありました。 ◇。◇。◇。 【ミス・ミンチン女子模範学校】 ◇。◇。◇。 「さあここだよ、セエ《ー》ラ。」とクルウ《ー》大尉は出来るだけ機嫌よさそうにいって、セエ《ー》ラを馬車から抱き下ろしました。セエ《ー》ラはあとになってよく思い合せたことでしたが、この家はどことなくミンチン先生にそっくりでした。かなりきちんとしていて、造作《ゾウサク》などもよく出来てはいましたが、家にあるものは何もかもぶ《-ぶ》ざまでした。椅子も、絨氈《絨毯》の模様も、真四角で、柱時計まできびしい顔つきをしていました。 「あたし、何《なん》だか|いや《嫌》になったわ。」とセエ《ー》ラは父にいいました。「兵隊さんだって、いざとなったら、|ほんとう《本当》は戦争に行くのが、|いや《嫌》になりはしないだろうかしら。」  その妙ないいかたを聞くと、クルウ《ー》大尉はからからと笑い出しました。 「ほんとに、セエ《ー》ラ! お前のように真面目に物をいってくれるものがなくなると、わたしも困るね。」 「じゃア《あ》、なぜ真面目なことをお笑いになるの?」 「だって、お前が真顔でいうと、それがまた莫迦に面白く聞えるからさ。」  そこへ、ミンチン先生が入ってきました。ミス・ミンチンは魚のような冷《冷た》い大きな眼をして、魚《サカナ》のような微笑みかたをしました。先生はこの学校をクルウ《ー》大尉に推薦したメレディス夫人の口から、クルウ《ー》大尉が金持《金持ち》で、わけてもセエ《ー》ラのためなら何万金も惜しまないということを聞いていました。先生にとっては願ってもない話だったのです。 「こんなお綺麗なお子さんをおひきうけ申しますのは、|ほんとう《本当》に嬉しゅうございます。メレディス夫人のお話では、大変御利発《大変ご利発》なそうで──」  セエ《ー》ラはミス・ミンチンの顔を見つめたまま、静かに立っていました。 「私はやせっぽちで、毛は黒くて短いし、眼は緑色だし、ちっとも綺麗なんかじゃないのに、あの方は嘘ばっかしい《言》っている。」とセエ《ー》ラは思いました。後々セエ《ー》ラは、ミンチン先生がどの子供の親にでも同じようなお世辞をいうのを知りました。そうは《は-》いっても、セエ《ー》ラは自分が思っているほど醜い子では決してありませんでした。ほっそりして、しとやかな身体《体》つきで、人好きのする顔立《顔立ち》をしていました。黒い髪も、緑色の眼も、見る眼には見事に映るくらいだったのです。  セエ《ー》ラは寄宿生は寄宿生でも、普通の生徒と違って、特別に美しい寝室と居間とをあてがわれることになりました。それから、子馬を一頭と、馬車を一台《1台》と、|乳母代り《乳母ガワリ》の女中一人とがあてがわれるはずでした。 「この子の教育については、少しも心配はありませんが。」と、父はセエ《ー》ラの手を撫でながら、愉快そうに笑っていいました。「ただ、あまり勉強をさせすぎないようにして頂きたいと思います。今まででさえ、この子は鼻の先を本の中《なか》に埋めるようにして坐っているのですからねエ。読むんじゃア《あ》ないのですよ、ミス・ミンチン。狼の子みたいに、本を貪り食っちまうんですからね。それに、大人の本を欲《ほ》しがっているんですから。歴史であれ、伝記であれ、詩《し》であれ──それに、フランスやドイツのものまで。ですから、なるべく本から引離《引き離》して、小馬に乗せたり、町へ人形を買いに伴《連》れてってやったりして下さい。」 「でもお父様《父さま》、町へ出るたびにお人形を買ってたら、とても仲よ《良》しになりきれないほどの数《カズ》になってしまうでしょう。エミリイ《ー》ちゃんは、私の親友になるはずですけど。」 「エミリイ《ー》さんて、どなた?」とミス・ミンチンが訊ねました。 「お話《話し》しておあげ、セエ《ー》ラ。」  父にいわれると、セエ《ー》ラは大変気高く、物優しい眼になって、話し出しました。 「エミリイ《ー》ちゃんは、まだ買ってないけど、お父様《父さま》が私に買って下さるはずのお人形ですの。お父様《父さま》がいらっしゃらなく《く-》なったら、私エミリイ《ー》ちゃんとお父様《父さま》のことをいろいろお噂するつもり。」 「まア《あ》、何《なん》て御利発《ご利発》な──」 「ええ。」と父はセエ《ー》ラをひきよせて、「この子はまったく可愛い子です。どうか私に代《代わ》って、よく面倒をみてやって下さい。」とミス・ミンチンにいいました。  それから五六日《ゴロクニチ》、セエ《ー》ラは父とホテルに滞在しました。二人は毎日町《毎日’町》へ出ては、夥しい買物をしました。高価な毛皮で縁どった天鵞絨の服や、レエ《ー》スの着物や、刺繍のある衣服や、駝鳥の羽根で飾った帽子──貂の皮の外套、それから小さな手袋、手巾《ハンケチ》、絹の靴下──《─:》帳場の後方《後ろ》に坐っていた婦人達《婦人たち》は、あまり贅沢な買物をするので、セエ《ー》ラはどこかの姫宮《プリンセス》じゃア《あ》ないかと囁き合ったくらいでした。 「私は、あの子を生きているように見せたいの。でも、お人形ってものは、何《なん》だかいくらお話《話し》しても聞いてないような顔しているから、私《わたし》気になってしょうがないの。」  二人は方々《ホウボウ》の人形屋に馬車を走らせ、黒眼の人形、青眼《青メ》の人形、茶色の髪の人形、金色の髪を編んだ人形、衣裳をつけた人形、裸人形などいちいち覗いて歩きましたが、どれもセエ《ー》ラの『エミリイ《ー》』ではありませんでした。失望を重ねたあげく、二人は馬車を降りて、軒並に陳列窓を覗いて歩くことにしました。二三《二’三》の店を通りすぎて、とある小さな店の前に来かかった時でした。セエ《ー》ラは突然《突然’》飛び上《上が》って、父の腕にひしと縋りつきました。 「あそこに、エミリイ《ー》ちゃんが!」  セエ《ー》ラの顔にはさっと紅《ベニ》が刷かれました。青鼠色《アオ鼠色》の眼には、たった今、大好きなお友達を認めたというような表情が浮びました。 「あの子は、|ほんとう《本当》に私を待ってるのよ。さ、あの子の所へ行きましょう。」 「おやおや、誰かに紹介してもらわないでもいいのかね。」 「お父様《父さま》が私を紹介して下さるの。そしたら、私もお父様《父さま》を紹介してあげるわ。でも、私はあの子を見た時すぐわかったんですもの、あの子だってきっと私を知っててよ。」  エミリイ《ー》もきっとセエ《ー》ラだとわかっていたのでしょう。セエ《ー》ラが抱きかかえると、エミリイ《ー》は|ほんとう《本当》に利口そうな眼つきをしていました。大きな人形でしたが、大きすぎて持ち運びが出来ぬというほどではありませんでした。癖のない金色の巻毛が、マントのようにふさふさと垂れ、眼は深い、澄みきった藍鼠色でした。そして、そのふちには、ほんものの睫が生えていました。  二人は、エミリイ《ー》を子供衣裳屋に伴《連》れて行き、セエ《ー》ラの通りに立派な衣裳を整えました。 「私は、誰がみてもこの子はいいお母様《母さま》を持っていると思うようにしておきたいの。私はこの子のお友達で、そしてお母さんなのよ。」  父はセエ《ー》ラと一緒にこの買物をよろこびました。が、この可愛い、愛嬌のある娘から、じきに別れなければならないのを想い出すと、たまらなく悲しくなりました。  クルウ《ー》大尉は、真夜中《マ夜中》に自分の床《トコ》を出て、立ってセエ《ー》ラを見下ろしていました。セエ《ー》ラはエミリイ《ー》を抱いて眠っていました。乱れた黒い髪が枕の上で、エミリイ《ー》の金髪と縺れ合っていました。二人ともレエ《ー》スの襞をとった寝衣《寝巻》を着、二人とも長い、先のそり上《上が》った睫を頬《ホオ》の上に落していました。エミリイ《ー》は真実生きた子供のようでした。  翌日、大尉はセエ《ー》ラをミス・ミンチンのもとに連れて行きました。彼は次の日印度《日インド》へ立つことになっていましたので、先生にいろいろ後の事を頼みました。彼は一週に二度セエ《ー》ラに手紙を書くことを約束しました。それから、セエ《ー》ラの望みなら何でも叶えてやってくれといいました。 「この子は感じやすい子でして、自分でこれと思ったもの以外には、何も欲しがらないのですよ。」  それから、彼はセエ《ー》ラと一緒に彼女の小さな部屋に行き、お互《互い》にさよならをいい合いました。セエ《ー》ラは父の膝に乗り、上衣の折返しの所を小さな手で握って、永いことじっと父の顔を見つめていました。父はセエ《ー》ラの髪を撫でて、 「私の顔をそらで覚えこむつもりなのかい? セエ《ー》ラ。」といいました。 「いいえ、私ちゃんともうそらで知ってるわ。お父様《父さま》は私の胸の内側にいらっしゃるのよ。」  二人は抱き合って、もう離さないというような接吻《キス》をしました。  辻馬車が戸口から駈け出すと、セエ《ー》ラはエミリイ《ー》と一緒に二階の部屋の床《床’》の上に坐り、顎を両手の上にのせて、馬車が角《カド》を曲るまで、窓から見送っていました。  ミンチン先生が心配して、妹のアメリア嬢を見にやると、扉には中から錠がおりていました。セエ《ー》ラは中から、 「あたし、一人で静かにして《て-》いとうございますから。」と、慎ましい小声でいいました。  アメリア嬢は肥っちょの背の低い婦人で、姉をひどく怖がっ《-っ》ていました。彼女はセエ《ー》ラのしうちに吃驚して、階下に降《-お》りて行きました。 「お姉さん、ませた変な子ね。あの子はまア《あ》、錠をかけて閉じこもっているのですよ。ことりとも音をさせずに。」 「他の子のように、暴れたり、泣いたりするより、その方《ほう》がましさ。あんなに甘やかされているから、家中《家じゅう》がひっくりかえるような騒ぎをするかと、私は思っていたんだよ。」 「あの子のトランクには大変なものが入っていますのね。黒貂皮《セーブル》や、貂皮《アーミン》を縫いつけた上衣や、それに下着には本場のレエ《ー》スがついているのですよ。」 「まったく莫迦げてるね。でも、教会へ行く時、あれを生徒の先頭にすると立派でいい。」  二階ではまだセエ《ー》ラとエミリイ《ー》とが、馬車の消えて行く町角を見つめていました。馬車の中のクルウ《ー》大尉も、ふり返っては手を振り、もうたまらなくなったというように振った自分の手を接吻《キス》していました。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 【フランス語の課業】 ◇。◇。◇。◇。◇。  次の朝、セエ《ー》ラが教室へ入って行きますと、生徒は皆眼《みんな眼》を見張って、物珍しそうに彼女を見つめました。生徒達《生徒たち》はもうセエ《ー》ラのことをいろいろ聞いて知っていました。前の晩到着《晩’到着》したセエ《ー》ラ附《付き》の女中、フランス人のマリエットをちらと見たものさえありました。すっかり大人顔をしているラヴィニア・ハア《ー》バア《ー》トなどは、開きかけた扉《ドア》の間から、マリエットがどこかの店から着いた箱を開けているのを見たくらいでした。 「レエ《ー》スの縁飾《フリル》のついた下袴《ペティコート》で一杯だってよ。」ラヴィニアは身をこごめて地理の本の上から、ジェッシイ《ー》に囁きました。「あの方、今もあの下袴《ペティコート》を着けてるのよ。腰をかける時ちょっと見えたわ。」 「まあ、あの方の靴下絹《靴下’絹》ね。」ジェッシイ《ー》も地理書越しに小声でいいました。「それに、可愛い足ね。」 「でも、足なんて靴次第で小さく見えるものよ。それにあの方、ちっとも綺麗じゃア《あ》ないのね。眼だって変な色だわ。」 「綺麗さがちょっと違うのよ。なんだか振り返って見たくなるような顔よ。そして睫の長いこと!」  セエ《ー》ラは静かにミス・ミンチンの机のそばの、自分の席につきました。セエ《ー》ラは皆《みんな》に見られても別に羞《羞じ》らう様子もありませんでした。かえって、自分を見つめている子供達《子供たち》が珍しいので、静かに皆《みんな》の方《ほう》を見返すのでした。皆《みんな》は何を考えているのかしら? 皆《みんな》はミンチン先生が好きなのかしら? めいめいの課業に精を出しているのかしら? みんな私のパパさんみたいなパパさんを持っているのかしら? などと思ってもみました。セエ《ー》ラはその朝、エミリイ《ー》と永いこと父の噂をして来たのでした。 「エミリイ《ー》、お父様《父さま》は今頃もうお船の上よ。仲よ《良》くして何でも話し合いましょうね。私の顔をごらんなさい。まア《あ》お前は、何《なん》て綺麗なお眼々《目々》をしているんでしょう。ほんとに、お前お《/お》口がきけたらいいのにね。」  セエ《ー》ラは空想や気まぐれな考えを一杯持《一杯’持》っていました。エミリイ《ー》を生きたものと考えて、そこに限りないよろこびを感じるのも、その空想の一つでした。セエ《ー》ラは女中に紺の学校服を着せてもらい、同じ色のリボンを結んでもらってから、椅子の上のエミリイ《ー》に本を一冊持って行ってやりました。 「私が教室へ行っている間、それを読んでらっしゃい。」  女中のマリエットが怪訝そうな顔をしたので、セエ《ー》ラは真面目くさっていいました。 「私達《私たち》にはわからないけど、お人形には読んだり、歩いたり、いろんなことが出来るんじゃア《あ》ないかと、あたし思うのよ。ただそれは誰もいない時だけなの。なぜって、お人形にも何でも出来るとわかれば、お仕事やなんかをおしつけるようになるでしょう。だからきっと、お人形さん達の間には、何《なん》にも出来ないような顔をしていようというお約束があるのよ。マリエットが見ているうちは、そこにじっとしているけど、外へ出かけでもすると、きっと本を読んだり、窓の外を見に行ったりするのよ。そして、私達《私たち》の足音が聞えるや否や、その椅子の中に飛び帰って、さっきからそこに坐っていたような顔してすましているのよ。」  マリエットは、「おかしなお嬢さん。」とひとりごとをいいました。彼女はこの風変《風変わ》りな御主人《ご主人》がすっかり好きになりかけていました。彼女はこれまでに、セエ《ー》ラ程たしなみのいい子の世話をしたことはありませんでした。セエ《ー》ラはやさしくて、わかりよい口のきき方をしました。「どうぞ、マリエット」とか、「ありがとうよ、マリエット」とか、ひどく人を惹きつけるようにいうのでした。マリエットは階下に降《-お》りると、早速女中頭《早速’女中ガシラ》にセエ《ー》ラの話をしました。お嬢様《嬢さま》はまるで貴婦人に対するように丁寧に私に頭をおさげになる、と自慢しました。そしてから、こういいました。 「あの小さい方は、まるで宮様《プリンセス》ですわ。」  セエ《ー》ラが教室に入って二三分間《ニサンプン間》もした頃、ミンチン先生はおごそかに立って、自分の机をとんと叩きました。 「皆さん! 今日は、皆さんに新しいお友達をご紹介したいと思います。」少女達《少女たち》はめいめいの席から立ち上《上が》りました。セエ《ー》ラも立ち上がりました。「皆さん! クルウ《ー》さんと仲よ《良》くして下さいますね。クルウ《ー》さんは大変遠いところから──ええ、印度《インド》からお着きになったばかりなのです。課業がすんだら、お互《互い》にお近づきにならなければなりませんよ。」  少女達《少女たち》は改まって目礼しました。セエ《ー》ラはちょっと袴をつまんで礼を返しました。それから、皆《みんな》腰を下《下ろ》して、またまじまじと見つめあうのでした。 「セエ《ー》ラさん、ここへお出でなさい。」  ミンチン先生は机から本を取りあげ、ページをめくっていました。セエ《ー》ラは行儀よく先生のところへ出て行きました。 「お父さんが、あなたにフランス人の女中を傭って下すったのは、あなたにフランス語の勉強を特にさせたいお考えからだと思いますが。」  セエ《ー》ラは少しもじもじしました。 「あの、お父様《父さま》があの方を傭って下すったのは──あの、お父様《父さま》が、私あの方が好きとお考えだったからでしょう。ミンチン先生。」 「どうも、あなたは‥‥。」とミンチン先生は少し意地の悪い薄笑いを浮べました。「大変甘やかされていたとみえて、何でも好きだから人がして下さると考えているようですね。私の考えでは、お父様《父さま》はあなたにフランス語を勉強させたいのだと思いますがね。」  セエ《ー》ラはただ黙って頬《ホオ》を紅《赤》らめました。かたくなな先生は、セエ《ー》ラなどはフランス語を何一つ知っているはずがないと思いこんでいるらしいのでした。が、実はセエ《ー》ラは、フランス語を知らない時はなかったようなものでした。セエ《ー》ラの母はフランス人でした。父は母の国の言葉が好きでしたので、母がセエ《ー》ラを生んで亡くなってしまった後《あと》も、よく赤ん坊のセエ《ー》ラにフランス語で話しかけたものでした。で、セエ《ー》ラも自然幼《自然’幼》い時からフランス語は聞きなれていたのでした。が、ミンチン先生にそういわれると、先生の思い違いを矯《正》すのは失礼なように思えて、申し開きも思うようには出来ないのでした。 「私《わたし》──私、ほんとにフランス語の勉強をしたことはないのですけど、でも──でも。」  ミス・ミンチンの人知れぬ悩みの重《オモ》なるものは、自分にフランス語の出来ないということでした。で、彼女はこの苦しい事実をなるべく匿《隠》し終《おお》そうとしていました。ですから先生は、セエ《ー》ラに何か問われて、ぼろを出してはならないと思ったのでした。 「それでよろしい。まだ習わないのなら、早速始めなければなりません。もうじきフランス語の先生のジフアジさんが見えるはずですから。見えるまでこの本を持って行って、下読《下読み》をしてお置きなさい。」  セエ《ー》ラは席へ戻って、第一《第イッ》ページを開いてみました。この場合、笑っては失礼だと思ったのですが、「ル・ペール」は「父」、「ラ・メール」は「母」などということを、今更教《いまさら教》わらなければならないのかと思うと、どうしてもおかしくなるのでした。  ミンチン先生は、セエ《ー》ラの方《ほう》をちらと探るような眼で見て、 「何をふくれているのです。セエ《ー》ラさん。」といいました。 「フランス語を勉強するのが、|いや《嫌》なのですか?」 「私、大すきなのです。でも──」 「何か物をいいつけられた時、『でも』などというものではありません。さ、御本《ご本》を見るのですよ。」  セエ《ー》ラは本を見ました。「ル・フィス」は「むすこ」、「ル・フレエル」は「兄弟」。わかりきったことでしたが、セエ《ー》ラはおかしさを耐《こら》えつづけました。セエ《ー》ラは心の中で、 「ジュフアジ先生がいらしったら、わかって下さるでしょう。」と思っていました。  ジュフラア《ー》ジ先生は《は-》じき来られました。大変立派な、賢そうな中年のフランス人でした。彼は熟語読本に身を入れようとしているセエ《ー》ラのしとやかな姿に眼をとめますと、心を惹かれたような様子をしました。 「これが、私の方《ほう》の新入生ですか?」と、彼はミンチン女史の方《ホウ》へ振り向きました。「うまく行けばいいですがね。」 「この子のお父さんは、大変フランス語を習わせ《せた》がっているのですが、この子は何だか勉強したくなさそうなのです。」 「それはいけませんね、|お嬢さん《マドモアゼール》。」彼は親切そうにいいました。 「一緒にお始めになりさえすれば、きっと面白くなりますよ。」  セエ《ー》ラは辱められでもしたかのような気持《気持ち》で、立上《立ち上》りました。彼女は大きな青鼠色の眼で、ジュフラア《ー》ジ氏の顔をじっと見ました。話しさえすれば、先生はわかって下さるのだと彼女は思いました。で、セエ《ー》ラは何の飾りけもなしに、美しい流暢なフランス語で話し出しました。女先生《マダム》にはもちろん何をいっているのだかわかりませんでした。が、セエ《ー》ラはこういったのでした。「先生《ムシュー》が教えて下さるのなら、何でもよろこんで勉強します。しかし、この本にあることは|とう《トウ》に知っているということを、女先生《マダム》に申し開きしたいのです。」  ミンチン先生はセエ《ー》ラが語り出《だ》したのを聞くと、飛び立つばかりに驚いて、眼鏡越しに、何か忌々しそうに、セエ《ー》ラを見つめました。ジュフラア《ー》ジ先生は微笑みはじめました。先生の微笑《微笑’》は非常に喜んでいるしるしでした。セエ《ー》ラの子供らしい美しい声が、自分の母国語をこうまで率直に、可愛らしく語るのを聞いていると、まるで故郷にでもいるような気がするのでした。暗い霧のロンドンにいると、いつもは故郷が世界のは《果》てのように遠く思われるのでしたが。‥‥セエ《ー》ラが語り終えると、彼は情愛の深い顔付《顔付き》で、熟語読本を取り上げ、ミンチン女史にいいかけました。 「ねエ先生《マダム》、もう教えるほどのものはありませんよ。この子はフランス語を覚えたのじゃア《あ》ない、この子自身がフランス語ですよ。アクセントなんぞ素敵なものだ。」 「なぜ、私にいわなかったのです。」ミンチン女史はひどく感情を害して、セエ《ー》ラに向き直るのでした。 「私《わたし》──私、お話ししようと思ったのですけど、私、切り出しが拙かったんでしょう。」  ミンチン女史にはセエ《ー》ラのいい出《-だ》そうとしていたことが解《分か》っていました。またセエ《ー》ラがいい出し得なかったのは、ミンチン女史に恥をかかさないためだったということも解《分か》りました。けれども、女史は、生徒達《生徒たち》がセエ《ー》ラの話を聞き、仏語《フランス語》文法書のかげで忍び笑いをしているのを見ると、急にむらむらして来ました。 「静かになさい、皆さん。」女史は机を叩いて、|きび《厳》しい声を出しました。「静かになさいったら?」  その時以来《とき以来》、女史はセエ《ー》ラに対して、いくらか敵意を感じたようでした。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 【アア《ー》ミンガア《ー》ド】 ◇。◇。◇。◇。◇。  その最初の朝、セエ《ー》ラは、室内の生徒全体が自分を熱心に見守っているのを感じながら、ミンチン女史のそばに坐った時、自分と同じ年頃の少女が一人、明るい、懶《物憂》げな青い眼でセエ《ー》ラをじっと見ているのにじ《/じ》き気が付きました。肥った、唇のつき出たその子は、あまり怜悧《利口》そうではありませんでしたが、気質《気立て》は大変よさそうに見えました。亜麻色の髪をかたく結び、リボンをつけていました。ジュフラア《ー》ジ氏がセエ《ー》ラに話しかけた時、その少女はちょっと怯えた眼をしました。が、セエ《ー》ラがいきなりフランス語で答えると、少女は吃驚して飛び上《上が》り、真紅《真っ赤》になりました。何週間《ナン週間》も何週間《ナン週間》も、仏語《フランス語》の「父《ペール》、母《メール》」さえ覚えられずに泣いていたところへ、ふいに自分の知らぬ単語まで造作なく動詞でつなぎ合せて話しているのを見ると、少女はたまらなくなったのでした。  彼女は夢中で見つめながら、思わずリボンを噛んだので、ミンチン女史に見つかってしまいました。女史はちょうどむしゃくしゃしているところだったので、たちまち少女に喰ってかかりました。 「セント・ジョン! そのお行儀は何《-なん》ですか。肱をお直しなさい。口からリボンをお出しなさい。すぐお立ちなさい!」  セエ《ー》ラはそれを見ると、その子がひどく可哀そうになり、お友達にでもなってあげたい《い-》ような気持《気持ち》になりました。他人が悩んでいたり、不幸であったりすると、すぐその諍いの中に飛びこんで行きたくなる性癖のセエ《ー》ラでした。 「もしセエ《ー》ラが男の子で、二三百年前《ニサンビャク年前》に生《生ま》れていたら。」と、よくお父さんはい《言》ったものです。 「抜身をひっさげて、苦しんでいる人なら、誰でも助けたり庇ったりしながら、諸国を遍歴しただろうになア《あ》。この子は困っている人達《人たち》を見ると、いつでも戦いたくなるのだから。」  課業が終《終わ》ると、セエ《ー》ラは肥った少女を探しに出ました。少女はしょんぼり窓《/窓》の下の席に蹲《踞》っていました。セエ《ー》ラはこんな場合誰でもいうようなことを云っただけなのでしたが、セエ《ー》ラがいうと、それは何かしら情が籠っていて、気持《気持ち》よく聞えるのでした。 「お名前、何《なん》て|仰しゃ《仰》るの?」  肥った少女は吃驚しました。新入生は初め妙に近づきにくいものである上《うえ》、セエ《ー》ラは前の晩《晩’》から皆《みんな》の間でいろいろ噂の出た新入生で、馬車や、小馬や、おつきの女中や、身のまわりのものから考えても、ちょっとよりつきにくい少女なのでした。 「私、アア《ー》ミンガア《ー》ド・セント・ジョンって名なのよ。」 「私はセエ《ー》ラ・クルウ《ー》。あなたのお名前、ほんとに綺麗ね。まるでお伽噺の名みたいに聞えるわ。」 「あなた、お好き?」とアア《ー》ミンガア《ー》ドは飛び上《上が》りそうになっていいました。「私《わたし》──私はあなたの名前大好《名前’大好》き。」  セント・ジョンは、学者の父を持っているために、いつも苦しめられていました。父は七八《七’八》ヶ国語に通じ、何千巻《何千カン》の蔵書を暗記しているというような人でした。ですから、父は娘が、簡単な歴史やフランス語ぐらい覚えるのがあ《当》たり|まえ《前》だと思っているのでした。ところが、セント・ジョンは学校の中でも一番頭《一番’頭》が悪いほどだったのです。 「こいつは、無理にも覚えさせるようにして下さらなければ駄目です。」と、父はミンチン女史に頼んだのでした。  こういう訳で、アア《ー》ミンガア《ー》ドは、いつでも恥《恥ずか》しめられたり、泣かされたりしていました。彼女は覚えたかと思うと、すぐ忘れてしまいました。覚えこんでも、何《なん》のことだか一向解《一向’分か》らないという風《ふう》でした。で、彼女は、セエ《ー》ラを感嘆の眼で見るより他ありませんでした。 「あなた、フランス語お上手《上手’》なのね。」  セエ《ー》ラは大きな、奥の深い窓際席《ウィンドウシート》に坐り、両手で縮めた足の膝を抱いていました。 「自家《うち》でしょっちゅう聞いていたから話せるのよ。あなただって、聞きつければ、きっと話せるようになってよ。」 「まア《あ》、私なんか駄目よ。私、どうしても話せないの。」 「なア《あ》ぜ?」  アア《ー》ミンガア《ー》ドは頭を振りました。下髪《おさげ》がぶらぶら揺れました。 「あなたは、お利口なのね。」  セエ《ー》ラは窓越しに暗い街を眺めやりました。濡れた鉄の欄干や、煤けた樹の枝などに、雀が飛びかいながら、囀っていました。セエ《ー》ラはちょっとの間心《あいだ心》の中《ウチ》で考えてみました。自分は何度となく「お利口だ」といわれたことがある。ほんとにそうなのかしら? ──もしそうだとしたら、全体どういう訳でお怜悧《利口》なのだろう。── 「私、わからないわ。」  セエ《ー》ラは相手の丸ぽちゃな、むっくりした顔の上に、悲しげな眼付《眼付き》を見ると、かすかに笑いながら話を変えました。 「あなた、エミリイ《ー》ちゃん御覧になって?」 「エミリイ《ー》ちゃんて、どなた?」  アア《ー》ミンガア《ー》ドは、さっきのミンチン女史のように聞き返しました。 「私のお部屋に入らっしゃいな。見せてあげるわ。」  二人は一緒に窓席《マドイス》から飛び降りて、二階へ上って行きました。 「ほんと?」客間を通り抜ける時《とき》、アア《ー》ミンガア《ー》ドは囁きました。「あなた一人の遊び部屋があるってほんと?」 「ええ。父様《父さま》がミンチン先生にお願いして下すったの。だって──ねえ、私、おあそびする時《とき》、自分でお話をこしらえて、自分に話してきかすからなの。ひとに聞かれるのは|いや《嫌》でしょう? それに、人が聞いてると思うと、お話が駄目になってしまうんですもの。」  その時二人《とき二人》は、もうセエ《ー》ラの部屋の前の廊下に来ていました。アア《ー》ミンガア《ー》ドはふと立ち止《止ま》って眼をみはり、息を呑んで、 「お話を拵《-こしら》えるんですって?」と喘ぐようにいいました。「そんなこと、あなたに出来るの?──フランス語みたいに? ほんとに出来て?」  セエ《ー》ラは驚いて、少女を見返しました。 「誰にだって出来るんじゃないの? あなたやってみたことないの?」  セエ《ー》ラは何か前ぶれするように少女の手を握りました。 「そうっと扉《ドア》のところへ行きましょう。それからさっと戸をあけるわ。そうすれば、きっと捕まるから。」  セエ《ー》ラは笑っていましたが、その眼には神秘な望みが動いていました。アア《ー》ミンガア《ー》ドは、なぜどうして何を捕えるのだか、さっぱりわかりませんでしたが、セエ《ー》ラの眼付《眼付き》にはすっかり魅せられてしまいました。何《なん》でもいい、きっと面白いことに違いない──アア《ー》ミンガア《ー》ドは胸を躍らせながら、爪先|立って《ダッテ-》セエ《ー》ラの後《あと》から戸口に近づきました。不意に扉《ドア》が開くと、小綺麗《コギレイ》に片づいた静かな部屋が眼に入りました。炉には穏やかに火が燃えていました。椅子の上には見事な人形が、ちゃんと本を読んでいました。 「あら、もう席にかえっているわ。」とセエ《ー》ラが叫びました。「いつだってああなのよ。稲妻みたいに早いんですもの。」  アア《ー》ミンガア《ー》ドは、セエ《ー》ラから人形へ、人形からセエ《ー》ラへ眼を移しました。 「あのお人形──歩けるの?」 「ええ。どうしても歩けるはずだと思うの。歩けると思ってるつもりなのよ。そう思うとほんとにそう見えるんですもの。あなた、いろんなことのつもりになってみたことある?」 「いいえ、ちっともないわ。私──ね、お話《話し》してちょうだいな。」  エミリイ《ー》は、少女が今まで見たこともない見事な人形でしたが、少女はセエ《ー》ラにすっかり魅せられてしまったので、風変《風変わ》りなこの新しいお友達の方《ホウ》へ眼を向けました。 「まア《あ》、腰《コシ》をかけましょうよ。」セエ《ー》ラはいいました。「お話を作るなんて、ほんとに造作もないことよ。そして、始めたらとても止められないの。エミリイ《ー》、あなたも聞いてなくちゃア《あ》いけないことよ。この方はアア《ー》ミンガア《ー》ド・セント・ジョンさんなの。アア《ー》ミンガア《ー》ドさん、こちらはエミリイ《ー》と申します。あなた、抱いてやって下さいましな?」 「抱いてもいい? ほんとによくって? まア《あ》、綺麗だこと。」  それから一時間は、セント・ジョンにとって、今まで考えたこともないような楽しい時間でした。午餐《お昼》の鈴《ベル》が鳴って、食堂に降《-お》りて行くのもしぶしぶなくらいでした。  その一時間の間《あいだ》、セエ《ー》ラは炉の前に身をちぢめて坐り、様々の不思議な話をしました。緑色の目は輝き、頬《ホオ》には紅《ベニ》がさしてきました。航海の話、印度《インド》の話──しかし、アア《ー》ミンガア《ー》ドを一番恍惚《一番うっとり》させたのは、お人形についてのセエ《ー》ラの空想でした。お人形が皆《みんな》のいない間に歩いたり、物をいったりする事、だがそれを秘《隠》す必要から、人の気配がすると、「稲妻のように」自分の席に飛び戻るのだという事などでした。 「私達《私たち》には真似も出来ないわねエ。まア《あ》、魔術《手品》みたいなものね。」  一度セエ《ー》ラがエミリイ《ー》を探し廻《回》った話をした時、ふいにセエ《ー》ラの顔色が変《変わ》りました。暗い雲が面《オモテ》をよぎり、眼に充ちた輝きを消してしまったように思われました。セエ《ー》ラは激しく息を吸いこんだので、声も妙に悲しく、低くなりました。それから口を閉じ、何かをしようか、しまいか、どっちにしようかと思いまどうように、きりりと脣を引きしぼりました。アア《ー》ミンガア《ー》ドは、たいていの子なら声をあげて泣き出すところだが、と思いました。セエ《ー》ラは、しかし、泣きませんでした。 「あなた、どこかお痛いの?」 「ええ。」セエ《ー》ラはちょっと黙って、それからいいました。「でも、体が痛いのじゃア《あ》ないのよ。」それから何事かをしっかり言おうとして、つい小声になりました。「あなただって、世の中の何よりも、お父様《父さま》がお好きでしょう。」  アア《ー》ミンガア《ー》ドは微かに口を開けたままでした。彼女は父を愛し得るなどと思ったことは、一度もありませんでした。のみならず、ほんの十分間《10分間》でも父と二人きり向き合っていることを避《-さ》けるためには、どんなすてばちな事でもしかねない彼女でした。が、そんなことを口に出すのは、模範学校の生徒らしくないと思いました。で、彼女はひどく当惑して、 「私《わたし》──私めったにお父様《父さま》と会うことなんかないのよ。」といいました。「お父様《父さま》は年中お書斎にいらしって──何か読んでばかりいらっしゃるんですもの。」 「私は世界を十倍《10倍》したよりかも、お父様《父さま》の方《ほう》が好き。だから、私悲《わたし悲》しいのよ。お父様《父さま》は、もう行ってしまいになったんですもの。」  セエ《ー》ラは頭を静かに膝の上にのせ、しばらくは身動きもしませんでした。アア《ー》ミンガア《ー》ドは、セエ《ー》ラが今にも泣き出すかと思いましたが、セエ《ー》ラはやはり泣きませんでした。彼女はやがて顔を上げずにいい出しました。 「私お父様《父さま》に、悲しくても耐《こら》えるってお約束したの。まだ私もきっと耐《こら》え通すつもりよ。誰でも耐《こら》えなければならないのね。兵隊さんたちの我慢なんか大変なものだわ。私のお父様《父さま》は軍人なのよ。戦争でもあると、お父様《父さま》は喉のひりつくようなこともあるし、深傷《深手》を負うことだってないとはい《言》えないでしょう。でも、お父様《父さま》は一言だって、苦しいと|仰しゃ《仰》ったことはないわ。」  アア《ー》ミンガア《ー》ドは、セエ《ー》ラを見つめるばかりでした。この少女の胸には、セエ《ー》ラを憬れる気持《気持ち》が湧き始めて《て-》いました。  ふと、セエ《ー》ラは顔を上げて、妙《’妙》な微笑を見せながら、黒い髪を背後に振り上げました。 「でも、こうしてつもりになるお話なんかしていると、私いくらか楽なのよ。苦しいことは忘れられないにしても、いくらか耐《こら》えやすくなるでしょう。」  アア《ー》ミンガア《ー》ドは我知《吾知》らず喉がつまって、涙のこみ上げて来そうな気がしました。 「ラヴィニアとジェッシイ《ー》は仲よ《良》しなのよ。私達《私たち》も仲よ《良》しになれればいいと思うの。あなた、私のお友達になって下すって? あなたはお利口で、私は学校中《学校じゅう》で一番出来ないのですけど、私はあなたがほんとに好きなのよ。」 「私も嬉しいわ。好かれていると思うと、うれしいものね。|ほんとう《本当》に、これからお友達になりましょうね。」不意にセエ《ー》ラの顔は輝き出《’出》しました。「あたし、あなたのフランス語のおさらいをしてあげましょうね。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【ロッティ】 ◇。◇。◇。◇。◇。  セエ《ー》ラが普通の子供だったら、次の十年間ミ《/ミ》ス・ミンチンの学校で送った生活は、ちっとも彼女のためにならなかったかもしれません。セエ《ー》ラは、生徒というよりは、大事なお客ででもあるように待遇されていました。ミンチン女史は、心ではセエ《ー》ラを嫌っていましたが、こんな金持《金持ち》の娘を失ってはならないという慾《欲》から、事ごとにセエ《ー》ラをほめそやして、学校生活をあ《飽》かすまい《い-》としました。セエ《ー》ラは幸い利発なよい頭脳《頭》を持っていましたので、甘やかされてつけ上《上が》るような事はありませんでした。彼女は時々アア《ー》ミンガア《ー》ドにこんな事を打ちあけるようになりました。 「人はふとしたはずみで、いろいろになるものね。私はふとしたはずみから、あんないいお父様《父さま》の子に生《生ま》れたのね。|ほんとう《本当》は私、ちっともいい気質《気立て》じゃア《あ》ないのでしょうけど、お父様《父さま》は何でも下さるし、皆さんは親切にして下さるんですもの、気質《気立て》がよくなるより他ないじゃア《あ》ありませんか。私が|ほんとう《本当》によい子なのか、|いや《嫌》な子なのか、どうしたらわかるでしょうね。きっと私は身ぶるいの出るほど|いや《嫌》な子なのよ。でも、私は一度もひどい目にあわなかったものだから、どなたも私のわるい所がわからないのだわね。」 「ラヴィニアだって、ひどい目になんかあわないけど‥‥。」アア《ー》ミンガア《ー》ドはのろのろといいました。「でもあの人は、|ほんとう《本当》に|いや《嫌》な人だわ。」  セエ《ー》ラは小さな鼻先を擦って、何かを思い出そうとしました。 「きっとあの人は、大人になりかけているからなのよ。」  いつかアメリア嬢が、ラヴィニアに、あまり育ち方が早いので、気質《気立て》まで変《変わ》り出しているのだろう、といっていたことがありました。セエ《ー》ラはそれを思い出して、こう云ったのでした。  ラヴィニアはまったく不快な娘でした。彼女は一方《ヒトカタ》ならずセエ《ー》ラを嫉んでいました。セエ《ー》ラが来るまでは、彼女こそこの学校の首領だと思っていました。彼女は他の生徒達《生徒たち》がいうことをきかないと、意地悪く当《当た》り散らすので、皆《みんな》怖がって、仕方なく彼女に従っていたのでした。ラヴィニアはどちらかというと綺麗な方《ほう》で、生徒が二列に並んで散歩に出る時などには、中で一番よい着物を着ていたのでしたが、今はセエ《ー》ラの贅沢な衣裳に押されている形でした。天鵞絨の服や、貂皮《アーミン》の手套《マッフ》を着けたセエ《ー》ラは、いつもミンチン女史と並んで先頭に歩かされることになりました。セエ《ー》ラは初めはそれが|いや《嫌》でなりませんでしたが、いつかセエ《ー》ラは、事実上皆《事実上みんな》の上に立つようになりました。それももちろん、ラヴィニアのように意地悪をするからではなく、かえって決して意地悪などしなかったために、皆《みんな》から敬われるようになったのでした。 「でも、セエ《ー》ラ・クルウ《ー》には一つこんな事があってよ。」と、ある時ジェッシイ《ー》は正直にいったために、かえって仲よ《良》しのラヴィニアを怒らせたことがありました。「それは、セエ《ー》ラはちっとも偉がらないということなの。私がセエ《ー》ラなら、威張らずには《は-》いられないけど。でも、ミンチン先生が、父兄にセエ《ー》ラを見せびらかすのを見ていると、胸がむかむかするわ。」 『さ、セエ《ー》ラさん、応接室へ行ってマスグレエ《ー》ヴの奥さんに印度《インド》のお話をして上げるのですよ。』ラヴィニアは、得意なミンチン女史の口真似を始めました。「『さ、セエ《ー》ラさん、ピトキン夫人にフランス語を聞かしてさし上げるのですよ。この子のアクセントは、それは確かなものでございますよ。』ですって、フランス語を学校で習ったわけでもないのにね。ただお父さんの喋ってるのを聞いてたから話せるというまでのことよ。それに、お父さんが印度《インド》の軍人だからって、ちっとも偉いことなんかありゃしないわ。」 「それはそうね。そのお父さんの殺した虎の皮が、セエ《ー》ラの部屋にあるのよ。セエ《ー》ラは毛皮の上に寝ては、頭の所を撫でたり、猫に話すように何かいいかけたりしているのよ。」 「あの子は、いつでも何かしら莫迦げた事をしているのね。」ラヴィニアは、声を高くしていいました。「うちのお母さんがいってたわ。あの子みたいに、ありもせぬことをありそうに考えるのは莫迦げているって。そういう女は大きくなってから変物《エクセンドリック》になるんですって。」  セエ《ー》ラの『偉がらなかった』のは真実《本当》でした。彼女は思いやりがあって、慎しやかな少女でした。で、持っているものは、惜気《惜しげ》もなく分けてやりました。いじめられている小さい子供達《子供たち》は、よく劬《労》ってやりました。転んで膝小僧をすりむいたりしていると、母《母’》らしく駈け寄って助け起《起こ》し、ポケットからボンボンを出してやるという風《ふう》でした。  だから、年下の少女達《少女たち》はセエ《ー》ラを崇拝していました。彼女は幾度も嫌われている少女達《少女たち》を自分の部屋に招いて、お茶の会をしました。そんな時にはエミリイ《ー》も一緒に遊《遊び》の相手をしました。そして、エミリイ《ー》もやはりお茶の仲間入りをするのでした。エミリイ《ー》のお茶は、青い花模様のあるお茶碗に、うすめて注《-つ》がれるのでした。少女達《少女たち》は、人形用の茶道具など見たこともありませんでした。で、それ以来初級《以来’初級》の少女達《少女たち》は、セエ《ー》ラを女神か女王様《女王さま》のように崇めはじめました。  ロッティ・レエ《ー》などは、しつこいほどセエ《ー》ラにつきまとうていました。セエ《ー》ラは母《母’》らしい気持《気持ち》を持っていましたので、別にうるさいとも感じませんでしたが、ロッティも早く母を失った一人でした。彼女は誰かが、母のない子は特別可愛がらなければならないといっているのを聞き、いい気になって我儘をつのらせました。若い父親は彼女をもてあましたあげく、学校にでも入《い》れるより他ないと思って、ここに伴《連》れて来たのでした。  セエ《ー》ラが初めてロッティの面倒をみてやったのは、ある朝のことでした。セエ《ー》ラがある部屋の前を通ると、誰かが怒って泣き喚《わめ》く声と、それをおし鎮めようとしているミス・ミンチンと、アメリア嬢との声を聞きました。少女はなだめられるとよけい武者ぶりついて泣き立てるのでした。さすがのミス・ミンチンもそれにはたまりかね、室外に聞えるほどの声で喚《-わめ》きはじめました。 「何《なん》で、泣くんです。」 「うわア《あ》、うわア《あ》、うわア《あ》、わたい──おおお母ちゃんがないイ!」 「まア《あ》、ロッティったら!」アメリア嬢は金切声《金切ゴエ》を上げました。「泣くのはやめてちょうだいね。いい子だから、泣かないでね。後生だから。」 「うわア《あ》、うわア《あ》、うわア《あ》」ロッティは嵐のように吠え立てました。「おおおおおかあちゃん──い──いないィ《い》!」 「この子は、鞭打ってやる。」とミス・ミンチンは宣告しました。「鞭で打ってやる。我儘者《我儘モノ》め。」  ロッティは更に大きな声を立てました。ミンチン女史の声も雷のようでした。とふいに、女史は裾を蹴って廊下に飛び出して来ました。女史はセエ《ー》ラを見ると、困った顔をしました。あの声を聞かれて困ったのでした。 「あら、セエ《ー》ラさん。」と、女史はつくり笑いをしました。 「私あのロ《/ロ》ッティちゃんだと思いましたので、立ち止《止ま》って居りましたの。──それに、私あの、きっと──きっと、あの子なら鎮めてさし上げられるだろうと思いまして、行ってみてあげてもよろしゅうございますか? 先生。」 「出来るならやって御覧なさい。あなたは利口だから。」先生は口を尖らしましたが、セエ《ー》ラが自分の剣幕に、おどおどしているのを見ると、急に顔をやわらげていいそえました。「あなたは何でもお出来になるから、きっとあの子の世話も出来るでしょう。お入《はい》んなさい。」  ロッティは床に転《転が》って、ひいひいいいながら、小さな肥った脚で猛烈に蹴り立てていました。アメリア嬢は真紅《真っ赤》になって、ロッティの上にのしかかっていました。 「まア《あ》、可哀そうね、お母ちゃんのないことも知っててよ。可哀そうにねエ──。」というかと思うと、今度は調子をがらりと変えて、「黙らないと振り廻《回》してやるぞ! そら、そら、また!この根性曲《根性曲が》りの憎まれっ子。打《ぶ》ってやるから!」  セエ《ー》ラは静かに二人のそばへ行きました。 「アメリアさん。」と、セエ《ー》ラは低声《小声》でいいました。「あのミ《/ミ》ンチン先生が、とめてみてもいいと仰しゃいましたので。」  アメリア嬢はふり返って、 「あなたにとめられるつもりなの?」とおぼつかなさそうに喘ぎました。 「出来るかどうか、判《分か》りませんけど、まア《あ》やってみますわ。」  アメリア嬢はほ《/ほ》っと嘆息して、膝を立て直しました。ロッティはむくむくした脚を、またはげしく、じたばたやり出しました。  セエ《ー》ラはアメリア嬢を送り出すと、しばらく吠え立てるロッティのそばに、黙って立っていました。喚き声の他には何の音もしませんでした。ロッティにとってこんな事は初めてでした。涙の眼を開いて見ると、そこに立っているのはあのセエ《ー》ラでした。ロッティはセエ《ー》ラを認《認め》るまで、ちょっとの間泣《ま泣》きやんでいましたが、すぐまた泣きはじめなければなるまいと、思ったようでした。が、そこらはあまり静かだし、セエ《ー》ラは黙って立っているので、泣くのにも気がのりませんでした。 「わたい──お──お──おかあちゃんが──ないイ!」 「あたしだって、ないわ。」  思いがけないセエ《ー》ラの言葉に、ロッティはたちまちじたばたするのをやめて、寝たままセエ《ー》ラの方《ほう》をじっと見はじめました。ロッティはまだ泣き足りない気持《気持ち》でしたが、やっと少し拗ね泣きが出来ただけでした。 「お母ちゃん、どこ?」 「お母様《母さま》は天国へいらしったのよ。でも、きっと時々私達《ときどき私たち》に逢いにいらっしゃるのだわ。私達《私たち》の眼には見えないけど、あなたのお母様《母さま》だって、きっとそうなのよ。お二人は今頃、私達《私たち》を見ていらっしゃるかもしれないわ。お二人とも、きっとこの部屋にいらっしゃるのよ。」  ロッティはいきなりしゃんと坐って、あたりを見廻《見回》しました。彼女は美しい巻毛を持っていました。円《つぶ》らな彼女の眼は、濡れしとった忘勿草《ワスレナグサ》のようでした。  セエ《ー》ラは、母《母’》のことをいろいろに話しつづけました。 「天国は花の咲いた野原ばかりなのよ。微風が吹くと、百合の匂いが青空に昇って行くのよ。そして、皆《みんな》いつでもその匂いを吸っているのよ。小さい子達《子たち》は花の中を駈け廻《回》って、笑ったり、花輪を造ったりしているの。街はぴかぴか光ってるの。いくら歩いても疲れるなんてことはないの。どこにでも行きたいところへ飛んで行けるの。それから町のまわりには、真珠や金で出来た壁が立っているの。でも、みんなが行って寄りかかれるように低く出来ているのよ。みんなそこから下界《ゲカ-イ》を覗いては、にっこり笑って、そしていいお便りを送って下さるのよ。」  セエ《ー》ラがどんな話をしたにしても、ロッティはきっと泣きやんで、うっとりと聞きとれたことでしょう。ましてこの話は、他のどんな話よりも美しいものでした。ロッティはセエ《ー》ラの方《ほう》にすり寄って、一言々々《一言一言》に夢中になっているうち、いつの間にかもうおしまいになってしまいました。ロッティはあまりの残《名残》り惜しさに、またしても泣き出しそうな口の尖らせ方をしました。 「わたいも、そこへ行きたいわ。わたい──学校、お母ちゃんいないイ!」  セエ《ー》ラはロッティがまた泣き出しそうなのを知ると、自分の夢からさめて、ロッティのむっちりした手をとり、自分のそばへひ《引》きよせました。 「私、あなたのお母ちゃんになってあげてよ。あなたは私の娘、エミリイ《ー》はあなたの妹よ。」  ロッティの泣顔《泣き顔》に、えくぼが湧いて来ました。 「ほんと?」 「ええ」《」:》セエ《ー》ラは飛び起きました。「さ、行って、エミリイ《ー》ちゃんにも、お姉さんが出来たって話してあげましょう。それから、あなたのお顔を洗って、髪を結ってあげるわ。」  ロッティはすっかり元気になって肯きました。彼女は今まで小一時間も騒いでいたのは、昼飯前《チュウハンマエ》に顔を洗ったり、髪を梳いたりするのが|いや《嫌》だったからだということも、けろりと忘れているようでした。彼女はセエ《ー》ラと一緒にちょこちょこと部屋を出て、二階へ上って行きました。  その時以来《とき以来》、セエ《ー》ラは養母さまになったのであります。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 【ベッキイ《ー》】 ◇。◇。◇。◇。◇。  セエ《ー》ラは贅沢な持物《持ち物》や、学校の『看板生徒』である事実によっても、たくさんの崇拝者を造りましたが、それにもまして人を惹きつけたのは、お話が上手だということでした。セエ《ー》ラが話すと、どんなくだらない事でも、立派なお話になってしまうのでした。ラヴィニアなどはセエ《ー》ラのその力を大変羨ましがっていましたが、多少の反感を持って近づいて行っても、セエ《ー》ラの話の巧さには、つい酔わされてしまうのでした。  あなた方《がた》も学校で、皆《みんな》が夢中になって、話の巧い人を取りかこむ所を見たことがあるでしょう。セエ《ー》ラはお話が巧いばかりでなく、彼女自身お話をするのが大好きでした。皆《みんな》にとりまかれて自分でつくったお話をする時《とき》、セエ《ー》ラの緑色の眼は輝き、頬《ホオ》は紅《ベニ》をさすのでした。彼女は話しているうちに知らず識らず物語にふさわしい声色や身振《身振り》を始めるのが常でした。セエ《ー》ラは少女達《少女たち》が耳を澄ましていることなど、いつの間《間に》かに忘れてしまいました。セエ《ー》ラの眼に見えるのは、お話の中の妖精達《妖精たち》や、王様《王さま》、女王様《女王さま》、美しい貴婦人達《貴婦人たち》などなのでした。語り終った時、セエ《ー》ラは興奮のあまり息を切らしてしまうこともありました。そんな時、セエ《ー》ラはどきどきする胸に手を当て、自分を嘲笑うかのようにこういうのでした。 「私、お話をしていると、あなた方《がた》や、この教室よりも、話していることの方《ほう》が、ずっとほんとらしく思えてくるのよ。私はお話の中の人になっているような気がするの、何だか変ね。」  セエ《ー》ラがミンチン先生の塾に入ってから、二年目の冬でした。ある薄霧の日の午後、セエ《ー》ラが厚い天鵞絨や毛皮にくるまって馬車から降りると、みすぼらしい小娘が、地下室の入口に立っていました。少女は首を長くして、一生懸命にセエ《ー》ラを見ていました。セエ《ー》ラはおどおどしている少女にふと目を惹かれました。眼が合うとセエ《ー》ラはいつものように、にっこり笑いました。  が少女の方《ほう》は、有名なセエ《ー》ラを竊《盗》み見たりしたら、きっと叱られるとでも思ったらしく、まるでびっくり函《バコ》の中の人形のように、ひょこりと台所の中へ隠れてしまいました。ふいにひょこりと消えてなくなったので、セエ《ー》ラは危《危う》く笑い出すところでした。が、その少女はあまりみすぼらしく、あまり寂しそうなので、笑うことも出来ませんでした。その晩のことでした。セエ《ー》ラが教室でいつものお話をしているところへ、その少女は重そうな石炭函《石炭箱》を持って、こそこそと入って来ました。少女は炉の前に跪き、火をおこしたり、灰をかき取ったりしていました。  少女はさっきよりはきちんとしていましたが、相変らずおどおどしていました。話を聞きに来たのだと思われてはならないとでも思っているらしく、音を立てないように手でそっと石炭を入れたり、火箸を動かしたりしていました。しかしセエ《ー》ラはすぐ、少女がセエ《ー》ラの話に気を取られていること、セエ《ー》ラの言葉を聞き洩すまいと、休み休み火をおこしていることなどを、見てとりましたので、セエ《ー》ラは声をはり上げては、はっきりと話しつづけました。 「人魚達《人魚たち》は、真珠で編んだ綱を曳いて、青水晶《青ズイショウ》のような水の中を静かに泳ぎ廻《回》りました。お姫様《姫さま》は白い岩の上に坐って、それを見守っていらっしゃいました。」  それは、人魚の王子様《王子さま》に愛されたお姫様《姫さま》の面白いお話でした。姫は海の底の眩しいような洞穴の中に王子と住んでいたのでした。  少女は一度炉を掃き清めてしまうと、同じ事を二度も三度も繰り返しました。三度目の掃除が終《終わ》ると、跪いていた踵の上にぺたりと腰を落して、酔ったようにセエ《ー》ラの話に聞き入りました。彼女は、いつか海の底の立派な御殿に引きこまれていました。身の廻《回》りには珍しい海草がなびき、遠くの方《ほう》から美しい音楽が聞えて来るような気がしました。  箒が少女の荒れた手からことりと落ちました。ラヴィニアは少女の方《ホウ》へ振り向きました。 「あの娘《子》、聞いてたのよ。」  とがめられた少女は、いきなり箒を取り上げ、石炭函《石炭箱》を抱えて、怯えた野兎《野ウサギ》のようにそそくさと出て行きました。  それを見ると、セエ《ー》ラはむらむらして来ました。 「私、あの娘が聞いているのを知っていたのよ、なぜ聞いてちゃア《あ》いけないの?」  ラヴィニアは大気取《オオ気取》りで頭を振り上げました。 「そりゃア《あ》、あなたのお母さんは、女中にお話をしてやってもいいと|仰しゃ《仰》るかもしれませんさ。だけど、私のお母さんは、そんなことしちゃア《あ》いけないと|仰しゃ《仰》ってよ。」 「私のお母さんですって?」セエ《ー》ラは吃驚したようにいいました。「ママはきっといけないなんて仰しゃらないと思うわ。ママは、お嬢さんであれ、女中であれ、誰であれ、同じようにお話を聞いていいとお思いになってるわ。」 「でも、あなたのママは、もうお亡くなりになったんでしょう。亡くなった方に、どうしてそんなことが解《分か》るの?」 「じゃア《あ》、ママにそれが解《分か》らないって|仰しゃ《仰》るの?」セエ《ー》ラは低い、|きび《厳》しい声でいいました。すると、ロッティがそこへ口を出しました。 「セエ《ー》ラのママは、何でも知ってるのよ。あたいのママもよ。──ここでは、セエ《ー》ラがあたいのママだけど、もう一人のママには何でも解《分か》るのよ。往来はぴかぴか光っててど《/ど》こもかしこも百合の原で、皆《みんな》百合を摘んでるの。いつだったか、あたいが寝る時《とき》、セエ《ー》ラちゃんが話してくれたわ。」 「まア《あ》悪い人。」ラヴィニアは、セエ《ー》ラの方《ほう》に向き直っていいました。「天国のことを、お伽噺にして話すなんて。」 「でも、聖書の黙示録の中には、もっと素敵なことが書いてあってよ。ちょっと開けて読んで御覧なさい。私のお話がお伽噺だか、お伽噺でないか、どうして解《分か》るの? もう少しお友達に対して親切な心持《心持ち》を持ってごらんなさい。そうすれば、私のお話がお伽噺じゃないことも解《分か》るでしょう。さ、ロッティ向《/向こ》うへ行きましょう。」  セエ《ー》ラはロッティと伴《連》れ立って歩いて行く間も、そこらを見廻《見回》してみましたが、あの小娘はどこにも姿を見せませんでした。  その晩、セエ《ー》ラは女中のマリエットに、 「あの火をおこしに来る子は、何《なん》ていうの?」  と訊ねてみました。マリエットは、その子についていろいろのことを話してくれました。  いかにも、セエ《ー》ラの嬢様《嬢さま》のお訊きになりそうなことだと、マリエットは思いました。あの寂しそうな小娘は、ついこの間日働《あいだ/日働》きに雇われたばかりなのでしたが、台所に限らず、どこにでも追い使われているのでした。靴や金具を磨かされたり、重い石炭函《石炭箱》の上げ下《下ろ》しをさせられたり、床や窓の雑巾がけをさせられたり。──身体の発育が悪いので、十四なのに十二くらいにしか見えませんでした。マリエットも、少女が可哀そうでならないと思っているところでした。ひどく内気で、人から物をいいかけられたりすると、眼が顔から飛び出しそうに怯えるのでした。  セエ《ー》ラはテエ《ー》ブルに頬杖をついて、マリエットの話を聞いていましたが、そこまで来ると 「何《なん》て名前なの?」とまた訊ねました。  名前はベッキイ《ー》でした。マリエットは台所で、五分と間《マ》をおかず、「ベッキイ《ー》、これをおし。」とか「ベッキイ《ー》、あれをおし。」とかいう声を聞くのでした。  セエ《ー》ラは一人になってからしばらくの間《あいだ》、炉の火を見つめながら、ベッキイ《ー》の事ばかり考えていました。いつかセエ《ー》ラは、ベッキイ《ー》を可哀そうな物語の女主人公にしていました。あの娘は食物《食べ物》さえお腹一杯はあてがわれていないのに違いないと、セエ《ー》ラは思いました。  それから二三週間《ニサン週間》経った頃でした。やはり薄霧のかかった午後でした。居間に帰ってきたセエ《ー》ラは、自分の安楽椅子の中に、ぐっすり眠りこんでいるベッキイ《ー》を見付《見つ》けました。ベッキイ《ー》の鼻の先や、前掛《前掛け》のそこここには、炭《スミ》がついていました。見すぼらしい帽子は落ちかけていました。  ベッキイ《ー》はその午後、生徒達《生徒たち》の寝室を片付けるようにいいつけられたのでした。彼女はお姫様《姫さま》の部屋のように美しいセエ《ー》ラの部屋は、一番おしまいに片付けることにしました。寝室はかなりたくさんあったので、それを片付け終って、セエ《ー》ラの部屋に来た時には、小さな足も痛むばかりでした。で、暖かな炉のそばに腰を下《下ろ》すと、汚れた顔にものうげな微笑を湛えたまま、つい快い眠りにおちてしまったのでした。  ベッキイ《ー》が足の痛くなるほど働き廻《回》っていた間、セエ《ー》ラは舞蹈のお稽古で夢中になっていました。薔薇色の服を着け、黒い髪の上には薔薇の冠を載せ、まるで薔薇色の蝶々のように、新しい舞蹈の練習をしていたのでした。習ったばかりの足どりで、踊りながら居間に飛びこんで、そしてあの眠っている小娘を見付《見つ》けたのでした。 「まア《あ》。」セエ《ー》ラは思わず小さい声でいいました。「可哀そうに!」  セエ《ー》ラは、大事な椅子に薄汚い子が掛けているのを見ても、腹を立てるどころか、かえってベッキイ《ー》に逢えてよかったと思いました。ここに眠っているのは、セエ《ー》ラの作ったお話の主人公で、彼女が眼を覚《覚ま》しさえすれば、セエ《ー》ラはその主人公のお話をすることも出来るのです。セエ《ー》ラは、そっとベッキイ《ー》の方《ほう》に歩みよりました。ベッキイ《ー》は微かにいびきをかいていました。 「自然に眼を覚《覚ま》してくれればいいが。」とセエ《ー》ラは思いました。「そっと眠らしといてあげたいけど、ミンチン先生に見つかりでもすると、きっと叱られるから、可哀そうだわ。もうちっとの間《あいだ》、そっとしといてあげましょう。」  セエ《ー》ラはテエ《ー》ブルの端に腰かけて、細い脚をぶらぶらさせながら、どうするのが一番いいかと、思いまどいました。今にもアメリア嬢が入って来《こ》ないとも限りません。そうすれば、ベッキイ《ー》はきっと叱られるに違いありません。 「でも、とても疲れているのね。」  セエ《ー》ラがそう思ったとたん、一塊の石炭が燃え砕け、炉枠にぶっつかって、音を立てました。ベッキイ《ー》は怯えて飛び上《上が》り、息をはずませながら、大きな眼をあけました。ベッキイ《ー》はいつの間にか寝てしまったのだとは思いませんでした。ちょいと坐って、身体を暖めていただけなのに──と、ここでベッキイ《ー》は、自分が眼をお皿のようにして、薔薇色の妖精みたいなあの評判なお嬢さんと向き合っているのに、気がつきました。  ベッキイ《ー》は躍り上《上が》って、落ちかけた帽子を掴みました。私はとうとう罰を受けるようなことをしでかしてしまった。|しゃあしゃあ《シャアシャア》とこの小さい貴婦人の椅子の中で眠ったりして、きっと私はお給金ももらえずに、逐《追》い出されてしまうのだろう。  ベッキイ《ー》は息もつまるばかりに、欷歔《すすり泣き》をはじめました。 「お嬢様《嬢さま》、お嬢様《嬢さま》! か、かんにんして下さいまし、どうか、かんにんして下さいまし。」  セエ《ー》ラは椅子から飛び降りて、ベッキイ《ー》のそばへ行きました。 「何《なん》にも怖いことはないのよ。」セエ《ー》ラは自分と同じ身分の娘にでもいうようにいいました。「ここでは、眠ったってちっともかまわないのよ。」 「私は、眠るつもりなんかちっともなかったのでございますよ、お嬢様《嬢さま》。ただこの火があんまりほかほかといい気持《気持ち》なので──それに私、疲れていたものですから、決して厚かましく寝こんだわけではないのでございますから。」  セエ《ー》ラはふと親しげに笑って、ベッキイ《ー》の肩に手をかけました。 「あなた疲《/疲》れていたのね。眠るのも無理はありませんわ。まだ眼が覚めきらないんでしょう。」  ベッキイ《ー》はたまげたようにセエ《ー》ラを見返しました。ベッキイ《ー》は今までこんなやさしい情《/情》の籠った声を聞いたことはありませんでした。用をいいつけられたり、叱られたり、耳を打《ぶ》たれたりばかりしているベッキイ《ー》でした。それなのに、この薔薇色の舞蹈服を着たお嬢さんは、同じ身分の娘ででもあるかのように、ベッキイ《ー》を見ているのです。そして、ベッキイ《ー》は疲れるのがあ《当》たり|まえ《前》だ──居眠りするのさえあ《当》たり|まえ《前》だ、というような眼でベッキイ《ー》を見ているのです。セエ《ー》ラはその細い柔《柔ら》かな手先を、ベッキイ《ー》の肩にのせています。そんなことをされる気持《気持ち》もベッキイ《ー》は、まだ味《味わ》ったことがありませんでした。 「あの、あの、お嬢様《嬢さま》。怒ってらっしゃるのじゃア《あ》ございませんの? 先生達《先生たち》にいいつけたりなさりゃア《あ》しません?」 「いいえ、そんなことするものですか。」  汚れた小娘の顔が、おどおどしているのを見ると、セエ《ー》ラは見ていられないほど気の毒になりました。 「だって、あなたも私も、同じ小娘じゃア《あ》ありませんか。私があなたのように不幸でなく、あなたが私のように幸せでないのは、いわば偶然《アクシデント》よ。」  ベッキイ《ー》には、セエ《ー》ラのそういう意味がちっとも解《分か》りませんでした。ベッキイ《ー》が『アクシデント』だと思っているのは、人が車に轢かれたり、梯子から落ちたり、あの|いや《嫌》な病院へ伴《連》れて行かれたりする、そうした災難のことだったのでした。ベッキイ《ー》の解《分か》らないのを察しると、セエ《ー》ラは話題を変えました。 「もう御用《ご用’》すんだの? もうしばらくここにいても大丈夫?」 「ここにですって? お嬢様《嬢さま》、あの私が?」 「そこらには誰もいないようよ。だから、ほかの寝室を片付けてしまったのなら、ちょっとぐらいここにいてもいいでしょう? お菓子でも一つ上《上が》らない?」  それから十分《10分》ほどの間《あいだ》、ベッキイ《ー》はまるで熱《ネツ》に浮かされたようでした。セエ《ー》ラは戸棚から厚く切ったお菓子を一切《一切れ》出して、ベッキイ《ー》にやりました。セエ《ー》ラは、ベッキイ《ー》がそれをがつがつ食べるのを、うれしそうに見ていました。セエ《ー》ラが心おきなく話しかけるので、ベッキイ《ー》も、いつか怖れを忘れ、思いきってこんなことまで問うようになりました。 「あの、そのお召《召し》ね? ──それ、お嬢様《嬢さま》の一番いいお着物?」 「まだこんな舞蹈服はいくらもあるけど、私はこれが好きなのよ。あなたも好き?」  ベッキイ《ー》は感嘆のあまり、しばらく言葉も出ないような風《ふう》でしたが、やがてびくびくした声でいいました。 「私いつか、宮様《プリンセス》を見たことがあるの。公園の外の人混に混《混じ》って見ていると、いい着物を着た人達《人たち》が行く中《なか》に、一人桃色《ひとり桃色》づくめの衣裳《ナリ》をした、もう大人になった女の方《かた》があったの。それが宮様《プリンセス》だったのよ。今しがた、あなたがテエ《ー》ブルに腰かけていらっしゃるのを見た時、私はその女の人を思い出したのよ。お嬢様《嬢さま》はちょうど、その宮様《プリンセス》そっくりなのだもの。」  セエ《ー》ラは一人|ごと《言》のようにいいました。 「私、時々こんなことを考えたことがあるわ。私も宮様《プリンセス》になりたいなア《あ》って。宮様《プリンセス》になったら、どんな気持《気持ち》でしょう。きっともうじき、宮様《プリンセス》になったつもりを始めるのでしょう。」  ベッキイ《ー》は眼をお皿のようにして、セエ《ー》ラに見とれていました。が、相変らず、セエ《ー》ラが何をいっているのだか判《分か》りませんでした。セエ《ー》ラは、じき我《吾》にかえって、ベッキイ《ー》に問いかけました。 「ベッキイ《ー》、あなたこの間、私のお話を聞いていたんでしょう。」 「聞いてました。」ベッキイ《ー》はちょっとまたどぎまぎしました。「私、聞いたりしちゃア《あ》いけないと思ったんだけど、でも、あのお話、あんまり面白くって、私──聞くまいと思っても、聞かずにいられなかっ《-っ》たの。」 「私も、あなたに聞いてもらいたかったのよ。誰だって聞きたい人に話してあげたいものでしょう? あの話のつづき聞きたくない?」 「私にも聞かして下さるって? あのお嬢様《嬢さま》がたのように? 王子様《王子さま》のことや、白い人魚の子のことや、お星様《星さま》の飾りをつけた髪のことや、みんな聞かして下さるのですって?」 「でも、今日はもう時間がないから駄目じゃア《あ》ない? これからお掃除に来る時間を教えて下されば、私その時お部屋にいて、少しずつお話《話し》してあげるわ。かなり長くて、綺麗なお話よ。それに私、繰り返して話すたびに、何かしら新しいことを入《い》れるのよ。」  セエ《ー》ラの部屋を出たベッキイ《ー》は、今までの可哀そうなベッキイ《ー》ではなくなりました。彼女のポケットには、余分にもらったお菓子がありました。いかにも満腹そうです。そして暖かそうでした。彼女のお腹を充し、身体を暖めてくれたのは、お菓子や火ばかりではありません。お菓子でも火でもなく、ベッキイ《ー》を養い暖めてくれたものは、もちろんセエ《ー》ラでした。  ベッキイ《ー》が出て行ったあと、セエ《ー》ラは、テエ《ー》ブルの端に腰を下《下ろ》し、椅子の上に脚をのせ、脚に肱をついて、それに顎をのせました。 「もし、私が|ほんとう《本当》の宮様《プリンセス》だったら、私は人民に贈物を撒きちらすことが出来るんだけどな。宮様《プリンセス》のつもりになっただけでも、皆さんのためにしてあげられることは、いろいろあるわ。たとえば、ベッキイ《ー》をいい気持《気持ち》にしてやるということは、贈物をするようなものだわ。私は、これから人をよろこばすことは、贈物をするのと同じだというつもりになろう。そうすると、私は今、ベッキイ《ー》に一つの贈物をしたばかりだということになるのね。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 【ダイヤモンド鉱山】 ◇。◇。◇。◇。◇。  セエ《ー》ラがベッキイ《ー》と近づきになってからしばらくの後、心を躍らすようなことが起りました。セエ《ー》ラ自身胸《自身’胸》を躍らしたばかりでなく、学校中《学校じゅう》の生徒も胸を躍らして、それから何週間《ナン週間》もの間《あいだ》、寄ると触ると、その話ばかりしていたというほどの事でした。それは、クルウ《ー》大尉からセエ《ー》ラへ来た手紙の中に書いてあったのでした。ある日、クルウ《ー》大尉の同窓生の一人が、印度《インド》に訪ねてきて、現在採掘中のダイヤモンド鉱山が、順調に行けば非常な利益を挙げることになるので、クルウ《ー》大尉もこの事業の仲間入りをしてはどうかと、勧めたのだそうでした。何かほかの事業でしたら、セエ《ー》ラ初め学校の中の少女達《少女たち》は、どんなにお金が儲かるにしても、あまり気にとめずにすんだでしょうが、ダイヤモンドの鉱山だというので、『アラビアン・ナイト』を聞いた時のように、耳を聳《そばだ》てたのでした。  セエ《ー》ラはそのことで夢中になりました。で、アア《ー》ミンガア《ー》ドやロッティに説明するため、地の底の迷園のような道を描《-えが》いて見せたりしました。その穴道の中では、黒ん坊が、そこら中《じゅう》に光っている宝石を掘り出しているのでした。  ラヴィニアは、その話をせせら笑って、ジェッシイ《ー》にいいました。 「私のお母さんは、四百円もするダイヤモンドを持ってるのよ。でも、それだってそんな大きい石じゃア《あ》ないのよ。それなのに、ダイヤモンドの山なんか持ってる人があるとすれば、お金がありすぎて莫迦げて見えるわ。」 「セエ《ー》ラさんは、莫迦げたほどのお金持《金持ち》になるのかもしれないわね。」 「あの子は、お金があったって、なくたって、莫迦げた子じゃア《あ》ないの。」 「あなた、セエ《ー》ラが嫌いらしいのね。」 「嫌いじゃア《あ》ないわ。でも、ダイヤモンドの鉱山があるなんて、私信《わたし信》じられないわ。」 「山がないとすると、ダイヤモンドはどこから採ってくるのでしょうね。」ジェッシイ《ー》はくすくす笑いながらいいました。「あなた、ガア《ー》トルウ《ー》ドが、何《なん》といったとお思いになる?」 「知らないわ。セエ《ー》ラのことなら、もう聞かないでもいいことよ。」 「ところが、やっぱりセエ《ー》ラのことなのよ。あの人、この頃宮様《頃プリンセス》のつもりってのも始めたんですって。アア《ー》ミンガア《ー》ドにも、プリンセスのつもりになれっていうんだそうよ。でも、アア《ー》ミンガア《ー》ドは、宮様《プリンセス》にしては肥りすぎているから駄目だっていってるのよ。」 「あの子は、ほんとに肥っちょね。そして、セエ《ー》ラは痩せっぽちときているわ。」  ジェッシイ《ー》は吹き出しました。 「セエ《ー》ラは、そのつもりになるためには、顔とか持物《持ち物》とかは、どんなでもかまわないっていうのよ。何を考え、何をするかということが、かんじんなんですって。」 「きっとあの人は、自分が乞食であっても、宮様《プリンセス》になれると思ってるんでしょうよ。これから、セエ《ー》ラを『殿下』と呼んでやりましょうか。」  煖炉《ストーブ》の前で、ラヴィニアがまだしゃべっている所へ、戸が開いて、セエ《ー》ラがロッティと一緒に入って来ました。ロッティはまるで小犬のように、セエ《ー》ラの行く所へはどこにでもついて行くのでした。 「ほら、セエ《ー》ラが来た。またあの|いや《嫌》な子を伴《連》れて。」ラヴィニアは小声でいいました。「そんなに可愛いなら、自分の部屋の中に飼っとけばいいじゃないの。いまにまたきっと吠《’吠》え出すことよ。」  ロッティは果《果た》して、何程もたたないうちに吠《’吠》え出しました。セエ《ー》ラはその時、窓のそばでフランス革命の本を、夢中になって読んでいたのでした。で、ロッティの喚《-わめ》き声を聞いて、夢から覚まされた時には、さすがに|いや《嫌》な気持《気持ち》がしました。本の好きな人は、誰でもそうでしょうが、セエ《ー》ラは読書の邪魔をされると、妙に腹が立ってならない性質でした。その気持《気持ち》をセエ《ー》ラはいつかアア《ー》ミンガア《ー》ドに|ないしょ《内緒》で話したことがありました。 「そんな時には、誰かに打《ぶ》たれたような気がするの。すると、私も打《ぶ》ちかえしてやりたくなるの。だから、そんな時には、つい失礼なことなど口走るといけないから、大急ぎでいろいろの事を思い出さなければならないのよ。」  ロッティははじめ教室の床《床’》の上を辷り廻《回》っていたのでしたが、とうとう転んで丸い膝をすりむいたのでした。 「たった今お黙り、泣虫《泣き虫》坊主! 早く黙らないか!《/》」と、ラヴィニアがいいました。 「わたい、泣虫《泣き虫》じゃない、泣虫《泣き虫》じゃア《あ》ない。セエ《ー》ラちゃア《あ》ん、セエ《ー》ラちゃア《あ》ん。」と、ロッティは金切声《金切ゴエ》で喚《-わめ》きました。  ジェッシイ《ー》は、ミンチン先生に聞えると大変だといって、ロッティに、 「五銭玉《五銭ダマ》をあげるから、お黙んなさいね。」といいました。 「五銭玉《五銭ダマ》なんか、欲しかア《あ》ない!」  そこへ、セエ《ー》ラが本を棄てて飛び出てきたのでした。 「ほうら、ロッティちゃん。セエ《ー》ラに約束したのを忘れたの?」 「あの人が、わたいを泣虫《泣き虫》っていったんだい。」 「でも泣けば、泣虫《泣き虫》になるわ。いい子のロッティちゃん、あなたは泣かないってお約束したんじゃア《あ》ないの。」  ロッティはその約束は思い出しましたが、それでも泣声《泣き声》をあげるばかりでした。 「わたい、お母ちゃんがないイ。わたい、お母ちゃん、これんばかしも、ないイ!」 「いいえ、ありますとも。」と、セエ《ー》ラはにこにこしながらいいました。「もう忘れたの? セエ《ー》ラがあなたのママだってことを忘れたの? お母ちゃんのセエ《ー》ラは、もう要らないの?」  ロッティはやっと少し笑顔になって、セエ《ー》ラに縋りつきました。 「さ、一緒に窓の所に坐りましょう。そして、小さい声であなただけにお話《話し》してあげましょう。」 「ほんとにしてくれる? あの、ダイヤモンドのお山のお話、してくれる?」  それを聞くと、ラヴィニアは、 「ダイヤモンドの山ですとさ。」と口を出しました。「私、あの意地悪《意地悪’》の駄々っ子を、打《ぶ》ってやりたいわ。」  セエ《ー》ラはいきなり立ち上《上が》りました。セエ《ー》ラとても天使《/エンゼル》ではない以上、ラヴィニアまで愛すわけにはいきませんでした。 「あなたをこそ打《ぶ》ってあげたいわ。だけど、私あなたを打《ぶ》つのなんか|いや《嫌》だわ。打《ぶ》ってやりたいけど、打《ぶ》つのはよすわ。あなただって、私だって、もう物が解《分か》ってもいい年頃なんですものね。」  ラヴィニアは、え《得》たりとそこへつけこみました。 「さようでございますよ、殿下。私共は宮様《プリンセス》なんでございますものね。少くとも二人のうちの一人はそうなんでございますものね。ミンチン先生は、宮様《プリンセス》を生徒にお持ちだから、私達《私たち》の学校も今は有名なものですね。」  宮様《プリンセス》のつもりになる事は、セエ《ー》ラにとって、たくさんのつもりの中で、一番大切なものでした。大切なだけ、人に知られたくないつもりでした。それを、ラヴィニアは今、ほとんど学校中《学校じゅう》の生徒の前で、嘲ったのでした。セエ《ー》ラは顔がほてり、耳が鳴るのを覚えました。彼女は今にもラヴィニアを打《ぶ》ちそうでしたが、セエ《ー》ラはやっとのことで怒《怒り》を耐《こら》えました。かりにも宮様《プリンセス》と呼ばれるものが、怒りに駆られたりしてはならないと彼女は思いました。セエ《ー》ラは手を垂れて、しばらくじっと立っていました。口を開いた時、セエ《ー》ラの声はもう落付《落ち着》いて、しっかりしていました。「仰しゃる通り私は、時々宮様《ときどきプリンセス》になったつもりでいるのよ。宮様《プリンセス》のつもりになれば、自然宮様《自然プリンセス》のように立派な振舞が出来るかもしれないでしょう。」  今までにもよくそんな事がありましたが、ラヴィニアはセエ《ー》ラに何と答えていいかわかりませんでした。というのは、周囲《周り》の人達《人たち》が、何かセエ《ー》ラの方《ほう》に味方しているようだったからです。少女達《少女たち》は、実をいうと、皆宮様《みんなプリンセス》が好きだったのです。で、今話《いま話》に出た宮様《プリンセス》というのは、どんな宮様《プリンセス》なのかそれをもっと詳しく知ろうとして、セエ《ー》ラのそばへ寄り集《集ま》って来ました。  ラヴィニアはやっと一言、いうべきことを考え出しました。が、それも奇抜なものではありませんでした。 「あああ、じゃア《あ》、あなたが玉座に上《上が》る時には、私達《私たち》のこともお忘れにならないでね。」 「忘れるものですか。」  セエ《ー》ラはそれだけいうと、ラヴィニアがジェッシイ《ー》と腕を組んで出て行くのを、黙って見ていました。  それ以来、セエ《ー》ラを嫉んでいる少女達《少女たち》は、何《なに》か|辱し《辱》めてやりたい時に限って、セエ《ー》ラを『宮様《プリンセス》』といいました。またセエ《ー》ラの好きな少女達《少女たち》は、セエ《ー》ラへの愛のしるしに、セエ《ー》ラを『宮様《プリンセス》』と呼ぶようになりました。それを聞いたミンチン女史は、生徒の父兄が見えた時、幾度も『宮様《プリンセス》』の話をしました。『宮様《プリンセス》、宮様《プリンセス》』というと、この塾が何か貴族の学校のように、お上品に見えるだろうと思ったからでした。  ベッキイ《ー》は、セエ《ー》ラを『プリンセス』と呼ぶほどふさわしいものはな《無》いと思いました。彼女はいつかの薄霧の日以来、ミンチン女史や、アメリア嬢に隠れて、セエ《ー》ラと親しくなるばかりでした。セエ《ー》ラからお菓子をもらって、屋根裏の自分の部屋に帰る時《とき》、ベッキイ《ー》はいいました。 「このお菓子、気を付けて食べないと大変なのよ、お嬢様《嬢さま》。うっかりパン屑なんかと一緒に置いとくと、鼠が出てきて、食べてしまうのよ。」 「鼠が?」セエ《ー》ラは怖くなりました。「あそこに、鼠がいるの?」 「どっさりいますよ、お嬢様《嬢さま》。」ベッキイ《ー》は平気でした。「大鼠や、廿日鼠《ハツカネズミ》がたくさんいるわ。ちょろちょろ出て来て、うるさいけど、慣れれば喧《やかま》しいとも思わないわ。ただ枕の上を飛び越えたりされると、|いや《嫌》ですけど。」 「あら。」 「何《なん》だって少し慣れれば平気になるのよ。小使娘に生《生ま》れると、いろんな事に慣れなけりゃア《あ》なりませんよ。油虫なんかよりは、鼠の方《ほう》がよっぽどましだわ。」 「私もそう思うわ。鼠となら、時がたてばお友達になれるかもしれないけど、油虫となんて、とても仲よ《良》くなれないと思うわ。」  時とすると、ベッキイ《ー》はセエ《ー》ラの部屋に五分といられないことがありました。そんな時には、セエ《ー》ラはちょっと話して、それからベッキイ《ー》のポケットに何かを入れてやるのが常でした。セエ《ー》ラはよくベッキイ《ー》に与えるために、量《カサ》のない何か変《変わ》った食物《食べ物》を探し歩きました。初めて肉饅頭《ミート・パイ》を買って帰った時には、セエ《ー》ラはいいものを見付《見つ》けてきたと思いました。ベッキイ《ー》はそれを見ると眼を輝かせて、 「まア《あ》お嬢様《嬢さま》、これはおいしくて、お腹がふくれて、ほんとに結構ですわ。カステラなんか、それはおいしいけど、じきお腹がすいてしまって──お嬢様《嬢さま》なんかには、おわかりにならないかもしれませんけど。」  そのほかベッキイ《ー》の気に入ったのは、牛肉のサンドウィッチ、巻《巻き》パン、ボロニア腸詰《ソーセージ》などでした。で今《/今》はベッキイ《ー》も、お腹がすいたり、疲れは《果》てたりするようなことはなくなりました。石炭函《石炭箱》もそんなに重いとは思わなくなりました。料理人などにいくらいじめられても、午後にセエ《ー》ラの部屋へ行けると思うと、辛くはありませんでした。セエ《ー》ラの顔さえ見ることが出来れば、おいしいものなどもらわないでもいいくらいでした。  セエ《ー》ラが十一歳のお誕生日を迎える二三週間《ニサン週間》前、印度《インド》の父から一通の手紙が届きました。手紙を見ると、父がいつものような子供らしい元気に充ちて書いたのではないということが、セエ《ー》ラにはわかりました。父は身体があまりよくないらしいのでした。ダイヤモンド鉱山の仕事が忙しすぎるのに違いありませんでした。手紙には、こう書いてありました。 「セエ《ー》ラよ、お父さんは、知っての通り事務家《/事務家》ではない。数字や、書類はひどく私を苦しめる。熱があるせいだろう、夜中まで寝られないで、よろよろ歩き廻《回》っている。やっと寝ついたかと思うと、|いや《嫌》な夢ばかりだ。私の小さい奥さんがそばにいてくれたら、きっと何かよい忠告をしてくれるにちがいないと思う。きっと何かいってくれるだろうねエ。」  セエ《ー》ラはませた様子をしていたので、父はよく戯談《冗談》に『小さな奥様《奥さま》』と呼んでいたのでした。  父はセエ《ー》ラの誕生日のため、パリイ《ー》に新しい人形をあつらえたのでした。その人形の衣裳といったら大したものでした。父はセエ《ー》ラに、人形の贈物は好ましいかどうかと訊ねて来ました。それに出したセエ《ー》ラの返事は、なかなかふるったものでした。 「私は、だんだん年をとってきたので、またお人形を戴くまで生きていられないだろうと思います。だから、今度戴くお人形は、最後のお人形となるでしょう。そう思うと、何《なん》だかいろいろ考えさせられます。出来るなら『最後の人形』という題の詩《-し》でも作りたいのですが、でも、私には詩《-し》は書けません。幾度も書いてみたのですが、吹き出すようなものばかりしか出来ませんでした。詠んでみても、ワッツや、コルリッジや、シェイクスピアのように美しくは聞えないのです。どんなお人形も、エミリイ《ー》の代《代わ》りにはなりません。が、今度下さる『最後のお人形』は十分大事にするつもりです。皆さんがきっと大騒ぎなさるでしょう。人形のきらいな子なんてありませんもの。もっとも十五くらいの方達《方たち》は、もう大きくなったから、お人形となんか遊ばないというような顔をしておいでですが、その方達《方たち》だって、好きでないわけはないのです。」  印度《インド》のバンガロウ《ー》にこの手紙の着いた時、クルウ《ー》大尉はちょうど割れそうな頭痛に苦しめられていたのでしたが、手紙をよむと、幾十日目《幾十にち目》かで思わず笑い出しました。 「あの子は一年ごとに面白くなってくる。神様《神さま》、どうかこの仕事がひとりでに片付いて、私が自由にあの子の所へ飛んで行けるようにして下さい。たった今、あの子の腕が私の首にまきついてくるとしたら、そのためには何でもあげる。どんなものでもあげる。」  セエ《ー》ラのお誕生日は、大げさに祝われることになりました。贈物の函《箱》は、飾った教室で、皆《みんな》の目の前で開《-あ》けられ、その後《あと》で、ミンチン先生のお部屋で御馳走《ご馳走》があるはずでした。その日が来ると学校の中は妙《-みょう》にそわそわとしておりました。朝の中《ウチ》は皆《みんな》夢中になって飾りつけをしました。  その朝、セエ《ー》ラが居間に入って行くと、テエ《ー》ブルの上に、褐色の紙に包んだ、小さなふくれ上《上が》ったものが置いてありました。誰から贈られたのだか、セエ《ー》ラにはたいていわかっていました。そっとといてみると、中《なか》は針さしでした。あまり美しくもない赤フランネルに、黒いピンが『お目出度《めでと》う』という字の形に並んでささっていました。 「一生懸命こしらえてくれたのだわ。あんまりうれしくて、何だか悲しいような気がするわ。」  が、針さしの下《シタ》に着けてある名刺を読んだ時には、セエ《ー》ラは何だか狐につままれたような気がしました。名刺にはきれいな文字で、『ミス・アメリア・ミンチン』と書いてありました。 「アメリアさんですって? そんなはずはないわ。」  セエ《ー》ラが名刺を見ながら、そういっているところへ、扉《ドア》をそっと押して、ベッキイ《ー》が顔を出しました。 「それ、お気に入って? お嬢様《嬢さま》。」 「気に入らないはずがあるものですか。ベッキイ《ー》さん、あなた何から何まで自分で作って下すったのね。」  ベッキイ《ー》は神経的《ヒステリック》に、しかしうれしそうに、鼻先で笑いました。眼はうれしさのあまり潤んでいました。 「フランネルの古切《フルギレ》なんですけどね、お嬢様《嬢さま》に何かさし上げたいと思って、幾晩も幾晩もかかってこさえたんですの。お嬢様《嬢さま》はきっとそれを、繻子の地《ヂ》へダイヤモンドのピンがささったつもりになって下さると思ったから。わたしだって、そのつもりでこさえていたのよ。それから、その名刺はねえ、お嬢様《嬢さま》。それ、私塵箱《わたし/塵箱》から拾って来たんだけど、いけなかったかしら? アメリアさんが棄てた名刺なの。わたし、名刺なんて持ってないし、名刺がなくちゃア《あ》ほんとの贈物にならないと思ったもんだから──それで、アメリアさんのをつけてあげたのよ。」  セエ《ー》ラはベッキイ《ー》に飛びついて、ひしと彼女を抱きしめました。なぜか、妙に喉のつまる気がしました。 「ベッキイ《ー》ちゃん。」セエ《ー》ラは一種変《一種変わ》った笑い方をしました。「私、ベッキイ《ー》ちゃんが大好きよ。それはそれは好き!」 「まア《あ》お嬢様《嬢さま》。もったいないわ、お嬢様《嬢さま》。そんなにしていただくような贈物でもないのに。あの、──あのフランネルは古物《フルモノ》だし。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 【その後のダイヤモンド鉱山】 ◇。◇。◇。◇。◇。  お誕生日の午後、セエ《ー》ラは着飾ったミンチン先生に手を引かれ、先頭に立って、柊で飾られた教室に入って行きました。セエ《ー》ラのうしろには、『最後の人形』の箱を持った僕《シモベ》が続きました。次は第二の贈物の箱を持った女中、それからさっぱりした前掛《前掛け》を掛け、新しい帽子を被ったベッキイ《ー》が、やはり贈物の箱を持ってついてきました。  セエ《ー》ラは|ほんとう《本当》は、そんな仰山な真似はしたくなかったのでしたが、ミンチン先生はわざわざセエ《ー》ラを自分の部屋に呼んで、自分と一緒に行列の先頭に立てと|仰しゃ《仰》ったのでした。セエ《ー》ラがぎょうぎょうしく教室に入って行くと、上級の少女達《少女たち》は肱をつきあいました。小さい少女達《少女たち》はただ嬉しそうにざわざわい《言》いはじめました。それを見ると、セエ《ー》ラは何となく気はずかしくなるのでした。ミンチン先生は 「皆さん、静かになさい。」と一応注意してから、僕達《シモベタチ》に向って、 「ジェームス、その箱をテエ《ー》ブルの上に置いて、蓋をお開けなさい。エムマ、お前のは椅子の上にお置きなさい。それから、ベッキイ《ー》!《/》」と急にきびしい口調でいいました。ベッキイ《ー》はちょうどロッティと眼を見合せながら、|にやにや《ニヤニヤ》しているところでしたので、ミンチン先生の尖った声を聞くと、びっくりして一種滑稽《/一種’滑稽》なお辞儀をしました。それを見ると、ラヴィニアやジェッシイ《ー》はくすくす笑い出しました。 「傍見《脇見》なんかしてちゃア《あ》いけません。その箱を下に置くんですよ。それがすんだら、お前達《前たち》は向《向こ》うへ《へ’》行くんですよ。」  僕《シモベ》と女中が退いてしまうと、ベッキイ《ー》は思わずテエ《ー》ブルの上の箱の方《ホウ》へ首を伸《伸ば》しました。青繻子で出来た何かが、薄い包紙の皺の間に、透いて見えました。 「あの、ミンチン先生。」とセエ《ー》ラは突然いいました。「ベッキイ《ー》さんだけは、もうちょっとの間《あいだ》、ここにいてもいいでございましょう?」 「ベッキイ《ー》なんかを、どうしてここに置くのです。」 「でも、あの娘だって贈物を見たいでしょうから。あの娘だって、私達《私たち》と同じ小さい女の子なのですもの。」 「まア《あ》、セエ《ー》ラさん、ベッキイ《ー》は下女ですよ。下女なんて──あなた方《がた》のようなお嬢さんとは身分が違います。」  ミンチン女史は、今までに一度も、ベッキイ《ー》をセエ《ー》ラ達と比べて考えてみた事はありませんでした。女史の考えに従えば、小使娘などというものは、石炭を運んだり、火をおこしたりする機械でしかなかったのでした。 「でも私、ベッキイ《ー》だって、私と同じ女の子だと思います。今日は私のお誕生日ですから、私のお願いをかなえて、あの娘をよろこばしてやって下さいませんか。」 「じゃア《あ》、今日は特別に許してあげましょう。レベカ、お前セエ《ー》ラさんにお礼を仰しゃい。」  この話の間《あいだ》、ベッキイ《ー》は、部屋の片隅にしりごみしながら、前掛《前掛け》の縁《フチ》をいじくっていましたが、ミンチン女史にそういわれますと、ひょこひょこ出てきてお辞儀をしました。彼女は思うようにお礼の言葉もいえませんのでした。 「ほんとに、どうも、お嬢様《嬢さま》。もううれしくって、私はお人形が見たくてたまらなかったの。ありがとうございます。それから、先生、ありがとうございます。」 「あっちの隅に立ってお出で。」ミンチン先生は出口の方《ほう》をさしていいました。 「あんまり皆さんのそばに寄っちゃア《あ》いけないよ。」  ベッキイ《ー》はにやにや笑いながらその隅へ退きました。どんな隅にでも居残ることを許されたのは、台所で胸をわくわくさせているより、どんなにいいかしれませんでした。ミンチン先生はやがて一《ヒト》ツ咳払いをして、そうしていいました。 「皆さんがたにちょっと申し上げておきたいことがあります。御存じの通り、セエ《ー》ラさんは今日《今日’》十一歳になられました。」 「ひいきのセエ《ー》ラ嬢だ。」と、ラヴィニアがそっと囁きました。 「あなたがたの中にも、もう十一になられた方が五六人《ゴ六人》はあるでしょう。が、セエ《ー》ラさんのお誕生日は、それらの方々のお誕生日とは、少し意味が違います。というのは、セエ《ー》ラさんはもう少し大きくなると、非常な財産を相続なさるからです。その時が来たら、セエ《ー》ラさんは、世の中のためになるように、そのお金を使わなければならないと思います。」 「ダイヤモンド鉱山のことか。」とジェッシイ《ー》は小声でいって、忍び笑いをしました。  セエ《ー》ラは先生のいうことを聞いていたわけではありませんでしたが、青鼠色の眼でじっと先生を見ていると、何となくくわっとして来るのを覚えました。先生が《が-》お金のことを話していると知ると、私はあの先生が好きだったためしはないというような気持《気持ち》になりました。子供のくせに、大人を憎むなんて、生意気なことだとは解《分か》っていましたが。──  ミンチン女史は訓話を続けました。 「クルウ《ー》大尉が、セエ《ー》ラさんを印度《インド》から伴《連》れて来て、私に預けた時、大尉は戯談《冗談》らしくこういわれました。『先生、私はこの娘が近い将来に大変な成金になるのだと思うと心配です。』で、私は大尉にこうお答え申し上げたのです。『私の教育は、お嬢様《嬢さま》の財産の飾りとなるようなものでなければなりますまい。』と。今《いま》セエ《ー》ラさんは、学校中《学校じゅう》で一番よくお出来になる生徒さんです。セエ《ー》ラさんのフランス語や舞踏は、学校の誇《誇り》と申さねばなりません。それにセエ《ー》ラさんのお行儀は、プリンセス・セエ《ー》ラと呼ぶにふさわしいほど、非の打ちどころがありません。セエ《ー》ラさんは今日、皆さんに対する愛情のしるしとして、このお茶の会を開くことになさったのです。皆さんはセエ《ー》ラさんの物惜しみしない気持《気持ち》を、きっとうれしくお思いになることと存じます。そのしるしに皆さん、大きい声で『セエ《ー》ラさん、ありがとう。』と|仰しゃ《仰》って下さい。」  皆《みんな》は、いつかセエ《ー》ラが初めて来た時のように、いっせいに立ち上《上が》って、 「セエ《ー》ラさん、ありがとう。」といいました。ロッティなどは、いいながら高く飛び上《上が》ったほどでした。セエ《ー》ラは羞《恥ずか》しそうにもじもじしていましたが、やがて裾をつまんで、優雅な礼をしました。 「皆さん、ようこそお出で下さいました。」 「セエ《ー》ラさん、よく出来ました。」とミンチン先生は褒めました。「まるで宮様《プリンセス》が人民から『万歳』をあびせかけられた時とそっくりです。ラヴィニアさん、今あなたは鼾のような声をたてましたね。セエ《ー》ラさんが嫉《妬》ましいのなら嫉ましいで、もう少し上品に、嫉ましさを表したらいいでしょう。さ、皆さんは何でも好きなことをしてお遊びなさい。」  先生の背後に扉《ドア》が閉されるや否や、少女達《少女たち》はまるで呪文を解かれたように、椅子から飛び出して、箱の周囲《周り》に駈け集《集ま》りました。セエ《ー》ラもうれしそうに、箱の一つを覗きました。 「これは、きっと本よ。」  すると、アア《ー》ミンガア《ー》ドは 「あなたのパパも、お誕生日に本を下さるの? 私のパパとちっとも違わないのね。そんなもの開けるのおよしなさいよ。」 「でも、私は本が大好きなのよ。」 『最後の人形』は実に見事なものでした。少女達《少女たち》はそれを見ると、声をあげ、息もつまるほど喜びました。 「ロッティと大してちがわないくらいね。」  いわれてロッティは手を叩き、笑いこけながら踊り廻《回》りました。 「まるでお芝居にでも行くように盛装しているのね。」と、ラヴィニアまでいいました。「外套には貂の毛皮がついているわ。」 「あら、オペラ・グラスまで持っててよ。」とアア《ー》ミンガア《ー》ドは前へ出てきました。 「トランクもあるわ。開けてみましょうよ。」  セエ《ー》ラは床に坐って、トランクの鍵を外しました。懸子が一つはずされるごとに、いろいろの珍しいものが出てきました。たとえばレエ《ー》スの衿飾《襟飾り》や、絹の靴下、それから首飾や、ペルシャ頭巾の入った宝石函《宝石箱》、長い海獺のマッフや手套《手袋》、舞踏服、散歩服、訪問服、帽子や、お茶時《茶どき》の服や、扇などが、あとからあとからと出てくるのでした。  セエ《ー》ラは無心にほほえんでいる人形《人形’》に、大型の黒天鵞絨の帽子をかぶせてやりながら、こういいました。 「ことによると、このお人形には私達《私たち》のいっていることが解《分か》るのかもしれないわね。皆さんにほめられて、得意になっているのかもしれないわね。」  すると、ラヴィニアは大人ぶっていいました。 「あなたは、いつもありもせぬことばかり考えているのね。」 「そりゃア《あ》そうよ。私空想《わたし/空想》ほど面白いものはな《無》いと思うわ。空想はまるで妖精のようなものよ。何かを一生懸命に空想していると、|ほんとう《本当》にその通りになってくるような気がするものよ。」 「あなたは何でも持っているから、何を空想しようと御勝手《ご勝手》よ。でも、万一あなたが乞食になって屋根裏に住むようになるとしたら、それでもあなたは、空想したり、つもりになったりしていられるでしょうかね。」 「私きっと出来ると思うわ。乞食だって空想したり、つもりになったり出来ないことはないと思うわ。でも、辛いことは、辛いでしょうねえ。」  そのとたんに、アメリア嬢が入って来ました。セエ《ー》ラはあとで思い返して、|ほんとう《本当》に不思議なとたんだったとよく思いました。 「セエ《ー》ラさん、あなたのお父様《父さま》の代理人のバア《ー》ロウさんがいらしって、ミンチン先生とお二人きりで御相談《ご相談》なさらねばならないことがあるそうですから、あなたがたは客間に行って、御馳走《ご馳走》を食べてらっしゃい。その間《あいだ》に姉は、この教室でバア《ー》ロウさんとお話を済ますでしょうから。」  御馳走《ご馳走》と聞いて、皆《みんな》は眼を光らせました。アメリア嬢は皆《みんな》を並ばせ、セエ《ー》ラを先頭に立てて、客間の方《ホウ》へ出て行きました。あとには、あの『最後の人形』だけが、夥しい衣裳とともに教室に残されていました。  ベッキイ《ー》だけは、御馳走《ご馳走》をいただくことも出来ないと思いましたので、悪いこととは知りながら、ちょっとあとに残って、美しい人形や、衣裳を眺め廻《回》しておりました。ちょうどベッキイ《ー》がそっとマフを摘み上げ、それから外套を手に取って見ている時でした。ベッキイ《ー》はミンチン女史の声が、戸のすぐ外にするのを聞き、震え上《上が》って、テエ《ー》ブルの下に身を隠しました。  ミンチン女史は、骨張った体つきの、小柄な紳士を伴《連》れて入ってきました。紳士は何か落ちつかない風《ふう》でした。ミンチン先生も確かに落ちついていたとはい《言》えません。彼女は|いらいら《イライラ》した顔つきで、この小柄な紳士を見つめました。 「バア《ー》ロウさん、どうかお掛け下さい。」  バア《ー》ロウ氏は、すぐには腰を下《下ろ》しませんでした。氏は、そこらに散らばっている人形や、人形の小道具に眼を惹かれているようでした。彼は眼鏡をかけ直し、何か咎めだてるように、それらのものを見詰めました。『最後の人形』は、そんなことは、一向無頓着《一向’無頓着》に、ただ真直《真っ直ぐ》に立って、彼を見返しているばかりでした。 「千円はするだろうな。皆《みんな》高価な材料で出来ているし、しかもパリイ《ー》製だからな。あの若僧は、めちゃくちゃに金《-かね》を使っていたとみえるな。」  ミンチン女史はむかむかとしました。バア《ー》ロウ氏は、いくら代理人でも、クルウ《ー》大尉のすることに、さし出がましいことをいう権利はないはずです。ミンチン女史は、セエ《ー》ラとセエ《ー》ラの学校のために、惜しげなく《く-》お金を出してくれる、大事なクルウ《ー》大尉のことを、悪くいわれたくなかったのでした。 「バア《ー》ロウさん、失礼ですが、どうして、そんなことを|仰しゃ《仰》るのですか。」 「十一《11》になる子供の誕生祝いに、こんなものを贈るなんて、まったく気違いじみているじゃア《あ》ありませんか。」 「しかし、クルウ《ー》大尉は財産家でいらっしゃるじゃア《あ》ありませんか。ダイヤモンド鉱山だけでも──」  バア《ー》ロウ氏は、くるりと女史の方《ホウ》へ向き直りました。 「ダイヤモンド鉱山なんて、そんなもの、あるものですか。そんなものは、あったためしもない。」  ミンチン女史は、たちまち椅子から立ち上《上が》りました。 「え? 何と仰しゃいます?」  バア《ー》ロウ氏は、意地悪く答えました。 「とにかく、そんなものは、なかった方《ほう》がよかったくらいです。」 「なかった方《ほう》がよかったって?」  ミンチン女史は、椅子の背をしかと掴んで叫びました。何か素敵な夢が消えて行くような気がしました。 「ダイヤモンド鉱山などというものは、富よりも破産を意味する場合が多いものです。事業に明るくない人が、親友の手の中《ウチ》にまるめこまれて、その親友の鉱山に投資するなんて、大間違いです。死んだクルウ《ー》大尉にしても──」  今度は、ミンチン女史が皆までいわせませんでした。 「死んだ大尉ですって? まさか、あなたはクルウ《ー》大尉が──」 「大尉は亡くなられました。事業が面白くないところへ、マラリヤ熱に襲われて亡くなられたのです。」  ミンチン女史は、どかりと腰を落しました。女史はぼんやりしてしまいました。 「面白くなかったと申すのは?」 「ダイヤモンド鉱山がです。大尉はその親友のためにも、破産のためにも、悩まれたようですな。」 「破産ですって?」 「一文な《無》しになられたのです。大尉は若いくせに金《-かね》がありすぎるくらいだったのでしたが、その親友がダイヤモンド鉱山に夢中になって、大尉の金《-かね》まですっかりその事業に注《-つ》ぎこんでしまったのでした。親友が逃げたと聞いた時には、大尉はもう熱病にとりつかれていました。おそろしい打撃だったに違いありません。大尉は昏々《コンコン》と死んで行きました。娘のことを口走りながら──が、その娘のためには、一文《イチモン》も残さずに。」  ミンチン先生は、それでやっと事情をのみこむことが出来ました。こんなひどい目にあったのは初めてでした。お自慢の生徒と、お自慢の出資者が、一度に模範学校から、浚い取られてしまったのです。女史は何か盗まれたような気がしました。クルウ《ー》大尉も、セエ《ー》ラも、バア《ー》ロウ氏も、皆《みんな》悪いのだというような気がしました。 「じゃア《あ》、あなたは、大尉が一文《イチモン》も残さずに死んだと|仰しゃ《仰》るのですね。つまり、セエ《ー》ラには財産がない。あの娘《ムスメ》は乞食だ。お金持《金持ち》になるどころか、食いつぶしとして、私の手に残されたのだと|仰しゃ《仰》るのですね。」  バア《ー》ロウ氏は、抜目《抜け目》のない事務家でしたので、もうここらで自分の責任を果《果た》してしまった方《ほう》がいいと思いました。 「乞食として残されたに違いありません。またあなたの手に残されたのにも違いございません。他に身よりというものはな《無》いようですからな。」  ミンチン女史は急に歩き出しました。女史は今にも部屋から飛び出して、今たけなわな祝宴をやめさせてしまおうと思っているようでした。 「莫迦にしている。あの子は今私《いま私》の部屋で、私のお金で、御馳走《ご馳走》をしているのだ。」 「そりゃア《あ》その通りですな。」バア《ー》ロウ氏は平気でいいました。「我々《我々’》代理人は、もう何《なん》の支払いも出来ませんからな。クルウ《ー》大尉は、我々への支払いもせずに死んでしまいました。それも、かなりな額だったのです。」  ミンチン女史は、ますます不機嫌になって、ふり返りました。こんな災難がふりかかろうとは、今の今までは、夢にも思わないことでした。 「私は、あの娘《ムスメ》のために、どんなにお金を使ったって、きっと払ってくれることを、信じきっていたのです。あの莫迦々々《莫迦莫迦》しい人形の代も、衣裳の代も、皆《みんな》この私が立てかえておいたのです。あの子のためなら、何でも買ってやってくれ、といわれていたのですからね。あの子は馬車も持っているし、小馬も持っているし、女中もつけてある。この前の送金があってからこっちは、私がみんなその費用を立てかえているのですよ。」  バア《ー》ロウ氏は、それ以上ミンチン女史の愚痴話を聞こうとしませんでした。 「これ以上は、もうお支払いなさらんがいいでしょう。あの御令嬢に贈物をなさる思召しなら別ですがな。」 「ですが、私は、この際《際’》どうしたらいいのでしょう。」  女史は、バア《ー》ロウ氏に処置をつけてもらうのがあ《当》たり|まえ《前》だというように、訊ねました。 「どうするも、こうするもないですな。」バア《ー》ロウ氏は眼鏡をたたんで、ポケットに入れました。「クルウ《ー》大尉は死んでしまったと。子供は食いつぶしになってしまったと。あの娘《ムスメ》について責任のあるものがあるとすれば、あなたぐらいなものですな。」 「何《なん》で、私に責任があると|仰しゃ《仰》るのです。そんな責任は、断然おことわりします。」  ミンチン女史は、立腹のあまり蒼白くなりました。バア《ー》ロウ氏は立ちかけて、気のない声でいいました。 「あなたが、責任をお持ちになろうと、お持ちに|なる《ナル》まいと、私はこの際《際’》どうすることも出来ません。こんなことになって、お気の毒とは存じておりますが。」 「それで、私にあの娘《ムスメ》をおしつけたおつもりなら、大間違《オー間違》いですよ。私は泥棒にあったのだ、欺《騙》されたんだ。あの娘《ムスメ》は、おもてに追い出してやるばかりだ。」  バア《ー》ロウ氏は、平然と戸口に立っていいました。 「私なら、そんなことはしませんな。世間の眼によく見えるはずはありませんからね。この学校に関して悪い評判がたつばかりでしょうからね。それよりもいっそ、あの子を養っておいて、役に立てたらいかがです。なかなか利口な子だから、大きくなりさえすれば、あの子からうんとしぼれますぞ。」 「大きくならないうちにだって、うんとしぼりとってやるから。」 「確かにしぼれるでしょう。では、さようなら。」  バア《ー》ロウ氏は、皮肉に笑ってお辞儀をしながら、戸を閉めて去りました。ミンチン女史は、しばらく突っ立ったまま、閉された戸を睨んでおりました。男のいったことは|ほんとう《本当》だと、彼女は思いました。もうどうすることも出来ないのです。今まで一番大事な生徒だったセエ《ー》ラは、いきなり乞食娘になってしまったのです。今までセエ《ー》ラのために立てかえたお金は、もう戻してもらう術《スベ》もないのです。  ふと、宴会場にあてたミンチン女史の部屋から、わっという歓声が聞えて来ました。この宴会だけでも中止して、そのために使ったお金を取り戻そうと、女史は思いました。が、女史がその方《ホウ》へ立ちかけたとたんに、アメリア嬢が戸を開けて入って来ました。アメリア嬢は姉のた《た-》だならぬ様子を見ると、思わずあとじさりしました。 「姉さん、どうしたの?」  姉は、咬みつくような声でいいました。 「セエ《ー》ラ・クルウ《ー》はどこにいる?」 「セエ《ー》ラ? セエ《ー》ラは子供達《子供たち》と一緒に、姉《ねえ》さんのお部屋にいるのにきまってますわ。」 「あの子は、黒い服を持ってるかい?」 「え? 黒い服?」 「たいていの色の服は持ってるようだけど、黒いのはあったかしら、とい《言》うんだよ。」  アメリア嬢は真蒼《真っ青》になりました。 「黒いのはないでしょう。あ、あるわ。でも、あれはもう丈《タケ》が短すぎるわ。古い黒天鵞絨の服で、あの子が小さい時着《とき着》ていたのですわ。」 「あの子にそういっておくれ、早くその大それた桃色の服を脱いで、短くても何でも、その黒い服を着ろって。いい着物どころの騒ぎじゃア《あ》ないんだから。」 「まア《あ》姉さん、何事が起きたの?」 「クルウ《ー》大尉が死んだのさ。一文な《無》しで死んじゃったのだよ。あの気まぐれな我儘娘は、私の居候になったわけさ。」  アメリア嬢は、手近の椅子に|どかり《/ドカリ》と腰を下《下ろ》しました。 「莫迦々々《莫迦莫迦》しい。私はあの子のために何千円ってお金を使ってしまったんだよ。もう一銭だって返《’返》しちゃア《あ》もらえないんだ。だから、早くあいつのお誕生祝いなんか止めてしまわなければ。すぐ着物をきかえろっていっておくれ。」 「あの、あたし、もう少したってからじゃア《あ》いけません?」 「たった今行って話せといってるんだよ。何《なん》だい、鵞鳥みたいな眼つきをしてさ。早くおいでったら。」  アメリア嬢は、鵞鳥と呼ばれることには慣れきっていました。鵞鳥みたいな人間だからこそ、|いや《嫌》なことばかりいいつけられるのだと、自分でも思っていたくらいでした。でも、子供達《子供たち》のよろこんでいる最中に出て行って、その会の主人公であるセエ《ー》ラに、お前はもう乞食になり下ったのだ、父の喪のためちんちくりんの黒い服に着かえなければいけない、というのは、何《なん》だか|いや《嫌》でなりませんでした。  アメリア嬢は眼の赤くなるほど、手巾《ハンケチ》でこすると、黙って姉《’姉》のいる部屋から出て行きました。妹が出て行ってしまうと、ミンチン先生は、思わず大きな声で独言《独り言》をいいながら、部屋の中を歩き廻《回》りました。この一年間、ダイヤモンド鉱山のことは、ミンチン女史にいろいろの未来を想わせていたのでした。ダイヤモンド鉱山の持主《持ち主》が助けてくれれば、株でお金を儲けることも出来ると思っていたのでした。が、今はお金儲けの代《代わ》りに、自分がセエ《ー》ラのために使って失くした《た-》お金のことを考えなければならないのでした。 「ふん、セエ《ー》ラ女王殿下か。あいつは、まるで女王《クウィン》ででもあるかのように、したい放題にふるまっていたのだ。」  そういいながら、女史は腹立たしげに、部屋の隅にあるテエ《ー》ブルの傍《傍ら》を掠め過ぎようとしました。と、テエ《ー》ブル掛《掛け》の|かげ《蔭》から、急に欷歔《すすり泣き》の声が響き出て来るのに吃驚して、思わず一歩《ヒトアシ’》身をひきました。 「どうしたというんだろう。」  すすり泣く声がまた聞《聞こ》えたので、女史は身をかがめて、テエ《ー》ブル掛《掛け》を捲《-めく》り上げました。 「こんなところで、立ち聞きしていたな。さっさと出ておいで。」  這い出してきたのはベッキイ《ー》でした。ベッキイ《ー》は泣き声を出すまいと耐《こら》えていたので、真紅《真っ赤》な顔をしていました。 「あのう、御免下さい。私《わたし/》悪いとは思ったのですけれど。でも、私《わたし》、お人形を見ていたんですの。そこへ、奥様《奥さま》が入っていらしったので、私《わたし/》吃驚して、この中に隠れてしまったんですの?」 「じゃア《あ》お前は、そこで初《始め》っから立ち聞きをしていたわけだね。」 「いいえ、奥様《奥さま》。立ち聞きするつもりなんぞありゃア《あ》しません。見つからずに逃げ出せるものなら、逃げ出そうと思ったのですけど、とても駄目だと思いましたから、仕方なしに、ここに隠れていたんです。立ち聞きなんてするつもり、ちっともなかったんですけど、でも、聞《聞こ》えたんだから仕方ありません。」  ベッキイ《ー》は、おそろしい奥様《奥さま》が目の前にいるということも忘れたかのように、わっと泣き出しました。 「お、お、奥様《奥さま》。わたし叱られると知っても申さずには《は-》いられません。わたし、あの《の/》セエ《ー》ラ様がお可哀そうで、お可哀そうで──」 「出て行きなさい。」 「ええ、まいります。でも、ちょっとわたし奥様《/奥さま》に伺いたいことがあるんでございますの。セエ《ー》ラ様は、あんなに御不自由《ご不自由》なく暮しておいでだったのに、これから、女中なしではどうすることも出来ないでしょう。ですから、もしなんでしたら、わたしにお勝手の御用《ご用》がすんだ後で、あの方の御用《ご用》をしてあげさせて下さいませんか。出来るだけ早く片付けますから。」ベッキイ《ー》は更にすすりあげながら、「奥様《奥さま》、セエ《ー》ラ様は、お可哀そうでございますわね。宮様《プリンセス》とさえいわれてらしったのに。」  ミンチン先生はベッキイ《ー》にこういわれて、なぜか|よけい《余計》に腹を立てました、小使娘の分際で、セエ《ー》ラの肩を持つなんて怪《け》しからん。──するとミンチン先生は、初めてはっきりと、セエ《ー》ラなんかちっとも可愛くなかったのだという事実を悟ったような気がしました。先生はがたがたと床を踏み鳴《鳴ら》しな《-な》がらい《言》いました。 「あの子の用をしてやることなんて、断じて許さないよ。あの子には自分の用はもちろん、ほかの人の用までさせなければならないのだから。」  ベッキイ《ー》は前掛《前掛け》で顔を隠しながら、逃げて行きました。 「まるで、何かのお話の中のようだわ。あの辛い世の中に追い出される不幸な宮様《プリンセス》のお話そっくりだわ。」 ◇。◇。◇。◇。◇。  それから二三時間《二’三時間》たつと、セエ《ー》ラはミンチン先生の所に呼び迎えられました。その時の先生は、今までにないほど冷《冷や》かな、無情な顔をしていました。  もうその時セエ《ー》ラには、あのお誕生日の宴会は夢としか──あるいはずっと昔生きていた、誰か別の少女の生涯に起《起こ》ったこととしか、思えませんでした。  その間《あいだ》に教室や、先生の居間はすっかりいつものように片付けられてしまいました。先生はじめ生徒達《生徒たち》は、平常《普段》の着物に着かえてしまいました。少女達《少女たち》は教室のそこここにかたまって、ひそひそと囁き合ったり、昂奮して話し合ったりしていました。  ミンチン女史が妹に、セエ《ー》ラを呼んで来いといった時《とき》、アメリア嬢はこういいました。 「お姉さん、あの子はずいぶん変《変わ》ってる子ね。この前クルウ《ー》大尉が印度《インド》へ発った時もそうでしたが、今度も私が事の次第をいってきかすと、あの子はただ黙って、私の顔を見つめているんですの。あの子の眼は見る見る大きくなって、そして顔色は真蒼《真っ青》になって来ました。そうしてちょっとの間立《あいだ立》ったままでしたが、わなわなと顎がふるえ出したと思ったら、ふいにくるりとうしろを向いて、部屋を飛び出して行ってしまいました。ほかの子達《子たち》がかえって泣き出しましたけれども、セエ《ー》ラは子供達《子供たち》の泣声《泣き声》になどは耳も藉さない風《ふう》でした。あの子はまるで生きている以上、こんなことになるのがあ《当》たり|まえ《前》だ、というような顔をしていました。あの子が何《なん》にもいってくれないので、私は変な気持《気持ち》になって困りました。誰だって、ふいにあんなことをいわれれば、何とかいわずには《は-》いられないはずですものね。」  セエ《ー》ラが、二階の部屋の中で何をしていたか、セエ《ー》ラ以外には誰にもわかりませんでした。セエ《ー》ラ自身も、その時はほとんど夢中でした。ただ彼女は、しきりに部屋の中を歩き廻《回》って、「お父様《父さま》はおな《亡》くなりになったのよ。お父様《父さま》はおな《亡》くなりになったのよ。」と、自分にいい聞かしていたのは憶えています。そういう声も自分の声とは思えないほどでしたが、一度などは椅子の上からじっとセエ《ー》ラを見守っているエミリイ《ー》の前に立って、狂わしそうにいいました。 「エミリイ《ー》ちゃん、お前わかって? パパがおな《亡》くなりになったの、わかって? パパは《は-》ね、遠い遠い印度《インド》で、おな《亡》くなりになったのよ。」  セエ《ー》ラが呼ばれてミンチン先生の部屋に来た時、彼女の顔は蒼白く、眼のまわりには黒いくまが出来ていました。セエ《ー》ラは、今まで苦しみぬいたこと、いまだに悲しくてならないことを、人に見破られるのが|いや《嫌》なので、|きっ《キッ》と口《’口》をしめて我慢していました。さっきの薔薇色の胡蝶とは別人としか思われませんでした。  セエ《ー》ラはマリエットの助けも借りず、古い天鵞絨の服を着て来たのでした。その服はもう小さすぎるので、短い裾の下に出たセエ《ー》ラの細い脚が、|よけい《余計》に細く長く見えました。黒いリボンがなかったので、短い黒髪が蒼《青》ざめた頬《ホオ》に乱れ落ち、頬《ホオ》の色をよけい蒼白く見せていました。セエ《ー》ラはエミリイ《ー》をひしと抱いていました。エミリイ《ー》も何か黒《-くろ》いものを着ていました。ミンチン先生はすぐそれを見とがめていいました。 「人形なんか、下にお置きなさい。何《なん》のために人形なんか持ってきたのです?」 「下に置くのなんか|いや《嫌》です。このお人形だけは私のものです。お父様《父さま》が私に下すったのですから。」  ミンチン先生はセエ《ー》ラに何かいわれると、いつも妙に|いらいら《イライラ》して来るのでしたが、今もこうきっぱりいわれると、何か御しがたいような気がして、落ち着いていられませんでした。殊に今日は、酷い人間《/人間》らしくないことをしようとしているだけ、何か気がとがめるのでしょう。 「もうこれからは、人形どころのさわぎじゃア《あ》ないのだよ。お前は働かなければ──悪い所を直して、役に立つような人間にならなければならないんだよ。」  セエ《ー》ラは、大きな眼でミンチン女史を見つめたまま、一言も口をきかずに立っていました。 「もう、アメリアさんから聞いて知っているだろうが、何もかも、今まで通《どお》りだ《-だ》と思ったら大間違いだよ。」 「よくわかっています。」 「お前は乞食なんだ。身よりはないし、世話をしてくれる人なんて、一人もないのだからね。」  セエ《ー》ラはちょっと痩せた小さい顔を顰《-しか》めました。が、やはり何ともいいませんでした。 「何をそうじろじろ見てるんだよ。乞食になったってことがわからないほど、莫迦でもあるまいにね。もう一度《1度》いってきかしてあげようか。お前はみなし子で、私がお慈悲で置いてやらない限りは、誰もかまってくれるものはな《無》いのだよ。」 「わかってます。」  セエ《ー》ラは低い声でいいました。何か喉に詰《’詰ま》っているものを呑みこもうとしているようでした。ミンチン先生は、すぐそこに置きすてられてあったお誕生祝いのお人形を指していいました。 「その人形も──その莫迦々々《莫迦莫迦》しい人形のお金を払ったのも、私なんだ。」  セエ《ー》ラは椅子の方《ほう》に顔を向けて、「最後の人形、最後の人形」と、思わず口《’口》の中でいいました。 「最後の人形だって? まったくだよ、この人形は私のものだ。お前の持ってるものは、何もかも私のものなのだよ。」 「じゃア《あ》、どうか、そのお人形を持ってらしって下さい。私、そんなもの要りません。」  セエ《ー》ラが喚いたり怯えたりしたら、ミンチン女史はセエ《ー》ラをもう少しは劬《労》ってやったかもしれません。女史は人を支配して、自分の力を試してみるのが愉快だったのでした。が、セエ《ー》ラの凛とした顔を見、誇《誇り》のある声を聞くと、自分の力が空しく消えて行ったような気がして、口惜《悔》しくなるのでした。 「勿体ぶった様子なんかおしでないよ。もう、お前は宮様《プリンセス》じゃア《あ》ないのだからね。お前は、もう、ベッキイ《ー》と同じことさ。自分で働いて、自分の口すぎをしなければならないのだよ。」  意外にも、セエ《ー》ラの眼には、ふと輝きが──救いのかげが浮んで来ました。 「働かして下さいますの? 働けさえすりゃア《あ》、何もそう悲しかア《あ》ありませんわ。何をさして下さいますの?」 「何《なん》でも、いいつけられたことをするんだよ。お前はよく気のつく子だから、役に立つように心がけるのなら、ここに置いてあげてもいいと思うのだよ。フランス語もよく出来るのだから、小さい人達《人たち》のおさらいもしてあげられるだろう。」 「おさらい、させて下さいます? 私、フランス語なら教えられると思いますわ。小さい人達《人たち》は私を好《-す》いて下さるし、私も小さい人達《人たち》が好きですから。」 「人が好《-す》いてくれるなんて、莫迦なことをおいいでない。小さい人達《人たち》のおさらいをするほか、お前はお使いに行ったり、お台所の手伝いをしたりしなければならないのだよ。私の気に入らないことでもあったら、すぐ逐《追》い出してしまうから、そのつもりでおいで。じゃア《あ》、向《向こ》うへ《へ’》おいで。」  そういわれても、セエ《ー》ラはまだちょっとの間《あいだ》、ミンチン先生を見つめていました。幼い心の中で、セエ《ー》ラはいろいろのことを考えていたのでした。やっと立ち去ろうとしますと、 「お待ち!《/》」と先生はいいました。「私に、ありがとうございます、という気はないのかい?」 「何《なん》のために?」 「私の親切に対してさ。お前に家庭《ホーム》を恵んでやる親切に対してさ。」  セエ《ー》ラは小さい胸を波立てながら、二三歩先生《ニサンポ先生》の方《ほう》に進み出ました。 「先生は、御親切《ご親切》じゃア《あ》ありません。それに、ここは家庭《ホーム》でも何でもありません。」  いいすててセエ《ー》ラは、駈け出しました。ミンチン先生はそれを止める術《スベ》もなく、憤《怒》りのあまり石のように立って、セエ《ー》ラを見送るばかりでした。  セエ《ー》ラは、落ち着いて梯子を登って行きましたが、息はきれるばかりでした。彼女はエミリイ《ー》をしかと脇に抱きしめていました。 「この子に口がきけたら──物がいえさえしたら、どんなにいいだろう。」  セエ《ー》ラは自分の部屋に行き、虎の皮の上に寝ころんで、炉の火に見入りながら、考えられるだけいろいろのことを考えてみようと思っていました。が、まだ彼女が二階へ登りきらないうちに、アメリア嬢がセエ《ー》ラの部屋から出て来ました。嬢はぴたりと戸をしめ、戸の前に立ち塞って、気づかわしげな顔をしました。嬢は、姉にいいつけられたことをするのが、うしろめたくてならないのでした。 「もう、ここへ入ってはいけないのですよ。」 「入っちゃア《あ》いけないのですって?」  セエ《ー》ラは一歩あとじさりしました。アメリア嬢は少し紅くなって、 「ここは、もうあなたのお部屋じゃア《あ》ないのですよ。」といいました。 「じゃア《あ》、私のお部屋は、どこなの?」 「今晩からあなたは、屋根裏の、ベッキイ《ー》のお隣の部屋に寝るんですよ。」  セエ《ー》ラは、かねてベッキイ《ー》から聞いていたので、その部屋がどこにあるか、よく知っていました。セエ《ー》ラはくるりとうしろを向いて、二つ続いた梯子段を登って行きました。二つ目の梯子は狭くて、きれぎれな古絨毯《フル絨毯》が敷いてあるばかりでした。セエ《ー》ラはそこを登り登り、今までの──今は自分とも思えぬ昨日までの、あの幸福な少女の住んでいたところから、ずっと遠くの方《ホウ》へ去って行くような気がしました。小さすぎる古い服を着て、梯子を登って行く今の少女は、事実昨日《事実/昨日》までのセエ《ー》ラとは別人になっていました。  屋根裏の戸を開けた時には、さすがに侘しい気がしました。が、セエ《ー》ラは中《なか》に入ると、戸に寄りかかって、そこらを見廻《見回》しました。  まったく、これは別な世界です。天井は屋根の傾斜で片方が低くなっていますし、壁は粗末な白塗です。その白塗も、もう薄汚くなっていて、はげ落ちているところさえあります。錆のふいた煖炉、それからこちこちな寝床。階下《階カ》の部屋には置けないほど使いふるした椅子、テエ《ー》ブル。明《明か》りとりの天窓《引窓》には、物憂い灰色の空がのぞいているばかりです。その下に、こわれた紅い足台があるのを見つけて、セエ《ー》ラはそこに腰を下《下ろ》しました。セエ《ー》ラは膝の上にエミリイ《ー》を寝かし、両手で抱きながら、エミリイ《ー》の上に自分の顔を伏せて、しばらくじっと坐っていました。  ひかえめに戸を叩く音がして、戸の間に泣き濡れたベッキイ《ー》の顔が現れました。ベッキイ《ー》は、さっきから泣きづめに泣きながら、前掛《前掛け》であまり眼をこすったものですから、すっかり顔が変《変わ》っていました。 「お、お、お嬢様《嬢さま》、ちょっと、あの、ちょっと入っちゃア《あ》いけませんか。」  セエ《ー》ラは、ベッキイ《ー》に笑ってみせようとしましたが、どうしても笑うことが出来ませんでした。が、ベッキイ《ー》が心から悲しんでいるのを見ると、セエ《ー》ラは急に子供らしい顔になり、手をさしのべて、しくしく泣き出しました。 「ベッキイ《ー》ちゃん、いつか私あなたに、私達《私たち》は同じような娘同士だといったことがあるでしょう。ね、嘘じゃア《あ》なかったでしょう? 二人の間には、もう身分の違いなんてないんですもの。私は、宮様《プリンセス》でもなんでもなくなってしまったのよ。」  ベッキイ《ー》は駈けよって、セエ《ー》ラの手をとり、自分の胸におしあてました。ベッキイ《ー》は欷歔《すすり泣》きながら、セエ《ー》ラの傍《傍ら》に跪いていいました。 「お嬢様《嬢さま》は、どんなことが起《起こ》ったって、やっぱり宮様《プリンセス》よ。何が起《起こ》ったって、どうしたって、宮様《プリンセス》以外のものにはなるもんですか。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 【屋根裏にて】 ◇。◇。◇。◇。◇。  セエ《ー》ラはいつまでも、初めて屋根裏に寝た晩のことを忘れることは出来ませんでした。夜もすがらセエ《ー》ラは、子供にしては深すぎる、狂わしい悲しみにひたされていました。が、セエ《ー》ラはそのことを誰にも話しませんでした。また話したとて、誰にも解《分か》る悲しみではなかったでしょう。セエ《ー》ラは、寝られぬ夜の闇の中で、ともすると、寝慣れぬ堅い寝床や、見慣れぬあたりのものに心を煩わされました。が、それはかえって彼女の気を|まぎ《紛》らしてくれたようなものでした。そんな|まぎ《紛》れがなかったら、セエ《ー》ラは悲しみのあまりどうなったかわからなかったでしょう。 「パパは、おな《亡》くなりになったのだ。パパは、おな《亡》くなりになったのだ。」  寝床《寝どこ》に入ってしばらくの間は、そのことばかり考えていました。寝床《寝どこ》が堅いと気のついたのは、寝てからずいぶんたった後《あと》のことでした。寝返りを打っているうちに、そこらがひどく暗いのに気がつきました。それから、風が屋根の上で、何か大声に泣き悲しんでいるようなのに気がつきました。更に気味《キミ》の悪いのは、壁の中や、戸棚のうしろから、きいきい、がりがりという音が聞こえて来たことでした。セエ《ー》ラは、いつかベッキイ《ー》から話を聞いていましたので、すぐ鼠のいたずらだなと気づきました。セエ《ー》ラは一二度《一’二度》、鋭い爪が床を掻いて走る音を聞いて、思わず床の上に飛び起きました。それから、頭から夜具をかぶって横になりました。  セエ《ー》ラの生活は、その日からがらりと変《変わ》りました。マリエットは翌朝暇を出されました。昨日までセエ《ー》ラのいた部屋はすっかり片付けられ、新入生のためのあ《当》たり|まえ《前》の寝室にされました。  朝食堂《朝/食堂》へ出て見ると、ラヴィニアが、昨日までセエ《ー》ラの坐っていたところに坐っていました。ミンチン先生は冷《冷やや》かにセエ《ー》ラにいいました。 「セエ《ー》ラ、お前は、お前の用をすぐ始めるんだよ。小さい方達《方たち》と、小さい方《ほう》のテエ《ー》ブルに坐って、皆さんがお行儀よく食べるように、見てあげるんだよ。これからもっと早く出て来《こ》なきゃア《あ》いけないよ。ほら、ロッティはもうお茶をこぼしてるじゃア《あ》ないか。」  セエ《ー》ラの仕事は、この様にして始まりました。来る日ごとに用事はふえるばかりでした。フランス語を見てあげるのは、一番楽《一番’楽》な仕事でしたが、そのほかお《/お》天気の悪い時でもかまわずお使いにやられたり、皆《みんな》の残為《しのこ》した用事をいいつけられたりしました。料理番や、女中までが、ミンチン女史の真似をして、今まで永いことちやほやされていたこの娘っ子を、いい気持《気持ち》にこき使うのでした。  セエ《ー》ラは、初めの一二《一’二》ヶ月の間は、素直に働いていれば、こき使う人達《人たち》の心も、そのうちには柔ぐだろうと思っていました。自分は、お慈悲を受けているのではなく、食べるために働いているのだということも、そのうちには解《分か》ってくれるだろう、と思っていました。が、やがて彼女も、皆《みんな》が心を柔げてくれるどころか、素直にすればつけあがるだけだということを、悟らなければなりませんでした。  セエ《ー》ラが、もう少し大人らしくなっていたら、ミンチン女史も、セエ《ー》ラを大きい子達《子たち》のフランス語の先生にしたでしょうが、何分《なにぶん》セエ《ー》ラはまだ子供々々《子供子供》していますので、大きくなるまで、女中代《女中代わ》りに使った方《ほう》が得《トク》だと思ったのでした。セエ《ー》ラなら、むずかしい用事や、こみいった伝言《言伝》なども、安心して頼むことが出来ました。お金を払《ハラ》いにやっても間違いはないし、ちょっとしたお掃除も、器用にやってのけるのでした。  セエ《ー》ラは、今はもう勉強どころではありませんでした。楽しいことは、何も教わりませんでした。忙しい一日がすんでから、古い本を抱えて、人気《ヒトケ》のない教室へ行って、一人夜学《ひとり夜学》を続けるばかりでした。 「気をつけないと、習ったことまで忘れてしまいそうだわ。これで、何《なん》にも知らないとすれば、ベッキイ《ー》と選ぶところがなくなるわけだわ。でも、私《わたし》忘れることなんて出来そうもないわ。歴史の勉強なんか、殊にやめられないわ。ヘンリイ《ー》八世に六人の妃があったことなんか、忘れられるもんですか。」  セエ《ー》ラの身の上が、こういうように変《変わ》ると同時に、お友達との関係も妙な《な-》ものになって来ました。今までは、何《なに》か皇族ででもあるかのように尊ばれていたのに、今は《は-》もう皆《みんな》の仲間入りもさせてくれなそうでした。セエ《ー》ラが一日中忙しいので、少女達《少女たち》と話す暇がないのも事実でしたが、同時にミンチン女史が、セエ《ー》ラを生徒達《生徒たち》からひきはなそうとしている事実も、セエ《ー》ラは見のがすわけにはいきませんでした。 「あの子が、ダイヤモンド鉱山を持っていたなんて。」と、ラヴィニアはひやかしました。「|ほんとう《本当》にお笑い草ってな顔してるじゃア《あ》ないの。あの子は、ますます変人になって来たわね。今までだって、あの子好《子/好》きじゃア《あ》なかったけど、この頃《ごろ》のような変な眼付《眼付き》で黙って見ていられると、たまらなくなるわ。まるで人を探るような眼をしてさ。」  それを聞くと、セエ《ー》ラはすぐやり返しました。 「その通りでございますよ。まったく私は、探るために人を見るのですよ。いろいろのことを嗅ぎつけて、そして、あとでそのことを考えて見るんですよ。」  そういったわけは、ラヴィニアのすることを見張っていたおかげで、|いや《嫌》な目に逢うことを避《-さ》けることが出来たからでした。ラヴィニアはいつも意地悪で、この間まで学校の誇《誇り》とされていたセエ《ー》ラを苛めるのは、殊にいい気味《キミ》だと思っていたのでした。  セエ《ー》ラは、自分で人に意地悪をしたり、人のすることの邪魔をしたりすることは、少しもありませんでした。セエ《ー》ラは、ただ奴隷のように働きました。だんだん身なりがみすぼらしく、みなし子らしくなって来ますと、食事も台所でとるようにいわれました。彼女は誰からも見離されたもののように扱われました。彼女の心は我強《我ヅヨ》く、同時に痛みやすくなって来ました。が、セエ《ー》ラはどんなに辛いことも、決して口《クチ》に出していったことはありませんでした。 「軍人は愚痴なんかこぼさない。」セエ《ー》ラは歯をくいしばりながらいうのでした。「私だって、愚痴なんかいうものか。これは私、戦争の一つだっていうつもりなのだから。」  そうはいうものの、彼女を慰めてくれる三人の友がなかったら、セエ《ー》ラの心は寂しさのあまり破れたかもしれなかったでしょう。  その友の一人は、あのベッキイ《ー》でした。初めて屋根裏に寝た晩も、壁一つ越した向《向こ》うには、自分のような少女がいるのだと思うと、セエ《ー》ラは何となしに慰められるような気がしました。その慰めの気持《気持ち》は、夜《よ》ごとに強くなって来るのでした。日の中《うち》は二人とも用が多くて、言葉を交《交わ》す折はほとんどありませんでした。立ち止《止ま》ってちょっと話そうとすると、すぐ怠けるとか、暇をつぶすとか思われるので、それも出来ないのでした。初めての朝、ベッキイ《ー》はセエ《ー》ラに囁きました。 「私が丁寧なことを言わないでも、気にしないで下さいね。そんなことをいってると、きっと誰かに叱られるからね、私、心の中では『どうぞ』だの、『もったいない』だの、『御免なさい』だのといってるつもりだけど、口に出すと暇《ヒマ》がかかるからね。」  しかし、ベッキイ《ー》は、夜の明ける前に、きっとセエ《ー》ラの部屋にこっそりと入ってきて、ボタンをはめたり、その他いろいろ手伝ってくれるのでした。夜がくると、ベッキイ《ー》はまたそっと戸を叩いて、何かセエ《ー》ラの用をしに来てくれるのでした。  三人のうちの第二は、アア《ー》ミンガア《ー》ドでした。アア《ー》ミンガア《ー》ドがセエ《ー》ラを慰めに来るまでには、いろいろ思いがけない|いきさつ《経緯》がありました。  セエ《ー》ラの心が、やっと少し新しい生活になじんで来ると、セエ《ー》ラはしばらくアア《ー》ミンガア《ー》ドのことを忘れていたのに気づきました。二人はいつも仲よ《良》くしていましたが、セエ《ー》ラは自分の方《ほう》がずっと年上のような気持《気持ち》でいました。アア《ー》ミンガア《ー》ドは人なつっこい子でしたが、同時にまた頭の鈍いことも争われませんでした。彼女は、ただひたむきにセエ《ー》ラに縋りついていました。おさらいをしてもらったり、お話をせがんだり──が、アア《ー》ミンガア《ー》ド自身には、別に話すこともないという風《ふう》でした。つまり彼女は、どんな事があっても忘れられない、という質の友達ではありませんでした。だからセエ《ー》ラも、アア《ー》ミンガア《ー》ドのことは自然忘れていたのでした。  それに、アア《ー》ミンガア《ー》ドは急に呼ばれて、二三週間自宅《ニサン週間ウチ》に帰っていましたので、忘れられるのがあ《当》たり|まえ《前》だったのです。彼女が学校へ帰って来た時には、セエ《ー》ラの姿は見えませんでした。二三日目《ニサンにち目》にやっと見付《見つ》けた時には、セエ《ー》ラは両手に一杯繕物を持っていました。セエ《ー》ラはもう着物の繕い方まで教わっていたのでした。セエ《ー》ラは蒼《青》ざめて、人のちがったような顔をしていました。小さくなった、おかしな着物を着て、黒い細い脚を|にょきり《/ニョキリ》と出していました。 「まア《あ》、セエ《ー》ラさん、あなただったの!」 「ええ。」  セエ《ー》ラは顔を紅《赤》らめました。  セエ《ー》ラは衣類を堆く重ねて持ち、落ちないように顎で上を押えていました。セエ《ー》ラにまともに見つめられると、アア《ー》ミンガア《ー》ドはよけいどうしていいか判《分か》らなくなりました。セエ《ー》ラは様子が変《変わ》ったと同時に、何《なに》かまるで知らない女の子になってしまったのではないか?──アア《ー》ミンガア《ー》ドにはそうも思えるのでした。 「まア《あ》、あなた、どう? お丈夫?」 「わからないわ。あなた、いかが?」 「私は──私は、おかげ様で、丈夫よ。」アア《ー》ミンガア《ー》ドは羞《恥ずか》しくてわけがわからなくなって来ました。で、急に、何《なに》かもっと友達らしいことをいわなければならないと思いました。「あなた──あなた、あの、ほんとにお不幸《不幸せ》なの?」  その時のセエ《ー》ラのしうちは、よくありませんでした。セエ《ー》ラの傷《傷つ》いた心臓は、ちょうど昂ぶっている時でしたので、こんな物のい《言》いようも知らない人からは、早くのがれた方《ほう》がいいと思いました。 「じゃア《あ》、あなたはどう思うの? 私が幸《幸せ》だとお思いになるの?」  セエ《ー》ラはそういい残して、さっさと去って行ってしまいました。  その後、時がたつにつれて、セエ《ー》ラは、アア《ー》ミンガア《ー》ドを責《せ》むべきではなかったと思うようになりました。ただあの時は、自分の不幸のため、何もかも忘れてしまっていたので、アア《ー》ミンガア《ー》ドの心ない言葉に腹が立ってならなかったのでした。それに、落ち着いて考えて見ると、アア《ー》ミンガア《ー》ドはいつも気のきかない子で、心を籠《こ》めて何かしようとすると、よけいやりそこなうのが常だったのでした。  それから五六週間《五’六週間》の間《あいだ》、二人は何かに遮られていて、|近よ《近寄》ることが出来ませんでした。ふと行きあったりすると、セエ《ー》ラは傍《脇》を向いてしまいますし、アア《ー》ミンガア《ー》ドはアア《ー》ミンガア《ー》ドで、妙にかたくなってしまって、言葉をかけることも出来ませんでした。時には、首だけ下げて挨拶することもありましたが、時とすると、また目礼さえせずに過ぎることもありました。 「あの子が、私と口をききたくないのなら、私はあの子になるべく会わないようにしよう。ミンチン先生は会わせまい《い-》としているんだから、避《さ》けるのは造作ないわけだわ。」  で、自然二人はほとんど顔も会わさないようになりました。アア《ー》ミンガア《ー》ドは、ますます勉強が出来なくなりました。彼女はいつも悲しそうで、そのくせそわそわしていました。彼女はいつも窓のそばに蹲《うずく》まり、黙って外を見ていました。ある時《とき》、そこへ通りかかったジェッシイ《ー》は、立ち止《止ま》って、怪訝そうに訊ねました。 「アア《ー》ミンガア《ー》ドさん、何で泣いてるの?」 「泣いてなんて、いやしないわ。」 「泣いてるわよ。大粒の涙が、そら、鼻柱をつたって、鼻の先から落ちたじゃア《あ》ないの。そら、また。」 「そう。私なさけないの──でも、かまって下さらない方《ほう》がいいのよ。」  アア《ー》ミンガア《ー》ドは丸々とした背を向けて、手巾《ハンケチ》で面《オモテ》をかくしました。  その晩、セエ《ー》ラはいつもよりも遅く、屋根裏へ登って行きました。と、自分の部屋の扉の下から、ちらと光の洩れているのを見付《見つ》けて、吃驚しました。 「私のほか、誰もあそこへ行くはずはないけど、でも、誰かが蝋燭をつけたとみえる。」  誰かが火をともしたのにちがいありません。しかも、その光は、セエ《ー》ラがいつも使う台所用の燭台のではなく、生徒が寝室につける燭台の火に違いないのです。その誰かは、寝衣《寝巻》のまま紅いショオ《ー》ルにくるまって、壊《崩》れた足台の上に坐っていました。 「まア《あ》、アア《ー》ミンガア《ー》ドさん!」セエ《ー》ラは怯えるほど吃驚しました。「あなた、大変なことになってよ。」  アア《ー》ミンガア《ー》ドはよろよろと立ち上《上が》りました。彼女は大きすぎる寝室用のスリッパをひっかけて、すり足にセエ《ー》ラの方《ホウ》へ歩いて来ました。眼も、鼻も、赤く泣き腫らしていました。 「見付《見つ》かれば、大変なことになるのはわかっているわ。でも、私、叱られたってかまわないわ。ちっともかまわないわ。それよりもセエ《ー》ラさん、お願いだから聞かしてちょうだい。|ほんとう《本当》にどうなすったの? どうして、私が嫌いになったの?」  アア《ー》ミンガア《ー》ドの声を聞くと、セエ《ー》ラの喉にはまた、いつものかたまりがこみ上げて来ました。アア《ー》ミンガア《ー》ドの声は、いつか仲よ《良》しになってちょうだいといった時の通り、人なつっこく、真率でした。この数週間の間《あいだ》、よそよそしくするつもりなんか、ちっともなかったのに、というような響《響き》でした。 「私、今でも、あなたが大好きなのよ。」と、セエ《ー》ラはいいました。「私ね──もう何もかも、前とは違ってしまったでしょう。だから、あなたも、前とは変《変わ》っちまったんだろうと思ったの。」  アア《ー》ミンガア《ー》ドは、泣き濡れた眼を見張りました。 「あら、変《変わ》ったのはあなたの方《ほう》よ。あなたは、私に物をいいかけても下さらなかったじゃア《あ》ないの。私、どうしていいか判《分か》らなかったの。私がうちへ行って来てから、変《変わ》ったのはあなたよ。」  セエ《ー》ラは思い返して、自分が悪かったのだと知りました。 「そうよ、私変《わたし変わ》ったわ。あなたの考えてるような変《変わ》り方ではないけど。ミンチン先生は皆さんとお話《話し》しちゃア《あ》いけないって|仰しゃ《仰》るのよ。皆さんだって、私と話すのはお|いや《嫌》らしいの。だから、私あなたもきっと、お|いや《嫌》なんだろうと思って、なるべくあなたを避けていたのよ。」 「まア《あ》、セエ《ー》ラさん。」  アア《ー》ミンガア《ー》ドは、セエ《ー》ラを咎めるように泣きじゃくりました。二人は眼を見合わせて、そして、お互《互い》に抱きつきました。セエ《ー》ラはしばらくの間《あいだ》、小さい黒髪の頭を、赤いショオ《ー》ルで被われたアア《ー》ミンガア《ー》ドの肩にじっと乗せていました。アア《ー》ミンガア《ー》ドが、身を引こうとすると、セエ《ー》ラはひどく寂しい気がしました。  それから、二人は床に坐りました。セエ《ー》ラは手で膝をかかえ、アア《ー》ミンガア《ー》ドはショオ《ー》ルにからだを包んで、 「私は、もうとてもたまらなかったのよ。セエ《ー》ラさんは、私なしでも暮せるでしょうけど、私は、セエ《ー》ラさんなしには《は-》いられないのよ。私は生きてる気もしなかったの。今夜も、夜具の中で泣いていたら、ふと急に、ここへ登ってきて、あなたにあやまって、もう一度お友達になっていただこうって気になったの。」 「あなたは、私なんかよりよっぽどいい方《方’》なのね。私は我《ガ》が強いから、仲直りしようなんて気にはなかなかなれないのよ。ほら、いつかもいったように、今度のように辛い目にあって見ると、私はいい子じゃア《あ》ないということが、あばかれてしまったでしょう。こんなことになりはしまいかと、私《わたし/》気にしていたのよ。」セエ《ー》ラは考え深そうに額《ヒタイ》に皺を寄せて、「ことによると、それを私に解《分か》らせるため、辛い目にあわせられたのかもしれないわ。」 「そんな目にあったって、ちっともありがたくはないと思うわ。」 「私だって、|ほんとう《本当》はありがたいと思ってるわけじゃア《あ》ないのよ。でも、私達《私たち》にはわからないところに、よいものがないとも限らないでしょう。ミンチン先生にしたって──。」  セエ《ー》ラは疑わしげに──「いいところが、あるのかもしれないわ。」  アア《ー》ミンガア《ー》ドは、怖々そこらを見廻《見回》して、セエ《ー》ラに訊ねました。 「あなた、こんなところに住めると思うの?」 「こんな所でも、こんなじゃア《あ》ないつもりになれば、住めると思ってよ。でなければ、これは、あるお話の中の場面だと思っていればね。」  セエ《ー》ラは静かに語りました。うまい具合に空想がまた働き出して来ました。ふいに辛い目にあってからこのかた、セエ《ー》ラは一度もまだ、空想によって慰められたことがなかったのでした。 「もっとひどい所に住んでた人もあるのよ。モント・クリスト伯爵はシャトオ《ー》・ディフの牢屋に押しこめられていたでしょう。それから、バスティユに抛りこまれた人達《人たち》だってあるでしょう。」  アア《ー》ミンガア《ー》ドは口の中で、 「バスティユ。」といいました。いつかセエ《ー》ラが芝居がかりで話してくれた事がありましたので、アア《ー》ミンガア《ー》ドもフランス革命の話だけは覚えこんでいました。  セエ《ー》ラの眼は、いつものように輝いて来ました。 「つもりになるのは、バスティユがいいわ。私はバスティユの囚人なの。私は、もう幾年《イクネン》も幾年《イクネン》もここに押しこめられていたの。世の中の人達《人たち》は皆《みんな》、私のことなんか忘れてしまっているの。ミンチン先生は監守で、それからベッキイ《ー》は──。」ふと新しい光が、セエ《ー》ラの眼に加わりました。 「ベッキイ《ー》は、お隣の監房にいる囚人なの。」  セエ《ー》ラは、昔の通りな顔になって、アア《ー》ミンガア《ー》ドの方《ほう》を向きました。 「私、そのつもりになるわ。つもりになってると、どんなに|まぎ《紛》れていいかしれないわ。」  アア《ー》ミンガア《ー》ドは、たちまち夢中になりました。 「そしたら、私にもつもりのお話をみんなしてちょうだいね! 見付《見つ》けられそうもない晩には、いつでもここに来ていいでしょう? そしたら、あなたが昼間のうちに作っといたお話を聞かしてちょうだいね。そんなことをしていると、きっと今までよりも、もっと仲よ《良》しになったような気がすることよ。」 「いいわ。何か事が起《起こ》ると、人の心もわかるものね。私の不幸《不幸せ》は、あなたが|ほんとう《本当》にいい方だってことを教えてくれたのね。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第九章】 【メルチセデク】 ◇。◇。◇。◇。◇。  セエ《ー》ラを慰めてくれた三人組《トリオ》の第三人目はロッティでした。ロッティはまだね《/ね》んねエでしたので、不幸とはどんなことだかも、よく解《分か》りませんでした。で、若い養母《お母》さんの様子がすっかり変《変わ》ってしまったのを見ると、途方にくれるばかりでした。彼女は、セエ《ー》ラの身の上に何か起《起こ》ったということは耳にしましたが、だからといって、どうしてあんな古い服を着ているのだか、なぜ教室でも自分の勉強はせず、他人の勉強ばかり見てあげているのだか、合点《ガテン》が行きませんでした。小さい子供達《子供たち》は、あのエミリイ《ー》のいた美しい部屋に、セエ《ー》ラはもういないのだということを、しきりに小声で話し合っていました。それにセエ《ー》ラに何か問いかけても、ろくに返事もしません。  セエ《ー》ラが、初めて小さい子達《子たち》のフランス語を見てやった朝、ロッティは、そっとセエ《ー》ラに尋ねました。 「セエ《ー》ラちゃん、あなた、ほんとにもうお金持《金持ち》じゃア《あ》ないの? あなたは、乞食みたいに貧乏なの? 乞食みたいになんかなっちゃア《あ》いや。」  ロッティは今にも泣き出しそうでしたので、セエ《ー》ラは周章《慌て》てロッティをなだめにかかりました。 「乞食には、お家なんかないけど、私には、お部屋があるのよ。」 「どこにあるの? 私、行ってみたいわ。」 「おしゃべりしちゃア《あ》駄目よ。ミンチン先生が睨めてるじゃア《あ》ないの。あなたにおしゃべりさせたといって、いまに私が叱られるわ。」  が、ロッティは、一度いい出したら、なかなか諦めない性質の子でした。で、セエ《ー》ラがいる所を教えてくれないなら、何か他の方法で、セエ《ー》ラのいる所をつきとめようと思いました。ロッティは大きい子達《子たち》のおしゃべりに耳をすましているうち、ある時《とき》、ふとした言葉尻から、セエ《ー》ラが屋根裏にいるのだということを知りました。その日の暮近《暮れ近》く、ロッティは一人、今まであ《/あ》るとも気づかなかった階段を登って行きました。二つ並んでいる戸の一つを開けると、セエ《ー》ラは古ぼけたテエ《ー》ブルの上に立って、天窓《引窓》から外を見ておりました。 「セエ《ー》ラちゃん、セエ《ー》ラ母ちゃん。」  ロッティは呆気にとられた形でした。室内があまりにみすぼらしく、世の中からあまりかけ離れた所のように思えたからでした。  セエ《ー》ラは振り向くと、これも呆気にとられた形でした。これから、どうなることだろう。もしロッティが泣き出しでもしたら──泣声《泣き声》がひょっと誰かの耳にでも入ったら、二人とももうおしまいだ。──セエ《ー》ラはテエ《ー》ブルから飛び下《-お》りて、ロッティの方《ホウ》へ走り寄りました。 「泣いたり、騒いだりしちゃア《あ》駄目よ。そうすると、私が叱られるからね。でなくても、私一日中叱《わたし一日中’叱》られ通《どお》しなんですもの。ね、この部屋は、そんなにひどくもないでしょう?」 「ひどくない?」  ロッティは唇を噛みながら、部屋の中を見まわしました。彼女は甘やかされてはいましたが、セエ《ー》ラが非常に好きなので、この養母《お母》さんのためになら、どんな我慢でもしようと思っていました。すると、セエ《ー》ラの住んでいる所なら、どんな所でもよくなるような気がして来ました。 「ひどいなんてことないわ。セエ《ー》ラちゃん。」  セエ《ー》ラはロッティを抱きしめて、無理にも笑おうとしました。ロッティのむっちりした身体の温かさを感じると、セエ《ー》ラは何か慰められるような気がしました。その日は、セエ《ー》ラには殊に辛い日でしたので、ロッティの入ってきた時には、眼を紅くして、窓の外を見つめていたのでした。 「ここからは《は-》ね、階下では見えないものが、たくさん見えるのよ。」 「どんなものが見えるの?」 「煙突や、雀や、それからよその屋根裏の窓や。──窓からよく人の顔がひょいと出て来るのよ。すると、あれはどこのお家の人かしらと思うでしょう。それに、何だか高い所にいるような気がするでしょう──まるで、どこか違った世界に来たような。」 「私にも見せて。抱いてみせて!」  セエ《ー》ラはロッティを抱き上げ、一緒に古いテエ《ー》ブルの上に立ちました。二人は天井の明《明か》りとりの窓から頭を出して、そこらを見廻《見回》しました。  屋根裏の窓から外を見た経験のない方には、二人の眼に何が映ったか、想像もつかないでしょう。石盤《スレート》葺の屋根が、左右の両樋の方《ホウ》へなだれ落ち、雀等《雀ら》が、そこらを何《-なん》の怖れもなさそうに飛び歩きながら、囀っていました。そのうちの二羽《2羽》は、すぐそこの煙突の先にとまって、大喧嘩《オオゲンカ》をした末、一羽はそこから逐《追》いたてられてしまいました。隣家《隣》は空家なので、屋根裏部屋の窓も閉《閉ま》っていました。 「あそこにも誰かが住んでいてくれるといい、と私《わたし》思うのよ。」セエ《ー》ラはいいました。「近いから、あそこに娘さんでも住んでるとしたら、窓越しにお話も出来るわ。落ちる心配さえなければ、屋根から屋根へ行き来も出来ると思うの。」  空は、往来から見上げた時より、ずっと近くに見えるので、ロッティは恍惚となってしまいました。下界《ゲカ-イ》に起《起こ》っているいろいろの事は、煙突にかこまれてこの窓からは、まるで嘘のように思われました。ミンチン先生も、アメリア嬢も、教室も、|ほんとう《本当》にあるのかないのか、判《分か》らなくなって来ます。広場の車馬の響さえ、何か別の世界の物音のように聞えて来るのでした。ロッティは思わずセエ《ー》ラの腕にしがみつきました。 「セエ《ー》ラちゃん、私このお部屋好《部屋’好》き──《─:》大好き。私達《私たち》の部屋よりよっぽどいいわ。」 「あら、雀が来てよ。パン屑でもあれば、やりたいのだけど。」 「私、持っててよ。」  雀は、屋根裏にお友達がいようとは思わなかったので、パン屑を投げられると、驚いて一つ向《向こ》うの煙突の先へ飛び退きましたが、《:、》セエ《ー》ラがちゅっちゅっと雀の通りに口を鳴らしますと、雀はせっかくの御馳走《ご馳走》に脅《おど》かされたのだと気づいたらしく、首を傾《-かし》げてパン屑を見下《見下ろ》しました。それまで、おとなしくしていたロッティは、耐《こら》えきれなくなりました。 「来るでしょうか?」 「来そうな眼をしてるわ。来ようか、来《こ》まいか、と迷っているのよ。あら、来そうだわ。ほら、来たわ。」  雀は、しばらくためらって後《のち》、大きなかけらを素早く嘴《つま》んで、煙突の向《向こ》うへ《へ’》飛び去りました。が、じき一羽の友を伴《連》れて、戻って来ました。友はまた友を伴《連》れて来ました。ロッティはうれしさの余り、初め部屋のみすぼらしさに胸を打たれたことなど忘れてしまいました。セエ《ー》ラ自身も、ロッティによって、今まで気づかなかったここの美しさを知りました。 「この部屋は、小さくて高いところにあるから、鳥の巣といってもいいわね。天井がかしいでいるのも面白いでしょう。こっちの方《ほう》は低くて、頭がつかえそうね。私《わたし/》夜が明けると、床の上に坐って、窓から空を見上げるのよ。すると、窓はまるで四角な明るみの継布《ツギ》みたいなのよ。お天気の日には、小さな薔薇色の雲がふわふわ浮いてて、手を伸《伸ば》したら届きそうなの。雨の日には雨だれの音が、何かいい事を話してくれてるようよ。星の夜は、継布《ツギ》の中にいくつの星が光ってるか、数えて見るの。あれっぱかしの所にずいぶんたくさんあってよ。それから、あの小さな炉にしたって、磨いて火を入れれば、素敵じゃないの。ね、そう考えてみると、ここだってずいぶんい《好》い部屋でしょう。」  そういわれると、ロッティも、セエ《ー》ラのいう通りのものが見えるような気がしました。セエ《ー》ラが描《えが》くものなら、何でも|ほんとう《本当》だと思いこむロッティでした。セエ《ー》ラは、なお|つづ《続》けていいました。 「床には厚い、柔《柔ら》かい、青の印度《インド》絨毯を敷くとしましょう。それから、あそこの隅には、クッションを一杯のせた長椅子を置くとしましょう。椅子から手を伸《伸ば》すと取れるところに、本箱を置くの。炉の前には毛皮を敷くの。壁は壁掛《壁掛け》と額《ガク》とで隠してしまうの。小さいのでなきゃア《あ》似合わないけど、小さくても綺麗なのがあるわ。薔薇色の置ラムプが欲しいわね。真中《真ん中》にはお茶道具をのせたテエ《ー》ブル。丸い銅《/銅》の茶釜が、炉棚《ホップ》の上でちんちん煮立《煮え立》ってるの。寝台《ベット》もすっかり変えなければ。それから、小雀達《コスズメたち》は窓に来て入《/入》ってもようござんすかというように、慣らしてしまうの。」 「セエ《ー》ラちゃん、私もここに来たいわ。」  ロッティを送り出してしまうと、セエ《ー》ラには室内の惨めさが、前よりひどく思われました。セエ《ー》ラはしばらく足台の上に坐って、両手で顔を|おお《覆》うていました。 「寂しい所だわ。世の中で一番寂しい所のように思えることさえあるわ。」  ふと、セエ《ー》ラは|こと《コト》という微かな音を聞きました。見ると、大きな鼠が一匹、後肢《アトアシ》で立って、物珍しげに鼻をうごめかしていました。ロッティの持ってきたパン屑が、そこらに散らかっていましたので、鼠はその匂いに惹かれて出て来たもののようでした。  鼠はまるで、灰色の頬鬚《ホオヒゲ》をはやした侏儒《小人》のようでした。何か問うようにセエ《ー》ラをみつめているのでした。眼付《眼付き》が妙におどおどしているので、セエ《ー》ラはふとこんなことを考えました。 「鼠はきっと辛いに違いないわ、皆《みんな》に嫌がられて。私だって、皆《みんな》に嫌がられて、罠をかけられたりしたらたまらないわ、雀は、鼠とは大違《’大違》いだわ。でも鼠は鼠になりたくてなったわけじゃア《あ》ないのね。雀の方《ほう》に生《生ま》れたくはないかい? なんて聞いてくれる人があるわけじゃア《あ》ないから。」  鼠は、初めはセエ《ー》ラを怖がっているようでしたが、雀のような心を持っているとみえ、さっきの雀のように、だんだんパン屑の方《ほう》に寄って来ました。 「おいで。私は罠じゃア《あ》ないから。食べてもいいのだよ、可哀そうに。バスティユの囚人達《囚人たち》は、鼠と仲よ《良》しになったっていうから、私もお前と仲よ《良》くなろうかしら。」  どうして動物に物が解《分か》るのか。その訳は解《分か》りませんが、しかし、動物に物の解《分か》るのは事実です。ことによると世の中には言葉でない言葉があって、何《なん》にでも、それが通じるのかもしれません。ことによると、また世の中の事物には、何《なん》にでも、目に見えぬ魂があって、声も立てず、話し合うことが出来るのかもしれません。それはとにかく、鼠はセエ《ー》ラがこういった瞬間、もう安心だと思ったようでした。彼はそろそろとパン屑の方《ほう》に行き、それを食べはじめました。彼は食べながら、さっきの雀のように、時々セエ《ー》ラの方《ほう》を見て、どうもすみません、というような眼をしました。セエ《ー》ラは、それにひどく心を動かされました。  それから一週間ほどたったある晩、アア《ー》ミンガア《ー》ドがそっと屋根裏へ忍び登って、戸を叩きますと、室内は妙《-みょう》にひっそりしていました。セエ《ー》ラは寝てしまったのかしら、と訝っているところへ、ふいにセエ《ー》ラの低い笑い声が聞えて来ました。 「ほら、メルチセデク、それを持ってお帰り。おかみさんのところへお帰り。」  そういうと、すぐセエ《ー》ラは戸を開きました。 「セエ《ー》ラさん、誰? 誰と話してたの?」 「お話《話し》してもいいけど、あなたびっくりして、声を立てたりしちゃア《あ》、駄目よ。」  アア《ー》ミンガア《ー》ドは、その場で危《危う》く声を立てるところでした。見渡したところ、室内には誰もいないので、セエ《ー》ラはお化《化け》と話していたのかと、アア《ー》ミンガア《ー》ドは思ったのでした。 「何か、怖いお話なの?」 「怖がる人もあるわ。私だって初めは怖かったけど、もう何でもないわ。」 「お化《化け》?」 「いやア《あ》だ。──鼠よ。」  アア《ー》ミンガア《ー》ドは一飛《ひとっ飛び》に飛んで、寝台《ベット》の真中《真ん中》に坐りました。声は立てませんでしたが、怖さのあまり息《/息》をはずませていました。 「鼠? 鼠ですって?」 「慣れてるから怖かア《あ》ないのよ。私が呼べば出てくるくらいよ。あなたさえ怖くなければ、呼んでみるわ。」  アア《ー》ミンガア《ー》ドは、初めは怯えて寝台《ベット》の上で足を縮めてばかりいましたが、セエ《ー》ラが落ち着いた顔で、メルチセデクが初めて出て来た時の話をするのを聞いていると、だんだん鼠を見てみたくなりました。彼女は寝台《ベット》の端にのり出して来て、セエ《ー》ラが壁の腰板にある抜穴《抜け穴》のそばに跪くのをじっと見ていました。 「そ、その鼠、ふいに駈け出して来て、寝台《ベット》の上に上って来たりしやア《あ》しなくって?」 「大丈夫。私達《私たち》と同じようにお行儀がいいのよ。まるで人間のようだわ。さ、見てらっしゃい。」  セエ《ー》ラは聞えるか聞えないほどに、口笛を吹きました。何か呪文を称《唱》えるように、四五《シゴ》たび吹きました。すると、それを聞きつけて、灰色の頬鬚《頬髭》を生やした鼠が、眼をきらきらさせて、穴から顔を出しました。セエ《ー》ラがパン屑をやると、メルチセデクは静かに出て来て、それを食べました。彼は少し大きな屑を持って、小忙《こぜわ》しげに帰って行きました。 「ね、あれは、おかみさんや子供達《子供たち》に持ってってやるのよ。えらいでしょう。自分は小さいのだけ食べるのよ。帰って行くと、家のもの達《たち》が悦んで、ちゅうちゅう大騒ぎよ。ちゅうちゅうにも三通りあるのよ、子供のちゅうちゅうと、メルチセデク夫人のちゅうちゅうと、それからメルチセデク君のちゅうちゅうと。」  アア《ー》ミンガア《ー》ドは笑い出しました。 「セエ《ー》ラさんは変《変わ》ってるわね。でも、いい方ね。」 「私変《わたし変わ》っていてよ。私はまたいい人になりたいと思ってるのよ。」セエ《ー》ラは小さな手で顔をこすりました。そして、やさしい少《/少》し悩ましい顔になりました。「パパもよく私を笑ったものだわ。でも、私《わたし》笑われてうれしかったわ。私は変人だけど、私のいう出まかせは面白いと、パパは|仰しゃ《仰》ってたわ。私、お話を作らずにい《-い》られないのよ。お話を作らずには生きていられないのよ。」セエ《ー》ラはちょっと口《’口》を噤んで、部屋の中を見廻《見回》しました。「少くとも、こんなところに住んでいられるはずはないわ。」  アア《ー》ミンガア《ー》ドは、だんだん惹き入《い》れられて来ました。 「あなたが話すと、何でも、皆《みんな》ほんとのように思えてくるわ。あなたは、メルチセデクのことを人間のように|仰しゃ《仰》るでしょう。」 「人間なのよ。あれは私達《私たち》と同じように、ひもじくなったり、吃驚したりするわ。それから結婚して、子供も持ってるわ。だから、あれだって私達《私たち》のように、何も考えないとはい《言》えないでしょう? あれの眼は、人間の眼のようだわ。だから私、あれに名をつけてやったのよ。」  セエ《ー》ラは、いつものように膝を抱えて、床に坐っていました。 「それにあれは、私の友達としてつかわされたバスティユ鼠なのよ。」 「まだバスティユのつもりなの? いつでも、ここはバスティユだというつもりでいらっしゃるの?」 「たいていそのつもりよ。時とすると、どこか別の所のつもりにもなるけど、バスティユのつもりになら、すぐなれるわ。殊に寒い日などには。」  ちょうどその時、アア《ー》ミンガア《ー》ドは寝台《ベット》から転《転が》り落ちそうになりました。向《向こ》うから壁をコツ、コツと叩く音《音’》を聞いたからでした。 「なア《あ》に? あれ?」  セエ《ー》ラは立ち上《上が》って、お芝居の口調で答えました。 「あれこそは、隣の監房にいる囚人じゃ。」 「ベッキイ《ー》のこと?」 「そうよ。こうなの、コツ、コツ、と二《フタ》ツ叩くのは、『囚人よ、そこにいるのですか?』という意味なの。」  セエ《ー》ラは返事でもするかのように、こちらから壁を三度叩きました。 「ね、これは、『はいおります。別に変《変わ》りはありません。』という意味なの。」  すると、ベッキイ《ー》の方から、コツ、コツ、コツ、コツと、四《4》つ叩く音がしました。 「あれは、こうなの、『では、同胞《兄弟》よ、安らかに眠りましょう。お休みなさい。』」  アア《ー》ミンガア《ー》ドは、うれしさのあまり眼を輝かせました。 「まるで、何かのお話みたいね。セエ《ー》ラさん。」 「みたいじゃア《あ》なくて、ほんとにお話なのよ。何《なん》だってかんだって物語だわ。あなただって一つの物語だし──私も一つの物語よ。ミンチン先生だって、やっぱり物語だわ。」  セエ《ー》ラはまた床に坐って話し出しました。アア《ー》ミンガア《ー》ドは、自分がいわば脱走囚のようなものだということなぞ忘れて、セエ《ー》ラの話に聞きとれていました。で、セエ《ー》ラは彼女に、このバスティユに夜通しいてはならないから、そっと梯子を降りて、自分の寝室《ベット》へ行くように、注意しなければなりませんでした。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十章《第10章》】 【印度《インド》の紳士】 ◇。◇。◇。◇。◇。  が、アア《ー》ミンガア《ー》ドやロッテイ《ィ》は、そう毎晩屋根裏《毎晩’屋根裏》に忍んで行ったわけではありません。セエ《ー》ラはいつ行っても屋根裏にいるというわけではありませんし、抜け出たあとをアメリア嬢に見舞われる惧れもないではありませんでした。で、セエ《ー》ラはたいてい一人ぼっちでした。彼女は屋根裏に一人いる時よりも、階下で皆《みんな》の間にいる時の方《ほう》が、よけい一人ぼっちな気がしました。  プリンセス・セエ《ー》ラとして馬車に乗り、女中を従えていた時には、よく通りがかりの人が振り返って見たものでしたが、今は、使《使い》に出歩くセエ《ー》ラを、眼にとめるものもありませんでした。ぐんぐん脊丈は伸びて行くのに、古い着残《-き残》りしかないので、形《ナ-リ》の整わないのはもとよりのことでした。セエ《ー》ラは時々《ときどき》商店の鏡に映る自分の姿をちらと見て、思わず吹き出すこともありましたが、時とすると顔を紅《赤》らめ、唇を噛んで、逃げ出さずには《は-》いられませんでした。  日が暮れて、窓の中に灯《明かり》がともると、セエ《ー》ラは通りがかりに暖かそうな部屋を覗いて見るのが常でした。火の前に坐ったり、テエ《ー》ブルを囲んで話したりしている人達《人たち》を見て、彼女は、よくその人達《人たち》のことを想像してみるのでした。ミンチン女塾のある一劃《一画》には、五つか六《6》つの家族が住んでいました。セエ《ー》ラはそれぞれの家族と、彼女の空想の中で親しくなっていました。その中で一番好きな家族を、セエ《ー》ラは『大屋敷』と呼んでいました。というわけは、その家《’家》の人が大きいからではなく、その家には人がたくさんいるからでした。そのたくさんの人達《人たち》は、大きいどころか、子供の方《ほう》が多いくらいでした。肥った血色のいいお母さんと、肥った血色のいいお父さんと、これもまた肥った血色のいいお祖母さんと、八人の子供と、たくさんの召使《召使い》と──これが『大屋敷』の人達《人たち》でした。大屋敷の|ほんとう《本当》の名は、モントモレンシイ《ー》というのでした。  ある晩のことでした。非常に滑稽なことが持ち上《上が》りました。もっとも、考えようによっては、ちっとも滑稽なことではなかったかもしれません。  セエ《ー》ラがモントモレンシイ《ー》家の前を通りかかると、子供達《子供たち》はどこかの夜会へでも出かけるらしく、ちょうど舗道《ペーヴメント(舗道)》を横切って馬車の方《ホウ》へ歩いて行《行く》ところでした。二人の女の子は、白いレエ《ー》スの服に美しい飾帯《サッシ》を着けて、先に馬車へ乗りました。それにつづいて、五歳の少年ギイ《ー》・クラア《ー》レンスが乗りこもうとしていました。少年の頬《ホオ》は紅く、眼は青で、丸い可愛い頭は巻毛に被われていました。あまり美しいので、セエ《ー》ラは手籠を持っていることも、自分の身装《身装り》のみすぼらしいことも──何もかも忘れ、もう一目少年《一目/少年》を見たい気持《気持ち》で一杯になりました。で、彼女は思わず立ち止《止ま》って、少年を眼で追いました。  ちょうど降誕祭の前でしたので、大屋敷の人達《人たち》は貧しい子供達《子供たち》の話をいろいろ聞いていました。ギイ《ー》・クラア《ー》レンスは、その日そんな話を読んで涙ぐんだほどでした。で、彼はどうかしてそんな子を見付《見つ》け、持合《持ち合わ》せの二十銭銀貨を施したいと思っていたところでした。彼はその二十銭で、貧しい子の一生が救えるものと思っていたのでした。彼が姉につづいて馬車へ乗ろうとした時にも、その銀貨はポケットの中にありました。乗ろうとしてクラア《ー》レンスは、ふとセエ《ー》ラが餓えたような眼で自分を見ているのに気づいたのでした。  セエ《ー》ラが餓えたような眼をしていたのは、この少年に抱きついて接吻《キス》したいからでした。が、少年は、セエ《ー》ラが一日中何《一日中-なん》にも食べなかったから、そんな眼をしているのだろうと思いました。で、彼はポケットに手を入れ、銀貨を持って、セエ《ー》ラの方《ホウ》へ歩いて行きました。 「可哀そうに。この二十銭を上げるよ。」  セエ《ー》ラはびっくりしました。が、すぐ、今の自分は、昔自分《昔’自分》が馬車に乗るのを見上げていた乞食娘にそっくりだと気づきました。セエ《ー》ラも、よくそうした娘達《娘たち》に銀貨を施してやったものでした。セエ《ー》ラは一度紅くなってから、また真蒼《真っ青》になりました。セエ《ー》ラはその情のこもった銀貨に、手も出せないような気がしました。 「あら、たくさんでございます。わたくし、|ほんとう《本当》にいただくわけはございません。」  セエ《ー》ラの声は、そこらの乞食娘の声などとは似ても似つかぬものでしたし、ものごしも良家《リョーケ》の令嬢そっくりでしたので、馬車の中の少女達《少女たち》はのり出して耳を傾けました。  が、ギイ《ー》・クラア《ー》レンスは、せっかくの施しをやめるのが|いや《嫌》でしたので、銀貨をセエ《ー》ラの手の中に押しこみました。 「君《キミ》、とってくれなくちゃア《あ》困るよ。これで、何か食べるものでも買いたまえ。二十銭あるんだからね。」  少年は、非常に親切な顔をしていました。セエ《ー》ラがこの上拒《うえ拒》みでもすると、ひどく気を落しそうなので、セエ《ー》ラは素直にお金を取らなければ悪いと思いました。で、ようよう我《/我》を折りはしましたが、頬《ホオ》は真赤《真っ赤》に燃えました。 「ありがとう。坊ちゃんは|ほんとう《本当》に御親切《ご親切》な、可愛い方ね。」  少年が悦ばしげに馬車へとびこむのを見ると、セエ《ー》ラもそこを去りました。息苦しいけれど、ほほえみたい気持《気持ち》でした。彼女の眼は霧の中できらきら光っていました。セエ《ー》ラは自分が妙な恰好をしていること、みすぼらしいことは、前からよく知っていましたが、乞食に間違えられようとは思いもよりませんでした。  走り出した馬車の中で、大屋敷の子供達《子供たち》ははしゃいで、しゃべり出しました。 「どうして、お金なんかやったの?」ジャネットはギイ《ー》・クラア《ー》レンスにいいました。「あの娘《子》は乞食なんかじゃア《あ》ないと思うわ。」  ノラもいいました。 「口の利き方だって、乞食みたいじゃア《あ》なかったわ。顔も乞食のとは見えなかってよ。」 「それに、おねだりしたわけでもないじゃア《あ》ないの。」ジャネットはいいつづけました。「私、あの娘が怒《-おこ》りゃア《あ》しないかと思って、|はらはら《ハラハラ》していたのよ。乞食でもないのに、乞食と見られたら、腹の立つのがあ《当》たり|まえ《前》だわ。」 「でも、あの娘は怒ってやしなかったよ。」と少年はいいました。「あの娘はちょいと笑って、あなたはほんとに親切な、可愛い方だといったよ。その通りさ。僕は僕の持ってるだけをやったんだもの。」  ジャネットとノラは眼を見合せました。 「乞食の子なら、そんなことはいうはずがないわ。『おありがとう、旦那様《旦那さま》、おありがとうございます』っていう風《ふう》にいって、ぴょこぴょこ頭を下げるはずだわ。」  セエ《ー》ラはそんな話があったとは、知るよしもありません。が、その時以来《とき以来》、大屋敷の人達《人たち》は、セエ《ー》ラが大屋敷に感じているような興味を、セエ《ー》ラに対して持ち|はじ《始》めていたのでした。セエ《ー》ラが通りますと、子供部屋の窓に、子供達《子供たち》の顔がいくつも現れました。皆《みんな》はよく炉のまわりでセエ《ー》ラのことを話し合いました。 「あの子は、学校で小使娘みたいなことをしているらしいのよ。」と、ジャネットはいいました。「誰もめんどうを見てやるものはな《無》いようよ。きっと孤児《ミナシゴ》なのだわ。でも、決して乞食じゃないことよ。なりは汚いけど。」  で、それからはセエ《ー》ラを『乞食じゃア《あ》ない小さな女の子』と呼ぶようになりました。あまり長い名なので、小さい子達《子たち》が急いでいうと、ひどく滑稽に聞えました。  セエ《ー》ラは、あの銀貨に工夫して穴をあけ、細いリボンの切端《切れ端》を穴に通して、首に掛けました。セエ《ー》ラは、大屋敷がだんだん好きになりました。好きなものは何でもますます好きになるのが、セエ《ー》ラの癖でした。ベッキィにしても、雀達《雀たち》にしても、鼠の家族にしても──エミリイ《ー》に対しては、殊にそうでした。セエ《ー》ラは前から、エミリイ《ー》には何でも解《分か》ると思っていたのでしたが、時とすると、今にもエミリイ《ー》が口をきき出しはしまいかと思われるのでした。が、エミリイ《ー》は何を訊ねられても、返事だけはしませんでした。 「返事といえば、私だってよく返事をしないことがあるわ。恥《恥ずか》しい目にあった時などは、黙って皆《みんな》を見返して考えていると、一番いいのよ。怒《怒り》くらい強いものは《は-》ないけど、怒《怒り》をじっと我慢しているのは《は-》なお偉《’偉》いわ。だから、苛める人達《人たち》には返事をしないに限るわ。殊によるとエミリイ《ー》は、私《わたし》自身が私に似ているより|よけい《余計》に、私に似ているのかもしれないわ。エミリイ《ー》は味方にさえも返事なんかしない方《ほう》がいいと思っているのかもしれないわ、何もかも自分の胸一つに包んで。」  そう思いはしましたが、あまり酷い目にあったり、恥《恥ずか》しい目にあったりすると、ただ棒のように立っているきりのエミリイ《ー》を、生きてるものと想って、自分を慰めるのも、莫迦らしくなって来ることがありました。  ある寒い晩のことでした。セエ《ー》ラは空《-す》いたお腹をかかえ、煮えくりかえるような胸を抱いて、屋根裏へ帰って来ました。と、エミリイ《ー》は今までにないうつろな眼をして、鋸屑《オガクズ》を詰めた手足を棒のように投げ出しているのです。たった一人のエミリイ《ー》までこんなでは──セエ《ー》ラはがっかりしてしまいました。 「私は、もうすぐ死んでしまうよ。」  そういわれても、エミリイ《ー》は、うつろな眼を見開いているばかりでした。 「もう我慢が出来ないわ。寒いし、着物は濡れてるし、お腹は死にそうに空《-す》いているんだもの。死ぬにきまってるわ。朝から晩まで、ま|ア何千里歩《あ何千里ある》いたことだろう。それなのに、料理番の要るものが見付《見つ》からなかったからといって、晩御飯を食べさせてくれないの。ぼろ靴のおかげで、私が辷ったら、皆《みんな》は私を嗤うのよ。私は泥まみれになってるのに、皆《みんな》はげらげら笑ってるのさ。エミリイ《ー》、わかったかい?」  エミリイ《ー》の硝子玉の眼や、不服もなさそうな顔付《顔付き》を見ると、セエ《ー》ラは急にむかむかして来ました。彼女は小さい手を荒々しく振り上げて、エミリイ《ー》を椅子から叩き落しますと、急に欷歔《すすり泣》きはじめました。セエ《ー》ラが泣くなどとは、今までにないことでした。 「お前はやはり、ただの人形なのね。人形よ、人形よ。鋸屑《オガクズ》のつまってる人形に、何が感じられるものか。」  ふと、壁の中に|ただ《啻》ならぬ物音が起りました。メルチセデクが誰かを折檻しているのでした。  セエ《ー》ラの欷歔《すすり泣き》はだんだんおさまって来ました。こんなにへこたれるのは、いつもの自分らしくない、とセエ《ー》ラは意外に思いました。彼女は顔をあげて、エミリイ《ー》の方《ほう》を見ました。エミリイ《ー》は横眼を使ってセエ《ー》ラの方《ほう》を見ているようでした。その眼は硝子玉にはちがいありませんでしたけれど、何かセエ《ー》ラに同情しているようでした。彼女は身を屈めて人形を抱き上げました。悪かったという気持《気持ち》で、胸が一杯でした。 「お前が人形なのは、あ《当》たり|まえ《前》だわね。お前は鋸屑《オガクズ》なりに、出来るだけのことはしているのかもしれないわね。」  そういいながら、セエ《ー》ラはエミリイ《ー》に接吻《キス》し、着物の皺を伸《伸ば》して、いつもの椅子の上にかけさせてやりました。  前からセエ《ー》ラは、隣の空家に誰か住めばいいのにと思っていました。というのは、その家の屋根裏の窓が、セエ《ー》ラの部屋のすぐ向《向こ》うにあるからでした。その窓が開かれて、四角い口から誰かの頭や肩が出て来たら、どんなにいいだろうと思われました。 「立派な顔の人だったら、こっちから挨拶してみよう。でも、こんな屋根裏には、召使《召使い》のほかいるはずはないわね。」  ある朝、セエ《ー》ラがお使《使い》から帰って来ますと、引越《引っ越し》の荷車がその家の前に止っていました。セエ《ー》ラは運びこまれる家具の類《類い》から、そこに住むのがどんな人か、たいてい想像のつく気がしました。 「お父様《父さま》と初めて来た時、ここのお道具はミンチン先生そっくりだ、と思ったことがあったわ。大屋敷にはきっと、むくむくした肱掛椅子や、寝椅子《ソファー》があるに違いないわ。あの紅い壁紙の色だって、大屋敷の人達《人たち》のように温かで、親切そうで、幸福そうに見えるわ。」  引越《引っ越し》の荷車からは、丹念に加工した麻栗樹《チイク》の卓《テーブル》や、東洋風《東洋ふう》に縫取《縫取り》の施してある衝立などが下《下ろ》されました。それを見ると、セエ《ー》ラは妙に懐郷的《ノスタルジャー》な気持《気持ち》になりました。彼女は印度《インド》にいた時には、よくそうしたものを見たものでした。ミンチン先生に取り上げられたものの中にも、彫刻のある麻栗樹《チイク》の机が一つあったのでした。 「綺麗なお道具だこと! きっとこれを持ってるのは立派なお方よ。大がかりなところもあるから、お金持《金持ち》なのかもしれないわ。」  その家具には、どこか東洋的なところがある上《うえ》、立派な仏殿《仏壇》に入った仏像が一つ運び出されたのを見ると、この家《うち》の人は印度《インド》にいたことがあるに違いありません。 「屋根裏の窓から首を出す人はないかもしれないけど、この家《うち》の人とは、何だかもう親しいような気がするわ。」  夕方牛乳《夕方/牛乳》を運び入れる時《とき》、セエ《ー》ラは大屋敷の御主人《ご主人》が、新しく越してきた家へ入って行くのを見かけました。そのうち出て来《き》て、人夫達《ニンプたち》に指図をしたりするのでした。きっと大屋敷とこの家とは親しい間柄なのでしょう。 「子供があれば、大屋敷の子供達《子供たち》も、きっとこの家に遊びに来るわ。そして、面白がって屋根裏へ登って来《こ》ないとも限らないわ。」  その晩、セエ《ー》ラのところに来たベッキィは、こんなことをいいました。 「お嬢さん、お隣に越して来たのは、印度《インド》の人ですってさ、色は黒いかどうか知らないけど。大変なお金持《金持ち》で、大屋敷の旦那様《旦那さま》は、その方の弁護士なんですって。あまり心配事があったので、身体を悪くしてしまったのですって、あの人は、木や石を拝む邪宗徒なのよ。何か妙な偶像を運んで行くのを、私《わたし》見てよ。」 「でもそれは、拝むわけじゃア《あ》ないんでしょう。仏像にはいいものがあるから、拝むためじゃア《あ》なく、眺めるために持ってる人があるのよ。うちのお父様《父さま》も、一ついいのを持ってらしったわ。」  ある日、一台《1台》の馬車がその家の前に止りました。馭者が戸を開けると、大屋敷の父親や、看護婦が下《-お》りました。すると、玄関から下男が二人駈け降りて来ました。馬車から助け下《下ろ》された印度《インド》の紳士は、骸骨のように痩せ衰えた体を毛皮で包んでいました。大屋敷の主人はひどく心配そうでした。まもなく、お医者様《医者さま》の馬車が着きました。  その日、セエ《ー》ラがフランス語の組に出た時、ロッティはそっといいました。 「セエ《ー》ラちゃん、お隣には黄色い顔の小父《-小父》さんがいるのね。支那人かしら? 地理の本には、支那人は黄色い顔をしている、と書いてあったけれど。」 「支那人じゃア《あ》ないことよ。あの小父さんは、大変おからだが悪いのよ。──さア《あ》、練習問題をおやんなさい。『ノン・ムシウ。ジュネ・パ・ル・カニフ・ド・モンノンクル。』(いいえ、私は伯父さんのナイフを持っていません。)」  そうして、それから印度紳士の話が始まりました。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十一章】 【ラム・ダス】 ◇。◇。◇。◇。◇。  時とすると、広場で見る夕焼《夕焼け》もなかなか美しいものです。が、街からは、屋根や煙突に囲まれたほんの少しの空しか見えません。台所の窓からは、そのほ《’ほ》んの少しも見えはしないでしょう。壮麗な夕焼《夕焼け》の空を隈なく見渡すことのできるのは、何《なん》といっても屋根裏の天窓《引窓》です。セエ《ー》ラは夕方になると、用の多い階下からそっとぬけて来て、屋根裏部屋の机の上に立ち、窓から頭を出来るだけ高く出して見るのでした。大空はまるでセエ《ー》ラ一人のもののようでした。どの屋根の上にも、空《ソラ》を眺めている人の頭は見えませんでした。セエ《ー》ラは一人何もかも忘れて、いろいろの形にかたまったり、解けたりする雲を、見つめていました。  ある夕方、セエ《ー》ラはいつものようにテエ《ー》ブルの上に立って、空を眺めていました。西の空は金色の光に被われ、地球の上に金《/金》の潮《ウシオ》を流しているようでした。その光の中に、飛ぶ鳥の姿が黒々《黒ぐろ》と浮んで見えました。 「素敵、素敵。何だか恐ろしいほど素敵な日没だわ。何か思いがけないことでも起《起こ》るのじゃア《あ》ないかしら。」  とふいに、何か聞きなれぬ物音がしました。振返《振り返》ると、お隣の窓が開いて、白い頭布《ターベン》を捲いた印度《インド》人の頭が、続いて白衣《ビャクエ》の肩が出て来ました。──「東印度水夫《ラスカー(東インド水夫)》だ。」と、セエ《ー》ラはすぐ思いました。──彼《彼’》の胸もとには、一匹の小猿がまつわりついていました。さっき聞いた妙な音は、小猿の声だったのでした。  セエ《ー》ラが男の方《ほう》を見ると、男もセエ《ー》ラを見返しました。男の顔は悲しげで、故郷恋しいというようでした。霧の多いロンドンでは、めったに太陽を見ることが出来ないので、男はきっと印度《インド》で見な《慣》れた太陽を見に上って来たのでしょう。セエ《ー》ラはまじまじと男を見て、それから屋根越《屋根越し》に|ほほえ《微笑》みました。セエ《ー》ラは辛い日を送って来た間に、たとい知らぬ人からでも、ほほえみかけられるのはうれしいということを、身に沁みて感じていたのでした。  セエ《ー》ラの微笑《微笑’》は、男を喜ばしたに違いありません。彼は夕闇のような顔をぱっと輝かして、白い歯並を見せて笑いました。  猿は男が挨拶しようとした隙《スキ》に、ふと男の手を離れて、屋根を飛びこえ、セエ《ー》ラの肩に足をかけて、部屋の中に飛びこんでしまいました。セエ《ー》ラは面白がって笑い出しました。が、すぐ猿を主人に──あのラスカア《ー》が主人なら、あのラスカア《ー》に──返してやらなければならないと思いました。が、セエ《ー》ラはどうして猿を捕えたらいいか、判《分か》りませんでした。下手に捕えようとして、逃げ失せられでもすると大変です。で、セエ《ー》ラは、昔|なら《’習》い覚えた印度《インド》の言葉で、 「あの猿は、私に捕るでしょうか?」と、訊ねました。  男は、セエ《ー》ラが自分の国の言葉で話すのを聞くと、ひどく驚き、同時に喜びました。そしてべらべらと、その言葉でしゃべり始めました。彼《彼’》の名はラム・ダスというのだそうでした。猿はなかなかいうことを聞かないだろうから、セエ《ー》ラが許してくれるなら、自分が行って捕えようと、彼はいいました。 「でも、屋根と屋根との間を飛んで来られて?」 「造作ないことです。」 「じゃア《あ》来てちょうだい。怯えて向《向こ》うへ行ったり、こっちへ来たり、大騒ぎしているから。」  ラム・ダスは、天窓《引窓》からするりと屋根の上に上《上が》ると、生《生ま》れてから今まで屋根を渡って暮して来たかのように、身も軽々《カルガル》とセエ《ー》ラの方《ホウ》へ渡って来ました。彼は足音も立てず、天窓《引窓》からセエ《ー》ラの部屋に辷りこみ、セエ《ー》ラに向き直って、印度《インド》流の額手礼《サラーム》をしました。猿はラム・ダスを見ると小さな叫声《叫び声》を揚げました。が、彼が天窓《引窓》を閉めて捕えにかかると、戯談《冗談》にちょっと逃げ廻《回》って、すぐラム・ダス《-ス》の首に噛《かじ》りつきました。  ラム・ダスは、セエ《ー》ラに厚く礼をいいました。彼のすばやい眼は、室内の惨めな様子を、一目で見てとったようでしたが、セエ《ー》ラに向っては何《なん》にも気づかぬふりをして、まるで王女にでも物をいうように話しかけました。彼は《は-》じき暇《イトマ》を告げました、「病気の御主人《ご主人》は、猿を失ったらどんなに落胆したでございましょう」などと、繰り返しお礼をいいながら。  ラム・ダスが去ったあと、セエ《ー》ラはしばらく屋根裏部屋の真中《真ん中》に立ったまま、思い出に耽っておりました。セエ《ー》ラはラム・ダスの印度《インド》服や、うやうやしげな態度を見ると、印度《インド》にいた時のことを思い起さずには《は-》いられませんでした。一時間前には、料理番にまで罵られていた今のセエ《ー》ラが、かつてはたくさんの召使《召使い》にかしづかれていたのだと思うと、おかしいくらいでした。それはもう過ぎ去った昔のことで、そんな身分にまたなれるとは思えませんでした。ミンチン先生はセエ《ー》ラが相当の年になるのを待って、たくさんの組《組み》を受け持たせるでしょう。その務《務め》が、今の雑用より楽だとは思えません。着るものなどは先生らしくさせられるかもしれませんが、それとてきっと女中の着るようなひどいものでしょう。これから先、何かよい方《ほう》に変化が起《起こ》って、再び幸福な身分になろうとは、セエ《ー》ラにはどうしても思えませんでした。  ふと、また何かを思いついたので、セエ《ー》ラの頬《ホオ》は紅くなり、眼は輝き出《’出》しました。彼女は痩せた身体をしゃんと伸《伸ば》し、顔を起《起こ》しました。 「どんなことがあっても変らないことが、一つあるわ。いくら私が襤褸《ボロ》や、古着を着ていても、私の心だけは、いつでもプリンセスだわ。ぴかぴかする衣裳を着て宮様《プリンセス》になっているのは容易いけど、どんなことがあっても、見ている人がなくても、宮様《プリンセス》になりすましていることが出来れば、なお偉いと思うわ。マリイ《ー》・アントアネットは玉座を奪われ、牢に投げこまれたけど、その時になってかえって、宮中にいた時よりも、女王様《女王さま》らしかったっていうわ。だから、私《わたし/》マリイ《ー》・アントアネットが大好き。民衆がわア《あ》わア《あ》騒いでも、女王はびくともしなかったそうだから、女王は民衆よりずっと強《-つよ》かったのだわ。首を斬られた時にだって、民衆に勝ってたんだわ。」  この考えは、今考えついたわけではありません。セエ《ー》ラはいままででも、辛い時には、いつもこの事を考えて、自分を慰めていたのでした。ミンチン先生にひどいことをいわれる時など、セエ《ー》ラは心の中でこういいながら、黙って先生を見返しているのでした。 「先生は、そんなことを、宮様《プリンセス》にいってるのだということを御存じないのね。私がちょっと手を上げれば、あなたを死刑にすることだって出来るのですよ。私は宮様《プリンセス》なのに、先生は愚かな、意地悪なお婆さんなのだと思えばこそ、何《なん》といわれても、赦してあげているのよ。」  セエ《ー》ラは宮様《プリンセス》である以上、礼儀深くなければいけないと思いましたので、ミンチン先生はもとより、召使達《召使いたち》が彼女にどんなひどい事をした時も、決して取り乱した様子などしませんでした。 「あの若っちょは、バッキンガムの宮殿からでも来たみてエ《え》に、いやにもったいぶってやがる。」と、料理番も笑ったほどでした。  ラム・ダスとお猿の訪問を受けた次の朝、セエ《ー》ラは教室で、下の組《組み》の少女達《少女たち》にフランス語を教えていました。授業時間が終《終わ》ると、セエ《ー》ラは教科書を片付けながら、御微行《ご微行》中の皇族方がさせられたいろいろの仕事のことを考えていました。──アルフレッド大帝は、牛飼のおかみさんにお菓子を焼かされ、横面を張りとばされました。牛飼のおかみさんは、あとで自分のした事に気づいて、どんなに空恐ろしくなったでしょう。もしミンチン先生に、セエ《ー》ラが|ほんとう《本当》の宮様《プリンセス》だと解《分か》ったら、先生はどんなに狼狽《慌て》るでしょう。──その時のセエ《ー》ラの眼付《眼付き》がたまらなかったので、ミンチン先生は、いきなりセエ《ー》ラの横面を張りとばしました。今考えていた牛飼の女のした通りのことをしたわけです。セエ《ー》ラは夢から醒めて、この事に気がつくと、思わず笑い出しました。 「何がおかしいんです。ほんとにずうずうしい子だね。」  セエ《ー》ラは、自分が宮様《プリンセス》だったということをはっきり思い出すまで、ちょっとまごまごしていました。 「考えごとをしていたものですから。」 「すぐ『御免なさい』といったらいいだろう。」  セエ《ー》ラは答える前に、ちょっと躊躇いました。 「笑ったのが失礼でしたら、私あやまりますわ。でも、考えごとをしていたのは、悪いとは思えません。」 「いったい何を考えていたのだい? え? お前に、何が考えられるというのさ。」  ジェッシイ《ー》はくすくす笑い出しました。それからラヴィニアと肱をつつきあいました。ミンチン先生がセエ《ー》ラに喰ってかかると、生徒達《生徒たち》は皆《みんな》面白がって見物するのでした。セエ《ー》ラは何と叱られても、少しもへこたれないばかりか、きっと何か変《変わ》ったことをい《言》い出すのです。 「私ね──。」と、セエ《ー》ラは丁寧にいいました。「私、先生は御自分《ご自分》のなすってることが、何だか御存じないのだろうと、考えていたのです。」 「私のしていることが、私に解《分か》らないっていうのかい?」 「そうです。私が宮様《プリンセス》で、先生が宮様《プリンセス》の耳を打《ぶ》ったりなどなさったら、どんなことになるかしら──私は宮様《プリンセス》として、先生をどう処置したらいいだろうか、と思っていたところです。それから、私が宮様《プリンセス》だったら、先生は私が何をしようと、耳を打《ぶ》つなんてことは、なさらないだろうと思っていました。それからまた、お気がついたら、先生はどんなに驚いて、お狼狽《慌て》になるだろうと──」 「何、何に気がついたらというんですよ。」 「私が、|ほんとう《本当》の宮様《プリンセス》だということに。」  教室にいるだけの少女達《少女たち》の眼は、お皿のようになりました。ラヴィニアは席から乗り出して来ました。 「出て行け。たった今、自分の部屋に帰れ。皆さんは傍見《よそ見》せずに勉強なさい。」  セエ《ー》ラはちょっと頭を下げ、 「笑ったのが失礼でしたら、御免下さい。」といい残して、教室を出て行きました。 「皆さん、セエ《ー》ラを見て? あの子の、妙な様子を見て?」ジェッシイ《ー》がまず口《クチ》を開きました。 「私だけは、セエ《ー》ラは身分のある子だということが今にわかっても、ちっとも驚きゃア《あ-》しないわ。もしあの子がえらくなったら、どうでしょう。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十二章】 【壁を隔てて】 ◇。◇。◇。◇。◇。  壁つづきに出来た家並の中に住んでいますと、壁のすぐ向《向こ》うの物音に、つい気をとられるものです。印度《インド》の紳士の家は、セエ《ー》ラの学校と壁一つで連《繋が》っていますので、セエ《ー》ラはよく紳士の生活を空想して、心を楽しませました。教室と、紳士の書斎とは、背中合せになっていますので、セエ《ー》ラは放課後など、やかましくはないだろうかと心配しました。音の通らないように、壁が厚く出来ていればいいがとも思いました。  セエ《ー》ラは、印度《インド》の紳士がだんだん好きになりました。大屋敷が好きになったのは、家族が皆《みんな》幸福そうだったからでしたが、印度《インド》の紳士は不幸そうに見えたので、好きになったのでした。紳士は何か重い病気が癒《治》りきらない風《ふう》でした。台所の人達《人たち》の噂によると、彼は印度《インド》人ではなく、印度《インド》に住んでいたイギリス人で、非常な失敗のため、一時は命までも失いかけたというのでした。彼の事業というのは、鉱山に関したものだそうでした。 「その鉱山《ヤマ》からダイヤモンドが出るんだとさ。」と、料理番はいいました。「鉱山《ヤマ》なんてものはなかなか当るもんじゃア《あ》ないさ。殊に、ダイヤモンドの鉱山《ヤマ》なんてものは《は-》ね。」彼は横眼でセエ《ー》ラをじろりと睨みました。「わしらは、誰だって、そんな事ぐらい知ってるさ。」 「あの方は、お父様《父さま》と同様の目におあいになったのだわ。」と、セエ《ー》ラは思いました。「それから、お父様《父さま》と同じ病気におかかりになったのだわ。ただあの方は生き残ったばかりだわ。」  こうしたことから、セエ《ー》ラの心はますます印度《インド》の紳士の方《ホウ》へ惹き寄せられて行きました。夜お使《使い》に出される時など、窓から、あのお友達の姿が見られるかもしれないと思うと、何となしにいそいそしました。そこらに人影のない時には、セエ《ー》ラは鉄の格子につかまって、彼に聞かす|つも《積》りで、「お休みなさい」といって見たりしました。 「聞えないにしても、きっと何かお感じにはなるわ。温《温か》い気持《気持ち》ってものは、窓とか、壁とか、そんな障碍物を越えて、相手の心に通じるものだと思うわ。貴方はなぜか、和んで温《温か》くなるような気がなさりはしない? 私が外で、御病気《ご病気》のよくなるように祈っているからよ。私、あなたがお気の毒でならないの。お父様《父さま》が頭の痛む時してあげたように、私、あなたの『小さい奥様《奥さま》』になって慰めてあげたいわ。お休みなさい、安らかに。」  セエ《ー》ラはそういうと、セエ《ー》ラ自身温められ、慰められるのが常でした。 「あの方は、今あの方を苦しめているもののことを、考えていらっしゃるようだわ。でも、もう失ったお金は戻ってきたのだし、御病気《ご病気》だってじきによくおなりになるのだから、あんな悩ましい顔をなさってるはずはないのに。きっと何か、別の御心配があるのよ。」  もし別の心配があるとすれば、あの大屋敷のお父さんだけは知っているはずだ、とセエ《ー》ラは思いました。モントモレンシイ《ー》氏は、よく印度《インド》の紳士を訪ねました。モントモレンシイ《ー》夫人も、子供達《子供たち》も、時々《ときどき》紳士を訪問しました。病人は、上の二人の女の子──あのセエ《ー》ラが《が-》お金をもらった時、馬車の中にいたジャネットとノラを可愛がっているようでした。病人は、子供に対して──殊に小さい女の子に対して、やさしい気持《気持ち》を持っているようでした。ジャネットとノラも、非常に病人になついていました。 「小父様《小父さま》は、お気の毒な方なのよ。私達《私たち》が行くと、小父様《小父さま》は元気が出るのですって。だから、静かにしていて、元気のつくようにしてあげなければならないわね。」  ジャネットは長女でしたので、弟や妹が暴れ出《だ》さないように、気をつけていました。病人の様子を見て、よい時には印度《インド》の話をしてもらったり、疲れたようだと思うと、あとをラム・ダスに頼んでそっといとまを告げたり、そんな気使《気遣》いをするのもジャネットでした。子供達《子供たち》は皆《みんな/》ラム・ダスが好きでした。ラム・ダスに英語が話せたら、きっと面白い話をたくさんしてくれるだろう、と思っていました。  印度《インド》の紳士は、名をカリスフォドといいました。ある時《とき》、ジャネットが彼に『乞食じゃア《あ》ない小さな娘』に出会った時の話をすると、カリスフォド氏はひどく心を惹かれたようでした。更にラム・ダスが、彼女の屋根裏部屋で猿を捕えた話をすると、ますます心を動かされたようでした。ラム・ダスは、屋根裏部屋の中の様子を、目に見えるように話しました。その話を聞くと、カリスフォド氏は大屋敷の主人にいいました。 「カア《ー》マイクル君、この近所には、そんなひどい屋根裏がきっとたくさんあるのだろうね。そして、たくさんの惨めな少女達《少女たち》は、そんな堅い寝床にね《寝》ているわけだね。それなのに、私は枕の上に身を投げて、財産という重荷に犇《ヒシ》がれ、悩まされぬいて《て-》いるのだ。しかも、その財産というのは、大部分私《大部分/私》のものじゃア《あ》ないのだ。」 「いや、しかし。」カア《ー》マイクル氏は元気づけるようにいいました。「そう自分ばかり責めるのは、早く止《辞》めた方《ほう》が、あなたのためにいいですよ。たとい貴方が、全印度《全インド》の富をことごとく持ってらしったところで、世の中から災《災い》をなくすわけにはいかないでしょう。この近所の屋根裏部屋をことごとく改築したところで、他の方面の屋根裏部屋は、やはり惨めな状態にあるということになりますからな。それまで改築しようっていうのは、無理ですよ。」  カリスフォド氏は、炉の火をみつめて坐ったまま、爪を噛んでいました。 「どうだね。あの例の子が──私の忘れたことのないあの子が──ひょっとして──いやほんとに、隣家《隣》のその気の毒な娘みたいな境涯におちこむようなことも、ないとはい《言》えないだろう。」 「もし、パリィ《ー》のパスカル夫人の学校にいた子が、あなたの捜している娘だとすると──。」カア《ー》マイクル氏は、宥めるようにいいました。 「あの子は、何不自由なく暮しているはずですね。そのロシヤ人は、非常な金持《金持ち》で、死んだ自分の娘と仲よ《良》しだったというので、あの子をもらい受けたという話ですからね。」 「そして、パスカルという女は、あの子がどこへ伴《連》れて行かれたかは、ちっとも御存じないのだからな。」  カア《ー》マイクル氏は、肩をすぼめました。 「何しろ、あの女は抜目《抜け目》のない、俗物のフランス女ですからね。父親を失って、仕送りの絶えたあの子を、うまい具合に手離《手放》すことが出来たので、大|よろこ《喜》びだったらしいですよ。すると、養父母達《養父母たち》は、あとかたも見せず行方をくらましてしまったわけさ。」 「だが、君は、その子が、もし私の捜している子であったら、というんだろう。『もしも』とね。『確かに』じゃア《あ》ないんだ。それに、名前も少し違うっていうじゃア《あ》ないか。」 「パスカル夫人は、カルウと発音したようです。──が、ちょっと発音を間違えただけじゃア《あ》ないのですかね。境遇は不思議なほどよく似ています。印度《インド》にいる英国士官が、母のない娘の教育を頼んだというのですからね。しかも、その士官は破産して死んでしまったというのですからね。」カア《ー》マイクル氏は、ふと何かを思いついたらしく、ちょっとの間口《あいだ口》を噤んでいました。「が、娘は確かにパリイ《ー》の学校に入《い》れられたというのですか。確かにパリイ《ー》だったのですか?」  カリスフォド氏は|いらいら《イライラ》と、切なそうに口を開きました。 「いや君《キミ》、私には何一つ確かなことはないんだ。私はその子も、その子の母というのも見たことはないのだからね。ラルフ・クルウ《ー》とは、少年時代には親友だったが、学校を出てから、印度《インド》で会うまで、ずっと離れ離れだったのだからね。私は、大仕掛《大仕掛け》な鉱山の計画に没頭していた。あの男も夢中になっていた。だから、二人は会えばほとんどその話ばかりしていた。知っているのはただ、その子がどこかの学校に入っているという事だけなのだ。だが、どうしてその事を知ったか、それも、今は思い起すことが出来ない。」  カリスフォド氏は昂奮して来ました。彼は、病後の頭で、失敗当時のことを考え出すと、きまって昂奮して来るのでした。  カア《ー》マイクル氏は、心配そうに病後の人を見守っていました。大事なことを訊かなければならないのでしたが、今の場合十分注意《場合”十分注意》して、静かに訊ねなければならないのでした。 「でも、学校は、パリイ《ー》だとお考えになる理由はあるのですか。」 「ある。というのは、あの子の母はフランス人だった! それに、母親は、娘をパリイ《ー》で教育したがっていた、と聞いたことがある。」 「すると、パリイ《ー》にいそうですな。」  印度《インド》の紳士は、身体をのめり出《だ》させ、長い骨ばかりの手で、テエ《ー》ブルを叩きました。 「カア《ー》マイクル君、私はどうしてもその娘を見付《見つ》け出さにゃア《あ》ならん。生きてるなら、見付《見つ》かるはずだ。その娘が|ひと《独》りぼっちで一文無《一文無し》になってでもいたら、私が悪いからだということになる。こんな煩いが心にあるのに、何でのんきな顔をしていられる? 我々の夢が実現されて、ふいに幸運が舞いこんで来たというのに、あの娘は往来で物乞いをしているかもしれないのだ。」 「いや、そう昂奮なさらないで。あの子が見付《見つ》かりさえすれば、一財産渡《ヒト財産’渡》してやれるのだと思って、お気を静めて下さい。」 「あれは、いつも娘のことを『小さい奥様《奥さま》』と呼んでいた。だが、あの鉱山奴《ヤマめ》のおかげで、我々は何もかも忘れてしまったのだ。あれは娘の学校の話をしたかもしれない。が、私は忘れてしまった。すっかり忘れてしまった。どうしても思い出せない。」 「しかし、まだその娘を見付《見つ》けることは出来ます。パスカル夫人の所謂『御親切《ご親切》なロシヤ人』の捜索を続けるんですな。あの女は、何だかモスコウにいるような気がするといっていましたよ。それを手がかりとして、とにかく、私はモスコウへ行ってみることにしましょう。」 「旅行の出来る身体なら、私も一緒に行きたいのだけれど、この健康では、こうして毛皮にくるまって、じっと火を見ているより他ないのだ。何だか火の中から、クルウ《ー》大尉の若い、快活な顔が、私を見返しているような気がする。何か私に訊ねているような顔付《顔付き》だ。私はよくあれの夢を見る。夢の中では、その訊ねたいことを、口でちゃんというのだ。君《キミ》、あれがどんなことを訊くと思う?」 「よくわかりませんね。」 「あれは、いつでもこういうのだ。『トム、なつかしいトム。小さな奥様《奥さま》はどこにいるのだい?』とね。」彼はカア《ー》マイクル氏の手をしかと掴んで、握りしめました。「私は、それに返事が出来るようにならなければならん。どうか、あの娘《ムスメ》を見付《見つ》けてくれ。頼む。」 ◇。◇。◇。◇。◇。  壁の向《向こ》うでは、セエ《ー》ラが、晩の食事にまかり出て来たメルチセデクと話していました。 「メルチセデクや、今日という今日は、宮様《プリンセス》のつもりも辛かったわよ。いつもどころの辛さじゃア《あ》なかったわよ。だんだん寒くなって、往来がじめじめして来ると、私の務《務め》は辛くなるばかりだわ。ラヴィニアったら、私が裾を泥んこにしているって、嗤うのよ。私、思わずかっとして、危《危う》く何かやり返してやるところだったけど──でも、やっと我慢したの。かりにも宮様《プリンセス》が、ラヴィニアみたいな下等な人の相手になるわけにはいきませんものね。でも、舌でも噛まなきゃア《あ》我慢出来なかったわ、私《わたし》自分の舌を噛んだの。今日はお午《昼》すぎから、とても、寒くなったのね。今夜も寒いわ。」  ふと、セエ《ー》ラは黒髪を両手の中に埋めました。彼女は一人だと、よく頭を抱えるのでした。 「ああ《あ/》お父様《父さま》、もうずいぶん昔だわね、私がお父様《父さま》の『小さな奥様《奥さま》』だったのは。」  同じ日のうちに、壁の向《向こ》うとこちらとに、こんなことが起《起こ》ったのでした。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十三章】 【人《ひと》の子】 ◇。◇。◇。◇。◇。  惨めな冬でした。セエ《ー》ラは幾日《イクニチ》となく雪を踏んで使《使い》に出ました。雪解《雪解け》の日は、更に使い歩きが辛いのでした。かと思うと、ひどい霧の日が続きました。そんな時、街路は幾年《イクネン》か前《まえ/》セエ《ー》ラが初めて父と辻馬車を走らせた時のようでした。そんな日には、あの大屋敷の窓は、殊にも居心地よさそうに見えました。印度紳士のいる書斎は、いかにも温かそうでした。それにひきかえ、屋根裏部屋の暗《-くら》さといったらありませんでした。もう眺めようとしても、夕焼《夕焼け》や日の出は見られませんでした。星もあるとは思えませんでした。雲は低く、泥のような灰色でした。霧はなくても四時にはもう日が暮れた感じで、蝋燭なしには、梯子を登ることも出来ませんでした。台所の女中達《女中たち》も、気がくさくさするとみえ、ますます辛《-つら》くあたりました。ベッキイ《ー》はまるで奴隷の子のように逐《追》い使われました。 「お嬢様《嬢さま》、あんたでもいなかった日には──あんただの、バスティユだの、隣の部屋の囚人だってつもりだのがなかった日には、私《わたし》死んじまいそうだわ。この頃《ごろ》はここ、まったくバスティユみたいじゃない? 先生はだんだん看守頭《看守ガシラ》みたいになってくるし、私、いつかお嬢様《嬢さま》の|仰しゃ《仰》った大きな鍵ね、あれを先生が持っているのが、見えるような気がするわ。あの料理番ね、あれは下まわりの看守よ。お嬢様《嬢さま》、その先を話してちょうだいな。あの壁の下へ掘った地下道の話をして。」 「何かもっと温かいお話がいいわ。」セエ《ー》ラはがたがた震えていました。「あなたも、夜具を持って来てくるまるといいわ。私も夜具を着るから、寝台《ベット》の上で、夜具をよくまきつけて、それから、あの印度紳士の猿のいた熱帯の森の話をしてあげるわ。」 「そのお話の方《ほう》が温かいことは温かいわ。でも、お嬢様《嬢さま》が話すと、バスティユのお話を聞いてても、何だか温かになるのよ。」 「話に気をとられて、寒いことを忘れるからよ。私《私/》こう思うのよ。心の職務《務め》は、身体が可哀そうな状態にある時《とき》、何かほかへ気を向けさせるようにすることだと。」 「そんなこと、あんたに出来て?」 「出来ることもあるし、出来ないこともあるわ。この頃幾度《ごろ幾度》もそんな経験をしたので、前よりはずっと出来やすくなったわ。何かたまらないことがあると、私いつでも一生懸命、自分は宮様《プリンセス》だと考えてみるの。『私は、妖精《フェアリー》の宮様《プリンセス》だ、妖精《フェアリー》の私を傷けたり、不快にしたり出来るものがあるはずはない。』私《わたし》自分にそういってみるの。そうするとなぜだか、|いや《嫌》な事は皆忘《-みんな忘》れてしまってよ。」  そのうち、こんなことが起りました。四五日雨の続いた後《あと》で、町は肌を刺すように寒く、ぬかるみの上に物憂い霧がたてこめていました。そんな日に限って、セエ《ー》ラは何度となく使《使い》に出されるのでした。濡れそぼれて帰ってくると、ミンチン先生は何かの罰だといって、御飯も食べさせてくれませんでした。餓え、凍え、顔まで抓《ツメ》られたような色になったセエ《ー》ラは、道行く人の同情を惹くくらいでした。が、彼女は同情の眼で見られているのも知らず、力の限り『つもり』になろうと努力していました。 「私は乾いた服を着ているつもりになろう。満足な靴を穿き、長い厚い外套を着、毛の靴下を穿き、漏らぬ雨傘を持っているつもりになろう。それから、それから──焼きたてのパンを売ってる店のそばまで来ると、二十銭銀貨が落《’落》ちていたとする。そしたら、私は店へ入って、ふうふういうような甘パンを買って、息もつかずにぺろぺろと食べてしまうわ。」  そう独言《独り言》をいいながら、足許に気をつけ、ぬかるみの中を歩道へ渡ろうとしますと、そこの溝の中に、何か光っているものがあるのを、セエ《ー》ラは目にとめました。泥にまみれてはいましたが、それは確かに銀貨でした。二十銭ではないが、十銭の銀貨でした。 「まア《あ》、ほんとだったわ。」セエ《ー》ラは、思わず呼吸をはずませました。  とまた、嘘のようではありませんか。セエ《ー》ラが眼を上げると、真向《真向か》いにパン屋の店があるのでした。店《みせ》では一人、愉快な血色のよい母親らしい様子の女が、竈から今取り出したばかりの甘パンを──大きくふくれた、乾葡萄の入った甘パンの大皿《オオザラ》を、窓を《に》さし入れているところでした。  セエ《ー》ラは、この不思議な出来事にどきどきしているところへ、窓に甘パンの出てくるのを見、パン屋の地下室から漂うて来るおいしそうな匂《匂い》を嗅いだので、ちょっとくらくら倒れそうな気持《気持ち》になりました。  セエ《ー》ラは、この銀貨を使ったってかまわないのは知っていました。もう長いこと、泥濘《ぬかるみ》の中に落ちていたようですし、この人混の中で、落した人の判《分か》ろうはずもありません。 「でも私、パン屋のおかみさんに、何かお落しになりはしなか《く》って? と訊いてみよう。」  セエ《ー》ラは元気なくそ《/そ》う独言《独り言》すると、歩道を横切り、濡れた足で入口の階段を登ろうとしました。その拍子に、セエ《ー》ラは何かをふと目に止め、思わず足を止めました。  セエ《ー》ラの足を止めたのは、セエ《ー》ラよりも惨めな子供の姿でした。子供の姿は、まるで一塊の襤褸《ボロ》でした。赤い泥まみれな素足が、その襤褸《ボロ》の中から覗き出《だ》していました。恐ろしくこんがらがった髪の下から、大きな、ひもじそうな眼を見張っていました。セエ《ー》ラは一目で、この子が餓えているのを知りました。と、たちまちセエ《ー》ラは可哀そうでたまらなくなりました。 「この娘も、やっぱり人の子なのだわ。そして、この子は私よりもひもじいようだわ。」  その子は、顔を上げてちょっとセエ《ー》ラを見つめると、身体をずらせて、セエ《ー》ラの通る隙《スキ》をつくりました。その子は誰にでも道をゆずりつけていたのです。巡査にでも見付《見つ》かったが最後「退《ど》け!《/》」といわれることも、のみこんでいました。  セエ《ー》ラは銀貨を握りしめ、ちょっとためらってから、その子供にいいかけました。 「あなた、ひもじい?」 「ひもじいのなんのって、たまらないの。」 「お午昼《昼》を食べなかったの?」 「お午飯《昼》どころか、朝飯も、晩飯もあったものじゃア《あ》ないわ。」 「いつから、食べないの?」 「知るものか、今日は朝から何一つ食べやしない。どこへ行ってもくれないの。あたい、下さい下さいって歩き廻《回》ったんだけど。」  その子の姿を見ているだけで、セエ《ー》ラは気絶しそうにお腹が空《す》いて来ました。セエ《ー》ラは切なくてたまらなくなりました。が、頭の中にはふと、またいつもの空想が働き出して来ました。 「もし、私が宮様《プリンセス》なら──位を失って困っている時でも──自分より貧しい、ひもじい人民にあったら、きっと施しをするわ。私は、そんな話をたくさん知っているわ。甘パンは二十銭で六《6》つ──と、六《6》つばかり一人で食べたって足りないくらいだわ。それに、私の持ってるのは十銭銀貨だけど、でも、ないよりか|まし《マシ》だわ。」  セエ《ー》ラは乞食娘に、 「ちょっと待ってらっしゃいね。」といい残して、パン屋の店へ入って行きました。店の中は温かで、おいしそうな匂《匂い》がしていました。おかみさんは、ちょうどまた出来たての甘パンを窓に入れかけているところでした。 「ちょっとお伺いしますけれど、あなたはあの、十銭銀貨をお落しになりませんでしたか?」  いいながらセエ《ー》ラは、たった一つの銀貨をおかみさんの方《ほう》にさし出しました。おかみさんは銀貨を眺め、それからセエ《ー》ラの顔を眺めました。ずいぶん汚れた着物を着ているけれど、買った時にはなかなかよいものだったにちがいない、と思いました。 「どう致しまして、私《わたし/》落しはしませんよ、お拾いなすったの?」 「ええ、溝の中に落ちてたの。」 「じゃア《あ》、遣ったってかまわないでしょう。一週間ぐらい溝の中に転がってたのかもしれませんからね。誰が落したか、判《分か》るものですか。」 「私もそう思ったのですけれども、一応お訊ねした方《ほう》がよくはないかと思って。」 「珍しい方ね。」  おかみさんは人のいい顔に、困ったような、同時に、何か心を惹かれたような表情を浮べました。そして、セエ《ー》ラがちらと甘パンの方《ほう》を見たのを知ると、 「何かさしあげましょうか。」といいました。 「あの甘パンを四《4》つ下さいな。」  おかみさんは、窓から甘パンを出して袋に入れました、六つ入れたのを見て、セエ《ー》ラは 「あの、四《4》つでいいんですよ。私、十銭しか持ってないんですから。」といいました。 「二つはおまけですよ。あとでまた上《上が》るといいわ、あなたお腹がすいてるんでしょう。」 「ええ、とてもひもじいの、御親切《ご親切》にして下すって、ありがとうございます。」  セエ《ー》ラは、外《ソト》には自分よりも、ひもじい子がいるのだということを、口に出しかけましたが、あいにくそこへお客が二三人一度《二三人’一度》に入って来ましたので、とうとうそれはいわずにしまいました。  乞食娘は、入口の階段の隅にちぢこまっていました。びしょびしょな襤褸《ボロ》にくるまった彼女は、気味《キミ》悪いばかりでした。彼女は、じっと目の前を見つめ、苦痛のあまり|ぽかん《/ポカン》とした顔をしていました。ふいに涙が湧き上《上が》って来たので、彼女はびっくりして、|ひび《ヒビ》だらけの黒い手の甲で眼を擦《-こす》りました。何か独言《独り言》をいっているようでした。  セエ《ー》ラは、袋をあけて、甘パンを一つ取り出しました。セエ《ー》ラの手は熱いパンのおかげで、もう少《/少》し温かくなっていました。 「ほら、これは温かでおいしいのよ。食べてごらんなさい。少しはひもじくなくなるから。」  乞食娘は、思いがけないよろこびにかえって怯えたらしく、セエ《ー》ラの顔を穴のあくほど見ていましたが、じきひったくるようにパンを取ると、夢中で口の中につめこみました。 「ああ《あ/》おいしい、ああ《あ/》おいしい。ああ、おいしい。」  嗄《しゃ》がれた娘の声は、聞くに忍びないようでした。セエ《ー》ラは甘パンをあと三つ娘にやりました。 「この子は、私よりもひもじいのだわ。この子は餓死《飢え死に》しそうなのだわ。」四《4》つ目のパンを渡す時、セエ《ー》ラの手はわなないていました。「でも、私は餓死《飢え死に》するほどじゃア《あ》ないわ。」そういって、セエ《ー》ラは五つ目のパンを下に置きました。  餓えきったロンドンの野恋娘が、夢中でパンをひったくり、貪り食っているのを見棄てて、セエ《ー》ラは「さようなら|。」《」》といいましたが、《:、》娘は食べるのに夢中でしたから、礼儀を弁えていたにしたとこで、セエ《ー》ラに一言《イチゴン》お礼をいう暇もなかったに違いありません。まして彼女は、礼儀などというものは、少しも知らぬ野獣に過ぎなかったのでした。  セエ《ー》ラは車道を横切って、向《向こ》う傍《側》の歩道に辿りついた時、もう一度娘の方《ほう》をふりかえって見ました。娘はまだ食べるのに夢中でしたが、かじりかけてふとセエ《ー》ラの方《ほう》を見て、ちょっと頭を下げました。娘はそうしてセエ《ー》ラが見えなくなるまで、かじりかけのパンをかみきりもせず、じっとセエ《ー》ラを見守っていました。  ちょうどその時、パン屋のおかみさんが窓から外を覗きました。 「おや、こんな事ってないわ。あの娘《ムスメ》はくれともいわないのに、この乞食にパンをやってしまったんだね。しかも、自分は食べたくないどころか、あんなにひもじそうな顔をしていたのに。」  おかみさんは窓の奥でちょっと考えていましたが、何でも、様子を訊いてみたくなったので、乞食娘のいる方《ホウ》へ出て行きました。 「そのパンは、誰にもらったの?」  娘はセエ《ー》ラの行った方《ほう》に頭を向けて、こっくりしました。 「あの子は、何《なん》といったの?」 「ひもじいかって。」 「で、何と答えたの?」 「その通りだといったの。」 「すると、あの子はパンを買って、お前にくれたのだね。」  娘はまたこっくりをしました。 「で、いくつくれたの?」 「五つ。」  おかみさんは考えこんで、小声にいいました。 「自分のためには一つしか残しておかなかったのだよ。食べようと思えば、一人で六《6》つ残らず食べてしまえるくらい、お腹がすいてたのにね。」  おかみさんは、向《向こ》うの方《ほう》に消えて行くセエ《ー》ラの小さな後姿を見送りながら、いつになく心の乱れるのを覚えました。 「もっとゆっくりしていてくれればよかったのにねえ。あの子に十二も上げておけばよかった。」それから、乞食娘の方《ほう》にいいました。 「お前、まだひもじいの?」 「ひもじくない時なんてありゃア《あ》しない。でも、いつもみたいに、ひどくひもじかア《あ》ないわ。」 「こっちへ、お出で。」  おかみさんはそういって、店の戸を開きました。そして、奥の暖炉を指していいました。 「さア《あ》温まるといいわ。いいかい、これから一《ひと》かけのパンも得られない時には、ここへ来て、下さいというのだよ。あの娘のために、私はいつでも、お前にパンを上げるから。」 ◇。◇。◇。◇。◇。  セエ《ー》ラは残った一つの甘パンで、どうやら自分を慰めることが出来ました。とにかく、それは熱かったし、ないよりは《は-》ましでした。セエ《ー》ラは歩きながら、小さくちぎって、小《少》しずつゆっくりと食べました。 「このパンが、魔法のパンで、一口食べると、お午飯《昼》を食べたぐらいお腹がふくれるといいな。そうすると、これだけ皆《みんな》食べたら、食べ過ぎてお腹がはちきれそうになるはずだわ。」  日はもう暮れかけていましたが、大屋敷の窓にはまだ鎧戸が下《下ろ》してありませんでしたので、内部の様子をちらと覗くことが出来ました。いつもは、父親が椅子に坐って、子供達《子供たち》に取りまかれているのでしたが、今日は旅にでも出るらしく、母親や子供達《子供たち》とお別れの接吻《キス》をしていました。  玄関の戸が開いたので、セエ《ー》ラはいつか《か-》お金をもらった時の事を思い出し、見つからぬ先に逃げ去ろうとしました。が、こんな話は聞き洩しませんでした。 「モスコウは、雪で包まれてるでしょうね。どこも、かしこも、氷ばかりなのでしょうね?」というのはジャネットの声でした。 「お父様《父さま》、露西亜馬車《ドロスキー》にお乗りになる?」もう一人の娘はいいました。「皇帝《ツアル》にもお会いになる?」 「そんなことは手紙で知らせるよ。農民《ムジーク》やなんかの絵端書も送ってやろう。さ、もう家《’家》にお入り。いやにじめじめしているね。お父さんは、モスコウなんかへ行くのはやめて、皆《みんな》と家《’家》にいたいんだけどな。」  彼は、それから「おやすみ」をいって、馬車へ飛び乗りました。 「お父様《父さま》、その娘《ムスメ》にあったら、よろしくいって下さいね。」  ギイ《ー》・クラア《ー》レンスは、靴脱《靴脱ぎ》のところで跳ねまわりながらいいました。  戸を閉めて、室内《部屋》に戻る道々、ジャネットは、ノラにいいました。 「あの『乞食じゃア《あ》ない小さな女の子』が通って行ったのを見た? ずぶぬれで、寒そうな顔していたわ。あの子は振り返って、肩の上から私達《私たち》の方《ほう》を見ていたわ。お母さんのお話だと、あの子の着物は誰か大変お金持《金持ち》の人からもらったもののようですって──きっと、もう|いた《/傷》んで着られなくなったから、あの子にやったのね。」  セエ《ー》ラは街を横切って、ミンチン先生の地下室に入って行きました。ぞくぞくして、倒れそうでした。 「ギイ《ー》・クラア《ー》レンスのいったその娘《ムスメ》というのは、誰なのかしら?」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十四章】 【メルチセデクの見聞記】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ちょうどこの日の午後、セエ《ー》ラが使《使い》に出ている留守に、屋根裏部屋には奇妙なことが起りました。それを見聞《見聞き》したのはメルチセデクだけでした。彼はセエ《ー》ラの出た後《あと》へ、何か嗅ぎ出しに出かけて来ていたのでしたが、やっと一つパン屑を見付《見つ》け出したとたん、屋根の上で何か|がたがた《ガタガタ》というのを耳にしました。物音はだんだん天窓《引窓》に近づいたと思うと、不思議や天窓《引窓》は押し開かれ、黒い顔が一つ、そこから部屋の中を覗きました。続いてまた別な顔が、その背後に現れました。黒い顔はラム・ダスで、もう一人は印度《インド》の紳士の秘書役だったのですが、メルチセデクにはそんなことは判《分か》るはずもありませんので、黒い顔の男がかたとも音を立てずに、軽々《カルガル》と窓口から下《-お》りて来るのを見ると、尻尾をまいて、自分の穴へ逃げ帰ってしまいました。彼は穴の口に平たく坐り、眼をお皿のようにして、様子を見ていました。  若い秘書役はラム・ダスと同様、音も立てずに天窓《引窓》から辷りこんで来ました。彼はメルチセデクの尻尾をひっこめるところを、ちらと見て、小声でラム・ダ《ダ-》スに訊きました。 「ありゃア《あ》鼠かい?」 「はい、鼠でございますよ。壁の中にどっさりおります。」 「へエ、あの子が怖がらないなんて不思議だね。」  ラム・ダスはそれを聞くと、手を上げてちょっと様子をつくり、慎ましやかにほほえみました。彼はまだ一度しかセエ《ー》ラと話したことはないのですが、セエ《ー》ラについてなら、何でも詳しく語ることが出来ました。 「子供というものは、何とでも友達になるものでございますよ。私がそっと来て、ここから覗いておりますと、あの子は、雀や鼠まで手なずけているんでございますよ。ここの奴隷娘は、毎日あの子を慰めに来ます。こっそりあの子に会いに来る小ちゃな子もございます。それから、その子よりは大きい子で、あの子の話を倦きもせず聞いている子も一人ございます。女主人などは、あの子をまるで非人《ペーリア》扱いにしていますが、でも、あの子は王族の血でもひいてるような挙止《物腰》をしています。」 「君《キミ》は、だいぶ詳しく知っているようだね。」 「あの子の生活なら、何でも毎日見て知っております。出かけて行くのも、戻ってくるのも、知っております。凍えていることも、ひもじいことも、夜中まで勉強していることも、知っております。子供達《子供たち》が忍んで来ると、あの子もうれしいと見え、ひそひそと話したり、笑ったりしています。病気にでもなったらすぐ判《分か》りますから、そんな時には、出来ることなら、来て看護してやりたいと思っております。」 「でも君、大丈夫かい? 誰か来やア《あ》しないかい? あの子がだしぬけに戻って来るようなことはないかい? 僕達《僕たち》が来ているのを見つけでもしたら、あの子はたまげてしまうだろう。すると、カリスフォドさんのせっかくの計画も、水の泡になるからね。」  ラム・ダスはそっと戸口に身をよせて立ちました。 「あの子の他、誰も来るはずはありません。今日は手籠を持って出て行きましたから、なかなか戻っては来ないでしょう。それに、ここに立ってさえいれば、誰の足音だって、梯子を登りきらぬうちに聞えるから、大丈夫です。」 「じゃア《あ》、しっかり耳を澄ましていてくれたまえ。」  秘書はそういうと、部屋の中を静かに歩き廻《回》って、そこにあるものを手早く手帳に書き込みました。彼はまず寝台《ベット》をおさえて、思わず声をあげました。 「まるで石だ。あの子のいない間に取りかえておかなければ。何か、特別の方法で持ち込むんだね。今夜は、とてもだめだろうが。」  彼は汚れた夜具や、火のない炉などを見廻《見回》り、それらのものを書きこんだ一枚を手帳から破り取って、ポケットに入れました。 「だが、妙な《な-》ことを始めたものだね。誰がこんなことをするといい出したんだい?」 「実は、私が初めに思いついたんでございますよ。私は、あの子が好きなんでございます。お互《互い》に一人ぼっちでございますのでね。あの子はよく自分の空想を、忍んで来る友達に話して聞かせます。ある晩のこと、私も悲しい思いに打たれておりましたので、あの天窓《引窓》の所に身をよせて、中の話を聞いておりますと、あの子は、この部屋が居心地よくなったら、どんなにいいだろう、といっておりました。話しているうちに、あの子はふとその事を思いついたのです。御主人《ご主人》にそれをお話《話し》しますと、では、あの子の空想を実現させてやろう、と|仰しゃ《仰》るのでした。」 「だが、あの子の寝ている間に、そんなことが出来るだろうかね。もし眼を覚《覚ま》しでもすると──」 「私は、猫の足で歩くように歩いてお目にかけますよ。子供というものは、不幸な時でも、ぐっすり眠るものでございます。今までとても、入ろうとさえ思えば、あの子に寝返り一つ打たせず、入って行くことが出来たに違いありません。ですから、誰かが窓から品物を渡してくれさえすれば、私は巧くやり了《おお》せてごらんに入れます。あの子は《は-》あとで眼を覚《覚ま》して、魔法使《魔法使い》でも来ていたのだろうと思うでございましょう。」  二人は、またそっと天窓《引窓》から脱け出して行きました。二人が見えなくなると、メルチセデクはほっとして、パン切《きれ》でも落して行きはしなかっただろうかと、そこらを駈け廻《回》りはじめました。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十五章】 【魔法】 ◇。◇。◇。◇。◇。  セエ《ー》ラがお使《使い》から帰ってくると、隣家《隣》では、ラム・ダスが鎧戸を閉めているところでした。セエ《ー》ラは鎧戸の間から、ちらと部屋の中を覗きました。覗く拍子に、もうずいぶん長いこと綺麗な部屋の中に入ったことはないなと思いました。  窓の中にはいつものように、赤々と火が燃えており、印度紳士は相変らず悩ましげに、頭を抱えて坐っておりました。 「お可哀そうに! あんなにして、何を考えていらっしゃるのかしら?」  紳士が考えていたのは、次のような事でした。 「もし──せっかくカア《ー》マイクル君がモスコウに行ってくれても、その娘が我々の捜している子供でなかったら、どうすればいいのだろう。」  セエ《ー》ラは家に入ると、いきなりミンチン先生に、遅いといって叱られました。料理番も叱られたあとだったので、殊更ひどくセエ《ー》ラにあたりました。 「あの、何かいただけませんか?」  セエ《ー》ラは元気のない声で訊ねました。 「お茶は出からしで、もう駄目だよ。お前のために温かにして、とっといてやるとでも思っていたのかい?」 「私、お午飯《昼》もいただきませんでしたの。」 「戸棚の中にパンがあるよ。」  セエ《ー》ラは古いパンだけを食べて、長い梯子段を登って行きました。いつまでたっても登りきれぬ気のするほど、セエ《ー》ラは疲れていました。セエ《ー》ラは少し登っては休み休みしました。やっと登りきろうとすると、屋根裏部屋の戸の下から、あかりが洩れているので、うれしくなりました。またアア《ー》ミンガア《ー》ドが来ているのでしょう。セエ《ー》ラはまるまるとしたアア《ー》ミンガア《ー》ドが赤いショオ《ー》ルにくるまっているのを見るだけでも、侘しい部屋が少し温まるようでうれしかったのでした。  アア《ー》ミンガア《ー》ドはセエ《ー》ラを見ると、寝台《ベット》の上からいいました。 「セエ《ー》ラさん、帰って来て下すってよかったわ。メルチセデクが、いくら逐《追》っても、私のそばへ《へ’》やって来て、鼻をくんくんさせるのですもの、私《わたし》怖かったわ。メルチイは飛びつきゃしないこと。」 「いいえ。」と、セエ《ー》ラは答えました。 「セエ《ー》ラさん、あなた大変疲《大変つか》れてるようね。顔色が大変悪いわ。」 「とても疲れちゃったわ。」セエ《ー》ラは跛の足台にぐたりと坐りました。「おや、メルチセデクがいるのね。可哀そうに、きっと御飯をもらいに出て来たのだわ。でも、今夜は一片《ヒトカケ》も残っていないのよ。帰ったらおかみさんに、私のポケットには何《なん》にもなかったといっておくれ。あんまり皆《みんな》に辛《-つら》くあたられたので、お前のことは忘れてしまって、悪かったわね。」  メルチセデクは、どうやら合点《ガテ-ン》がいったようでした。彼は、満足そうではありませんでしたが、諦めたように、脚ずりをして帰って行きました。 「アア《ー》ミイ、今夜会えようとは思わなか《く》ってよ。」と、セエ《ー》ラはいいました。 「アメリアさんは、伯母さんの所へ泊りにいらしったのよ。だから、いようと思えば、明日の朝までだっていられるわけよ。」  アア《ー》ミンガア《ー》ドは、天窓《引窓》の下のテエ《ー》ブルを指さしました。その上には、幾冊かの本が積んでありました。彼女はがっかりしたように、 「お父様《父さま》がまた本を送って下すったの。」といいました。セエ《ー》ラはたちまちテエ《ー》ブルに走りより、一番上の一巻を取ると、手早くページをめくり出しました。もう一日《イチニチ》の辛《-つら》さなどは、すっかり忘れていました。 「何《なん》て綺麗な本でしょう。カア《ー》ライルの『フランス革命史』ね。私、これをよ《読》みたくてたまらなかったのよ。」 「私ちっともよ《読》みたかなかったわ。でも、読まないとパパに怒られるのよ。パパは、私がお休みに家に帰るまでに、すっかり憶えさせようってつもりなのよ。私どうしたらいいでしょう。」 「こうしたら、どう? 私がよ《読》んで、あとですっかりあなたに話してあげるわ。憶えやすいようにね。」 「あら、うれしい。でも、あなたにそんなこと出来るの?」 「出来ると思うわ。小さい人達《人たち》は、私のお話をよく憶えてるじゃア《あ》ないの。」 「もし、あなたが憶えやすいように私に話して下さるなら、私、何でもあなたに上げるわ。」 「私、あなたから何《-なん》にもいただこうとは思わないけど、でも、この本は欲しいわ。」 「じゃア《あ》あげるわ。私は本なんか、好こうと思っても好きになれないのよ。私は利口じゃア《あ》ないの。ところが、お父様《父さま》は御自分《ご自分》が何でもお出来になるものだから、私だって出来ないはずはないと思ってらっしゃるのよ。」 「私に本を下すったりして、あとでお父様《父さま》に何《ナン》て|仰しゃ《仰》るつもり?」 「何ともいわないわ。私がお話を憶えていさえすれば、よ《読》んだのだと思うでしょう。」 「そんな嘘をいうものじゃア《あ》ないわ。嘘は悪いばかりでなく、卑しいことよ。だから、御本《ご本》を読んだのは、セエ《ー》ラだと仰しゃればいいじゃア《あ》ないの?」 「でも、パパは私に読ませたいのよ。」 「読ませたいよりは、憶えこませたいのよ。だから、憶えさえすりゃア《あ》、よ《読》んだのは誰だって、きっとおよろこびになるわ。」 「どのみち、憶えさえすりゃア《あ》いいのよ。あなたが私のパパだったら、きっとそれでいいとお思いになるでしょう。」 「でも、あなたが悪いからじゃア《あ》ないわ。あなたの──」  頭の悪いのは、と危《危う》くいいかけて、セエ《ー》ラは口を噤みました。 「私が、どうしたの?」 「すぐ憶えられないのは、あなたが悪いからじゃア《あ》ないっていうのよ。すぐ憶えられたって、ちっとも偉かア《あ》ないのよ。親切なことの方《ほう》が、どんなに値打《値打ち》があるかしれないわ。ミンチン先生なんか、いくら何でも知っていたって、あんなだから皆《みんな》に嫌われるのよ。頭はよくても悪い事をしたり、悪い心を持ってたりした人がたくさんあるわ。ロベスピエルだって──憶えてるでしょう? いつかお話《話し》してあげたロベスピエルのこと。」 「そうね、少しは憶えてるけど。」 「忘れたのなら、もう一度話してあげるわ。ちょっと待ってね。この濡れた服を脱いで、夜具にくるまるから。」  セエ《ー》ラは寝台《ベット》の上で肩を夜具に包み、膝を抱えて、血腥いフランス革命の話を始めました。アア《ー》ミンガア《ー》ドは眼を見張り、固唾をのんで耳を傾けました。怖いようでしたが、同時にまたぞっとするような面白さもありました。ロベスピエルのこと、ラムバア《ー》ル姫のことなど、忘れようと思っても、忘れられなくなりました。  二人は、父のセント・ジョン氏に、セエ《ー》ラに話してもらって憶える計画を、正直に打ちあけることにきめました。で、本は当分セエ《ー》ラの所に置くことにしました。  セエ《ー》ラは話している間も、倒れそうに空腹でした。アア《ー》ミンガア《ー》ドが帰ってしまったら、ひもじさのあまり、眠られなくなりはしまいかと思いました。いつもは、そんなことに一向気《一向’気》のつかないアア《ー》ミンガア《ー》ドも、ふとセエ《ー》ラを見てこ《/こ》ういったくらいでした。 「私、あなたぐらいに痩せたいと思うわ。でも、今日はあなたいつもよりも痩せて見えるわね。眼もいつもより大きいようだし、肱のところには、とがった骨が出ているわ。」  セエ《ー》ラは、自然にまくれ上《上が》った袖口を、引き下《下ろ》しました。 「私、小さい時から痩せてたのよ。そして、大きな緑色の眼だったのよ。」 「私、あなたのその不思議な眼が好きなの。どこか遠いところを見ているようで、とてもいいわ。その緑色がとてもい《いい》わ。でも、たいていは黒いように見えるのね。」 「猫の眼なのよ。でも、猫のように暗いとこまで見えるわけじゃア《あ》ないのよ。見えるかと思ってやってみたけど、駄目だったわ。暗くても見えるといいわね。」  ふと、天窓《引窓》の上にかすかな音がしました。二人とも見ずにしまいましたが、黒い顔が天窓《引窓》に現れて消えたのでした。 「今の音は、メルチセデクじゃア《あ》ないわね。何かが石盤瓦《スレート》の上を、そうっと擦って行くような音だったわ。」  耳の早いセエ《ー》ラは、そういいました。 「何《なん》でしょう? まさか、泥棒じゃア《あ》ないでしょうね。」 「まさか。盗んで行くものなんか、何もないじゃア《あ》──」  といいかけた時、また何か物音がしました。今度は二階で、ミンチン先生が怒鳴っている声でした。セエ《ー》ラは寝台《ベット》から飛び降りて、火を消しました。 「先生は、ベッキイ《ー》を叱ってるのよ。」 「ここにやって来やア《あ》しない?」 「大丈夫。寝たと思ってるでしょう。でも、じっとしていてね。」  ミンチン先生は、屋根裏まで上って来ることなど、めったにありませんでした。が、今夜は立腹のあまり、中途までぐらいは上って来《こ》ないとも限りませんでした。それに、ベッキイ《ー》を小突きまわしながら、あとから上ってくるような気配さえしました。 「嘘つき! 料理番の話だと、な《無》くなったのは今日ばかりじゃア《あ》ないそうじゃア《あ》ないか。」 「でも、私じゃア《あ》ございません。私、お腹はすいてたけど、そんな、そんな──」 「監獄に入れてやってもいいくらいだ。盗んだり、つまんだり。肉饅頭《ミート・パイ》を半分も食べちゃったんだね。」 「私じゃア《あ》ないんですってば! 食べるくらいなら、皆《みんな》食べちまうわ。──でも私、指一《指ひと》つさわりゃア《あ》しなかったんだわ。」  そのパイは、ミンチン先生が夜おそく食べようと思って、とっておいたものでした。先生は息を切らして階段を上《上が》りながら、ぴしぴしベッキイ《ー》を打《ぶ》っているようでした。 「嘘なんかつくな。たった今、部屋に入ってしまえ。」  戸がしまって、ベッキイ《ー》が寝台《ベット》に身を投げる音がしました。彼女は泣きじゃくりながらいいました。 「食べる気なら、二つぐらい食べちまうわ。一口だって食べや《や-》しなかったのに。料理番が、あの巡査に食べさしたんだわ。」  セエ《ー》ラは真暗な室内に立ったまま、歯をくいしばり、手をさしのべて、掌を開いたり握りしめたりしていました。もうじ《/じ》っとしては《は-》いられないという風《ふう》でしたが、でも、ミンチン先生が降りて行ってしまうまでは、身動きもせずにおりました。 「ずいぶんひどいわ。料理番はベッキイ《ー》に自分の罪をなすりつけてるのよ。ベッキイ《ー》はつまみ食いなんかするものですか。あの子は、時々ひもじくてたまらなくなると、塵溜《ゴミタメ》からパンの皮を拾って食べてるくらいだけど。」  セエ《ー》ラは両手をひしと顔に押しあてて、欷歔《すすり泣》きはじめました。セエ《ー》ラが泣くとは──アア《ー》ミンガア《ー》ドは、何《なに》か今まで気のつかなかったことに気のついた気がしました。ことによると──ことによると──彼女の親切な鈍い心の中に、恐ろしい事実がようよう姿を見せはじめました。彼女は手さぐりでテエ《ー》ブルの所へ行き、蝋燭に火をつけました。灯《明かり》がともると、身をこごめて気づかわしげにセエ《ー》ラを見ました。 「セエ《ー》ラさん、あの──あなた、一言も話して下さらなかったけど、あの、失礼だったら御免なさい──でも、あなた、ひもじいんじゃなかったの?」 「ええ、ひもじいのよ。あなたにでも食いつきたいほどひもじいのよ。それに、ベッキイ《ー》の泣声《泣き声》を聞くと、よけいひもじくなってくるの。あの子は私よりもひもじいのよ。」 「あら、私、ちっとも気がつかなかったなんて!」 「私も、あなたにさとられたくなかったのよ。あなたに知られると、私《わたし/》乞食になったような気がするから|いや《嫌》だったの。もう見たところは乞食《乞食’》も同じですけどね。」 「そんなことないわ。着物はちょっと変だけど、乞食になんて見えるものですか。お顔が第一、乞食とは違うわ。」 「いつか私、小さい男の子から施しを受けたことだってあるのよ。」セエ《ー》ラは自分を蔑むように笑って、衿の中から細いリボンを引き出しました。「ほら、これよ。私の顔が物欲しそうだったからあ《/あ》の坊ちゃんもクリスマスのお小遣《小遣い》を、下さる気になったのよ。」  その銀貨を見ると、二人は眼に涙をためながら、笑い出しました。 「その坊ちゃんて、だれなの?」 「可愛い坊ちゃんだってよ。大屋敷の子供の一人で、足がまるまるしてるのよ。きっとあの子は自分は贈物やお菓子の籠をたくさん持っているのに、私は何一つ持っていそうもないと思ったのね。」  アア《ー》ミンガア《ー》ドは、ふと何かを思いついて、ちょっと飛び下りました。 「セエ《ー》ラさん、私《わたし》莫迦ね、今まであのことに気がつかないなんて。」 「あのことって。」 「いいことなの。さっき伯母様《伯母さま》から、お菓子の一杯つまった箱が届いたのよ。私お腹が一杯だったし、本のことで悩んでいたので、手もつけずにおいたの。中には肉饅頭《ミート・パイ》だの、ジャム菓子だの、甘パンだの、オレンジだの、赤葡萄酒だの、無花果だの、チョコレエ《ー》トだのが入ってるのよ。私ちょっと取りに行ってくるわ。ここで食べましょうよ。」  セエ《ー》ラは食物《食べ物》の話を聞くと、思わずくらくらしました。彼女はアア《ー》ミンガア《ー》ドの腕にしがみついて、 「でも、行って来《-こ》られる?」といいました。 「来られるわよ。」アア《ー》ミンガア《ー》ドは戸の外に頭を出して、耳をすましました。「燈火《明かり》はすっかり消えてるわ。皆《みんな》もう眠っちゃったのね。だから、そっと誰にもわからないように、そっと這って行って来るわ。」  二人は手をとりあってよろこびました。セエ《ー》ラはふと、また眼をきらめかせていいました。 「アアミイ! ね、またつもりになりましょうよ。宴会だってつもりにね。それからあの、隣の監房にいる囚人も御招待《ご招待》しない?」 「それがいいわ。さ、壁を叩きましょうよ。看守になんて聞《/聞こ》えや《や-》しないでしょう。」  セエ《ー》ラは壁ぎわに行って、四度壁《四度’壁》を叩きました。 「これは《は-》ね、『壁の下の脱道《抜け道》より来《来た》れ、お知らせしたいことがある』という意味なの。」  向《向こ》うから五つ打つ響《響き》がありました。 「ほら、来たわ。」  戸があいて、眼を紅くしたベッキイ《ー》が現れました。彼女はアア《ー》ミンガア《ー》ドがいるのを知ると、気まり悪そうに前掛《前掛け》で顔を拭きはじめました。で、アア《ー》ミンガア《ー》ドはいいました。 「ちっともかまわないのよ、ベッキイ《ー》。」 「アア《ー》ミンガア《ー》ドさんのお招きなのよ。今いい|もの《物》の入った箱を持って来て下さるんですって。」 「いい|もの《物》って、何か食べるもの?」 「そうなの。これから、宴会のつもりを始めるの。」 「食べられるだけ食べていいのよ。私、すぐ行って来るわ。」  アア《ー》ミンガア《ー》ドはあまり急いだので、出《/で》しなに赤いショオ《ー》ルを落しました。誰もそれには気がつかないほど、夢中でした。 「お嬢様《嬢さま》、すてきね。私を招くようにあの方に頼んで下すったのは、お嬢様《嬢さま》でしょう? 私それを思うと、涙が出て来るわ。」  その時セエ《ー》ラは、眼にいつもの輝きを湛えながら、辛かった一日《1日》のあとに、ふいにこんな愉快なことが起《起こ》ったのを、不思議に思い返していました。何か救いが来るものだ、まるで魔法のようだと、彼女は思いました。 「さ、泣かないで、テエ《ー》ブルを整えることにしましょう。」  セエ《ー》ラはうれしそうにベッキイ《ー》の手を握りました。 「テエ《ー》ブルを整えるって? 何を乗せればいいの?」  セエ《ー》ラは部屋の中を見廻《見回》して笑いました。テエ《ー》ブル掛《掛け》も何もあるはずはありません。ふと、セエ《ー》ラは赤いショオ《ー》ルが落ちているのを見つけて、それを古いテエ《ー》ブルの上に掛けました。赤は非常にやさしく、心を慰める色です。テエ《ー》ブルに赤いショオ《ー》ルが掛《掛か》ると、部屋の中は急にひきたって来ました。 「これで、床に赤い敷物が敷いてあったら、すてきだわね。敷物のあるつもりになろう。」セエ《ー》ラが床に眼を落すと、そこにはもうちゃんと敷物が敷いてあるのでした。 「まア《あ》、何《なん》て厚くて、柔《柔ら》かなのでしょう。」  セエ《ー》ラはベッキイ《ー》の方《ほう》に笑顔を向けながら、さも何か敷物でも踏むように、そっと足を下《下ろ》しました。 「ほんとに柔《柔ら》かね。」と、ベッキイ《ー》も真顔でいいました。 「今度は何をしましょう。じっと考えて待っていると、何か思いつくものだわ。魔法の神様《神さま》がそれを教えてくれるのだわ。」  セエ《ー》ラのよくする空想の一つは、家のそとでいろいろの思いつきが呼び出されるのを待っているというのでした。セエ《ー》ラがじっと立って何を《か》待ち設《受》けているのを、ベッキイ《ー》はよく見ました。セエ《ー》ラはいつものようにしばらくじっと立っていましたが、やがてまたいつものように、明るい笑顔になりました。 「そら来た。私、何をすればいいか判《分か》ったわ。私が宮様《プリンセス》時代に持っていた、あの古鞄をあけてみましょう。」  鞄の隅には小さな箱があり、その中に小さな手巾《ハンケチ》が一打《一ダース》入っていました。セエ《ー》ラはそれを持っていそいそとテエ《ー》ブルの方《ほう》に走って行き、レエ《ー》スの縁《フチ》がそり返るように工夫して、赤いテエ《ー》ブル掛《掛け》の上に並べました。並べる間も、彼女は何か魔法に動かされているようでした。 「そこにお皿があるの。黄金のお皿よ。それから、このナプキンには手のこんだ刺繍がしてある。スペインの尼さんが尼寺の中でした刺繍なのよ。ほら、目に見えて来るでしょう。」  セエ《ー》ラはまた鞄の中から、古い夏帽子を見附《見つ》け出し、飾《飾り》の花を引きはがして、テエ《ー》ブルの上に飾りました。 「いい匂《匂い》がするでしょう。」  セエ《ー》ラは夢の中の人のように、幸福そうな微笑をたたえながら、石鹸皿《石鹸ザラ》を雪花石膏《アラバスター》の水盤に見たてて、薔薇の花を盛りました。それから毛糸を包んだ紅白の薄紙で、お皿を折り、残った紙と花とは、蝋燭台を飾るのに用いました。セエ《ー》ラは一歩退《1歩ひ》いて、飾られたテエ《ー》ブルを眺めました。そこにあるのは、赤い肩掛《肩掛け》をかけた古《フル》テエ《ー》ブルと、鞄から出した塵屑とだけでしたが、セエ《ー》ラは魔法の力で、奇蹟が行われたのを見るのでした。ベッキイ《ー》まで、そこらを見廻《見回》していうのでした。 「あの、これが──これが、あのバスティユ?──何かに変《変わ》ってしまったの?」 「そうですとも。饗宴場に変《変わ》ったのよ。」  その時戸《とき戸》が開いて、アア《ー》ミンガア《ー》ドがよろよろと入ってきました。彼女は肌寒い暗闇の中から、すっかり飾られた部屋に入って来ると、思わず声をあげました。 「セエ《ー》ラさん、あなたみたいに何でも上手な方は見たことないわ。」 「すてきでしょう? 皆《みんな》、古鞄《フル鞄》の中にあったのよ。魔法の神に伺ってみたら、トランクを開けてみろと|仰しゃ《仰》ったの。」 「でも、お嬢さん、セエ《ー》ラ嬢さんにいちいち何だか話しておもらいなさい。ね、あれはみんな──セエ《ー》ラ嬢さん、この方にも話しておあげなさいよ。」  で、セエ《ー》ラはアア《ー》ミンガア《ー》ドに、黄金のお皿のこと、|まる《丸》天井のこと、燃えさかる丸太のこと、きらめく蝋燭のことなどを話して聞かせました。魔法の力の助けで、アア《ー》ミンガア《ー》ドもそれらのものを朧に見る気がしました。手籠の中から、寒天菓子や、果物や、ボンボンや、葡萄酒が取り出されるにつれ、宴会はすばらしいものになって来ました。 「まるで、夜会ね。」と、アア《ー》ミンガア《ー》ドは叫びました。 「女王《クウィーン》様の食卓みたいだわ。」と、ベッキイ《ー》は吐息をつきました。  すると、アア《ー》ミンガア《ー》ドは眼を光らせて、 「こうしましょう、ね、セエ《ー》ラ。あなたは宮様《プリンセス》で、これは宮中の御宴なの。」 「でも、今日の主催者はあなたじゃア《あ》ないの。だから、あなたが宮様《プリンセス》で、私達《私たち》は女官なの。」 「あら、私なんか肥っちょだから駄目よ。それに宮様《プリンセス》はどうするものだか、知らないんですもの。だから、やっぱりあなたの方《ほう》がいいわ。」 「あなたがそう|仰しゃ《仰》るなら、それでもいいわ。」それから、またセエ《ー》ラは何か思いついたらしく、さびた煖炉の所に飛んで行きました。 「紙屑や塵がたまってるから、これに灯《ヒ》をつけると、ちょっと明《明る》くなるわ。すると、|ほんとう《本当》に火のあるような気がするでしょう。」  セエ《ー》ラは火をつけると、優雅《淑やか》に手をあげて、皆《みんな》をまた食卓へ導きました。 「さア《あ》、お進みなされ御婦人方《ご婦人がた》。饗宴の|むしろ《蓆》におつき召されよ。わがやんごとなき父君《父ぎみ》、国王様《国王さま》には、只今、長《なが》の旅路におわせど、そなた達《たち》を饗宴に招ぜよと、妾《ワラワ》に御諚下《御諚くだ》されしぞ。何《なん》じゃ、楽士共《楽士ども》か。六絃琴《ヴァイオル》、また低音喇叭《バッスーン》を奏でてたもれ。」そういってから、セエ《ー》ラは二人にいってきかせました。 「宮様方《プリンセスがた》の宴会には、きっと音楽があったものなのよ。だから、あの隅に奏楽場《奏楽じょう》があるつもりにしましょう。さ、始めましょう。」  皆《みんな》がお菓子をやっと手にとるかとらないうち、三人は思わず飛び上《上が》って、真蒼《真っ青》な顔を戸口の方《ホウ》へ向け、息をこらして耳を澄ましました。誰かが梯子を上って来るのです。もう何もかもおしまいだと、皆《みんな》は思いました。 「きっと奥様《奥さま》よ。」ベッキーは思わずお菓子のかけらを取り落しました。 「そうよ。先生に見付《見つ》かったのだわ。」  セエ《ー》ラも真蒼《真っ青》になって、眼を見張りました。  ミンチン先生は扉を叩きあけて入って来ました。怒りのあまり、先生の顔も真蒼《真っ青》でした。 「何かこそこそやってるようだとは思ってたけど、こんな大胆不敵なことをしようとは夢にも思わなかった。ラヴィニアのいったのは|ほんとう《本当》だ。」  告口《告げ口》をしたのはラヴィニアだと、三人は知りました。ミンチン先生は、足を鳴らして進みよると、またベッキイ《ー》の耳を打《ぶ》ちました。 「畜生め、夜があけたら、さっさと出て行け。」  セエ《ー》ラは身動きもせず立っていました。眼はいよいよ大きくなり、顔色はますます蒼《青》ざめていきました。アア《ー》ミンガア《ー》ドはわっと泣き出しました。 「どうか、ベッキイ《ー》を逐《追》い出さないで下さい。伯母さんがこの手籠を下すったので、みんなで、ただあの──宴会ごっこをしていたのです。」 「案の定、プリンセス・セエ《ー》ラが上座に坐ってるね。皆《みんな》セエ《ー》ラの仕業なんだ。ちゃんと解《分か》ってるよ。ベッキイ《ー》、お前はさっさと自分の部屋に帰れ。セエ《ー》ラ、お前の罰は明日だ。明日は朝から晩まで、何《なん》にも食べさしてやらないから。」 「今日だって、お午《昼》も晩もいただきませんでしたよ。」 「そんなら《ら-》なお《お-》いいさ。何か心にこたえることをしてやらなければ。アア《ー》ミンガア《ー》ド、ぼんやり立ってるんじゃア《あ》ないよ。食物《食べ物》を皆《みんな》手籠にしまうんだよ。」  ミンチン先生は、自分でテエ《ー》ブルの上のものを手籠の中へ《へ’》払い落しましたが、またしてもセエ《ー》ラが大きな眼をして見詰めているのに気がつくと、先生はセエ《ー》ラに食ってかかりました。 「何を考えてるんだよ。なんだって、そんな眼をして私を見るんだよ。」 「私、お父様《父さま》がこれを御覧になったら、何と|仰しゃ《仰》るだろう、と思っていましたの。」  それを聞くと先生は、いつかの時のように腹が立ってたまらなくなりました。で、思わずセエ《ー》ラに飛びかかって、彼女のからだをゆすぶりました。 「まア《あ》、失敬な! ずうずうしいにも程がある。」  先生は手籠や本をアア《ー》ミンガア《ー》ドの腕に押しこみ、彼女を小突いて先に立てながら、セエ《ー》ラの部屋を出て行きました。  夢はすっかりさめてしまいました。炉の中の紙屑は消えて黒い燃殻になり、テエ《ー》ブルの上に飾ったものは、鞄の中にあった時のように古ぼけて、床に散らばっていました。セエ《ー》ラはエミリイ《ー》が壁に寄りかかっているのを見付《見つ》けると、震える手で抱き上げました。 「もう御馳走《ご馳走》どころじゃア《あ》ないのよ。宮様《プリンセス》もなにもいやしないのよ。バスティユの囚人がここにいるばかりだわ。」  セエ《ー》ラはべたりと坐って、両手で顔を被おうとしました。その間《あいだ》にさっきの黒い顔が、また天窓《引窓》の上に現れました。が、セエ《ー》ラはそれには気がつきませんでした。セエ《ー》ラはやがて立ち上《上が》って寝床の方《ほう》に行きました。もう何《なん》のつもりになる張合《張り合い》もありませんでした。 「あの炉に火が入っているといいな。火の前には、気持《気持ち》のいい椅子テエ《ー》ブルがあって、暖かな晩御飯が乗っているといいな。それから、あの──。」と薄っぺらな夜具をかけながら、「これが、柔《柔ら》かな寝台《ベット》で、羊毛の毛布や、ふうわりした枕がついているのだったら、そして、それから──」  セエ《ー》ラは思っているうち疲れは《果》てて、いつかぐっすり眠ってしまいました。 ◇。◇。◇。◇。◇。  どれほど眠ったか、セエ《ー》ラには判《分か》りませんでした。彼女は疲れきっていましたので、メルチセデクが騒いでも、天窓《引窓》から誰かが入って来ても、何《なん》にも知らずにぐっすり眠っておりました。  天窓《引窓》がぱたりと閉《閉ま》る音《音’》を聞いたと思いましたが、セエ《ー》ラは眠くてたまらないので──それに、何か妙にぽかぽか温かくて気持《気持ち》がいいので、すぐには眼を開けませんでした。余りの気持《気持ち》よさに、セエ《ー》ラは何だかまだ夢心地だったのでした。 「いい夢だわ。私、覚めなければいいと思うわ。」  まったく夢にちがいありません。温かな夜具もかかっているようですし、毛布の肌触りも感ぜられます。手を出すと、繻子の羽根蒲団らしいものが触るのです。セエ《ー》ラはこの夢から覚めまいと思って、一生懸命眼《一生懸命’目》をつぶっていましたが、ぱちぱちと火の爆ぜる音を聞くと、眼をあけずには《は-》いられませんでした。眼を開けて見て、セエ《ー》ラはまだ夢を見ているのだと思いました。──  炉にはあかあかと焔《炎》が燃え立っています。炉棚の上には小さな真鍮の茶釜が、ふつふつと煮え立っています。床には厚い緋色の絨毯が、炉の前には、座褥《クッション》をのせた畳みこみの椅子が置いてあります。椅子のそばには白いテエ《ー》ブル掛《掛け》をかけた小さな食卓が据えてあって、茶碗や、土瓶や、小皿や、布《切れ》をかけた料理のお皿などが並べられてあります。寝台《ベット》の上には温かそうな寝衣《寝巻》や、繻子の羽根蒲団《羽根ブトン》がかけてあります。寝台《ベット》の下には、珍らしい綿入れの絹の服や、綿の入ったスリッパや、小さな本などが置いてあります。それに、テエ《ー》ブルの上には、薔薇色傘のついた明るいラムプが点《-とも》っているのです。セエ《ー》ラは、夢の国から妖精の国に来たのではないかと思いました。 「消えてなくなりもしないようだわ。こんな夢って、見たこともないわ。」  セエ《ー》ラは、しばらく寝台《ベット》の上に肱をついて、部屋の中を見ていましたが、やがて、夜具を押しのけて、足を床に下《下ろ》しました。 「夢を見ながら、床《トコ》から出て行くのだわ。このままであればいい。私はこれがほんとなのだと、夢見ているのだわ。夢じゃア《あ》ないと、夢の中《ウチ》で思っているのだわ。魔法にかかった夢のようだわ。私も何だか魔法にかかっているようだわ。きっと私はただ見えると思ってるばかりなのよ。いつまでもそう思っていたいわ。でも、どうでもいいわ。どうでもいいわ。」  セエ《ー》ラは、燃え立つ火の前に跪いて、火に手をかざして見ました。火に手を近づけすぎたので、熱《あつ》さのあまり飛びさがりました。 「夢で見ただけの火なら、熱いはずはないわ。」  セエ《ー》ラは飛び上《上が》って、テエ《ー》ブルや、お皿や、敷物に手を触れて見ました。それから、寝台《ベット》の毛布に触ってみました。柔《柔ら》かな綿入《綿入れ》の服を取り上げて、ふいに抱きしめ、頬ずりしました。 「温かくて、柔《柔ら》かだわ。本物に違いないわ。」  セエ《ー》ラはその服をひっかけて、スリッパを穿きました。それから、よろよろと本の所へ行き、一番上の一冊を開いてみました。 『屋根裏部屋の少女へ、友人より』  扉にそう書いてあるのを見ると、セエ《ー》ラはその上に顔を伏せて、泣き出しました。 「誰だか知らないけど、私に気を付けて下さる方があるのだわ。私にも、お友達があるのだわ。」  セエ《ー》ラは蝋燭を持ってベッキイ《ー》の所に行きました。ベッキイ《ー》は眼を覚《覚ま》して、緋色の綿入服を着たセエ《ー》ラを見ると、吃驚して起き上《上が》りました。昔のままのプリンセス・セエ《ー》ラが立っていると、ベッキイ《ー》は思いました。 「ベッキイ《ー》、来て御覧なさい。」  ベッキイ《ー》は、驚きのあまり口《’口》を利くことも出来ず、黙ってセエ《ー》ラに従いました。ベッキイ《ー》はセエ《ー》ラの部屋に入ると、眼が廻《回》りそうでした。 「みんな《な-》ほんとなのよ。私、触って見たのよ。きっと私達《私たち》の眠っている間に、魔法使《魔法使い》が来たのね。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十六章】 【お客様《客さま》】 ◇。◇。◇。◇。◇。  それから、その晩二人はどうしたか、出来るなら想像して御覧なさい。  二人は火のそばに蹲《踞》って、料理皿にかけた布《切れ》をとって見ました。お皿の中には、二人で食べても食べきれないほどのおいしいスウ《ー》プや、サンドウィッチや、丸麭麺《マッフィン》などが入れてありました。ベッキイ《ー》のお茶碗はないので、洗面台のうがい茶碗を使うことにしました。そのお茶のおいしさといったらありませんでした。これが、お茶でない何かほかのもののつもりになどはなれないくらいでした。二人は餓《飢え》も寒さも忘れ、すっかり楽しい気持《気持ち》になりました。 「一体、誰がこんなにして下すったんでしょう? 誰かいるのにはちがいないわ。私を想ってて下さる方があるのだわ。ねエ、ベッキイ《ー》、その誰かは、きっと私のお友達なのよ。」 「あの──。」と、ベッキイ《ー》は一度口ごもってからいいました。「あの、お嬢さん、これみんな、融けてってしまうんじゃア《あ》ない? 早く片付けてしまった方《ほう》がよくはない?」ベッキイ《ー》は急いでサンドウィッチをほおばりました。 「大丈夫よ。私もさっき夢じゃア《あ》ないかと思って、その火に触ってみたのよ。」  おなかが一杯になると、セエ《ー》ラは、一人ではかけきれないほどある毛布を、ベッキイ《ー》に分けてやりました。ベッキイ《ー》は帰りしなに振り返って、貪るように室内を見廻《見回》しました。 「お嬢さま、これが皆《みんな》朝になって消えちまっても、とにかく今夜《今夜’》だけは《は-》ちゃんとあったんだから、私《わたし》決して忘れないわ。」ベッキイ《ー》は忘れまいとして、もう一度煖炉や、ラムプや、寝台《ベット》や、床を眺めまわしました。それから、ちょっと自分のお腹の上に手をおいて、 「こん中《なか》には、スウ《ー》プに、サンドウィッチに、丸麭麺《マッフィン》が入って行ったんだわ。」と、それだけは確《’確》かそ《-そ》うにい《言》いました。  朝になると、生徒も、召使《召使い》も、いつの間にか昨夜《夕べ》の騒ぎを知っていました。皆《みんな》は、セエ《ー》ラがどんな顔をして出て来るだろうと、待ちかまえていました。  セエ《ー》ラは皆《みんな》の眼を避けて、真直《真っ直ぐ》に流し場へ行きました。ベッキイ《ー》はせっせと茶釜を磨きながら、口の中で何かを口ずさんでいました。 「お嬢さん、眼がさ《覚》めたらあってよ、毛布が。昨夜の通りよ。」 「私のもよ。私《わたし/》着物を着ながら、食べ残した冷《冷た》いものを食べて来たわ。」 「そう、いいわね。」  そこへ料理番が入って来たので、ベッキイ《ー》はまた茶釜の上に、顔を俯向けてしまいました。  教室ではミンチン先生が、やはりセエ《ー》ラはどんな顔をして出て来るだろうと、待ちかまえていました。さすがのセエ《ー》ラも、今日はしょげて出て来るだろうと思っていました。が、不思議やセエ《ー》ラは血色のいい顔に微笑を湛え、踊るような足どりで入って来ました。ミンチン女史の驚きといったらありませんでした。 「お前には、自分が恥《恥ずか》しい目にあってるのが、判《分か》らないのかい?」 「すみません。私、それはよく知っております。」 「そんなら、その気で、そんな、何かいい事でもあったような顔をするものではない。生意気だよ。それから、今日は一日何《一日-なん》にも食べられないのだということを、忘れないがいいよ。」 「はい、忘れません。」  いいながらセエ《ー》ラは、魔法のおかげがなかったら、今頃はさぞひもじかったろうに、と思いました。 「セエ《ー》ラは、大してひもじそうじゃア《あ》ないわね。」と、ラヴィニアは囁きました。「まるで、朝飯に何かおいしいものでも食べて来たような顔をしているわ。」 「あの子は、普通の人達《人たち》とは違ってるのよ。」とジェッシイ《ー》は、フランス語を教えているセエ《ー》ラの方《ほう》を見ながらいいました。「私、時々セエ《ー》ラが怖くなるわ。」 「莫迦ね。」  セエ《ー》ラはいろいろ考えた末、昨夜起《昨夜’起こ》ったことは、誰にもい《言》うまいと決心しました。ミンチン先生が屋根裏に上って来《-く》ればおしまいですが、ここしばらくは大丈夫だろうと思いました。アア《ー》ミンガア《ー》ドやロッティは、見張りがきびしいから、当分忍《当分’忍》んで来るわけにもいかないでしょう。それに魔法の神様《神さま》も、きっとこの奇蹟を隠して下さるでしょう。 「どんなことが起ろうと、私には目に見えないお友達があるのだからいいわ。」  その日は、前日よりもお天気が悪い上、セエ《ー》ラは昨夜《夕べ》のことがあるので、よけい辛《-つら》くあたられました。が、セエ《ー》ラはもう何《-なん》にも怖いとは思いませんでした。夕方までには多少おなかも空《-す》いて来ましたが、セエ《ー》ラは今にまた御馳走《ご馳走》が食べられるのだと思っていました。  夜更けて、一人自分《ひとり自分》の部屋の前に立った時、セエ《ー》ラの胸はさすがにどきどきしました。 「ことによると、もうすっかり片付けられてしまったかもしれないわ。昨夜だけちょっと私に貸してくれたものなのかもしれないわ。でも、借りたのは事実だったのだわ。夢でもなんでもなかったのだわ。」  セエ《ー》ラは部屋に入ると、すぐ戸を閉め、それに背をもたせて、隅々を見廻《見回》しました。魔法の神は、留守の間にまたここを見舞ったと見えます。昨夜なかったものまでが持ちこまれてありました。低い食卓の上には、またしても御飯の支度がしてありました。しかも、今日はコップも、お皿も皆《みんな》二人前そろえてあるのです。炉の上の棚には、目のさめるような刺繍をした布《切れ》が敷いてあり、二三《二’三》の置物が飾ってありました。醜いものは、すべて垂帷《トバリ》で隠してありました。美しい扇や壁掛《壁掛け》が、鋭い鋲で壁にとめてありました。木の箱には敷物が掛けてあり、その上には、いくつかの座褥《クッション》が乗っていて、寝椅子の形に出来ていました。 「まるで、何かお伽噺にあることみたいだわ。何《なん》でも、欲しいといえば出て来るような気がするわ。ダイヤモンドでも、黄金の袋でも、お伽噺よりも不思議なくらいだわ。これが、昨日までの屋根裏部屋なのかしら? 私も、あの凍えた、汚いセエ《ー》ラだとは思えないくらいだわ。私はいつもお伽噺がほんとになるのを見とどけたいと思っていたのよ。ところが、今私《いま私》はお伽噺の中に住んでるんだわ。私《わたし》自身も妖女《フェアリー》になったような気がするわ。そして、何でも変えることが出来るような気がするわ。」  セエ《ー》ラは壁を打って、隣の囚人を呼び出しました。ベッキイ《ー》は、今夜は自分の紅茶茶碗でお茶をいただきました。  セエ《ー》ラは寝《シン》に就く時、また新しい厚い敷蒲団《敷布団》と、大きな羽根枕のあるのを見つけました。昨夜のは、いつの間にかベッキイ《ー》の寝床に移されていたのでした。 「ぜんたいどこから来るんでしょう? お嬢さん、ほんとに誰がするんでしょう?」 「訊くのはよしましょうよ。私、知らないでいた方《ほう》がいいと思うわ。でも、その誰かに、『ありがとう!《/》』とだけはい《言》いたいわね。」  その時以来《とき以来》、世の中はだんだん愉快になって来ました。お伽噺はうち続きました。たいてい毎日、何かしら新しいことが起りました。夜、セエ《ー》ラが戸を開けるごとに、室内には何か新しい装飾が施され、何か少しずつ居心地よくなっているのでした。そうこうするうち、屋根裏部屋は、いろいろの珍らしい贅沢なものの一杯ある美しい部屋になってしまいました。朝出《朝’出》て行く時には、前の晩の食べ残しが置いてあるのに、夜帰《夜’帰》って来てみると、食べ残しは綺麗に片付けられ、また別な美味が置き並べられてあるのでした。  セエ《ー》ラはこうした幸福と慰めとのため、だんだん健康になり、希望に充ちて来ました。相変らず皆《みんな》からはひどく扱われましたが、どんな時にも、屋根裏に帰りさえすればと思うと、辛いとも思いませんでした。 「セエ《ー》ラ・クルウ《ー》は、大変丈夫そうになったじゃア《あ》ないか。」と、ミンチン先生は不服そうに妹にいいました。 「ほんとに、だんだん肥って来たようですね。まるで餓えた烏みたいになりかけていたのに。」 「餓えただって? 食べたいだけ食べさしてあるのに、餓《う》えるはずはないじゃないか。」  アメリア嬢は、へまな口を辷らしたと思って、おどおどと、 「そ、そりゃア《あ》そうですけど。」と、合槌をうちました。 「あの子の年で、あんな風《ふう》なのは、不愉快だよ。」 「あんな風《ふう》なって?」 「いわば反抗心とでもいうんだろうね。たいていの子供は、あんな境遇の変化に逢ったら、意地も元気もなくなっちまうはずなのに、あの子はまるで、まだ宮様《プリンセス》かなんぞのように、しゃんとしているん|った《だ》もの。」 「姉様《姉さま》、憶えていらしって? あの、いつかセエ《ー》ラが教室でこういった時のことを。先生はどうなさるでしょう、もし私が──」 「そんなこと憶えちゃア《あ》いないよ。つまらないことはいうものじゃない。」  争われないもので、ベッキイ《ー》も近頃はむくむく肥り出し、何か落ちつきが出て来ました。肥るまいと思っても肥り出し、怯えようとしても怯えられなくなったのだから仕方ありません。彼女もやはり、誰も知らないあのお伽噺のおかげを蒙っていたからでした。今は彼女も、敷蒲団《敷布団》は二枚あるし、枕も二つ持っています。毎晩温かな御飯を食べ、火の燃えている炉のそばに坐ることが出来るのでした。バスティユの牢獄はいつか消え去り、囚人は影も見えなくなりました。その代《代わ》りに二人の幸せな子供が、よろこびにひたっているばかりでした。時とすると、セエ《ー》ラは書物を取り上げ、声を出して読《’読》んだ《だ’》りしました。時とするとまた、じっと炉の火を見詰め、あのお友達は誰だろう、どうかして自分の胸に感じていることを、その人に伝える術《スベ》はないものだろうか、などと思いに耽りました。  すると、また素敵な事件が起きて来ました。ある日一人の男が玄関に来て、いくつかの小包《小包み》を置いて行きました。その宛名は、『右手屋根裏部屋の少女へ』とだけ大きく書いてあるのでした。  小包《小包み》を取りにやられたのは、ほかならぬセエ《ー》ラでした。彼女が一番大きい包みを二つ、客間のテエ《ー》ブルの上に置いて、宛名を眺めていますと、そこへミンチン先生が入って来ました。 「宛名のお嬢さんのところへさっさと持っておいで。そんな所に立ってじろじろ見てるんじゃア《あ》ないよ。」 「でも、これは私のです。」と、セエ《ー》ラは静かにいいました。 「お前のだって? 何をいってるんだよ。」 「どこから来たのだか存じませんけど、宛名は私なんでございます。私の眠るのは右手の屋根裏です。ベッキイ《ー》は左ですから。」  ミンチン女史は、セエ《ー》ラのそばへ《へ’》やって来て、昂奮した顔つきで小包《小包み》を眺めました。 「何が入ってるんだい?」 「存じません。」 「開けてごらん。」  セエ《ー》ラはいわれた通りにしました。中から出て来たのは、着心地のよさそうな美しい衣裳でした。靴、靴下、手套《手袋》、美しい上衣、それから見事な帽子、雨傘──すべて、上等な高価な品ばかりでした。その上、上衣のポケットには、こんなことを書いた紙片《カミギレ》が、ピンで留《-と》めてありました。 「平常《普段》にお着なさい。換える必要があったら、いつでも換えて上げます。」  それを見ると、ミンチン女史は卑しい心の中に、何か不思議なことがあるなとさとりました。あるいは自分は思い|ちが《違》いをしていたのかもしれない。この孤児《ミナシゴ》の背後には、誰か変《変わ》りものの、しかし勢力のある友人があったのかもしれない。あるいは誰か今まで知られていなかった親戚があって、ふとセエ《ー》ラの居所《居どころ》をつきとめた上、こんな妙な方法で彼女の世話をしはじめたのかもしれない。親戚にはよく変人があるものです。殊に|年と《年取》った、金持《金持ち》で独身《独り身》の伯父などというものは、子供をそばに置くことを|いや《嫌》がって、遠くの方から、その子の様子を見守っていたりするものです。またそんな伯父はきまって癇癪持《癇癪持ち》で、怒《おこ》りっぽいものです。だから、もしそんな人がいて、セエ《ー》ラのひどい様子を見たら、いい気持《気持ち》のするはずはありません。ミンチン女史は、妙に不安な気持《気持ち》になりました。で、彼女はセエ《ー》ラを横目でちらと見て、セエ《ー》ラの父が亡くなって以来使《以来’使》ったことのない、やさしい声でいいました。 「きっとどなたか御親切《ご親切》な方があるのですよ。こんなものをいただいたのだから、それに痛めば新しいのと換えて下さるというのだから、それに着かえて、きちんとしているようになさい。着かえたら教室に来て、自分の勉強をなさい。今日はもうどこへも使《使い》に行かないでいいから。」  着がえをすまして、セエ《ー》ラが教室に入って行くと、生徒達《生徒たち》は驚きのあまり声《’声》も出ませんでした。 「まア《あ》驚いた。」とジェッシイ《ー》はラヴィニアの肱をつっつきながら、頓狂な声でいいました。「すっかりプリンセス・セエ《ー》ラになり戻っちゃったじゃア《あ》ないの。」  ラヴィニアは真紅《真っ赤》になりました。  ジェッシイ《ー》のいった通《とお》り、今入《今’入》ってきたセエ《ー》ラは、プリンセス・セエ《ー》ラでした。少くとも、セエ《ー》ラはプリンセス時代以来、今日のように身綺麗《身ぎれい》にしていたことはありませんでした。彼女は二三時間前までのセエ《ー》ラとは似ても似つかぬ服装《ナリ》をしていました。 「きっと誰かが、あの子に財産を残したのね。」と、ジェッシイ《ー》は囁きました。「私、いつでもあの子には何かしら起《起こ》ると思ってたわ。」 「きっと、ダイヤモンド鉱山でも、また出て来たんでしょうよ。」とラヴィニアは、とげとげしくいいました。「そんな眼で見ると、あの子がいい気になるからおよしなさいよ。莫迦ね。」  ふいに、ミンチン先生が太い声でいいました。 「セエ《ー》ラさん、ここへ来てお坐んなさい。」  で、セエ《ー》ラは昔坐っていた名誉の席につき、俯向いて本を読み始めました。  セエ《ー》ラはその夜、部屋に帰って、ベッキイ《ー》と夕飯をすますと、永いこと炉の火を見詰めて黙っていました。 「お嬢さん、何かお話を作ってらっしゃるの?」 「いいえ、私、どうすればいいのだろうと考えているの。私あの方のことを考えずには《は-》いられないのよ。でも、あの方は何《なん》にも知られたくないのかもしれないでしょう。そんなら、あの方がどんな方だか探り出したりしちゃア《あ》、失礼になるでしょう。でも私、どんなにあの方をありがたく思ってるか──どんなに幸福《幸せ》にしていただけたか、ということを、あの方に申し上げたくてならないの。親切な人ってものは、お礼はい《言》われたくなくても、幸福《幸せ》になったかどうかは、知りたいものよ。私、私、ほんとに──」  いいかけてセエ《ー》ラは、ふとテエ《ー》ブルの上の文房具箱に眼をとめました。紙や、封筒や、インクや、ペンの入ったその箱は、一昨日ここに運びこまれていたものでした。 「まア《あ》私、どうして、今まであれに気がつかなかったんでしょう。私お《/お》手紙を書いて、あのテエ《ー》ブルの上にの《載》せておくわ。そうすれば、きっと片付けに来る方が、手紙も一緒に持ってって下さるわ。」  そこで、セエ《ー》ラは次のような手紙を書きました。 ◇。◇。◇。  あなたは、御自分《ご自分》を秘密に遊ばしたい御所存《ご所存》でいらっしゃいますのに、こんな手紙をさし上げる失礼をお赦し下さい。私は決して失礼なことをしたり、何か捜り出そうとしたりなどするつもりはないのでございます。ただ、これほどまでに御親切《ご親切》にして下さったこと、何もかもお伽噺のようにして下さったことに対して、一言お礼を申し上げたいのでございます。あなたの御恩は決して忘れません。私も、ベッキイ《ー》も、それはそれは幸福《幸せ》です。私共は、|ほんとう《本当》にいつも寂しく、寒く、空腹がちでしたのに、今は──あなたはまア《あ》、私共のために大変なことをして下さいましたのね。お礼だけは言ってもよろしいでございましょう。いわねば済まぬような気が致します。ありがとう! |ほんとう《本当》にありがとうございます。 ◇。◇。◇。 【屋根裏部屋の少女】 ◇。◇。◇。  セエ《ー》ラは翌朝この手紙をテエ《ー》ブルの上にの《載》せておきました。夕方帰ってみると、手紙は他のものと一緒に持ち去られたようでした。セエ《ー》ラは、手紙が首尾よく魔法使《魔法使い》に届いたのだと思うと、一層幸福《一層’幸福》になりました。その晩、セエ《ー》ラがベッキイ《ー》に新しい本を読んで聞かせていますと、天窓《引窓》のところにふと何か音がしました。 「何かいるのよ、お嬢さん。」 「そうね、何だか、猫が入りたがってい《い-》るような音ね。ひょっとすると、またあのお猿が脱け出して来たのかもしれないわ。」  セエ《ー》ラは椅子の上に立って、気を配りながら天窓《引窓》をあけ、外を覗きました。雪の日で、白く積った窓の外に、震えながら蹲《踞》っているものがありました。 「やっぱり猿よ。きっと東印度水夫《ラスカー》の屋根裏から這出して、この灯《明かり》にひかれてここへ来たのよ。」  ベッキイ《ー》は走り寄っていいました。 「お嬢さん、入《い》れてやるつもり?」 「ええ、お猿を外に出しといちゃア《あ》、寒すぎて可哀そうよ。猿は寒さに弱いのよ。私、だまして入れてやろう。」  セエ《ー》ラは、いつも雀やメルチセデクに話しかける時のように、片手をさしのべながら、あやすように話しかけました。そうしているとセエ《ー》ラは、セエ《ー》ラ自身まるで何か小さな人なつっこい獣で、内気で野蛮な獣の気持《気持ち》をよくのみこんでいるようでした。 「お猿さん、入らっしゃいな。私、苛めや《や-》しないことよ。」  そんなことは猿も知っていました。で、セエ《ー》ラがそっと手を取り、天窓《引窓》の上にさし上げた時も、されるままになっていました。セエ《ー》ラが抱きしめると、猿もセエ《ー》ラの胸にしがみつき、髪の毛を親しげに握って、セエ《ー》ラの顔を覗きこみました。 「いいお猿だこと。私、小さな生物《生き物》が大好きよ。」  猿は火にありついてうれしそうでした。セエ《ー》ラが坐って、膝の上にのせてやりますと、猿は物珍らしげに、彼女とベッキイ《ー》とを見比べました。 「この子は不器量ね、お嬢さん。」 「ほんとに、不器量《ブ器量》な赤ん坊のような顔をしているわ。お猿さん、御免なさい。でも、お前、赤ちゃんでなくてよかったわ。お前のお母さんは、まさかお前を自慢するわけにもいかないでしょう。御親戚《ご親戚》のどなたに似てらっしゃるなどとう《/う》っかりお世辞をいうわけにもいかないしね。でも私、ほんとにお前が好きよ。」  セエ《ー》ラは椅子にもたれて、思い返しました。 「この子だって、きっと器量が悪いので悲観しているのよ。その事がしょっちゅう心にあるんだわ。でも、猿に心なんてあるかしら? 可愛いお猿さん、あなたには心がおありでございますか?」  が、猿はただ小さい手をあげて、頭を掻いただけでした。 「お嬢さん、この猿、どうするの?」 「今夜は、私の所にお泊《泊まり》よ。明日になったら、印度《インド》の小父さんの所へ伴《連》れて行くつもり。私はお前を返すのが惜しいのだけどね、でも、お前は帰らなき《き-》ゃア《あ》いけないのよ。お前は家中《ウチジュウ》で一番可愛がられるようにならなき《き-》ゃア《あ》いけませんよ。」  セエ《ー》ラは眠る時《とき》、自分の足許に猿の巣をつくってやりました。すると、猿はその巣が気に行ったらしく、赤ん坊のようにその中に埋《-うずま》って眠りこみました。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十七章】 【「この子だ」】 ◇。◇。◇。◇。◇。  翌日《明くる日》の午後には、大屋敷の子が三人印度《三人/インド》紳士の書斎に坐って、病人の気をひきたてようとしていました。子供達《子供たち》は、特に病人から来てくれといわれたので、来て病人を慰めているのでした。印度紳士は、ここしばらくの間《あいだ》、生きた心地《-ここち》もないほどでしたが、今日こそは、ある事を熱心に待ち受けておりました。そのある事というのは、カア《ー》マイクル氏がモスコウから帰って来ることでした。氏の帰朝は、予定より何週間《ナン週間》も遅れたのでした。初めモスコウに着いた時には、索める家族がどこにいるものか、少しも判《分か》りませんでした。やっと尋ね当てて行ってみますと、あいにく旅行中で不在でした。旅先に追いかけて行こうとしても無駄だったので、氏はその人達《人たち》の帰るまでモスコウで待つことにしたのでした。  カリスフォド氏は安楽椅子に寄りかかり、ジャネットはその下に坐っていました。ノラは足台を見付《見つ》けて坐り、ドウナルド(ギイ《ー》・クラア《ー》レンスのこと)は皮の敷物の飾りについている虎《/虎》の頭に跨っていました。少年はかなり乱暴に頭をゆすっていました。 「ドウナルド、そんなに噪ぐんじ《じ-》ゃア《あ》ありませんよ。」と、ジャネットはいいました。「御病人《ご病人》に元気をつけてあげようっていう時には、そんな金切声《金切ゴエ》を出すものじ《じ-》ゃア《あ》ありませんよ。カリスフォド小父さん、喧《やかま》しすぎや《や-》しなくて。」  病人は、彼女の肩を軽く叩いて、 「いや、そんなことはない。噪いでくれた方《ほう》が、考えごとを忘れていいのだよ。」 「僕は、これから静かにするよ。」と、ドウナルドはいいました。「みんなで、二十日鼠《ハツカネズミ》のようにおとなしくしようじゃア《あ》ないか。」 「二十日鼠《ハツカネズミ》が、そんな大きな音をさせるものですか。」  ドウナルドは手巾《ハンカチ》で鐙を造り、虎の頭の上で跳ね躍りました。 「鼠がありったけ出て来たら、このぐらいの音はさせるよ。千匹ぐらいいりゃア《あ》、するよ。」 「五万匹集《五万匹集ま》ったって、そんな音《音’》しやしないわ。一匹の鼠ぐらい、おとなしくしなきゃア《あ》駄目よ。」  カリスフォド氏は笑って、また彼女の肩を叩きました。 「お父様《父さま》は、もうじきお着きになるのね。あの行方不明の娘さんの話をしてもよろしくって?」 「私は今、その話よりほか、とても出来そうにない。」  印度紳士は、疲れた顔の額に皺をよせました。 「私達《私たち》は、その子がそれは好きなのよ。みんなでその子のことを、『妖女《フェアリー》ではないプリンセス』って呼んでるの。」 「なぜ、そう呼ぶの?」 「こういうわけなの。あの子は、|ほんとう《本当》は妖女《フェアリー》じゃア《あ》ないけど、見付《見つ》かった時には、まるでお伽噺の中のプリンセスみたいに、お金持《金持ち》になるのでしょう。初めは『妖女《フェアリー》の国のプリンセス』といってたんですけど、そいじ《じ-》ゃア《あ-》しっくりいかないから、『妖女《フェアリー》じゃア《あ》ないプリンセス』にしたの。」  すると、ノラはいいました。 「あの、あの子のお父様《父さま》がダイヤモンド鉱山のために、お金をすっかりお友達にあげてしまったって話は、ほんとなの? そして、そのお友達は、そのお金をすっかり失くしたと思ったので、自分は泥棒のようなものだと思って、逃げ出したのですって?」  ジャネットは急いで、 「でも、その方は、泥棒でも何でもなかったのよ。」といいました。  印度紳士は、つとジャネットの手を取りました。 「まったく、そうじ《じ-》ゃア《あ》なかったのだよ。」 「私、その方がお気の毒でならないの。」と、ジャネットはいいました。「その方は、お金を失くすつもりなんかなかったのよ。そんなことになって、どんなに胸を痛めたでしょう。きっと、お苦しみになったでしょうね。」  すると、印度紳士はジャネットの手を、ひしと握りしめて、いいました。 「あなたは、何でもわかる若い御婦人《ご婦人》だね。」 「姉さん、カリスフォド小父さんに、あの話をした?」と、ドウナルドが大きな声を立てました。「あの『乞食じゃア《あ》ない小さな女の子』の話をさ。あの子がいい着物を着てるって、話した? きっとあの子も、今まで行方不明だったのを、誰かに見付《見つ》け出されたのだよ。」 「あら、馬車が来た。」と、ジャネットが叫びました。「宅《ウチ》の前で止ったわ。お父様《父さま》のお帰りだわ。」  皆《みんな》は窓の所へ飛んで行きました。 「ああ、お父さんだよ。」と、ドウナルドが告げました。「でも、小っちゃな女の子はいないよ。」  三人はじっとしていられなくなったので、先を争って玄関へ飛び出しました。お父様《父さま》がお帰りになると、いつも子供達《子供たち》はそうして迎え入れるのでした。三人が飛び上《上が》ったり、手を拍ったり、抱き上げられて接吻《キス》されたりしている気配が、部屋の中にいても、はっきり感じられました。  カリスフォド氏は立ち上《上が》りかけて、またどかりと椅子の中に身を落しました。 「駄目だ、俺は何というやくざな人間だろう。」  カア《ー》マイクル氏の声が、戸口に近づいて来ました。 「今は、駄目だよ。カリスフォドさんとお話をすましてからにしてくれ。その間《あいだ》、ラム・ダスと遊んでたらいいだろう。」  戸が開いて、カア《ー》マイクル氏が入って来ました。氏は前よりも血色がよく、活々《生き生き》した顔をしていましたが、眼には失望の色を湛えていました。病人の待ちかねた眼付《眼付き》を見ると、氏はよけい気づかわしげになりました。 「どうだった?」と、カリスフォド氏が訊ねました。「ロシヤ人がひきとったというその子は、どうだった?」 「その子は、我々の探している娘じ《じ-》ゃア《あ》なかったのです。クルウ《ー》大尉の娘よりは、ずっと年下でしてね。名前はエミリイ《ー》・クルウ《ー》なのです。私はその子と会って話して来ました。ロシヤ人の家族は、委細を聞かしてくれましたよ。」  印度《インド》の紳士の失望といったらありませんでした。紳士は今まで握っていたカア《ー》マイクル氏の手を離して、だらりと自分の手を落しました。 「それじゃア《あ》、また捜索をやりかえさなければならないんだな。じゃア《あ》、やりなおすまでのことだ。まア《あ》、そこに掛けたまえ。」  カア《ー》マイクル氏は腰を下《下ろ》しました。彼は自分が健康で幸福《幸せ》なせいか、この不幸な病人が、気の毒で、だんだん好きになって来るのでした。この家の中に一人でも子供がいたら、少しは寂しさも|まぎ《紛》れるだろうに。こうして一人の男が、一人の子供を不幸にしているという思いのため、絶え間なく悶えているとは──《─:》大屋敷の主人は、病人に元気をつけるようにいいました。 「大丈夫、まだ見つけられますよ。」 「すぐまた捜索を始めにゃア《あ》ならん。ぐずぐずしちゃア《あ》いられない。」カリスフォド氏は|いらいら《イライラ》して来ました。「君《キミ》、何か新しい心当《心当た》りはないだろうか?──何かちょっとした心当《心当た》りでも。」  カア《ー》マイクル氏も落ちつかない風《ふう》に立ち上《上が》り、考えながら部屋の中を歩き廻《回》りました。 「何かありそうでもありますな。どれだけの根拠があるかは、私にも判《分か》りませんが、というのはドオ《ー》ヴァからここまでの汽車の中で、いろいろ考えているうち、ふと思いついたんですが。」 「どんなことです? あの娘《ムスメ》が生きてるとすると、どこかにいるわけだ。」 「その通り、どこかにいるはずなのですよ。パリイ《ー》の学校《スクール》という学校《スクール》は、もう捜索の余地がありません。だから、今度はパリイ《ー》を切り上げて、ロンドンに移るんですな。つまり、ロンドンに捜索の手を移すというのが、私の思いつきです。」 「ロンドンにも無数の学校がある。」カリスフォド氏はそういってから、ふと何かを思い出して、かすかに身を起《起こ》しました。「そら、隣にだって一つあるじ《じ-》ゃア《あ》ないか。」 「じゃア《あ》、隣から始めることにしたらいかがです。近い所から始めるとすると、隣より近いところはない|わけ《訳》ですからな。」 「その通りだ。それに隣には一人私の眼をつけている娘がある。だが、その子は生徒じ《じ-》ゃア《あ》ないんだ。ちょっと色の黒い孤児《ミナシゴ》で、とても、クルウ《ー》大尉の子供とは思われないけれど。」  ちょうどその時、あの魔法が──あの手際のいい魔法が、また働き出したのでしょう。ちょうど印度《インド》の紳士がそういった時、ふとラム・ダスが入って来て、主人に額手礼《サラーム》をしました。黒い眼には隠しきれない昂奮の色を湛えていました。 「旦那様《旦那さま》、あの子が自分でやってまいりました、あの旦那様《旦那さま》が、可哀そうだと|仰しゃ《仰》った娘が。屋根づたいにあの娘の部屋に来たといって、猿を伴《連》れてまいりました。ちょっと待っているように申しておきましたが、会ってお話になったら、少しはお|まぎ《紛》れになりはしませんでしょうか。」 「あの子とは?」と、大屋敷の父が訊ねました。 「それあ《/あ》の子さ、今噂《いま噂》をしていた娘のことさ。学校の小使《小使い》をしているんだ。」印度《インド》の紳士はそういうと、今度はラム・ダスの方《ほう》に手を振っていいました。「よろしい、その子に会ってみたいから、伴《連》れて来なさい。」そしてまた、カア《ー》マイクル氏の方《ほう》にいいました。「実は君の留守中、寂しくてたまらないところへ、ラム・ダスが来て、不幸なあの子の話をしてくれたのさ。で、ラム・ダスと共力《協力》して、あの子を助ける工夫をしたのだよ。子供だましのようなことだけれど、そんなことでもないと、私はつまらなかったのだ。だが、ラム・ダスのあの軽い足がなかったら、あんな噺のような計画は実現出来なかったろうよ。」  そこへ、セエ《ー》ラが入って来ました。猿は、出来ればいつまでもセエ《ー》ラのそばを離れたくなさそうな顔をしていました。 「また、あなたのお猿が逃げて来ましたのよ。」とセエ《ー》ラは頬《ホオ》を紅《赤》らめ、さわやかな声でいいました。「昨晩《夕べ》、私の部屋の窓の所に来ましたので、寒いといけないと思って、入《い》れてあげましたの。宵の口だと、すぐお返しに上《上が》るのでしたけど、あまり遅いのでやめました。あなたは御病気《ご病気》ですから、せっかくお休みになってるところを、お起《起こ》しでもすることになると悪いと、思いまして。」  印度紳士のうつろな眼は、セエ《ー》ラの方《ほう》に惹かれて行きました。 「それはどうも。よく気が付いて下すったねえ。」  セエ《ー》ラは、戸口の近くに立っているラム・ダスの方《ほう》を向きました。 「お猿は、あのラスカア《ー》の方にお渡ししましょうか。」 「あの男がラスカア《ー》だということを、どうして御存じかね?」  紳士はほほえみかけました。  セエ《ー》ラは、|いや《嫌》がる猿をラム・ダスに渡しながら、 「そりゃア《あ》知っておりますわ。私、印度《インド》で生《生ま》れたのですもの。」  印度紳士は顔色を変えて、立ち上《上が》りました。セエ《ー》ラはちょっと吃驚しました。 「あなたは、印度《インド》で生《生ま》れたと? それは、ほんとですか? ちょっとこっちへ来て御覧。」  手をさし出されたので、セエ《ー》ラは紳士の方《ほう》に行き、紳士の手の上に、自分の手を置きました。彼女はじっと立って、緑鼠色《アオネズミイロ》の眼で不思議そうに紳士の眼を見ました。この人は、どうかしたにちがいない。── 「あなたは、隣に住んでおられるのだね。」 「はい、ミンチン女塾におりますの。」 「でも、生徒ではないのだね?」  セエ《ー》ラは、口許に妙な微笑《’微笑》を漂わせました。彼女は、ちょっとためらってからいいました。 「私、自分が何《-なん》なのだか、よく判《分か》りませんの。」 「それは、またどうして?」 「はじめは生徒で、特別の寄宿生でしたけれど、今はもう──」 「生徒だった? そして、今は何《なん》なのかね?」  セエ《ー》ラは、また妙に悲しげな微笑を口許に湛《漂》わせました。 「今は私、屋根裏部屋で、小使娘の隣に寝ております。そして、料理番の使《使い》に出されたり──料理番のいうことは何でも聞かなくちゃア《あ》ならないのです。それから、小さい人達《人たち》の勉強も受けもっています。」  カリスフォド氏は、力を失ったように椅子の中に身を落しました。 「カア《ー》マイクル君、君《キミ/》この子に訊いてくれたまえ。私は、もう駄目だ。」  大屋敷の父親は、小さな娘と話すのが上手でした。彼は美しい声で、はげますようにセエ《ー》ラに話しかけました。 「ね、嬢や、その『はじめ』っていうのは、いったいどういう意味なの?」 「お父様《父さま》が、あそこへ私を伴《連》れていらしった時のことですわ。」 「そして、そのお父様《父さま》はどこにおられるの?」 「亡くなりましたの。」セエ《ー》ラは静かに静かにいいました。「お父様《父さま》は、何もかも失くしてしまったので、私のいただくものは、もう何《-なん》にもなかったのです。それに、私の世話をしてくれるものは一人もないし、ミンチン先生にお金を払って下さる方もないので──」 「カア《ー》マイクル君!」印度紳士は声高《コワダカ》に呼びかけました。「カア《ー》マイクル君!」  カア《ー》マイクル氏は、小声で紳士に、 「この子を怯えさせちゃア《あ》いけませんよ。」と耳打ちしました。それから、声を改めてセエ《ー》ラにいいました。 「じゃア《あ》、そんなわけで屋根裏にやられ、小使《小使い》にされてしまったのだね。そういうわけだったのだね。」 「誰も、面倒をみて下さる方がなかったものですから。お金はちっともありませんでしたし、私は、もう誰のものでもなかったのです。」 「お父さんは、どうしてお金を失くしたのだね?」  印度紳士は、息をのみながら口《クチ》をはさみました。 「御自分《ご自分》で失くしたわけじ《じ-》ゃア《あ》ないんですの。仲のいいお友達があって──お父様《父さま》は、その方がそれはお好きでしたのよ。お金を取ったのは、その方なの。お父様《父さま》は、その方を信じすぎたものですから。」  印度紳士の息づかいは一層忙《一層’忙》しくなりました。 「でも、その友人には、何も悪気があったわけじ《じ-》ゃア《あ》ないのかもしれんよ。何かの手違いからそんなことになったのかもしれんよ。」  セエ《ー》ラはそれに答えた時、自分の声がどうしてこんなに激《ゲキ》しているのか、不思議なくらいでした。激《ゲキ》して響くと知っていたら、病気の紳士のためにも、どうかして押し静めようとしたにちがいありません。 「どのみち、お父様《父さま》にとって、苦しみは同じことでしたわ。お父様《父さま》は、その苦しみのためにお亡くなりになったのですもの。」 「お父さんの名は何《/なん》ていうのだい? え?」と《:と》、印度紳士は訊ねました。 「ラルフ・クルウ《ー》って名ですの。クルウ《ー》大尉ともいわれていました。亡くなったのは印度《インド》ですの。」  病人のやつれた顔が痙攣しました。ラム・ダスは急いで主人のそばへ飛び寄りました。 「カア《ー》マイクル君、これがあの子だ。この子にちがいない。」  セエ《ー》ラは、紳士が死ぬのではないかと思ったほどでした。ラム・ダスは主人の口に薬を注ぎました。セエ《ー》ラは、そのそばにふるえながら立っていました。彼女はたまげたようにカア《ー》マイクル氏を見上げました。 「私が、何《なん》の子だと|仰しゃ《仰》るの?」 「この方は、あなたのお父様《父さま》のお友達なのですよ。びっくりしちゃア《あ》いけません。我々は二年の間《あいだ》、あなたを探し廻《回》っていたのですよ。」  セエ《ー》ラは手を額にあてました。唇はわなわな顫《震》えていました。セエ《ー》ラはまるで夢の中にいるように思わず囁きました。 「それなのに、私はその二年の間《あいだ》、壁のすぐ向《向こ》う側の、ミンチン女塾にいたのだわ。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十八章】 【「つもりはなかった」】 ◇。◇。◇。◇。◇。  委しい話をセエ《ー》ラにしてくれたのは、美しい、感じのいいカア《ー》マイクルの奥様《奥さま》でした。カア《ー》マイクル夫人は招ばれるとすぐ、街を横切って印度紳士の家に来、セエ《ー》ラをその暖かい腕に抱きとって、これまでのいきさつを細かに話してくれたのでした。カリスフォド氏は、この思いがけない出来事に昂奮して、病気のからだに障るほどでした。 「私は誓って、あの子を手放したくない。」  身体に障るといけないから、セエ《ー》ラを別室につれて行こうという話が出た時、カリスフォド氏は力なげに、カア《ー》マイクル氏にそういいました。 「この方のお世話は、私がしてあげてよ。」と、ジャネットはいいました。「もうじき、お母様《母さま》も入らっしゃるでしょう。」  ジャネットは、セエ《ー》ラを書斎から伴《連》れ出すと、こういいました。 「あなたが見付《見つ》かって、私達《私たち》はうれしくてたまらないのよ。どんなにうれしがってるか、あなたにはとてもおわかりにならないくらいよ。」  ドナ《ウナ》ルドは両手をポケットに入れて立っていました。彼は省みて自分を責めているようでした。 「僕が《が-》お金を上げた時、ちょっとあなたの名前を訊きさえしたらよかったのにね。あなたはきっとセエ《ー》ラ・クルウ《ー》だと答えたでしょう。そうすれば、あなたを探す世話もなかったのに。」  そこへ、カア《ー》マイクル夫人が入って来たのでした。夫人はひどく感動しているようでした。彼女は、ふいにセエ《ー》ラを抱きしめて接吻《キス》しました。 「嬢やは、すっかりたまげているのね。でも、驚くのに不思議はありませんわね。」  セエ《ー》ラは、何《なん》といわれても、次の一事よりほか考えられませんでした。彼女は閉《閉ま》った書斎の扉の方《ほう》をちらと見ていいました。 「あの方ね、あの方が、お父様《父さま》のその、悪いお友達だったの? |ほんとう《本当》にそうなの?」  カア《ー》マイクル夫人は泣きながら、またセエ《ー》ラに接吻《キス》しました。この子は永いこと接吻《キス》などされたことはなかったのだから、何度も何度も接吻《キス》してやらなければならない、と夫人は思いました。 「あの方は、決して悪い方じ《じ-》ゃア《あ》なかったのですよ。あの方は、あなたのお父様《父さま》のお金を、失くしてしまったわけではないのですよ。ただお失くしになったと思っただけなのですよ。それに、あの方はお父様《父さま》を愛していらしったからこそ、悲しみのあまり御病気《ご病気》になって、一時は気さえ確かではなかったほどなのですよ。あの方も、熱病で死にそうだったのよ。けれど、あなたのお父様《父さま》はあの方の御病気《ご病気》がまだ悪いさなかに、亡くなっておしまいになったのですよ。」 「そうして、あの方は、どこに私がいるかは御存じなかったのね。私はこんな近くにいたのに。」  セエ《ー》ラの頭にはなぜか、こんな近くにいたのにということが、こびりついていました。 「あの方は、あなたがパリイ《ー》の学校にいらっしゃるとばかり思っていらしったのですよ。」カア《ー》マイクル夫人は、いって聞かせました。「それに、いつもいつも間違った手掛りに迷わされていらしったんですの。でも、あの方は到る所、あなたを探し廻《回》ってらしったんですよ。あなたが、いたましい様子で通りかかるのを見ていながらも、それが気の毒な友人のお子だとはお気づきにならなかったのね。でも、あの方は、あなたもやはり小さい女の子だもので、気の毒でたまらなくって、どうかしてあなたを幸福《幸せ》にしてあげようとお思いになったのね。で、あの方はラム・ダスにいいつけて、あなたのお部屋の天窓《引窓》から、いろいろのものを持ちこんだわけなのですよ。」  セエ《ー》ラは、うれしさのあまり飛び立つばかりでした。彼女の顔色はみるみる変《変わ》って来ました。 「じゃア《あ》、あれは皆《みんな》ラム・ダスさんが持って来て下すったんですの? あの方がラム・ダスさんにおいいつけになったんですって? 私の夢を現《うつつ》にして下すったのは、それじゃア《あ》、あの方だったのだわね。」 「そうですとも。あの方は、親切ないい方なのですよ。あの方は、行方のしれないセエ《ー》ラ・クルウ《ー》のことを想えばこそ、あなたのこともお気の毒になったのですよ。」  書斎の扉が開いて、カア《ー》マイクル氏が姿を見せ、セエ《ー》ラに来いというような様子をしました。 「カリスフォドさんは、すっかり気持《気持ち》がよくおなりです。だから、あなたに来ていただきたいと|仰しゃ《仰》ってです。」  セエ《ー》ラは、カア《ー》マイクル氏の言葉が終《終わ》るのを待たず、書斎に入って行きました。入って行った時のセエ《ー》ラの顔は、さっきとはまるで変《変わ》っていました。  セエ《ー》ラは、紳士の椅子の傍《傍ら》に立ち、両手を腕に組み合せて、うれしそうにいいました。 「あなたがあの、美しいものをたくさん下すったのですってね。」 「そうだよ、可愛い嬢や、私が送ってあげたのだよ。」  紳士は永い間《あいだ》の病気や心配のため、心も体も弱りは《果》てていました。が、彼は、セエ《ー》ラを抱きしめてもやりたいというようなやさしい眼で、セエ《ー》ラを見ました。セエ《ー》ラは父からこれに似た|まなざ《眼差》しをよく受けたものでした。で、セエ《ー》ラはその|まなざ《眼差》しを見ると、すぐ紳士の傍《ソバ》に跪きました。昔父とセエ《ー》ラが無二の親友であり、愛人同士だった頃、父の傍《ソバ》に跪いたように。 「じゃア《あ》、私のお友達はあなたでしたのね。あなたが私のお友達だったのですわねエ。」  そういうとセエ《ー》ラは、紳士の痩せ細った手の上に顔を押しあてて、幾度も幾度も接吻《キス》しました。  それを見ると、カア《ー》マイクル氏は細君に囁きました。 「あの人も、もう三週間とたたぬ中《ウチ》に、きっと元の身体になるだろうよ。ほら、あの様子を御覧。」  カア《ー》マイクル氏のいった通《とお》り、紳士の様子はすっかり変《変わ》ってしまいました。『小さな奥様《奥さま》』が見付《見つ》かったからには、また何か新しい計画を考えなければなりません。まず第一に、ミンチン先生の問題がありました。一応先生にも面会の上、生徒の一身上に起きた変化を、報告しなければならないでしょう。そして、セエ《ー》ラはもう学校には戻らないことになりました。印度紳士はその点だけは、何《なん》といっても聞きませんでした。セエ《ー》ラは紳士の家に止《トドマ》らなければならぬ、ミンチン先生のところへは、カア《ー》マイクル氏が行って、話して来るというのでした。 「帰らなくてもいいんですって? まア《あ》うれしい。」とセエ《ー》ラはいいました。「先生は、きっとお怒《おこ》りになってよ。あの方は、私がお嫌いなのよ。でも、それは私が悪いからかもしれませんわ。なぜって、私の方《ほう》でも先生が嫌いなのですもの。」  だが、そこへちょうどミンチン先生自身が、セエ《ー》ラを探しにやって来ましたので、カア《ー》マイクル氏はわざわざ出掛けて行かないでもすみました。 ◇。◇。◇。◇。◇。  その晩、学校では皆《みんな》いつものように、教室の煖炉の前に集《集ま》っていました。そこへ、アア《ー》ミンガア《ー》ドが一通の手紙を持って、丸い顔に、妙な表情を浮べながら入って来ました。 「どうしたの?」と、二三人一時《二三人’一時》に叫びました。 「私、たった今、セエ《ー》ラさんから、この御手紙《お手紙》いただいたの。」 「セエ《ー》ラからですって?」「《:「》セエ《ー》ラはどこにいるの?」 「おとなりよ。印度《インド》の小父さんの所にいるのよ。」 「え? あの子は逐《追》い出されたの?」「《:「》ミンチン先生は、そのことを知っているの?」「《:「》どうして、手紙なんかくれたの?」「《:「》よう、話してったら。」  余りの騒ぎにロッティなどは泣き出しました。アア《ー》ミンガア《ー》ドはのろのろ説明し始めました。 「ダイヤモンドの鉱山はやっぱりあったのよ。やっぱりあったんですって。」  開いた口と、見張った眼とが、彼女の方《ほう》に向けられました。 「あの話は真実《本当》だったのよ。何か起《起こ》って、ちょっとの間《あいだ》カリスフォドさんももう駄目だと──」 「カリスフォドさんて?」とジェッシイ《ー》は叫びました。 「印度《インド》の紳士よ。それからクルウ《ー》大尉も、やっぱりそう思って──死んでしまったのよ。それから、カリスフォドさんも熱病で死にかけたんですって。そして、あの人にはセエ《ー》ラがどこにいるか判《分か》らなかったんですって。それから、お山には何百万も何百万ものダイヤモンドがあると判《分か》ったの。その半分はセエ《ー》ラさんのものなの。それなのにセエ《ー》ラさんは、メルチセデクだけをお友達にして、屋根裏に住んでいたのね。今日カリスフォドさんがセエ《ー》ラを見付《見つ》けて伴《連》れてってしまったの。もう決して帰って来ないのよ。先よりも、もっと立派なプリンセスになるのよ。十五万倍も立派になるのよ。──明日のお午《昼》から、私セエ《ー》ラさんに会いに行くのよ。」  あとは、ミンチン女史も静めかねるような騒ぎでした。少女達《少女たち》は規則なぞ忘れて、夜半《夜中》まで教室にとどまり、アア《ー》ミンガア《ー》ドをかこんで、セエ《ー》ラの手紙を読み返しておりました。手紙の話は、セエ《ー》ラの|つく《作》り話などとは比べものにならないほど、奇想天外でした。それに、その話はセエ《ー》ラその人と、隣家のあの印度紳士との間に起《起こ》った話なので、ひどく魅惑《チャーム》があるのでした。  この話を耳にしたベッキイ《ー》は、いつもより早めに屋根裏に上って行きました。彼女は皆《みんな》から離れて、もう一度、あの小さな魔法の部屋が見たかったのでした。「あの部屋はどうなるのだろう。」ミンチン先生の手に渡るようなことはなさそうに思えました。「何もかも取り払われて、屋根裏はもとの通り空虚《/空っぽ》な殺風景なものになってしまうのだろう。」ベッキイ《ー》は、セエ《ー》ラのためにはこんなことになってうれしいとは思いましたが、後《あと》のことを思うと、上って行くうちに自然喉《自然’喉》がつまり、眼が曇って来ました。「もう今頃は火の気もないだろう。薔薇色のラムプもないだろう。夕餉もないだろう。火のほてりを受けながらお話をしてくれたり、本をよんでくれたりするプリンセスもいないのだろう。あのプリンセスも!」  ベッキイ《ー》はしゃくり上げて来る欷歔《すすり泣き》を、ごくりとのみこみながら戸を押しあけました。と、思わず彼女は声を立てました。  ラムプは室内に照りはえ、火は燃えさかり、夕餉の支度もちゃんと出来ています。そしてラム・ダスが笑いながら、彼女の方《ほう》を見て立っているのです。 「お嬢様《嬢さま》がお気づきになりましてね。ご主人様《主人さま》に、すっかりあなたのことをお話しになりましたのですよ。お嬢様《嬢さま》は、御自分《ご自分》の幸運《幸せ》を、あなたにお知らせしたがっていらっしゃるのですよ。このお盆の上のお手紙を御覧下《ご覧下》さい。お嬢様《嬢さま》がお《-お》書きになったのです。お嬢様《嬢さま》は、あなたが悲しくお休みにならないようにとお思いになったのでしょう。御主人《ご主人》は、明日あなたにも来ていただきたいと|仰しゃ《仰》っておいででした。明日から、あなたはお嬢様《嬢さま》のお附《付》きになるはずです。今夜は、これからここにあるものを、また屋根越しに持って帰らなければなりません。」  輝かしい顔で、こういい終りますと、ラム・ダスは額手礼《サラーム》をして、身軽に、音も立てずに、天窓《引窓》から抜け出して行きました。ベッキイ《ー》はそれを見ると、「あの人はあんなにして、やすやすといろいろのものを運びこんだのだな。」と思いました。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十九章】 【アンヌ】 ◇。◇。◇。◇。◇。 『大屋敷』の子供部屋は、今までにないような大騒ぎでした。子供達《子供たち》は『乞食じゃア《あ》ない小さな女の子』と近づきになったため、こうまでうれしいことが湧き出て来ようとは、夢にも思いませんでした。セエ《ー》ラは、ひどい苦労をして来ていることのために、よけい皆《みんな》から大事にされるのでした。誰も彼《か》もが、セエ《ー》ラの身の上話を、繰り返し繰り返し聞きたがりました。誰しも炉辺で温かにしている時には、屋根裏のひどい寒さの話なども、気持《気持ち》よく聞くことが出来るものです。また、メルチセデクのことや、雀共《雀ども》のことや、天窓《引窓》から頭を出すと見える四辺《ヨモ》の景色のことなど聞くと、屋根裏部屋は面白い所のように思われるのがあ《当》たり|まえ《前》です。そんな面白いことがあれば、寒くても、殺風景でも、そんなことは気にな《な-》るまいと思われるのが当然です。  子供達《子供たち》が一番よろこんだのは、あの饗宴と空想とがほんとになって現れて来たところでした。セエ《ー》ラはカリスフォド氏に見つけられた翌日、初めてこの話をしたのでした。その日、大屋敷の人達《人たち》はお茶に招ばれ、セエ《ー》ラと一緒に炉の前に坐ったり、蹲《踞》ったりしていました。そこで、セエ《ー》ラは例の調子で、その話をしたのでした。印度《インド》の紳士も、セエ《ー》ラを見守りながら、耳を傾けていました。話し終《終わ》るとセエ《ー》ラは印度《インド》の紳士を見上げ、紳士の膝に手をかけていいました。 「私のお話はこれだけですの。今度は小父さんの方《ほう》のお話を聞かして下さいな、アンクル・トム。」紳士の望みで、セエ《ー》ラは紳士を『アンクル・トム』と呼んでいました。「小父さんのお話は、まだ伺いませんのね。きっと立派なのにちがいないわね。」  そこで、カリスフォド氏はこう語り出《だ》しました。病気で物憂く、|いらいら《イライラ》している時でした。一人寂しく坐っていると、ラム・ダスはよく外を通って行く人の品定めをして、病人の気をかえようとしました。中でも一番よく前を通って行くのは、一人の女の子でした。カリスフォド氏はちょうど見付《見つ》からぬ小さい娘のことを絶えず考えていたところでした。それにラム・ダスから、猿を逃がして、その子の部屋に捕えに行った時の話を聞くと、何かその子に心を惹かれるように感じました。ラム・ダスはその娘の顔色の悪いこと、またその子の様子が召使《召使い》になどされる下層社会の子らしくないということなども話して聞かせました。ラム・ダスは話すたびに、こんなこともございましたよと、その子の生活の惨めな事実を見付《見つ》けて来るのでした。ラム・ダスはまた、屋根を伝って行けば、造作なく天窓《引窓》からその子の部屋に入れるということも話しました。で、そこからすべての計画が始まったわけでした。 「旦那様《旦那さま》!《/》」と、ある日《日’》ラム・ダ《ダ-》スは申しました。「あの子が使《使い》に出た留守に、屋根から入って、あの子の部屋に火をおこしておいてやることも出来ると存じます。あの子は濡れ凍えて帰って来て、火を見ると、きっと留守の間に魔法使《魔法使い》がおこしておいてくれたのだと思うでございましょう。」  この思いつきは、非常に奇抜でしたので、カリスフォド氏も、暗い顔に輝かしい微笑を湛えたほどでした。それを見ると、ラム・ダスは夢中になって、火をおこす他に、これこれのことも《も-》やろうと思えば造作なく出来ます、と主人に話しました。ラム・ダスの思いつきや計画は、子供じみていて愉快でした。それを実行する準備に忙《-いそが》しかっ《-っ》たので、いつもは退屈な永い日が、愉快に飛びすぎて行くようでした。折角の饗宴を、始めない先にミンチン先生に見付《見つ》けられたあの晩は、ラムダスは持って行くものをすっかり自分の部屋に用意して、天窓《引窓》から様子を見ていたのでした。彼の背後には、彼と同じにこの冒険に夢中になっている人が、彼を手伝うためにひかえておりました。彼は石盤瓦《スレート》の上に腹這いになって、天窓《引窓》から、折角の饗宴がめちゃめちゃにされるところも、ちゃんと見ていました。で彼は、セエ《ー》ラが疲れは《果》ててぐっすり寝こんでしまったのを知ると、火を細くした燈籠《カンテラ》を持って、そっとセエ《ー》ラの部屋に忍びこみ、助手が天窓《引窓》の外からさし出す品《シナ》を、中で受け取ったのでした。セエ《ー》ラが寝ながらちょっと身動きした時などは、ラム・ダスは燈籠《カンテラ》の火を隠して、床の上に平たく身を伏せたり《り-》しました。──子供達《子供たち》は、後《あと》から後《あと》から質問してこれだけのこと──いやま《”ま》だいろいろのことを、カリスフォド小父さんから、聞き出したのでした。 「私、ほんとにうれしいわ。」と、セエ《ー》ラはいいました。「私のお友達が小父さんだったのだと思うと、うれしくてたまらないわ。」  セエ《ー》ラと小父さんとは、たちまち非常な仲よ《良》しになりました。二人はいろいろのことで、不思議にしっくりと気が合うのでした。印度紳士は、今までにこんなの《に》気の合う人とめぐりあったことはありませんでした。一月《ひと月》とたたぬうち、彼は、カア《ー》マイクル氏が予言したように、まったく別人のようになりました。紳士はいつも愉快そうで、気がひきたっているようでした。あんなに重荷にしていた財産も、今は持っていてよかったと思っていました。まだまだセエ《ー》ラのためにしてやることは、いくらでもあるのです。二人は戯談《冗談》に、紳士を魔法使《魔法使い》だということにしていました。で、彼はすっかり魔法使《魔法使い》になりすまして、何かセエ《ー》ラを吃驚させるようなことばかり考えていました。セエ《ー》ラはふと部屋の中に、美しい花が咲いているのを見つけたこともありました。と思うと、また枕の下から思いもつかなかったような小さな贈物が出て来ました。ある晩のこと、セエ《ー》ラが小父さんと坐っていると、ふと戸の外に、強い前脚で戸を掻くような音がしました。何かと思って、セエ《ー》ラが戸を開けてみますと、大きな犬──見事なロシアの猪狩犬《ボアハウンド》が立っていました。しかも、金銀で造った首輪には、次のような字が、浮き上《上が》っていました。 『我名《我が名》はボリス。プリンセス・セエ《ー》ラの僕《シモベ》。』  印度紳士の一番好《一番’好》んだのは、襤褸《ボロ》を着た宮様《プリンセス》の思い出でした。大屋敷の人達《人たち》や、アア《ー》ミンガア《ー》ドやロッティの来る日も、賑《賑や》かで愉快でしたが、セエ《ー》ラと印度紳士と二人きりで、本を読んだり話《’話》し合ったりする時間は、何《なに》か二人きりのものだというようで、特別うれしいのでした。二人で過す時間の間には、いろいろ面白いことが起りました。  ある晩、カリスフォド氏は、書物から眼を上げて、セエ《ー》ラが身じろぎもせず、じっと火を見つめているのに、気がつきました。 「セエ《ー》ラ、何《なん》のつもりになっているの?」  セエ《ー》ラは頬《ホオ》をぽっと輝かせました。 「こういうつもりだったの。──こういうことを思い出していたのよ。ある日大変《日’大変》ひもじかった時、私の見た子のことを。」 「でも、たいていの日はひもじかったんじゃア《あ》ないのかい?」印度《インド》の紳士は悲しげな声でいいました。「どの日だったの?」 「あなたは、御存じなかったのね。あの夢が、まことになった日のことよ。」  セエ《ー》ラはそういってから、パン屋の話をして聞かせました。溝の中から銀貨を一つ拾ったこと、拾ってから自分よりひもじそうな子に会ったことなど、セエ《ー》ラは何の飾りけもなく、出来るだけあっさりと話したつもりでしたが、印度紳士はたまらなくなったらしく、眼に手をかざして、床を見つめました。  セエ《ー》ラは語り終《終わ》ると、こういいました。 「で、私、こういうことを考えていたのよ。何かしてあげたいってつもりになっていたのよ。」 「どういうことをしてあげたいのだね? 女王殿下《プリンセス》。何《なん》でも、お好きなことを遊ばしませ。」  セエ《ー》ラは、ややためらいながらいいました。 「私、あの──私には大変なお金があると|仰しゃ《仰》ったわね。だから、私あの、あのパン屋のおかみさんの所へ行って、こうい《言》おうかしらと思っていましたの。ひもじそうな子が──殊にひどいお天気の日などに、店の前に来て坐ったり、窓から覗いていたりしていたら、呼び入れて、食べさしてやってくれって。そして、その書付《書付け》は、私の方《ほう》に廻《回》してくれって。──そんなことをしてもいいでしょうか?」 「いいとも。早速、明日の朝行《朝’行》って来たらいいだろう。」 「うれしいわ。ね、私、ひもじい苦しみは身に沁みて味《味わ》っているでしょう。ひもじい時《とき》には、何《なに》かつもりになったって、ひもじさを忘れることは出来ないのよ。」 「そうとも。うむ、そうだろうな。でも、もうそのことは忘れる方《ほう》がいいよ。私の膝のそばに来て坐っておくれ。そして、嬢やはプリンセスだということだけ考えている方《ほう》がいい。」 「そうね。」と、セエ《ー》ラはほほえみました。「私、人の子達《子たち》に、パンや、甘パンを恵んでやることが出来るのですものね。」  次の朝、ミンチン女史が窓の外を見ていますと、女史にとっては、実に見るにたえないようなことが眼に映りました。印度紳士の家の前に馬車が着いて、毛皮にくるまれた紳士と少女が、玄関を降りて来るのでした。その見な《慣》れた少女の姿を目にすると、ミンチン女史は過ぎ去った日のことを思い起《起こ》しました。すると、そこへもう一人、見な《慣》れた少女の姿が現れました。その姿を見ると女史はひどくいらだって来ました。いうまでもなくそれはベッキイ《ー》でした。ベッキイ《ー》はすっかり小間使《小間使い》になりすまして、いそいそ若い御主人《ご主人》に従い、膝掛《膝掛け》や手提《手提げ》を持って、馬車の処《ところ》まで見送りに出て来たのでした。いつの間にかベッキイ《ー》は血色もよく、むっちりと肥っていました。  馬車はまもなく、パン屋の店先につけられました。馬車から二人が出て来た時には、不思議にもまた、ちょうどいつかの時のように、おかみさんが出来たてのパンを窓にさし入れていました。  セエ《ー》ラが店に入って行きますと、おかみさんは振り返ってセエ《ー》ラの方《ほう》を見ました。セエ《ー》ラを見ると、甘パンはうっちゃらかして、帳場の中に坐りました。おかみさんはしばらくの間《あいだ》、穴のあくほどセエ《ー》ラの顔を見つめていましたが、人のいい顔は《は-》じき、はればれとして来ました。 「確かに、お嬢様《嬢さま》にはお目にかかったことがございますわ。でも──」 「ええ、お目にかかりましたわ。あの時あなたは、私に甘パンを六つも下さいましたわね。それから──」 「それから、あなたは六《6》つのうち五つまで、あの乞食娘にやっておしまいになりましたのね。私はそのことが忘れられませんでしたの。初めは、何だか|わけ《訳》がわかりませんでしたけど。」  おかみさんは、今度は印度紳士の方《ほう》に向き直って、こう話しかけました。 「失礼でございますが、旦那様《旦那さま》。こんなお小さいのに、他人がひもじいかどうかなんて気のつくお子は、お珍しゅうございますわ。私、そのことを、幾度も幾度も考えてみたのでございますよ。これは、とんだことを申してしまいました。お嬢様《嬢さま》、でも、あなた様はまア《あ》、お顔色がよくおなりですこと──それに、あの、以前よりはずっとお丈夫そうに、そして、お立派に──」 「おかげさまで丈夫よ。それに──以前よりはずっと幸福《幸せ》になったのよ。──で、私、あなたにお願いがあって来たの。」 「私に、お願いですって?」と、おかみさんはうれしそうに笑いました。「まア《あ》お嬢様《嬢さま》、それはそれは、どんな御用《ご用》でございますの?」  そこで、セエ《ー》ラは帳場によりかかって、お天気の悪い日、ひもじそうな宿無《宿無し》の子を見たら、パンを恵んでやってくれと、頼みました。  おかみさんは話の間《あいだ》、セエ《ー》ラをじっと見つめて、びっくりしたような顔をしていました。が、聞き終《終わ》るとまた、 「まア《あ》、それはそれは。」といいました。「私に施しをさせて下さるなんて、うれしゅうございますわ。御覧の通り、私はほんのもうそ《-そ》の日暮しで、自分の力ではとても大したことは出来ないんでございますの。気の毒な人はそこら中《じゅう》におりますのにね。でも、失礼か存じませんが、ちょっとお耳に入れておきたいことがございますの。あの日以来、雨の日には、あなた様のことを思い起《起こ》して、少しずつパンを恵んでやることにしているのでございますよ。──あの日は、ほんとに寒くて、ひもじそうでいらっしゃいましたわね。それなのに、あなた様は、まるでプリンセスかなにかのように、惜しげもなく甘パンを施しておしまいになりましたのね。」  プリンセスと聞くと、印度《インド》の紳士は思わず微笑《微笑’》しました。セエ《ー》ラも、あの子のぼろぼろな膝にパンを置きながら、心の中でつぶやいたことを思い起《起こ》して、ちょっと微笑《微笑’》しました。 「あの娘は、ひもじそうだったわ。」と、セエ《ー》ラはいいました。「私よりもひもじそうだったわね。」 「もう死にそうにお腹がすいていたのでございますよ。あの子は、あれからよく私に、あの時のことを話してくれましたが──ぐしょぐしょになって坐っていると、可哀そうに、自分のお腹の中で、狼がはらわたを食い裂いているような気がしましたって。」 「あら、それじゃア《あ》あなた、あれから、あの子に会ったの? 今どこにいるか、御存じ?」 「存じておりますとも。」おかみさんは、いつよりもよけい人のよさそうな顔をして笑いました。「そらあ《/あ》そこに、ね、お嬢様《嬢さま》、あの奥の部屋に、もう一月《ひと月》もいるんでございますよ。それに、あの子は、なかなかきちんとした、いい性質の子になりそうでございますよ。思いの他役《ほか役》に立ちましてね、店でも、台所でも、乞食をしていたとは思えないほど、手助けをしてくれますの。」  おかみさんは、奥の戸口に歩みよって、声をかけました。すると、すぐ一人の娘が、おかみさんの後《あと》から、帳場に出て来ました、小綺麗《コギレイ》な服をきちんと来て、もうひもじさなどは忘れたような顔をしていましたが、あの乞食娘にはちがいありませんでした。少女は羞《恥ずか》しそうにしていましたが、可愛い顔立《顔立ち》をしていました。今は《は-》もう人間らしい生活をしているためか、あの野蛮な眼付《眼付き》はすっかりなくなっていました。少女は《は-》ふと見るとすぐ、セエ《ー》ラがいつかパンをくれた人だと知ったらしく、じっと立ったまま、いつまでも見あきぬようにセエ《ー》ラの顔を見つめておりました。 「ね、こうなのでございますよ。」と、おかみさんは説明しました。「ひもじい時《とき》にはいつでもおいで、と私が申したものでございますから、この子はよく店に来るようになりました。来ると、私は何か用をしてもらうようにしたのでございますよ。ところが、この子は何でも|いや《嫌》がらずにしてくれますので、私は何だか、だんだんこの子が好きになってまいりましたの。で、とうとううちに来てもらいましてね。この子は私の手伝いをしてくれるようになりました。お行儀もよいし、恩義も知っていますし、普通の娘とちっとも変《変わ》りはありません。名前はアンヌと申します。アンヌとばかりで、苗字も何もないのでございますよ。」  セエ《ー》ラとアンヌとは、ちょっとの間《あいだ》、ただ黙って、じっとお互の顔を見合っていました。やがて、セエ《ー》ラはマッフの中から手を出して、帳場の向《向こ》うのアンヌの方《ほう》にさし出しました。アンヌはその手を握りました。二人はまたお互《互い》に眼を見合せました。 「私、うれしくてよ。」と、セエ《ー》ラはいいました。「私、今しがた、いいことを考えていたの。きっとおかみさんは、あなたにパンを施させて下さるでしょう。あなたもきっと、その役をよろこんでして下さると思うわ。あなただって、ひもじい味はよく知ってらっしゃるのですものね。」 「はい、お嬢さん。」と、少女は答えました。  アンヌは、それぎり何もいわず、つっ立っていたばかりでしたが、セエ《ー》ラには、アンヌの気持《気持ち》がよく解《分か》るような気がしました。アンヌは、いつまでもそこに立って、セエ《ー》ラが印度紳士と一緒に店を出《で》、馬車に乗って去って行くのを、じっと見送っていました。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【底本:「小學生全集第五十二卷《小學生全集第五十二カン》◇ 小公女《ショウ公女》」興文社、文藝春秋社】 【   1927(昭和2)年12月10日発行】 【入力:大久保ゆう】 【校正:門田裕志、浅原庸子】 【2005年5月19日作成】 【2013年9月19日修正】 【青空文庫作成ファイル:】 【このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http:《コロン”//》//www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。】