◇。◇。◇。◇。◇。 【ショウ公女】 【フランセス・ホッヂソン・バーネット】 【菊池寛ヤク】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【はしがき(父兄へ)】 ◇。◇。◇。◇。◇。  この『ショウ公女』という物語は、『小公子』を書いた米国のバーネット女史が、その『小公子』の姉妹篇として書いたもので、少年少女読物としては、世界有数のものであります。 『小公子』は、貧乏な少年が、一躍イギリスの貴族の子になるのにひきかえて、この『ショウ公女』は、金持ちの少女が、ふいに無一物のミナシゴになることを書いています。しかし、強い正しい心を持っている少年少女は、どんな境遇にいても、敢然としてその正しさを枉げない、ということを、バーネット女史は両面から書いて見せたに過ぎないのです。 『小公子』を読んで、何物かを感得された皆さんは、この『ショウ公女』を読んで、また別な何物かを得られる事と信じます。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【昭和二年十二月/菊池 寛】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【インドからロンドンへ】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ある陰気な冬の日のことでした。ロンドンの市中は、非常な霧のために、街筋には街灯が-ともり、商店の飾窓はガスの光に輝いて、まるで夜が来たかと思われるようでした。その中を、風変わりなどこか変わった様子の少女が、父親と一緒に/辻馬車に乗って、さして急ぐともなく、揺られて行きました。父の腕に抱かれた少女は、脚を縮めて坐り、窓越しに往来の人々を眺めていました。  セーラ・クルーはまだやっと七歳なのに、十二にしてもませすぎた眼付きをしていました。彼女は年中’大人の世界のことを空想してばかりいましたので、自然’顔付きもませてきたのでしょう。彼女自身も、もう永い永い生涯を生きて来たような気持ちでいました。  セーラは今、父のクルー大尉と一緒に、ボムベイからロンドンに着いたばかりのところなのです。あの暑いインドのこと、大きな船のこと、甲板のこと、船の上で知り合いになった小母さん達のことなど思い起こしますと、いまこの霧の町を妙な馬車で通っていることさえ、不思議に思われてなりませんでした。セーラは父のほうにぴたりと身を寄せて、 「お父さま。」と囁きました。 「何だえ、嬢や?」クルー大尉はセーラをひしと抱きしめて、娘の顔を覗きこみました。「何を考えているの?」 「ねえ、これがあそこなの?」 「うむ、そうだよ。とうとう来たのだよ。」  セーラはほんの七歳でしたが、そういった時の父が、悲しい思い出に打たれていることを悟りました。  父がセーラの口癖の「あそこ」のことを話し出したのは、ずっと前のことでした。母はセーラの生まれたとき/亡くなってしまいましたので、セーラは母のことは何も知らず、したがって恋しいとも思いませんでした。若くて、風采の立派な、情愛の深い父こそは、セーラにとって/たった一人の肉親でした。二人はいつも一緒に遊び、お互いにまたなきものと思っていました。セーラはみんなが彼女に聞えないつもりで話しているのを耳にして、父は裕福なのだと知りました。それで、彼女も大きくなれば裕福になるのだと知りました。裕福とはどんなことか、それはセーラには分かりませんでした。が、セーラは美しいバンガローに住んでいましたし、召使いはたくさんいましたし、何でもセーラの自由にならないものはありませんので、こんなのが裕福というのかなと彼女は思っていました。  七つになるまでの間にセーラの気がかりになっていたことは、いつか連れて行かれる「あそこ」のことだけでありました。インドの気候は子供たちの体によくなかったので、インドで生まれた子供たちは出来るだけ早く英国へ送られ、英国の学校に入れられるのでした。セーラはよその子供たちが英国へ帰って行くのを見たり、親たちが子供から受けとった手紙の話をしているのを、聞いたりしました。で、セーラもいつかはインドを去ることになるのだろうと思っていました。父が時々してくれる航海の話、新しいお国の話には惹きつけられないでもありませんでした。が、あそこに行けば、父と一緒にいることが出来ないのだと思うと、セーラの胸は痛むのでした。 「パパさんは、あそこへ一緒に行って下さらないの?」そう尋ねたのは五つの時でした。 「一緒に学校へいらっしゃらない? 私、お父さんのおさらいしてあげてよ。」 「でもセーラや、別れているのはそんなに永いことじゃあないのだよ。それにお前は、小さいお嬢さんのたくさんいる素敵な-お家へ行くのだよ。そして、みんなと遊ぶのだよ。お父さんはたくさんご本を送って上げる、お前はどしどし大きくなって、一年も経つかたたないうちにすっかり大人になって、利口になって帰ってくる。そうして、お父さんの世話をしてくれる──。」  その時のことを考えると、セーラはうれしくなりました。父のために家の中を片付けたり、父と一緒に馬に乗ったり、父が宴会を催す時には食卓のショウザに坐ったり、父の話相手になったり、父に本を読んであげたり、──そんなことを覚えるためだったら、よろこんで英国へ行こう、とセーラは思いました。セーラは学校でお友達がたくさん出来ることなどは、うれしいとも思いませんでしたが、ご本をたくさん送ってもらえるのは、うれしいに違いありませんでした。セーラは本が何より好きでした。本さえあれば寂しいとも思いませんでした。それにセーラは、美しい物語を自分で作って、自分で語り聞かせるのが好きでした。時には、それを父に話して聞かせることもありました。父もセーラ同様、その物語を喜んで聞きました。 「ねえ、お父さま。」セーラは馬車の中でそっといい出しました。「もうここに来たのなら、諦めなければならないわねエ。」  父はセーラがあまりませたことをいうので、笑って、そして彼女にキスしました。父はその実/ちっとも諦めてはいなかったのでしたが、セーラにそうと知らしてはならないと思いました。妙におどけた小さいセーラは、父にとってこそ、なくてはならぬ道連れだったのです。インドの家へ帰っても、セーラがあの白い上衣を着て迎えに出て来ないのだとしたら、どんなに寂しいだろう、とクルー大尉は思わずには-いられませんでした。父は娘をしかと抱き寄せました。馬車はそのとき陰気な町筋へがらがらと入って行きました。そこに二人の目ざす’家があったのでした。  その街並は、みんな大きな/陰鬱なレンガダテでした。その一つの’家の、正面の扉の上に、真鍮の名札が輝いていました。そこに黒でこうほってありました。 ◇。◇。◇。 【ミス・ミンチン女子模範学校】 ◇。◇。◇。 「さあここだよ、セーラ。」とクルー大尉は出来るだけ機嫌よさそうにいって、セーラを馬車から抱き下ろしました。セーラはあとになってよく思い合せたことでしたが、この家はどことなくミンチン先生にそっくりでした。かなりきちんとしていて、ゾウサクなどもよく出来てはいましたが、家にあるものは何もかも-ぶざまでした。椅子も、絨毯の模様も、真四角で、柱時計まできびしい顔つきをしていました。 「あたし、なんだか嫌になったわ。」とセーラは父にいいました。「兵隊さんだって、いざとなったら、本当は戦争に行くのが、嫌になりはしないだろうかしら。」  その妙ないいかたを聞くと、クルー大尉はからからと笑い出しました。 「ほんとに、セーラ! お前のように真面目に物をいってくれるものがなくなると、わたしも困るね。」 「じゃあ、なぜ真面目なことをお笑いになるの?」 「だって、お前が真顔でいうと、それがまた莫迦に面白く聞えるからさ。」  そこへ、ミンチン先生が入ってきました。ミス・ミンチンは魚のような冷たい大きな眼をして、サカナのような微笑みかたをしました。先生はこの学校をクルー大尉に推薦したメレディス夫人の口から、クルー大尉が金持ちで、わけてもセーラのためなら何万金も惜しまないということを聞いていました。先生にとっては願ってもない話だったのです。 「こんなお綺麗なお子さんをおひきうけ申しますのは、本当に嬉しゅうございます。メレディス夫人のお話では、大変ご利発なそうで──」  セーラはミス・ミンチンの顔を見つめたまま、静かに立っていました。 「私はやせっぽちで、毛は黒くて短いし、眼は緑色だし、ちっとも綺麗なんかじゃないのに、あの方は嘘ばっかし言っている。」とセーラは思いました。後々セーラは、ミンチン先生がどの子供の親にでも同じようなお世辞をいうのを知りました。そうは-いっても、セーラは自分が思っているほど醜い子では決してありませんでした。ほっそりして、しとやかな体つきで、人好きのする顔立ちをしていました。黒い髪も、緑色の眼も、見る眼には見事に映るくらいだったのです。  セーラは寄宿生は寄宿生でも、普通の生徒と違って、特別に美しい寝室と居間とをあてがわれることになりました。それから、子馬を一頭と、馬車を1台と、乳母ガワリの女中一人とがあてがわれるはずでした。 「この子の教育については、少しも心配はありませんが。」と、父はセーラの手を撫でながら、愉快そうに笑っていいました。「ただ、あまり勉強をさせすぎないようにして頂きたいと思います。今まででさえ、この子は鼻の先を本のなかに埋めるようにして坐っているのですからねエ。読むんじゃあないのですよ、ミス・ミンチン。狼の子みたいに、本を貪り食っちまうんですからね。それに、大人の本をほしがっているんですから。歴史であれ、伝記であれ、しであれ──それに、フランスやドイツのものまで。ですから、なるべく本から引き離して、小馬に乗せたり、町へ人形を買いに連れてってやったりして下さい。」 「でもお父さま、町へ出るたびにお人形を買ってたら、とても仲良しになりきれないほどのカズになってしまうでしょう。エミリーちゃんは、私の親友になるはずですけど。」 「エミリーさんて、どなた?」とミス・ミンチンが訊ねました。 「お話ししておあげ、セーラ。」  父にいわれると、セーラは大変気高く、物優しい眼になって、話し出しました。 「エミリーちゃんは、まだ買ってないけど、お父さまが私に買って下さるはずのお人形ですの。お父さまがいらっしゃらなく-なったら、私エミリーちゃんとお父さまのことをいろいろお噂するつもり。」 「まあ、なんてご利発な──」 「ええ。」と父はセーラをひきよせて、「この子はまったく可愛い子です。どうか私に代わって、よく面倒をみてやって下さい。」とミス・ミンチンにいいました。  それからゴロクニチ、セーラは父とホテルに滞在しました。二人は毎日’町へ出ては、夥しい買物をしました。高価な毛皮で縁どった天鵞絨の服や、レースの着物や、刺繍のある衣服や、駝鳥の羽根で飾った帽子──貂の皮の外套、それから小さな手袋、ハンケチ、絹の靴下──:帳場の後ろに坐っていた婦人たちは、あまり贅沢な買物をするので、セーラはどこかのプリンセスじゃあないかと囁き合ったくらいでした。 「私は、あの子を生きているように見せたいの。でも、お人形ってものは、なんだかいくらお話ししても聞いてないような顔しているから、わたし気になってしょうがないの。」  二人はホウボウの人形屋に馬車を走らせ、黒眼の人形、青メの人形、茶色の髪の人形、金色の髪を編んだ人形、衣裳をつけた人形、裸人形などいちいち覗いて歩きましたが、どれもセーラの『エミリー』ではありませんでした。失望を重ねたあげく、二人は馬車を降りて、軒並に陳列窓を覗いて歩くことにしました。二’三の店を通りすぎて、とある小さな店の前に来かかった時でした。セーラは突然’飛び上がって、父の腕にひしと縋りつきました。 「あそこに、エミリーちゃんが!」  セーラの顔にはさっとベニが刷かれました。アオ鼠色の眼には、たった今、大好きなお友達を認めたというような表情が浮びました。 「あの子は、本当に私を待ってるのよ。さ、あの子の所へ行きましょう。」 「おやおや、誰かに紹介してもらわないでもいいのかね。」 「お父さまが私を紹介して下さるの。そしたら、私もお父さまを紹介してあげるわ。でも、私はあの子を見た時すぐわかったんですもの、あの子だってきっと私を知っててよ。」  エミリーもきっとセーラだとわかっていたのでしょう。セーラが抱きかかえると、エミリーは本当に利口そうな眼つきをしていました。大きな人形でしたが、大きすぎて持ち運びが出来ぬというほどではありませんでした。癖のない金色の巻毛が、マントのようにふさふさと垂れ、眼は深い、澄みきった藍鼠色でした。そして、そのふちには、ほんものの睫が生えていました。  二人は、エミリーを子供衣裳屋に連れて行き、セーラの通りに立派な衣裳を整えました。 「私は、誰がみてもこの子はいいお母さまを持っていると思うようにしておきたいの。私はこの子のお友達で、そしてお母さんなのよ。」  父はセーラと一緒にこの買物をよろこびました。が、この可愛い、愛嬌のある娘から、じきに別れなければならないのを想い出すと、たまらなく悲しくなりました。  クルー大尉は、マ夜中に自分のトコを出て、立ってセーラを見下ろしていました。セーラはエミリーを抱いて眠っていました。乱れた黒い髪が枕の上で、エミリーの金髪と縺れ合っていました。二人ともレースの襞をとった寝巻を着、二人とも長い、先のそり上がった睫をホオの上に落していました。エミリーは真実生きた子供のようでした。  翌日、大尉はセーラをミス・ミンチンのもとに連れて行きました。彼は次の日インドへ立つことになっていましたので、先生にいろいろ後の事を頼みました。彼は一週に二度セーラに手紙を書くことを約束しました。それから、セーラの望みなら何でも叶えてやってくれといいました。 「この子は感じやすい子でして、自分でこれと思ったもの以外には、何も欲しがらないのですよ。」  それから、彼はセーラと一緒に彼女の小さな部屋に行き、お互いにさよならをいい合いました。セーラは父の膝に乗り、上衣の折返しの所を小さな手で握って、永いことじっと父の顔を見つめていました。父はセーラの髪を撫でて、 「私の顔をそらで覚えこむつもりなのかい? セーラ。」といいました。 「いいえ、私ちゃんともうそらで知ってるわ。お父さまは私の胸の内側にいらっしゃるのよ。」  二人は抱き合って、もう離さないというようなキスをしました。  辻馬車が戸口から駈け出すと、セーラはエミリーと一緒に二階の部屋の床’の上に坐り、顎を両手の上にのせて、馬車がカドを曲るまで、窓から見送っていました。  ミンチン先生が心配して、妹のアメリア嬢を見にやると、扉には中から錠がおりていました。セーラは中から、 「あたし、一人で静かにして-いとうございますから。」と、慎ましい小声でいいました。  アメリア嬢は肥っちょの背の低い婦人で、姉をひどく怖が-っていました。彼女はセーラのしうちに吃驚して、階下に-おりて行きました。 「お姉さん、ませた変な子ね。あの子はまあ、錠をかけて閉じこもっているのですよ。ことりとも音をさせずに。」 「他の子のように、暴れたり、泣いたりするより、そのほうがましさ。あんなに甘やかされているから、家じゅうがひっくりかえるような騒ぎをするかと、私は思っていたんだよ。」 「あの子のトランクには大変なものが入っていますのね。セーブルや、アーミンを縫いつけた上衣や、それに下着には本場のレースがついているのですよ。」 「まったく莫迦げてるね。でも、教会へ行く時、あれを生徒の先頭にすると立派でいい。」  二階ではまだセーラとエミリーとが、馬車の消えて行く町角を見つめていました。馬車の中のクルー大尉も、ふり返っては手を振り、もうたまらなくなったというように振った自分の手をキスしていました。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 【フランス語の課業】 ◇。◇。◇。◇。◇。  次の朝、セーラが教室へ入って行きますと、生徒はみんな眼を見張って、物珍しそうに彼女を見つめました。生徒たちはもうセーラのことをいろいろ聞いて知っていました。前の晩’到着したセーラ付きの女中、フランス人のマリエットをちらと見たものさえありました。すっかり大人顔をしているラヴィニア・ハーバートなどは、開きかけたドアの間から、マリエットがどこかの店から着いた箱を開けているのを見たくらいでした。 「レースのフリルのついたペティコートで一杯だってよ。」ラヴィニアは身をこごめて地理の本の上から、ジェッシーに囁きました。「あの方、今もあのペティコートを着けてるのよ。腰をかける時ちょっと見えたわ。」 「まあ、あの方の靴下’絹ね。」ジェッシーも地理書越しに小声でいいました。「それに、可愛い足ね。」 「でも、足なんて靴次第で小さく見えるものよ。それにあの方、ちっとも綺麗じゃあないのね。眼だって変な色だわ。」 「綺麗さがちょっと違うのよ。なんだか振り返って見たくなるような顔よ。そして睫の長いこと!」  セーラは静かにミス・ミンチンの机のそばの、自分の席につきました。セーラはみんなに見られても別に羞じらう様子もありませんでした。かえって、自分を見つめている子供たちが珍しいので、静かにみんなのほうを見返すのでした。みんなは何を考えているのかしら? みんなはミンチン先生が好きなのかしら? めいめいの課業に精を出しているのかしら? みんな私のパパさんみたいなパパさんを持っているのかしら? などと思ってもみました。セーラはその朝、エミリーと永いこと父の噂をして来たのでした。 「エミリー、お父さまは今頃もうお船の上よ。仲良くして何でも話し合いましょうね。私の顔をごらんなさい。まあお前は、なんて綺麗なお目々をしているんでしょう。ほんとに、お前/お口がきけたらいいのにね。」  セーラは空想や気まぐれな考えを一杯’持っていました。エミリーを生きたものと考えて、そこに限りないよろこびを感じるのも、その空想の一つでした。セーラは女中に紺の学校服を着せてもらい、同じ色のリボンを結んでもらってから、椅子の上のエミリーに本を一冊持って行ってやりました。 「私が教室へ行っている間、それを読んでらっしゃい。」  女中のマリエットが怪訝そうな顔をしたので、セーラは真面目くさっていいました。 「私たちにはわからないけど、お人形には読んだり、歩いたり、いろんなことが出来るんじゃあないかと、あたし思うのよ。ただそれは誰もいない時だけなの。なぜって、お人形にも何でも出来るとわかれば、お仕事やなんかをおしつけるようになるでしょう。だからきっと、お人形さん達の間には、なんにも出来ないような顔をしていようというお約束があるのよ。マリエットが見ているうちは、そこにじっとしているけど、外へ出かけでもすると、きっと本を読んだり、窓の外を見に行ったりするのよ。そして、私たちの足音が聞えるや否や、その椅子の中に飛び帰って、さっきからそこに坐っていたような顔してすましているのよ。」  マリエットは、「おかしなお嬢さん。」とひとりごとをいいました。彼女はこの風変わりなご主人がすっかり好きになりかけていました。彼女はこれまでに、セーラ程たしなみのいい子の世話をしたことはありませんでした。セーラはやさしくて、わかりよい口のきき方をしました。「どうぞ、マリエット」とか、「ありがとうよ、マリエット」とか、ひどく人を惹きつけるようにいうのでした。マリエットは階下に-おりると、早速’女中ガシラにセーラの話をしました。お嬢さまはまるで貴婦人に対するように丁寧に私に頭をおさげになる、と自慢しました。そしてから、こういいました。 「あの小さい方は、まるでプリンセスですわ。」  セーラが教室に入ってニサンプン間もした頃、ミンチン先生はおごそかに立って、自分の机をとんと叩きました。 「皆さん! 今日は、皆さんに新しいお友達をご紹介したいと思います。」少女たちはめいめいの席から立ち上がりました。セーラも立ち上がりました。「皆さん! クルーさんと仲良くして下さいますね。クルーさんは大変遠いところから──ええ、インドからお着きになったばかりなのです。課業がすんだら、お互いにお近づきにならなければなりませんよ。」  少女たちは改まって目礼しました。セーラはちょっと袴をつまんで礼を返しました。それから、みんな腰を下ろして、またまじまじと見つめあうのでした。 「セーラさん、ここへお出でなさい。」  ミンチン先生は机から本を取りあげ、ページをめくっていました。セーラは行儀よく先生のところへ出て行きました。 「お父さんが、あなたにフランス人の女中を傭って下すったのは、あなたにフランス語の勉強を特にさせたいお考えからだと思いますが。」  セーラは少しもじもじしました。 「あの、お父さまがあの方を傭って下すったのは──あの、お父さまが、私あの方が好きとお考えだったからでしょう。ミンチン先生。」 「どうも、あなたは‥‥。」とミンチン先生は少し意地の悪い薄笑いを浮べました。「大変甘やかされていたとみえて、何でも好きだから人がして下さると考えているようですね。私の考えでは、お父さまはあなたにフランス語を勉強させたいのだと思いますがね。」  セーラはただ黙ってホオを赤らめました。かたくなな先生は、セーラなどはフランス語を何一つ知っているはずがないと思いこんでいるらしいのでした。が、実はセーラは、フランス語を知らない時はなかったようなものでした。セーラの母はフランス人でした。父は母の国の言葉が好きでしたので、母がセーラを生んで亡くなってしまったあとも、よく赤ん坊のセーラにフランス語で話しかけたものでした。で、セーラも自然’幼い時からフランス語は聞きなれていたのでした。が、ミンチン先生にそういわれると、先生の思い違いを正すのは失礼なように思えて、申し開きも思うようには出来ないのでした。 「わたし──私、ほんとにフランス語の勉強をしたことはないのですけど、でも──でも。」  ミス・ミンチンの人知れぬ悩みのオモなるものは、自分にフランス語の出来ないということでした。で、彼女はこの苦しい事実をなるべく隠しおおそうとしていました。ですから先生は、セーラに何か問われて、ぼろを出してはならないと思ったのでした。 「それでよろしい。まだ習わないのなら、早速始めなければなりません。もうじきフランス語の先生のジフアジさんが見えるはずですから。見えるまでこの本を持って行って、下読みをしてお置きなさい。」  セーラは席へ戻って、第イッページを開いてみました。この場合、笑っては失礼だと思ったのですが、「ル・ペール」は「父」、「ラ・メール」は「母」などということを、いまさら教わらなければならないのかと思うと、どうしてもおかしくなるのでした。  ミンチン先生は、セーラのほうをちらと探るような眼で見て、 「何をふくれているのです。セーラさん。」といいました。 「フランス語を勉強するのが、嫌なのですか?」 「私、大すきなのです。でも──」 「何か物をいいつけられた時、『でも』などというものではありません。さ、ご本を見るのですよ。」  セーラは本を見ました。「ル・フィス」は「むすこ」、「ル・フレエル」は「兄弟」。わかりきったことでしたが、セーラはおかしさをこらえつづけました。セーラは心の中で、 「ジュフアジ先生がいらしったら、わかって下さるでしょう。」と思っていました。  ジュフラージ先生は-じき来られました。大変立派な、賢そうな中年のフランス人でした。彼は熟語読本に身を入れようとしているセーラのしとやかな姿に眼をとめますと、心を惹かれたような様子をしました。 「これが、私のほうの新入生ですか?」と、彼はミンチン女史のホウへ振り向きました。「うまく行けばいいですがね。」 「この子のお父さんは、大変フランス語を習わせたがっているのですが、この子は何だか勉強したくなさそうなのです。」 「それはいけませんね、マドモアゼール。」彼は親切そうにいいました。 「一緒にお始めになりさえすれば、きっと面白くなりますよ。」  セーラは辱められでもしたかのような気持ちで、立ち上りました。彼女は大きな青鼠色の眼で、ジュフラージ氏の顔をじっと見ました。話しさえすれば、先生はわかって下さるのだと彼女は思いました。で、セーラは何の飾りけもなしに、美しい流暢なフランス語で話し出しました。マダムにはもちろん何をいっているのだかわかりませんでした。が、セーラはこういったのでした。「ムシューが教えて下さるのなら、何でもよろこんで勉強します。しかし、この本にあることはトウに知っているということを、マダムに申し開きしたいのです。」  ミンチン先生はセーラが語りだしたのを聞くと、飛び立つばかりに驚いて、眼鏡越しに、何か忌々しそうに、セーラを見つめました。ジュフラージ先生は微笑みはじめました。先生の微笑’は非常に喜んでいるしるしでした。セーラの子供らしい美しい声が、自分の母国語をこうまで率直に、可愛らしく語るのを聞いていると、まるで故郷にでもいるような気がするのでした。暗い霧のロンドンにいると、いつもは故郷が世界の果てのように遠く思われるのでしたが。‥‥セーラが語り終えると、彼は情愛の深い顔付きで、熟語読本を取り上げ、ミンチン女史にいいかけました。 「ねエマダム、もう教えるほどのものはありませんよ。この子はフランス語を覚えたのじゃあない、この子自身がフランス語ですよ。アクセントなんぞ素敵なものだ。」 「なぜ、私にいわなかったのです。」ミンチン女史はひどく感情を害して、セーラに向き直るのでした。 「わたし──私、お話ししようと思ったのですけど、私、切り出しが拙かったんでしょう。」  ミンチン女史にはセーラのいい-だそうとしていたことが分かっていました。またセーラがいい出し得なかったのは、ミンチン女史に恥をかかさないためだったということも分かりました。けれども、女史は、生徒たちがセーラの話を聞き、フランス語文法書のかげで忍び笑いをしているのを見ると、急にむらむらして来ました。 「静かになさい、皆さん。」女史は机を叩いて、厳しい声を出しました。「静かになさいったら?」  そのとき以来、女史はセーラに対して、いくらか敵意を感じたようでした。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 【アーミンガード】 ◇。◇。◇。◇。◇。  その最初の朝、セーラは、室内の生徒全体が自分を熱心に見守っているのを感じながら、ミンチン女史のそばに坐った時、自分と同じ年頃の少女が一人、明るい、物憂げな青い眼でセーラをじっと見ているのに/じき気が付きました。肥った、唇のつき出たその子は、あまり利口そうではありませんでしたが、気立ては大変よさそうに見えました。亜麻色の髪をかたく結び、リボンをつけていました。ジュフラージ氏がセーラに話しかけた時、その少女はちょっと怯えた眼をしました。が、セーラがいきなりフランス語で答えると、少女は吃驚して飛び上がり、真っ赤になりました。ナン週間もナン週間も、フランス語の「ペール、メール」さえ覚えられずに泣いていたところへ、ふいに自分の知らぬ単語まで造作なく動詞でつなぎ合せて話しているのを見ると、少女はたまらなくなったのでした。  彼女は夢中で見つめながら、思わずリボンを噛んだので、ミンチン女史に見つかってしまいました。女史はちょうどむしゃくしゃしているところだったので、たちまち少女に喰ってかかりました。 「セント・ジョン! そのお行儀は-なんですか。肱をお直しなさい。口からリボンをお出しなさい。すぐお立ちなさい!」  セーラはそれを見ると、その子がひどく可哀そうになり、お友達にでもなってあげたい-ような気持ちになりました。他人が悩んでいたり、不幸であったりすると、すぐその諍いの中に飛びこんで行きたくなる性癖のセーラでした。 「もしセーラが男の子で、ニサンビャク年前に生まれていたら。」と、よくお父さんは言ったものです。 「抜身をひっさげて、苦しんでいる人なら、誰でも助けたり庇ったりしながら、諸国を遍歴しただろうになあ。この子は困っている人たちを見ると、いつでも戦いたくなるのだから。」  課業が終わると、セーラは肥った少女を探しに出ました。少女はしょんぼり/窓の下の席に踞っていました。セーラはこんな場合誰でもいうようなことを云っただけなのでしたが、セーラがいうと、それは何かしら情が籠っていて、気持ちよく聞えるのでした。 「お名前、なんて仰るの?」  肥った少女は吃驚しました。新入生は初め妙に近づきにくいものであるうえ、セーラは前の晩’からみんなの間でいろいろ噂の出た新入生で、馬車や、小馬や、おつきの女中や、身のまわりのものから考えても、ちょっとよりつきにくい少女なのでした。 「私、アーミンガード・セント・ジョンって名なのよ。」 「私はセーラ・クルー。あなたのお名前、ほんとに綺麗ね。まるでお伽噺の名みたいに聞えるわ。」 「あなた、お好き?」とアーミンガードは飛び上がりそうになっていいました。「わたし──私はあなたの名前’大好き。」  セント・ジョンは、学者の父を持っているために、いつも苦しめられていました。父は七’八ヶ国語に通じ、何千カンの蔵書を暗記しているというような人でした。ですから、父は娘が、簡単な歴史やフランス語ぐらい覚えるのが当たり前だと思っているのでした。ところが、セント・ジョンは学校の中でも一番’頭が悪いほどだったのです。 「こいつは、無理にも覚えさせるようにして下さらなければ駄目です。」と、父はミンチン女史に頼んだのでした。  こういう訳で、アーミンガードは、いつでも恥ずかしめられたり、泣かされたりしていました。彼女は覚えたかと思うと、すぐ忘れてしまいました。覚えこんでも、なんのことだか一向’分からないというふうでした。で、彼女は、セーラを感嘆の眼で見るより他ありませんでした。 「あなた、フランス語お上手’なのね。」  セーラは大きな、奥の深いウィンドウシートに坐り、両手で縮めた足の膝を抱いていました。 「うちでしょっちゅう聞いていたから話せるのよ。あなただって、聞きつければ、きっと話せるようになってよ。」 「まあ、私なんか駄目よ。私、どうしても話せないの。」 「なあぜ?」  アーミンガードは頭を振りました。おさげがぶらぶら揺れました。 「あなたは、お利口なのね。」  セーラは窓越しに暗い街を眺めやりました。濡れた鉄の欄干や、煤けた樹の枝などに、雀が飛びかいながら、囀っていました。セーラはちょっとのあいだ心のウチで考えてみました。自分は何度となく「お利口だ」といわれたことがある。ほんとにそうなのかしら? ──もしそうだとしたら、全体どういう訳でお利口なのだろう。── 「私、わからないわ。」  セーラは相手の丸ぽちゃな、むっくりした顔の上に、悲しげな眼付きを見ると、かすかに笑いながら話を変えました。 「あなた、エミリーちゃん御覧になって?」 「エミリーちゃんて、どなた?」  アーミンガードは、さっきのミンチン女史のように聞き返しました。 「私のお部屋に入らっしゃいな。見せてあげるわ。」  二人は一緒にマドイスから飛び降りて、二階へ上って行きました。 「ほんと?」客間を通り抜けるとき、アーミンガードは囁きました。「あなた一人の遊び部屋があるってほんと?」 「ええ。父さまがミンチン先生にお願いして下すったの。だって──ねえ、私、おあそびするとき、自分でお話をこしらえて、自分に話してきかすからなの。ひとに聞かれるのは嫌でしょう? それに、人が聞いてると思うと、お話が駄目になってしまうんですもの。」  そのとき二人は、もうセーラの部屋の前の廊下に来ていました。アーミンガードはふと立ち止まって眼をみはり、息を呑んで、 「お話を-こしらえるんですって?」と喘ぐようにいいました。「そんなこと、あなたに出来るの?──フランス語みたいに? ほんとに出来て?」  セーラは驚いて、少女を見返しました。 「誰にだって出来るんじゃないの? あなたやってみたことないの?」  セーラは何か前ぶれするように少女の手を握りました。 「そうっとドアのところへ行きましょう。それからさっと戸をあけるわ。そうすれば、きっと捕まるから。」  セーラは笑っていましたが、その眼には神秘な望みが動いていました。アーミンガードは、なぜどうして何を捕えるのだか、さっぱりわかりませんでしたが、セーラの眼付きにはすっかり魅せられてしまいました。なんでもいい、きっと面白いことに違いない──アーミンガードは胸を躍らせながら、爪先ダッテ-セーラのあとから戸口に近づきました。不意にドアが開くと、コギレイに片づいた静かな部屋が眼に入りました。炉には穏やかに火が燃えていました。椅子の上には見事な人形が、ちゃんと本を読んでいました。 「あら、もう席にかえっているわ。」とセーラが叫びました。「いつだってああなのよ。稲妻みたいに早いんですもの。」  アーミンガードは、セーラから人形へ、人形からセーラへ眼を移しました。 「あのお人形──歩けるの?」 「ええ。どうしても歩けるはずだと思うの。歩けると思ってるつもりなのよ。そう思うとほんとにそう見えるんですもの。あなた、いろんなことのつもりになってみたことある?」 「いいえ、ちっともないわ。私──ね、お話ししてちょうだいな。」  エミリーは、少女が今まで見たこともない見事な人形でしたが、少女はセーラにすっかり魅せられてしまったので、風変わりなこの新しいお友達のホウへ眼を向けました。 「まあ、コシをかけましょうよ。」セーラはいいました。「お話を作るなんて、ほんとに造作もないことよ。そして、始めたらとても止められないの。エミリー、あなたも聞いてなくちゃあいけないことよ。この方はアーミンガード・セント・ジョンさんなの。アーミンガードさん、こちらはエミリーと申します。あなた、抱いてやって下さいましな?」 「抱いてもいい? ほんとによくって? まあ、綺麗だこと。」  それから一時間は、セント・ジョンにとって、今まで考えたこともないような楽しい時間でした。お昼のベルが鳴って、食堂に-おりて行くのもしぶしぶなくらいでした。  その一時間のあいだ、セーラは炉の前に身をちぢめて坐り、様々の不思議な話をしました。緑色の目は輝き、ホオにはベニがさしてきました。航海の話、インドの話──しかし、アーミンガードを一番うっとりさせたのは、お人形についてのセーラの空想でした。お人形がみんなのいない間に歩いたり、物をいったりする事、だがそれを隠す必要から、人の気配がすると、「稲妻のように」自分の席に飛び戻るのだという事などでした。 「私たちには真似も出来ないわねエ。まあ、手品みたいなものね。」  一度セーラがエミリーを探し回った話をした時、ふいにセーラの顔色が変わりました。暗い雲がオモテをよぎり、眼に充ちた輝きを消してしまったように思われました。セーラは激しく息を吸いこんだので、声も妙に悲しく、低くなりました。それから口を閉じ、何かをしようか、しまいか、どっちにしようかと思いまどうように、きりりと脣を引きしぼりました。アーミンガードは、たいていの子なら声をあげて泣き出すところだが、と思いました。セーラは、しかし、泣きませんでした。 「あなた、どこかお痛いの?」 「ええ。」セーラはちょっと黙って、それからいいました。「でも、体が痛いのじゃあないのよ。」それから何事かをしっかり言おうとして、つい小声になりました。「あなただって、世の中の何よりも、お父さまがお好きでしょう。」  アーミンガードは微かに口を開けたままでした。彼女は父を愛し得るなどと思ったことは、一度もありませんでした。のみならず、ほんの10分間でも父と二人きり向き合っていることを-さけるためには、どんなすてばちな事でもしかねない彼女でした。が、そんなことを口に出すのは、模範学校の生徒らしくないと思いました。で、彼女はひどく当惑して、 「わたし──私めったにお父さまと会うことなんかないのよ。」といいました。「お父さまは年中お書斎にいらしって──何か読んでばかりいらっしゃるんですもの。」 「私は世界を10倍したよりかも、お父さまのほうが好き。だから、わたし悲しいのよ。お父さまは、もう行ってしまいになったんですもの。」  セーラは頭を静かに膝の上にのせ、しばらくは身動きもしませんでした。アーミンガードは、セーラが今にも泣き出すかと思いましたが、セーラはやはり泣きませんでした。彼女はやがて顔を上げずにいい出しました。 「私お父さまに、悲しくてもこらえるってお約束したの。まだ私もきっとこらえ通すつもりよ。誰でもこらえなければならないのね。兵隊さんたちの我慢なんか大変なものだわ。私のお父さまは軍人なのよ。戦争でもあると、お父さまは喉のひりつくようなこともあるし、深手を負うことだってないとは言えないでしょう。でも、お父さまは一言だって、苦しいと仰ったことはないわ。」  アーミンガードは、セーラを見つめるばかりでした。この少女の胸には、セーラを憬れる気持ちが湧き始めて-いました。  ふと、セーラは顔を上げて、’妙な微笑を見せながら、黒い髪を背後に振り上げました。 「でも、こうしてつもりになるお話なんかしていると、私いくらか楽なのよ。苦しいことは忘れられないにしても、いくらかこらえやすくなるでしょう。」  アーミンガードは吾知らず喉がつまって、涙のこみ上げて来そうな気がしました。 「ラヴィニアとジェッシーは仲良しなのよ。私たちも仲良しになれればいいと思うの。あなた、私のお友達になって下すって? あなたはお利口で、私は学校じゅうで一番出来ないのですけど、私はあなたがほんとに好きなのよ。」 「私も嬉しいわ。好かれていると思うと、うれしいものね。本当に、これからお友達になりましょうね。」不意にセーラの顔は輝き’出しました。「あたし、あなたのフランス語のおさらいをしてあげましょうね。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【ロッティ】 ◇。◇。◇。◇。◇。  セーラが普通の子供だったら、次の十年間/ミス・ミンチンの学校で送った生活は、ちっとも彼女のためにならなかったかもしれません。セーラは、生徒というよりは、大事なお客ででもあるように待遇されていました。ミンチン女史は、心ではセーラを嫌っていましたが、こんな金持ちの娘を失ってはならないという欲から、事ごとにセーラをほめそやして、学校生活を飽かすまい-としました。セーラは幸い利発なよい頭を持っていましたので、甘やかされてつけ上がるような事はありませんでした。彼女は時々アーミンガードにこんな事を打ちあけるようになりました。 「人はふとしたはずみで、いろいろになるものね。私はふとしたはずみから、あんないいお父さまの子に生まれたのね。本当は私、ちっともいい気立てじゃあないのでしょうけど、お父さまは何でも下さるし、皆さんは親切にして下さるんですもの、気立てがよくなるより他ないじゃあありませんか。私が本当によい子なのか、嫌な子なのか、どうしたらわかるでしょうね。きっと私は身ぶるいの出るほど嫌な子なのよ。でも、私は一度もひどい目にあわなかったものだから、どなたも私のわるい所がわからないのだわね。」 「ラヴィニアだって、ひどい目になんかあわないけど‥‥。」アーミンガードはのろのろといいました。「でもあの人は、本当に嫌な人だわ。」  セーラは小さな鼻先を擦って、何かを思い出そうとしました。 「きっとあの人は、大人になりかけているからなのよ。」  いつかアメリア嬢が、ラヴィニアに、あまり育ち方が早いので、気立てまで変わり出しているのだろう、といっていたことがありました。セーラはそれを思い出して、こう云ったのでした。  ラヴィニアはまったく不快な娘でした。彼女はヒトカタならずセーラを嫉んでいました。セーラが来るまでは、彼女こそこの学校の首領だと思っていました。彼女は他の生徒たちがいうことをきかないと、意地悪く当たり散らすので、みんな怖がって、仕方なく彼女に従っていたのでした。ラヴィニアはどちらかというと綺麗なほうで、生徒が二列に並んで散歩に出る時などには、中で一番よい着物を着ていたのでしたが、今はセーラの贅沢な衣裳に押されている形でした。天鵞絨の服や、アーミンのマッフを着けたセーラは、いつもミンチン女史と並んで先頭に歩かされることになりました。セーラは初めはそれが嫌でなりませんでしたが、いつかセーラは、事実上みんなの上に立つようになりました。それももちろん、ラヴィニアのように意地悪をするからではなく、かえって決して意地悪などしなかったために、みんなから敬われるようになったのでした。 「でも、セーラ・クルーには一つこんな事があってよ。」と、ある時ジェッシーは正直にいったために、かえって仲良しのラヴィニアを怒らせたことがありました。「それは、セーラはちっとも偉がらないということなの。私がセーラなら、威張らずには-いられないけど。でも、ミンチン先生が、父兄にセーラを見せびらかすのを見ていると、胸がむかむかするわ。」 『さ、セーラさん、応接室へ行ってマスグレーヴの奥さんにインドのお話をして上げるのですよ。』ラヴィニアは、得意なミンチン女史の口真似を始めました。「『さ、セーラさん、ピトキン夫人にフランス語を聞かしてさし上げるのですよ。この子のアクセントは、それは確かなものでございますよ。』ですって、フランス語を学校で習ったわけでもないのにね。ただお父さんの喋ってるのを聞いてたから話せるというまでのことよ。それに、お父さんがインドの軍人だからって、ちっとも偉いことなんかありゃしないわ。」 「それはそうね。そのお父さんの殺した虎の皮が、セーラの部屋にあるのよ。セーラは毛皮の上に寝ては、頭の所を撫でたり、猫に話すように何かいいかけたりしているのよ。」 「あの子は、いつでも何かしら莫迦げた事をしているのね。」ラヴィニアは、声を高くしていいました。「うちのお母さんがいってたわ。あの子みたいに、ありもせぬことをありそうに考えるのは莫迦げているって。そういう女は大きくなってからエクセンドリックになるんですって。」  セーラの『偉がらなかった』のは本当でした。彼女は思いやりがあって、慎しやかな少女でした。で、持っているものは、惜しげもなく分けてやりました。いじめられている小さい子供たちは、よく労ってやりました。転んで膝小僧をすりむいたりしていると、母’らしく駈け寄って助け起こし、ポケットからボンボンを出してやるというふうでした。  だから、年下の少女たちはセーラを崇拝していました。彼女は幾度も嫌われている少女たちを自分の部屋に招いて、お茶の会をしました。そんな時にはエミリーも一緒に遊びの相手をしました。そして、エミリーもやはりお茶の仲間入りをするのでした。エミリーのお茶は、青い花模様のあるお茶碗に、うすめて-つがれるのでした。少女たちは、人形用の茶道具など見たこともありませんでした。で、それ以来’初級の少女たちは、セーラを女神か女王さまのように崇めはじめました。  ロッティ・レーなどは、しつこいほどセーラにつきまとうていました。セーラは母’らしい気持ちを持っていましたので、別にうるさいとも感じませんでしたが、ロッティも早く母を失った一人でした。彼女は誰かが、母のない子は特別可愛がらなければならないといっているのを聞き、いい気になって我儘をつのらせました。若い父親は彼女をもてあましたあげく、学校にでもいれるより他ないと思って、ここに連れて来たのでした。  セーラが初めてロッティの面倒をみてやったのは、ある朝のことでした。セーラがある部屋の前を通ると、誰かが怒って泣きわめく声と、それをおし鎮めようとしているミス・ミンチンと、アメリア嬢との声を聞きました。少女はなだめられるとよけい武者ぶりついて泣き立てるのでした。さすがのミス・ミンチンもそれにはたまりかね、室外に聞えるほどの声で-わめきはじめました。 「なんで、泣くんです。」 「うわあ、うわあ、うわあ、わたい──おおお母ちゃんがないイ!」 「まあ、ロッティったら!」アメリア嬢は金切ゴエを上げました。「泣くのはやめてちょうだいね。いい子だから、泣かないでね。後生だから。」 「うわあ、うわあ、うわあ」ロッティは嵐のように吠え立てました。「おおおおおかあちゃん──い──いないい!」 「この子は、鞭打ってやる。」とミス・ミンチンは宣告しました。「鞭で打ってやる。我儘モノめ。」  ロッティは更に大きな声を立てました。ミンチン女史の声も雷のようでした。とふいに、女史は裾を蹴って廊下に飛び出して来ました。女史はセーラを見ると、困った顔をしました。あの声を聞かれて困ったのでした。 「あら、セーラさん。」と、女史はつくり笑いをしました。 「私あの/ロッティちゃんだと思いましたので、立ち止まって居りましたの。──それに、私あの、きっと──きっと、あの子なら鎮めてさし上げられるだろうと思いまして、行ってみてあげてもよろしゅうございますか? 先生。」 「出来るならやって御覧なさい。あなたは利口だから。」先生は口を尖らしましたが、セーラが自分の剣幕に、おどおどしているのを見ると、急に顔をやわらげていいそえました。「あなたは何でもお出来になるから、きっとあの子の世話も出来るでしょう。おはいんなさい。」  ロッティは床に転がって、ひいひいいいながら、小さな肥った脚で猛烈に蹴り立てていました。アメリア嬢は真っ赤になって、ロッティの上にのしかかっていました。 「まあ、可哀そうね、お母ちゃんのないことも知っててよ。可哀そうにねエ──。」というかと思うと、今度は調子をがらりと変えて、「黙らないと振り回してやるぞ! そら、そら、また!この根性曲がりの憎まれっ子。ぶってやるから!」  セーラは静かに二人のそばへ行きました。 「アメリアさん。」と、セーラは小声でいいました。「あの/ミンチン先生が、とめてみてもいいと仰しゃいましたので。」  アメリア嬢はふり返って、 「あなたにとめられるつもりなの?」とおぼつかなさそうに喘ぎました。 「出来るかどうか、分かりませんけど、まあやってみますわ。」  アメリア嬢は/ほっと嘆息して、膝を立て直しました。ロッティはむくむくした脚を、またはげしく、じたばたやり出しました。  セーラはアメリア嬢を送り出すと、しばらく吠え立てるロッティのそばに、黙って立っていました。喚き声の他には何の音もしませんでした。ロッティにとってこんな事は初めてでした。涙の眼を開いて見ると、そこに立っているのはあのセーラでした。ロッティはセーラを認めるまで、ちょっとのま泣きやんでいましたが、すぐまた泣きはじめなければなるまいと、思ったようでした。が、そこらはあまり静かだし、セーラは黙って立っているので、泣くのにも気がのりませんでした。 「わたい──お──お──おかあちゃんが──ないイ!」 「あたしだって、ないわ。」  思いがけないセーラの言葉に、ロッティはたちまちじたばたするのをやめて、寝たままセーラのほうをじっと見はじめました。ロッティはまだ泣き足りない気持ちでしたが、やっと少し拗ね泣きが出来ただけでした。 「お母ちゃん、どこ?」 「お母さまは天国へいらしったのよ。でも、きっとときどき私たちに逢いにいらっしゃるのだわ。私たちの眼には見えないけど、あなたのお母さまだって、きっとそうなのよ。お二人は今頃、私たちを見ていらっしゃるかもしれないわ。お二人とも、きっとこの部屋にいらっしゃるのよ。」  ロッティはいきなりしゃんと坐って、あたりを見回しました。彼女は美しい巻毛を持っていました。つぶらな彼女の眼は、濡れしとったワスレナグサのようでした。  セーラは、母’のことをいろいろに話しつづけました。 「天国は花の咲いた野原ばかりなのよ。微風が吹くと、百合の匂いが青空に昇って行くのよ。そして、みんないつでもその匂いを吸っているのよ。小さい子たちは花の中を駈け回って、笑ったり、花輪を造ったりしているの。街はぴかぴか光ってるの。いくら歩いても疲れるなんてことはないの。どこにでも行きたいところへ飛んで行けるの。それから町のまわりには、真珠や金で出来た壁が立っているの。でも、みんなが行って寄りかかれるように低く出来ているのよ。みんなそこからゲカ-イを覗いては、にっこり笑って、そしていいお便りを送って下さるのよ。」  セーラがどんな話をしたにしても、ロッティはきっと泣きやんで、うっとりと聞きとれたことでしょう。ましてこの話は、他のどんな話よりも美しいものでした。ロッティはセーラのほうにすり寄って、一言一言に夢中になっているうち、いつの間にかもうおしまいになってしまいました。ロッティはあまりの名残り惜しさに、またしても泣き出しそうな口の尖らせ方をしました。 「わたいも、そこへ行きたいわ。わたい──学校、お母ちゃんいないイ!」  セーラはロッティがまた泣き出しそうなのを知ると、自分の夢からさめて、ロッティのむっちりした手をとり、自分のそばへ引きよせました。 「私、あなたのお母ちゃんになってあげてよ。あなたは私の娘、エミリーはあなたの妹よ。」  ロッティの泣き顔に、えくぼが湧いて来ました。 「ほんと?」 「ええ」:セーラは飛び起きました。「さ、行って、エミリーちゃんにも、お姉さんが出来たって話してあげましょう。それから、あなたのお顔を洗って、髪を結ってあげるわ。」  ロッティはすっかり元気になって肯きました。彼女は今まで小一時間も騒いでいたのは、チュウハンマエに顔を洗ったり、髪を梳いたりするのが嫌だったからだということも、けろりと忘れているようでした。彼女はセーラと一緒にちょこちょこと部屋を出て、二階へ上って行きました。  そのとき以来、セーラは養母さまになったのであります。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 【ベッキー】 ◇。◇。◇。◇。◇。  セーラは贅沢な持ち物や、学校の『看板生徒』である事実によっても、たくさんの崇拝者を造りましたが、それにもまして人を惹きつけたのは、お話が上手だということでした。セーラが話すと、どんなくだらない事でも、立派なお話になってしまうのでした。ラヴィニアなどはセーラのその力を大変羨ましがっていましたが、多少の反感を持って近づいて行っても、セーラの話の巧さには、つい酔わされてしまうのでした。  あなたがたも学校で、みんなが夢中になって、話の巧い人を取りかこむ所を見たことがあるでしょう。セーラはお話が巧いばかりでなく、彼女自身お話をするのが大好きでした。みんなにとりまかれて自分でつくったお話をするとき、セーラの緑色の眼は輝き、ホオはベニをさすのでした。彼女は話しているうちに知らず識らず物語にふさわしい声色や身振りを始めるのが常でした。セーラは少女たちが耳を澄ましていることなど、いつの間にかに忘れてしまいました。セーラの眼に見えるのは、お話の中の妖精たちや、王さま、女王さま、美しい貴婦人たちなどなのでした。語り終った時、セーラは興奮のあまり息を切らしてしまうこともありました。そんな時、セーラはどきどきする胸に手を当て、自分を嘲笑うかのようにこういうのでした。 「私、お話をしていると、あなたがたや、この教室よりも、話していることのほうが、ずっとほんとらしく思えてくるのよ。私はお話の中の人になっているような気がするの、何だか変ね。」  セーラがミンチン先生の塾に入ってから、二年目の冬でした。ある薄霧の日の午後、セーラが厚い天鵞絨や毛皮にくるまって馬車から降りると、みすぼらしい小娘が、地下室の入口に立っていました。少女は首を長くして、一生懸命にセーラを見ていました。セーラはおどおどしている少女にふと目を惹かれました。眼が合うとセーラはいつものように、にっこり笑いました。  が少女のほうは、有名なセーラを盗み見たりしたら、きっと叱られるとでも思ったらしく、まるでびっくりバコの中の人形のように、ひょこりと台所の中へ隠れてしまいました。ふいにひょこりと消えてなくなったので、セーラは危うく笑い出すところでした。が、その少女はあまりみすぼらしく、あまり寂しそうなので、笑うことも出来ませんでした。その晩のことでした。セーラが教室でいつものお話をしているところへ、その少女は重そうな石炭箱を持って、こそこそと入って来ました。少女は炉の前に跪き、火をおこしたり、灰をかき取ったりしていました。  少女はさっきよりはきちんとしていましたが、相変らずおどおどしていました。話を聞きに来たのだと思われてはならないとでも思っているらしく、音を立てないように手でそっと石炭を入れたり、火箸を動かしたりしていました。しかしセーラはすぐ、少女がセーラの話に気を取られていること、セーラの言葉を聞き洩すまいと、休み休み火をおこしていることなどを、見てとりましたので、セーラは声をはり上げては、はっきりと話しつづけました。 「人魚たちは、真珠で編んだ綱を曳いて、青ズイショウのような水の中を静かに泳ぎ回りました。お姫さまは白い岩の上に坐って、それを見守っていらっしゃいました。」  それは、人魚の王子さまに愛されたお姫さまの面白いお話でした。姫は海の底の眩しいような洞穴の中に王子と住んでいたのでした。  少女は一度炉を掃き清めてしまうと、同じ事を二度も三度も繰り返しました。三度目の掃除が終わると、跪いていた踵の上にぺたりと腰を落して、酔ったようにセーラの話に聞き入りました。彼女は、いつか海の底の立派な御殿に引きこまれていました。身の回りには珍しい海草がなびき、遠くのほうから美しい音楽が聞えて来るような気がしました。  箒が少女の荒れた手からことりと落ちました。ラヴィニアは少女のホウへ振り向きました。 「あの子、聞いてたのよ。」  とがめられた少女は、いきなり箒を取り上げ、石炭箱を抱えて、怯えた野ウサギのようにそそくさと出て行きました。  それを見ると、セーラはむらむらして来ました。 「私、あの娘が聞いているのを知っていたのよ、なぜ聞いてちゃあいけないの?」  ラヴィニアはオオ気取りで頭を振り上げました。 「そりゃあ、あなたのお母さんは、女中にお話をしてやってもいいと仰るかもしれませんさ。だけど、私のお母さんは、そんなことしちゃあいけないと仰ってよ。」 「私のお母さんですって?」セーラは吃驚したようにいいました。「ママはきっといけないなんて仰しゃらないと思うわ。ママは、お嬢さんであれ、女中であれ、誰であれ、同じようにお話を聞いていいとお思いになってるわ。」 「でも、あなたのママは、もうお亡くなりになったんでしょう。亡くなった方に、どうしてそんなことが分かるの?」 「じゃあ、ママにそれが分からないって仰るの?」セーラは低い、厳しい声でいいました。すると、ロッティがそこへ口を出しました。 「セーラのママは、何でも知ってるのよ。あたいのママもよ。──ここでは、セーラがあたいのママだけど、もう一人のママには何でも分かるのよ。往来はぴかぴか光ってて/どこもかしこも百合の原で、みんな百合を摘んでるの。いつだったか、あたいが寝るとき、セーラちゃんが話してくれたわ。」 「まあ悪い人。」ラヴィニアは、セーラのほうに向き直っていいました。「天国のことを、お伽噺にして話すなんて。」 「でも、聖書の黙示録の中には、もっと素敵なことが書いてあってよ。ちょっと開けて読んで御覧なさい。私のお話がお伽噺だか、お伽噺でないか、どうして分かるの? もう少しお友達に対して親切な心持ちを持ってごらんなさい。そうすれば、私のお話がお伽噺じゃないことも分かるでしょう。さ、ロッティ/向こうへ行きましょう。」  セーラはロッティと連れ立って歩いて行く間も、そこらを見回してみましたが、あの小娘はどこにも姿を見せませんでした。  その晩、セーラは女中のマリエットに、 「あの火をおこしに来る子は、なんていうの?」  と訊ねてみました。マリエットは、その子についていろいろのことを話してくれました。  いかにも、セーラの嬢さまのお訊きになりそうなことだと、マリエットは思いました。あの寂しそうな小娘は、ついこのあいだ/日働きに雇われたばかりなのでしたが、台所に限らず、どこにでも追い使われているのでした。靴や金具を磨かされたり、重い石炭箱の上げ下ろしをさせられたり、床や窓の雑巾がけをさせられたり。──身体の発育が悪いので、十四なのに十二くらいにしか見えませんでした。マリエットも、少女が可哀そうでならないと思っているところでした。ひどく内気で、人から物をいいかけられたりすると、眼が顔から飛び出しそうに怯えるのでした。  セーラはテーブルに頬杖をついて、マリエットの話を聞いていましたが、そこまで来ると 「なんて名前なの?」とまた訊ねました。  名前はベッキーでした。マリエットは台所で、五分とマをおかず、「ベッキー、これをおし。」とか「ベッキー、あれをおし。」とかいう声を聞くのでした。  セーラは一人になってからしばらくのあいだ、炉の火を見つめながら、ベッキーの事ばかり考えていました。いつかセーラは、ベッキーを可哀そうな物語の女主人公にしていました。あの娘は食べ物さえお腹一杯はあてがわれていないのに違いないと、セーラは思いました。  それからニサン週間経った頃でした。やはり薄霧のかかった午後でした。居間に帰ってきたセーラは、自分の安楽椅子の中に、ぐっすり眠りこんでいるベッキーを見つけました。ベッキーの鼻の先や、前掛けのそこここには、スミがついていました。見すぼらしい帽子は落ちかけていました。  ベッキーはその午後、生徒たちの寝室を片付けるようにいいつけられたのでした。彼女はお姫さまの部屋のように美しいセーラの部屋は、一番おしまいに片付けることにしました。寝室はかなりたくさんあったので、それを片付け終って、セーラの部屋に来た時には、小さな足も痛むばかりでした。で、暖かな炉のそばに腰を下ろすと、汚れた顔にものうげな微笑を湛えたまま、つい快い眠りにおちてしまったのでした。  ベッキーが足の痛くなるほど働き回っていた間、セーラは舞蹈のお稽古で夢中になっていました。薔薇色の服を着け、黒い髪の上には薔薇の冠を載せ、まるで薔薇色の蝶々のように、新しい舞蹈の練習をしていたのでした。習ったばかりの足どりで、踊りながら居間に飛びこんで、そしてあの眠っている小娘を見つけたのでした。 「まあ。」セーラは思わず小さい声でいいました。「可哀そうに!」  セーラは、大事な椅子に薄汚い子が掛けているのを見ても、腹を立てるどころか、かえってベッキーに逢えてよかったと思いました。ここに眠っているのは、セーラの作ったお話の主人公で、彼女が眼を覚ましさえすれば、セーラはその主人公のお話をすることも出来るのです。セーラは、そっとベッキーのほうに歩みよりました。ベッキーは微かにいびきをかいていました。 「自然に眼を覚ましてくれればいいが。」とセーラは思いました。「そっと眠らしといてあげたいけど、ミンチン先生に見つかりでもすると、きっと叱られるから、可哀そうだわ。もうちっとのあいだ、そっとしといてあげましょう。」  セーラはテーブルの端に腰かけて、細い脚をぶらぶらさせながら、どうするのが一番いいかと、思いまどいました。今にもアメリア嬢が入ってこないとも限りません。そうすれば、ベッキーはきっと叱られるに違いありません。 「でも、とても疲れているのね。」  セーラがそう思ったとたん、一塊の石炭が燃え砕け、炉枠にぶっつかって、音を立てました。ベッキーは怯えて飛び上がり、息をはずませながら、大きな眼をあけました。ベッキーはいつの間にか寝てしまったのだとは思いませんでした。ちょいと坐って、身体を暖めていただけなのに──と、ここでベッキーは、自分が眼をお皿のようにして、薔薇色の妖精みたいなあの評判なお嬢さんと向き合っているのに、気がつきました。  ベッキーは躍り上がって、落ちかけた帽子を掴みました。私はとうとう罰を受けるようなことをしでかしてしまった。シャアシャアとこの小さい貴婦人の椅子の中で眠ったりして、きっと私はお給金ももらえずに、追い出されてしまうのだろう。  ベッキーは息もつまるばかりに、すすり泣きをはじめました。 「お嬢さま、お嬢さま! か、かんにんして下さいまし、どうか、かんにんして下さいまし。」  セーラは椅子から飛び降りて、ベッキーのそばへ行きました。 「なんにも怖いことはないのよ。」セーラは自分と同じ身分の娘にでもいうようにいいました。「ここでは、眠ったってちっともかまわないのよ。」 「私は、眠るつもりなんかちっともなかったのでございますよ、お嬢さま。ただこの火があんまりほかほかといい気持ちなので──それに私、疲れていたものですから、決して厚かましく寝こんだわけではないのでございますから。」  セーラはふと親しげに笑って、ベッキーの肩に手をかけました。 「あなた/疲れていたのね。眠るのも無理はありませんわ。まだ眼が覚めきらないんでしょう。」  ベッキーはたまげたようにセーラを見返しました。ベッキーは今までこんなやさしい/情の籠った声を聞いたことはありませんでした。用をいいつけられたり、叱られたり、耳をぶたれたりばかりしているベッキーでした。それなのに、この薔薇色の舞蹈服を着たお嬢さんは、同じ身分の娘ででもあるかのように、ベッキーを見ているのです。そして、ベッキーは疲れるのが当たり前だ──居眠りするのさえ当たり前だ、というような眼でベッキーを見ているのです。セーラはその細い柔らかな手先を、ベッキーの肩にのせています。そんなことをされる気持ちもベッキーは、まだ味わったことがありませんでした。 「あの、あの、お嬢さま。怒ってらっしゃるのじゃあございませんの? 先生たちにいいつけたりなさりゃあしません?」 「いいえ、そんなことするものですか。」  汚れた小娘の顔が、おどおどしているのを見ると、セーラは見ていられないほど気の毒になりました。 「だって、あなたも私も、同じ小娘じゃあありませんか。私があなたのように不幸でなく、あなたが私のように幸せでないのは、いわばアクシデントよ。」  ベッキーには、セーラのそういう意味がちっとも分かりませんでした。ベッキーが『アクシデント』だと思っているのは、人が車に轢かれたり、梯子から落ちたり、あの嫌な病院へ連れて行かれたりする、そうした災難のことだったのでした。ベッキーの分からないのを察しると、セーラは話題を変えました。 「もうご用’すんだの? もうしばらくここにいても大丈夫?」 「ここにですって? お嬢さま、あの私が?」 「そこらには誰もいないようよ。だから、ほかの寝室を片付けてしまったのなら、ちょっとぐらいここにいてもいいでしょう? お菓子でも一つ上がらない?」  それから10分ほどのあいだ、ベッキーはまるでネツに浮かされたようでした。セーラは戸棚から厚く切ったお菓子を一切れ出して、ベッキーにやりました。セーラは、ベッキーがそれをがつがつ食べるのを、うれしそうに見ていました。セーラが心おきなく話しかけるので、ベッキーも、いつか怖れを忘れ、思いきってこんなことまで問うようになりました。 「あの、そのお召しね? ──それ、お嬢さまの一番いいお着物?」 「まだこんな舞蹈服はいくらもあるけど、私はこれが好きなのよ。あなたも好き?」  ベッキーは感嘆のあまり、しばらく言葉も出ないようなふうでしたが、やがてびくびくした声でいいました。 「私いつか、プリンセスを見たことがあるの。公園の外の人混に混じって見ていると、いい着物を着た人たちが行くなかに、ひとり桃色づくめのナリをした、もう大人になった女のかたがあったの。それがプリンセスだったのよ。今しがた、あなたがテーブルに腰かけていらっしゃるのを見た時、私はその女の人を思い出したのよ。お嬢さまはちょうど、そのプリンセスそっくりなのだもの。」  セーラは一人言のようにいいました。 「私、時々こんなことを考えたことがあるわ。私もプリンセスになりたいなあって。プリンセスになったら、どんな気持ちでしょう。きっともうじき、プリンセスになったつもりを始めるのでしょう。」  ベッキーは眼をお皿のようにして、セーラに見とれていました。が、相変らず、セーラが何をいっているのだか分かりませんでした。セーラは、じき吾にかえって、ベッキーに問いかけました。 「ベッキー、あなたこの間、私のお話を聞いていたんでしょう。」 「聞いてました。」ベッキーはちょっとまたどぎまぎしました。「私、聞いたりしちゃあいけないと思ったんだけど、でも、あのお話、あんまり面白くって、私──聞くまいと思っても、聞かずにいられなか-ったの。」 「私も、あなたに聞いてもらいたかったのよ。誰だって聞きたい人に話してあげたいものでしょう? あの話のつづき聞きたくない?」 「私にも聞かして下さるって? あのお嬢さまがたのように? 王子さまのことや、白い人魚の子のことや、お星さまの飾りをつけた髪のことや、みんな聞かして下さるのですって?」 「でも、今日はもう時間がないから駄目じゃあない? これからお掃除に来る時間を教えて下されば、私その時お部屋にいて、少しずつお話ししてあげるわ。かなり長くて、綺麗なお話よ。それに私、繰り返して話すたびに、何かしら新しいことをいれるのよ。」  セーラの部屋を出たベッキーは、今までの可哀そうなベッキーではなくなりました。彼女のポケットには、余分にもらったお菓子がありました。いかにも満腹そうです。そして暖かそうでした。彼女のお腹を充し、身体を暖めてくれたのは、お菓子や火ばかりではありません。お菓子でも火でもなく、ベッキーを養い暖めてくれたものは、もちろんセーラでした。  ベッキーが出て行ったあと、セーラは、テーブルの端に腰を下ろし、椅子の上に脚をのせ、脚に肱をついて、それに顎をのせました。 「もし、私が本当のプリンセスだったら、私は人民に贈物を撒きちらすことが出来るんだけどな。プリンセスのつもりになっただけでも、皆さんのためにしてあげられることは、いろいろあるわ。たとえば、ベッキーをいい気持ちにしてやるということは、贈物をするようなものだわ。私は、これから人をよろこばすことは、贈物をするのと同じだというつもりになろう。そうすると、私は今、ベッキーに一つの贈物をしたばかりだということになるのね。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 【ダイヤモンド鉱山】 ◇。◇。◇。◇。◇。  セーラがベッキーと近づきになってからしばらくの後、心を躍らすようなことが起りました。セーラ自身’胸を躍らしたばかりでなく、学校じゅうの生徒も胸を躍らして、それからナン週間ものあいだ、寄ると触ると、その話ばかりしていたというほどの事でした。それは、クルー大尉からセーラへ来た手紙の中に書いてあったのでした。ある日、クルー大尉の同窓生の一人が、インドに訪ねてきて、現在採掘中のダイヤモンド鉱山が、順調に行けば非常な利益を挙げることになるので、クルー大尉もこの事業の仲間入りをしてはどうかと、勧めたのだそうでした。何かほかの事業でしたら、セーラ初め学校の中の少女たちは、どんなにお金が儲かるにしても、あまり気にとめずにすんだでしょうが、ダイヤモンドの鉱山だというので、『アラビアン・ナイト』を聞いた時のように、耳をそばだてたのでした。  セーラはそのことで夢中になりました。で、アーミンガードやロッティに説明するため、地の底の迷園のような道を-えがいて見せたりしました。その穴道の中では、黒ん坊が、そこらじゅうに光っている宝石を掘り出しているのでした。  ラヴィニアは、その話をせせら笑って、ジェッシーにいいました。 「私のお母さんは、四百円もするダイヤモンドを持ってるのよ。でも、それだってそんな大きい石じゃあないのよ。それなのに、ダイヤモンドの山なんか持ってる人があるとすれば、お金がありすぎて莫迦げて見えるわ。」 「セーラさんは、莫迦げたほどのお金持ちになるのかもしれないわね。」 「あの子は、お金があったって、なくたって、莫迦げた子じゃあないの。」 「あなた、セーラが嫌いらしいのね。」 「嫌いじゃあないわ。でも、ダイヤモンドの鉱山があるなんて、わたし信じられないわ。」 「山がないとすると、ダイヤモンドはどこから採ってくるのでしょうね。」ジェッシーはくすくす笑いながらいいました。「あなた、ガートルードが、なんといったとお思いになる?」 「知らないわ。セーラのことなら、もう聞かないでもいいことよ。」 「ところが、やっぱりセーラのことなのよ。あの人、この頃プリンセスのつもりってのも始めたんですって。アーミンガードにも、プリンセスのつもりになれっていうんだそうよ。でも、アーミンガードは、プリンセスにしては肥りすぎているから駄目だっていってるのよ。」 「あの子は、ほんとに肥っちょね。そして、セーラは痩せっぽちときているわ。」  ジェッシーは吹き出しました。 「セーラは、そのつもりになるためには、顔とか持ち物とかは、どんなでもかまわないっていうのよ。何を考え、何をするかということが、かんじんなんですって。」 「きっとあの人は、自分が乞食であっても、プリンセスになれると思ってるんでしょうよ。これから、セーラを『殿下』と呼んでやりましょうか。」  ストーブの前で、ラヴィニアがまだしゃべっている所へ、戸が開いて、セーラがロッティと一緒に入って来ました。ロッティはまるで小犬のように、セーラの行く所へはどこにでもついて行くのでした。 「ほら、セーラが来た。またあの嫌な子を連れて。」ラヴィニアは小声でいいました。「そんなに可愛いなら、自分の部屋の中に飼っとけばいいじゃないの。いまにまたきっと’吠え出すことよ。」  ロッティは果たして、何程もたたないうちに’吠え出しました。セーラはその時、窓のそばでフランス革命の本を、夢中になって読んでいたのでした。で、ロッティの-わめき声を聞いて、夢から覚まされた時には、さすがに嫌な気持ちがしました。本の好きな人は、誰でもそうでしょうが、セーラは読書の邪魔をされると、妙に腹が立ってならない性質でした。その気持ちをセーラはいつかアーミンガードに内緒で話したことがありました。 「そんな時には、誰かにぶたれたような気がするの。すると、私もぶちかえしてやりたくなるの。だから、そんな時には、つい失礼なことなど口走るといけないから、大急ぎでいろいろの事を思い出さなければならないのよ。」  ロッティははじめ教室の床’の上を辷り回っていたのでしたが、とうとう転んで丸い膝をすりむいたのでした。 「たった今お黙り、泣き虫坊主! 早く黙らないか/」と、ラヴィニアがいいました。 「わたい、泣き虫じゃない、泣き虫じゃあない。セーラちゃあん、セーラちゃあん。」と、ロッティは金切ゴエで-わめきました。  ジェッシーは、ミンチン先生に聞えると大変だといって、ロッティに、 「五銭ダマをあげるから、お黙んなさいね。」といいました。 「五銭ダマなんか、欲しかあない!」  そこへ、セーラが本を棄てて飛び出てきたのでした。 「ほうら、ロッティちゃん。セーラに約束したのを忘れたの?」 「あの人が、わたいを泣き虫っていったんだい。」 「でも泣けば、泣き虫になるわ。いい子のロッティちゃん、あなたは泣かないってお約束したんじゃあないの。」  ロッティはその約束は思い出しましたが、それでも泣き声をあげるばかりでした。 「わたい、お母ちゃんがないイ。わたい、お母ちゃん、これんばかしも、ないイ!」 「いいえ、ありますとも。」と、セーラはにこにこしながらいいました。「もう忘れたの? セーラがあなたのママだってことを忘れたの? お母ちゃんのセーラは、もう要らないの?」  ロッティはやっと少し笑顔になって、セーラに縋りつきました。 「さ、一緒に窓の所に坐りましょう。そして、小さい声であなただけにお話ししてあげましょう。」 「ほんとにしてくれる? あの、ダイヤモンドのお山のお話、してくれる?」  それを聞くと、ラヴィニアは、 「ダイヤモンドの山ですとさ。」と口を出しました。「私、あの意地悪’の駄々っ子を、ぶってやりたいわ。」  セーラはいきなり立ち上がりました。セーラとても/エンゼルではない以上、ラヴィニアまで愛すわけにはいきませんでした。 「あなたをこそぶってあげたいわ。だけど、私あなたをぶつのなんか嫌だわ。ぶってやりたいけど、ぶつのはよすわ。あなただって、私だって、もう物が分かってもいい年頃なんですものね。」  ラヴィニアは、得たりとそこへつけこみました。 「さようでございますよ、殿下。私共はプリンセスなんでございますものね。少くとも二人のうちの一人はそうなんでございますものね。ミンチン先生は、プリンセスを生徒にお持ちだから、私たちの学校も今は有名なものですね。」  プリンセスのつもりになる事は、セーラにとって、たくさんのつもりの中で、一番大切なものでした。大切なだけ、人に知られたくないつもりでした。それを、ラヴィニアは今、ほとんど学校じゅうの生徒の前で、嘲ったのでした。セーラは顔がほてり、耳が鳴るのを覚えました。彼女は今にもラヴィニアをぶちそうでしたが、セーラはやっとのことで怒りをこらえました。かりにもプリンセスと呼ばれるものが、怒りに駆られたりしてはならないと彼女は思いました。セーラは手を垂れて、しばらくじっと立っていました。口を開いた時、セーラの声はもう落ち着いて、しっかりしていました。「仰しゃる通り私は、ときどきプリンセスになったつもりでいるのよ。プリンセスのつもりになれば、自然プリンセスのように立派な振舞が出来るかもしれないでしょう。」  今までにもよくそんな事がありましたが、ラヴィニアはセーラに何と答えていいかわかりませんでした。というのは、周りの人たちが、何かセーラのほうに味方しているようだったからです。少女たちは、実をいうと、みんなプリンセスが好きだったのです。で、いま話に出たプリンセスというのは、どんなプリンセスなのかそれをもっと詳しく知ろうとして、セーラのそばへ寄り集まって来ました。  ラヴィニアはやっと一言、いうべきことを考え出しました。が、それも奇抜なものではありませんでした。 「あああ、じゃあ、あなたが玉座に上がる時には、私たちのこともお忘れにならないでね。」 「忘れるものですか。」  セーラはそれだけいうと、ラヴィニアがジェッシーと腕を組んで出て行くのを、黙って見ていました。  それ以来、セーラを嫉んでいる少女たちは、なにか辱めてやりたい時に限って、セーラを『プリンセス』といいました。またセーラの好きな少女たちは、セーラへの愛のしるしに、セーラを『プリンセス』と呼ぶようになりました。それを聞いたミンチン女史は、生徒の父兄が見えた時、幾度も『プリンセス』の話をしました。『プリンセス、プリンセス』というと、この塾が何か貴族の学校のように、お上品に見えるだろうと思ったからでした。  ベッキーは、セーラを『プリンセス』と呼ぶほどふさわしいものは無いと思いました。彼女はいつかの薄霧の日以来、ミンチン女史や、アメリア嬢に隠れて、セーラと親しくなるばかりでした。セーラからお菓子をもらって、屋根裏の自分の部屋に帰るとき、ベッキーはいいました。 「このお菓子、気を付けて食べないと大変なのよ、お嬢さま。うっかりパン屑なんかと一緒に置いとくと、鼠が出てきて、食べてしまうのよ。」 「鼠が?」セーラは怖くなりました。「あそこに、鼠がいるの?」 「どっさりいますよ、お嬢さま。」ベッキーは平気でした。「大鼠や、ハツカネズミがたくさんいるわ。ちょろちょろ出て来て、うるさいけど、慣れればやかましいとも思わないわ。ただ枕の上を飛び越えたりされると、嫌ですけど。」 「あら。」 「なんだって少し慣れれば平気になるのよ。小使娘に生まれると、いろんな事に慣れなけりゃあなりませんよ。油虫なんかよりは、鼠のほうがよっぽどましだわ。」 「私もそう思うわ。鼠となら、時がたてばお友達になれるかもしれないけど、油虫となんて、とても仲良くなれないと思うわ。」  時とすると、ベッキーはセーラの部屋に五分といられないことがありました。そんな時には、セーラはちょっと話して、それからベッキーのポケットに何かを入れてやるのが常でした。セーラはよくベッキーに与えるために、カサのない何か変わった食べ物を探し歩きました。初めてミート・パイを買って帰った時には、セーラはいいものを見つけてきたと思いました。ベッキーはそれを見ると眼を輝かせて、 「まあお嬢さま、これはおいしくて、お腹がふくれて、ほんとに結構ですわ。カステラなんか、それはおいしいけど、じきお腹がすいてしまって──お嬢さまなんかには、おわかりにならないかもしれませんけど。」  そのほかベッキーの気に入ったのは、牛肉のサンドウィッチ、巻きパン、ボロニアソーセージなどでした。で/今はベッキーも、お腹がすいたり、疲れ果てたりするようなことはなくなりました。石炭箱もそんなに重いとは思わなくなりました。料理人などにいくらいじめられても、午後にセーラの部屋へ行けると思うと、辛くはありませんでした。セーラの顔さえ見ることが出来れば、おいしいものなどもらわないでもいいくらいでした。  セーラが十一歳のお誕生日を迎えるニサン週間前、インドの父から一通の手紙が届きました。手紙を見ると、父がいつものような子供らしい元気に充ちて書いたのではないということが、セーラにはわかりました。父は身体があまりよくないらしいのでした。ダイヤモンド鉱山の仕事が忙しすぎるのに違いありませんでした。手紙には、こう書いてありました。 「セーラよ、お父さんは、知っての通り/事務家ではない。数字や、書類はひどく私を苦しめる。熱があるせいだろう、夜中まで寝られないで、よろよろ歩き回っている。やっと寝ついたかと思うと、嫌な夢ばかりだ。私の小さい奥さんがそばにいてくれたら、きっと何かよい忠告をしてくれるにちがいないと思う。きっと何かいってくれるだろうねエ。」  セーラはませた様子をしていたので、父はよく冗談に『小さな奥さま』と呼んでいたのでした。  父はセーラの誕生日のため、パリーに新しい人形をあつらえたのでした。その人形の衣裳といったら大したものでした。父はセーラに、人形の贈物は好ましいかどうかと訊ねて来ました。それに出したセーラの返事は、なかなかふるったものでした。 「私は、だんだん年をとってきたので、またお人形を戴くまで生きていられないだろうと思います。だから、今度戴くお人形は、最後のお人形となるでしょう。そう思うと、なんだかいろいろ考えさせられます。出来るなら『最後の人形』という題の-しでも作りたいのですが、でも、私には-しは書けません。幾度も書いてみたのですが、吹き出すようなものばかりしか出来ませんでした。詠んでみても、ワッツや、コルリッジや、シェイクスピアのように美しくは聞えないのです。どんなお人形も、エミリーの代わりにはなりません。が、今度下さる『最後のお人形』は十分大事にするつもりです。皆さんがきっと大騒ぎなさるでしょう。人形のきらいな子なんてありませんもの。もっとも十五くらいの方たちは、もう大きくなったから、お人形となんか遊ばないというような顔をしておいでですが、その方たちだって、好きでないわけはないのです。」  インドのバンガローにこの手紙の着いた時、クルー大尉はちょうど割れそうな頭痛に苦しめられていたのでしたが、手紙をよむと、幾十にち目かで思わず笑い出しました。 「あの子は一年ごとに面白くなってくる。神さま、どうかこの仕事がひとりでに片付いて、私が自由にあの子の所へ飛んで行けるようにして下さい。たった今、あの子の腕が私の首にまきついてくるとしたら、そのためには何でもあげる。どんなものでもあげる。」  セーラのお誕生日は、大げさに祝われることになりました。贈物の箱は、飾った教室で、みんなの目の前で-あけられ、そのあとで、ミンチン先生のお部屋でご馳走があるはずでした。その日が来ると学校の中は-みょうにそわそわとしておりました。朝のウチはみんな夢中になって飾りつけをしました。  その朝、セーラが居間に入って行くと、テーブルの上に、褐色の紙に包んだ、小さなふくれ上がったものが置いてありました。誰から贈られたのだか、セーラにはたいていわかっていました。そっとといてみると、なかは針さしでした。あまり美しくもない赤フランネルに、黒いピンが『おめでとう』という字の形に並んでささっていました。 「一生懸命こしらえてくれたのだわ。あんまりうれしくて、何だか悲しいような気がするわ。」  が、針さしのシタに着けてある名刺を読んだ時には、セーラは何だか狐につままれたような気がしました。名刺にはきれいな文字で、『ミス・アメリア・ミンチン』と書いてありました。 「アメリアさんですって? そんなはずはないわ。」  セーラが名刺を見ながら、そういっているところへ、ドアをそっと押して、ベッキーが顔を出しました。 「それ、お気に入って? お嬢さま。」 「気に入らないはずがあるものですか。ベッキーさん、あなた何から何まで自分で作って下すったのね。」  ベッキーはヒステリックに、しかしうれしそうに、鼻先で笑いました。眼はうれしさのあまり潤んでいました。 「フランネルのフルギレなんですけどね、お嬢さまに何かさし上げたいと思って、幾晩も幾晩もかかってこさえたんですの。お嬢さまはきっとそれを、繻子のヂへダイヤモンドのピンがささったつもりになって下さると思ったから。わたしだって、そのつもりでこさえていたのよ。それから、その名刺はねえ、お嬢さま。それ、わたし/塵箱から拾って来たんだけど、いけなかったかしら? アメリアさんが棄てた名刺なの。わたし、名刺なんて持ってないし、名刺がなくちゃあほんとの贈物にならないと思ったもんだから──それで、アメリアさんのをつけてあげたのよ。」  セーラはベッキーに飛びついて、ひしと彼女を抱きしめました。なぜか、妙に喉のつまる気がしました。 「ベッキーちゃん。」セーラは一種変わった笑い方をしました。「私、ベッキーちゃんが大好きよ。それはそれは好き!」 「まあお嬢さま。もったいないわ、お嬢さま。そんなにしていただくような贈物でもないのに。あの、──あのフランネルはフルモノだし。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 【その後のダイヤモンド鉱山】 ◇。◇。◇。◇。◇。  お誕生日の午後、セーラは着飾ったミンチン先生に手を引かれ、先頭に立って、柊で飾られた教室に入って行きました。セーラのうしろには、『最後の人形』の箱を持ったシモベが続きました。次は第二の贈物の箱を持った女中、それからさっぱりした前掛けを掛け、新しい帽子を被ったベッキーが、やはり贈物の箱を持ってついてきました。  セーラは本当は、そんな仰山な真似はしたくなかったのでしたが、ミンチン先生はわざわざセーラを自分の部屋に呼んで、自分と一緒に行列の先頭に立てと仰ったのでした。セーラがぎょうぎょうしく教室に入って行くと、上級の少女たちは肱をつきあいました。小さい少女たちはただ嬉しそうにざわざわ言いはじめました。それを見ると、セーラは何となく気はずかしくなるのでした。ミンチン先生は 「皆さん、静かになさい。」と一応注意してから、シモベタチに向って、 「ジェームス、その箱をテーブルの上に置いて、蓋をお開けなさい。エムマ、お前のは椅子の上にお置きなさい。それから、ベッキー/」と急にきびしい口調でいいました。ベッキーはちょうどロッティと眼を見合せながら、ニヤニヤしているところでしたので、ミンチン先生の尖った声を聞くと、びっくりして/一種’滑稽なお辞儀をしました。それを見ると、ラヴィニアやジェッシーはくすくす笑い出しました。 「脇見なんかしてちゃあいけません。その箱を下に置くんですよ。それがすんだら、お前たちは向こうへ’行くんですよ。」  シモベと女中が退いてしまうと、ベッキーは思わずテーブルの上の箱のホウへ首を伸ばしました。青繻子で出来た何かが、薄い包紙の皺の間に、透いて見えました。 「あの、ミンチン先生。」とセーラは突然いいました。「ベッキーさんだけは、もうちょっとのあいだ、ここにいてもいいでございましょう?」 「ベッキーなんかを、どうしてここに置くのです。」 「でも、あの娘だって贈物を見たいでしょうから。あの娘だって、私たちと同じ小さい女の子なのですもの。」 「まあ、セーラさん、ベッキーは下女ですよ。下女なんて──あなたがたのようなお嬢さんとは身分が違います。」  ミンチン女史は、今までに一度も、ベッキーをセーラ達と比べて考えてみた事はありませんでした。女史の考えに従えば、小使娘などというものは、石炭を運んだり、火をおこしたりする機械でしかなかったのでした。 「でも私、ベッキーだって、私と同じ女の子だと思います。今日は私のお誕生日ですから、私のお願いをかなえて、あの娘をよろこばしてやって下さいませんか。」 「じゃあ、今日は特別に許してあげましょう。レベカ、お前セーラさんにお礼を仰しゃい。」  この話のあいだ、ベッキーは、部屋の片隅にしりごみしながら、前掛けのフチをいじくっていましたが、ミンチン女史にそういわれますと、ひょこひょこ出てきてお辞儀をしました。彼女は思うようにお礼の言葉もいえませんのでした。 「ほんとに、どうも、お嬢さま。もううれしくって、私はお人形が見たくてたまらなかったの。ありがとうございます。それから、先生、ありがとうございます。」 「あっちの隅に立ってお出で。」ミンチン先生は出口のほうをさしていいました。 「あんまり皆さんのそばに寄っちゃあいけないよ。」  ベッキーはにやにや笑いながらその隅へ退きました。どんな隅にでも居残ることを許されたのは、台所で胸をわくわくさせているより、どんなにいいかしれませんでした。ミンチン先生はやがてヒトツ咳払いをして、そうしていいました。 「皆さんがたにちょっと申し上げておきたいことがあります。御存じの通り、セーラさんは今日’十一歳になられました。」 「ひいきのセーラ嬢だ。」と、ラヴィニアがそっと囁きました。 「あなたがたの中にも、もう十一になられた方がゴ六人はあるでしょう。が、セーラさんのお誕生日は、それらの方々のお誕生日とは、少し意味が違います。というのは、セーラさんはもう少し大きくなると、非常な財産を相続なさるからです。その時が来たら、セーラさんは、世の中のためになるように、そのお金を使わなければならないと思います。」 「ダイヤモンド鉱山のことか。」とジェッシーは小声でいって、忍び笑いをしました。  セーラは先生のいうことを聞いていたわけではありませんでしたが、青鼠色の眼でじっと先生を見ていると、何となくくわっとして来るのを覚えました。先生が-お金のことを話していると知ると、私はあの先生が好きだったためしはないというような気持ちになりました。子供のくせに、大人を憎むなんて、生意気なことだとは分かっていましたが。──  ミンチン女史は訓話を続けました。 「クルー大尉が、セーラさんをインドから連れて来て、私に預けた時、大尉は冗談らしくこういわれました。『先生、私はこの娘が近い将来に大変な成金になるのだと思うと心配です。』で、私は大尉にこうお答え申し上げたのです。『私の教育は、お嬢さまの財産の飾りとなるようなものでなければなりますまい。』と。いまセーラさんは、学校じゅうで一番よくお出来になる生徒さんです。セーラさんのフランス語や舞踏は、学校の誇りと申さねばなりません。それにセーラさんのお行儀は、プリンセス・セーラと呼ぶにふさわしいほど、非の打ちどころがありません。セーラさんは今日、皆さんに対する愛情のしるしとして、このお茶の会を開くことになさったのです。皆さんはセーラさんの物惜しみしない気持ちを、きっとうれしくお思いになることと存じます。そのしるしに皆さん、大きい声で『セーラさん、ありがとう。』と仰って下さい。」  みんなは、いつかセーラが初めて来た時のように、いっせいに立ち上がって、 「セーラさん、ありがとう。」といいました。ロッティなどは、いいながら高く飛び上がったほどでした。セーラは恥ずかしそうにもじもじしていましたが、やがて裾をつまんで、優雅な礼をしました。 「皆さん、ようこそお出で下さいました。」 「セーラさん、よく出来ました。」とミンチン先生は褒めました。「まるでプリンセスが人民から『万歳』をあびせかけられた時とそっくりです。ラヴィニアさん、今あなたは鼾のような声をたてましたね。セーラさんが妬ましいのなら嫉ましいで、もう少し上品に、嫉ましさを表したらいいでしょう。さ、皆さんは何でも好きなことをしてお遊びなさい。」  先生の背後にドアが閉されるや否や、少女たちはまるで呪文を解かれたように、椅子から飛び出して、箱の周りに駈け集まりました。セーラもうれしそうに、箱の一つを覗きました。 「これは、きっと本よ。」  すると、アーミンガードは 「あなたのパパも、お誕生日に本を下さるの? 私のパパとちっとも違わないのね。そんなもの開けるのおよしなさいよ。」 「でも、私は本が大好きなのよ。」 『最後の人形』は実に見事なものでした。少女たちはそれを見ると、声をあげ、息もつまるほど喜びました。 「ロッティと大してちがわないくらいね。」  いわれてロッティは手を叩き、笑いこけながら踊り回りました。 「まるでお芝居にでも行くように盛装しているのね。」と、ラヴィニアまでいいました。「外套には貂の毛皮がついているわ。」 「あら、オペラ・グラスまで持っててよ。」とアーミンガードは前へ出てきました。 「トランクもあるわ。開けてみましょうよ。」  セーラは床に坐って、トランクの鍵を外しました。懸子が一つはずされるごとに、いろいろの珍しいものが出てきました。たとえばレースの襟飾りや、絹の靴下、それから首飾や、ペルシャ頭巾の入った宝石箱、長い海獺のマッフや手袋、舞踏服、散歩服、訪問服、帽子や、お茶どきの服や、扇などが、あとからあとからと出てくるのでした。  セーラは無心にほほえんでいる人形’に、大型の黒天鵞絨の帽子をかぶせてやりながら、こういいました。 「ことによると、このお人形には私たちのいっていることが分かるのかもしれないわね。皆さんにほめられて、得意になっているのかもしれないわね。」  すると、ラヴィニアは大人ぶっていいました。 「あなたは、いつもありもせぬことばかり考えているのね。」 「そりゃあそうよ。わたし/空想ほど面白いものは無いと思うわ。空想はまるで妖精のようなものよ。何かを一生懸命に空想していると、本当にその通りになってくるような気がするものよ。」 「あなたは何でも持っているから、何を空想しようとご勝手よ。でも、万一あなたが乞食になって屋根裏に住むようになるとしたら、それでもあなたは、空想したり、つもりになったりしていられるでしょうかね。」 「私きっと出来ると思うわ。乞食だって空想したり、つもりになったり出来ないことはないと思うわ。でも、辛いことは、辛いでしょうねえ。」  そのとたんに、アメリア嬢が入って来ました。セーラはあとで思い返して、本当に不思議なとたんだったとよく思いました。 「セーラさん、あなたのお父さまの代理人のバーロウさんがいらしって、ミンチン先生とお二人きりでご相談なさらねばならないことがあるそうですから、あなたがたは客間に行って、ご馳走を食べてらっしゃい。そのあいだに姉は、この教室でバーロウさんとお話を済ますでしょうから。」  ご馳走と聞いて、みんなは眼を光らせました。アメリア嬢はみんなを並ばせ、セーラを先頭に立てて、客間のホウへ出て行きました。あとには、あの『最後の人形』だけが、夥しい衣裳とともに教室に残されていました。  ベッキーだけは、ご馳走をいただくことも出来ないと思いましたので、悪いこととは知りながら、ちょっとあとに残って、美しい人形や、衣裳を眺め回しておりました。ちょうどベッキーがそっとマフを摘み上げ、それから外套を手に取って見ている時でした。ベッキーはミンチン女史の声が、戸のすぐ外にするのを聞き、震え上がって、テーブルの下に身を隠しました。  ミンチン女史は、骨張った体つきの、小柄な紳士を連れて入ってきました。紳士は何か落ちつかないふうでした。ミンチン先生も確かに落ちついていたとは言えません。彼女はイライラした顔つきで、この小柄な紳士を見つめました。 「バーロウさん、どうかお掛け下さい。」  バーロウ氏は、すぐには腰を下ろしませんでした。氏は、そこらに散らばっている人形や、人形の小道具に眼を惹かれているようでした。彼は眼鏡をかけ直し、何か咎めだてるように、それらのものを見詰めました。『最後の人形』は、そんなことは、一向’無頓着に、ただ真っ直ぐに立って、彼を見返しているばかりでした。 「千円はするだろうな。みんな高価な材料で出来ているし、しかもパリー製だからな。あの若僧は、めちゃくちゃに-かねを使っていたとみえるな。」  ミンチン女史はむかむかとしました。バーロウ氏は、いくら代理人でも、クルー大尉のすることに、さし出がましいことをいう権利はないはずです。ミンチン女史は、セーラとセーラの学校のために、惜しげなく-お金を出してくれる、大事なクルー大尉のことを、悪くいわれたくなかったのでした。 「バーロウさん、失礼ですが、どうして、そんなことを仰るのですか。」 「11になる子供の誕生祝いに、こんなものを贈るなんて、まったく気違いじみているじゃあありませんか。」 「しかし、クルー大尉は財産家でいらっしゃるじゃあありませんか。ダイヤモンド鉱山だけでも──」  バーロウ氏は、くるりと女史のホウへ向き直りました。 「ダイヤモンド鉱山なんて、そんなもの、あるものですか。そんなものは、あったためしもない。」  ミンチン女史は、たちまち椅子から立ち上がりました。 「え? 何と仰しゃいます?」  バーロウ氏は、意地悪く答えました。 「とにかく、そんなものは、なかったほうがよかったくらいです。」 「なかったほうがよかったって?」  ミンチン女史は、椅子の背をしかと掴んで叫びました。何か素敵な夢が消えて行くような気がしました。 「ダイヤモンド鉱山などというものは、富よりも破産を意味する場合が多いものです。事業に明るくない人が、親友の手のウチにまるめこまれて、その親友の鉱山に投資するなんて、大間違いです。死んだクルー大尉にしても──」  今度は、ミンチン女史が皆までいわせませんでした。 「死んだ大尉ですって? まさか、あなたはクルー大尉が──」 「大尉は亡くなられました。事業が面白くないところへ、マラリヤ熱に襲われて亡くなられたのです。」  ミンチン女史は、どかりと腰を落しました。女史はぼんやりしてしまいました。 「面白くなかったと申すのは?」 「ダイヤモンド鉱山がです。大尉はその親友のためにも、破産のためにも、悩まれたようですな。」 「破産ですって?」 「一文無しになられたのです。大尉は若いくせに-かねがありすぎるくらいだったのでしたが、その親友がダイヤモンド鉱山に夢中になって、大尉の-かねまですっかりその事業に-つぎこんでしまったのでした。親友が逃げたと聞いた時には、大尉はもう熱病にとりつかれていました。おそろしい打撃だったに違いありません。大尉はコンコンと死んで行きました。娘のことを口走りながら──が、その娘のためには、イチモンも残さずに。」  ミンチン先生は、それでやっと事情をのみこむことが出来ました。こんなひどい目にあったのは初めてでした。お自慢の生徒と、お自慢の出資者が、一度に模範学校から、浚い取られてしまったのです。女史は何か盗まれたような気がしました。クルー大尉も、セーラも、バーロウ氏も、みんな悪いのだというような気がしました。 「じゃあ、あなたは、大尉がイチモンも残さずに死んだと仰るのですね。つまり、セーラには財産がない。あのムスメは乞食だ。お金持ちになるどころか、食いつぶしとして、私の手に残されたのだと仰るのですね。」  バーロウ氏は、抜け目のない事務家でしたので、もうここらで自分の責任を果たしてしまったほうがいいと思いました。 「乞食として残されたに違いありません。またあなたの手に残されたのにも違いございません。他に身よりというものは無いようですからな。」  ミンチン女史は急に歩き出しました。女史は今にも部屋から飛び出して、今たけなわな祝宴をやめさせてしまおうと思っているようでした。 「莫迦にしている。あの子はいま私の部屋で、私のお金で、ご馳走をしているのだ。」 「そりゃあその通りですな。」バーロウ氏は平気でいいました。「我々’代理人は、もうなんの支払いも出来ませんからな。クルー大尉は、我々への支払いもせずに死んでしまいました。それも、かなりな額だったのです。」  ミンチン女史は、ますます不機嫌になって、ふり返りました。こんな災難がふりかかろうとは、今の今までは、夢にも思わないことでした。 「私は、あのムスメのために、どんなにお金を使ったって、きっと払ってくれることを、信じきっていたのです。あの莫迦莫迦しい人形の代も、衣裳の代も、みんなこの私が立てかえておいたのです。あの子のためなら、何でも買ってやってくれ、といわれていたのですからね。あの子は馬車も持っているし、小馬も持っているし、女中もつけてある。この前の送金があってからこっちは、私がみんなその費用を立てかえているのですよ。」  バーロウ氏は、それ以上ミンチン女史の愚痴話を聞こうとしませんでした。 「これ以上は、もうお支払いなさらんがいいでしょう。あの御令嬢に贈物をなさる思召しなら別ですがな。」 「ですが、私は、この際’どうしたらいいのでしょう。」  女史は、バーロウ氏に処置をつけてもらうのが当たり前だというように、訊ねました。 「どうするも、こうするもないですな。」バーロウ氏は眼鏡をたたんで、ポケットに入れました。「クルー大尉は死んでしまったと。子供は食いつぶしになってしまったと。あのムスメについて責任のあるものがあるとすれば、あなたぐらいなものですな。」 「なんで、私に責任があると仰るのです。そんな責任は、断然おことわりします。」  ミンチン女史は、立腹のあまり蒼白くなりました。バーロウ氏は立ちかけて、気のない声でいいました。 「あなたが、責任をお持ちになろうと、お持ちにナルまいと、私はこの際’どうすることも出来ません。こんなことになって、お気の毒とは存じておりますが。」 「それで、私にあのムスメをおしつけたおつもりなら、オー間違いですよ。私は泥棒にあったのだ、騙されたんだ。あのムスメは、おもてに追い出してやるばかりだ。」  バーロウ氏は、平然と戸口に立っていいました。 「私なら、そんなことはしませんな。世間の眼によく見えるはずはありませんからね。この学校に関して悪い評判がたつばかりでしょうからね。それよりもいっそ、あの子を養っておいて、役に立てたらいかがです。なかなか利口な子だから、大きくなりさえすれば、あの子からうんとしぼれますぞ。」 「大きくならないうちにだって、うんとしぼりとってやるから。」 「確かにしぼれるでしょう。では、さようなら。」  バーロウ氏は、皮肉に笑ってお辞儀をしながら、戸を閉めて去りました。ミンチン女史は、しばらく突っ立ったまま、閉された戸を睨んでおりました。男のいったことは本当だと、彼女は思いました。もうどうすることも出来ないのです。今まで一番大事な生徒だったセーラは、いきなり乞食娘になってしまったのです。今までセーラのために立てかえたお金は、もう戻してもらうスベもないのです。  ふと、宴会場にあてたミンチン女史の部屋から、わっという歓声が聞えて来ました。この宴会だけでも中止して、そのために使ったお金を取り戻そうと、女史は思いました。が、女史がそのホウへ立ちかけたとたんに、アメリア嬢が戸を開けて入って来ました。アメリア嬢は姉のた-だならぬ様子を見ると、思わずあとじさりしました。 「姉さん、どうしたの?」  姉は、咬みつくような声でいいました。 「セーラ・クルーはどこにいる?」 「セーラ? セーラは子供たちと一緒に、ねえさんのお部屋にいるのにきまってますわ。」 「あの子は、黒い服を持ってるかい?」 「え? 黒い服?」 「たいていの色の服は持ってるようだけど、黒いのはあったかしら、と言うんだよ。」  アメリア嬢は真っ青になりました。 「黒いのはないでしょう。あ、あるわ。でも、あれはもうタケが短すぎるわ。古い黒天鵞絨の服で、あの子が小さいとき着ていたのですわ。」 「あの子にそういっておくれ、早くその大それた桃色の服を脱いで、短くても何でも、その黒い服を着ろって。いい着物どころの騒ぎじゃあないんだから。」 「まあ姉さん、何事が起きたの?」 「クルー大尉が死んだのさ。一文無しで死んじゃったのだよ。あの気まぐれな我儘娘は、私の居候になったわけさ。」  アメリア嬢は、手近の椅子に/ドカリと腰を下ろしました。 「莫迦莫迦しい。私はあの子のために何千円ってお金を使ってしまったんだよ。もう一銭だって’返しちゃあもらえないんだ。だから、早くあいつのお誕生祝いなんか止めてしまわなければ。すぐ着物をきかえろっていっておくれ。」 「あの、あたし、もう少したってからじゃあいけません?」 「たった今行って話せといってるんだよ。なんだい、鵞鳥みたいな眼つきをしてさ。早くおいでったら。」  アメリア嬢は、鵞鳥と呼ばれることには慣れきっていました。鵞鳥みたいな人間だからこそ、嫌なことばかりいいつけられるのだと、自分でも思っていたくらいでした。でも、子供たちのよろこんでいる最中に出て行って、その会の主人公であるセーラに、お前はもう乞食になり下ったのだ、父の喪のためちんちくりんの黒い服に着かえなければいけない、というのは、なんだか嫌でなりませんでした。  アメリア嬢は眼の赤くなるほど、ハンケチでこすると、黙って’姉のいる部屋から出て行きました。妹が出て行ってしまうと、ミンチン先生は、思わず大きな声で独り言をいいながら、部屋の中を歩き回りました。この一年間、ダイヤモンド鉱山のことは、ミンチン女史にいろいろの未来を想わせていたのでした。ダイヤモンド鉱山の持ち主が助けてくれれば、株でお金を儲けることも出来ると思っていたのでした。が、今はお金儲けの代わりに、自分がセーラのために使って失くした-お金のことを考えなければならないのでした。 「ふん、セーラ女王殿下か。あいつは、まるでクウィンででもあるかのように、したい放題にふるまっていたのだ。」  そういいながら、女史は腹立たしげに、部屋の隅にあるテーブルの傍らを掠め過ぎようとしました。と、テーブル掛けの蔭から、急にすすり泣きの声が響き出て来るのに吃驚して、思わずヒトアシ’身をひきました。 「どうしたというんだろう。」  すすり泣く声がまた聞こえたので、女史は身をかがめて、テーブル掛けを-めくり上げました。 「こんなところで、立ち聞きしていたな。さっさと出ておいで。」  這い出してきたのはベッキーでした。ベッキーは泣き声を出すまいとこらえていたので、真っ赤な顔をしていました。 「あのう、御免下さい。わたし/悪いとは思ったのですけれど。でも、わたし、お人形を見ていたんですの。そこへ、奥さまが入っていらしったので、わたし/吃驚して、この中に隠れてしまったんですの?」 「じゃあお前は、そこで始めっから立ち聞きをしていたわけだね。」 「いいえ、奥さま。立ち聞きするつもりなんぞありゃあしません。見つからずに逃げ出せるものなら、逃げ出そうと思ったのですけど、とても駄目だと思いましたから、仕方なしに、ここに隠れていたんです。立ち聞きなんてするつもり、ちっともなかったんですけど、でも、聞こえたんだから仕方ありません。」  ベッキーは、おそろしい奥さまが目の前にいるということも忘れたかのように、わっと泣き出しました。 「お、お、奥さま。わたし叱られると知っても申さずには-いられません。わたし、あの/セーラ様がお可哀そうで、お可哀そうで──」 「出て行きなさい。」 「ええ、まいります。でも、ちょっとわたし/奥さまに伺いたいことがあるんでございますの。セーラ様は、あんなにご不自由なく暮しておいでだったのに、これから、女中なしではどうすることも出来ないでしょう。ですから、もしなんでしたら、わたしにお勝手のご用がすんだ後で、あの方のご用をしてあげさせて下さいませんか。出来るだけ早く片付けますから。」ベッキーは更にすすりあげながら、「奥さま、セーラ様は、お可哀そうでございますわね。プリンセスとさえいわれてらしったのに。」  ミンチン先生はベッキーにこういわれて、なぜか余計に腹を立てました、小使娘の分際で、セーラの肩を持つなんてけしからん。──するとミンチン先生は、初めてはっきりと、セーラなんかちっとも可愛くなかったのだという事実を悟ったような気がしました。先生はがたがたと床を踏み鳴らし-ながら言いました。 「あの子の用をしてやることなんて、断じて許さないよ。あの子には自分の用はもちろん、ほかの人の用までさせなければならないのだから。」  ベッキーは前掛けで顔を隠しながら、逃げて行きました。 「まるで、何かのお話の中のようだわ。あの辛い世の中に追い出される不幸なプリンセスのお話そっくりだわ。」 ◇。◇。◇。◇。◇。  それから二’三時間たつと、セーラはミンチン先生の所に呼び迎えられました。その時の先生は、今までにないほど冷やかな、無情な顔をしていました。  もうその時セーラには、あのお誕生日の宴会は夢としか──あるいはずっと昔生きていた、誰か別の少女の生涯に起こったこととしか、思えませんでした。  そのあいだに教室や、先生の居間はすっかりいつものように片付けられてしまいました。先生はじめ生徒たちは、普段の着物に着かえてしまいました。少女たちは教室のそこここにかたまって、ひそひそと囁き合ったり、昂奮して話し合ったりしていました。  ミンチン女史が妹に、セーラを呼んで来いといったとき、アメリア嬢はこういいました。 「お姉さん、あの子はずいぶん変わってる子ね。この前クルー大尉がインドへ発った時もそうでしたが、今度も私が事の次第をいってきかすと、あの子はただ黙って、私の顔を見つめているんですの。あの子の眼は見る見る大きくなって、そして顔色は真っ青になって来ました。そうしてちょっとのあいだ立ったままでしたが、わなわなと顎がふるえ出したと思ったら、ふいにくるりとうしろを向いて、部屋を飛び出して行ってしまいました。ほかの子たちがかえって泣き出しましたけれども、セーラは子供たちの泣き声になどは耳も藉さないふうでした。あの子はまるで生きている以上、こんなことになるのが当たり前だ、というような顔をしていました。あの子がなんにもいってくれないので、私は変な気持ちになって困りました。誰だって、ふいにあんなことをいわれれば、何とかいわずには-いられないはずですものね。」  セーラが、二階の部屋の中で何をしていたか、セーラ以外には誰にもわかりませんでした。セーラ自身も、その時はほとんど夢中でした。ただ彼女は、しきりに部屋の中を歩き回って、「お父さまはお亡くなりになったのよ。お父さまはお亡くなりになったのよ。」と、自分にいい聞かしていたのは憶えています。そういう声も自分の声とは思えないほどでしたが、一度などは椅子の上からじっとセーラを見守っているエミリーの前に立って、狂わしそうにいいました。 「エミリーちゃん、お前わかって? パパがお亡くなりになったの、わかって? パパは-ね、遠い遠いインドで、お亡くなりになったのよ。」  セーラが呼ばれてミンチン先生の部屋に来た時、彼女の顔は蒼白く、眼のまわりには黒いくまが出来ていました。セーラは、今まで苦しみぬいたこと、いまだに悲しくてならないことを、人に見破られるのが嫌なので、キッと’口をしめて我慢していました。さっきの薔薇色の胡蝶とは別人としか思われませんでした。  セーラはマリエットの助けも借りず、古い天鵞絨の服を着て来たのでした。その服はもう小さすぎるので、短い裾の下に出たセーラの細い脚が、余計に細く長く見えました。黒いリボンがなかったので、短い黒髪が青ざめたホオに乱れ落ち、ホオの色をよけい蒼白く見せていました。セーラはエミリーをひしと抱いていました。エミリーも何か-くろいものを着ていました。ミンチン先生はすぐそれを見とがめていいました。 「人形なんか、下にお置きなさい。なんのために人形なんか持ってきたのです?」 「下に置くのなんか嫌です。このお人形だけは私のものです。お父さまが私に下すったのですから。」  ミンチン先生はセーラに何かいわれると、いつも妙にイライラして来るのでしたが、今もこうきっぱりいわれると、何か御しがたいような気がして、落ち着いていられませんでした。殊に今日は、酷い/人間らしくないことをしようとしているだけ、何か気がとがめるのでしょう。 「もうこれからは、人形どころのさわぎじゃあないのだよ。お前は働かなければ──悪い所を直して、役に立つような人間にならなければならないんだよ。」  セーラは、大きな眼でミンチン女史を見つめたまま、一言も口をきかずに立っていました。 「もう、アメリアさんから聞いて知っているだろうが、何もかも、今までどおり-だと思ったら大間違いだよ。」 「よくわかっています。」 「お前は乞食なんだ。身よりはないし、世話をしてくれる人なんて、一人もないのだからね。」  セーラはちょっと痩せた小さい顔を-しかめました。が、やはり何ともいいませんでした。 「何をそうじろじろ見てるんだよ。乞食になったってことがわからないほど、莫迦でもあるまいにね。もう1度いってきかしてあげようか。お前はみなし子で、私がお慈悲で置いてやらない限りは、誰もかまってくれるものは無いのだよ。」 「わかってます。」  セーラは低い声でいいました。何か喉に’詰まっているものを呑みこもうとしているようでした。ミンチン先生は、すぐそこに置きすてられてあったお誕生祝いのお人形を指していいました。 「その人形も──その莫迦莫迦しい人形のお金を払ったのも、私なんだ。」  セーラは椅子のほうに顔を向けて、「最後の人形、最後の人形」と、思わず’口の中でいいました。 「最後の人形だって? まったくだよ、この人形は私のものだ。お前の持ってるものは、何もかも私のものなのだよ。」 「じゃあ、どうか、そのお人形を持ってらしって下さい。私、そんなもの要りません。」  セーラが喚いたり怯えたりしたら、ミンチン女史はセーラをもう少しは労ってやったかもしれません。女史は人を支配して、自分の力を試してみるのが愉快だったのでした。が、セーラの凛とした顔を見、誇りのある声を聞くと、自分の力が空しく消えて行ったような気がして、悔しくなるのでした。 「勿体ぶった様子なんかおしでないよ。もう、お前はプリンセスじゃあないのだからね。お前は、もう、ベッキーと同じことさ。自分で働いて、自分の口すぎをしなければならないのだよ。」  意外にも、セーラの眼には、ふと輝きが──救いのかげが浮んで来ました。 「働かして下さいますの? 働けさえすりゃあ、何もそう悲しかあありませんわ。何をさして下さいますの?」 「なんでも、いいつけられたことをするんだよ。お前はよく気のつく子だから、役に立つように心がけるのなら、ここに置いてあげてもいいと思うのだよ。フランス語もよく出来るのだから、小さい人たちのおさらいもしてあげられるだろう。」 「おさらい、させて下さいます? 私、フランス語なら教えられると思いますわ。小さい人たちは私を-すいて下さるし、私も小さい人たちが好きですから。」 「人が-すいてくれるなんて、莫迦なことをおいいでない。小さい人たちのおさらいをするほか、お前はお使いに行ったり、お台所の手伝いをしたりしなければならないのだよ。私の気に入らないことでもあったら、すぐ追い出してしまうから、そのつもりでおいで。じゃあ、向こうへ’おいで。」  そういわれても、セーラはまだちょっとのあいだ、ミンチン先生を見つめていました。幼い心の中で、セーラはいろいろのことを考えていたのでした。やっと立ち去ろうとしますと、 「お待ち/」と先生はいいました。「私に、ありがとうございます、という気はないのかい?」 「なんのために?」 「私の親切に対してさ。お前にホームを恵んでやる親切に対してさ。」  セーラは小さい胸を波立てながら、ニサンポ先生のほうに進み出ました。 「先生は、ご親切じゃあありません。それに、ここはホームでも何でもありません。」  いいすててセーラは、駈け出しました。ミンチン先生はそれを止めるスベもなく、怒りのあまり石のように立って、セーラを見送るばかりでした。  セーラは、落ち着いて梯子を登って行きましたが、息はきれるばかりでした。彼女はエミリーをしかと脇に抱きしめていました。 「この子に口がきけたら──物がいえさえしたら、どんなにいいだろう。」  セーラは自分の部屋に行き、虎の皮の上に寝ころんで、炉の火に見入りながら、考えられるだけいろいろのことを考えてみようと思っていました。が、まだ彼女が二階へ登りきらないうちに、アメリア嬢がセーラの部屋から出て来ました。嬢はぴたりと戸をしめ、戸の前に立ち塞って、気づかわしげな顔をしました。嬢は、姉にいいつけられたことをするのが、うしろめたくてならないのでした。 「もう、ここへ入ってはいけないのですよ。」 「入っちゃあいけないのですって?」  セーラは一歩あとじさりしました。アメリア嬢は少し紅くなって、 「ここは、もうあなたのお部屋じゃあないのですよ。」といいました。 「じゃあ、私のお部屋は、どこなの?」 「今晩からあなたは、屋根裏の、ベッキーのお隣の部屋に寝るんですよ。」  セーラは、かねてベッキーから聞いていたので、その部屋がどこにあるか、よく知っていました。セーラはくるりとうしろを向いて、二つ続いた梯子段を登って行きました。二つ目の梯子は狭くて、きれぎれなフル絨毯が敷いてあるばかりでした。セーラはそこを登り登り、今までの──今は自分とも思えぬ昨日までの、あの幸福な少女の住んでいたところから、ずっと遠くのホウへ去って行くような気がしました。小さすぎる古い服を着て、梯子を登って行く今の少女は、事実/昨日までのセーラとは別人になっていました。  屋根裏の戸を開けた時には、さすがに侘しい気がしました。が、セーラはなかに入ると、戸に寄りかかって、そこらを見回しました。  まったく、これは別な世界です。天井は屋根の傾斜で片方が低くなっていますし、壁は粗末な白塗です。その白塗も、もう薄汚くなっていて、はげ落ちているところさえあります。錆のふいた煖炉、それからこちこちな寝床。階カの部屋には置けないほど使いふるした椅子、テーブル。明かりとりの引窓には、物憂い灰色の空がのぞいているばかりです。その下に、こわれた紅い足台があるのを見つけて、セーラはそこに腰を下ろしました。セーラは膝の上にエミリーを寝かし、両手で抱きながら、エミリーの上に自分の顔を伏せて、しばらくじっと坐っていました。  ひかえめに戸を叩く音がして、戸の間に泣き濡れたベッキーの顔が現れました。ベッキーは、さっきから泣きづめに泣きながら、前掛けであまり眼をこすったものですから、すっかり顔が変わっていました。 「お、お、お嬢さま、ちょっと、あの、ちょっと入っちゃあいけませんか。」  セーラは、ベッキーに笑ってみせようとしましたが、どうしても笑うことが出来ませんでした。が、ベッキーが心から悲しんでいるのを見ると、セーラは急に子供らしい顔になり、手をさしのべて、しくしく泣き出しました。 「ベッキーちゃん、いつか私あなたに、私たちは同じような娘同士だといったことがあるでしょう。ね、嘘じゃあなかったでしょう? 二人の間には、もう身分の違いなんてないんですもの。私は、プリンセスでもなんでもなくなってしまったのよ。」  ベッキーは駈けよって、セーラの手をとり、自分の胸におしあてました。ベッキーはすすり泣きながら、セーラの傍らに跪いていいました。 「お嬢さまは、どんなことが起こったって、やっぱりプリンセスよ。何が起こったって、どうしたって、プリンセス以外のものにはなるもんですか。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 【屋根裏にて】 ◇。◇。◇。◇。◇。  セーラはいつまでも、初めて屋根裏に寝た晩のことを忘れることは出来ませんでした。夜もすがらセーラは、子供にしては深すぎる、狂わしい悲しみにひたされていました。が、セーラはそのことを誰にも話しませんでした。また話したとて、誰にも分かる悲しみではなかったでしょう。セーラは、寝られぬ夜の闇の中で、ともすると、寝慣れぬ堅い寝床や、見慣れぬあたりのものに心を煩わされました。が、それはかえって彼女の気を紛らしてくれたようなものでした。そんな紛れがなかったら、セーラは悲しみのあまりどうなったかわからなかったでしょう。 「パパは、お亡くなりになったのだ。パパは、お亡くなりになったのだ。」  寝どこに入ってしばらくの間は、そのことばかり考えていました。寝どこが堅いと気のついたのは、寝てからずいぶんたったあとのことでした。寝返りを打っているうちに、そこらがひどく暗いのに気がつきました。それから、風が屋根の上で、何か大声に泣き悲しんでいるようなのに気がつきました。更にキミの悪いのは、壁の中や、戸棚のうしろから、きいきい、がりがりという音が聞こえて来たことでした。セーラは、いつかベッキーから話を聞いていましたので、すぐ鼠のいたずらだなと気づきました。セーラは一’二度、鋭い爪が床を掻いて走る音を聞いて、思わず床の上に飛び起きました。それから、頭から夜具をかぶって横になりました。  セーラの生活は、その日からがらりと変わりました。マリエットは翌朝暇を出されました。昨日までセーラのいた部屋はすっかり片付けられ、新入生のための当たり前の寝室にされました。  朝/食堂へ出て見ると、ラヴィニアが、昨日までセーラの坐っていたところに坐っていました。ミンチン先生は冷ややかにセーラにいいました。 「セーラ、お前は、お前の用をすぐ始めるんだよ。小さい方たちと、小さいほうのテーブルに坐って、皆さんがお行儀よく食べるように、見てあげるんだよ。これからもっと早く出てこなきゃあいけないよ。ほら、ロッティはもうお茶をこぼしてるじゃあないか。」  セーラの仕事は、この様にして始まりました。来る日ごとに用事はふえるばかりでした。フランス語を見てあげるのは、一番’楽な仕事でしたが、そのほか/お天気の悪い時でもかまわずお使いにやられたり、みんなのしのこした用事をいいつけられたりしました。料理番や、女中までが、ミンチン女史の真似をして、今まで永いことちやほやされていたこの娘っ子を、いい気持ちにこき使うのでした。  セーラは、初めの一’二ヶ月の間は、素直に働いていれば、こき使う人たちの心も、そのうちには柔ぐだろうと思っていました。自分は、お慈悲を受けているのではなく、食べるために働いているのだということも、そのうちには分かってくれるだろう、と思っていました。が、やがて彼女も、みんなが心を柔げてくれるどころか、素直にすればつけあがるだけだということを、悟らなければなりませんでした。  セーラが、もう少し大人らしくなっていたら、ミンチン女史も、セーラを大きい子たちのフランス語の先生にしたでしょうが、なにぶんセーラはまだ子供子供していますので、大きくなるまで、女中代わりに使ったほうがトクだと思ったのでした。セーラなら、むずかしい用事や、こみいった言伝なども、安心して頼むことが出来ました。お金をハラいにやっても間違いはないし、ちょっとしたお掃除も、器用にやってのけるのでした。  セーラは、今はもう勉強どころではありませんでした。楽しいことは、何も教わりませんでした。忙しい一日がすんでから、古い本を抱えて、ヒトケのない教室へ行って、ひとり夜学を続けるばかりでした。 「気をつけないと、習ったことまで忘れてしまいそうだわ。これで、なんにも知らないとすれば、ベッキーと選ぶところがなくなるわけだわ。でも、わたし忘れることなんて出来そうもないわ。歴史の勉強なんか、殊にやめられないわ。ヘンリー八世に六人の妃があったことなんか、忘れられるもんですか。」  セーラの身の上が、こういうように変わると同時に、お友達との関係も妙な-ものになって来ました。今までは、なにか皇族ででもあるかのように尊ばれていたのに、今は-もうみんなの仲間入りもさせてくれなそうでした。セーラが一日中忙しいので、少女たちと話す暇がないのも事実でしたが、同時にミンチン女史が、セーラを生徒たちからひきはなそうとしている事実も、セーラは見のがすわけにはいきませんでした。 「あの子が、ダイヤモンド鉱山を持っていたなんて。」と、ラヴィニアはひやかしました。「本当にお笑い草ってな顔してるじゃあないの。あの子は、ますます変人になって来たわね。今までだって、あの子/好きじゃあなかったけど、このごろのような変な眼付きで黙って見ていられると、たまらなくなるわ。まるで人を探るような眼をしてさ。」  それを聞くと、セーラはすぐやり返しました。 「その通りでございますよ。まったく私は、探るために人を見るのですよ。いろいろのことを嗅ぎつけて、そして、あとでそのことを考えて見るんですよ。」  そういったわけは、ラヴィニアのすることを見張っていたおかげで、嫌な目に逢うことを-さけることが出来たからでした。ラヴィニアはいつも意地悪で、この間まで学校の誇りとされていたセーラを苛めるのは、殊にいいキミだと思っていたのでした。  セーラは、自分で人に意地悪をしたり、人のすることの邪魔をしたりすることは、少しもありませんでした。セーラは、ただ奴隷のように働きました。だんだん身なりがみすぼらしく、みなし子らしくなって来ますと、食事も台所でとるようにいわれました。彼女は誰からも見離されたもののように扱われました。彼女の心は我ヅヨく、同時に痛みやすくなって来ました。が、セーラはどんなに辛いことも、決してクチに出していったことはありませんでした。 「軍人は愚痴なんかこぼさない。」セーラは歯をくいしばりながらいうのでした。「私だって、愚痴なんかいうものか。これは私、戦争の一つだっていうつもりなのだから。」  そうはいうものの、彼女を慰めてくれる三人の友がなかったら、セーラの心は寂しさのあまり破れたかもしれなかったでしょう。  その友の一人は、あのベッキーでした。初めて屋根裏に寝た晩も、壁一つ越した向こうには、自分のような少女がいるのだと思うと、セーラは何となしに慰められるような気がしました。その慰めの気持ちは、よごとに強くなって来るのでした。日のうちは二人とも用が多くて、言葉を交わす折はほとんどありませんでした。立ち止まってちょっと話そうとすると、すぐ怠けるとか、暇をつぶすとか思われるので、それも出来ないのでした。初めての朝、ベッキーはセーラに囁きました。 「私が丁寧なことを言わないでも、気にしないで下さいね。そんなことをいってると、きっと誰かに叱られるからね、私、心の中では『どうぞ』だの、『もったいない』だの、『御免なさい』だのといってるつもりだけど、口に出すとヒマがかかるからね。」  しかし、ベッキーは、夜の明ける前に、きっとセーラの部屋にこっそりと入ってきて、ボタンをはめたり、その他いろいろ手伝ってくれるのでした。夜がくると、ベッキーはまたそっと戸を叩いて、何かセーラの用をしに来てくれるのでした。  三人のうちの第二は、アーミンガードでした。アーミンガードがセーラを慰めに来るまでには、いろいろ思いがけない経緯がありました。  セーラの心が、やっと少し新しい生活になじんで来ると、セーラはしばらくアーミンガードのことを忘れていたのに気づきました。二人はいつも仲良くしていましたが、セーラは自分のほうがずっと年上のような気持ちでいました。アーミンガードは人なつっこい子でしたが、同時にまた頭の鈍いことも争われませんでした。彼女は、ただひたむきにセーラに縋りついていました。おさらいをしてもらったり、お話をせがんだり──が、アーミンガード自身には、別に話すこともないというふうでした。つまり彼女は、どんな事があっても忘れられない、という質の友達ではありませんでした。だからセーラも、アーミンガードのことは自然忘れていたのでした。  それに、アーミンガードは急に呼ばれて、ニサン週間ウチに帰っていましたので、忘れられるのが当たり前だったのです。彼女が学校へ帰って来た時には、セーラの姿は見えませんでした。ニサンにち目にやっと見つけた時には、セーラは両手に一杯繕物を持っていました。セーラはもう着物の繕い方まで教わっていたのでした。セーラは青ざめて、人のちがったような顔をしていました。小さくなった、おかしな着物を着て、黒い細い脚を/ニョキリと出していました。 「まあ、セーラさん、あなただったの!」 「ええ。」  セーラは顔を赤らめました。  セーラは衣類を堆く重ねて持ち、落ちないように顎で上を押えていました。セーラにまともに見つめられると、アーミンガードはよけいどうしていいか分からなくなりました。セーラは様子が変わったと同時に、なにかまるで知らない女の子になってしまったのではないか?──アーミンガードにはそうも思えるのでした。 「まあ、あなた、どう? お丈夫?」 「わからないわ。あなた、いかが?」 「私は──私は、おかげ様で、丈夫よ。」アーミンガードは恥ずかしくてわけがわからなくなって来ました。で、急に、なにかもっと友達らしいことをいわなければならないと思いました。「あなた──あなた、あの、ほんとにお不幸せなの?」  その時のセーラのしうちは、よくありませんでした。セーラの傷ついた心臓は、ちょうど昂ぶっている時でしたので、こんな物の言いようも知らない人からは、早くのがれたほうがいいと思いました。 「じゃあ、あなたはどう思うの? 私が幸せだとお思いになるの?」  セーラはそういい残して、さっさと去って行ってしまいました。  その後、時がたつにつれて、セーラは、アーミンガードをせむべきではなかったと思うようになりました。ただあの時は、自分の不幸のため、何もかも忘れてしまっていたので、アーミンガードの心ない言葉に腹が立ってならなかったのでした。それに、落ち着いて考えて見ると、アーミンガードはいつも気のきかない子で、心をこめて何かしようとすると、よけいやりそこなうのが常だったのでした。  それから五’六週間のあいだ、二人は何かに遮られていて、近寄ることが出来ませんでした。ふと行きあったりすると、セーラは脇を向いてしまいますし、アーミンガードはアーミンガードで、妙にかたくなってしまって、言葉をかけることも出来ませんでした。時には、首だけ下げて挨拶することもありましたが、時とすると、また目礼さえせずに過ぎることもありました。 「あの子が、私と口をききたくないのなら、私はあの子になるべく会わないようにしよう。ミンチン先生は会わせまい-としているんだから、さけるのは造作ないわけだわ。」  で、自然二人はほとんど顔も会わさないようになりました。アーミンガードは、ますます勉強が出来なくなりました。彼女はいつも悲しそうで、そのくせそわそわしていました。彼女はいつも窓のそばにうずくまり、黙って外を見ていました。あるとき、そこへ通りかかったジェッシーは、立ち止まって、怪訝そうに訊ねました。 「アーミンガードさん、何で泣いてるの?」 「泣いてなんて、いやしないわ。」 「泣いてるわよ。大粒の涙が、そら、鼻柱をつたって、鼻の先から落ちたじゃあないの。そら、また。」 「そう。私なさけないの──でも、かまって下さらないほうがいいのよ。」  アーミンガードは丸々とした背を向けて、ハンケチでオモテをかくしました。  その晩、セーラはいつもよりも遅く、屋根裏へ登って行きました。と、自分の部屋の扉の下から、ちらと光の洩れているのを見つけて、吃驚しました。 「私のほか、誰もあそこへ行くはずはないけど、でも、誰かが蝋燭をつけたとみえる。」  誰かが火をともしたのにちがいありません。しかも、その光は、セーラがいつも使う台所用の燭台のではなく、生徒が寝室につける燭台の火に違いないのです。その誰かは、寝巻のまま紅いショールにくるまって、崩れた足台の上に坐っていました。 「まあ、アーミンガードさん!」セーラは怯えるほど吃驚しました。「あなた、大変なことになってよ。」  アーミンガードはよろよろと立ち上がりました。彼女は大きすぎる寝室用のスリッパをひっかけて、すり足にセーラのホウへ歩いて来ました。眼も、鼻も、赤く泣き腫らしていました。 「見つかれば、大変なことになるのはわかっているわ。でも、私、叱られたってかまわないわ。ちっともかまわないわ。それよりもセーラさん、お願いだから聞かしてちょうだい。本当にどうなすったの? どうして、私が嫌いになったの?」  アーミンガードの声を聞くと、セーラの喉にはまた、いつものかたまりがこみ上げて来ました。アーミンガードの声は、いつか仲良しになってちょうだいといった時の通り、人なつっこく、真率でした。この数週間のあいだ、よそよそしくするつもりなんか、ちっともなかったのに、というような響きでした。 「私、今でも、あなたが大好きなのよ。」と、セーラはいいました。「私ね──もう何もかも、前とは違ってしまったでしょう。だから、あなたも、前とは変わっちまったんだろうと思ったの。」  アーミンガードは、泣き濡れた眼を見張りました。 「あら、変わったのはあなたのほうよ。あなたは、私に物をいいかけても下さらなかったじゃあないの。私、どうしていいか分からなかったの。私がうちへ行って来てから、変わったのはあなたよ。」  セーラは思い返して、自分が悪かったのだと知りました。 「そうよ、わたし変わったわ。あなたの考えてるような変わり方ではないけど。ミンチン先生は皆さんとお話ししちゃあいけないって仰るのよ。皆さんだって、私と話すのはお嫌らしいの。だから、私あなたもきっと、お嫌なんだろうと思って、なるべくあなたを避けていたのよ。」 「まあ、セーラさん。」  アーミンガードは、セーラを咎めるように泣きじゃくりました。二人は眼を見合わせて、そして、お互いに抱きつきました。セーラはしばらくのあいだ、小さい黒髪の頭を、赤いショールで被われたアーミンガードの肩にじっと乗せていました。アーミンガードが、身を引こうとすると、セーラはひどく寂しい気がしました。  それから、二人は床に坐りました。セーラは手で膝をかかえ、アーミンガードはショールにからだを包んで、 「私は、もうとてもたまらなかったのよ。セーラさんは、私なしでも暮せるでしょうけど、私は、セーラさんなしには-いられないのよ。私は生きてる気もしなかったの。今夜も、夜具の中で泣いていたら、ふと急に、ここへ登ってきて、あなたにあやまって、もう一度お友達になっていただこうって気になったの。」 「あなたは、私なんかよりよっぽどいい方’なのね。私はガが強いから、仲直りしようなんて気にはなかなかなれないのよ。ほら、いつかもいったように、今度のように辛い目にあって見ると、私はいい子じゃあないということが、あばかれてしまったでしょう。こんなことになりはしまいかと、わたし/気にしていたのよ。」セーラは考え深そうにヒタイに皺を寄せて、「ことによると、それを私に分からせるため、辛い目にあわせられたのかもしれないわ。」 「そんな目にあったって、ちっともありがたくはないと思うわ。」 「私だって、本当はありがたいと思ってるわけじゃあないのよ。でも、私たちにはわからないところに、よいものがないとも限らないでしょう。ミンチン先生にしたって──。」  セーラは疑わしげに──「いいところが、あるのかもしれないわ。」  アーミンガードは、怖々そこらを見回して、セーラに訊ねました。 「あなた、こんなところに住めると思うの?」 「こんな所でも、こんなじゃあないつもりになれば、住めると思ってよ。でなければ、これは、あるお話の中の場面だと思っていればね。」  セーラは静かに語りました。うまい具合に空想がまた働き出して来ました。ふいに辛い目にあってからこのかた、セーラは一度もまだ、空想によって慰められたことがなかったのでした。 「もっとひどい所に住んでた人もあるのよ。モント・クリスト伯爵はシャトー・ディフの牢屋に押しこめられていたでしょう。それから、バスティユに抛りこまれた人たちだってあるでしょう。」  アーミンガードは口の中で、 「バスティユ。」といいました。いつかセーラが芝居がかりで話してくれた事がありましたので、アーミンガードもフランス革命の話だけは覚えこんでいました。  セーラの眼は、いつものように輝いて来ました。 「つもりになるのは、バスティユがいいわ。私はバスティユの囚人なの。私は、もうイクネンもイクネンもここに押しこめられていたの。世の中の人たちはみんな、私のことなんか忘れてしまっているの。ミンチン先生は監守で、それからベッキーは──。」ふと新しい光が、セーラの眼に加わりました。 「ベッキーは、お隣の監房にいる囚人なの。」  セーラは、昔の通りな顔になって、アーミンガードのほうを向きました。 「私、そのつもりになるわ。つもりになってると、どんなに紛れていいかしれないわ。」  アーミンガードは、たちまち夢中になりました。 「そしたら、私にもつもりのお話をみんなしてちょうだいね! 見つけられそうもない晩には、いつでもここに来ていいでしょう? そしたら、あなたが昼間のうちに作っといたお話を聞かしてちょうだいね。そんなことをしていると、きっと今までよりも、もっと仲良しになったような気がすることよ。」 「いいわ。何か事が起こると、人の心もわかるものね。私の不幸せは、あなたが本当にいい方だってことを教えてくれたのね。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第九章】 【メルチセデク】 ◇。◇。◇。◇。◇。  セーラを慰めてくれたトリオの第三人目はロッティでした。ロッティはまだ/ねんねエでしたので、不幸とはどんなことだかも、よく分かりませんでした。で、若いお母さんの様子がすっかり変わってしまったのを見ると、途方にくれるばかりでした。彼女は、セーラの身の上に何か起こったということは耳にしましたが、だからといって、どうしてあんな古い服を着ているのだか、なぜ教室でも自分の勉強はせず、他人の勉強ばかり見てあげているのだか、ガテンが行きませんでした。小さい子供たちは、あのエミリーのいた美しい部屋に、セーラはもういないのだということを、しきりに小声で話し合っていました。それにセーラに何か問いかけても、ろくに返事もしません。  セーラが、初めて小さい子たちのフランス語を見てやった朝、ロッティは、そっとセーラに尋ねました。 「セーラちゃん、あなた、ほんとにもうお金持ちじゃあないの? あなたは、乞食みたいに貧乏なの? 乞食みたいになんかなっちゃあいや。」  ロッティは今にも泣き出しそうでしたので、セーラは慌ててロッティをなだめにかかりました。 「乞食には、お家なんかないけど、私には、お部屋があるのよ。」 「どこにあるの? 私、行ってみたいわ。」 「おしゃべりしちゃあ駄目よ。ミンチン先生が睨めてるじゃあないの。あなたにおしゃべりさせたといって、いまに私が叱られるわ。」  が、ロッティは、一度いい出したら、なかなか諦めない性質の子でした。で、セーラがいる所を教えてくれないなら、何か他の方法で、セーラのいる所をつきとめようと思いました。ロッティは大きい子たちのおしゃべりに耳をすましているうち、あるとき、ふとした言葉尻から、セーラが屋根裏にいるのだということを知りました。その日の暮れ近く、ロッティは一人、今まで/あるとも気づかなかった階段を登って行きました。二つ並んでいる戸の一つを開けると、セーラは古ぼけたテーブルの上に立って、引窓から外を見ておりました。 「セーラちゃん、セーラ母ちゃん。」  ロッティは呆気にとられた形でした。室内があまりにみすぼらしく、世の中からあまりかけ離れた所のように思えたからでした。  セーラは振り向くと、これも呆気にとられた形でした。これから、どうなることだろう。もしロッティが泣き出しでもしたら──泣き声がひょっと誰かの耳にでも入ったら、二人とももうおしまいだ。──セーラはテーブルから飛び-おりて、ロッティのホウへ走り寄りました。 「泣いたり、騒いだりしちゃあ駄目よ。そうすると、私が叱られるからね。でなくても、わたし一日中’叱られどおしなんですもの。ね、この部屋は、そんなにひどくもないでしょう?」 「ひどくない?」  ロッティは唇を噛みながら、部屋の中を見まわしました。彼女は甘やかされてはいましたが、セーラが非常に好きなので、このお母さんのためになら、どんな我慢でもしようと思っていました。すると、セーラの住んでいる所なら、どんな所でもよくなるような気がして来ました。 「ひどいなんてことないわ。セーラちゃん。」  セーラはロッティを抱きしめて、無理にも笑おうとしました。ロッティのむっちりした身体の温かさを感じると、セーラは何か慰められるような気がしました。その日は、セーラには殊に辛い日でしたので、ロッティの入ってきた時には、眼を紅くして、窓の外を見つめていたのでした。 「ここからは-ね、階下では見えないものが、たくさん見えるのよ。」 「どんなものが見えるの?」 「煙突や、雀や、それからよその屋根裏の窓や。──窓からよく人の顔がひょいと出て来るのよ。すると、あれはどこのお家の人かしらと思うでしょう。それに、何だか高い所にいるような気がするでしょう──まるで、どこか違った世界に来たような。」 「私にも見せて。抱いてみせて!」  セーラはロッティを抱き上げ、一緒に古いテーブルの上に立ちました。二人は天井の明かりとりの窓から頭を出して、そこらを見回しました。  屋根裏の窓から外を見た経験のない方には、二人の眼に何が映ったか、想像もつかないでしょう。スレート葺の屋根が、左右の両樋のホウへなだれ落ち、雀らが、そこらを-なんの怖れもなさそうに飛び歩きながら、囀っていました。そのうちの2羽は、すぐそこの煙突の先にとまって、オオゲンカをした末、一羽はそこから追いたてられてしまいました。隣は空家なので、屋根裏部屋の窓も閉まっていました。 「あそこにも誰かが住んでいてくれるといい、とわたし思うのよ。」セーラはいいました。「近いから、あそこに娘さんでも住んでるとしたら、窓越しにお話も出来るわ。落ちる心配さえなければ、屋根から屋根へ行き来も出来ると思うの。」  空は、往来から見上げた時より、ずっと近くに見えるので、ロッティは恍惚となってしまいました。ゲカ-イに起こっているいろいろの事は、煙突にかこまれてこの窓からは、まるで嘘のように思われました。ミンチン先生も、アメリア嬢も、教室も、本当にあるのかないのか、分からなくなって来ます。広場の車馬の響さえ、何か別の世界の物音のように聞えて来るのでした。ロッティは思わずセーラの腕にしがみつきました。 「セーラちゃん、私このお部屋’好き──:大好き。私たちの部屋よりよっぽどいいわ。」 「あら、雀が来てよ。パン屑でもあれば、やりたいのだけど。」 「私、持っててよ。」  雀は、屋根裏にお友達がいようとは思わなかったので、パン屑を投げられると、驚いて一つ向こうの煙突の先へ飛び退きましたが:、セーラがちゅっちゅっと雀の通りに口を鳴らしますと、雀はせっかくのご馳走におどかされたのだと気づいたらしく、首を-かしげてパン屑を見下ろしました。それまで、おとなしくしていたロッティは、こらえきれなくなりました。 「来るでしょうか?」 「来そうな眼をしてるわ。来ようか、こまいか、と迷っているのよ。あら、来そうだわ。ほら、来たわ。」  雀は、しばらくためらってのち、大きなかけらを素早くつまんで、煙突の向こうへ’飛び去りました。が、じき一羽の友を連れて、戻って来ました。友はまた友を連れて来ました。ロッティはうれしさの余り、初め部屋のみすぼらしさに胸を打たれたことなど忘れてしまいました。セーラ自身も、ロッティによって、今まで気づかなかったここの美しさを知りました。 「この部屋は、小さくて高いところにあるから、鳥の巣といってもいいわね。天井がかしいでいるのも面白いでしょう。こっちのほうは低くて、頭がつかえそうね。わたし/夜が明けると、床の上に坐って、窓から空を見上げるのよ。すると、窓はまるで四角な明るみのツギみたいなのよ。お天気の日には、小さな薔薇色の雲がふわふわ浮いてて、手を伸ばしたら届きそうなの。雨の日には雨だれの音が、何かいい事を話してくれてるようよ。星の夜は、ツギの中にいくつの星が光ってるか、数えて見るの。あれっぱかしの所にずいぶんたくさんあってよ。それから、あの小さな炉にしたって、磨いて火を入れれば、素敵じゃないの。ね、そう考えてみると、ここだってずいぶん好い部屋でしょう。」  そういわれると、ロッティも、セーラのいう通りのものが見えるような気がしました。セーラがえがくものなら、何でも本当だと思いこむロッティでした。セーラは、なお続けていいました。 「床には厚い、柔らかい、青のインド絨毯を敷くとしましょう。それから、あそこの隅には、クッションを一杯のせた長椅子を置くとしましょう。椅子から手を伸ばすと取れるところに、本箱を置くの。炉の前には毛皮を敷くの。壁は壁掛けとガクとで隠してしまうの。小さいのでなきゃあ似合わないけど、小さくても綺麗なのがあるわ。薔薇色の置ラムプが欲しいわね。真ん中にはお茶道具をのせたテーブル。丸い/銅の茶釜が、ホップの上でちんちん煮え立ってるの。ベットもすっかり変えなければ。それから、コスズメたちは窓に来て/入ってもようござんすかというように、慣らしてしまうの。」 「セーラちゃん、私もここに来たいわ。」  ロッティを送り出してしまうと、セーラには室内の惨めさが、前よりひどく思われました。セーラはしばらく足台の上に坐って、両手で顔を覆うていました。 「寂しい所だわ。世の中で一番寂しい所のように思えることさえあるわ。」  ふと、セーラはコトという微かな音を聞きました。見ると、大きな鼠が一匹、アトアシで立って、物珍しげに鼻をうごめかしていました。ロッティの持ってきたパン屑が、そこらに散らかっていましたので、鼠はその匂いに惹かれて出て来たもののようでした。  鼠はまるで、灰色のホオヒゲをはやした小人のようでした。何か問うようにセーラをみつめているのでした。眼付きが妙におどおどしているので、セーラはふとこんなことを考えました。 「鼠はきっと辛いに違いないわ、みんなに嫌がられて。私だって、みんなに嫌がられて、罠をかけられたりしたらたまらないわ、雀は、鼠とは’大違いだわ。でも鼠は鼠になりたくてなったわけじゃあないのね。雀のほうに生まれたくはないかい? なんて聞いてくれる人があるわけじゃあないから。」  鼠は、初めはセーラを怖がっているようでしたが、雀のような心を持っているとみえ、さっきの雀のように、だんだんパン屑のほうに寄って来ました。 「おいで。私は罠じゃあないから。食べてもいいのだよ、可哀そうに。バスティユの囚人たちは、鼠と仲良しになったっていうから、私もお前と仲良くなろうかしら。」  どうして動物に物が分かるのか。その訳は分かりませんが、しかし、動物に物の分かるのは事実です。ことによると世の中には言葉でない言葉があって、なんにでも、それが通じるのかもしれません。ことによると、また世の中の事物には、なんにでも、目に見えぬ魂があって、声も立てず、話し合うことが出来るのかもしれません。それはとにかく、鼠はセーラがこういった瞬間、もう安心だと思ったようでした。彼はそろそろとパン屑のほうに行き、それを食べはじめました。彼は食べながら、さっきの雀のように、時々セーラのほうを見て、どうもすみません、というような眼をしました。セーラは、それにひどく心を動かされました。  それから一週間ほどたったある晩、アーミンガードがそっと屋根裏へ忍び登って、戸を叩きますと、室内は-みょうにひっそりしていました。セーラは寝てしまったのかしら、と訝っているところへ、ふいにセーラの低い笑い声が聞えて来ました。 「ほら、メルチセデク、それを持ってお帰り。おかみさんのところへお帰り。」  そういうと、すぐセーラは戸を開きました。 「セーラさん、誰? 誰と話してたの?」 「お話ししてもいいけど、あなたびっくりして、声を立てたりしちゃあ、駄目よ。」  アーミンガードは、その場で危うく声を立てるところでした。見渡したところ、室内には誰もいないので、セーラはお化けと話していたのかと、アーミンガードは思ったのでした。 「何か、怖いお話なの?」 「怖がる人もあるわ。私だって初めは怖かったけど、もう何でもないわ。」 「お化け?」 「いやあだ。──鼠よ。」  アーミンガードはひとっ飛びに飛んで、ベットの真ん中に坐りました。声は立てませんでしたが、怖さのあまり/息をはずませていました。 「鼠? 鼠ですって?」 「慣れてるから怖かあないのよ。私が呼べば出てくるくらいよ。あなたさえ怖くなければ、呼んでみるわ。」  アーミンガードは、初めは怯えてベットの上で足を縮めてばかりいましたが、セーラが落ち着いた顔で、メルチセデクが初めて出て来た時の話をするのを聞いていると、だんだん鼠を見てみたくなりました。彼女はベットの端にのり出して来て、セーラが壁の腰板にある抜け穴のそばに跪くのをじっと見ていました。 「そ、その鼠、ふいに駈け出して来て、ベットの上に上って来たりしやあしなくって?」 「大丈夫。私たちと同じようにお行儀がいいのよ。まるで人間のようだわ。さ、見てらっしゃい。」  セーラは聞えるか聞えないほどに、口笛を吹きました。何か呪文を唱えるように、シゴたび吹きました。すると、それを聞きつけて、灰色の頬髭を生やした鼠が、眼をきらきらさせて、穴から顔を出しました。セーラがパン屑をやると、メルチセデクは静かに出て来て、それを食べました。彼は少し大きな屑を持って、こぜわしげに帰って行きました。 「ね、あれは、おかみさんや子供たちに持ってってやるのよ。えらいでしょう。自分は小さいのだけ食べるのよ。帰って行くと、家のものたちが悦んで、ちゅうちゅう大騒ぎよ。ちゅうちゅうにも三通りあるのよ、子供のちゅうちゅうと、メルチセデク夫人のちゅうちゅうと、それからメルチセデク君のちゅうちゅうと。」  アーミンガードは笑い出しました。 「セーラさんは変わってるわね。でも、いい方ね。」 「わたし変わっていてよ。私はまたいい人になりたいと思ってるのよ。」セーラは小さな手で顔をこすりました。そして、やさしい/少し悩ましい顔になりました。「パパもよく私を笑ったものだわ。でも、わたし笑われてうれしかったわ。私は変人だけど、私のいう出まかせは面白いと、パパは仰ってたわ。私、お話を作らずに-いられないのよ。お話を作らずには生きていられないのよ。」セーラはちょっと’口を噤んで、部屋の中を見回しました。「少くとも、こんなところに住んでいられるはずはないわ。」  アーミンガードは、だんだん惹きいれられて来ました。 「あなたが話すと、何でも、みんなほんとのように思えてくるわ。あなたは、メルチセデクのことを人間のように仰るでしょう。」 「人間なのよ。あれは私たちと同じように、ひもじくなったり、吃驚したりするわ。それから結婚して、子供も持ってるわ。だから、あれだって私たちのように、何も考えないとは言えないでしょう? あれの眼は、人間の眼のようだわ。だから私、あれに名をつけてやったのよ。」  セーラは、いつものように膝を抱えて、床に坐っていました。 「それにあれは、私の友達としてつかわされたバスティユ鼠なのよ。」 「まだバスティユのつもりなの? いつでも、ここはバスティユだというつもりでいらっしゃるの?」 「たいていそのつもりよ。時とすると、どこか別の所のつもりにもなるけど、バスティユのつもりになら、すぐなれるわ。殊に寒い日などには。」  ちょうどその時、アーミンガードはベットから転がり落ちそうになりました。向こうから壁をコツ、コツと叩く音’を聞いたからでした。 「なあに? あれ?」  セーラは立ち上がって、お芝居の口調で答えました。 「あれこそは、隣の監房にいる囚人じゃ。」 「ベッキーのこと?」 「そうよ。こうなの、コツ、コツ、とフタツ叩くのは、『囚人よ、そこにいるのですか?』という意味なの。」  セーラは返事でもするかのように、こちらから壁を三度叩きました。 「ね、これは、『はいおります。別に変わりはありません。』という意味なの。」  すると、ベッキーの方から、コツ、コツ、コツ、コツと、4つ叩く音がしました。 「あれは、こうなの、『では、兄弟よ、安らかに眠りましょう。お休みなさい。』」  アーミンガードは、うれしさのあまり眼を輝かせました。 「まるで、何かのお話みたいね。セーラさん。」 「みたいじゃあなくて、ほんとにお話なのよ。なんだってかんだって物語だわ。あなただって一つの物語だし──私も一つの物語よ。ミンチン先生だって、やっぱり物語だわ。」  セーラはまた床に坐って話し出しました。アーミンガードは、自分がいわば脱走囚のようなものだということなぞ忘れて、セーラの話に聞きとれていました。で、セーラは彼女に、このバスティユに夜通しいてはならないから、そっと梯子を降りて、自分のベットへ行くように、注意しなければなりませんでした。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第10章】 【インドの紳士】 ◇。◇。◇。◇。◇。  が、アーミンガードやロッティは、そう毎晩’屋根裏に忍んで行ったわけではありません。セーラはいつ行っても屋根裏にいるというわけではありませんし、抜け出たあとをアメリア嬢に見舞われる惧れもないではありませんでした。で、セーラはたいてい一人ぼっちでした。彼女は屋根裏に一人いる時よりも、階下でみんなの間にいる時のほうが、よけい一人ぼっちな気がしました。  プリンセス・セーラとして馬車に乗り、女中を従えていた時には、よく通りがかりの人が振り返って見たものでしたが、今は、使いに出歩くセーラを、眼にとめるものもありませんでした。ぐんぐん脊丈は伸びて行くのに、古い-き残りしかないので、ナ-リの整わないのはもとよりのことでした。セーラはときどき商店の鏡に映る自分の姿をちらと見て、思わず吹き出すこともありましたが、時とすると顔を赤らめ、唇を噛んで、逃げ出さずには-いられませんでした。  日が暮れて、窓の中に明かりがともると、セーラは通りがかりに暖かそうな部屋を覗いて見るのが常でした。火の前に坐ったり、テーブルを囲んで話したりしている人たちを見て、彼女は、よくその人たちのことを想像してみるのでした。ミンチン女塾のある一画には、五つか6つの家族が住んでいました。セーラはそれぞれの家族と、彼女の空想の中で親しくなっていました。その中で一番好きな家族を、セーラは『大屋敷』と呼んでいました。というわけは、その’家の人が大きいからではなく、その家には人がたくさんいるからでした。そのたくさんの人たちは、大きいどころか、子供のほうが多いくらいでした。肥った血色のいいお母さんと、肥った血色のいいお父さんと、これもまた肥った血色のいいお祖母さんと、八人の子供と、たくさんの召使いと──これが『大屋敷』の人たちでした。大屋敷の本当の名は、モントモレンシーというのでした。  ある晩のことでした。非常に滑稽なことが持ち上がりました。もっとも、考えようによっては、ちっとも滑稽なことではなかったかもしれません。  セーラがモントモレンシー家の前を通りかかると、子供たちはどこかの夜会へでも出かけるらしく、ちょうどペーヴメント(舗道)を横切って馬車のホウへ歩いて行くところでした。二人の女の子は、白いレースの服に美しいサッシを着けて、先に馬車へ乗りました。それにつづいて、五歳の少年ギー・クラーレンスが乗りこもうとしていました。少年のホオは紅く、眼は青で、丸い可愛い頭は巻毛に被われていました。あまり美しいので、セーラは手籠を持っていることも、自分の身装りのみすぼらしいことも──何もかも忘れ、もう一目/少年を見たい気持ちで一杯になりました。で、彼女は思わず立ち止まって、少年を眼で追いました。  ちょうど降誕祭の前でしたので、大屋敷の人たちは貧しい子供たちの話をいろいろ聞いていました。ギー・クラーレンスは、その日そんな話を読んで涙ぐんだほどでした。で、彼はどうかしてそんな子を見つけ、持ち合わせの二十銭銀貨を施したいと思っていたところでした。彼はその二十銭で、貧しい子の一生が救えるものと思っていたのでした。彼が姉につづいて馬車へ乗ろうとした時にも、その銀貨はポケットの中にありました。乗ろうとしてクラーレンスは、ふとセーラが餓えたような眼で自分を見ているのに気づいたのでした。  セーラが餓えたような眼をしていたのは、この少年に抱きついてキスしたいからでした。が、少年は、セーラが一日中-なんにも食べなかったから、そんな眼をしているのだろうと思いました。で、彼はポケットに手を入れ、銀貨を持って、セーラのホウへ歩いて行きました。 「可哀そうに。この二十銭を上げるよ。」  セーラはびっくりしました。が、すぐ、今の自分は、昔’自分が馬車に乗るのを見上げていた乞食娘にそっくりだと気づきました。セーラも、よくそうした娘たちに銀貨を施してやったものでした。セーラは一度紅くなってから、また真っ青になりました。セーラはその情のこもった銀貨に、手も出せないような気がしました。 「あら、たくさんでございます。わたくし、本当にいただくわけはございません。」  セーラの声は、そこらの乞食娘の声などとは似ても似つかぬものでしたし、ものごしもリョーケの令嬢そっくりでしたので、馬車の中の少女たちはのり出して耳を傾けました。  が、ギー・クラーレンスは、せっかくの施しをやめるのが嫌でしたので、銀貨をセーラの手の中に押しこみました。 「キミ、とってくれなくちゃあ困るよ。これで、何か食べるものでも買いたまえ。二十銭あるんだからね。」  少年は、非常に親切な顔をしていました。セーラがこのうえ拒みでもすると、ひどく気を落しそうなので、セーラは素直にお金を取らなければ悪いと思いました。で、ようよう/我を折りはしましたが、ホオは真っ赤に燃えました。 「ありがとう。坊ちゃんは本当にご親切な、可愛い方ね。」  少年が悦ばしげに馬車へとびこむのを見ると、セーラもそこを去りました。息苦しいけれど、ほほえみたい気持ちでした。彼女の眼は霧の中できらきら光っていました。セーラは自分が妙な恰好をしていること、みすぼらしいことは、前からよく知っていましたが、乞食に間違えられようとは思いもよりませんでした。  走り出した馬車の中で、大屋敷の子供たちははしゃいで、しゃべり出しました。 「どうして、お金なんかやったの?」ジャネットはギー・クラーレンスにいいました。「あの子は乞食なんかじゃあないと思うわ。」  ノラもいいました。 「口の利き方だって、乞食みたいじゃあなかったわ。顔も乞食のとは見えなかってよ。」 「それに、おねだりしたわけでもないじゃあないの。」ジャネットはいいつづけました。「私、あの娘が-おこりゃあしないかと思って、ハラハラしていたのよ。乞食でもないのに、乞食と見られたら、腹の立つのが当たり前だわ。」 「でも、あの娘は怒ってやしなかったよ。」と少年はいいました。「あの娘はちょいと笑って、あなたはほんとに親切な、可愛い方だといったよ。その通りさ。僕は僕の持ってるだけをやったんだもの。」  ジャネットとノラは眼を見合せました。 「乞食の子なら、そんなことはいうはずがないわ。『おありがとう、旦那さま、おありがとうございます』っていうふうにいって、ぴょこぴょこ頭を下げるはずだわ。」  セーラはそんな話があったとは、知るよしもありません。が、そのとき以来、大屋敷の人たちは、セーラが大屋敷に感じているような興味を、セーラに対して持ち始めていたのでした。セーラが通りますと、子供部屋の窓に、子供たちの顔がいくつも現れました。みんなはよく炉のまわりでセーラのことを話し合いました。 「あの子は、学校で小使娘みたいなことをしているらしいのよ。」と、ジャネットはいいました。「誰もめんどうを見てやるものは無いようよ。きっとミナシゴなのだわ。でも、決して乞食じゃないことよ。なりは汚いけど。」  で、それからはセーラを『乞食じゃあない小さな女の子』と呼ぶようになりました。あまり長い名なので、小さい子たちが急いでいうと、ひどく滑稽に聞えました。  セーラは、あの銀貨に工夫して穴をあけ、細いリボンの切れ端を穴に通して、首に掛けました。セーラは、大屋敷がだんだん好きになりました。好きなものは何でもますます好きになるのが、セーラの癖でした。ベッキィにしても、雀たちにしても、鼠の家族にしても──エミリーに対しては、殊にそうでした。セーラは前から、エミリーには何でも分かると思っていたのでしたが、時とすると、今にもエミリーが口をきき出しはしまいかと思われるのでした。が、エミリーは何を訊ねられても、返事だけはしませんでした。 「返事といえば、私だってよく返事をしないことがあるわ。恥ずかしい目にあった時などは、黙ってみんなを見返して考えていると、一番いいのよ。怒りくらい強いものは-ないけど、怒りをじっと我慢しているのは-なお’偉いわ。だから、苛める人たちには返事をしないに限るわ。殊によるとエミリーは、わたし自身が私に似ているより余計に、私に似ているのかもしれないわ。エミリーは味方にさえも返事なんかしないほうがいいと思っているのかもしれないわ、何もかも自分の胸一つに包んで。」  そう思いはしましたが、あまり酷い目にあったり、恥ずかしい目にあったりすると、ただ棒のように立っているきりのエミリーを、生きてるものと想って、自分を慰めるのも、莫迦らしくなって来ることがありました。  ある寒い晩のことでした。セーラは-すいたお腹をかかえ、煮えくりかえるような胸を抱いて、屋根裏へ帰って来ました。と、エミリーは今までにないうつろな眼をして、オガクズを詰めた手足を棒のように投げ出しているのです。たった一人のエミリーまでこんなでは──セーラはがっかりしてしまいました。 「私は、もうすぐ死んでしまうよ。」  そういわれても、エミリーは、うつろな眼を見開いているばかりでした。 「もう我慢が出来ないわ。寒いし、着物は濡れてるし、お腹は死にそうに-すいているんだもの。死ぬにきまってるわ。朝から晩まで、まあ何千里あるいたことだろう。それなのに、料理番の要るものが見つからなかったからといって、晩御飯を食べさせてくれないの。ぼろ靴のおかげで、私が辷ったら、みんなは私を嗤うのよ。私は泥まみれになってるのに、みんなはげらげら笑ってるのさ。エミリー、わかったかい?」  エミリーの硝子玉の眼や、不服もなさそうな顔付きを見ると、セーラは急にむかむかして来ました。彼女は小さい手を荒々しく振り上げて、エミリーを椅子から叩き落しますと、急にすすり泣きはじめました。セーラが泣くなどとは、今までにないことでした。 「お前はやはり、ただの人形なのね。人形よ、人形よ。オガクズのつまってる人形に、何が感じられるものか。」  ふと、壁の中に啻ならぬ物音が起りました。メルチセデクが誰かを折檻しているのでした。  セーラのすすり泣きはだんだんおさまって来ました。こんなにへこたれるのは、いつもの自分らしくない、とセーラは意外に思いました。彼女は顔をあげて、エミリーのほうを見ました。エミリーは横眼を使ってセーラのほうを見ているようでした。その眼は硝子玉にはちがいありませんでしたけれど、何かセーラに同情しているようでした。彼女は身を屈めて人形を抱き上げました。悪かったという気持ちで、胸が一杯でした。 「お前が人形なのは、当たり前だわね。お前はオガクズなりに、出来るだけのことはしているのかもしれないわね。」  そういいながら、セーラはエミリーにキスし、着物の皺を伸ばして、いつもの椅子の上にかけさせてやりました。  前からセーラは、隣の空家に誰か住めばいいのにと思っていました。というのは、その家の屋根裏の窓が、セーラの部屋のすぐ向こうにあるからでした。その窓が開かれて、四角い口から誰かの頭や肩が出て来たら、どんなにいいだろうと思われました。 「立派な顔の人だったら、こっちから挨拶してみよう。でも、こんな屋根裏には、召使いのほかいるはずはないわね。」  ある朝、セーラがお使いから帰って来ますと、引っ越しの荷車がその家の前に止っていました。セーラは運びこまれる家具の類いから、そこに住むのがどんな人か、たいてい想像のつく気がしました。 「お父さまと初めて来た時、ここのお道具はミンチン先生そっくりだ、と思ったことがあったわ。大屋敷にはきっと、むくむくした肱掛椅子や、ソファーがあるに違いないわ。あの紅い壁紙の色だって、大屋敷の人たちのように温かで、親切そうで、幸福そうに見えるわ。」  引っ越しの荷車からは、丹念に加工したチイクのテーブルや、東洋ふうに縫取りの施してある衝立などが下ろされました。それを見ると、セーラは妙にノスタルジャーな気持ちになりました。彼女はインドにいた時には、よくそうしたものを見たものでした。ミンチン先生に取り上げられたものの中にも、彫刻のあるチイクの机が一つあったのでした。 「綺麗なお道具だこと! きっとこれを持ってるのは立派なお方よ。大がかりなところもあるから、お金持ちなのかもしれないわ。」  その家具には、どこか東洋的なところがあるうえ、立派な仏壇に入った仏像が一つ運び出されたのを見ると、このうちの人はインドにいたことがあるに違いありません。 「屋根裏の窓から首を出す人はないかもしれないけど、このうちの人とは、何だかもう親しいような気がするわ。」  夕方/牛乳を運び入れるとき、セーラは大屋敷のご主人が、新しく越してきた家へ入って行くのを見かけました。そのうち出てきて、ニンプたちに指図をしたりするのでした。きっと大屋敷とこの家とは親しい間柄なのでしょう。 「子供があれば、大屋敷の子供たちも、きっとこの家に遊びに来るわ。そして、面白がって屋根裏へ登ってこないとも限らないわ。」  その晩、セーラのところに来たベッキィは、こんなことをいいました。 「お嬢さん、お隣に越して来たのは、インドの人ですってさ、色は黒いかどうか知らないけど。大変なお金持ちで、大屋敷の旦那さまは、その方の弁護士なんですって。あまり心配事があったので、身体を悪くしてしまったのですって、あの人は、木や石を拝む邪宗徒なのよ。何か妙な偶像を運んで行くのを、わたし見てよ。」 「でもそれは、拝むわけじゃあないんでしょう。仏像にはいいものがあるから、拝むためじゃあなく、眺めるために持ってる人があるのよ。うちのお父さまも、一ついいのを持ってらしったわ。」  ある日、1台の馬車がその家の前に止りました。馭者が戸を開けると、大屋敷の父親や、看護婦が-おりました。すると、玄関から下男が二人駈け降りて来ました。馬車から助け下ろされたインドの紳士は、骸骨のように痩せ衰えた体を毛皮で包んでいました。大屋敷の主人はひどく心配そうでした。まもなく、お医者さまの馬車が着きました。  その日、セーラがフランス語の組に出た時、ロッティはそっといいました。 「セーラちゃん、お隣には黄色い顔の-小父さんがいるのね。支那人かしら? 地理の本には、支那人は黄色い顔をしている、と書いてあったけれど。」 「支那人じゃあないことよ。あの小父さんは、大変おからだが悪いのよ。──さあ、練習問題をおやんなさい。『ノン・ムシウ。ジュネ・パ・ル・カニフ・ド・モンノンクル。』(いいえ、私は伯父さんのナイフを持っていません。)」  そうして、それから印度紳士の話が始まりました。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十一章】 【ラム・ダス】 ◇。◇。◇。◇。◇。  時とすると、広場で見る夕焼けもなかなか美しいものです。が、街からは、屋根や煙突に囲まれたほんの少しの空しか見えません。台所の窓からは、その’ほんの少しも見えはしないでしょう。壮麗な夕焼けの空を隈なく見渡すことのできるのは、なんといっても屋根裏の引窓です。セーラは夕方になると、用の多い階下からそっとぬけて来て、屋根裏部屋の机の上に立ち、窓から頭を出来るだけ高く出して見るのでした。大空はまるでセーラ一人のもののようでした。どの屋根の上にも、ソラを眺めている人の頭は見えませんでした。セーラは一人何もかも忘れて、いろいろの形にかたまったり、解けたりする雲を、見つめていました。  ある夕方、セーラはいつものようにテーブルの上に立って、空を眺めていました。西の空は金色の光に被われ、地球の上に/金のウシオを流しているようでした。その光の中に、飛ぶ鳥の姿が黒ぐろと浮んで見えました。 「素敵、素敵。何だか恐ろしいほど素敵な日没だわ。何か思いがけないことでも起こるのじゃあないかしら。」  とふいに、何か聞きなれぬ物音がしました。振り返ると、お隣の窓が開いて、白いターベンを捲いたインド人の頭が、続いてビャクエの肩が出て来ました。──「ラスカー(東インド水夫)だ。」と、セーラはすぐ思いました。──彼’の胸もとには、一匹の小猿がまつわりついていました。さっき聞いた妙な音は、小猿の声だったのでした。  セーラが男のほうを見ると、男もセーラを見返しました。男の顔は悲しげで、故郷恋しいというようでした。霧の多いロンドンでは、めったに太陽を見ることが出来ないので、男はきっとインドで見慣れた太陽を見に上って来たのでしょう。セーラはまじまじと男を見て、それから屋根越しに微笑みました。セーラは辛い日を送って来た間に、たとい知らぬ人からでも、ほほえみかけられるのはうれしいということを、身に沁みて感じていたのでした。  セーラの微笑’は、男を喜ばしたに違いありません。彼は夕闇のような顔をぱっと輝かして、白い歯並を見せて笑いました。  猿は男が挨拶しようとしたスキに、ふと男の手を離れて、屋根を飛びこえ、セーラの肩に足をかけて、部屋の中に飛びこんでしまいました。セーラは面白がって笑い出しました。が、すぐ猿を主人に──あのラスカーが主人なら、あのラスカーに──返してやらなければならないと思いました。が、セーラはどうして猿を捕えたらいいか、分かりませんでした。下手に捕えようとして、逃げ失せられでもすると大変です。で、セーラは、昔’習い覚えたインドの言葉で、 「あの猿は、私に捕るでしょうか?」と、訊ねました。  男は、セーラが自分の国の言葉で話すのを聞くと、ひどく驚き、同時に喜びました。そしてべらべらと、その言葉でしゃべり始めました。彼’の名はラム・ダスというのだそうでした。猿はなかなかいうことを聞かないだろうから、セーラが許してくれるなら、自分が行って捕えようと、彼はいいました。 「でも、屋根と屋根との間を飛んで来られて?」 「造作ないことです。」 「じゃあ来てちょうだい。怯えて向こうへ行ったり、こっちへ来たり、大騒ぎしているから。」  ラム・ダスは、引窓からするりと屋根の上に上がると、生まれてから今まで屋根を渡って暮して来たかのように、身もカルガルとセーラのホウへ渡って来ました。彼は足音も立てず、引窓からセーラの部屋に辷りこみ、セーラに向き直って、インド流のサラームをしました。猿はラム・ダスを見ると小さな叫び声を揚げました。が、彼が引窓を閉めて捕えにかかると、冗談にちょっと逃げ回って、すぐラム・ダ-スの首にかじりつきました。  ラム・ダスは、セーラに厚く礼をいいました。彼のすばやい眼は、室内の惨めな様子を、一目で見てとったようでしたが、セーラに向ってはなんにも気づかぬふりをして、まるで王女にでも物をいうように話しかけました。彼は-じきイトマを告げました、「病気のご主人は、猿を失ったらどんなに落胆したでございましょう」などと、繰り返しお礼をいいながら。  ラム・ダスが去ったあと、セーラはしばらく屋根裏部屋の真ん中に立ったまま、思い出に耽っておりました。セーラはラム・ダスのインド服や、うやうやしげな態度を見ると、インドにいた時のことを思い起さずには-いられませんでした。一時間前には、料理番にまで罵られていた今のセーラが、かつてはたくさんの召使いにかしづかれていたのだと思うと、おかしいくらいでした。それはもう過ぎ去った昔のことで、そんな身分にまたなれるとは思えませんでした。ミンチン先生はセーラが相当の年になるのを待って、たくさんの組みを受け持たせるでしょう。その務めが、今の雑用より楽だとは思えません。着るものなどは先生らしくさせられるかもしれませんが、それとてきっと女中の着るようなひどいものでしょう。これから先、何かよいほうに変化が起こって、再び幸福な身分になろうとは、セーラにはどうしても思えませんでした。  ふと、また何かを思いついたので、セーラのホオは紅くなり、眼は輝き’出しました。彼女は痩せた身体をしゃんと伸ばし、顔を起こしました。 「どんなことがあっても変らないことが、一つあるわ。いくら私がボロや、古着を着ていても、私の心だけは、いつでもプリンセスだわ。ぴかぴかする衣裳を着てプリンセスになっているのは容易いけど、どんなことがあっても、見ている人がなくても、プリンセスになりすましていることが出来れば、なお偉いと思うわ。マリー・アントアネットは玉座を奪われ、牢に投げこまれたけど、その時になってかえって、宮中にいた時よりも、女王さまらしかったっていうわ。だから、わたし/マリー・アントアネットが大好き。民衆がわあわあ騒いでも、女王はびくともしなかったそうだから、女王は民衆よりずっと-つよかったのだわ。首を斬られた時にだって、民衆に勝ってたんだわ。」  この考えは、今考えついたわけではありません。セーラはいままででも、辛い時には、いつもこの事を考えて、自分を慰めていたのでした。ミンチン先生にひどいことをいわれる時など、セーラは心の中でこういいながら、黙って先生を見返しているのでした。 「先生は、そんなことを、プリンセスにいってるのだということを御存じないのね。私がちょっと手を上げれば、あなたを死刑にすることだって出来るのですよ。私はプリンセスなのに、先生は愚かな、意地悪なお婆さんなのだと思えばこそ、なんといわれても、赦してあげているのよ。」  セーラはプリンセスである以上、礼儀深くなければいけないと思いましたので、ミンチン先生はもとより、召使いたちが彼女にどんなひどい事をした時も、決して取り乱した様子などしませんでした。 「あの若っちょは、バッキンガムの宮殿からでも来たみてえに、いやにもったいぶってやがる。」と、料理番も笑ったほどでした。  ラム・ダスとお猿の訪問を受けた次の朝、セーラは教室で、下の組みの少女たちにフランス語を教えていました。授業時間が終わると、セーラは教科書を片付けながら、ご微行中の皇族方がさせられたいろいろの仕事のことを考えていました。──アルフレッド大帝は、牛飼のおかみさんにお菓子を焼かされ、横面を張りとばされました。牛飼のおかみさんは、あとで自分のした事に気づいて、どんなに空恐ろしくなったでしょう。もしミンチン先生に、セーラが本当のプリンセスだと分かったら、先生はどんなに慌てるでしょう。──その時のセーラの眼付きがたまらなかったので、ミンチン先生は、いきなりセーラの横面を張りとばしました。今考えていた牛飼の女のした通りのことをしたわけです。セーラは夢から醒めて、この事に気がつくと、思わず笑い出しました。 「何がおかしいんです。ほんとにずうずうしい子だね。」  セーラは、自分がプリンセスだったということをはっきり思い出すまで、ちょっとまごまごしていました。 「考えごとをしていたものですから。」 「すぐ『御免なさい』といったらいいだろう。」  セーラは答える前に、ちょっと躊躇いました。 「笑ったのが失礼でしたら、私あやまりますわ。でも、考えごとをしていたのは、悪いとは思えません。」 「いったい何を考えていたのだい? え? お前に、何が考えられるというのさ。」  ジェッシーはくすくす笑い出しました。それからラヴィニアと肱をつつきあいました。ミンチン先生がセーラに喰ってかかると、生徒たちはみんな面白がって見物するのでした。セーラは何と叱られても、少しもへこたれないばかりか、きっと何か変わったことを言い出すのです。 「私ね──。」と、セーラは丁寧にいいました。「私、先生はご自分のなすってることが、何だか御存じないのだろうと、考えていたのです。」 「私のしていることが、私に分からないっていうのかい?」 「そうです。私がプリンセスで、先生がプリンセスの耳をぶったりなどなさったら、どんなことになるかしら──私はプリンセスとして、先生をどう処置したらいいだろうか、と思っていたところです。それから、私がプリンセスだったら、先生は私が何をしようと、耳をぶつなんてことは、なさらないだろうと思っていました。それからまた、お気がついたら、先生はどんなに驚いて、お慌てになるだろうと──」 「何、何に気がついたらというんですよ。」 「私が、本当のプリンセスだということに。」  教室にいるだけの少女たちの眼は、お皿のようになりました。ラヴィニアは席から乗り出して来ました。 「出て行け。たった今、自分の部屋に帰れ。皆さんはよそ見せずに勉強なさい。」  セーラはちょっと頭を下げ、 「笑ったのが失礼でしたら、御免下さい。」といい残して、教室を出て行きました。 「皆さん、セーラを見て? あの子の、妙な様子を見て?」ジェッシーがまずクチを開きました。 「私だけは、セーラは身分のある子だということが今にわかっても、ちっとも驚きゃあ-しないわ。もしあの子がえらくなったら、どうでしょう。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十二章】 【壁を隔てて】 ◇。◇。◇。◇。◇。  壁つづきに出来た家並の中に住んでいますと、壁のすぐ向こうの物音に、つい気をとられるものです。インドの紳士の家は、セーラの学校と壁一つで繋がっていますので、セーラはよく紳士の生活を空想して、心を楽しませました。教室と、紳士の書斎とは、背中合せになっていますので、セーラは放課後など、やかましくはないだろうかと心配しました。音の通らないように、壁が厚く出来ていればいいがとも思いました。  セーラは、インドの紳士がだんだん好きになりました。大屋敷が好きになったのは、家族がみんな幸福そうだったからでしたが、インドの紳士は不幸そうに見えたので、好きになったのでした。紳士は何か重い病気が治りきらないふうでした。台所の人たちの噂によると、彼はインド人ではなく、インドに住んでいたイギリス人で、非常な失敗のため、一時は命までも失いかけたというのでした。彼の事業というのは、鉱山に関したものだそうでした。 「そのヤマからダイヤモンドが出るんだとさ。」と、料理番はいいました。「ヤマなんてものはなかなか当るもんじゃあないさ。殊に、ダイヤモンドのヤマなんてものは-ね。」彼は横眼でセーラをじろりと睨みました。「わしらは、誰だって、そんな事ぐらい知ってるさ。」 「あの方は、お父さまと同様の目におあいになったのだわ。」と、セーラは思いました。「それから、お父さまと同じ病気におかかりになったのだわ。ただあの方は生き残ったばかりだわ。」  こうしたことから、セーラの心はますますインドの紳士のホウへ惹き寄せられて行きました。夜お使いに出される時など、窓から、あのお友達の姿が見られるかもしれないと思うと、何となしにいそいそしました。そこらに人影のない時には、セーラは鉄の格子につかまって、彼に聞かす積りで、「お休みなさい」といって見たりしました。 「聞えないにしても、きっと何かお感じにはなるわ。温かい気持ちってものは、窓とか、壁とか、そんな障碍物を越えて、相手の心に通じるものだと思うわ。貴方はなぜか、和んで温かくなるような気がなさりはしない? 私が外で、ご病気のよくなるように祈っているからよ。私、あなたがお気の毒でならないの。お父さまが頭の痛む時してあげたように、私、あなたの『小さい奥さま』になって慰めてあげたいわ。お休みなさい、安らかに。」  セーラはそういうと、セーラ自身温められ、慰められるのが常でした。 「あの方は、今あの方を苦しめているもののことを、考えていらっしゃるようだわ。でも、もう失ったお金は戻ってきたのだし、ご病気だってじきによくおなりになるのだから、あんな悩ましい顔をなさってるはずはないのに。きっと何か、別の御心配があるのよ。」  もし別の心配があるとすれば、あの大屋敷のお父さんだけは知っているはずだ、とセーラは思いました。モントモレンシー氏は、よくインドの紳士を訪ねました。モントモレンシー夫人も、子供たちも、ときどき紳士を訪問しました。病人は、上の二人の女の子──あのセーラが-お金をもらった時、馬車の中にいたジャネットとノラを可愛がっているようでした。病人は、子供に対して──殊に小さい女の子に対して、やさしい気持ちを持っているようでした。ジャネットとノラも、非常に病人になついていました。 「小父さまは、お気の毒な方なのよ。私たちが行くと、小父さまは元気が出るのですって。だから、静かにしていて、元気のつくようにしてあげなければならないわね。」  ジャネットは長女でしたので、弟や妹が暴れださないように、気をつけていました。病人の様子を見て、よい時にはインドの話をしてもらったり、疲れたようだと思うと、あとをラム・ダスに頼んでそっといとまを告げたり、そんな気遣いをするのもジャネットでした。子供たちはみんな/ラム・ダスが好きでした。ラム・ダスに英語が話せたら、きっと面白い話をたくさんしてくれるだろう、と思っていました。  インドの紳士は、名をカリスフォドといいました。あるとき、ジャネットが彼に『乞食じゃあない小さな娘』に出会った時の話をすると、カリスフォド氏はひどく心を惹かれたようでした。更にラム・ダスが、彼女の屋根裏部屋で猿を捕えた話をすると、ますます心を動かされたようでした。ラム・ダスは、屋根裏部屋の中の様子を、目に見えるように話しました。その話を聞くと、カリスフォド氏は大屋敷の主人にいいました。 「カーマイクル君、この近所には、そんなひどい屋根裏がきっとたくさんあるのだろうね。そして、たくさんの惨めな少女たちは、そんな堅い寝床に寝ているわけだね。それなのに、私は枕の上に身を投げて、財産という重荷にヒシがれ、悩まされぬいて-いるのだ。しかも、その財産というのは、大部分/私のものじゃあないのだ。」 「いや、しかし。」カーマイクル氏は元気づけるようにいいました。「そう自分ばかり責めるのは、早く辞めたほうが、あなたのためにいいですよ。たとい貴方が、全インドの富をことごとく持ってらしったところで、世の中から災いをなくすわけにはいかないでしょう。この近所の屋根裏部屋をことごとく改築したところで、他の方面の屋根裏部屋は、やはり惨めな状態にあるということになりますからな。それまで改築しようっていうのは、無理ですよ。」  カリスフォド氏は、炉の火をみつめて坐ったまま、爪を噛んでいました。 「どうだね。あの例の子が──私の忘れたことのないあの子が──ひょっとして──いやほんとに、隣のその気の毒な娘みたいな境涯におちこむようなことも、ないとは言えないだろう。」 「もし、パリーのパスカル夫人の学校にいた子が、あなたの捜している娘だとすると──。」カーマイクル氏は、宥めるようにいいました。 「あの子は、何不自由なく暮しているはずですね。そのロシヤ人は、非常な金持ちで、死んだ自分の娘と仲良しだったというので、あの子をもらい受けたという話ですからね。」 「そして、パスカルという女は、あの子がどこへ連れて行かれたかは、ちっとも御存じないのだからな。」  カーマイクル氏は、肩をすぼめました。 「何しろ、あの女は抜け目のない、俗物のフランス女ですからね。父親を失って、仕送りの絶えたあの子を、うまい具合に手放すことが出来たので、大喜びだったらしいですよ。すると、養父母たちは、あとかたも見せず行方をくらましてしまったわけさ。」 「だが、君は、その子が、もし私の捜している子であったら、というんだろう。『もしも』とね。『確かに』じゃあないんだ。それに、名前も少し違うっていうじゃあないか。」 「パスカル夫人は、カルウと発音したようです。──が、ちょっと発音を間違えただけじゃあないのですかね。境遇は不思議なほどよく似ています。インドにいる英国士官が、母のない娘の教育を頼んだというのですからね。しかも、その士官は破産して死んでしまったというのですからね。」カーマイクル氏は、ふと何かを思いついたらしく、ちょっとのあいだ口を噤んでいました。「が、娘は確かにパリーの学校にいれられたというのですか。確かにパリーだったのですか?」  カリスフォド氏はイライラと、切なそうに口を開きました。 「いやキミ、私には何一つ確かなことはないんだ。私はその子も、その子の母というのも見たことはないのだからね。ラルフ・クルーとは、少年時代には親友だったが、学校を出てから、インドで会うまで、ずっと離れ離れだったのだからね。私は、大仕掛けな鉱山の計画に没頭していた。あの男も夢中になっていた。だから、二人は会えばほとんどその話ばかりしていた。知っているのはただ、その子がどこかの学校に入っているという事だけなのだ。だが、どうしてその事を知ったか、それも、今は思い起すことが出来ない。」  カリスフォド氏は昂奮して来ました。彼は、病後の頭で、失敗当時のことを考え出すと、きまって昂奮して来るのでした。  カーマイクル氏は、心配そうに病後の人を見守っていました。大事なことを訊かなければならないのでしたが、今の場合”十分注意して、静かに訊ねなければならないのでした。 「でも、学校は、パリーだとお考えになる理由はあるのですか。」 「ある。というのは、あの子の母はフランス人だった! それに、母親は、娘をパリーで教育したがっていた、と聞いたことがある。」 「すると、パリーにいそうですな。」  インドの紳士は、身体をのめりださせ、長い骨ばかりの手で、テーブルを叩きました。 「カーマイクル君、私はどうしてもその娘を見つけ出さにゃあならん。生きてるなら、見つかるはずだ。その娘が独りぼっちで一文無しになってでもいたら、私が悪いからだということになる。こんな煩いが心にあるのに、何でのんきな顔をしていられる? 我々の夢が実現されて、ふいに幸運が舞いこんで来たというのに、あの娘は往来で物乞いをしているかもしれないのだ。」 「いや、そう昂奮なさらないで。あの子が見つかりさえすれば、ヒト財産’渡してやれるのだと思って、お気を静めて下さい。」 「あれは、いつも娘のことを『小さい奥さま』と呼んでいた。だが、あのヤマめのおかげで、我々は何もかも忘れてしまったのだ。あれは娘の学校の話をしたかもしれない。が、私は忘れてしまった。すっかり忘れてしまった。どうしても思い出せない。」 「しかし、まだその娘を見つけることは出来ます。パスカル夫人の所謂『ご親切なロシヤ人』の捜索を続けるんですな。あの女は、何だかモスコウにいるような気がするといっていましたよ。それを手がかりとして、とにかく、私はモスコウへ行ってみることにしましょう。」 「旅行の出来る身体なら、私も一緒に行きたいのだけれど、この健康では、こうして毛皮にくるまって、じっと火を見ているより他ないのだ。何だか火の中から、クルー大尉の若い、快活な顔が、私を見返しているような気がする。何か私に訊ねているような顔付きだ。私はよくあれの夢を見る。夢の中では、その訊ねたいことを、口でちゃんというのだ。キミ、あれがどんなことを訊くと思う?」 「よくわかりませんね。」 「あれは、いつでもこういうのだ。『トム、なつかしいトム。小さな奥さまはどこにいるのだい?』とね。」彼はカーマイクル氏の手をしかと掴んで、握りしめました。「私は、それに返事が出来るようにならなければならん。どうか、あのムスメを見つけてくれ。頼む。」 ◇。◇。◇。◇。◇。  壁の向こうでは、セーラが、晩の食事にまかり出て来たメルチセデクと話していました。 「メルチセデクや、今日という今日は、プリンセスのつもりも辛かったわよ。いつもどころの辛さじゃあなかったわよ。だんだん寒くなって、往来がじめじめして来ると、私の務めは辛くなるばかりだわ。ラヴィニアったら、私が裾を泥んこにしているって、嗤うのよ。私、思わずかっとして、危うく何かやり返してやるところだったけど──でも、やっと我慢したの。かりにもプリンセスが、ラヴィニアみたいな下等な人の相手になるわけにはいきませんものね。でも、舌でも噛まなきゃあ我慢出来なかったわ、わたし自分の舌を噛んだの。今日はお昼すぎから、とても、寒くなったのね。今夜も寒いわ。」  ふと、セーラは黒髪を両手の中に埋めました。彼女は一人だと、よく頭を抱えるのでした。 「ああ/お父さま、もうずいぶん昔だわね、私がお父さまの『小さな奥さま』だったのは。」  同じ日のうちに、壁の向こうとこちらとに、こんなことが起こったのでした。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十三章】 【ひとの子】 ◇。◇。◇。◇。◇。  惨めな冬でした。セーラはイクニチとなく雪を踏んで使いに出ました。雪解けの日は、更に使い歩きが辛いのでした。かと思うと、ひどい霧の日が続きました。そんな時、街路はイクネンかまえ/セーラが初めて父と辻馬車を走らせた時のようでした。そんな日には、あの大屋敷の窓は、殊にも居心地よさそうに見えました。印度紳士のいる書斎は、いかにも温かそうでした。それにひきかえ、屋根裏部屋の-くらさといったらありませんでした。もう眺めようとしても、夕焼けや日の出は見られませんでした。星もあるとは思えませんでした。雲は低く、泥のような灰色でした。霧はなくても四時にはもう日が暮れた感じで、蝋燭なしには、梯子を登ることも出来ませんでした。台所の女中たちも、気がくさくさするとみえ、ますます-つらくあたりました。ベッキーはまるで奴隷の子のように追い使われました。 「お嬢さま、あんたでもいなかった日には──あんただの、バスティユだの、隣の部屋の囚人だってつもりだのがなかった日には、わたし死んじまいそうだわ。このごろはここ、まったくバスティユみたいじゃない? 先生はだんだん看守ガシラみたいになってくるし、私、いつかお嬢さまの仰った大きな鍵ね、あれを先生が持っているのが、見えるような気がするわ。あの料理番ね、あれは下まわりの看守よ。お嬢さま、その先を話してちょうだいな。あの壁の下へ掘った地下道の話をして。」 「何かもっと温かいお話がいいわ。」セーラはがたがた震えていました。「あなたも、夜具を持って来てくるまるといいわ。私も夜具を着るから、ベットの上で、夜具をよくまきつけて、それから、あの印度紳士の猿のいた熱帯の森の話をしてあげるわ。」 「そのお話のほうが温かいことは温かいわ。でも、お嬢さまが話すと、バスティユのお話を聞いてても、何だか温かになるのよ。」 「話に気をとられて、寒いことを忘れるからよ。私/こう思うのよ。心の務めは、身体が可哀そうな状態にあるとき、何かほかへ気を向けさせるようにすることだと。」 「そんなこと、あんたに出来て?」 「出来ることもあるし、出来ないこともあるわ。このごろ幾度もそんな経験をしたので、前よりはずっと出来やすくなったわ。何かたまらないことがあると、私いつでも一生懸命、自分はプリンセスだと考えてみるの。『私は、フェアリーのプリンセスだ、フェアリーの私を傷けたり、不快にしたり出来るものがあるはずはない。』わたし自分にそういってみるの。そうするとなぜだか、嫌な事は-みんな忘れてしまってよ。」  そのうち、こんなことが起りました。四五日雨の続いたあとで、町は肌を刺すように寒く、ぬかるみの上に物憂い霧がたてこめていました。そんな日に限って、セーラは何度となく使いに出されるのでした。濡れそぼれて帰ってくると、ミンチン先生は何かの罰だといって、御飯も食べさせてくれませんでした。餓え、凍え、顔までツメられたような色になったセーラは、道行く人の同情を惹くくらいでした。が、彼女は同情の眼で見られているのも知らず、力の限り『つもり』になろうと努力していました。 「私は乾いた服を着ているつもりになろう。満足な靴を穿き、長い厚い外套を着、毛の靴下を穿き、漏らぬ雨傘を持っているつもりになろう。それから、それから──焼きたてのパンを売ってる店のそばまで来ると、二十銭銀貨が’落ちていたとする。そしたら、私は店へ入って、ふうふういうような甘パンを買って、息もつかずにぺろぺろと食べてしまうわ。」  そう独り言をいいながら、足許に気をつけ、ぬかるみの中を歩道へ渡ろうとしますと、そこの溝の中に、何か光っているものがあるのを、セーラは目にとめました。泥にまみれてはいましたが、それは確かに銀貨でした。二十銭ではないが、十銭の銀貨でした。 「まあ、ほんとだったわ。」セーラは、思わず呼吸をはずませました。  とまた、嘘のようではありませんか。セーラが眼を上げると、真向かいにパン屋の店があるのでした。みせでは一人、愉快な血色のよい母親らしい様子の女が、竈から今取り出したばかりの甘パンを──大きくふくれた、乾葡萄の入った甘パンのオオザラを、窓にさし入れているところでした。  セーラは、この不思議な出来事にどきどきしているところへ、窓に甘パンの出てくるのを見、パン屋の地下室から漂うて来るおいしそうな匂いを嗅いだので、ちょっとくらくら倒れそうな気持ちになりました。  セーラは、この銀貨を使ったってかまわないのは知っていました。もう長いこと、ぬかるみの中に落ちていたようですし、この人混の中で、落した人の分かろうはずもありません。 「でも私、パン屋のおかみさんに、何かお落しになりはしなくって? と訊いてみよう。」  セーラは元気なく/そう独り言すると、歩道を横切り、濡れた足で入口の階段を登ろうとしました。その拍子に、セーラは何かをふと目に止め、思わず足を止めました。  セーラの足を止めたのは、セーラよりも惨めな子供の姿でした。子供の姿は、まるで一塊のボロでした。赤い泥まみれな素足が、そのボロの中から覗きだしていました。恐ろしくこんがらがった髪の下から、大きな、ひもじそうな眼を見張っていました。セーラは一目で、この子が餓えているのを知りました。と、たちまちセーラは可哀そうでたまらなくなりました。 「この娘も、やっぱり人の子なのだわ。そして、この子は私よりもひもじいようだわ。」  その子は、顔を上げてちょっとセーラを見つめると、身体をずらせて、セーラの通るスキをつくりました。その子は誰にでも道をゆずりつけていたのです。巡査にでも見つかったが最後「どけ/」といわれることも、のみこんでいました。  セーラは銀貨を握りしめ、ちょっとためらってから、その子供にいいかけました。 「あなた、ひもじい?」 「ひもじいのなんのって、たまらないの。」 「お昼を食べなかったの?」 「お昼どころか、朝飯も、晩飯もあったものじゃあないわ。」 「いつから、食べないの?」 「知るものか、今日は朝から何一つ食べやしない。どこへ行ってもくれないの。あたい、下さい下さいって歩き回ったんだけど。」  その子の姿を見ているだけで、セーラは気絶しそうにお腹がすいて来ました。セーラは切なくてたまらなくなりました。が、頭の中にはふと、またいつもの空想が働き出して来ました。 「もし、私がプリンセスなら──位を失って困っている時でも──自分より貧しい、ひもじい人民にあったら、きっと施しをするわ。私は、そんな話をたくさん知っているわ。甘パンは二十銭で6つ──と、6つばかり一人で食べたって足りないくらいだわ。それに、私の持ってるのは十銭銀貨だけど、でも、ないよりかマシだわ。」  セーラは乞食娘に、 「ちょっと待ってらっしゃいね。」といい残して、パン屋の店へ入って行きました。店の中は温かで、おいしそうな匂いがしていました。おかみさんは、ちょうどまた出来たての甘パンを窓に入れかけているところでした。 「ちょっとお伺いしますけれど、あなたはあの、十銭銀貨をお落しになりませんでしたか?」  いいながらセーラは、たった一つの銀貨をおかみさんのほうにさし出しました。おかみさんは銀貨を眺め、それからセーラの顔を眺めました。ずいぶん汚れた着物を着ているけれど、買った時にはなかなかよいものだったにちがいない、と思いました。 「どう致しまして、わたし/落しはしませんよ、お拾いなすったの?」 「ええ、溝の中に落ちてたの。」 「じゃあ、遣ったってかまわないでしょう。一週間ぐらい溝の中に転がってたのかもしれませんからね。誰が落したか、分かるものですか。」 「私もそう思ったのですけれども、一応お訊ねしたほうがよくはないかと思って。」 「珍しい方ね。」  おかみさんは人のいい顔に、困ったような、同時に、何か心を惹かれたような表情を浮べました。そして、セーラがちらと甘パンのほうを見たのを知ると、 「何かさしあげましょうか。」といいました。 「あの甘パンを4つ下さいな。」  おかみさんは、窓から甘パンを出して袋に入れました、六つ入れたのを見て、セーラは 「あの、4つでいいんですよ。私、十銭しか持ってないんですから。」といいました。 「二つはおまけですよ。あとでまた上がるといいわ、あなたお腹がすいてるんでしょう。」 「ええ、とてもひもじいの、ご親切にして下すって、ありがとうございます。」  セーラは、ソトには自分よりも、ひもじい子がいるのだということを、口に出しかけましたが、あいにくそこへお客が二三人’一度に入って来ましたので、とうとうそれはいわずにしまいました。  乞食娘は、入口の階段の隅にちぢこまっていました。びしょびしょなボロにくるまった彼女は、キミ悪いばかりでした。彼女は、じっと目の前を見つめ、苦痛のあまり/ポカンとした顔をしていました。ふいに涙が湧き上がって来たので、彼女はびっくりして、ヒビだらけの黒い手の甲で眼を-こすりました。何か独り言をいっているようでした。  セーラは、袋をあけて、甘パンを一つ取り出しました。セーラの手は熱いパンのおかげで、もう/少し温かくなっていました。 「ほら、これは温かでおいしいのよ。食べてごらんなさい。少しはひもじくなくなるから。」  乞食娘は、思いがけないよろこびにかえって怯えたらしく、セーラの顔を穴のあくほど見ていましたが、じきひったくるようにパンを取ると、夢中で口の中につめこみました。 「ああ/おいしい、ああ/おいしい。ああ、おいしい。」  しゃがれた娘の声は、聞くに忍びないようでした。セーラは甘パンをあと三つ娘にやりました。 「この子は、私よりもひもじいのだわ。この子は飢え死にしそうなのだわ。」4つ目のパンを渡す時、セーラの手はわなないていました。「でも、私は飢え死にするほどじゃあないわ。」そういって、セーラは五つ目のパンを下に置きました。  餓えきったロンドンの野恋娘が、夢中でパンをひったくり、貪り食っているのを見棄てて、セーラは「さようならイチゴンお礼をいう暇もなかったに違いありません。まして彼女は、礼儀などというものは、少しも知らぬ野獣に過ぎなかったのでした。  セーラは車道を横切って、向こう側の歩道に辿りついた時、もう一度娘のほうをふりかえって見ました。娘はまだ食べるのに夢中でしたが、かじりかけてふとセーラのほうを見て、ちょっと頭を下げました。娘はそうしてセーラが見えなくなるまで、かじりかけのパンをかみきりもせず、じっとセーラを見守っていました。  ちょうどその時、パン屋のおかみさんが窓から外を覗きました。 「おや、こんな事ってないわ。あのムスメはくれともいわないのに、この乞食にパンをやってしまったんだね。しかも、自分は食べたくないどころか、あんなにひもじそうな顔をしていたのに。」  おかみさんは窓の奥でちょっと考えていましたが、何でも、様子を訊いてみたくなったので、乞食娘のいるホウへ出て行きました。 「そのパンは、誰にもらったの?」  娘はセーラの行ったほうに頭を向けて、こっくりしました。 「あの子は、なんといったの?」 「ひもじいかって。」 「で、何と答えたの?」 「その通りだといったの。」 「すると、あの子はパンを買って、お前にくれたのだね。」  娘はまたこっくりをしました。 「で、いくつくれたの?」 「五つ。」  おかみさんは考えこんで、小声にいいました。 「自分のためには一つしか残しておかなかったのだよ。食べようと思えば、一人で6つ残らず食べてしまえるくらい、お腹がすいてたのにね。」  おかみさんは、向こうのほうに消えて行くセーラの小さな後姿を見送りながら、いつになく心の乱れるのを覚えました。 「もっとゆっくりしていてくれればよかったのにねえ。あの子に十二も上げておけばよかった。」それから、乞食娘のほうにいいました。 「お前、まだひもじいの?」 「ひもじくない時なんてありゃあしない。でも、いつもみたいに、ひどくひもじかあないわ。」 「こっちへ、お出で。」  おかみさんはそういって、店の戸を開きました。そして、奥の暖炉を指していいました。 「さあ温まるといいわ。いいかい、これからひとかけのパンも得られない時には、ここへ来て、下さいというのだよ。あの娘のために、私はいつでも、お前にパンを上げるから。」 ◇。◇。◇。◇。◇。  セーラは残った一つの甘パンで、どうやら自分を慰めることが出来ました。とにかく、それは熱かったし、ないよりは-ましでした。セーラは歩きながら、小さくちぎって、少しずつゆっくりと食べました。 「このパンが、魔法のパンで、一口食べると、お昼を食べたぐらいお腹がふくれるといいな。そうすると、これだけみんな食べたら、食べ過ぎてお腹がはちきれそうになるはずだわ。」  日はもう暮れかけていましたが、大屋敷の窓にはまだ鎧戸が下ろしてありませんでしたので、内部の様子をちらと覗くことが出来ました。いつもは、父親が椅子に坐って、子供たちに取りまかれているのでしたが、今日は旅にでも出るらしく、母親や子供たちとお別れのキスをしていました。  玄関の戸が開いたので、セーラはいつか-お金をもらった時の事を思い出し、見つからぬ先に逃げ去ろうとしました。が、こんな話は聞き洩しませんでした。 「モスコウは、雪で包まれてるでしょうね。どこも、かしこも、氷ばかりなのでしょうね?」というのはジャネットの声でした。 「お父さま、ドロスキーにお乗りになる?」もう一人の娘はいいました。「ツアルにもお会いになる?」 「そんなことは手紙で知らせるよ。ムジークやなんかの絵端書も送ってやろう。さ、もう’家にお入り。いやにじめじめしているね。お父さんは、モスコウなんかへ行くのはやめて、みんなと’家にいたいんだけどな。」  彼は、それから「おやすみ」をいって、馬車へ飛び乗りました。 「お父さま、そのムスメにあったら、よろしくいって下さいね。」  ギー・クラーレンスは、靴脱ぎのところで跳ねまわりながらいいました。  戸を閉めて、部屋に戻る道々、ジャネットは、ノラにいいました。 「あの『乞食じゃあない小さな女の子』が通って行ったのを見た? ずぶぬれで、寒そうな顔していたわ。あの子は振り返って、肩の上から私たちのほうを見ていたわ。お母さんのお話だと、あの子の着物は誰か大変お金持ちの人からもらったもののようですって──きっと、もう/傷んで着られなくなったから、あの子にやったのね。」  セーラは街を横切って、ミンチン先生の地下室に入って行きました。ぞくぞくして、倒れそうでした。 「ギー・クラーレンスのいったそのムスメというのは、誰なのかしら?」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十四章】 【メルチセデクの見聞記】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ちょうどこの日の午後、セーラが使いに出ている留守に、屋根裏部屋には奇妙なことが起りました。それを見聞きしたのはメルチセデクだけでした。彼はセーラの出たあとへ、何か嗅ぎ出しに出かけて来ていたのでしたが、やっと一つパン屑を見つけ出したとたん、屋根の上で何かガタガタというのを耳にしました。物音はだんだん引窓に近づいたと思うと、不思議や引窓は押し開かれ、黒い顔が一つ、そこから部屋の中を覗きました。続いてまた別な顔が、その背後に現れました。黒い顔はラム・ダスで、もう一人はインドの紳士の秘書役だったのですが、メルチセデクにはそんなことは分かるはずもありませんので、黒い顔の男がかたとも音を立てずに、カルガルと窓口から-おりて来るのを見ると、尻尾をまいて、自分の穴へ逃げ帰ってしまいました。彼は穴の口に平たく坐り、眼をお皿のようにして、様子を見ていました。  若い秘書役はラム・ダスと同様、音も立てずに引窓から辷りこんで来ました。彼はメルチセデクの尻尾をひっこめるところを、ちらと見て、小声でラム・ダ-スに訊きました。 「ありゃあ鼠かい?」 「はい、鼠でございますよ。壁の中にどっさりおります。」 「へエ、あの子が怖がらないなんて不思議だね。」  ラム・ダスはそれを聞くと、手を上げてちょっと様子をつくり、慎ましやかにほほえみました。彼はまだ一度しかセーラと話したことはないのですが、セーラについてなら、何でも詳しく語ることが出来ました。 「子供というものは、何とでも友達になるものでございますよ。私がそっと来て、ここから覗いておりますと、あの子は、雀や鼠まで手なずけているんでございますよ。ここの奴隷娘は、毎日あの子を慰めに来ます。こっそりあの子に会いに来る小ちゃな子もございます。それから、その子よりは大きい子で、あの子の話を倦きもせず聞いている子も一人ございます。女主人などは、あの子をまるでペーリア扱いにしていますが、でも、あの子は王族の血でもひいてるような物腰をしています。」 「キミは、だいぶ詳しく知っているようだね。」 「あの子の生活なら、何でも毎日見て知っております。出かけて行くのも、戻ってくるのも、知っております。凍えていることも、ひもじいことも、夜中まで勉強していることも、知っております。子供たちが忍んで来ると、あの子もうれしいと見え、ひそひそと話したり、笑ったりしています。病気にでもなったらすぐ分かりますから、そんな時には、出来ることなら、来て看護してやりたいと思っております。」 「でも君、大丈夫かい? 誰か来やあしないかい? あの子がだしぬけに戻って来るようなことはないかい? 僕たちが来ているのを見つけでもしたら、あの子はたまげてしまうだろう。すると、カリスフォドさんのせっかくの計画も、水の泡になるからね。」  ラム・ダスはそっと戸口に身をよせて立ちました。 「あの子の他、誰も来るはずはありません。今日は手籠を持って出て行きましたから、なかなか戻っては来ないでしょう。それに、ここに立ってさえいれば、誰の足音だって、梯子を登りきらぬうちに聞えるから、大丈夫です。」 「じゃあ、しっかり耳を澄ましていてくれたまえ。」  秘書はそういうと、部屋の中を静かに歩き回って、そこにあるものを手早く手帳に書き込みました。彼はまずベットをおさえて、思わず声をあげました。 「まるで石だ。あの子のいない間に取りかえておかなければ。何か、特別の方法で持ち込むんだね。今夜は、とてもだめだろうが。」  彼は汚れた夜具や、火のない炉などを見回り、それらのものを書きこんだ一枚を手帳から破り取って、ポケットに入れました。 「だが、妙な-ことを始めたものだね。誰がこんなことをするといい出したんだい?」 「実は、私が初めに思いついたんでございますよ。私は、あの子が好きなんでございます。お互いに一人ぼっちでございますのでね。あの子はよく自分の空想を、忍んで来る友達に話して聞かせます。ある晩のこと、私も悲しい思いに打たれておりましたので、あの引窓の所に身をよせて、中の話を聞いておりますと、あの子は、この部屋が居心地よくなったら、どんなにいいだろう、といっておりました。話しているうちに、あの子はふとその事を思いついたのです。ご主人にそれをお話ししますと、では、あの子の空想を実現させてやろう、と仰るのでした。」 「だが、あの子の寝ている間に、そんなことが出来るだろうかね。もし眼を覚ましでもすると──」 「私は、猫の足で歩くように歩いてお目にかけますよ。子供というものは、不幸な時でも、ぐっすり眠るものでございます。今までとても、入ろうとさえ思えば、あの子に寝返り一つ打たせず、入って行くことが出来たに違いありません。ですから、誰かが窓から品物を渡してくれさえすれば、私は巧くやりおおせてごらんに入れます。あの子は-あとで眼を覚まして、魔法使いでも来ていたのだろうと思うでございましょう。」  二人は、またそっと引窓から脱け出して行きました。二人が見えなくなると、メルチセデクはほっとして、パンきれでも落して行きはしなかっただろうかと、そこらを駈け回りはじめました。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十五章】 【魔法】 ◇。◇。◇。◇。◇。  セーラがお使いから帰ってくると、隣では、ラム・ダスが鎧戸を閉めているところでした。セーラは鎧戸の間から、ちらと部屋の中を覗きました。覗く拍子に、もうずいぶん長いこと綺麗な部屋の中に入ったことはないなと思いました。  窓の中にはいつものように、赤々と火が燃えており、印度紳士は相変らず悩ましげに、頭を抱えて坐っておりました。 「お可哀そうに! あんなにして、何を考えていらっしゃるのかしら?」  紳士が考えていたのは、次のような事でした。 「もし──せっかくカーマイクル君がモスコウに行ってくれても、その娘が我々の捜している子供でなかったら、どうすればいいのだろう。」  セーラは家に入ると、いきなりミンチン先生に、遅いといって叱られました。料理番も叱られたあとだったので、殊更ひどくセーラにあたりました。 「あの、何かいただけませんか?」  セーラは元気のない声で訊ねました。 「お茶は出からしで、もう駄目だよ。お前のために温かにして、とっといてやるとでも思っていたのかい?」 「私、お昼もいただきませんでしたの。」 「戸棚の中にパンがあるよ。」  セーラは古いパンだけを食べて、長い梯子段を登って行きました。いつまでたっても登りきれぬ気のするほど、セーラは疲れていました。セーラは少し登っては休み休みしました。やっと登りきろうとすると、屋根裏部屋の戸の下から、あかりが洩れているので、うれしくなりました。またアーミンガードが来ているのでしょう。セーラはまるまるとしたアーミンガードが赤いショールにくるまっているのを見るだけでも、侘しい部屋が少し温まるようでうれしかったのでした。  アーミンガードはセーラを見ると、ベットの上からいいました。 「セーラさん、帰って来て下すってよかったわ。メルチセデクが、いくら追っても、私のそばへ’やって来て、鼻をくんくんさせるのですもの、わたし怖かったわ。メルチイは飛びつきゃしないこと。」 「いいえ。」と、セーラは答えました。 「セーラさん、あなた大変つかれてるようね。顔色が大変悪いわ。」 「とても疲れちゃったわ。」セーラは跛の足台にぐたりと坐りました。「おや、メルチセデクがいるのね。可哀そうに、きっと御飯をもらいに出て来たのだわ。でも、今夜はヒトカケも残っていないのよ。帰ったらおかみさんに、私のポケットにはなんにもなかったといっておくれ。あんまりみんなに-つらくあたられたので、お前のことは忘れてしまって、悪かったわね。」  メルチセデクは、どうやらガテ-ンがいったようでした。彼は、満足そうではありませんでしたが、諦めたように、脚ずりをして帰って行きました。 「アーミイ、今夜会えようとは思わなくってよ。」と、セーラはいいました。 「アメリアさんは、伯母さんの所へ泊りにいらしったのよ。だから、いようと思えば、明日の朝までだっていられるわけよ。」  アーミンガードは、引窓の下のテーブルを指さしました。その上には、幾冊かの本が積んでありました。彼女はがっかりしたように、 「お父さまがまた本を送って下すったの。」といいました。セーラはたちまちテーブルに走りより、一番上の一巻を取ると、手早くページをめくり出しました。もうイチニチの-つらさなどは、すっかり忘れていました。 「なんて綺麗な本でしょう。カーライルの『フランス革命史』ね。私、これを読みたくてたまらなかったのよ。」 「私ちっとも読みたかなかったわ。でも、読まないとパパに怒られるのよ。パパは、私がお休みに家に帰るまでに、すっかり憶えさせようってつもりなのよ。私どうしたらいいでしょう。」 「こうしたら、どう? 私が読んで、あとですっかりあなたに話してあげるわ。憶えやすいようにね。」 「あら、うれしい。でも、あなたにそんなこと出来るの?」 「出来ると思うわ。小さい人たちは、私のお話をよく憶えてるじゃあないの。」 「もし、あなたが憶えやすいように私に話して下さるなら、私、何でもあなたに上げるわ。」 「私、あなたから-なんにもいただこうとは思わないけど、でも、この本は欲しいわ。」 「じゃああげるわ。私は本なんか、好こうと思っても好きになれないのよ。私は利口じゃあないの。ところが、お父さまはご自分が何でもお出来になるものだから、私だって出来ないはずはないと思ってらっしゃるのよ。」 「私に本を下すったりして、あとでお父さまにナンて仰るつもり?」 「何ともいわないわ。私がお話を憶えていさえすれば、読んだのだと思うでしょう。」 「そんな嘘をいうものじゃあないわ。嘘は悪いばかりでなく、卑しいことよ。だから、ご本を読んだのは、セーラだと仰しゃればいいじゃあないの?」 「でも、パパは私に読ませたいのよ。」 「読ませたいよりは、憶えこませたいのよ。だから、憶えさえすりゃあ、読んだのは誰だって、きっとおよろこびになるわ。」 「どのみち、憶えさえすりゃあいいのよ。あなたが私のパパだったら、きっとそれでいいとお思いになるでしょう。」 「でも、あなたが悪いからじゃあないわ。あなたの──」  頭の悪いのは、と危うくいいかけて、セーラは口を噤みました。 「私が、どうしたの?」 「すぐ憶えられないのは、あなたが悪いからじゃあないっていうのよ。すぐ憶えられたって、ちっとも偉かあないのよ。親切なことのほうが、どんなに値打ちがあるかしれないわ。ミンチン先生なんか、いくら何でも知っていたって、あんなだからみんなに嫌われるのよ。頭はよくても悪い事をしたり、悪い心を持ってたりした人がたくさんあるわ。ロベスピエルだって──憶えてるでしょう? いつかお話ししてあげたロベスピエルのこと。」 「そうね、少しは憶えてるけど。」 「忘れたのなら、もう一度話してあげるわ。ちょっと待ってね。この濡れた服を脱いで、夜具にくるまるから。」  セーラはベットの上で肩を夜具に包み、膝を抱えて、血腥いフランス革命の話を始めました。アーミンガードは眼を見張り、固唾をのんで耳を傾けました。怖いようでしたが、同時にまたぞっとするような面白さもありました。ロベスピエルのこと、ラムバール姫のことなど、忘れようと思っても、忘れられなくなりました。  二人は、父のセント・ジョン氏に、セーラに話してもらって憶える計画を、正直に打ちあけることにきめました。で、本は当分セーラの所に置くことにしました。  セーラは話している間も、倒れそうに空腹でした。アーミンガードが帰ってしまったら、ひもじさのあまり、眠られなくなりはしまいかと思いました。いつもは、そんなことに一向’気のつかないアーミンガードも、ふとセーラを見て/こういったくらいでした。 「私、あなたぐらいに痩せたいと思うわ。でも、今日はあなたいつもよりも痩せて見えるわね。眼もいつもより大きいようだし、肱のところには、とがった骨が出ているわ。」  セーラは、自然にまくれ上がった袖口を、引き下ろしました。 「私、小さい時から痩せてたのよ。そして、大きな緑色の眼だったのよ。」 「私、あなたのその不思議な眼が好きなの。どこか遠いところを見ているようで、とてもいいわ。その緑色がとてもいいわ。でも、たいていは黒いように見えるのね。」 「猫の眼なのよ。でも、猫のように暗いとこまで見えるわけじゃあないのよ。見えるかと思ってやってみたけど、駄目だったわ。暗くても見えるといいわね。」  ふと、引窓の上にかすかな音がしました。二人とも見ずにしまいましたが、黒い顔が引窓に現れて消えたのでした。 「今の音は、メルチセデクじゃあないわね。何かがスレートの上を、そうっと擦って行くような音だったわ。」  耳の早いセーラは、そういいました。 「なんでしょう? まさか、泥棒じゃあないでしょうね。」 「まさか。盗んで行くものなんか、何もないじゃあ──」  といいかけた時、また何か物音がしました。今度は二階で、ミンチン先生が怒鳴っている声でした。セーラはベットから飛び降りて、火を消しました。 「先生は、ベッキーを叱ってるのよ。」 「ここにやって来やあしない?」 「大丈夫。寝たと思ってるでしょう。でも、じっとしていてね。」  ミンチン先生は、屋根裏まで上って来ることなど、めったにありませんでした。が、今夜は立腹のあまり、中途までぐらいは上ってこないとも限りませんでした。それに、ベッキーを小突きまわしながら、あとから上ってくるような気配さえしました。 「嘘つき! 料理番の話だと、無くなったのは今日ばかりじゃあないそうじゃあないか。」 「でも、私じゃあございません。私、お腹はすいてたけど、そんな、そんな──」 「監獄に入れてやってもいいくらいだ。盗んだり、つまんだり。ミート・パイを半分も食べちゃったんだね。」 「私じゃあないんですってば! 食べるくらいなら、みんな食べちまうわ。──でも私、指ひとつさわりゃあしなかったんだわ。」  そのパイは、ミンチン先生が夜おそく食べようと思って、とっておいたものでした。先生は息を切らして階段を上がりながら、ぴしぴしベッキーをぶっているようでした。 「嘘なんかつくな。たった今、部屋に入ってしまえ。」  戸がしまって、ベッキーがベットに身を投げる音がしました。彼女は泣きじゃくりながらいいました。 「食べる気なら、二つぐらい食べちまうわ。一口だって食べや-しなかったのに。料理番が、あの巡査に食べさしたんだわ。」  セーラは真暗な室内に立ったまま、歯をくいしばり、手をさしのべて、掌を開いたり握りしめたりしていました。もう/じっとしては-いられないというふうでしたが、でも、ミンチン先生が降りて行ってしまうまでは、身動きもせずにおりました。 「ずいぶんひどいわ。料理番はベッキーに自分の罪をなすりつけてるのよ。ベッキーはつまみ食いなんかするものですか。あの子は、時々ひもじくてたまらなくなると、ゴミタメからパンの皮を拾って食べてるくらいだけど。」  セーラは両手をひしと顔に押しあてて、すすり泣きはじめました。セーラが泣くとは──アーミンガードは、なにか今まで気のつかなかったことに気のついた気がしました。ことによると──ことによると──彼女の親切な鈍い心の中に、恐ろしい事実がようよう姿を見せはじめました。彼女は手さぐりでテーブルの所へ行き、蝋燭に火をつけました。明かりがともると、身をこごめて気づかわしげにセーラを見ました。 「セーラさん、あの──あなた、一言も話して下さらなかったけど、あの、失礼だったら御免なさい──でも、あなた、ひもじいんじゃなかったの?」 「ええ、ひもじいのよ。あなたにでも食いつきたいほどひもじいのよ。それに、ベッキーの泣き声を聞くと、よけいひもじくなってくるの。あの子は私よりもひもじいのよ。」 「あら、私、ちっとも気がつかなかったなんて!」 「私も、あなたにさとられたくなかったのよ。あなたに知られると、わたし/乞食になったような気がするから嫌だったの。もう見たところは乞食’も同じですけどね。」 「そんなことないわ。着物はちょっと変だけど、乞食になんて見えるものですか。お顔が第一、乞食とは違うわ。」 「いつか私、小さい男の子から施しを受けたことだってあるのよ。」セーラは自分を蔑むように笑って、衿の中から細いリボンを引き出しました。「ほら、これよ。私の顔が物欲しそうだったから/あの坊ちゃんもクリスマスのお小遣いを、下さる気になったのよ。」  その銀貨を見ると、二人は眼に涙をためながら、笑い出しました。 「その坊ちゃんて、だれなの?」 「可愛い坊ちゃんだってよ。大屋敷の子供の一人で、足がまるまるしてるのよ。きっとあの子は自分は贈物やお菓子の籠をたくさん持っているのに、私は何一つ持っていそうもないと思ったのね。」  アーミンガードは、ふと何かを思いついて、ちょっと飛び下りました。 「セーラさん、わたし莫迦ね、今まであのことに気がつかないなんて。」 「あのことって。」 「いいことなの。さっき伯母さまから、お菓子の一杯つまった箱が届いたのよ。私お腹が一杯だったし、本のことで悩んでいたので、手もつけずにおいたの。中にはミート・パイだの、ジャム菓子だの、甘パンだの、オレンジだの、赤葡萄酒だの、無花果だの、チョコレートだのが入ってるのよ。私ちょっと取りに行ってくるわ。ここで食べましょうよ。」  セーラは食べ物の話を聞くと、思わずくらくらしました。彼女はアーミンガードの腕にしがみついて、 「でも、行って-こられる?」といいました。 「来られるわよ。」アーミンガードは戸の外に頭を出して、耳をすましました。「明かりはすっかり消えてるわ。みんなもう眠っちゃったのね。だから、そっと誰にもわからないように、そっと這って行って来るわ。」  二人は手をとりあってよろこびました。セーラはふと、また眼をきらめかせていいました。 「アアミイ! ね、またつもりになりましょうよ。宴会だってつもりにね。それからあの、隣の監房にいる囚人もご招待しない?」 「それがいいわ。さ、壁を叩きましょうよ。看守になんて/聞こえや-しないでしょう。」  セーラは壁ぎわに行って、四度’壁を叩きました。 「これは-ね、『壁の下の抜け道より来たれ、お知らせしたいことがある』という意味なの。」  向こうから五つ打つ響きがありました。 「ほら、来たわ。」  戸があいて、眼を紅くしたベッキーが現れました。彼女はアーミンガードがいるのを知ると、気まり悪そうに前掛けで顔を拭きはじめました。で、アーミンガードはいいました。 「ちっともかまわないのよ、ベッキー。」 「アーミンガードさんのお招きなのよ。今いい物の入った箱を持って来て下さるんですって。」 「いい物って、何か食べるもの?」 「そうなの。これから、宴会のつもりを始めるの。」 「食べられるだけ食べていいのよ。私、すぐ行って来るわ。」  アーミンガードはあまり急いだので、/でしなに赤いショールを落しました。誰もそれには気がつかないほど、夢中でした。 「お嬢さま、すてきね。私を招くようにあの方に頼んで下すったのは、お嬢さまでしょう? 私それを思うと、涙が出て来るわ。」  その時セーラは、眼にいつもの輝きを湛えながら、辛かった1日のあとに、ふいにこんな愉快なことが起こったのを、不思議に思い返していました。何か救いが来るものだ、まるで魔法のようだと、彼女は思いました。 「さ、泣かないで、テーブルを整えることにしましょう。」  セーラはうれしそうにベッキーの手を握りました。 「テーブルを整えるって? 何を乗せればいいの?」  セーラは部屋の中を見回して笑いました。テーブル掛けも何もあるはずはありません。ふと、セーラは赤いショールが落ちているのを見つけて、それを古いテーブルの上に掛けました。赤は非常にやさしく、心を慰める色です。テーブルに赤いショールが掛かると、部屋の中は急にひきたって来ました。 「これで、床に赤い敷物が敷いてあったら、すてきだわね。敷物のあるつもりになろう。」セーラが床に眼を落すと、そこにはもうちゃんと敷物が敷いてあるのでした。 「まあ、なんて厚くて、柔らかなのでしょう。」  セーラはベッキーのほうに笑顔を向けながら、さも何か敷物でも踏むように、そっと足を下ろしました。 「ほんとに柔らかね。」と、ベッキーも真顔でいいました。 「今度は何をしましょう。じっと考えて待っていると、何か思いつくものだわ。魔法の神さまがそれを教えてくれるのだわ。」  セーラのよくする空想の一つは、家のそとでいろいろの思いつきが呼び出されるのを待っているというのでした。セーラがじっと立って何か待ち受けているのを、ベッキーはよく見ました。セーラはいつものようにしばらくじっと立っていましたが、やがてまたいつものように、明るい笑顔になりました。 「そら来た。私、何をすればいいか分かったわ。私がプリンセス時代に持っていた、あの古鞄をあけてみましょう。」  鞄の隅には小さな箱があり、その中に小さなハンケチが一ダース入っていました。セーラはそれを持っていそいそとテーブルのほうに走って行き、レースのフチがそり返るように工夫して、赤いテーブル掛けの上に並べました。並べる間も、彼女は何か魔法に動かされているようでした。 「そこにお皿があるの。黄金のお皿よ。それから、このナプキンには手のこんだ刺繍がしてある。スペインの尼さんが尼寺の中でした刺繍なのよ。ほら、目に見えて来るでしょう。」  セーラはまた鞄の中から、古い夏帽子を見つけ出し、飾りの花を引きはがして、テーブルの上に飾りました。 「いい匂いがするでしょう。」  セーラは夢の中の人のように、幸福そうな微笑をたたえながら、石鹸ザラをアラバスターの水盤に見たてて、薔薇の花を盛りました。それから毛糸を包んだ紅白の薄紙で、お皿を折り、残った紙と花とは、蝋燭台を飾るのに用いました。セーラは1歩ひいて、飾られたテーブルを眺めました。そこにあるのは、赤い肩掛けをかけたフルテーブルと、鞄から出した塵屑とだけでしたが、セーラは魔法の力で、奇蹟が行われたのを見るのでした。ベッキーまで、そこらを見回していうのでした。 「あの、これが──これが、あのバスティユ?──何かに変わってしまったの?」 「そうですとも。饗宴場に変わったのよ。」  そのとき戸が開いて、アーミンガードがよろよろと入ってきました。彼女は肌寒い暗闇の中から、すっかり飾られた部屋に入って来ると、思わず声をあげました。 「セーラさん、あなたみたいに何でも上手な方は見たことないわ。」 「すてきでしょう? みんな、フル鞄の中にあったのよ。魔法の神に伺ってみたら、トランクを開けてみろと仰ったの。」 「でも、お嬢さん、セーラ嬢さんにいちいち何だか話しておもらいなさい。ね、あれはみんな──セーラ嬢さん、この方にも話しておあげなさいよ。」  で、セーラはアーミンガードに、黄金のお皿のこと、丸天井のこと、燃えさかる丸太のこと、きらめく蝋燭のことなどを話して聞かせました。魔法の力の助けで、アーミンガードもそれらのものを朧に見る気がしました。手籠の中から、寒天菓子や、果物や、ボンボンや、葡萄酒が取り出されるにつれ、宴会はすばらしいものになって来ました。 「まるで、夜会ね。」と、アーミンガードは叫びました。 「クウィーン様の食卓みたいだわ。」と、ベッキーは吐息をつきました。  すると、アーミンガードは眼を光らせて、 「こうしましょう、ね、セーラ。あなたはプリンセスで、これは宮中の御宴なの。」 「でも、今日の主催者はあなたじゃあないの。だから、あなたがプリンセスで、私たちは女官なの。」 「あら、私なんか肥っちょだから駄目よ。それにプリンセスはどうするものだか、知らないんですもの。だから、やっぱりあなたのほうがいいわ。」 「あなたがそう仰るなら、それでもいいわ。」それから、またセーラは何か思いついたらしく、さびた煖炉の所に飛んで行きました。 「紙屑や塵がたまってるから、これにヒをつけると、ちょっと明るくなるわ。すると、本当に火のあるような気がするでしょう。」  セーラは火をつけると、淑やかに手をあげて、みんなをまた食卓へ導きました。 「さあ、お進みなされご婦人がた。饗宴の蓆におつき召されよ。わがやんごとなき父ぎみ、国王さまには、只今、ながの旅路におわせど、そなたたちを饗宴に招ぜよと、ワラワに御諚くだされしぞ。なんじゃ、楽士どもか。ヴァイオル、またバッスーンを奏でてたもれ。」そういってから、セーラは二人にいってきかせました。 「プリンセスがたの宴会には、きっと音楽があったものなのよ。だから、あの隅に奏楽じょうがあるつもりにしましょう。さ、始めましょう。」  みんながお菓子をやっと手にとるかとらないうち、三人は思わず飛び上がって、真っ青な顔を戸口のホウへ向け、息をこらして耳を澄ましました。誰かが梯子を上って来るのです。もう何もかもおしまいだと、みんなは思いました。 「きっと奥さまよ。」ベッキーは思わずお菓子のかけらを取り落しました。 「そうよ。先生に見つかったのだわ。」  セーラも真っ青になって、眼を見張りました。  ミンチン先生は扉を叩きあけて入って来ました。怒りのあまり、先生の顔も真っ青でした。 「何かこそこそやってるようだとは思ってたけど、こんな大胆不敵なことをしようとは夢にも思わなかった。ラヴィニアのいったのは本当だ。」  告げ口をしたのはラヴィニアだと、三人は知りました。ミンチン先生は、足を鳴らして進みよると、またベッキーの耳をぶちました。 「畜生め、夜があけたら、さっさと出て行け。」  セーラは身動きもせず立っていました。眼はいよいよ大きくなり、顔色はますます青ざめていきました。アーミンガードはわっと泣き出しました。 「どうか、ベッキーを追い出さないで下さい。伯母さんがこの手籠を下すったので、みんなで、ただあの──宴会ごっこをしていたのです。」 「案の定、プリンセス・セーラが上座に坐ってるね。みんなセーラの仕業なんだ。ちゃんと分かってるよ。ベッキー、お前はさっさと自分の部屋に帰れ。セーラ、お前の罰は明日だ。明日は朝から晩まで、なんにも食べさしてやらないから。」 「今日だって、お昼も晩もいただきませんでしたよ。」 「そんなら-なお-いいさ。何か心にこたえることをしてやらなければ。アーミンガード、ぼんやり立ってるんじゃあないよ。食べ物をみんな手籠にしまうんだよ。」  ミンチン先生は、自分でテーブルの上のものを手籠の中へ’払い落しましたが、またしてもセーラが大きな眼をして見詰めているのに気がつくと、先生はセーラに食ってかかりました。 「何を考えてるんだよ。なんだって、そんな眼をして私を見るんだよ。」 「私、お父さまがこれを御覧になったら、何と仰るだろう、と思っていましたの。」  それを聞くと先生は、いつかの時のように腹が立ってたまらなくなりました。で、思わずセーラに飛びかかって、彼女のからだをゆすぶりました。 「まあ、失敬な! ずうずうしいにも程がある。」  先生は手籠や本をアーミンガードの腕に押しこみ、彼女を小突いて先に立てながら、セーラの部屋を出て行きました。  夢はすっかりさめてしまいました。炉の中の紙屑は消えて黒い燃殻になり、テーブルの上に飾ったものは、鞄の中にあった時のように古ぼけて、床に散らばっていました。セーラはエミリーが壁に寄りかかっているのを見つけると、震える手で抱き上げました。 「もうご馳走どころじゃあないのよ。プリンセスもなにもいやしないのよ。バスティユの囚人がここにいるばかりだわ。」  セーラはべたりと坐って、両手で顔を被おうとしました。そのあいだにさっきの黒い顔が、また引窓の上に現れました。が、セーラはそれには気がつきませんでした。セーラはやがて立ち上がって寝床のほうに行きました。もうなんのつもりになる張り合いもありませんでした。 「あの炉に火が入っているといいな。火の前には、気持ちのいい椅子テーブルがあって、暖かな晩御飯が乗っているといいな。それから、あの──。」と薄っぺらな夜具をかけながら、「これが、柔らかなベットで、羊毛の毛布や、ふうわりした枕がついているのだったら、そして、それから──」  セーラは思っているうち疲れ果てて、いつかぐっすり眠ってしまいました。 ◇。◇。◇。◇。◇。  どれほど眠ったか、セーラには分かりませんでした。彼女は疲れきっていましたので、メルチセデクが騒いでも、引窓から誰かが入って来ても、なんにも知らずにぐっすり眠っておりました。  引窓がぱたりと閉まる音’を聞いたと思いましたが、セーラは眠くてたまらないので──それに、何か妙にぽかぽか温かくて気持ちがいいので、すぐには眼を開けませんでした。余りの気持ちよさに、セーラは何だかまだ夢心地だったのでした。 「いい夢だわ。私、覚めなければいいと思うわ。」  まったく夢にちがいありません。温かな夜具もかかっているようですし、毛布の肌触りも感ぜられます。手を出すと、繻子の羽根蒲団らしいものが触るのです。セーラはこの夢から覚めまいと思って、一生懸命’目をつぶっていましたが、ぱちぱちと火の爆ぜる音を聞くと、眼をあけずには-いられませんでした。眼を開けて見て、セーラはまだ夢を見ているのだと思いました。──  炉にはあかあかと炎が燃え立っています。炉棚の上には小さな真鍮の茶釜が、ふつふつと煮え立っています。床には厚い緋色の絨毯が、炉の前には、クッションをのせた畳みこみの椅子が置いてあります。椅子のそばには白いテーブル掛けをかけた小さな食卓が据えてあって、茶碗や、土瓶や、小皿や、切れをかけた料理のお皿などが並べられてあります。ベットの上には温かそうな寝巻や、繻子の羽根ブトンがかけてあります。ベットの下には、珍らしい綿入れの絹の服や、綿の入ったスリッパや、小さな本などが置いてあります。それに、テーブルの上には、薔薇色傘のついた明るいラムプが-ともっているのです。セーラは、夢の国から妖精の国に来たのではないかと思いました。 「消えてなくなりもしないようだわ。こんな夢って、見たこともないわ。」  セーラは、しばらくベットの上に肱をついて、部屋の中を見ていましたが、やがて、夜具を押しのけて、足を床に下ろしました。 「夢を見ながら、トコから出て行くのだわ。このままであればいい。私はこれがほんとなのだと、夢見ているのだわ。夢じゃあないと、夢のウチで思っているのだわ。魔法にかかった夢のようだわ。私も何だか魔法にかかっているようだわ。きっと私はただ見えると思ってるばかりなのよ。いつまでもそう思っていたいわ。でも、どうでもいいわ。どうでもいいわ。」  セーラは、燃え立つ火の前に跪いて、火に手をかざして見ました。火に手を近づけすぎたので、あつさのあまり飛びさがりました。 「夢で見ただけの火なら、熱いはずはないわ。」  セーラは飛び上がって、テーブルや、お皿や、敷物に手を触れて見ました。それから、ベットの毛布に触ってみました。柔らかな綿入れの服を取り上げて、ふいに抱きしめ、頬ずりしました。 「温かくて、柔らかだわ。本物に違いないわ。」  セーラはその服をひっかけて、スリッパを穿きました。それから、よろよろと本の所へ行き、一番上の一冊を開いてみました。 『屋根裏部屋の少女へ、友人より』  扉にそう書いてあるのを見ると、セーラはその上に顔を伏せて、泣き出しました。 「誰だか知らないけど、私に気を付けて下さる方があるのだわ。私にも、お友達があるのだわ。」  セーラは蝋燭を持ってベッキーの所に行きました。ベッキーは眼を覚まして、緋色の綿入服を着たセーラを見ると、吃驚して起き上がりました。昔のままのプリンセス・セーラが立っていると、ベッキーは思いました。 「ベッキー、来て御覧なさい。」  ベッキーは、驚きのあまり’口を利くことも出来ず、黙ってセーラに従いました。ベッキーはセーラの部屋に入ると、眼が回りそうでした。 「みんな-ほんとなのよ。私、触って見たのよ。きっと私たちの眠っている間に、魔法使いが来たのね。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十六章】 【お客さま】 ◇。◇。◇。◇。◇。  それから、その晩二人はどうしたか、出来るなら想像して御覧なさい。  二人は火のそばに踞って、料理皿にかけた切れをとって見ました。お皿の中には、二人で食べても食べきれないほどのおいしいスープや、サンドウィッチや、マッフィンなどが入れてありました。ベッキーのお茶碗はないので、洗面台のうがい茶碗を使うことにしました。そのお茶のおいしさといったらありませんでした。これが、お茶でない何かほかのもののつもりになどはなれないくらいでした。二人は飢えも寒さも忘れ、すっかり楽しい気持ちになりました。 「一体、誰がこんなにして下すったんでしょう? 誰かいるのにはちがいないわ。私を想ってて下さる方があるのだわ。ねエ、ベッキー、その誰かは、きっと私のお友達なのよ。」 「あの──。」と、ベッキーは一度口ごもってからいいました。「あの、お嬢さん、これみんな、融けてってしまうんじゃあない? 早く片付けてしまったほうがよくはない?」ベッキーは急いでサンドウィッチをほおばりました。 「大丈夫よ。私もさっき夢じゃあないかと思って、その火に触ってみたのよ。」  おなかが一杯になると、セーラは、一人ではかけきれないほどある毛布を、ベッキーに分けてやりました。ベッキーは帰りしなに振り返って、貪るように室内を見回しました。 「お嬢さま、これがみんな朝になって消えちまっても、とにかく今夜’だけは-ちゃんとあったんだから、わたし決して忘れないわ。」ベッキーは忘れまいとして、もう一度煖炉や、ラムプや、ベットや、床を眺めまわしました。それから、ちょっと自分のお腹の上に手をおいて、 「こんなかには、スープに、サンドウィッチに、マッフィンが入って行ったんだわ。」と、それだけは’確か-そうに言いました。  朝になると、生徒も、召使いも、いつの間にか夕べの騒ぎを知っていました。みんなは、セーラがどんな顔をして出て来るだろうと、待ちかまえていました。  セーラはみんなの眼を避けて、真っ直ぐに流し場へ行きました。ベッキーはせっせと茶釜を磨きながら、口の中で何かを口ずさんでいました。 「お嬢さん、眼が覚めたらあってよ、毛布が。昨夜の通りよ。」 「私のもよ。わたし/着物を着ながら、食べ残した冷たいものを食べて来たわ。」 「そう、いいわね。」  そこへ料理番が入って来たので、ベッキーはまた茶釜の上に、顔を俯向けてしまいました。  教室ではミンチン先生が、やはりセーラはどんな顔をして出て来るだろうと、待ちかまえていました。さすがのセーラも、今日はしょげて出て来るだろうと思っていました。が、不思議やセーラは血色のいい顔に微笑を湛え、踊るような足どりで入って来ました。ミンチン女史の驚きといったらありませんでした。 「お前には、自分が恥ずかしい目にあってるのが、分からないのかい?」 「すみません。私、それはよく知っております。」 「そんなら、その気で、そんな、何かいい事でもあったような顔をするものではない。生意気だよ。それから、今日は一日-なんにも食べられないのだということを、忘れないがいいよ。」 「はい、忘れません。」  いいながらセーラは、魔法のおかげがなかったら、今頃はさぞひもじかったろうに、と思いました。 「セーラは、大してひもじそうじゃあないわね。」と、ラヴィニアは囁きました。「まるで、朝飯に何かおいしいものでも食べて来たような顔をしているわ。」 「あの子は、普通の人たちとは違ってるのよ。」とジェッシーは、フランス語を教えているセーラのほうを見ながらいいました。「私、時々セーラが怖くなるわ。」 「莫迦ね。」  セーラはいろいろ考えた末、昨夜’起こったことは、誰にも言うまいと決心しました。ミンチン先生が屋根裏に上って-くればおしまいですが、ここしばらくは大丈夫だろうと思いました。アーミンガードやロッティは、見張りがきびしいから、当分’忍んで来るわけにもいかないでしょう。それに魔法の神さまも、きっとこの奇蹟を隠して下さるでしょう。 「どんなことが起ろうと、私には目に見えないお友達があるのだからいいわ。」  その日は、前日よりもお天気が悪い上、セーラは夕べのことがあるので、よけい-つらくあたられました。が、セーラはもう-なんにも怖いとは思いませんでした。夕方までには多少おなかも-すいて来ましたが、セーラは今にまたご馳走が食べられるのだと思っていました。  夜更けて、ひとり自分の部屋の前に立った時、セーラの胸はさすがにどきどきしました。 「ことによると、もうすっかり片付けられてしまったかもしれないわ。昨夜だけちょっと私に貸してくれたものなのかもしれないわ。でも、借りたのは事実だったのだわ。夢でもなんでもなかったのだわ。」  セーラは部屋に入ると、すぐ戸を閉め、それに背をもたせて、隅々を見回しました。魔法の神は、留守の間にまたここを見舞ったと見えます。昨夜なかったものまでが持ちこまれてありました。低い食卓の上には、またしても御飯の支度がしてありました。しかも、今日はコップも、お皿もみんな二人前そろえてあるのです。炉の上の棚には、目のさめるような刺繍をした切れが敷いてあり、二’三の置物が飾ってありました。醜いものは、すべてトバリで隠してありました。美しい扇や壁掛けが、鋭い鋲で壁にとめてありました。木の箱には敷物が掛けてあり、その上には、いくつかのクッションが乗っていて、寝椅子の形に出来ていました。 「まるで、何かお伽噺にあることみたいだわ。なんでも、欲しいといえば出て来るような気がするわ。ダイヤモンドでも、黄金の袋でも、お伽噺よりも不思議なくらいだわ。これが、昨日までの屋根裏部屋なのかしら? 私も、あの凍えた、汚いセーラだとは思えないくらいだわ。私はいつもお伽噺がほんとになるのを見とどけたいと思っていたのよ。ところが、いま私はお伽噺の中に住んでるんだわ。わたし自身もフェアリーになったような気がするわ。そして、何でも変えることが出来るような気がするわ。」  セーラは壁を打って、隣の囚人を呼び出しました。ベッキーは、今夜は自分の紅茶茶碗でお茶をいただきました。  セーラはシンに就く時、また新しい厚い敷布団と、大きな羽根枕のあるのを見つけました。昨夜のは、いつの間にかベッキーの寝床に移されていたのでした。 「ぜんたいどこから来るんでしょう? お嬢さん、ほんとに誰がするんでしょう?」 「訊くのはよしましょうよ。私、知らないでいたほうがいいと思うわ。でも、その誰かに、『ありがとう/』とだけは言いたいわね。」  そのとき以来、世の中はだんだん愉快になって来ました。お伽噺はうち続きました。たいてい毎日、何かしら新しいことが起りました。夜、セーラが戸を開けるごとに、室内には何か新しい装飾が施され、何か少しずつ居心地よくなっているのでした。そうこうするうち、屋根裏部屋は、いろいろの珍らしい贅沢なものの一杯ある美しい部屋になってしまいました。朝’出て行く時には、前の晩の食べ残しが置いてあるのに、夜’帰って来てみると、食べ残しは綺麗に片付けられ、また別な美味が置き並べられてあるのでした。  セーラはこうした幸福と慰めとのため、だんだん健康になり、希望に充ちて来ました。相変らずみんなからはひどく扱われましたが、どんな時にも、屋根裏に帰りさえすればと思うと、辛いとも思いませんでした。 「セーラ・クルーは、大変丈夫そうになったじゃあないか。」と、ミンチン先生は不服そうに妹にいいました。 「ほんとに、だんだん肥って来たようですね。まるで餓えた烏みたいになりかけていたのに。」 「餓えただって? 食べたいだけ食べさしてあるのに、うえるはずはないじゃないか。」  アメリア嬢は、へまな口を辷らしたと思って、おどおどと、 「そ、そりゃあそうですけど。」と、合槌をうちました。 「あの子の年で、あんなふうなのは、不愉快だよ。」 「あんなふうなって?」 「いわば反抗心とでもいうんだろうね。たいていの子供は、あんな境遇の変化に逢ったら、意地も元気もなくなっちまうはずなのに、あの子はまるで、まだプリンセスかなんぞのように、しゃんとしているんだもの。」 「姉さま、憶えていらしって? あの、いつかセーラが教室でこういった時のことを。先生はどうなさるでしょう、もし私が──」 「そんなこと憶えちゃあいないよ。つまらないことはいうものじゃない。」  争われないもので、ベッキーも近頃はむくむく肥り出し、何か落ちつきが出て来ました。肥るまいと思っても肥り出し、怯えようとしても怯えられなくなったのだから仕方ありません。彼女もやはり、誰も知らないあのお伽噺のおかげを蒙っていたからでした。今は彼女も、敷布団は二枚あるし、枕も二つ持っています。毎晩温かな御飯を食べ、火の燃えている炉のそばに坐ることが出来るのでした。バスティユの牢獄はいつか消え去り、囚人は影も見えなくなりました。その代わりに二人の幸せな子供が、よろこびにひたっているばかりでした。時とすると、セーラは書物を取り上げ、声を出して’読んだ’りしました。時とするとまた、じっと炉の火を見詰め、あのお友達は誰だろう、どうかして自分の胸に感じていることを、その人に伝えるスベはないものだろうか、などと思いに耽りました。  すると、また素敵な事件が起きて来ました。ある日一人の男が玄関に来て、いくつかの小包みを置いて行きました。その宛名は、『右手屋根裏部屋の少女へ』とだけ大きく書いてあるのでした。  小包みを取りにやられたのは、ほかならぬセーラでした。彼女が一番大きい包みを二つ、客間のテーブルの上に置いて、宛名を眺めていますと、そこへミンチン先生が入って来ました。 「宛名のお嬢さんのところへさっさと持っておいで。そんな所に立ってじろじろ見てるんじゃあないよ。」 「でも、これは私のです。」と、セーラは静かにいいました。 「お前のだって? 何をいってるんだよ。」 「どこから来たのだか存じませんけど、宛名は私なんでございます。私の眠るのは右手の屋根裏です。ベッキーは左ですから。」  ミンチン女史は、セーラのそばへ’やって来て、昂奮した顔つきで小包みを眺めました。 「何が入ってるんだい?」 「存じません。」 「開けてごらん。」  セーラはいわれた通りにしました。中から出て来たのは、着心地のよさそうな美しい衣裳でした。靴、靴下、手袋、美しい上衣、それから見事な帽子、雨傘──すべて、上等な高価な品ばかりでした。その上、上衣のポケットには、こんなことを書いたカミギレが、ピンで-とめてありました。 「普段にお着なさい。換える必要があったら、いつでも換えて上げます。」  それを見ると、ミンチン女史は卑しい心の中に、何か不思議なことがあるなとさとりました。あるいは自分は思い違いをしていたのかもしれない。このミナシゴの背後には、誰か変わりものの、しかし勢力のある友人があったのかもしれない。あるいは誰か今まで知られていなかった親戚があって、ふとセーラの居どころをつきとめた上、こんな妙な方法で彼女の世話をしはじめたのかもしれない。親戚にはよく変人があるものです。殊に年取った、金持ちで独り身の伯父などというものは、子供をそばに置くことを嫌がって、遠くの方から、その子の様子を見守っていたりするものです。またそんな伯父はきまって癇癪持ちで、おこりっぽいものです。だから、もしそんな人がいて、セーラのひどい様子を見たら、いい気持ちのするはずはありません。ミンチン女史は、妙に不安な気持ちになりました。で、彼女はセーラを横目でちらと見て、セーラの父が亡くなって以来’使ったことのない、やさしい声でいいました。 「きっとどなたかご親切な方があるのですよ。こんなものをいただいたのだから、それに痛めば新しいのと換えて下さるというのだから、それに着かえて、きちんとしているようになさい。着かえたら教室に来て、自分の勉強をなさい。今日はもうどこへも使いに行かないでいいから。」  着がえをすまして、セーラが教室に入って行くと、生徒たちは驚きのあまり’声も出ませんでした。 「まあ驚いた。」とジェッシーはラヴィニアの肱をつっつきながら、頓狂な声でいいました。「すっかりプリンセス・セーラになり戻っちゃったじゃあないの。」  ラヴィニアは真っ赤になりました。  ジェッシーのいったとおり、今’入ってきたセーラは、プリンセス・セーラでした。少くとも、セーラはプリンセス時代以来、今日のように身ぎれいにしていたことはありませんでした。彼女は二三時間前までのセーラとは似ても似つかぬナリをしていました。 「きっと誰かが、あの子に財産を残したのね。」と、ジェッシーは囁きました。「私、いつでもあの子には何かしら起こると思ってたわ。」 「きっと、ダイヤモンド鉱山でも、また出て来たんでしょうよ。」とラヴィニアは、とげとげしくいいました。「そんな眼で見ると、あの子がいい気になるからおよしなさいよ。莫迦ね。」  ふいに、ミンチン先生が太い声でいいました。 「セーラさん、ここへ来てお坐んなさい。」  で、セーラは昔坐っていた名誉の席につき、俯向いて本を読み始めました。  セーラはその夜、部屋に帰って、ベッキーと夕飯をすますと、永いこと炉の火を見詰めて黙っていました。 「お嬢さん、何かお話を作ってらっしゃるの?」 「いいえ、私、どうすればいいのだろうと考えているの。私あの方のことを考えずには-いられないのよ。でも、あの方はなんにも知られたくないのかもしれないでしょう。そんなら、あの方がどんな方だか探り出したりしちゃあ、失礼になるでしょう。でも私、どんなにあの方をありがたく思ってるか──どんなに幸せにしていただけたか、ということを、あの方に申し上げたくてならないの。親切な人ってものは、お礼は言われたくなくても、幸せになったかどうかは、知りたいものよ。私、私、ほんとに──」  いいかけてセーラは、ふとテーブルの上の文房具箱に眼をとめました。紙や、封筒や、インクや、ペンの入ったその箱は、一昨日ここに運びこまれていたものでした。 「まあ私、どうして、今まであれに気がつかなかったんでしょう。私/お手紙を書いて、あのテーブルの上に載せておくわ。そうすれば、きっと片付けに来る方が、手紙も一緒に持ってって下さるわ。」  そこで、セーラは次のような手紙を書きました。 ◇。◇。◇。  あなたは、ご自分を秘密に遊ばしたいご所存でいらっしゃいますのに、こんな手紙をさし上げる失礼をお赦し下さい。私は決して失礼なことをしたり、何か捜り出そうとしたりなどするつもりはないのでございます。ただ、これほどまでにご親切にして下さったこと、何もかもお伽噺のようにして下さったことに対して、一言お礼を申し上げたいのでございます。あなたの御恩は決して忘れません。私も、ベッキーも、それはそれは幸せです。私共は、本当にいつも寂しく、寒く、空腹がちでしたのに、今は──あなたはまあ、私共のために大変なことをして下さいましたのね。お礼だけは言ってもよろしいでございましょう。いわねば済まぬような気が致します。ありがとう! 本当にありがとうございます。 ◇。◇。◇。 【屋根裏部屋の少女】 ◇。◇。◇。  セーラは翌朝この手紙をテーブルの上に載せておきました。夕方帰ってみると、手紙は他のものと一緒に持ち去られたようでした。セーラは、手紙が首尾よく魔法使いに届いたのだと思うと、一層’幸福になりました。その晩、セーラがベッキーに新しい本を読んで聞かせていますと、引窓のところにふと何か音がしました。 「何かいるのよ、お嬢さん。」 「そうね、何だか、猫が入りたがってい-るような音ね。ひょっとすると、またあのお猿が脱け出して来たのかもしれないわ。」  セーラは椅子の上に立って、気を配りながら引窓をあけ、外を覗きました。雪の日で、白く積った窓の外に、震えながら踞っているものがありました。 「やっぱり猿よ。きっとラスカーの屋根裏から這出して、この明かりにひかれてここへ来たのよ。」  ベッキーは走り寄っていいました。 「お嬢さん、いれてやるつもり?」 「ええ、お猿を外に出しといちゃあ、寒すぎて可哀そうよ。猿は寒さに弱いのよ。私、だまして入れてやろう。」  セーラは、いつも雀やメルチセデクに話しかける時のように、片手をさしのべながら、あやすように話しかけました。そうしているとセーラは、セーラ自身まるで何か小さな人なつっこい獣で、内気で野蛮な獣の気持ちをよくのみこんでいるようでした。 「お猿さん、入らっしゃいな。私、苛めや-しないことよ。」  そんなことは猿も知っていました。で、セーラがそっと手を取り、引窓の上にさし上げた時も、されるままになっていました。セーラが抱きしめると、猿もセーラの胸にしがみつき、髪の毛を親しげに握って、セーラの顔を覗きこみました。 「いいお猿だこと。私、小さな生き物が大好きよ。」  猿は火にありついてうれしそうでした。セーラが坐って、膝の上にのせてやりますと、猿は物珍らしげに、彼女とベッキーとを見比べました。 「この子は不器量ね、お嬢さん。」 「ほんとに、ブ器量な赤ん坊のような顔をしているわ。お猿さん、御免なさい。でも、お前、赤ちゃんでなくてよかったわ。お前のお母さんは、まさかお前を自慢するわけにもいかないでしょう。ご親戚のどなたに似てらっしゃるなどと/うっかりお世辞をいうわけにもいかないしね。でも私、ほんとにお前が好きよ。」  セーラは椅子にもたれて、思い返しました。 「この子だって、きっと器量が悪いので悲観しているのよ。その事がしょっちゅう心にあるんだわ。でも、猿に心なんてあるかしら? 可愛いお猿さん、あなたには心がおありでございますか?」  が、猿はただ小さい手をあげて、頭を掻いただけでした。 「お嬢さん、この猿、どうするの?」 「今夜は、私の所にお泊まりよ。明日になったら、インドの小父さんの所へ連れて行くつもり。私はお前を返すのが惜しいのだけどね、でも、お前は帰らなき-ゃあいけないのよ。お前はウチジュウで一番可愛がられるようにならなき-ゃあいけませんよ。」  セーラは眠るとき、自分の足許に猿の巣をつくってやりました。すると、猿はその巣が気に行ったらしく、赤ん坊のようにその中に-うずまって眠りこみました。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十七章】 【「この子だ」】 ◇。◇。◇。◇。◇。  明くる日の午後には、大屋敷の子が三人/インド紳士の書斎に坐って、病人の気をひきたてようとしていました。子供たちは、特に病人から来てくれといわれたので、来て病人を慰めているのでした。印度紳士は、ここしばらくのあいだ、生きた-ここちもないほどでしたが、今日こそは、ある事を熱心に待ち受けておりました。そのある事というのは、カーマイクル氏がモスコウから帰って来ることでした。氏の帰朝は、予定よりナン週間も遅れたのでした。初めモスコウに着いた時には、索める家族がどこにいるものか、少しも分かりませんでした。やっと尋ね当てて行ってみますと、あいにく旅行中で不在でした。旅先に追いかけて行こうとしても無駄だったので、氏はその人たちの帰るまでモスコウで待つことにしたのでした。  カリスフォド氏は安楽椅子に寄りかかり、ジャネットはその下に坐っていました。ノラは足台を見つけて坐り、ドウナルド(ギー・クラーレンスのこと)は皮の敷物の飾りについている/虎の頭に跨っていました。少年はかなり乱暴に頭をゆすっていました。 「ドウナルド、そんなに噪ぐんじ-ゃあありませんよ。」と、ジャネットはいいました。「ご病人に元気をつけてあげようっていう時には、そんな金切ゴエを出すものじ-ゃあありませんよ。カリスフォド小父さん、やかましすぎや-しなくて。」  病人は、彼女の肩を軽く叩いて、 「いや、そんなことはない。噪いでくれたほうが、考えごとを忘れていいのだよ。」 「僕は、これから静かにするよ。」と、ドウナルドはいいました。「みんなで、ハツカネズミのようにおとなしくしようじゃあないか。」 「ハツカネズミが、そんな大きな音をさせるものですか。」  ドウナルドはハンカチで鐙を造り、虎の頭の上で跳ね躍りました。 「鼠がありったけ出て来たら、このぐらいの音はさせるよ。千匹ぐらいいりゃあ、するよ。」 「五万匹集まったって、そんな音’しやしないわ。一匹の鼠ぐらい、おとなしくしなきゃあ駄目よ。」  カリスフォド氏は笑って、また彼女の肩を叩きました。 「お父さまは、もうじきお着きになるのね。あの行方不明の娘さんの話をしてもよろしくって?」 「私は今、その話よりほか、とても出来そうにない。」  印度紳士は、疲れた顔の額に皺をよせました。 「私たちは、その子がそれは好きなのよ。みんなでその子のことを、『フェアリーではないプリンセス』って呼んでるの。」 「なぜ、そう呼ぶの?」 「こういうわけなの。あの子は、本当はフェアリーじゃあないけど、見つかった時には、まるでお伽噺の中のプリンセスみたいに、お金持ちになるのでしょう。初めは『フェアリーの国のプリンセス』といってたんですけど、そいじ-ゃあ-しっくりいかないから、『フェアリーじゃあないプリンセス』にしたの。」  すると、ノラはいいました。 「あの、あの子のお父さまがダイヤモンド鉱山のために、お金をすっかりお友達にあげてしまったって話は、ほんとなの? そして、そのお友達は、そのお金をすっかり失くしたと思ったので、自分は泥棒のようなものだと思って、逃げ出したのですって?」  ジャネットは急いで、 「でも、その方は、泥棒でも何でもなかったのよ。」といいました。  印度紳士は、つとジャネットの手を取りました。 「まったく、そうじ-ゃあなかったのだよ。」 「私、その方がお気の毒でならないの。」と、ジャネットはいいました。「その方は、お金を失くすつもりなんかなかったのよ。そんなことになって、どんなに胸を痛めたでしょう。きっと、お苦しみになったでしょうね。」  すると、印度紳士はジャネットの手を、ひしと握りしめて、いいました。 「あなたは、何でもわかる若いご婦人だね。」 「姉さん、カリスフォド小父さんに、あの話をした?」と、ドウナルドが大きな声を立てました。「あの『乞食じゃあない小さな女の子』の話をさ。あの子がいい着物を着てるって、話した? きっとあの子も、今まで行方不明だったのを、誰かに見つけ出されたのだよ。」 「あら、馬車が来た。」と、ジャネットが叫びました。「ウチの前で止ったわ。お父さまのお帰りだわ。」  みんなは窓の所へ飛んで行きました。 「ああ、お父さんだよ。」と、ドウナルドが告げました。「でも、小っちゃな女の子はいないよ。」  三人はじっとしていられなくなったので、先を争って玄関へ飛び出しました。お父さまがお帰りになると、いつも子供たちはそうして迎え入れるのでした。三人が飛び上がったり、手を拍ったり、抱き上げられてキスされたりしている気配が、部屋の中にいても、はっきり感じられました。  カリスフォド氏は立ち上がりかけて、またどかりと椅子の中に身を落しました。 「駄目だ、俺は何というやくざな人間だろう。」  カーマイクル氏の声が、戸口に近づいて来ました。 「今は、駄目だよ。カリスフォドさんとお話をすましてからにしてくれ。そのあいだ、ラム・ダスと遊んでたらいいだろう。」  戸が開いて、カーマイクル氏が入って来ました。氏は前よりも血色がよく、生き生きした顔をしていましたが、眼には失望の色を湛えていました。病人の待ちかねた眼付きを見ると、氏はよけい気づかわしげになりました。 「どうだった?」と、カリスフォド氏が訊ねました。「ロシヤ人がひきとったというその子は、どうだった?」 「その子は、我々の探している娘じ-ゃあなかったのです。クルー大尉の娘よりは、ずっと年下でしてね。名前はエミリー・クルーなのです。私はその子と会って話して来ました。ロシヤ人の家族は、委細を聞かしてくれましたよ。」  インドの紳士の失望といったらありませんでした。紳士は今まで握っていたカーマイクル氏の手を離して、だらりと自分の手を落しました。 「それじゃあ、また捜索をやりかえさなければならないんだな。じゃあ、やりなおすまでのことだ。まあ、そこに掛けたまえ。」  カーマイクル氏は腰を下ろしました。彼は自分が健康で幸せなせいか、この不幸な病人が、気の毒で、だんだん好きになって来るのでした。この家の中に一人でも子供がいたら、少しは寂しさも紛れるだろうに。こうして一人の男が、一人の子供を不幸にしているという思いのため、絶え間なく悶えているとは──:大屋敷の主人は、病人に元気をつけるようにいいました。 「大丈夫、まだ見つけられますよ。」 「すぐまた捜索を始めにゃあならん。ぐずぐずしちゃあいられない。」カリスフォド氏はイライラして来ました。「キミ、何か新しい心当たりはないだろうか?──何かちょっとした心当たりでも。」  カーマイクル氏も落ちつかないふうに立ち上がり、考えながら部屋の中を歩き回りました。 「何かありそうでもありますな。どれだけの根拠があるかは、私にも分かりませんが、というのはドーヴァからここまでの汽車の中で、いろいろ考えているうち、ふと思いついたんですが。」 「どんなことです? あのムスメが生きてるとすると、どこかにいるわけだ。」 「その通り、どこかにいるはずなのですよ。パリーのスクールというスクールは、もう捜索の余地がありません。だから、今度はパリーを切り上げて、ロンドンに移るんですな。つまり、ロンドンに捜索の手を移すというのが、私の思いつきです。」 「ロンドンにも無数の学校がある。」カリスフォド氏はそういってから、ふと何かを思い出して、かすかに身を起こしました。「そら、隣にだって一つあるじ-ゃあないか。」 「じゃあ、隣から始めることにしたらいかがです。近い所から始めるとすると、隣より近いところはない訳ですからな。」 「その通りだ。それに隣には一人私の眼をつけている娘がある。だが、その子は生徒じ-ゃあないんだ。ちょっと色の黒いミナシゴで、とても、クルー大尉の子供とは思われないけれど。」  ちょうどその時、あの魔法が──あの手際のいい魔法が、また働き出したのでしょう。ちょうどインドの紳士がそういった時、ふとラム・ダスが入って来て、主人にサラームをしました。黒い眼には隠しきれない昂奮の色を湛えていました。 「旦那さま、あの子が自分でやってまいりました、あの旦那さまが、可哀そうだと仰った娘が。屋根づたいにあの娘の部屋に来たといって、猿を連れてまいりました。ちょっと待っているように申しておきましたが、会ってお話になったら、少しはお紛れになりはしませんでしょうか。」 「あの子とは?」と、大屋敷の父が訊ねました。 「それ/あの子さ、いま噂をしていた娘のことさ。学校の小使いをしているんだ。」インドの紳士はそういうと、今度はラム・ダスのほうに手を振っていいました。「よろしい、その子に会ってみたいから、連れて来なさい。」そしてまた、カーマイクル氏のほうにいいました。「実は君の留守中、寂しくてたまらないところへ、ラム・ダスが来て、不幸なあの子の話をしてくれたのさ。で、ラム・ダスと協力して、あの子を助ける工夫をしたのだよ。子供だましのようなことだけれど、そんなことでもないと、私はつまらなかったのだ。だが、ラム・ダスのあの軽い足がなかったら、あんな噺のような計画は実現出来なかったろうよ。」  そこへ、セーラが入って来ました。猿は、出来ればいつまでもセーラのそばを離れたくなさそうな顔をしていました。 「また、あなたのお猿が逃げて来ましたのよ。」とセーラはホオを赤らめ、さわやかな声でいいました。「夕べ、私の部屋の窓の所に来ましたので、寒いといけないと思って、いれてあげましたの。宵の口だと、すぐお返しに上がるのでしたけど、あまり遅いのでやめました。あなたはご病気ですから、せっかくお休みになってるところを、お起こしでもすることになると悪いと、思いまして。」  印度紳士のうつろな眼は、セーラのほうに惹かれて行きました。 「それはどうも。よく気が付いて下すったねえ。」  セーラは、戸口の近くに立っているラム・ダスのほうを向きました。 「お猿は、あのラスカーの方にお渡ししましょうか。」 「あの男がラスカーだということを、どうして御存じかね?」  紳士はほほえみかけました。  セーラは、嫌がる猿をラム・ダスに渡しながら、 「そりゃあ知っておりますわ。私、インドで生まれたのですもの。」  印度紳士は顔色を変えて、立ち上がりました。セーラはちょっと吃驚しました。 「あなたは、インドで生まれたと? それは、ほんとですか? ちょっとこっちへ来て御覧。」  手をさし出されたので、セーラは紳士のほうに行き、紳士の手の上に、自分の手を置きました。彼女はじっと立って、アオネズミイロの眼で不思議そうに紳士の眼を見ました。この人は、どうかしたにちがいない。── 「あなたは、隣に住んでおられるのだね。」 「はい、ミンチン女塾におりますの。」 「でも、生徒ではないのだね?」  セーラは、口許に妙な’微笑を漂わせました。彼女は、ちょっとためらってからいいました。 「私、自分が-なんなのだか、よく分かりませんの。」 「それは、またどうして?」 「はじめは生徒で、特別の寄宿生でしたけれど、今はもう──」 「生徒だった? そして、今はなんなのかね?」  セーラは、また妙に悲しげな微笑を口許に漂わせました。 「今は私、屋根裏部屋で、小使娘の隣に寝ております。そして、料理番の使いに出されたり──料理番のいうことは何でも聞かなくちゃあならないのです。それから、小さい人たちの勉強も受けもっています。」  カリスフォド氏は、力を失ったように椅子の中に身を落しました。 「カーマイクル君、キミ/この子に訊いてくれたまえ。私は、もう駄目だ。」  大屋敷の父親は、小さな娘と話すのが上手でした。彼は美しい声で、はげますようにセーラに話しかけました。 「ね、嬢や、その『はじめ』っていうのは、いったいどういう意味なの?」 「お父さまが、あそこへ私を連れていらしった時のことですわ。」 「そして、そのお父さまはどこにおられるの?」 「亡くなりましたの。」セーラは静かに静かにいいました。「お父さまは、何もかも失くしてしまったので、私のいただくものは、もう-なんにもなかったのです。それに、私の世話をしてくれるものは一人もないし、ミンチン先生にお金を払って下さる方もないので──」 「カーマイクル君!」印度紳士はコワダカに呼びかけました。「カーマイクル君!」  カーマイクル氏は、小声で紳士に、 「この子を怯えさせちゃあいけませんよ。」と耳打ちしました。それから、声を改めてセーラにいいました。 「じゃあ、そんなわけで屋根裏にやられ、小使いにされてしまったのだね。そういうわけだったのだね。」 「誰も、面倒をみて下さる方がなかったものですから。お金はちっともありませんでしたし、私は、もう誰のものでもなかったのです。」 「お父さんは、どうしてお金を失くしたのだね?」  印度紳士は、息をのみながらクチをはさみました。 「ご自分で失くしたわけじ-ゃあないんですの。仲のいいお友達があって──お父さまは、その方がそれはお好きでしたのよ。お金を取ったのは、その方なの。お父さまは、その方を信じすぎたものですから。」  印度紳士の息づかいは一層’忙しくなりました。 「でも、その友人には、何も悪気があったわけじ-ゃあないのかもしれんよ。何かの手違いからそんなことになったのかもしれんよ。」  セーラはそれに答えた時、自分の声がどうしてこんなにゲキしているのか、不思議なくらいでした。ゲキして響くと知っていたら、病気の紳士のためにも、どうかして押し静めようとしたにちがいありません。 「どのみち、お父さまにとって、苦しみは同じことでしたわ。お父さまは、その苦しみのためにお亡くなりになったのですもの。」 「お父さんの名は/なんていうのだい? え?」:と、印度紳士は訊ねました。 「ラルフ・クルーって名ですの。クルー大尉ともいわれていました。亡くなったのはインドですの。」  病人のやつれた顔が痙攣しました。ラム・ダスは急いで主人のそばへ飛び寄りました。 「カーマイクル君、これがあの子だ。この子にちがいない。」  セーラは、紳士が死ぬのではないかと思ったほどでした。ラム・ダスは主人の口に薬を注ぎました。セーラは、そのそばにふるえながら立っていました。彼女はたまげたようにカーマイクル氏を見上げました。 「私が、なんの子だと仰るの?」 「この方は、あなたのお父さまのお友達なのですよ。びっくりしちゃあいけません。我々は二年のあいだ、あなたを探し回っていたのですよ。」  セーラは手を額にあてました。唇はわなわな震えていました。セーラはまるで夢の中にいるように思わず囁きました。 「それなのに、私はその二年のあいだ、壁のすぐ向こう側の、ミンチン女塾にいたのだわ。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十八章】 【「つもりはなかった」】 ◇。◇。◇。◇。◇。  委しい話をセーラにしてくれたのは、美しい、感じのいいカーマイクルの奥さまでした。カーマイクル夫人は招ばれるとすぐ、街を横切って印度紳士の家に来、セーラをその暖かい腕に抱きとって、これまでのいきさつを細かに話してくれたのでした。カリスフォド氏は、この思いがけない出来事に昂奮して、病気のからだに障るほどでした。 「私は誓って、あの子を手放したくない。」  身体に障るといけないから、セーラを別室につれて行こうという話が出た時、カリスフォド氏は力なげに、カーマイクル氏にそういいました。 「この方のお世話は、私がしてあげてよ。」と、ジャネットはいいました。「もうじき、お母さまも入らっしゃるでしょう。」  ジャネットは、セーラを書斎から連れ出すと、こういいました。 「あなたが見つかって、私たちはうれしくてたまらないのよ。どんなにうれしがってるか、あなたにはとてもおわかりにならないくらいよ。」  ドウナルドは両手をポケットに入れて立っていました。彼は省みて自分を責めているようでした。 「僕が-お金を上げた時、ちょっとあなたの名前を訊きさえしたらよかったのにね。あなたはきっとセーラ・クルーだと答えたでしょう。そうすれば、あなたを探す世話もなかったのに。」  そこへ、カーマイクル夫人が入って来たのでした。夫人はひどく感動しているようでした。彼女は、ふいにセーラを抱きしめてキスしました。 「嬢やは、すっかりたまげているのね。でも、驚くのに不思議はありませんわね。」  セーラは、なんといわれても、次の一事よりほか考えられませんでした。彼女は閉まった書斎の扉のほうをちらと見ていいました。 「あの方ね、あの方が、お父さまのその、悪いお友達だったの? 本当にそうなの?」  カーマイクル夫人は泣きながら、またセーラにキスしました。この子は永いことキスなどされたことはなかったのだから、何度も何度もキスしてやらなければならない、と夫人は思いました。 「あの方は、決して悪い方じ-ゃあなかったのですよ。あの方は、あなたのお父さまのお金を、失くしてしまったわけではないのですよ。ただお失くしになったと思っただけなのですよ。それに、あの方はお父さまを愛していらしったからこそ、悲しみのあまりご病気になって、一時は気さえ確かではなかったほどなのですよ。あの方も、熱病で死にそうだったのよ。けれど、あなたのお父さまはあの方のご病気がまだ悪いさなかに、亡くなっておしまいになったのですよ。」 「そうして、あの方は、どこに私がいるかは御存じなかったのね。私はこんな近くにいたのに。」  セーラの頭にはなぜか、こんな近くにいたのにということが、こびりついていました。 「あの方は、あなたがパリーの学校にいらっしゃるとばかり思っていらしったのですよ。」カーマイクル夫人は、いって聞かせました。「それに、いつもいつも間違った手掛りに迷わされていらしったんですの。でも、あの方は到る所、あなたを探し回ってらしったんですよ。あなたが、いたましい様子で通りかかるのを見ていながらも、それが気の毒な友人のお子だとはお気づきにならなかったのね。でも、あの方は、あなたもやはり小さい女の子だもので、気の毒でたまらなくって、どうかしてあなたを幸せにしてあげようとお思いになったのね。で、あの方はラム・ダスにいいつけて、あなたのお部屋の引窓から、いろいろのものを持ちこんだわけなのですよ。」  セーラは、うれしさのあまり飛び立つばかりでした。彼女の顔色はみるみる変わって来ました。 「じゃあ、あれはみんなラム・ダスさんが持って来て下すったんですの? あの方がラム・ダスさんにおいいつけになったんですって? 私の夢をうつつにして下すったのは、それじゃあ、あの方だったのだわね。」 「そうですとも。あの方は、親切ないい方なのですよ。あの方は、行方のしれないセーラ・クルーのことを想えばこそ、あなたのこともお気の毒になったのですよ。」  書斎の扉が開いて、カーマイクル氏が姿を見せ、セーラに来いというような様子をしました。 「カリスフォドさんは、すっかり気持ちがよくおなりです。だから、あなたに来ていただきたいと仰ってです。」  セーラは、カーマイクル氏の言葉が終わるのを待たず、書斎に入って行きました。入って行った時のセーラの顔は、さっきとはまるで変わっていました。  セーラは、紳士の椅子の傍らに立ち、両手を腕に組み合せて、うれしそうにいいました。 「あなたがあの、美しいものをたくさん下すったのですってね。」 「そうだよ、可愛い嬢や、私が送ってあげたのだよ。」  紳士は永いあいだの病気や心配のため、心も体も弱り果てていました。が、彼は、セーラを抱きしめてもやりたいというようなやさしい眼で、セーラを見ました。セーラは父からこれに似た眼差しをよく受けたものでした。で、セーラはその眼差しを見ると、すぐ紳士のソバに跪きました。昔父とセーラが無二の親友であり、愛人同士だった頃、父のソバに跪いたように。 「じゃあ、私のお友達はあなたでしたのね。あなたが私のお友達だったのですわねエ。」  そういうとセーラは、紳士の痩せ細った手の上に顔を押しあてて、幾度も幾度もキスしました。  それを見ると、カーマイクル氏は細君に囁きました。 「あの人も、もう三週間とたたぬウチに、きっと元の身体になるだろうよ。ほら、あの様子を御覧。」  カーマイクル氏のいったとおり、紳士の様子はすっかり変わってしまいました。『小さな奥さま』が見つかったからには、また何か新しい計画を考えなければなりません。まず第一に、ミンチン先生の問題がありました。一応先生にも面会の上、生徒の一身上に起きた変化を、報告しなければならないでしょう。そして、セーラはもう学校には戻らないことになりました。印度紳士はその点だけは、なんといっても聞きませんでした。セーラは紳士の家にトドマらなければならぬ、ミンチン先生のところへは、カーマイクル氏が行って、話して来るというのでした。 「帰らなくてもいいんですって? まあうれしい。」とセーラはいいました。「先生は、きっとおおこりになってよ。あの方は、私がお嫌いなのよ。でも、それは私が悪いからかもしれませんわ。なぜって、私のほうでも先生が嫌いなのですもの。」  だが、そこへちょうどミンチン先生自身が、セーラを探しにやって来ましたので、カーマイクル氏はわざわざ出掛けて行かないでもすみました。 ◇。◇。◇。◇。◇。  その晩、学校ではみんないつものように、教室の煖炉の前に集まっていました。そこへ、アーミンガードが一通の手紙を持って、丸い顔に、妙な表情を浮べながら入って来ました。 「どうしたの?」と、二三人’一時に叫びました。 「私、たった今、セーラさんから、このお手紙いただいたの。」 「セーラからですって?」:「セーラはどこにいるの?」 「おとなりよ。インドの小父さんの所にいるのよ。」 「え? あの子は追い出されたの?」:「ミンチン先生は、そのことを知っているの?」:「どうして、手紙なんかくれたの?」:「よう、話してったら。」  余りの騒ぎにロッティなどは泣き出しました。アーミンガードはのろのろ説明し始めました。 「ダイヤモンドの鉱山はやっぱりあったのよ。やっぱりあったんですって。」  開いた口と、見張った眼とが、彼女のほうに向けられました。 「あの話は本当だったのよ。何か起こって、ちょっとのあいだカリスフォドさんももう駄目だと──」 「カリスフォドさんて?」とジェッシーは叫びました。 「インドの紳士よ。それからクルー大尉も、やっぱりそう思って──死んでしまったのよ。それから、カリスフォドさんも熱病で死にかけたんですって。そして、あの人にはセーラがどこにいるか分からなかったんですって。それから、お山には何百万も何百万ものダイヤモンドがあると分かったの。その半分はセーラさんのものなの。それなのにセーラさんは、メルチセデクだけをお友達にして、屋根裏に住んでいたのね。今日カリスフォドさんがセーラを見つけて連れてってしまったの。もう決して帰って来ないのよ。先よりも、もっと立派なプリンセスになるのよ。十五万倍も立派になるのよ。──明日のお昼から、私セーラさんに会いに行くのよ。」  あとは、ミンチン女史も静めかねるような騒ぎでした。少女たちは規則なぞ忘れて、夜中まで教室にとどまり、アーミンガードをかこんで、セーラの手紙を読み返しておりました。手紙の話は、セーラの作り話などとは比べものにならないほど、奇想天外でした。それに、その話はセーラその人と、隣家のあの印度紳士との間に起こった話なので、ひどくチャームがあるのでした。  この話を耳にしたベッキーは、いつもより早めに屋根裏に上って行きました。彼女はみんなから離れて、もう一度、あの小さな魔法の部屋が見たかったのでした。「あの部屋はどうなるのだろう。」ミンチン先生の手に渡るようなことはなさそうに思えました。「何もかも取り払われて、屋根裏はもとの通り/空っぽな殺風景なものになってしまうのだろう。」ベッキーは、セーラのためにはこんなことになってうれしいとは思いましたが、あとのことを思うと、上って行くうちに自然’喉がつまり、眼が曇って来ました。「もう今頃は火の気もないだろう。薔薇色のラムプもないだろう。夕餉もないだろう。火のほてりを受けながらお話をしてくれたり、本をよんでくれたりするプリンセスもいないのだろう。あのプリンセスも!」  ベッキーはしゃくり上げて来るすすり泣きを、ごくりとのみこみながら戸を押しあけました。と、思わず彼女は声を立てました。  ラムプは室内に照りはえ、火は燃えさかり、夕餉の支度もちゃんと出来ています。そしてラム・ダスが笑いながら、彼女のほうを見て立っているのです。 「お嬢さまがお気づきになりましてね。ご主人さまに、すっかりあなたのことをお話しになりましたのですよ。お嬢さまは、ご自分の幸せを、あなたにお知らせしたがっていらっしゃるのですよ。このお盆の上のお手紙をご覧下さい。お嬢さまが-お書きになったのです。お嬢さまは、あなたが悲しくお休みにならないようにとお思いになったのでしょう。ご主人は、明日あなたにも来ていただきたいと仰っておいででした。明日から、あなたはお嬢さまのお付きになるはずです。今夜は、これからここにあるものを、また屋根越しに持って帰らなければなりません。」  輝かしい顔で、こういい終りますと、ラム・ダスはサラームをして、身軽に、音も立てずに、引窓から抜け出して行きました。ベッキーはそれを見ると、「あの人はあんなにして、やすやすといろいろのものを運びこんだのだな。」と思いました。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十九章】 【アンヌ】 ◇。◇。◇。◇。◇。 『大屋敷』の子供部屋は、今までにないような大騒ぎでした。子供たちは『乞食じゃあない小さな女の子』と近づきになったため、こうまでうれしいことが湧き出て来ようとは、夢にも思いませんでした。セーラは、ひどい苦労をして来ていることのために、よけいみんなから大事にされるのでした。誰もかもが、セーラの身の上話を、繰り返し繰り返し聞きたがりました。誰しも炉辺で温かにしている時には、屋根裏のひどい寒さの話なども、気持ちよく聞くことが出来るものです。また、メルチセデクのことや、雀どものことや、引窓から頭を出すと見えるヨモの景色のことなど聞くと、屋根裏部屋は面白い所のように思われるのが当たり前です。そんな面白いことがあれば、寒くても、殺風景でも、そんなことは気にな-るまいと思われるのが当然です。  子供たちが一番よろこんだのは、あの饗宴と空想とがほんとになって現れて来たところでした。セーラはカリスフォド氏に見つけられた翌日、初めてこの話をしたのでした。その日、大屋敷の人たちはお茶に招ばれ、セーラと一緒に炉の前に坐ったり、踞ったりしていました。そこで、セーラは例の調子で、その話をしたのでした。インドの紳士も、セーラを見守りながら、耳を傾けていました。話し終わるとセーラはインドの紳士を見上げ、紳士の膝に手をかけていいました。 「私のお話はこれだけですの。今度は小父さんのほうのお話を聞かして下さいな、アンクル・トム。」紳士の望みで、セーラは紳士を『アンクル・トム』と呼んでいました。「小父さんのお話は、まだ伺いませんのね。きっと立派なのにちがいないわね。」  そこで、カリスフォド氏はこう語りだしました。病気で物憂く、イライラしている時でした。一人寂しく坐っていると、ラム・ダスはよく外を通って行く人の品定めをして、病人の気をかえようとしました。中でも一番よく前を通って行くのは、一人の女の子でした。カリスフォド氏はちょうど見つからぬ小さい娘のことを絶えず考えていたところでした。それにラム・ダスから、猿を逃がして、その子の部屋に捕えに行った時の話を聞くと、何かその子に心を惹かれるように感じました。ラム・ダスはその娘の顔色の悪いこと、またその子の様子が召使いになどされる下層社会の子らしくないということなども話して聞かせました。ラム・ダスは話すたびに、こんなこともございましたよと、その子の生活の惨めな事実を見つけて来るのでした。ラム・ダスはまた、屋根を伝って行けば、造作なく引窓からその子の部屋に入れるということも話しました。で、そこからすべての計画が始まったわけでした。 「旦那さま/」と、ある日’ラム・ダ-スは申しました。「あの子が使いに出た留守に、屋根から入って、あの子の部屋に火をおこしておいてやることも出来ると存じます。あの子は濡れ凍えて帰って来て、火を見ると、きっと留守の間に魔法使いがおこしておいてくれたのだと思うでございましょう。」  この思いつきは、非常に奇抜でしたので、カリスフォド氏も、暗い顔に輝かしい微笑を湛えたほどでした。それを見ると、ラム・ダスは夢中になって、火をおこす他に、これこれのことも-やろうと思えば造作なく出来ます、と主人に話しました。ラム・ダスの思いつきや計画は、子供じみていて愉快でした。それを実行する準備に-いそがしか-ったので、いつもは退屈な永い日が、愉快に飛びすぎて行くようでした。折角の饗宴を、始めない先にミンチン先生に見つけられたあの晩は、ラムダスは持って行くものをすっかり自分の部屋に用意して、引窓から様子を見ていたのでした。彼の背後には、彼と同じにこの冒険に夢中になっている人が、彼を手伝うためにひかえておりました。彼はスレートの上に腹這いになって、引窓から、折角の饗宴がめちゃめちゃにされるところも、ちゃんと見ていました。で彼は、セーラが疲れ果ててぐっすり寝こんでしまったのを知ると、火を細くしたカンテラを持って、そっとセーラの部屋に忍びこみ、助手が引窓の外からさし出すシナを、中で受け取ったのでした。セーラが寝ながらちょっと身動きした時などは、ラム・ダスはカンテラの火を隠して、床の上に平たく身を伏せたり-しました。──子供たちは、あとからあとから質問してこれだけのこと──いや”まだいろいろのことを、カリスフォド小父さんから、聞き出したのでした。 「私、ほんとにうれしいわ。」と、セーラはいいました。「私のお友達が小父さんだったのだと思うと、うれしくてたまらないわ。」  セーラと小父さんとは、たちまち非常な仲良しになりました。二人はいろいろのことで、不思議にしっくりと気が合うのでした。印度紳士は、今までにこんなに気の合う人とめぐりあったことはありませんでした。ひと月とたたぬうち、彼は、カーマイクル氏が予言したように、まったく別人のようになりました。紳士はいつも愉快そうで、気がひきたっているようでした。あんなに重荷にしていた財産も、今は持っていてよかったと思っていました。まだまだセーラのためにしてやることは、いくらでもあるのです。二人は冗談に、紳士を魔法使いだということにしていました。で、彼はすっかり魔法使いになりすまして、何かセーラを吃驚させるようなことばかり考えていました。セーラはふと部屋の中に、美しい花が咲いているのを見つけたこともありました。と思うと、また枕の下から思いもつかなかったような小さな贈物が出て来ました。ある晩のこと、セーラが小父さんと坐っていると、ふと戸の外に、強い前脚で戸を掻くような音がしました。何かと思って、セーラが戸を開けてみますと、大きな犬──見事なロシアのボアハウンドが立っていました。しかも、金銀で造った首輪には、次のような字が、浮き上がっていました。 『我が名はボリス。プリンセス・セーラのシモベ。』  印度紳士の一番’好んだのは、ボロを着たプリンセスの思い出でした。大屋敷の人たちや、アーミンガードやロッティの来る日も、賑やかで愉快でしたが、セーラと印度紳士と二人きりで、本を読んだり’話し合ったりする時間は、なにか二人きりのものだというようで、特別うれしいのでした。二人で過す時間の間には、いろいろ面白いことが起りました。  ある晩、カリスフォド氏は、書物から眼を上げて、セーラが身じろぎもせず、じっと火を見つめているのに、気がつきました。 「セーラ、なんのつもりになっているの?」  セーラはホオをぽっと輝かせました。 「こういうつもりだったの。──こういうことを思い出していたのよ。ある日’大変ひもじかった時、私の見た子のことを。」 「でも、たいていの日はひもじかったんじゃあないのかい?」インドの紳士は悲しげな声でいいました。「どの日だったの?」 「あなたは、御存じなかったのね。あの夢が、まことになった日のことよ。」  セーラはそういってから、パン屋の話をして聞かせました。溝の中から銀貨を一つ拾ったこと、拾ってから自分よりひもじそうな子に会ったことなど、セーラは何の飾りけもなく、出来るだけあっさりと話したつもりでしたが、印度紳士はたまらなくなったらしく、眼に手をかざして、床を見つめました。  セーラは語り終わると、こういいました。 「で、私、こういうことを考えていたのよ。何かしてあげたいってつもりになっていたのよ。」 「どういうことをしてあげたいのだね? プリンセス。なんでも、お好きなことを遊ばしませ。」  セーラは、ややためらいながらいいました。 「私、あの──私には大変なお金があると仰ったわね。だから、私あの、あのパン屋のおかみさんの所へ行って、こう言おうかしらと思っていましたの。ひもじそうな子が──殊にひどいお天気の日などに、店の前に来て坐ったり、窓から覗いていたりしていたら、呼び入れて、食べさしてやってくれって。そして、その書付けは、私のほうに回してくれって。──そんなことをしてもいいでしょうか?」 「いいとも。早速、明日の朝’行って来たらいいだろう。」 「うれしいわ。ね、私、ひもじい苦しみは身に沁みて味わっているでしょう。ひもじいときには、なにかつもりになったって、ひもじさを忘れることは出来ないのよ。」 「そうとも。うむ、そうだろうな。でも、もうそのことは忘れるほうがいいよ。私の膝のそばに来て坐っておくれ。そして、嬢やはプリンセスだということだけ考えているほうがいい。」 「そうね。」と、セーラはほほえみました。「私、人の子たちに、パンや、甘パンを恵んでやることが出来るのですものね。」  次の朝、ミンチン女史が窓の外を見ていますと、女史にとっては、実に見るにたえないようなことが眼に映りました。印度紳士の家の前に馬車が着いて、毛皮にくるまれた紳士と少女が、玄関を降りて来るのでした。その見慣れた少女の姿を目にすると、ミンチン女史は過ぎ去った日のことを思い起こしました。すると、そこへもう一人、見慣れた少女の姿が現れました。その姿を見ると女史はひどくいらだって来ました。いうまでもなくそれはベッキーでした。ベッキーはすっかり小間使いになりすまして、いそいそ若いご主人に従い、膝掛けや手提げを持って、馬車のところまで見送りに出て来たのでした。いつの間にかベッキーは血色もよく、むっちりと肥っていました。  馬車はまもなく、パン屋の店先につけられました。馬車から二人が出て来た時には、不思議にもまた、ちょうどいつかの時のように、おかみさんが出来たてのパンを窓にさし入れていました。  セーラが店に入って行きますと、おかみさんは振り返ってセーラのほうを見ました。セーラを見ると、甘パンはうっちゃらかして、帳場の中に坐りました。おかみさんはしばらくのあいだ、穴のあくほどセーラの顔を見つめていましたが、人のいい顔は-じき、はればれとして来ました。 「確かに、お嬢さまにはお目にかかったことがございますわ。でも──」 「ええ、お目にかかりましたわ。あの時あなたは、私に甘パンを六つも下さいましたわね。それから──」 「それから、あなたは6つのうち五つまで、あの乞食娘にやっておしまいになりましたのね。私はそのことが忘れられませんでしたの。初めは、何だか訳がわかりませんでしたけど。」  おかみさんは、今度は印度紳士のほうに向き直って、こう話しかけました。 「失礼でございますが、旦那さま。こんなお小さいのに、他人がひもじいかどうかなんて気のつくお子は、お珍しゅうございますわ。私、そのことを、幾度も幾度も考えてみたのでございますよ。これは、とんだことを申してしまいました。お嬢さま、でも、あなた様はまあ、お顔色がよくおなりですこと──それに、あの、以前よりはずっとお丈夫そうに、そして、お立派に──」 「おかげさまで丈夫よ。それに──以前よりはずっと幸せになったのよ。──で、私、あなたにお願いがあって来たの。」 「私に、お願いですって?」と、おかみさんはうれしそうに笑いました。「まあお嬢さま、それはそれは、どんなご用でございますの?」  そこで、セーラは帳場によりかかって、お天気の悪い日、ひもじそうな宿無しの子を見たら、パンを恵んでやってくれと、頼みました。  おかみさんは話のあいだ、セーラをじっと見つめて、びっくりしたような顔をしていました。が、聞き終わるとまた、 「まあ、それはそれは。」といいました。「私に施しをさせて下さるなんて、うれしゅうございますわ。御覧の通り、私はほんのもう-その日暮しで、自分の力ではとても大したことは出来ないんでございますの。気の毒な人はそこらじゅうにおりますのにね。でも、失礼か存じませんが、ちょっとお耳に入れておきたいことがございますの。あの日以来、雨の日には、あなた様のことを思い起こして、少しずつパンを恵んでやることにしているのでございますよ。──あの日は、ほんとに寒くて、ひもじそうでいらっしゃいましたわね。それなのに、あなた様は、まるでプリンセスかなにかのように、惜しげもなく甘パンを施しておしまいになりましたのね。」  プリンセスと聞くと、インドの紳士は思わず微笑’しました。セーラも、あの子のぼろぼろな膝にパンを置きながら、心の中でつぶやいたことを思い起こして、ちょっと微笑’しました。 「あの娘は、ひもじそうだったわ。」と、セーラはいいました。「私よりもひもじそうだったわね。」 「もう死にそうにお腹がすいていたのでございますよ。あの子は、あれからよく私に、あの時のことを話してくれましたが──ぐしょぐしょになって坐っていると、可哀そうに、自分のお腹の中で、狼がはらわたを食い裂いているような気がしましたって。」 「あら、それじゃああなた、あれから、あの子に会ったの? 今どこにいるか、御存じ?」 「存じておりますとも。」おかみさんは、いつよりもよけい人のよさそうな顔をして笑いました。「そら/あそこに、ね、お嬢さま、あの奥の部屋に、もうひと月もいるんでございますよ。それに、あの子は、なかなかきちんとした、いい性質の子になりそうでございますよ。思いのほか役に立ちましてね、店でも、台所でも、乞食をしていたとは思えないほど、手助けをしてくれますの。」  おかみさんは、奥の戸口に歩みよって、声をかけました。すると、すぐ一人の娘が、おかみさんのあとから、帳場に出て来ました、コギレイな服をきちんと来て、もうひもじさなどは忘れたような顔をしていましたが、あの乞食娘にはちがいありませんでした。少女は恥ずかしそうにしていましたが、可愛い顔立ちをしていました。今は-もう人間らしい生活をしているためか、あの野蛮な眼付きはすっかりなくなっていました。少女は-ふと見るとすぐ、セーラがいつかパンをくれた人だと知ったらしく、じっと立ったまま、いつまでも見あきぬようにセーラの顔を見つめておりました。 「ね、こうなのでございますよ。」と、おかみさんは説明しました。「ひもじいときにはいつでもおいで、と私が申したものでございますから、この子はよく店に来るようになりました。来ると、私は何か用をしてもらうようにしたのでございますよ。ところが、この子は何でも嫌がらずにしてくれますので、私は何だか、だんだんこの子が好きになってまいりましたの。で、とうとううちに来てもらいましてね。この子は私の手伝いをしてくれるようになりました。お行儀もよいし、恩義も知っていますし、普通の娘とちっとも変わりはありません。名前はアンヌと申します。アンヌとばかりで、苗字も何もないのでございますよ。」  セーラとアンヌとは、ちょっとのあいだ、ただ黙って、じっとお互の顔を見合っていました。やがて、セーラはマッフの中から手を出して、帳場の向こうのアンヌのほうにさし出しました。アンヌはその手を握りました。二人はまたお互いに眼を見合せました。 「私、うれしくてよ。」と、セーラはいいました。「私、今しがた、いいことを考えていたの。きっとおかみさんは、あなたにパンを施させて下さるでしょう。あなたもきっと、その役をよろこんでして下さると思うわ。あなただって、ひもじい味はよく知ってらっしゃるのですものね。」 「はい、お嬢さん。」と、少女は答えました。  アンヌは、それぎり何もいわず、つっ立っていたばかりでしたが、セーラには、アンヌの気持ちがよく分かるような気がしました。アンヌは、いつまでもそこに立って、セーラが印度紳士と一緒に店をで、馬車に乗って去って行くのを、じっと見送っていました。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【底本:「小學生全集第五十二カン◇ ショウ公女」興文社、文藝春秋社】 【   1927(昭和2)年12月10日発行】 【入力:大久保ゆう】 【校正:門田裕志、浅原庸子】 【2005年5月19日作成】 【2013年9月19日修正】 【青空文庫作成ファイル:】 【このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(httpコロン”////www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。】