◇。◇。◇。◇。◇。 【手紙】 【知里幸恵】 ◇。◇。◇。◇。◇。  知里高吉・浪子《ナミコ》宛(幌別郡登別村)  大正五年十月頃(旭川区五線南二号発信《旭川区五線ミナミ二号発信》) ◇。◇。◇。◇。◇。  拝啓◇ しばらく御無沙汰いたしました。お父上の御病気《ご病気》は大分《だいぶ》よくなったときいて私等ははじめて安心いたしました。秋も早《ハ》やたけなは《わ》となりまして四方《シホウ》の山は錦を着飾ってだんだん涼し《しゅ》うなりましたから、きっと病気もよくなるでせ《しょ》うと私も昼夜祈って居ります。母上様も今年は御健康《ご健康》の由、いかもいいあんばいに沢山とれておあしもたくさんとれればいいと願って居ります。私も無事にて勉学をして居りますから御安心下さいませ。  新聞でも御存じの聯合共進会は八日から開《=ヒラ》かれました。教育展覧会も開《=ひら》かれました。区内各学校、上川支庁管内の学芸品が並べてありますからまことにりっぱださ《そ》うです。私も二三日《=ニサンニチ》のうちに行って見ます。私の綴方も出て居ます。  昨日は区内小学校聯合音楽会がひらかれました。私は第五アイヌ学校の卒業生となってオルガン独奏をやりましたが意外◇ うまく出来ました。他の学校から出た生徒達は上手《=ジョウズ》に唱歌を|うたひ《歌い》ましたが私等のアイヌ生徒も余程上手でした。幾万《イクマン》の見物人の前でするので|ずいぶん《随分》ほねおれたでせ《しょ》う。私なんか間違は《わ》ないで弾《#ひ》いてしまってみんなに手をはたいてほめられて、ほっとしましたわ。か《こ》う|いへ《言え》ば、いかにも|うまさ《上手そ》うに|きこへ《聞こえ》ませ《しょ》うが実《#ジツ》はハボから見たらほんとに下手《=ヘタ》なんで御座《ござ》いませ《しょ》う。いつかお話《話し》した東京庁立体操音楽女学校を卒業して旭川高等女校の唱歌教師をしている鈴木先生の独唱もききました。旭川に一人の先生の声をきいたのですから余程光栄だと|いは《言わ》なければならないのださ《そ》うです。それで閉会でした。でも面白うございましたよ。  男先生の尺八だの聞いていたら、もうはらわたにしみこむや《よ》うな気がしますの。イスレキ|をぢ《おじ》さんのふえより少しよかったや《よ》うでした。  これで音楽会のはなしはよしませ《しょ》う。  此《こ》の間《=あいだ》から集めた砂糖一樽《砂糖ひと樽》、お父上に差上や《げよ》うと思っていましたところ父上様《/父上様》には悪いと聞いて仕方がありませんから、残念ながら高央《タカナカ》と真志保におくりますから父様の|かは《代わ》りとなって食べて下さい。キリブもらったからハボにあげや《よ》うと思って砂糖と|一しょ《一緒》にしまっておいたら、|ふち《フチ/》知らずに戸棚をあけておいたので猫がたべかけました。それをまた|ふち《フチ》が見つけてキ《/キ》リブをもって来てまた、アクの中へまちがって、おとしてしまったの。それでとうとうだめになってしまったのですもの。また見つけてあげませ《しょ》う。  さらばさらば。父上様お《/お》身をお大切に早くなほ《お》って下さい。ハボも大事《#ダイジ》にいかさきして下さい。  さよなら  暮れゆくまどにて  幸恵《ユキエ》   母上さま   父 ◇。◇。◇。◇。◇。  知里高吉宛  大正六年四|月一日付《月一日付け》(旭川発信) ◇。◇。◇。◇。◇。  拝啓  |まへ《前》からしばらく御心配《=ご心配》下さいました旭川区立職業学校受験の結果は、幸《幸い》に四等にて合格いたしましたから何卒御安心下さいませ。タイムスで御覧になることでせ《しょ》う。  さよなら ◇。◇。◇。◇。◇。  知里高吉・浪子《ナミコ》宛  大正六年四|月一日付《月一日付け》(旭川発信) ◇。◇。◇。◇。◇。  拝啓◇ この度区立女職校《度/区立ジョ職校》に入学いたします。(タクサンオイワイシテチョウダイナ)《:)》戸籍抄本が是非要るのですから、お手数ながら何卒四月の九日までにお送り下さるや《よ》うに願上《願い上げ》ます。もし抄本がなければ折角《折角’》四等で合格しても何《-なん》にもなりません。入学も何も駄目になりますから何卒くれぐれお|願ひ申上《願い申し上》げます。三日か四日か二日にはきっとタイムスにも出るでせ《しょ》うから大《/大》きい目をうんと開《#あ》けて御覧下さい。先づ《ず》先に『此《こ》の中に第四位にて入学せる知里幸恵は旧土人なり』って書《書い》てありますからハボなんか目ひっくりかへして腰ぬかすかもしれませんからお気をつけなすって。|ふち《フチ/》早く来《-く》ればいいな‥‥。  九日に戸籍抄本をもって行くのですからそれにおくれれば困りますから、どうかかは《わ》いさ《そ》うに思って早く送って下さい。高央《タカナカ》、真志保、|御べんきょう《お勉強》なさい。お願い申しあげます。 (百十名の中で四番ですからえらいでせ《しょ》う) ◇。◇。◇。◇。◇。  知里高吉・浪子《ナミコ》宛  大正七|年五月《=ネンゴガツ》頃(旭川発信) ◇。◇。◇。◇。◇。  ひさしぶりでまた長いながい手紙を書きませ《しょ》う。明日は荷物を送るといふ《う》ので|ふち《/フチ》も母様《母さま》もお土産をたくさん出していそがしさ《そ》うで御座《ござ》いますけれども、《:、》私には何《=ナニ》も土産がありませんので相変らず長い手紙を贈り物にいたします。それは、父上様や母上様が何よりもおよろこびなさると私は信じますから。‥‥  只今学校《只今/学校》から帰りますとお端書を拝見いたしました。さ《そ》うして涙の出るほど嬉し《しゅ》う存じました。何卒早く夏休みが来ますや《よ》うにひたすら祈っています。  高央《タカナカ》と真志保と|一しょ《一緒》に行かれたら‥‥私はこよなき幸福ですもの。  今日《=キョウ》はお土産はありませんけれども、今度夏休みに参ります時はどっさりいろいろなおみやげをもってゆきます‥‥今から暇々に仕度をして居ます。  母上様の御注文の銀貨入《銀貨入れ》は暇々に編んで居ますがまだまだ出来さ《そ》うもありません。それも夏休《夏休み》まで待って下さいませ。父上様のおみやげは大体そろひ《い》ました。みさほちゃんのお土産もたくさんもって行きますよ。  みな様はきっと私の日常の|ようす《様子》をききたいで御座《ござ》いませ《しょ》うからこれからおはなしいたしませ《しょ》う。これから八月におあひ《い》するまでは手紙を書く機《シオ》はないでせ《しょ》うから‥‥。  朝は四時前後におきて夜は日が暮れたかく《暮》れない中《うち》にやすみますし。朝おきて窓をあけますとあたりは朝の新鮮な空気が一ぱいに流れて、をちこちの人家からはうすい煙《ケムリ》もなく石狩川《石狩川’》の流れの音《=オト》が気持《気持ち》よくそよ風《=カゼ》におくられて微かに耳に入《#ハイ》って参ります。白い頭巾を被《#かぶ》った旭ヶ嶽が春霞《#ハルガスミ》を漏れて気高く立っています。青みかけた旭公園の園内につつじの|まあか《マアカ》なのと桜のましろいのとがいろどり美しく咲き揃ったのを後《あと》にして、朝の心地よい春風に吹かれながら学校さして私はてっくらてっくらと急ぐので御座《ござ》います。  学校では生徒が三百八十人、先生が十四人で何不足《なにフソク》なく勉強が出きます。けれどもこの頃非常に悲しいことが出きました。  それは、私等二年甲組《私等’二年甲組》の学級(裁縫)主任の玉橋先生と申上《申し上》げる先生は此《こ》の度《=タビ》お生《生ま》れ故郷の新潟の父上様がおなくなりになったのです。そしてすぐに先生は新潟へおたちになりました。その日は今週の月曜で然も私等がお割烹の時間で御《ご》ざいました。  玉橋先生が見えられて『私の父がなくなりまして急にくにへかへ《え》ることになりました。みなさんのそばをはなれてゆくのは心許ないけれどもやむを得ませんのですから、おとなしく外《他》の先生にめいわくかけないや《よ》うに|べんきや《よ》う《勉強》をして下さい』とおっしゃってみんなに別れを告げられた時、私共はわーっと声《=コエ》を上げてなきました。玉橋先生も割烹の先生も‥‥。  そして居る中《うち》に大事な|ふき《蕗》の煮つけがこげついて大騒動《オオ騒動》をいたしました。これから三週かんばかりはお母様《母さま》のおるすの子供等《子供ら》のや《よ》うに、私共はたのみない悲しい思《思い》をして先生をお待ちしなければならないのです。けれども諸先生は非常に御同情下さいまして、万事の世話をして下さいますので何不自由なく学問を修めて居ります。  校長先生は相変らずおやさしく私共を可愛がって下さいます。毎週一回修身《毎週一回’修しん》を教へ《え》て下さいます。  教頭の松丸先生も亦相変らずいい先生で、毎週二回の体操を赤いおひげを撫でながら教へ《え》て下さいます。それであざなを赤ひげ先生と申上《申し上》げます。次の石田先生は今学期《=こんがっき》の始《始め》にお出《いで》になった先生で理科と数学を教へ《え》て下さいます。非常にきびしい先生で、怒《#おこ》るときは教室もつぶれるかと思は《わ》れますほどおそろしいけれども、みんながおとなしく|べんきや《よ》う《勉強》するときはおやさしくておやさしくて、《:、》それはそれは慈愛のふかいお父様のや《よ》うな気がいたします。きびしいから生徒はみんな石田先生を嫌がりますけれども‥‥私はかへ《え》って石田先生が一番好きだと思ひ《い》ます。今日《=キョウ》は数学の試験があって私は満点でありました。  それから原田先生であります。この先生はつい先程お出《=い》でになった先生で国語の受持ちであります。滑稽でこっけいで|ほんとう《本当》に面白い先生で御座《ござ》います。国語の時間に唱歌を聞かせて下すったり、詩《-し》を唄ったり《り-》お経《=キョウ》を読んだり踊ったりしてみんなを笑は《わ》せなさいます。そして国語を面白くいたしますので、決してあきることがなくてよくわかるので国語の成績はみんながいいのだといふ《う》ことです。丈《-たけ》のひくい肥った先生。  次は平岩先生、女の先生。もう五十をすぎたおばあさまで大変にいい先生です。袋物を教へ《え》て下さいます。  それから本間先生は図画、割烹、作法の先生です。中《=ナカ》にも図画はお得意でいらっしゃいます。小さくて可愛らしい先生です。  此《こ》の間《あいだ》、私の図画は『甲《=コウ》よろし』でありました。級中で一ばんでありましたからおよろこび下さいまし。高等師範優等出身《高等師範’優等出身》ですって。  次《次’》が前にお話《=ハナ》しした玉橋先生です。  それから古宇多先生、二部専習科の主任です。  それから次が岡本先生、一年甲組の主任で私等は編物を教へ《え》ていただいて居ります。顔形は悪いけれど大変にいい先生で御座《ござ》います。  次は小泉先生、造花の先生で補習科の主任でいらっしゃるけれども、只今|御病気《ご病気》で二三日《=ニサンニチ》休んで居《-い》らっしゃいます。東京の神田女子職業学校出身ですって。美人でおやさしい先生で御座《ござ》います。  次《次’》が別諸先生《ベッショ先生》、二年乙組の主任です。今学期《=こんがっき》の始めにお出《=い》でになった先生です。この先生はよく知りません。が、いい先生らしいです。  次《次’》が小橋先生、それこそきれいな先生で一年乙組の主任です。きびしくてやさしい先生ださ《そ》うです。私等はこれから家事を此《こ》の先生にお|ならひ《習い》することになりました。  次は島崎先生、一年の時の主任の先生でした。今は学校全体の刺繍の先生です。  次《次’》が米子先生、|こえ《声》の|可愛い《可愛》い先生でお年は四十五六《シジュウゴロク》と思は《わ》れます。  このや《よ》うに先生方はいい先生ばかりで御座《ござ》います。宮本永二先生は三月《3月》まで国語、音楽の先生をしていらしたのに、三月の末に退職をなさいました。色の黒い先生で、精神家でそれはそれはやさしい、いい先生でありました。そして熱心な基督教信者でいらっしゃいました。ですから私は一番すきでしたが、おやめになって此《こ》の間《あいだ》東京へ《へ-》お上《#のぼ》りになりました。八月頃まで東京にいらしてそれから亜米利加へお|わた《渡》りになるさ《そ》うです。  さ《そ》うして音楽を研究なさるのださ《そ》うです。  それから小使さんは二人、給仕が小娘一人、で私の学校はますますさかえて参ります。  去る十五日は三周年紀念式があげられました。その日《=ヒ》の祝賀会には私は対話に出ました。  もう夕御飯を食べますから、明日の学校帰《学校かえ》りましてから書く事にいたします。  御《お》やすみなさいませ ◇。◇。◇。◇。◇。  今日《=キョウ》は四時半に帰りました。  日本晴の好天気で、涼しい春風がサッサッと袂を払ふ《う》心地よさは何ともいへ《え》ないほどです。朝晩一里半近くずつあるいて居ますので身体が至極達者であります。  今日《=キョウ》は授業が五時間しかないのですけれども副級長の当番で御座《ござ》いますので、お掃除の監督をしたり先生の御用をたしたり|いた《致》しまして帰りがおそくなりました。四月十八日付で今学期間《今学期カン》の副級長の辞令をいただきましてから随分いそがしくなりました。金曜と土曜がお当番です。仕事は朝学校《朝/学校》へ参りまして今日の時間当番、掃除当番を決めて黒板《=コクバン》にかいて掃除のあとをしらべます。昼休《昼休み》、放課後には生徒が先生に製作物を出すものや、その他生徒が先生に言ひ《い》たいことなどを職員室へ行って出したり言ったりします。  級長様は伊達といふ《う》方で|ほんとう《本当》にやさしいいい人です。此《こ》の人は此《こ》の度二年になる時に特待生になった方《#かた》です。大へんに私を可愛がって下さいます。副級長は国本と云ふ《う》方と私と二人で勤めて居るので御座《ござ》います。私共《私ども》三人の責任は頗る重大なのですから、よくその責任を自覚して一生懸命働か《こ》うと相談しまして、常にその覚悟でつとめています。  生徒は、補習科は本科三年を卒業した人が入るのです。本科は学科も技芸も等分にあります。只今は本科一年甲乙二組、二年も甲乙、三年は一組になっています。外《ほか》に一部専修科二部専修科《一部専修科/二部専修科》があります。二部専修科は一部を卒業した人が入るのです。二部を出ると補習科へ入られます。か《こ》ういふ《う》や《よ》うに全体で八級あります。  この生徒たちは雨ふりの時は室内運動場で遊んで居ますが、晴天の時は戸外に出《い》で遊びます。戸外運動場には桜が沢山植えられてあります。学校のまわりには落葉松が若葉に包まれて青々として、それに色白い桜がいろどり添へ《え》て立派な校舎にふさは《わ》しく見えるので御座《ござ》います。か《こ》ういふ《う》学校に学ぶ私はまことに幸福で御座《ござ》います。これも神様の御恵と感謝しています。  登別の春はどんなにかきれいでせ《しょ》う。登別の春の海はどんなにのどかでせ《しょ》う。春雨のソボソボと降るその景色も何《-ど》んなに美しいでせ《しょ》う。うららかな春の日を浴びながら遊んでいる高央《タカナカ》の面影を胸に浮べて、どんなに大きくなったかと思ふ《う》てなつかしくてたまらないので御座《ござ》います。景色のいいあの小学校の校庭で元気よく飛びまわっている真志保のすがたも目に浮びます。おしっこたれの|みさほ《ミサホ》様もどんなにか可愛らしいでせ《しょ》う。操《ミサホ》! 何《なん》といふ《う》いい名でせ《しょ》う。その名が私は大好きで御座《ござ》います。  夏休みが楽しみです。もう六十七日ありますね。その間《あいだ》私は|ほんとう《本当》に奮励努力しなければなりません。学期末にどんな成績が発表されますやら‥‥。お土産のお伽噺種々様々《伽噺/色々様々》なおはなし、それから歌って聞かせて上げる唱歌などをどっさりためています。どうしてどうして二年《◇二年》ぶりですもの。  今年もグスベリを沢山食べられるや《よ》うに祈っています。私は海が懐しくてなりません。四方《シホウ》が山ですから何処を見ても木ばかり草《/草》ばかり家《/家》ばかり、見渡すかぎりはてしもないや《よ》うな上川平原《=カミカワヘイゲン》は、それはそれはいい景色ですけど、海がないのが何《#なん》だか物足りないや《よ》うな気がいたします。  明日は日曜で、大掃除をいたします。  それはさ《そ》うと家《/うち》の猫の子の|可愛い《可愛》い事、お話にもなりません。昨日、お母様のお楽しみの婦人世界が参りましたからお手にとどくのも近々でせ《しょ》う。  此方《こちら》のお母様のいそがしいこといそがしいこと。五尺五|寸四方《寸シホウ》の天鵞絨にい《/い》からいからしています。そして亦早いこと早いこと、話にもなりません。縫ひ《い》かけてから今日で五日になります。目が覚めるばかりきれいで御座《ござ》います。  |ふち《フチ》は今猫四匹《今’猫四匹》を相手に大騒ぎをしながら御飯拵へ《え》をしています。此方《こちら》ではよ《-よ》むぎが大変に大きくなりました。此《こ》の間《あいだ》ノヤシトをイタリヤ様からいただいて食べました。此《こ》の間《=あいだ》まで二月《フタ月》ばかり砂糖がなくて、毎日々々《毎日毎日》砂糖ばかり食べたくてお母様におねだりをして買ってもらひ《い》ましたから、《:、》のやのしとを拵へ《え》て食べたいと思って居ますが、とるひまがなくてこまります。その中《うち》に毎朝々々《毎朝毎朝’》御飯にお砂糖をかけて食べるので、まだの《/の》やをとらぬ中《うち》から砂糖がなくなりはせぬかと心配しています。  それからまだ話があります。此《こ》の間《あいだ》非常な大変が出来ました。お母様から、もうお聞きになったでせ《しょ》うけれども私からも云ひ《い》ます。  それは、もう少しで学校が焼けたことです。それは今月の四日未明の出来事でした。職業学校の直ぐ|むかひ《向かい》に山旭といふ《う》味噌醤油醸造会社が燃え上《上が》りました。さあ大変、時は午前三時少し過ぎた頃《=コロ》、火の粉《=コ》が花火のや《よ》うに飛び散る。ワアワアとさけぶ人声は天地をゆるがせるや《よ》うでした。火消が飛ぶ、ポンプが幾つもいくつもあつまった。おお、此《こ》の会社は私の学校隣りにあるし、第四、第二の小学校、中学校、区裁判所、監獄に囲まれた位置にあるし、しかも二|階建《階だて》の大きな建物ですから、火勢はどんどん容赦もなく大きくなってくる。職業の校長先生が重い肥ったからだをてっくらてっくらかけつけたのは、もうあの会社の大きな建物がすっかり火になった頃《=コロ》です。相変らず火の粉《=コ》が火になった板切れとまじって雪と降る、その中《うち》に職業学校が包まれてしまって‥‥。  校長先生は狂気した人のや《よ》うに、ポンプをポンプをと声《=コエ》の限りポンプを求めました。しかし、ポンプは今働《今はたら》きの真最中《=まっさいちゅう》ですから一つとして助けにくるものもなく、其《そ》の中《うち》にわーっと一人がさけびました。「職業の屋根に火がついたッ」と‥‥。「ああもう駄目だ」といふ《う》人もある。「助けてくれ」「《:「》助けてくれ」  ねまきのままでかけつけた先生、髪ふり乱したまま飛んで来た先生方は声を合せて助けを求めました。しかし二階の高い所、非常な急傾斜をして居る屋根ですから、人々は只「アレヨアレヨ」とわめくばかり、叫ぶばかり‥‥。屋根の|への焔《ヘノ’炎》はさながら悪魔の舌《=シタ》の如く南側の屋根を舐め|尽さ《-つくそ》うとする。人々は気が気でない。危険は刻一刻《=コクイッコク》と迫ってくる。職業学校の運はここに尽きるのであら《ろ》うか? おお其《そ》の時、燃えている屋根の上の棟《ムネ》に黒い人影が現れた。その時人々はアーと息をついた。先生方はああ神様と手をあは《わ》せた。  屋根の|への《ヘノ》人影は段々段々火に近づいて、燃えている傍《ソバ》へ片足を下さ《そ》うとした。その時先生方の胸には亦一つ心配が出来た。『もしあの人があの急傾斜をなして居る屋根から一足辷《ひと足’辷》ったら、あの人の命は如何《#いか》なるでありませ《しょ》う』と。しかしその人は始めは少し|ためらふや《躊躇うよ》うなや《よ》うすが見えたが、覚悟を決めたらしく悠々と構へ《え》てその燃えたつ焔《炎》に近くよって、無事に消してしまは《わ》れた。そしてこの勇士が再び棟に|這ひ上《這い上が》った時、人々は『万歳《=バンザイ》』と一せいに叫んだ。先生方はほーっと安心の胸を撫で下《=おろ》しました。しかしそれも一時のこと、『屋根の火は消えたが、火は天井裏についた』と何処からともなくきこえた。『おお運動場《/運動場》の屋根に火がついた』と一人がよ《呼》ばふ《う》た。先生方はまたまた奈落の底、《:、》生きた心地《-ここち》もしなかった‥‥。  その時また一人勇士《一人’勇士》があらは《わ》れた。片方ははだしで片方は白足袋をはいた勇士が‥‥。つづいて四五名《シゴメイ》の若者があらは《わ》れた。運動場の火は消された。  その中《うち》にポンプが来た。ドシドシドシ屋根《/屋根》に水が注《そそ》がれた。屋根裏の火も消えてしまった。会社の火も下火になって、もう危険はなくなった‥‥。その時は四時半頃だったといふ《う》。それまでの先生方の御心配《=ご心配》はどんなでしたら《ろ》う。始めは命《=イノチ》を懸けて屋根の火を消して下すった勇士は其後誰であるか探しても探してもまだ名前もわかりません。片足に白足袋をはいて運動場を消して下さったお方は誰でせ《しょ》う? それこそ以前|申上《申し上》げた宮本先生であります。その外《他》の四五名《シゴメイ》の若者の中一人《うち一人》は怪我をしましたけれど、極《ご》く軽い傷で直ぐになほ《お》りました。火事の話は月曜日に先生方が変《代わ》るがわるはなして下さいました。  か《こ》ういふ《う》大変が私の学校にあったのです。大事の始めは極《ご》くささいなことで会社の不寝番《寝ずの番》をつとめていた十八の若者が勤めを怠って眠っていた為だといふ《う》ことです。火事の話がずい分《=ブン》ながくなりました。  これから夏休みまで手紙を書く事はないでありませ《しょ》う。まだまだお土産やお土産ばなしを沢山集めて置きますから夏休みを楽しみにおまち(以下、脱落) ◇。◇。◇。◇。◇。  知里|浪子《ナミコ》宛  大正九|年五月《=ネンゴガツ》十七日付(旭川発信) ◇。◇。◇。◇。◇。  大層長い事御無沙汰いたしました。どうぞ|御ゆる《お許》し下さいまし。其《そ》の後《=ご》は如何《#いかが》なったか、種馬の事もき《聞》きたいき《聞》きたいと思ふ《う》てばかり居りましても悲しいかなや、身体が自由になりませぬのでつひ《い》つひ《い》今日までになったので御座《ござ》います。  御父様《お父さま》のおからだの工合は如何《#いかが》でいらっしゃいますか? 今日のお便りで承りますれば、御母様《お母さま》は頭痛で御苦《お苦しみ》の由、どうぞどうぞ御大切に遊《遊ば》して下さいませ。後《あと》の皆様は相不変御達者《相変わらずお達者》でなによりも嬉し《しゅ》う存じます。  先達参上の時分はずい分御厄介になりまして、おまけに咽喉《ノド》をからして種々御心配《色々ご心配》をかけました事を幾重《=いくえ》にも御詫|申上《申し上》げます。|ほんとう《本当》に何時《-いつ》になったらば本当の健康体になって御両親様をはじめ皆様に安心をして戴かれるかと、情けなくなりますが、《:、》今は大層気分がよろしく自分《/自分》で鏡を見ても顔色もよろし《しゅ》う御座《ござ》いますから、遠からずすっかり安心して戴ける時期が参りませ《しょ》うから、決して御心配《=ご心配》下さらないや《よ》うに願ひ《い》ます。  谷口博士にみてもらひ《い》ましたら、慢性の気管支加答児とかいふ《う》病気で御座《ござ》いますって‥‥。肋膜炎はないので御座《ござ》いますか? といふ《う》たら、ああ、ろくまくも跡はあるが、今は、ちっともその気《ケ》はありません、との事でした。心臓病は決して心配はない、先天的のものであるから、根本的に|なほ《治》す事は出来ない、大変質《大変タチ》の悪い方《ほう》だが無理さへ《え》しなければ大丈夫だと、|くは《詳》しく話をして下さいました。此《こ》の間《=あいだ》は大分熱《だいぶネツ》が出ましたけれども今では何ともありません。少しばかり衰弱したので、お医者様が滋養をとって、入浴をひかへ《え》るや《よ》うにと仰ったので、此《こ》の間《=あいだ》から、卵を二十程も|ふち《フチ》と二人で食べました。食パンを買ふ《う》やらジャムを買ふ《う》やら種々《色々》なものを|たく山買ふ《沢山こう》て戴いて、それこそ自分でも気を注《つ》けて養生をしています。御母様《お母さま》が思ふ《う》ていらっしゃるや《よ》うな気弱ではありませんから、決して御心配《=ご心配》なく御願ひ《い》致します。  |ふち《フチ》も非常な重態でしたけれども、神様の《の-》み恵で昨日今日は大層機嫌よく猫の子を相手に|大さは《大騒》ぎをして居《#お》られますから御安心下さいませ。  なつかしい登別! その故里の地《#チ》を発ったのは先月二十八日でありましたが、はや一月近《ひと月近》くの日子がたったので御座《ござ》いますね。さ《そ》うでせ《しょ》うとも、私が来てからすももの花も咲きましたし、あやめの花も咲きましたもの‥‥。  あの日我家《日/我が家》をあとに立出《立ち出》でた時、|ほんとう《本当》に何とも云へ《え》ない感じに打《=う》たれました。常とは違ふ《う》種々《色々》な事情のこぐらかったあの我家《我が家》、それを思ふ《う》と、胸がつまってし|まふ《もう》たや《よ》うに思ふ《う》たのですもの‥‥。ニッコリして立っている真志保のかは《わ》ゆい笑顔が見えなくなり、動き出す汽車と共に二三間《ニサンケン》も走りながら、姉《ねえ》さんさよなら、といとしくもよぶ高央《タカナカ》の声も吹く風《=カゼ》に消えてし|まふ《もう》て、《:、》いつしかは《-は》や登別の街もあの暗いトンネルをくぐると山の影になってし|まふ《もう》たので御座《ござ》いました。  |一しょ《一緒》に乗ったメリーさんが、これをかたみにとのべたピンを押戴いて敷生《シキウ》の駅で御別れすると、ああもう今度こそは一人旅だと思ふ《う》と、無常に故里の空が懐かしく、遣瀬なさに睫の湿っていたのにあとから気がつきました。後《後ろ》の方《!ほう》に|もた《凭》れかかって見《/見》るともなしに外《=ソト》を眺めていると、苫小牧の停車場《停車じょう-》でニシパの白いおひげが、銀色に風《=カゼ》になびくのがチラと目に|はい《入》りました。それから乗り込んだのは日高の貝沢久之助|をぢ《おじ》さん。  話をしても声が出ないので、丁度ニシパが二等車にお出《=い》でだからお祈りをして貰ったらよから《ろ》うと、その|をぢ《おじ》さんの御親切で、ニシパに御目にかかりました。  汽車の中では都合が悪いから今夜は私の家へ、と、ニシパが仰って下さいました。かくて私は夢にも思はなかった札幌の駅で下車いたしました。其《そ》の日は手紙を読んだり書いて投函しに走ったりして暮れました。丁寧に診て戴き、御祈《お祈》りして戴いて、懇《懇ろ》な御《お》もてなしを受け、其《そ》の夜は丸山コリミセと云ふ《う》コックのばあさんのお部屋でお宿を借りる事になりました。砂糖湯を飲んでねると直ぐからそのおばあさんは心地よげにすやすやすやすやと眠りました。ところが、敷いて貰ったお床《トコ》の上《=ウエ》に疲れたからだを横たへ《え》た私は、自分の呼吸をかぞえたり心臓の鼓動を数えたりしても、どうしても眠れないのです。時計のチクタクばかり耳について眼はいよいよさえるばかり、時々おばあさんがゴホゴホとせき入る時は、起してお話でもしや《よ》うか、と思ふ《う》たり|いた《致》しました。外《=ソト》には月が出ているのでせ《しょ》うが、おへやの中は真っ暗闇、それでもそこにぶら下《下が》っている電燈《電灯》の白い笠を見つめている中《うち》、いつかうとうととまどろむだのでありました。ところが私の後《後ろ》の方《ほう》で、幸恵《ユキエ》さん幸恵《ユキエ》さん、ときれいな声がきこえますので、そちらをむき直って見たところが、七《7》つか八つの男の子が、あらい絣の着物をきて、《:、》かは《わ》ゆい顔《カオ》に笑くぼをつくってニッコリしているので、私はびっくり、誰方? 彼は答へ《え》ました。あのね、あたしはワルデンガーラの子ですよ、と。おやさ《そ》うですか、とは申しましたが、ハーテな、ワルデンならば、今朝、私が来る時に|うまや《厩》へよってさよならをした馬なのに、それに種馬の資格もないと云ふ《う》話なのに、どうしてこんなきれいな子を持っているのか、と、首をひねって考えました。これはを《お》かしい、と今一度その子を見なほ《お》すと、|コハ《こは》如何《#いか》に。彼《か》の小童は身体《カラダ》はもとのわらべながら頭《/頭》はいかにもワルデンの如く、しかも大きな其《そ》の眼光は爛々と輝いて私の全身を射るが如く、《:、》額《ヒタイ》の星《=ホシ》は大きな穴のや《よ》うにくぼんで、真赤《真っ赤》な口《=クチ》をあいて今にも私を飲まんずありさま、ヒヤア、これは大変、逃げんとすれば、両足は棒のや《よ》うになって一歩も動かず、助けを求めんには声が出ない。さ《そ》うか《こ》うする中《うち》にかの|ばけもの《化け物》は一歩一歩近寄るかと思へ《え》ば、反対に後退りをして、後《後ろ》の柱にドンとつきあたった其《そ》の音《=オト》でハッと気がついたら、あたりはまっくら、《:、》これは不思議とよく見れば、私は相不変《相変わらず》コックさんのそばでねていたのでした。試《試し》に足を動かして見ましたら幸《幸い》に足は自由でした。耳をすますと何処からとも知れず、犬の悲しげな遠ぼえがきこえていました。枕もとの手拭で汗をふいてもう一度|ねむら《眠ろ》うと思ひ《い》ましたが、どうしてもねつかれず、其《そ》の中《うち》に時計はゴーンゴーンと二時を報じました。何事も考えるまいと思ふ《う》ても、種々《色々》な想《想い》は水のや《よ》うに昔にわき今《/今》に流れて其《そ》のつくるところを知りませんでした。かくてとうとう夜は明けて、四時半になるとコックさんと|一しょ《一緒》に床《トコ》をはなれました。|ほんとう《本当》にこんなつまらぬ夢の為に一夜をねむらずにすごしてしまったのが馬鹿《/馬鹿》らしくてなりませんでした。ふしぎに声はスラスラと出ますので、神様の大いなる御力《お力》と、深く深《-ふか》く感謝して再びニシパに祈りをして戴き、《:、》ニシパにもカッケマッにも深く御恩を謝して御宅を立出《立ち出》でたのは六時頃でしたでせ《しょ》う。六時三十五分の汽車に乗って、近文《=チカブミ》へは十二時過ぎに到着いたしました。珍らしく車中も客がすくなくゆったりと腰をかけて瞑想をつづけながら無事に参りましたので御座《ござ》います。御土産《お土産》のシクトツは非常に|ふち《フチ》も母様《母さま》も喜ばれました。|ふち《フチ》は病床にふしていらっしゃいましたので、暫し私は身をやすませてから再び出直してその荷物をとって参りました。  御《お》かげ様《=さま》であちらこちらへおわけして皆《=ミンナ》に喜ばれました。其《そ》の次の日に直ぐ手紙を書か《こ》うと存じましたけれど、疲れたのか医者へさへ《え》行く事が出来なかったのです。さ《そ》うか《こ》うする中《うち》にいつしか|四も《四方》の緑の色が眼に鮮《鮮や》かにうつるや《よ》うになりました。先日|此《こ》の部落で、十八になる娘さんがなくなりました。小学校にいた時分は同級で、|ほんとう《本当》に温順な人でありましたが、嫁いで間《マ》もない時にもう死んでしまは《わ》れたのです。十八といへ《え》ばまだ蕾の花の開《ひら》きかけたばかりですのに、まだ春浅い中《うち》に散ってしまったか《/か》ね様のお母|様方《さまがた》の御悲嘆は何《-ど》んなでありませ《しょ》う。雫の雨がそぼ降る日、なきがらを納めた白木の棺はしづしづと緑ふかい高台《タカダイ》の墓地へと運ばれました。何《=ナニ》も知らないらしい妹さんが白い着物を着たのが嬉しいのか、晴やかな顔《=カオ》して棺のそばを足どりいそがしくゆく姿を見た時、思は《わ》ず涙を流しました。|あは《哀》れ、やさしかりし友の霊《+御霊》は今|よみ《/黄泉》の国に安らかな眠りを続けて居《#お》られる事でせ《しょ》う。  其《そ》の後《あと》、谷先生は如何遊《いかが遊ば》したで御座《ござ》いませ《しょ》う。どうかして御平癒なさるや《よ》うに常に私等は御祈《お祈》りしています。  登別でも此《こ》の頃《=コロ》は雨がつづいて嘸鬱陶《-さぞ鬱陶》しい事で御座《ござ》いませ《しょ》う。それでも登別は雨の日《=ヒ》の景色はまた格別美しいでせ《しょ》う。やはり故里は懐かし《しゅ》う御座《ござ》います。夜もすがら枕もとにきこえる波の音《’音》、それは此《こ》の地《#チ》では夢にもきく事が出来ないのですもの‥‥。  広い此《こ》の原野の春もまた趣が多う御座《ござ》います。御天気のよい日、部屋《=ヘヤ》の中央《+真ん中》へ机を持出して、それにもたれてだまったまま種々《色々》な事を思|ふ時、《うとき:、》あけてある窓から訪れる春風は羽織の裾をハタハタとうごかして、机の上の書物の頁をハラハラと繰っては何処へか去ってしまいます。群青に晴れた空《=ソラ》を仰ぎながら操子《ミサコ》の愛らしい面影を偲び、あのかは《わ》ゆい声《=コエ》をききたいと耳をすますと、空《#ソラ》に浮ぶ真白い雲のふところで雲雀がほがらかに歌ふ《う》声がきこえます。  昨日は一日雨が降《#ふ》って、午後は風さへ《え》加は《わ》って暗い冷《冷た》い日で御座《ござ》いました。母様《母さま》が、三時頃から床《トコ》をしいてねてしまった後《あと》で、やはり此《こ》の机にもたれて外《=ソト》を眺めると、樹々《木々》の翠《ミドリ》が滴るばかり、降《=ふ》り|そそ《注》ぐ雨は緑の露かと見えました。あまり家《いえ》の中にばかりいてはと思って先日其処《先日/其処》らの田圃をあるいて、あぜに咲いていた白いすみれを片手に余るだけ摘《#つ》んで参りました。小さい愛らしい此《こ》の花は、今も私の机の上でゆかしい香《香り》をはなって居ります。出来得るならば私がとった此《こ》の花の香《香り》を|たく山《沢山》びんに入《#い》れて、御父様《お父さま》や御母様《お母さま》の御許へ送って上げたい心地《ココチ》がします。  来年の今頃|此《こ》の白いすみれが、あのあぜに一ぱい咲く時は私もまた丈夫なからだになってピンピン飛廻る程、快活な人になりませ《しょ》うと、私は此《こ》の小さい花にかたくかたくちかったので御座《ござ》います。  畑《ハタケ》の方《!ほう》もさだめしお忙《=いそが》しくいらっしゃいませ《しょ》う。あの私がまだ居た時分に蒔いた豌豆がもう出かかったのですか? 外《他》のものはまだまかなかったら時期がおくれるぢ《じ》ゃないですか? 此方《こちら》では大概皆《大概みんな》すんだや《よ》うです。  うちの畑《ハタケ》はまだ誰も耕して呉れません。  種馬は来ているのですか。名前をすっかり忘れてしまいました。ヘボコニデルでしたか? 先日道雄さんからの御葉書《お葉書き》で種馬の事につき伯父様が札幌へいらしった事をききましたが、如何《#いかが》なったのかと心配しています。心配したからって、その為に身体を害するや《よ》うな|弱むし《弱虫》ぢ《じ》ゃありませんから御気にかけないや《よ》うに‥‥。  ああそれから、此《こ》の間《あいだ》少し気分のよい時に温泉の奥様に礼状を丁寧に書いて出しましたから御安心下さいませ。  私の学校では先に松丸乙近と云ふ《う》教頭の先生が函館の師範へ転任なすったさ《そ》うでしたが、先日また、本間重《本間シゲ》と云ふ《う》高等|師範出《師範デ》の女教師中の上位の方《=かた》が退職なすって小樽のお宅から私に宛て長い御見舞状を下さいました。それに驚いて、温泉の奥様のと|一しょ《一緒》に御返事《お返事》を差上《差し上》げたところが其《そ》の次の日にまた私に葉書が来て、見るとそれは、御存知でせ《しょ》う、《:、》二年生の時から卒業するまで私等の主任であった玉橋先生、本間先生の次位の先生がおやめになって、郷里なる新潟県へお帰りになる途中、汽車の中で書いて下すったものなのです。  |ほんとう《本当》にいい先生ばっかり母校を去ってしまは《わ》れて、母校はどんなに淋しくなったかと思っていましたが、此《こ》の前に病院へ行った時、職業の生徒、二年か三年の名前も知らない人に出会って、其《そ》の人からききましたが、《:、》三人の先生がおやめになって、代りにまたりっぱな何とかかんとか仰るえらい先生が五人もお|はい《入》りになったといふ《う》事です。本間先生からの御手紙には、人間は、神様に|あたへ《与え》られた才能のすべてを発揮する事が最も大事な事である。いかに自分の能力が、人よりも劣ったものであっても笑は《わ》れてもけなされても、自分のもっている全部を表す、《:、》それが|ほんとう《本当》に大事な事で、それをするのは、金銭を得る為でもなく名誉を得る為でもない、人間の使命を果す為に努力するのであります。ところが病気をすると、自分の為すべき事が思ふ《う》や《よ》うに出来ないから、それは神の聖旨にかなはない、自分の使命を果されない罪になりますから、知里さんも早く達者におなりなさい、と、長々と書いてありました。  玉橋先生のおはがきには、病気の時は落《落ち》ついて養生しなければならない、知里さんは気をしっかりもって外《他》の事をくよくよ心配せずに養生すればきっと早く|なほ《治》る|からだ《体》です、などと書いてありました。  何《なん》の先生も旭川を去るにのぞんで数ならぬ私を、御忘れもなく御便りを下さいます事を、私は|ほんとう《本当》に涙とともに感謝いたしました。  此《こ》の間《あいだ》鎌田先生と仰る男の先生がいらしって、病気はどうだね、などときいて下すって、十五日は記念日だからぜひ来|たまへ《給え》な、と仰って下さいましたが、一昨日は行く事が出来ませんでした。十七日に清潔検査があるといふ《う》のでその日は少しうちの前の草《=クサ》をむしりながらはるか学校の方《ほう》の空《=ソラ》を仰ぎ、《:、》万歳々々《万歳万歳》といふ《う》記念日の唱歌を歌って芽出度い母校の誕生日を心《=ココロ》から祝し、将来千代八千代《将来’千代八千代》に栄ゆくや《よ》うにお祈りをしたので御座《ござ》いました。  鎌田先生は国語の先生で、文章体や候文の大嫌ひ《い》な方《#かた》です。誰も道で出会って、《-》「毎度御厚情|万謝奉候《万謝奉り候う》」などとかたっ苦しい事をいふ《う》人はないだら《ろ》う、だからこれからは、すべての文章が口語体になるのだ。この忙しい世の中だから、毛筆は早晩すたれて、何でもペン書《書き》になるのだ。さ《そ》うでなくちゃ日本の文明は進んだとは云は《わ》れないと仰る先生です。  御存知でせ《しょ》うが、本間先生は図画のお上手な理想の高いやさしい上品な方《#かた》で、私はいつも図画や編物の外《他》に作法をお|ならひ《習い》した先生です。玉橋先生は二年の間《あいだ》、母子の間柄《=アイダガラ》で、私はよく|かはい《可愛》がっていただきました。  |ほんとう《本当》におやさしい方《#かた》でしたから、私の組は学校中《学校じゅう》でも、一ばん内気なおとなしいやさしい人が多いと|いは《言わ》れていました。やはり高師出身《コウ師出身》で、本間先生の次位です。  御別れの時、本間先生は、しんみりとした調子で、種々御話下《色々お話し下》さいましたし、玉橋先生は卒業する私等を送って、さらばさらばの唱歌を|うたふ《-うとう》て下さいました。  もうふたたび、あのおやさしい御言葉《お言葉》をきく事も出来なければ、あの御美しい御声をきく事も出来ないのです。私はあれから歌ふ《う》にも声が蚊の鳴くや《よ》うな声なので、|ほんとう《本当》にいまいましくてたまりません。  今は殆んど旧に復しましたが、いつも首を|ほうたい《包帯》して咳嗽薬を常住つかって居ります。気管を大分《だいぶ》わるくしたのでせ《しょ》う。姉《ねえ》さんから其《そ》の後御便りがありまして? 津屋さんは如何《#いか》なすったでせ《しょ》う。  浜の|ふち《フチ》、伊悦さんのお母様、お隣の伯父様、伯母様、初枝ちゃん等《#とう》、皆々様にたく山《+さん》たく山《+さん》よろしく。来《く》る時には伯母さんがまだ寝ていらしったから何も申上《申し上》げないで参りました。  みっちゃんと二人でタマピルを取りにあるいた事を思ひ《い》出すと一人でほほえまれます。高央《タカナカ》、真志保にもう《/う》んとよろしく。うちの小梅は嘸《-さぞ》きれいに咲いた事で御座《ござ》いませ《しょ》う。姉さんがいる中《うち》にきっと咲くから見て行きなさいと高央《タカナカ》がいつも申してくれましたが、とうとう見ないでしまいましたね。今年も御母様《お母さま》、梅をつけておいて下さいな。病気の時は梅干がいちばんよろし《しゅ》う御座《ござ》いますよ。  高央《タカナカ》、真志保とはっくりや《よ》うどを取りにあるいた当時の楽しかった事がそぞろ思ひ《い》出されます。  今日《=キョウ》は雲が低くたれて風は冷《冷た》く、時々《ときどき》雨がサーッと降《#ふ》ってはや《止》んでいます。射的場《=射的ジョウ》の方《!ほう》へはひっきりなしに射撃の音《=オト》がド‥‥ときこえます。時々《ときどき》大砲がドーンと大きな音をさせては、いとど大きな私の眼を皿のや《よ》うにいたします。ではこれでペンをおきます。また此《こ》の後沢山申上《あと沢山申し上》げませ《しょ》う。  末筆失礼ながら広瀬様によろしく御伝え下さいませ。御父様《お父さま》も御母様《お母さま》も皆々様御自愛専一《皆々様/御自愛センイツ》に祈り上げます。  机上《=キジョウ》のすみれはかは《わ》ゆくうなだれて、たえず|かす《微》かにゆれて居ります。    五月十七日|さや《/さよ》うなら  幸恵《ユキエ》より   御父上様   御母上様      御両所へ ◇。◇。◇。◇。◇。  金田一京助宛(東京市本郷区|森川町一《森川チョウ/一》)  大正九年六月二十四日付(旭川発信) ◇。◇。◇。◇。◇。  先生度々綺麗《先生’度々’綺麗》な御《お》はがきを下さいまして|ほんとう《本当》に有難くふかく御礼を申上《申し上》げます。御《お》はがきは先週の土曜に戴きましたけれど小包は今日《今日’》着きましたので、つい御無沙汰をいたしました。私の病《病’》も此《こ》の頃《=コロ》では別に苦しい事もなく暮して居りますから御安心下さいませ。  私はローマ字を学校では教は《わ》りませんでしたので読むにはよみますが書く事が出来ませんのです。それで此《こ》の間《=あいだ》から練習をして居りますがなかなか書けません。今暫くして少し書けるようになりましたらすぐにアイヌ語を書く事にいたします。私は後世の学者へのおきみやげなどいふ《う》大きな事は思ふ《う》ことも出来ませんけれど、《:、》ただ山程もある昔からのいろいろな伝説、さ《そ》ういふ《う》ものが、生存競争のはげしさにたえかねてほろびゆく私等アイヌ種族と共になくなってしまふ《う》ことは私たちにとっては|ほんとう《本当》に悲しい事なので御座《ござ》います。ですからさ《そ》ういふ《う》事を研究して下さる先生方には、私たちは|ふかいふか《深い深》い感謝の念をもっているので御座《ござ》います。私の書きます中《うち》のウエペケレの一つでもが先生の御研究の少しの足しにでもなる事が出来ますならば、それより嬉しい事は御座《ござ》いません。そのつもりで私の知っている事は何でもオ《/オ》イナでもユカラでも何でも書|かふ《こう》と思ふ《う》て、それをたのしみに毎日ローマ字を練習して居ります。あのノートブック一ぱいに書き|おへ《終え》るまで幾月《イクツキ》かかるかわかりませんけれどきっと書きます。  此方《こちら》で変った事は、先生も御存知の谷平助《/谷平助》さんが先月下旬永眠いたしましたのです。幌別教会に居りましたが、妻や|たく山《沢山》の子供をのこして逝きましたので|ほんとう《本当》に気の毒で御座《ござ》います。それから向井山雄《向井ヤマオ》さんは四月二十五日に結婚をしたさ《そ》うで御座《ござ》います。其後私たちは何《=ナニ》も変りもなくフチも頗る元気で毎晩ユーカラをきかせてくれます。卒業の時は美しい絵葉書を戴きまして私たちはみんなで拝見いたして何《-ど》んなに嬉しかったかわかりませんでした。今年は先生はいらっしゃらないので御座《ござ》いますか。何卒御体《何卒お体》を大切になさいますや《よ》う、フチも母も祈って居ます。 ◇。◇。◇。◇。◇。  金田一京助宛  大正九年九月八日付(旭川発信) ◇。◇。◇。◇。◇。  先生先達《先生/先達》は激しい暑さにもかかは《わ》らず御手紙を下さいまして|ほんとう《本当》に有難く深く御礼|申上《申し上》げます。直ぐに御返事《お返事》申上《申し上》げよう申上《申し上》げようと毎日思ひ《い》乍《なが》ら今日まで御無沙汰に打過《打ち過》ぎまして何とも|御わ《お詫》びの申上《申し上》げや《よ》うも御座《ござ》いません。何卒何卒|御ゆる《お許》し下さいますや《よ》うに幾重《=いくえ》にも御願申上《お願い申し上》げます。実《#ジツ》は私卒業後祖母《私/卒業後’祖母》が病気にかかったので御座《ござ》います。フチはもう|としよ《年寄》りで御座《ござ》いますから一時はどうなる事かと心配いたしました。死んだり生きたりしてやっと今ではよくなりました。ところが今度は母が例のリョウマチスで体の自由を失ひ《い》、ドッと床《トコ》に就いてしまいました。私も卒業以来引続き医薬を服用いたして居ります。私も祖母《=ソボ》の看病の疲れや何かでよくなったり悪くなったり|いた《致》しましたが、秋風が吹くや《よ》うになりましてから祖母《=ソボ》も元気ですし、私も気分がよくなってまいりました。遠からず母も床《トコ》を払ふ《う》事が出来るだら《ろ》うと思っています。ローマ字は少しなれました。先生の御手紙によりまして、自分の責任の重大な事を自覚いたしました。今度冬仕度《今度/冬仕度》がすみましたならば専心自分《専心/自分》の使命を果すべく努力しや《よ》うと思って居ります。先ずは取急ぎ|御ぶさた《ご無沙汰》の御詫《お詫び》をかねて近況を御報知|申上《申し上》げます。フチからも母からもポロンノ先生によろしくと申しました。 ◇。◇。◇。◇。◇。  金田一京助宛  大正十年六月十七日付(旭川発信) ◇。◇。◇。◇。◇。  先生引《先生/引き》つづきお美しい御《お》はがきをいただきまして本当に嬉し《しゅ》う御座《ござ》いました。深く御礼|申上《申し上》げます。あのウタリクスを多大の興味と御同情とを以て御読下されまして|ほんとう《本当》に有難う御座《ござ》います。先生が御読みになります分《ブン》は、これから私が毎月よろこんでお送り申上《申し上》げます。昨年の十二月《12月》から出たのですが、十二月、一月のはもう売切れまして札幌にもありませんそうで、二月は何かの都合で休刊になりました。三月号と四月号だけございますから、今日お送り申します。これは各地の小学教員や、官吏の方《かた》や有珠《/有珠》ではお寺の坊さんまでが読んで下さいますそうです。此処でも隣の先生方と部落の四五《シゴ》のアイヌが読んで居ります。十五冊来《十五冊く》るのですが、耶蘇嫌ひ《い》の人が多いものですから買ふ《う》人が少くていつも余りが出来るので御座《ござ》います。片平さんは山雄《ヤマオ》さんの弟で親戚の家を継いだので姓が違ふ《う》のださ《そ》うです。まだ二十一位《二十一くらい》の若い人で御座《ござ》います。これから此《こ》の誌上にいろいろな人が出て来るだら《ろ》うと思ひ《い》ます。フチも母も先生によろしく申しまして御座《ござ》います。 ◇。◇。◇。◇。◇。  知里高吉・浪子《ナミコ》宛  大正十一年四月九日付(旭川発信) ◇。◇。◇。◇。◇。  |大そう《大層》暖かになりました。御両親様定《御両親様/定》めし御壮健《ご壮健》にて御活動《ご活動》の御事と存じます。高央《タカナカ》さん|受験成績ハ《/受験成績は》如何《#いかが》で御座《ござ》いますか。お案じして居ります。  真志保は運よからず中学へははいられませんでしたが無事高等二年《/無事高等二年》に昇級、孜々として奮励勉学に余念ない様子で御座《ござ》います。覚悟の事とて不合格も別に失望憂色の程にもならず、相変らずの爽快な笑顔にてキビキビと日を送っています。昇級の時は一部優等にて英語読方の特別賞状を持って参りました。英語は殊の外《=ほか》お得意にて試問答案は百点以外の点数をとった事は一度もありませんでした。ただ数学にハ《は》あまり興味を持たないのか、さっぱり思は《わ》しくないので心配しましたが、《:、》此《こ》の度《=タビ》の中学入学受験予習のおかげで大分《だいぶ》頭が鍛へ《え》られて少々難かしい問題もたやすく解かれる程度に進んだ様《=よう》ですから、此《こ》の分《ぶん》ならば本学期末あたりから、もう大丈夫だとよろこんでいます。体重も昨年の今月よりは1.650貫増し、身長も一寸何分《一寸ナンブ》とか加ったよし、意気揚々たるものであります。あたたかい春風に吹かれて真志保も私も赤銅色《赤銅イロ》になりました。雪はまだ二尺ほどもありますが、それでも、其処此処に点々と雪の消えたところに黒い土《=ツチ》の中から淡い緑色《ミドリ色》した草《=クサ》の芽がもえています。朝早くから春空の音楽家、雲雀の美しい声《=コエ》がきこえます。ぼんやりとした鰊模様の空《=ソラ》から時々ヒラヒラと舞落ちる淡雪も何《なん》となく春めいています。登別でハ《は》もう何かの花が咲いているのでハ《は》ありますまいか。春の海の景色の偲バ《ば》れて故郷なつかしの情《ジョウ》にかられます。  御両親様《御両親様/》さぞおいそがし《しゅ》う御座《ござ》いませ《しょ》う。鶏《ニワトリ》も兎も沢山でにぎやかで御座《ござ》いますね。操《ミサホ》ちゃんのしもやけはなほ《お》りましたでせ《しょ》うか? 此方《こちら》でハ《は》真志保のしもやけは、春がきてもまだ消えやらぬ雪のそれと同じに、まだ足袋をぬぐ時に顔《=カオ》をしかめる事があります。然しそれもだんだん|しかめ顔《シカメガオ》の皺《=シワ》が日一日《ヒ一日》と少くなってゆきます。フチは、登別へゆくと云ふ《う》のでいそがしいいそがしいと気を揉んでいます。  此《こ》の間申上《あいだ申し上》げました私の上京について申上《申し上》げますが、お父上様は御不賛成《ご不賛成》だといふ《う》事で、私たいへん心細くなりました。何卒後生のお願ひ《い》ですから《ら/》お父様|御賛成《ご賛成》下さる様《#よう》におねがひ《い》申上《申し上》げます。上京と申しましても別に大へんな野心があってでハ《は》無いのです。金田一様《金田一さま》のお家《#ウチ》へ行って、奥様のお手許で裁縫でも台所の方《#ほう》にでもお手伝ひ《い》して、傍ら金田一先生のアイヌ語研究のお話相手をするのです。べつに身体を動かして大して気を労する事でもありません。東京見物でもして、気をかへ《え》て見ようと思ひ《い》ます。今は平和博覧会も開《=ひら》かれていますから一生の思出《思い出》のたねに旅行をして見たいと思ひ《い》ます。東京の気候が私のからだによくないならバ《ば》、一月《ひと月》ででも帰って来《-く》ればよいと金田一先生も申されましたから。そして、よかったら、長くいれバ《ば》いいさ《そ》うですから、先づ《ず》見たいので御座《ござ》います。折角の此《こ》の機《=き》を逸《=いっ》したくないのです。  ただ目下《モッカ》は花見時とやら、それに平博見物人《ヘイハク見物人》の為に未曾有混雑で函館桟橋《/函館桟橋》あたりでは大へんだといふ《う》事ですから旅《/旅》の途中がひどいから皆様に御心配《=ご心配》をかけますが、《:、》人がゆききする所ですから、私も何《-ど》うかう《-う》んと注意して思切《思い切》って旅に上《上が》りたいと思っています。神様がお守《#まも》り下さる様《#よう》に祈りつつ‥‥。  |ほんとう《本当》に|弱むし《弱虫》の私は、何《なん》につけても御両親様はじめ皆様の御心配《=ご心配》の種《タネ》になって不孝を重ねます。大変な望みをおこして御両親様に当惑をおさせ申しまして、ほんとに済まない事で御座《ござ》います。が、ほんとに、此《こ》の度《=タビ》だけ何《ど》うぞお願ひ《い》をお聞入れ下さいまして、不孝な娘の望みを達してやって下さる様《#よう》にお|願ひ申上《願い申し上》げます。ちょうどフチが、此《こ》の度帰ると云は《わ》れますからお送りして、登別へ参ります。少し都合がありまして三十日のを二十八日に決めました。そして、お家《#ウチ》から東京へ立ちたいと思ふ《う》のです。  何卒御父様右《何卒’お父さま/右》の儀御賛成《儀ご賛成》下さいます様《よう》、謹しんでお|願ひ申上《願い申し上》げます。今、アイヌ語民譚集《語’民譚集》といふ《う》ものを書いています。此《こ》の原稿が書き上《上が》ると、炉辺叢書とかいふ《う》ののうちの一冊として、金田一先生のお世話で出版して貰へ《え》るのださ《そ》うです。その炉辺叢書の主宰者は柳田国夫とかいふ《う》人で五月《/五月》の半頃《半ば頃》に欧州へ行かれるとかいふ《う》話で、原稿は本月中に書上《書き上》げる事になっていますので、私は今、毎日それを書いています。  今日《=キョウ》は真志保が町《=マチ》へ行って買物をして来ました。自分の算術教科書と、紙の様なものや味噌や鰊などを買って来ました。そして、北門学校《ホクモン学校》の西分教場が今度独立したお祝ひ《い》があるといふ《う》ので、余興見物に大|よろこ《喜》びで飛出《飛び出》してゆきました。嘸面白《-さぞ面白》いのを今頃見物しているのでせ《しょ》う。浜のフチも皆々様お変りありませんか?  此《こ》の間《あいだ》道雄さんが来て|大にぎ《’大賑》やかでありました。なかなかの上達したヴァイオリニストで随分面白うございました。写真術も|うま《上手》いもので、札幌へ帰ってから早速私たちの写真を送ってよこしましたがな《/な》かなかよく出来ていました。私の目なんか皿の様《=よう》で、花はすりこ木の様《=よう》で、大笑ひ《い》の種《#タネ》にしています。真志保はよく撮れていました。今度お目にかけませ《しょ》う。伊悦さん優等《/優等》ですってね。皆様によろしくお伝へ《え》下さいます様《#よう》お|願ひ申上《願い申し上》げます。  操《ミサホ》ちゃん嘸大《/さぞ大》きくおなりでせ《しょ》う。早《ハヤ》く逢ひ《い》たい事ね。有珠の姉さん其《そ》の後何《後ど》うなすったでせ《しょ》う。さっぱり便りもありません。高央《タカナカ》さん何《/ど》うかして合格である様《#よう》に祈っています。然し不合格でもそれは運ですから失望だの落胆なんかしない方《!ほう》がよろし《しゅ》う御座《ござ》いませ《しょ》う。真志保の様な人は一番よう御座《ござ》います。直ぐに気を取り直して其《そ》の後《後’》を奮発しますから‥‥。何《=なん》だか底冷のする様《#よう》な風《=カゼ》が吹いています。それでも太陽が照って遠山|はだ《肌》を白く光らしています。其処にも此処にも道が悪い為に行《行き》なやんでいる馬橇《ウマゾリ》が見えます。雲雀はちっとも休まず歌ひ《い》つづけています。でハ《は》今日ハ《は》これだけ、お父様におねがひ《い》申上《申し上》げたく書《書き》つらねました。何卒御両親様《何卒御両親様/》お身をお大切に、高央《タカナカ》も操《ミサホ》も御健《お健や》かのほどお祈り申しています。    四月九日さ《/さ》よなら◇ 幸恵《ユキエ》より  愛する御両親様         御前《おんまえ》に ◇。◇。◇。◇。◇。  伊藤元子宛(北海道・名寄)  大正十一|年五月《=ネンゴガツ》頃(東京発信) ◇。◇。◇。◇。◇。  御《お》たよりを下さいまして、|ほんとう《本当》に有難うございました。まことにうれしう《ゅう》ございました。皆々様おかわりなくて、けっこうですね。北海道は、たいへん寒いとゆふ《う》ことをきいてたまげました。それでは、はたけものはよくないでせ《しょ》う。東京は、こんげつ一ぱいめったに雨もふらず、かぜもなくて、まいにちまいにちやけるほどあつくて、わたしはもうすこしで、くたばってしまふ《う》ところでした。東京はいつでもあついそうですが、今年はとくべつにあつくて、三十五年からないほどださ《そ》うです。ほんとに、この前あなたの十家《#トイエ》へあ《上》がった時は、ひどい御病気《ご病気》で、とうとうあなたにあふ《う》ことが出来なくて、ざんねんでした。今年のうちにわたしは、こたんへ|かへ《帰》りますが、また、こんど、あがりますから、どうか、よろしくねがひ《い》ます。 ◇。◇。◇。◇。◇。  知里高吉・波子《ナミコ》宛  大正十一|年五月《=ネンゴガツ》十七日付(東京発信) ◇。◇。◇。◇。◇。  五月十七日  愛する御父様《お父さま》と《と-》お母様《=かあさま》に‥‥。五月十七日午前八時半|幸恵《ユキエ》より  大層御無沙汰致しました。フチたちや御両親様は何《-ど》んなに御心配《=ご心配》下すってお待かねでいらっしゃいませ《しょ》う。  来てから直ぐに書けバ《ば》、いくらでも書けるんでしたけれども、よくばりでもう二三日《=ニサンニチ》も暮して見たら此方《こちら》の様子がよくわかって細々《#コマゴマ》とお知らせが出来るかと思ひ《い》まして、つひ《い》のびのびになりました。が、その二三日《=ニサンニチ》になってもまだスッカリはかたまった気持《気持ち》をあらは《わ》す事が|難か《難》しい様《=よう》です。其《そ》の後《あと》はお変りは御座《ござ》いませんか? あの日、お母様は六時の汽車にお乗りになりましたか? かは《わ》いさ《そ》うにフチたちは何《-ど》んなにか私のために、夢見などを気にかけて心配している事でせ《しょ》う。  東京! 大日本帝国の首府である此《こ》の東京の地《#チ》を一歩ふみしめた時の気持《気持ち》は? ときかれても、私は何《なん》にも|かは《変わ》った答《答え》はまだ出来ません。だってなんにも北海道の家と違った家《=イエ》がある様《#よう》でもないし、違った人が通るといふ《う》わけでもない様《#よう》なんですもの‥‥。もう少したったら何かまとまった感想を書く事が出来ませ《しょ》う。  先づ《ず》旅中の事どもを書きつらねませ《しょ》う。京城丸の後甲板に立って、次第々々《次第次第》に|はな《離》れてゆく小舟《小船》の中のお母様と、白いきれをふって別れたその時の心持ハ《は》、何と云ったらいいでせ《しょ》うか、今思《今’思》っても涙がこぼれます。  カラカラと|いかり《碇》をまきあげて船が黒い煙《=ケムリ》をのこして出帆した時、堪らないほど心細くなったんでした。打見やる岸辺の何処かでお母様が見送っていて下さるかしら、と思っていくら目をみはっても、なんにも見えないし、だんだん遠くなって室蘭の町《=マチ》が船《=フネ》の直後になったり右手に見えたり、左手になったり、《:、》グルーッと|まは《回》って大黒島とか云ふ《う》燈台のある島のそばを通《=とお》った頃《=コロ》は、船客が私のそばで|たのしさ《楽しそ》うに話をしているのに気をつられて、スッカリもとの人になりました。話相手が無いものですから船縁につかまって遠い景色をながめたり、緑の色にゆらゆらする波を見たりしてスッカリ船《-フネ》と仲よくなってしまったのです。京城丸と|一足違ひ《ひと足違い》に幸丸《=サチマル》とか云ふ《う》汽船が出たでせ《しょ》う。あれがだんだんおくれて、ズーッと後からついて来た様《=よう》ですが、それもいつか見えなくなって、《:、》赤い夕陽に照されて、紅波《コウハ》、緑波《リョクハ》を漂は《わ》す美しい海原を、船は白い波紋の足跡《=アシアト》をのこして、太い波のうねりを道|伴《連》れにだんだんと進んで来ました。めが|まは《回》るなどと云って船室には《=は》いってゆく美しい|おく《奥》さんもあり、風《=カゼ》が寒いとマントを引《引っ》かけた紳士もありましたが、私は寒くもなし、|めまひ《目眩》も幸ひ《い》と致しませんでした。それでも二時間ほどたって薄暗くなると人はみな何処かへはいってしまって、私一人になった。それに白い作業服を着けた船員が来て、何処へいらっしゃいますか、だの、何処からいらっしゃいました、だの、淋《=さみ》しいでせ《しょ》うだのって云ひ《い》出したので、《:、》御親切が怖しくなったので船室へ飛込み、みんなの真似して羽織をぬぎ、仰向《アオムケ》に寝そべってしまひ《い》ました。ゆで卵子《卵》を二つで腹を拵へ《え》たんですから疲れも何もなく、何時《=いつ》の間《=マ》にかグッスリ寝こんでしまひ《い》ました。フト目を覚ますと、狭い船室の中を電燈《電灯》が青白く照して同室の大学生や、あのメンコイ子供を連れた紳士などが手足をのばしてグーグーと嚊《鼾》をかいて寝ていました。  寝床を|はひ出《這い出》して便所へ行き窓《/窓》から見ると、相変らず船は油を流した様《#よう》な海の上をすべる様《よう》に進んでいました。しばらく見とれていたら、人の|気はひ《気配》がするのでビックリして出て見たら、白鬚のお爺さんが先刻《=センコク》から私を待っていたのでした。それから食堂の方《!ほう》へ出て見ると時計はちょうど十二時になっていました。其処にある大観だの中央公論だのの頁を繰って拾い読みして、そこいらの弁当代の掲示などを見てから再び毛布を被《#かぶ》って寝に入《-い》りました。フト物音に驚いてさめて見ると、これは大変、同室の人たちがみんな起きて靴をは《履》いたり、外套をつけたりしているのでした。私も起きて身仕度《身支度》をして外《=ソト》へ出て見ると、青森の港へ|はい《入》ったとおぼしく、京城丸は大きな声で、おはや《よ》う!《-》 と叫びました。有明の室《部屋》に十六夜ほどのまるい月が銀色の淡い光を波上に投げ、海上たひ《い》らかに爽快な暁の微風《=そよかぜ》をのせて遠く明滅する青森港の美しい灯色《ヒイロ》をうつしていました。薄暗にしろく横たはる大きな汽船の黒い影が三つ五つ。京城丸は悠々と|いかり《碇》をおろしました。  見ているうちにあたりはだんだんあかるくなって来ました。左右に見える青黒い三角や|まる《丸》の山々を見つけると私はまた今更ながら郷なつかしの情《ジョウ》にかられました。私がねむってる間《あいだ》にもう我北海道《我が北海道》をはなれてしまって、海《=ウミ》をへだてた別な島へ来ているのだと意識して‥‥。  いつのまにか月《’月》の影も消えはててスッカリ明るくなってしまふ《う》と、|むかふ《向こう》から面白い形をした舟が小さい煙筒から白い煙《=ケムリ》をはいてプーと細い|かす《掠》れた声《=コエ》を出して私たちの方《!ほう》へ来ました。ハハア、歓迎(ウエルカム)と云ふ《う》のだな、と思って私は思は《わ》ず笑《笑み》をうかべました。そしてその舟の尾にまた二艘の舟が長い綱でつながっていました。そしてグルーッと京城丸の船首が船尾《センビ》を|まは《回》って私たちの前へ来た時は、何処でおいて来たのか尻尾につながっていた小供《子供》舟がなくて、たった|一そう《一艘》で来たのです。それからまたあの降昇場《昇降場》から幅二尺ぐらいの階梯《梯子》をおろして、赤いお鬚をぴんとたてた赤い|すじ《筋》のは《=ハ》いった服を着た人に、昨夜乗船券《昨夜/乗船券》(あとで買った二等の)と引換へ《え》て|貰ら《貰》った上陸券を渡して傘を杖に降《-お》りました。下《=シタ》には水夫(?《括弧クエスチョン》)がいて、少しふらふらして足下《=あしもと》があぶなさ《そ》うになると抱《#だ》く様《#よう》にして支へ《え》てくれるのです。御婦人《ご婦人》は中へ何卒、と云は《わ》れたのでなかをのぞいて見たら、薄暗い船底の小さい所に青白い顔《=カオ》した婦人船客が、ギッシリと膝をぶっつける様《#よう》に腰かけていました。それを見ると嫌になったので子供をおぶったもう一人の女と|一しょ《一緒》に外《=ソト》に立って柱につかまっていました。あんな暗い何か臭ひ《い》でもしさ《そ》うな所にいるよりは外《=ソト》で風に吹かれた方《ほう》がよっぽど気持《気持ち》がよろし《しゅ》う御座《ござ》います。それから田村丸《タムラマル》とかいふ《う》大きな汽船の横を通《=とお》って波をわけて白く砕きながら参りますと、舟《フネ》は海の中へ突き出た板橋にぶっつかる程に横づけになりました。あの室蘭ではしけに乗る時の様なあぶない事はありませんで、舟《フネ》から直ぐに梯も上《=あが》らず平らな所をあるいて上陸しました。  私をここまで送ってくれた京城丸、またこんどは、今日は出かけて明朝《#ミョウチョウ》は室蘭へ着くのであら《ろ》う此《こ》の船《=フネ》に心しあらば故里《/故里》の愛する人たちに私の無事に上陸したといふ《う》事を言伝てや《よ》うものを‥‥。無限の思ひ《い》を胸に抱《-いだ》いて京城丸をふたたび顧みて、無言のうちに別れを告げて波止場をあとに歩《ホ》をはこびました。上陸したら何だか足がふらふらして胸の中がかゆい様《#よう》な感じがしました。道の両側、彼方にも此方《こちら》にも赤い大林檎《オオ林檎》を山と積んで、光った眼に商売人の色を|たたへ《湛え》た男たちが、《、:》「姐さん、ねえさん、|林ご《林檎》をお|かひ《買い》なさい、東京へのお土産に」なんて、何処へ行くとも云ひ《い》やしないのに、人の顔に書いてあるのを読む様な目をして、《-》「おいしいんですよ、東京の人もよろこびますよ」だのって、口々に人を呼《呼び》かけるのです。一人の紳士など顔先へ林檎の袋《=フクロ》を突きつけられてビックリしていました。それから上陸した時に俥屋さんが沢山いて、乗らないか乗らないかって上《上が》る人上《人’上が》る人におじぎをしていました。嫌なのでズーッとよけて通《#とお》ったり、そのよけた方《ほう》の道側に法被を着た人がいて、何方《どちら》へと云ふ《う》から黙って行きすぎようとしたら、上野へですか。ハイと云ったら何時《ナンジ》でいらっしゃいます? 一番で。一番よりも急行の方《!ほう》が便利でございますよ。急行は何時《=ナンジ》? 「一時で御座《ござ》います。彼方《あちら》へ着くのは明日朝七時で、一番で行くのと二時間しか違ひ《い》ませんが、急行の方《!ほう》が楽で気持《気持ち》よくゆかれます。急行になさいませ」「《:「》だって一時までこれから待っていたら大へんですよ」「《:「》いいえ、お退屈なさらない様《#よう》に致します。御案内《ご案内》致しませ《しょ》う」「《:「》おやおや大へんだ、誘惑‥‥。ありがた《と》う、いいんですよ」と言ってクルリと|後む《後向》き、さっさとまいりました。青森駅の構内で少し休んでブラブラと外《=ソト》をあるきました。直ぐわきに小さい郵便局があったので、其処で金田一先生の所へ打電しました。あんまり林檎が美味しさ《そ》うなのにのどがかわき出したので、六十八銭出して大きな林檎の十五|はい《’入》っているのを買ってブラ下げて来ました。スルトまた法被を着た宿引だか何だかにつかまったので、《-》「いいえ今一番で行くんです」と言ってプイとそらして参りました。やがて六時十五分発、東北本線上野行に乗りこんで汽車が動き出した時は、私は、あの小さいフォークで林檎の皮をむいて頬ばっていたのでした。  人先に乗っていいあんばいな座席を撰《選》んで恬と構へ《え》て動かなかったので、《:、》発車までにハ《は》よっぽど沢山の人があとからあとからとはいりこんでウフトフトした様《=よう》でしたが、知らん顔《=カオ》して林檎の|うま《美味》さに舌鼓を打っていたのでした。  あそこらの地名は|ずいぶん《随分’》面白いのが沢山ありました。スッカリ忘れましたが、アイヌ語そっくりのがありました様《=よう》です。あさむしなども。海が凪ぎて美しい景色でした。絵に見る様《#よう》な海浜の松などもめづらしいと思ひ《い》ました。山の形《カタチ》、岩の形《カタチ》、すべてが内地へ来たのだといふ《う》感じを起させました。あそこらの駅から乗りこんだ女の人たちの物《=モノ》の云ひ《い》方も面白いと思ひ《い》ました。あまったるい様《#よう》な声で‥‥。  桜の満開になっているのも見ました。緑の草原に点々と燃える様《#よう》な赤い色した花はつつじでせ《しょ》う。雪の様《#よう》に白いのはすももでせ《しょ》うか。だんだん此方《こちら》へ来ると、林檎の花や桃の花が見えました。乗客が、あれは桜、これは桃と話しあっているので私にもわかったのです。桃が沢山咲揃っている所は随分見事な物《=モノ》でした。残りの三つの卵を一度に食べてしまひ《い》ました。もう一つぐらひ《い》戴けばよかったと思った程美味しくいただきました。来《=く》るに従って乗客が減って、|大そう《大層》らくになりました。足をのばしたり身を横たへ《え》たり好きな風《ふう》にして参りました。が、時々は|無やみ《無闇》とこむ事もありました。はじめのうちは外《=ソト》の風景をながめるのもようございましたが、だんだんそれも嫌になって寝てばかりいました。眠ったりさめたり落付きはありませんでしたが随分楽な旅であったと思ひ《い》ます。|寿し《寿司》と弁当を買って|寿し《/寿司》の方《!ほう》は其《そ》の日に食べて、弁当は夜半頃にと、四時頃(翌朝《=ヨクアサ》)にと二度《/二度》に食べました。盛岡あたりからだと思ひ《い》ましたが、二人の男が私の前と傍《ソバ》とへ来ていましたが、|馬喰ふ《馬喰》でもやってるらしく、馬に関した話ばっかりしていました。馬を三頭|連《つ》れて来たら、何とか云ふ《う》所を夜さしかかった時に馬が何《=なに》かに驚いて何処でも構は《わ》ずは《跳》ね|まは《回》るので、自分の手を木の枝《=エダ》に引《引っ》かけてけがしたのだって、繃帯をしていました。二才が何所《-どこ》だかへはまって足を打ってしまったんですって。鹿毛の二本白で何とか星《ボシ》で、やっと売口を見つけたので連れて行《=い》って見て貰は《お》うと思ったらそんなになったので六百円の損をしたなんてこぼしていました。随分運の悪い人もあるものです。家《=イエ》の馬ちゃんたちをお大事に。  だんだん此方《こちら》へ来ると、もう麦の穂が出揃っています。水田も苗床の苗がだいぶのびていました。暗くなって何《-なん》にも見えなくなる頃《=コロ》は客もメッキリ減って、スッカリ汽車の旅にはあきあきして目を開《=ひら》いて見るのさえ億劫になりました。便所や洗面所に近く座を占めているのでその方《!ほう》もちっとも不便が無いので、気持《気持ち》が悪くなると顔《=カオ》を洗ひ《い》ました。四時頃に起きて|身じまひ《身仕舞い》をして夜明を待つ時の待遠しさ。そしてやっとあかるくなっても、なかなか上野へは来ないので汽車のあゆみがもどかしい程でした。それでもやっと、日暮里、此《こ》の次は上野ですからお忘れ物《=モノ》のない様《#よう》に‥‥といふ《う》車掌の言葉を待つまでもなく、傘と風呂敷包《風呂敷ヅツミ》とを持って今やおそしと待ち|かまへ《構え》て、とうとう上野へ着きました。みんなが出《-で》てからあとをのこのこ出かけると、此《こ》の列車は途中で二台もついだんですから、長い事長い事、そして出るわ出るわ、大したものです。私は|もちまへ《持ち前》の遅足行進で石畳をこつこつと踏んで来ると改札口へ出ました。ふところから切符を出すまでは、私は、足下《=あしもと》ばかり見つめていました。目が疲れているのに、あまりキョロキョロすれば体裁がよくないし、小さい眼が大きくなるといけないからです。そして、湯の滝さんの絵図面を思出《思い出》してヒョイと顔《=カオ》をあげると、そこには、ニコニコした金田一先生が立っていらっしゃいました。優しく、お疲れでせ《しょ》うと云は《わ》れた時は涙が出る程嬉し《しゅ》う御座《ござ》いました。手荷物の札《#フダ》を渡すと、取扱所へ行って受取って来て下さいました。そして、人力車の切符を二枚買って、私は大威張りで先生と俥に乗って、先生よりも先になってしまったので恐縮しました。着いたのは五時ですから人通りがよけいなくて、道路がシットリ濡れているのは、気持《気持ち》よい感じがしました。旭川や室蘭の建物よりもよほど大きい家《=イエ》が一ぱいならんでいました。道を通《=とお》っている人たちは東京の人ではなく多分田舎から来たのでせ《しょ》う。さ《そ》ういふ《う》様な顔《=カオ》した人ばかりでした。それから右へ曲ったり左へ曲ったりして、せまい道《=ミチ》へはいりました。大概の家では戸をしめているのです。東京は夜がおそいから朝もおそいのですって。それからまた電車通りへ出て何《ど》う来たものかわかりませんが、大学の前を通《=とお》ってせまい横町《ヨコチョウ》へはいって、さ《そ》うして此処へ来たのです。其処で先生にも改めて御挨拶し、はじめてお目にかかる|おく《奥》さまにも御挨拶を申上《申し上》げました。それから盛岡から平博見物《ヘイハク見物》に来ているのだと云ふ《う》金田一先生の弟さんの次郎さんといふ《う》方にも紹介されました。金田一先生は、四五年前《シ五年前》に北海道へいらしった時と少しも違はないお優しさですし、奥様もりっぱなせ《/せ》いの高い方《かた》で、非常に親切な方《かた》な様です。此《こ》の頃二人になるといろいろな事を話《#ハナ》してきかせて下さいます。そのお話は後便に譲りませ《しょ》う。三年生の春彦さんと云ふ《う》坊ちゃんもいらっしゃいます。  此《こ》の方《=かた》が此《こ》の間《あいだ》の日曜に、私に大学へ行か《こ》うって誘ふ《う》ので|一しょ《一緒》に出かけましたが、電車通りが直ぐ前にあるのでそれを横切るのにだいぶかかりました。坊ちゃんが先に行って、おいでおいでをしているから、行か《こ》うとすれば電車が来る、行ってしまったかと思へ《え》ばまた来る、またあとから来る、自動車が三台も四台も両方から来る、俥が通る、自転車が通る、《:、》いやはや成程《なるほど》東京はおそろしい所ぢ《じ》ゃと思ったのでした。大学へ行って坊《=ぼっ》ちゃん《ん-》と|一しょ《一緒》にいろいろな花をとりながら、きれいな池のそばでやすんだり、運動場の大学生のテニスも見ました。初夏の樹々《木々》の鮮《=鮮や》かな若葉にいろどられた、赤い煉瓦の大建物《オオ建物》がいくつあるのか知りませんが、ある事ある事、驚くよりほかありません。工科大学、文科大学、医科大学なんて、別々に立札してありました。  |やは《柔》らかい芝生の上をあるくのもいい気持《気持ち》でした。池に鯉が一ぱいいて、時々|はね上《跳ね上が》るのも面白う御座《ござ》いました。そうして遊んで帰りました。  二つになる赤ちゃん(若葉さん)がいて、此《こ》の頃病気なのです。此《こ》の冬奥様《冬/奥様》が御病気《ご病気》で乳がなくなったんですって。それで牛乳でばかり育てたら量《/量》が多すぎて消化不良になって、其《そ》の上《=ウエ》に風《風邪》をひいたので、今二十何日《今’二十何日》もたつのになほ《お》らないのですって。東京で一ばん出来る小児科の字都野と云ふ《う》お医者にかかっているのですって。一日おきに|おく《奥》さんが、女中さんと|一しょ《一緒》に医者へ行かれる様《よう》です。その為に奥さんも夜ねむらないので、頭が痛くて困るさ《そ》うです。前に三人の女の子をなくしたんですって。それで体が弱くて三年前から神経衰弱にかかっているのださ《そ》うです。此《こ》の間中《あいだじゅう》は、平博見物《ヘイハク見物》で国から客が沢山にあったさ《そ》うです。日高のウナラベは、孫《マゴ》と姪だか二人のむすめを連れて来て二十日ばかりいましたが、私が来る|二三日前《ニサンニチ前》に帰ってしまったさ《そ》うです。その婆さんは今度で七回目の上京ですって。  家《=イエ》は平家建の広くない家《イエ》です。お座敷が一つ、先生の書斎が六畳間《六畳マ》、茶《=ちゃ》の間《=マ》が六畳間《六畳マ》、お勝手が一間半に一間半ぐらいで、庭は二間半幅《=ニケンハンハバ》ぐらいで、こんな広い庭はめったにないのだと云ふ《う》話です。夜は、私はきくやと云ふ《う》十七八《ジュウシチハチ》の盛岡から来た、人のいい女中さんと茶の間《=マ》に寝るのです。お母様の角巻と、大きな夜被《夜着》とを着ています。今度、先生の書斎に大きな机があって誰も使は《わ》ないから、これをあなたの机ときめませ《しょ》うと、先生に云は《わ》れて、此《こ》の手紙も其《そ》の机の上で書いてるのです。先生は学校が八時ですから、七時すぎにはお出かけで、四時頃お帰りになります。何《なん》でも大学の方《#ほう》ばかりでなく、女学校も二つか三つ持っていらっしゃるさ《そ》うです。まあ書物のある事ある事、驚入《驚き入》りました。奥様が笑って、家では何《=ナニ》も御座《ござ》いませんが、本《=ホン》だけは財産なんで御座《ござ》いますよ、と仰《仰言》いました。考古学、歴史、地理|其《そ》の他の文学書類が、沢山ある大きな書棚に一ぱいつめてあるのです。何《なん》でも好きなのをお読みなさいって奥さんが仰《仰言》いました。来《=く》ると早々先生《早々/先生》が、アイヌの辞典の古いのや新しいのや其《そ》の他アイヌの研究に関する本《=ホン》を一ぱい出して、私の机の上《ウエ》がそれで一ぱいになっています。  来てから三冊ばかり、本《=ホン》を読みました。それから、夜などちょいちょいアイヌ語の事を質問されます。金田一先生がきくのは、スッカリ覚えていて、学問的に質問するんですから、おかげで私も今まで考えた事もない事を考えて見たり、|難か《難》しい文法などを知る事が出来ます。アオカイのアだの、コマクナタラのコだのといふ《う》様な、普通私たちが使っている言葉を学問的に分析して説明しなければだめなのだといふ《う》話です。昨夜《=サクヤ》は、学校で習は《わ》なかった文典(動詞だの名詞だの第一人称だの二人称だの属格だの主格だのといふ《う》事)を教は《わ》りました。これからまたアイヌ語を懸命に書かねばなりません。女中さんがいるので家《=イエ》の事は何《=ナニ》も手伝ふ《う》事は無いので、ただアイヌ語の話相手、相談相手と云った様《#よう》な形です。体の方《!ほう》も、もう一月《-ひと月》もいてみなければ|あふ《合う》か|あは《合わ》ぬかわかりません。もう一月《-ひと月》もいれば此《こ》の辺《#ヘン》の様子もわかりませ《しょ》うし、心持も落付いてくるでせ《しょ》う。  一昨日電車通《一昨日/電車通》りへ出て買物をしました。やっぱり要るもので、だいぶ使ひ《い》ました。今道雄さんからの預り金《=キン》を別にすると三円いくらしか残っていません。お母様からいただいたお銭《=アシ》は、いただいて|ほんとう《本当》によかったのでした。深く深《-ふか》く御両親様にお礼を申上《申し上》げます。フチからも沢山いただいてありがた《と》う御座《ござ》いました。私はフチの言った事は一つも忘れないで守《=まも》りますから決して御心配《=ご心配》下さいませぬ様《=よう》にと、フチにも浜《/浜》のフチにもお伝へ《え》のほど、おねがひ《い》申上《申し上》げます。(カムイシクトツも箱の中には《=は》いっています)  今に赤さんがよくなったら何処だかへ連れて行《=い》って下さるのですって‥‥奥様が‥‥。気候は登別と大した違ひ《い》はありません。今日《=キョウ》はむやみと寒い日で、みんなで羽織を着ています。主婦の友と家庭雑誌も読みました。  御父様《お父さま》も御母様《お母さま》も嘸相変《-さぞ/相変》らず|御いそが《お忙》しい事でせ《しょ》う。ヒヨッコも大きくなったでせ《しょ》う。みっちゃんの忙しさ《そ》うな、かひ《い》がひ《い》しい様子も目に見える様《#よう》です。有珠の姉さんは無事に着いたでせ《しょ》うか知《し》ら。  何卒みなみな様《=さま》によろしくお伝へ《え》下さいませ。|くは《詳》しくはまたあとで申上《申し上》げます。今日《=キョウ》はこれでも出来るだけお知らせ申上《申し上》げたつもりです。随分おしゃべり致しました。では何卒、御両親様はじめ御一同様《御一同様/》おからだをお大切におはたらき下さいます様《よう》に祈り申上《申し上》げます。    五月十七日午後一時半  さよなら   御両親様       御許に ◇。◇。◇。◇。◇。  知里高吉宛  大正十一年六月九日付(東京発信) ◇。◇。◇。◇。◇。  親愛なる御父様御母様《お父さまお母さま》、|ほんとう《本当》に久しぶりで手紙を書く事が出来て嬉し《しゅ》う御座《ござ》います。この間《=あいだ》はおいそがしい中を御手紙を下さいまして誠にありがた《と》う御座《ござ》いました。お父様の御病気《ご病気》も早く御全快のよし、何《なに》よりも嬉し《しゅ》う御座《ござ》いました。種々《色々》と承りましてまったく面白うございました。お母様は六月二日に、まだ畑を蒔かないとの事ですが、それは大へん遅れましたのね。その原因は私にも大いにある事で御座《ござ》いませ《しょ》う。毎年々々《毎年毎年》おくれてばかりでほんとに困りますね。運動会に操《ミサホ》ちゃんのお宝がとられて大へんでしたのね。フチも皆々様|御壮健《ご壮健》で何より結構で御座《ござ》います。私は相変らず元気で御座《ござ》います。御安心下さいませ。私もだいぶ忙しい様《#よう》な気がする様《よう》になりました。だって毎晩英語を五課づつ(ナショナル一)|ならふ《習う》のですが、私にはとても一度《=イチド》で覚えきれないので復習しなければならないのです。それに此《こ》の間《あいだ》、あのアチャボがやったユカラをまだ書いているもんですから‥‥。  赤ちゃんは此《こ》の頃大《頃/大》へん丈夫になりました。今日《今日’》女中さんがおぶって奥様がついて医者へ連れて行きましたが、もうたいていはよくなったとの事ださ《そ》うです。赤ちゃんがよいと、従って先生も奥様も夜《夜’》はよくねむってお顔が活々《生き生き》してる様《#よう》に見えます。  三十日の火曜には先生がお風引《風邪ひ》でおやすみであったので、赤ちゃんと先生と坊ちゃんをお|るすい《留守居》にして、奥様とおきくさんと私と三人で遊びに出かけました。先生は大学と中学校と女学校とみんなで六つの学校へ言語学の講義に出かけるので声《/声》がなければ出来ないのですって。此《こ》の間風《あいだ風邪》を引いて声《=コエ》が出なかったからお休みなすったのでした。さて其《そ》の日は朝から好《い》いお天気で仕度をしましたが、生憎お客様でスッカリお流れになりさ《そ》うでしたが、お客様がお昼がすんでから帰ったので、三時頃から出かけたのです。大学の赤門をくぐって大学病院の側《ソバ》を通《=とお》ったのはわかりましたが、あとは何処をどうあるいたのかわかりませんでした。赤門は正門から少し|はな《離》れた赤い門で、奥様のお話では五百年程前に出来たものだそうです。それから上野の池の端《=ハタ》へ出ました。春から夏へ移る時はネルを着るものだそうですが、私は生憎ネルを持合《持ち合わ》せませんでしたので袷を着ようかと思ひ《い》ましたが、思ひ《い》きって単衣にしました。奥さんはネルで女中さんは袷で三段になって出かけましたら、東京の人は大《-たい》がい単衣を着ていたので、《:、》奥様は私が一ばん進歩してるなどと笑いながら行ったのですが、池の端《=ハタ》といふ《う》所は非常に涼しくて単衣では涼しすぎるほどでした。池はまるで海の様《=よう》で、水上《=スイジョウ》飛行機がブーブーブー滑走していました。池をへだてた|むかふ《向こう》は名にし|おふ《負う/》博覧会会場で右手に所謂平和塔が青空高く聳えていました。絵葉書にあるのとおんなじに赤だの青だのの色を塗った会場の建物は実《#ジツ》に絵に書いた様《=よう》でした。そよ風渡る池の面《-おもて》、よせる小波は何かしら、室蘭から青森へ渡った時の海上の状景を思出《思い出》させました。まんなかの休息所の細い青竹に清水《#シミズ》を今かけたばかりの様《#よう》にハラハラと露が滴っているそばを通《=とお》って中へ|はい《入》ると、《:、》赤い毛布をかけた腰かけがズラリとならんで正面は青い池、対岸は北海道館の面白い建物、後《後ろ》や横は各地物産陳列売店と料理屋で、中々にいい景色で御座《ござ》いました。そこでおなじベンチに奥様とおきくさんと三人で腰をおろしてしばらくやすみ、奥様は一円二十銭出して三人分の炭酸水と蜜豆をとって下さいました。炭酸水は苺ので、真赤《真っ赤》な色《=イロ》の水がこっぷ一ぱいになっていて箸の様な「かや」の棒がついているのです。ハテナ飲むものに箸がつくなんて面白いものだと思って奥様に言ったら、笑ってそのかやは一度にガブガブのんでもあまり見っともよくないから、かやで少しづつ吸ふ《う》のです、と教へ《え》て下さいました。成る程かやで吸って見たらいいぐあいに咽喉《ノド》へスースーと流れこんで如何《#いか》にもしとやかな令嬢になった様《#よう》な気がして成《/な》るべくつつましやかに、口をすぼめてのみました。下《した》においては取上《取り上》げてのんでる中《うち》に、ひょっと忘れて持前の大口でコップから直《-じ》きに口《=クチ》へ当てや《よ》うとしたところで気がついて心《=ココロ》の中で頭をかいたりしました。蜜豆は、ところてんの様なものに|あま《甘》いお菓子だの、赤や白の「ふ」の様なのだのは《=ハ》いった涼しさ《そ》うな物《=モノ》で、東京の名物だとの事でした。あまいのあまいのと云ったら、おはなしになりませんでした。連《連れ》のおきくさんは、むしばで蜜豆はよくたべられないし、炭酸水はむねが悪くなっての《飲》まれないといふ《う》のにひきかへ《え》、私の方《ほう》は御馳走になるものは何でもよろこんでいただく。奥様は「|ほんとう《本当》に好い人だ」と私をほめて下さいました。うまいものを沢山食べて、それでいい人になるので私は非常に得《-とく》だと思ひ《い》ました。それから売店をズラリと一廻《ひと廻》り見て|ある《歩》きましたが、北海道と別に変った事はありませんでした。私の単衣地《単衣ヂ》の柄《#ガラ》を奥様に見たてていただいて、一反二円五十銭《一反2円五十銭》のを買ひ《い》ました(先月旭川のおっかさんに五円送って貰ひ《い》ました。今、一円四十一銭あります)。その時、おなじ値段のものを奥様も女中さんも買ひ《い》ました。女中さんは私のとおんなじ柄《-がら》でした。奥様はちょうど私に似合ふ《う》地味好《地味ず》きな人らし《しゅ》う御座《ござ》います。着《=き》ている着物なんかまるで地味なんです。先生とおはなししていらっしゃるのをきくと「此《こ》の頃《=コロ》は嫁に来た時よりもズッとずっと若づくりになったなあ」との事でした。この間買ったのはなるほど、私が着《=き》てもいい様《#よう》な柄《-がら》でした。それからきれいな|とき色《朱鷺色》の絹しぼりの帯締を私は買っていただきました。女中さんは真赤《真っ赤》なのでした。それから平和塔の下を通《=とお》って石畳の坂を上《#のぼ》って、多分あれは上野公園でせ《しょ》う、青草《アオクサ》が気持《気持ち》よく生へ《え》ている山見た様《#よう》な所の下の道を通《=とお》って、何処だか廻《回》って上野の電車通りへ出ました。博覧会は五時半までですから見られませんでした。  奥様にたのんで、道雄さんに頼まれたものを探しましたが、何《ど》うしてもありませんでした。一円を送り返さ《そ》うと思ひ《い》ましたが、今度三越へ出かける時にまた探しませ《しょ》うとの事で、まだその金《-かね》を|あづ《預》かっています。  それから、松坂屋といふ《う》店には《=は》いって、四階《=ヨンカイ》まで上《#のぼ》っていろいろな物《=モノ》を見て来ましたが、私にはただただ驚嘆するばかりで言ふ《う》事もなくなった様《=よう》でした。エレベーターに乗ると上《#のぼ》る時は気持《気持ち》がよいけれども、止る時にひょっと下《シタ》へさがるので思は《わ》ずハッとして、びっくりして言ふ《う》と、奥様はニコニコしていらっしゃいました。着物だか帯《オビ》だか反物だかシャツだか、見て見てし《/し》まひ《い》に目が|まは《回》る様《よう》でした。欲《=ほ》しくなるよりも恐くなる様《よう》でした。おはなしする事も何も出来ません。三越はまだあの松坂屋の三倍もあるのださ《そ》うです。それからまた大学病院のそばを通《=とお》って赤門から出て参りました。私はもうあれで沢山、何《=ナニ》も見物《#ケンブツ》しなくともいいと思ひ《い》ました。それよりも英語がたのしみです。電車通りを横切る時《とき》なんか、小さな眼も思は《わ》ず知らず大きくなってしま|ふ様《うよう》ですもの。  東京の家には柾葺の家がありません。みんな瓦葺で御座《ござ》います。道《=ミチ》を通る東京の人は何《ど》れだけ私たちと変《=かわ》っているか、と見ると、先づ《ず》やはりおんなじ人間でちっとも変りないと思ひ《い》ます。ただ私の様《#よう》にノラクラしたものはめったになくて、みんなキビキビと動作が機敏で目がキョロキョロと忙しさ《そ》うな所が都会人の特長らし《しゅ》う御座《ござ》います。余裕がないから、都会人は神経過敏なんですって。あんなにぎやかな所《ところ》へ|はい《入》るのは私には|ほんとう《本当》に不適当、ノラクラ婆さんですから‥‥。  東京へ来た甲斐《=カイ》に、えらい人の演説にでも連れて行《=い》ってきかせてあげようと先生が仰《仰言》いました。然し家《=イエ》にいても随分来甲斐《随分来た甲斐》があったと思ひ《い》ます。だって御主人《ご主人》が学者ですから、話される事を聞いていればまったく学問をしてるとおんなじですもの。何かの話のついでには種々《色々》な事を学ぶ事が出来ます。奥様はまた、いろいろな事を旦那様に質問なさるので私も|一しょ《一緒》に先生の説明をきく事が出来るのです。|二三日前《ニサンニチ前》には政治談をきかされました。細々《#コマゴマ》と政治の説明をされるのを奥様は生徒の様《#よう》に熱心に真面目に敬虔な態度できいていらっしゃいました。昨夜《=サクヤ》は書斎で先生と奥様と三人で十一時すぎまで思は《わ》ず話に時をうつしてしまひ《い》ました。それは宗教談でした。学問を修めた人の宗教心理とでも云ふ《う》のでせ《しょ》うか、ああいふ《う》えらい人の宗教談などをきくのは実際《実際/》いい事だと思って熱心に傾聴しました。奥様は重なる不幸にすっかり心《=ココロ》がひねくれて、その為神経衰弱だのといふ《う》病気を得たのですが、宗教にはいればきっとなほ《お》るだら《ろ》うと思って自分も進み、先生も勧めて、《:、》それに沢山今までに宗教家と交際する機会があったのだが、まだしっくりと得られないのですって‥‥。先生の宗教談には何だか私もスッカリ共鳴する事が出来ました。さ《そ》うふうな事で、昨夜《=サクヤ》はそれからそれへと為になる話ばっかりをききました。ふだんでも無駄な話など一つもありません。みんな私には学問の種《!タネ》です。直ぐ近くに本郷基督教会があると云ふ《う》ので四日の晩、行って見ましたら、会衆が十二人で、しかも二三人《=ニサンニン》をのぞくほかみんないねむりをしてるには驚き入りました。牧師さんのおはなしもまるでねむったい様《-よう》なおはなしで、東京にもああ云ふ《う》教会があるのかと驚かされました。沢山教会があるから、此れから、片端《片っ端》から出かけて見ようと思っています。  これから東京は梅雨には《=ハ》いるので、みんないやだいやだと云っています。私は梅雨はさ《そ》う恐くないけれども、梅雨のあとがおそろし《しゅ》う御座《ござ》います。二十日程《二十日ほど》も降《/降》りみ降らずみが続いて今度は大へんなんですって、暑くて暑くて、毎日の炎天つづきになるのださ《そ》うです。東京の暑さに幸恵《ユキエ》さんが持こたへ《え》るか何《ど》うか心配だなあ、と先生が心配していらっしゃいました。暑さは心臓を極度に衰弱させますから心配ですが、まだ当って見ずに危惧してもつまらないから、成行《=なりゆき》にまかせます。神様の聖旨のままに‥‥。|ほんとう《本当》に世にも不幸なのは身体の不健康で御座《ござ》います。何をするにも健康は資本になるのですから‥‥。そこに不安が伴ひ《い》不快が|伴ふ《伴のう》てあたりの人の為にも何《-ど》れだけ影響を及ぼすかわからないけれども、病《病’》もまた神様が何《=なに》か聖旨あって与へ《え》給ふ《う》ものでありませ《しょ》う。自分ばかりをたのむ慢心、不謙遜な人の心を挫くために|あたへ給ふ《与えたもう》た神様の鞭でありませ《しょ》う。そして神の愛にすがらせる神様のお導きでせ《しょ》う。だからせめては、かくなった弱い身も魂も神に任せて、そしてこれから私は安心をして喜びと感謝をもって人に接し、愛を持って人と交って、そして世渡りをしや《よ》うと思ひ《い》ます。自分の幸福ばかりを考えるから、悲観もあり、なやみもありますが、身をよそにして人のために最善をつくさ《そ》うと思へ《え》ば、何《=ナニ》も悲しみもなくなる、と思ひ《い》ます。此処へ来ていろいろな本《=ホン》をよんだり、先生のお話をきいたりして、私は何だか心《=ココロ》が軽くなった様《#よう》な気がするのです。今の私の心持をみんな書表《書き表》して御両親様によろこんでいただきたいけれども、何《ど》うしても出来ませんから、ただ私の心が今まで少し変ったと云ふ《う》事をよろこんで下さいませ。だから、これからはきっと悲観したりひねくれたり、不快な顔《=カオ》をしてお父様やお母様のみならず誰にでも不快な感情をあたへ《え》る様《#よう》な事は致しませんつもりで御座《ござ》います。  大へん長々とおしゃべりを致しました。また今度、何《=なに》か変った事があったら沢山書きます。羽織は夏が越せるか何《ど》うかを見てから申上《申し上》げます。  何卒お父様もお母様《母さま》もおからだをお大切になすって下さいませ。真志保から手紙を貰って一等賞をとった事をきいてよろこんでいますが、高央《タカナカ》からは何《=なん》のはなしもありません。達者でさへ《え》いれば手紙をよこさずともよろし《しゅ》う御座《ござ》います。忙しいのに、面倒臭《メンドくさ》いのに手紙を書かせるのはかは《わ》いさ《そ》うですから‥‥。敷生《シキウ》のおばさんには、前にたしかに絵葉書を出したのでしたが、何《ど》うしてとどかなかったでせ《しょ》う。今度は登別へ出しましたから、お渡し下さいませ。伯母さんに手紙《+便り》を出す事を私が何で忘れる事が出来ませ《しょ》う。有珠の姉さんにはまだ出さないでいます。郵便銭がなかなかですのに切手を下さいまして何もありがた《と》う御座《ござ》いました。  フチたちにも操《ミサホ》ちゃんにもよろしく。その他《タ》のみなさんによろしく。この間《=あいだ》、みなうならぺと浅江の夢を見ました。もう英語の時間ですから、これで筆をおきます。さよなら    九日|幸恵《ユキエ》より  愛する   御父上様   御母上様       御両所へ ◇。◇。◇。◇。◇。  知里高吉・波子《ナミコ》宛  大正十一年七|月四日付《月四日付け》(東京発信) ◇。◇。◇。◇。◇。  愛する御父様御母様《お父さまお母さま》、此《こ》の間《あいだ》はお手紙を誠にありがた《と》うございました。御両親様はじめフチ達も、皆々様お障りもなくいらせられます事は何よりも結構な事で御座《ござ》います。私もおかげ様《=さま》にて神様の御守護の許に無事暮していますから、御安心下さいませ。お手紙は一日《ツイタチ》にいただいたのですが、大変な出来事の為に、つひ《い》つひ《い》今日まで御無沙汰致しました。大へんな出来事と云ふ《う》のは二日の日曜日の大変事の事です。何《なん》でも朝十時頃でございました。お書斎で先生の御質問に応じていた時、春彦様はお友達と戸外で遊んでいらっしゃいました。ところが御門《ゴモン》の方《!ほう》からあは《わ》ただしく飛こんだそのお友達の子は、書斎の障子のかげで、《-》「|をぢ《おじ》さん! 春彦さんが井戸へ落っこちた!」と申しました。其《そ》の時先生は、ハアと云ふ《う》声もろともに、まるで|弾きかへ《弾き返》された様《=よう》に玄関から飛出《飛び出》しました。お座敷で赤ちゃんをあやしていらした奥様も大きな声を出したので赤ちゃんがワーッと泣き出しました。外《=ソト》は人声で耳もない様《よう》、私は何だか馬鹿になった様《#よう》な気がしました。外《=ソト》へ飛出すと家《=イエ》の前は人の黒山。先生が一目散に交番の方《!ほう》へ走っていらっしゃった後姿が見えました。その中《うち》、井戸の方《!ほう》では「スッカリつかまっていらっしゃい」といふ《う》声が耳には《=ハ》いったので、先づ《ず》それでは生きていらっしゃるかと少しほっとしました。巡査が来る、梯子が来る、もぢ《じ》ゃもぢ《じ》ゃ人が井戸のわきで|大さは《大騒》ぎ。人の中に三人かたまっている奥さんと女中さんと私の方《ほう》へふりむいて「梯子でなければ駄目だ! 金鎚《金槌》を持って!」と仰った先生のお顔の色はまるで草の葉の色|其《そ》のままでした。奥様は青ざめたお顔でただ、きっと唇をかみしめていらっしゃいました。かたづをのんで見ていた時、人をわけて出て来た屈強の若者の背には土色した顔《=カオ》に黒い瞳をみひらいた坊っちゃんの顔が見えました。着物は泥と血《血’》にまみれていました。男はそのまま病院へとかけ出しました。奥さんは赤ちゃんを女中さんに渡して後を追は《わ》れました。先生も‥‥。女中さんは着物をとりに帯《=オビ》をとりにと行《往》ったり来たり、私は赤ちゃんを抱《=だ》いたまま、とめどなく流れる涙を何《ど》うする事も出来ませんでした。近所の奥さんやおかみさんが飛こんだり、小僧どもがかけこんだりしました。その中《うち》、にこにこしてはいっていらしったのは此《こ》の前いらしった事の一度ある春彦様の伯父様《叔父様》(先生の弟様。博覧会見物にいらしった方《#かた》です)でした。ていねいにおじぎをしてさっさとはいってくるので春彦様がかくかくと話すると「おやっ! 僕はまた井戸の|掘かへ《掘変え》かと思った。春ちゃんの写真をとら《ろ》うと思って来たのに‥‥。」と青くなってかけ出す‥‥まるで夢の様《=よう》でした。やがてお帰りになった坊ちゃんは割に元気でいらっしゃいました。一日《イチニチ》、先生はつきっきりでお相手をなすっていらっしゃいました。あとできくと、頭にも数ヶ《=か》所の小さい傷がついて、がらすのかけらや何かが一ぱいはいっていたのですって。足には長さ二寸、深さ五分《ゴブ》くらいの傷がついて、六針《ロク針》とか七針縫《7針縫》ったのださ《そ》うです。昨夜《昨ヤ》医者へ先生と奥様がいらしった時、私もイセレマクシする為に赤ちゃんと|一しょ《一緒》にお供致しました。そしてその傷を見て|ほんとう《本当》に驚いたのでございました。  日曜の夜おそく、先生はふだん坊ちゃんの欲しい欲しいと言っていらしったハーモニカを買っていらしったので、昨日も今日もそれで退屈なしに楽しく暮していらっしゃいます。先生が学校へいらしったおるすには、私がお相手をしています。奥様はその当座はしっかりしていらっしゃいましたが、もとより御病身の事故、お気疲れが一度に出て今日はお床《トコ》にやすんでいらっしゃいます。夜になると坊ちゃんはうなされてうなされて、十二時頃までは、先生と奥様が両側から慰めたりさすったり撫でたりしていらっしゃるのです。その井戸は向ひ《かい》の家の脇にある古井戸で、ちょっと|のぞ《覗》いても気味《キミ》の悪い井戸です。二間《=二ケン》あまりの底の方《ほう》に泥や水があり、ごみと硝子《=ガラス》や罎《ビン》の破片が一ぱいはいっているのです。坊ちゃんが彼処へはいって助かったのはまったくの天祐で、大人でもあそこへはまったらたすかる事は九分九厘《クブクリン》までも望みのない事だと衆人が驚きあっています。  先生が飛んで行《#い》ってのぞいたら、何《=なん》だかに両手でつかまって上を見て「父さん!《-》」と言ったのですって‥‥。お友達と|一しょ《一緒》に蝶々を追っかけて下を見なかったので、腐れかけた井戸の蓋が何《ど》うかなって落っこちたのです。天才と云ってもいいほどの頭脳の所有者で、学校でも一番ばかり、級長をつとめている悧巧《利口》そうな黒《=クロ》い大きな目の持主です。|きゃしゃ《華奢》な|からだ《体》でおとなしいのですから、今までちっともか《こ》うした出来事が無かったのですって。それこそ一粒種の坊ちゃんですから、親御さんたちはそれこそサンベアットム◇ ヘセアットム◇ コテしている方《#かた》です。あの時の光景を思ひ《い》出すとぞっとします。先生や奥様のお顔の色を見ただけでもサンベヱンする様《#よう》です。  先ずこれだけにして、其《そ》の後土地《後/土地》の一件は如何《#いか》になりましてございますか。大丈夫と仰ったので安心していますが、一日も早く解決がつく様《#よう》に祈ります。|くは《詳》しく、おいそがしいのにお知らせ下さいましてありがた《と》うございました。先生にもスッカリおはなし申上《申し上》げたら、先生もたまげたりおこったり安心したりなさいました。|ほんとう《本当》に同情深いお方でいらっしゃいます。北海道からのお土産は、まったく来て見れば何もめづらしいものはありません。豆類が一番いいのです。私が持って来た小豆は|ずいぶん《随分’》喜ばれました。が、先生は日高のアイヌ等《など》と御懇意ですから、豆のある事ったら驚くほどです。それでもいいあんばいにそのなかでも私のもって来た豆と小豆が一ばんよかったのです。それにいれもの(袋《フクロ》)がきれいなのでなほ《お》さら‥‥。  それから日高の婆さんが椎茸を送ってよこすので、椎茸は年中絶やすことが無いのですって。東京では非常に高いものですって。豆や小豆などは、東京のは粒が小さくて皮がかたくでちっとも美味しくないのですって‥‥。だから秋になったら小豆でも少しでようございますから、きれいな美味しいのがありましたらお送り下さってもようございます。面倒《メンドウ》でしたら送らなくともよろし《しゅ》うございますの。それからアイヌ細工はさっぱり見当りませんので、先生は欲《=ほ》しくないのかも知れないと思っていたら、それはか《こ》ういう訳なんですって。外《他》の人はただ細工物を買ってそれで昔の生活状態を調べるのだが、先生は言語を調べる為なので細工物を買ふ《う》よりも、|難か《難》しくてそれにのみ熱中して細工物や宝物《=タカラモノ》の方《!ほう》を顧る余裕が無かったのださ《そ》うです。お金の都合も悪くて‥‥。そして気がついた時はもうおそくて、昔のままのものは無くなって今《/今》はただ和人《=ワジン》のこのみのために手拭掛だの下駄の様なものばかりになったので、何《ど》うする事も出来ないのですって。ただ記念にと言ってアイヌウタラに貰ったイクパシュイが十|何本《ナンホン》と、イナウルが一つとを持っていらっしゃるさ《そ》うです。学問の材料にはならなくても、アイヌカラペだといふ《う》ものはうれしくなつかしいから、よろこんで手拭掛などを一つ貰ったけれども、勿体なくて使は《わ》ずにしまってあるのださ《そ》うです。アイヌの惜しい彫刻の手際を、手拭かけなどに力《=チカラ》を費すのは勿体ない事だ、と仰っていらっしゃいました。何《=なん》だか、ニマだのといふ《う》アイヌの実用品の様なものが欲しい様な御様子《ご様子》でした。  お父様がおひまでしたら、何《=なに》かさ《そ》ういふ《う》様な物《=モノ》を一つつくって下さいませ。おひまはないのですから御《-ご》ゆっくりでようございませ《しょ》う。手拭かけでも箸でもぺらでもかしゅっぷでもチポンニマでもマキリの鞘でもきっとおよろこびなさいます。フチにもおねがひ《い》があります。ニペシの様なもので、タラでもムリ丶《リ》でもウトキアツでも拵へ《え》て送って下さいませ。それもゆっくりでようございます。カナウンタラでもアラシヌカタラでもようございます。フチのサラニプを大へん喜んでいらっしゃいます。  私は何不自由なく幸福に暮して居りますから、何卒私《何卒/私》の事は御心配《=ご心配》なく。充分御両親様、おからだをお|たいせつ《大切》にお働き下さる様《#よう》に祈ります。操《ミサホ》ちゃんによろしく。山の|ふち《フチ》、浜の|ふち《フチ》に沢山よろしく。  道雄さんの楽譜は何《ど》うしても無いので然う言ってやったら、それでは仕方ないから別な物《=モノ》を買って下さいと言ってよこしたので、発行所や売捌店がわかっているなら自分で御注文なさいと言ってやったら、《:、》返事にそれでは注文するから其《そ》の銭《=ぜに》は姉さん使って下さいと云ふ《う》ので、気の毒な、折角たのんでよこしたのに‥‥と思ったけれど、お金を送りかへ《え》してやりました。まさかお得意の「何《ど》うもありがた《と》うございます」も、とても言は《わ》れませんもの。北海道は大へん気候が悪いさ《そ》うでございますね。作物は如何《#いかが》ですか? たけのさんがお|たづ《訪》ね下さるとの事、それはおなつかし《しゅ》うございます。何卒おついでの時、よろしくお伝へ《え》下さいませ。お待していますと。たけのさんさへ《え》博覧会を見ないんですもの、私などまだ見ないのもあたりまへ《え》の事、此《こ》の分ならもう見られないかも知れません。私、外《=ソト》へ出る事は大|きらひ《嫌い》です。あんまり人がごちゃごちゃで息苦しい様《#よう》なんですもの。赤ちゃんと|一しょ《一緒》に朝か晩、散歩に出るのがたのしみです。ずっと後《あと》は駒込とかいふ《う》所でした。木が沢山茂っているので何だかおそろしい。高い所《=ところ》から眺めるのが好きで御座《ござ》います。いろいろなりっぱな家《=イエ》の垣根越しに種々《色々》な花が見られます。あぢさいが、それはそれはきれいです。ざくろの花は火の様《#よう》に真赤《真っ赤》なんです。此《こ》のお家《#ウチ》にもざくろが咲いています。梨の木だの楓だの、椰子でしたか棕梠でしたか、名《=な》は忘れましたが、おそろしく葉《/葉》の棒の様《#よう》に長いのがついた木があります。私が来た時に一尺ほどしかなかったダリヤが今では七尺ほど高くなって、もう直《-じ》きにお縁《#エン》の軒《ノキ》より高くなるのださ《そ》うです。真赤《真っ赤》な花が一輪咲いて大分《だいぶ》大きくなっていたのが、春彦さんのおけがの日《=ヒ》の強い風《=カゼ》で折れてしまひ《い》ました。先生は、かは《わ》いさ《そ》うに、坊やの身代りだ、なんて奥様と二人で愁然としていらっしゃいました。残りのが太い棒に結付けられてまだ花が咲きません。道雄さんの事を書いていた時、先生がいらしってしきりに何だか書いていらっしゃいましたが、それはまた服部内務部長へのお手紙なんです。此《こ》の間出《あいだ出》した手紙の返事もないので、また書いてやるんですって。然ういふ《う》事は、私事でないから是非ああいふ《う》人の耳に入《=い》れておかねばならぬのださ《そ》うです。ただ今七時頃でございます。御飯がすんでから書き出したのです。何《=なん》だか種々《色々》書か《こ》うと思ひ《い》ましたが、立ったり|すは《座》ったりして落付《落ち着き》が無かったので一向纏《一向’纏まり》のつかない手紙ですが、《:、》御両親様よろこんで読んで下さるだら《ろ》うと信じてニこニこして筆をとめます。ではこれで、さよなら。  皆々様の御健康《ご健康》を祈り上げます。  幸恵《ユキエ》より  愛する   御父上様   御母上様 ◇。◇。◇。◇。◇。 (以下二信)  高央《タカナカ》にまた出しましたが返事がないから、達者でいるのだら《ろ》うと思って、返事が無くても喜んでいます。もう試験で随分いそがしいのでせ《しょ》う。かは《わ》いさ《そ》うに夏休みも十日ぐらいしかないなんて。鶏《ニワトリ》さんふえておめでた《と》うございます。畑《ハタケ》もす《済》んでおめでた《と》うございます。三本白や囗《(ひと文字不明)》の赤ちゃんは如何《#いかが》ですか。今も畑《=ハタケ》の中を馬車を通されたりするのですか。何時土地《いつ土地》の事は解決がつくのでせ《しょ》う? 随分|腹立《腹立た》しい事でございますね。  伏根さんの息子、|ほんとう《本当》に惜しい事です。それをきいた時、何《なん》だかいろいろな事が思ひ《い》あは《わ》されて悲しくなって泣きました。これからは健康体が一ばん必要になりますのね。私は幸《幸い》に何も苦しい事は無いのです。暑いと言ったって然う|大さは《大騒》ぎする程の事もありませんから、決して御心配《=ご心配》下さいますな。梅雨のうちですから|無やみ《無闇》と蒸暑い事もありますが、何でもありません。梅雨がはれてほんとの暑さが来て、うんと暑かったら訴へ《え》出ますから‥‥。夕方になったら奥様も起きて、大分《だいぶ》お気分がおよろしい様《よう》です。私が朝晩赤ちゃんの守《-もり》をするのを何《な》んぼありがたがるんだか、昨日なんか涙をうかべていらっしゃるので、私恐縮《私’恐縮》してしまひ《い》ました。「少し悪い顔《=カオ》でもすればいいけれども、幸恵《ユキエ》さんいつもおんなじ顔していらっしゃる」と仰るので、その悪い顔《=カオ》をしようと思ったら、スッカリ忘れて今日また赤ちゃんと大笑ひ《い》して遊びました。一人遠《一人’遠》くはなれると、我|まま《儘》が無くなるから、かは《わ》ゆい子はたびに出せとは実《#ジツ》に理《#リ》であります。  高央《タカナカ》も真志保もきっとえらくなります。私、此《こ》の間《あいだ》夢を見たら、何《=なん》だかおそろしい、えらい人が二人来たので、此《こ》の家の玄関へ私が両手をついておじぎをしてから見たら、《:、》高央《タカナカ》が八髯をはやしてあごにも髯をはやして紺かすりの着物を着て、真志保はあのままの顔して運動シャツばかり着て扇子を持って|大いば《大威張》り。おや! といって立上《立ち上が》ったら目をさまして、ざんねんでした。今度こそ左様なら。 ◇。◇。◇。◇。◇。  知里高吉・波子《ナミコ》宛  大正十一年七月十七日付(東京発信) ◇。◇。◇。◇。◇。  愛する御父様と御母様《お母さま》、お手紙を誠にありがたく頂戴致しました。御両親様|御壮健《ご壮健》のよし、何《なに》より嬉し《しゅ》うございます。浜のフチや山のフチの御不快《ご不快》、其《そ》の後如何《#後いかが》でございますか。浜のフチは道雄さんの帰省でスッカリ癒《治》ってしまったと昨日《昨日’》道雄さんから便りがありましたが、山のフチは何《ど》うかとお案じ致して居ります。あんまり根《コン》づめて仕事をするから、また肩が痛くなったでせ《しょ》う。  幸《幸い》に坊ちゃんのおけがは大した事もなく、もう追々と快方に向ひ《かい》ました。一昨日あたりから草履をはいて外《=ソト》をあるく事を許されて大|よろこ《喜》び、暇さへ《え》あれば戸外へ出て虫とりをしていらっしゃいます。此《こ》の程傷口《程/傷口》を縫った糸も抜きました。坊ちゃんは傷まけをしないのでまったくよかったのです。私も相変らず白くない顔《=カオ》してイヱウタンネして坊ちゃんのお相手してお伽噺の本《=ホン》を読んだり、絵本のページを繰ったりして楽しく暮していますから御安心下さいませ。大分《だいぶ》暑くなって風呂は家《=イエ》でわかす様《よう》になり、毎日沐浴する事が出来る様《#よう》になりましたので、毎晩好《毎晩い》い気持《気持ち》で寝《-ね》られます。  昨日、先生の弟さんが突然《突然’》見えて、昨夜《=サクヤ》は大賑《オオ賑》やか、今しがたお帰りになりました。これで先生の弟さんは三人にお目にかかったのです。御兄弟は十二人で先生が御長男《ご長男》ですって。先生の姉さんが養子を迎へ《え》て家《=イエ》を相続していらっしゃるんですって。  弟さんたちは何《+ど》の方も何《+ど》の方もやっぱり先生に似て感情の温《ぬる》い方の様《#よう》に見受けました。昨夜《=サクヤ》は其《そ》のお客様でお座敷がせまくなり、奥様が私の蚊帳の中へお|はい《入》りになりました。蚊帳を吊る様《#よう》になってから、私はお書斎に寝ています。電気を消して寝るので気楽に眠る事が出来ます。  伏根さんの息子さんは、とうとうなくなったさ《そ》うでございますね。|ほんとう《本当》に惜しい事でした。伏根さんの悲《悲しみ》も思《思い》やられます。まさか息子を殺さ《そ》うと思って勉強させた訳《#ワケ》でもなかったんですから。栗山さんも心臓病になったさ《そ》うですが、気の毒な事です。  まったく病気ほど困る事はありませんね。皇太子殿下行啓《皇太子殿下’行啓》で北海道は随分|賑《にぎや》かなさ《そ》うですが、お父様やお母様も拝奉《拝し奉》りましたでせ《しょ》う? 温泉へ行啓あそバ《ば》されましたでせ《しょ》うか。  東京はこれと云って変った事もございませんので、手紙の種《#タネ》がありません。ただ毎日お天気が続くばかりです。  此《こ》の間《あいだ》(おはなししたかも知れませんが)岡村千秋さんと云ふ《う》方にお目にかかりました。写真屋同道、私の写真を撮って行きましたが、少々面喰ひ《らい》ました。  嘸《さぞ》かし立派に撮れた事と思っています。  私の炉辺叢書はまだ出来ません。肝腎の渋沢法学士が御結婚の為に少々延びたのださ《そ》うです。主宰者柳田国雄さんは只今洋行中なのださ《そ》うです。  此《こ》の頃《=コロ》は暑いので、家《=イエ》の奥様、頭が大へんお悪いのでお気の毒でなりません。  先生が、お父様から手紙を貰ったと仰って喜んでいらっしゃいました。  高央《タカナカ》さんは相変らず、音沙汰はありません。真志保の漫画はかかさず訪れます。  此《こ》の頃《=コロ》、夜飛行機《夜/飛行機》が飛ぶので随分|賑《にぎや》かです。奥様と坊《=ぼっ》ちゃん《ん-》と夕涼《夕涼み》に出ては見物《#ケンブツ》しています。高いお空《=ソラ》を赤や青のあかりをつけて飛ぶのです。昨夜《昨ヤ》などは飛行機で花火をあげた、いいえ花火を下げたのかも知れません。隈なく晴れた夕空に二《2》つ三《3》つ星《ホシ》がまたたいて《て-》いる時《とき》、ズドンと微かな音とともに、星《=ホシ》ともまがふ金色《=キンイロ》の玉《=タマ》がパッとあらは《わ》れて、《:、》アッと思ふ《う》暇も無くそれがパーッと砕けて赤く青く太陽のや《よ》うに天空を照したかと思ふ《う》と、一時にスッと消えてしまふ《う》美しさは何とも云は《わ》れません。  飛行機でなくても此《こ》の頃《=コロ》はよく花火があがります。上野の方《!ほう》であ《上》がるのださ《そ》うです。昼は暑い|かは《代わ》りに、夜《=ヨル》はか《こ》うしたたのしみがあるのです。此処は場所のいい割に静かで、近所に工場もありませんから煤煙で空気がよごれる事はありません。  それに大学には樹木が沢山ありますから、鳥の影さへ《え》見られます。夕方赤《夕方/赤》ちゃんを抱《=だ》っこして大学の銀杏《イチョウ》の木《=き》の下《-した》のベンチに腰をかけていると、何《=なん》だかペナイサキペナイかをカチペにいた時の事が思出《思い出》されます。  今はもう十一時頃で、手紙を書いていると汗がダクダク流れて来ます。まだ八十|四五度《シゴ度》で、大した暑さでもありません。  今日《=キョウ》は失礼してこれだけに致します。何《ど》うぞよろしく、浜のフチにもみなさんにお伝へ《え》下さいませ。山のフチ、成るべく肩をやすめる様《#よう》におはなし下さいませ。みっちゃんは大へん可愛らしい、おとなしいいい子になったさ《そ》うで姉さん大|よろこ《喜》びです。何卒よろしく。さよなら   御父上様   御母上様       御もとに ◇。◇。◇。◇。◇。  知里高吉・波子《ナミコ》宛  大正十一年八|月一日付《月一日付け》(東京発信) ◇。◇。◇。◇。◇。 (書き出し数行分欠落《スウギョウブン/欠落》)  真志保も帰省のよし、当人は勿論の事、|ふち《フチ》たちや御両親様の御喜悦如何《御喜悦いか》ばかりかと、遥々推察致し、独りほほえみを禁じ得ません。高央《タカナカ》、真志保、操《ミサホ》と揃ふ《う》ときは、何《ど》んなに面白くたのしい日を御両親様がお持ちなさるかと、私もまた我家《我が家》にあるが如き思ひ《い》で日を送っています。  寺内《=テラウチ》さんはまあ何《-なん》て不幸が続くんでせ《しょ》う。あんなに楽しんでいた息子さんが死んだんですって。チマビルさんも|かはい想《可哀想》に。旭川でも、あの丈夫さ《そ》うなちっとも死にさ《そ》うな顔《=カオ》もしていなかった子供が死んだと聞いて、人生の無常をつくづく感じさせられました。弱い何も出来ない様《#よう》な私が生残って、ピンピンとした人々がさっさと召されてゆく所を見ると、人は強いから長生《長生き》するとハ《は》限らないものだと思ひ《い》ました。弱い何もならない様《#よう》に見えるものも必ず何か使命を持っていて、此《こ》の世に為すべき事があるからこそ、神が生かしておきなさるのでありませ《しょ》う。  当地には奥様のお姉様が一人いらっしゃいます。もう一人姉《一人’姉》さんが門司にいらっしゃると聞いています。東京にいらっしゃる姉様に娘《=ムスメ》が三人あって、上《ウエ》の人たちは嫁いで、末の娘《=ムスメ》が家《=イエ》を継いで、今年の春お婿さんを取ったんださ《そ》うです。その娘《=ムスメ》さんが先月十三日にいらして、私もお目にかかりました。それはそれはお人形さんの様な美しいところへ、そのやさしいことと来たら話にもならないほどで、《:、》奥様などと呼ぶにはあまりに痛ましい様《#よう》な、今年二十歳《今年ハタチ》だと云ひ《い》ますが十六七《十六’七》にしか見えないお嬢様でありました。先生がお不在でしたから、奥様と坊《=ぼっ》ちゃん《ん-》と私と四人でお昼を食べてしばらく遊んで帰られました。  ところが二十六日の朝、私はお書斎に一人で寝て朝はいつも早く起きて一人で勉強するのが常ですから、其《そ》の日も朝四時半頃本《朝’四時半頃’本》を読んでいたら、《:、》御門《ゴモン》の方《!ほう》であは《わ》ただしい足音がしたかと思ふ《う》と、錠のかかっている門をトントンと叩いて、金田一さん金田一さんと呼ぶのは女の声、《:、》誰も起きていないので私がハーイと答へ《え》て飛出《飛び出》して門を開《=あ》けると、みいちゃん(前の娘《=ムスメ》さん)の姉さんの大きい方《#ほう》でした。息を|はづ《弾》ませながら先生をよんでくれと仰るので御座《ござ》敷へ飛んで行《#い》ったら、先生も奥様も寝衣《寝巻》のまま飛出《飛び出》したので、奥様のお尻へくっついて私も行《#い》ってきいたら、その姉さん息がつまって物も云へ《え》ないので、奥様が水を上げるとやっと息づいて、《:、》『実《じつ》はみつが昨夜《=サクヤ》とんだ事になりまして‥‥あの汽車で自殺をしてしまひ《い》ました』といふ《う》のです。みんなでびっくり、奥様が泣くので私もつひ《い》泣いてしまひ《い》ました。其《そ》の日は一日《イチニチ》、赤ちゃんを|あづ《預》けられて先生も奥様もお出かけなさいました。坊ちゃんの全快祝ひ《い》のおこは《わ》を食べながらお|るすい《留守居》してつくづく思ひ《い》ました。人の命ほど果敢《=ハカ》ないものはない、と。  みいちゃんは日頃、神経衰弱にかかっていられたのださ《そ》うです。お父様がいらした時分は|大そう《大層》楽に暮していたのですが、な《亡》くなられてからお母様とたった二人で、お父様の残した六千円だかのお金の利子で暮していたのださ《そ》うです。月に二十五円ほどなのださ《そ》うです。折柄《折から》の物価騰貴の為、随分苦労して人の仕事などしながら今日《-こんにち》に及んだのですが、お婿さんをとれば少し楽になるかも知れないといふ《う》のでこんどのおむこさんが来たのですって。そのお婿さんはまた非常にいい人で、みいちゃんとは大変仲がよかったんですが、非常な交際家でお客が沢山来るので、お金が費って費ってお母様はいそがしくていそがしくて目が|まは《回》りさ《そ》うなんださ《そ》うです。  それでその母様《母さま》が愚痴ばかりならべるし、財政上にもいつも不足《フソク》を来すので、非常に困難になっていたのですって。そしたら旦那様が此《こ》の程、富士の裾野の方《!ほう》へ出張を命ぜられて出かけたるすに、《:、》今度旦那様が帰ってから海水浴に行く約束だから其《そ》の時の着物にと買っていただいた着物を明日縫ひ《い》ませ《しょ》うなどと母と語って、一寸涼《ちょっと涼》みに出かけようと出て行《=い》ったらそれっきり帰らないのですって。お隣りの人と話をしていたお母様《母さま》は、心配になったので探しに行《#い》ったら、人がわやわや通るので何かあったのですかときいたら、《:、》汽車にひかれた人があるのだといふ《う》のでびっくりして何《-ど》んな人かときいたら、十七八《ジュウシチハチ》のお嬢さんで、着物は斯々《-これこれ》、帯《=オビ》は斯様《-こんな》と教へ《え》てくれたのが娘《=ムスメ》の服装とちっとも変らないので腰を抜かしてしまったのださ《そ》うです。  みいちゃんの屍体は其《そ》のまま拾は《わ》れて棺桶に入《-い》れられましたが、明けて見た人は一人もなく、宅の金田一先生お一人《=ヒトリ》ださ《そ》うです。あの美しかったみいちゃんが、すっかりめちゃくちゃになっていたさ《そ》うです。神経衰弱にかかっていたので、ちょっと気がふれたのだといふ《う》話でした。そんな事があったので奥様はまた頭が悪くおなりでしたが、此《こ》の二三日《=ニサンニチ》また元気におなりです。二十五日の昼食後、直ちに私は坊《=ぼっ》ちゃん《ん-》と一緒に先生に連れられて博覧会見物に出かけました。電車に乗って何処を|まは《回》ってか、第一会場へ行って見たのですが、ただもう《う/》ごちゃごちゃ目の|まは《回》る様《#よう》にならべられて、札幌の開道博覧会と別に変りはありませんでした。  二度も三度も氷を飲んだりいろいろな物《=モノ》を御馳走になりました。南洋人の歌劇は面白うございました。黒い人がやるのですから面黒いのかも知れません。南洋人の子供は|ほんとう《本当》にかは《わ》いらしいのです。アイヌによく似ています。  つひ《い》でに第二会場も見ませ《しょ》うと言って出かけて行《=い》ったら、九時までだからもう七分しかないと云ふ《う》ので見ずに帰りましたが、第二会場の夜景は実《#ジツ》に見事なものでした。今度帰ったらいろいろおはなし致しませ《しょ》う。帰りには奥様のお好きなドーナツを土産に、坊《=ぼっ》ちゃん《ん-》と私は絵葉書を二組《フタクミ》づつ買って戴きました。  博覧会見物で私の心に残ってる印象は、南洋人と其《そ》の言葉の面白かった事、噴水の傍《ソバ》の涼しかった事、赤、青、紫黄《紫/黄》の電気の色で噴水の美しかった事、《:、》熱帯植物だの、一本参百円なんて札《フダ》のついた二尺|五寸位《五寸くらい》の松の植木だの、美術館の二等だったかの囗賞付《賞付》の豚の絵、《:、》それから大道《オオミチ》で田舎の婆さんらしいのが自働車が疾走して来《#く》るのにわきへよけずに、自働車が婆さんを避《=さ》けようとするのに其《そ》の行手《行く手》へ走りよるので、みんなでわいわい騒いだ時の婆さんの|あは《慌》てた顔《=カオ》、《:、》休息した時のサイダーといちご氷とハムライスとかいふ《う》西洋料理の美味しかった事、《:、》しのばず池の夜《=ヨル》の景、会場の種々《色々》な色《=イロ》の電燈《電灯》とお空《ソラ》の星《=ホシ》がうつって、それが小波にゆらゆらとくだけるさま、底暗い青空にぬっくと聳える平和塔の雄大さ、《:、》人がまるで黒山が動く様《#よう》にうぢ《じ》ゃうぢ《じ》ゃいた事、暑かった事、文化村の家の小じんまりして気持《気持ち》のよかった事。思出《思い出》すままに書けばまだまだありますが、先づ《ず》これだけぐらいにしておいて、今度おはなし致しませ《しょ》う。  日常生活は相変らずで、先生は暑中休暇中に聖典集を書上《書き上げ》るとかで忙しく勉強していらっしゃいます。その御相談《ご相談》相手で毎日アイヌ語の講釈見たいなことをしています。  奥様からたのまれて綿入れを縫っていますが、昼二時頃になると奥様と|むかひ《向かい》あったまま仕事枕にぐっすり寝て、大概一時間半ぐらいは昼寝をします。夜になるとマッサージの先生が来て、奥様がその療治をうけていらっしゃいます。信者の人です。夜寝《夜’寝》るのは大概九時半から十時頃までで、お書斎で蚊帳の中で一人で寝るので、起きるも寝るも自由で|大そう《大層》気楽でございます。眼をさますと直ぐに起きてそっと雨戸をあけると、清々《=スガスガ》しい朝の涼気が熱い頬《ホオ》をそっと撫でてゆき、《:、》おいらん草《=ソウ》だの朝顔だの|日まはり《向日葵》だの鳳仙花だのが美しく咲揃《咲き揃》って、中《=ナカ》にも月見草がやさしくほほえんでいるのを見る事が一ばんうれしう《ゅう》ございます。今夜も輪のかかった朧月夜で暗い晩でございますが、月見草が闇のうちから|ほの白《ホノジロ》う咲出《咲き出》でて、故里のさまを思起《思い起》させます。  時々《ときどき》夕立の来ることがありますが、それはそれは気持《気持ち》のいいもので、一日の暑さがすっかり拭ひ《い》去られてすっかり生き|かへ《返》った様《#よう》な気持《気持ち》になります。毎夕家《毎夕’家》で風呂がた《-た》ちますので、一日の汗をすっかり洗ひ《い》流すことが出来ていい気持《気持ち》です。  ダリヤはもう八尺以上のびました。真赤《真っ赤》な大輪《タイリン》が二つほど咲いています。風に折れなかったらもうちと背丈《+セイ》がのびて、花も沢山咲くでせ《しょ》うに‥‥と奥様が仰っていらっしゃいました。お庭が広いので春彦さんは毎朝虫とりをなさいます。びんの中へ水を入《=い》れて蠅《/蠅》だの玉むしだの|へん《変》な昆虫を一ぱいあつめては私のところへ持って来るので、相手になって|大さは《大騒》ぎして遊んでいます。ハーモニカを吹いたり本《=ホン》を読んだりしてよくお相手をするので、幸恵《ユキエ》が好きだと云っています。  英語は毎晩かかさず教は《わ》っています。ねむくなるので此《こ》の頃《=コロ》は一課づつです。此《こ》の程小さいのと大きいのと英語の辞引を二冊先生に戴きました。  か《こ》うしていつもわだかまりのない心《=ココロ》で誠心を持《持ち》つづけて、おだやかにつつしんでいる様《#よう》に修養していますから、先生も奥様も|大そう《大層》よく|かはい《可愛》がって下さいます。赤ちゃんは若葉さんといふ《う》名前で、此《こ》の頃メッキリ大きくなってコロコロ肥っています。まんまる坊主になって戸外へばかり出たがるので、家中《家じゅう》の人が交《代わ》る交《+がわ》る抱《=だ》っこして出るので真黒くなって、外《=ソト》で会ふ《う》人は誰も女の子だといふ《う》人はありません。  御両親様は皇太子殿下を拝し奉ったとの御事、おめでた《と》う存じます。私ハ《は》東京にいても皇族様もまだ拝しません。まだまだ書けば明日まででも書けますけれども、郵便切手ばかり沢山要りますからこれだけに致します。ああそれから五六日《ゴロクニチ》前に先生から五円お小費《小遣》をいただきましたのでお銭《=アシ》に苦労する事はありませんから、《:、》いかさきだの其《そ》の他の収入は何卒弟たちの学費に充てて下さいませ。私の事は決して御心配《=ご心配》下さいますな。  夜の事でもありますし、思出《思い出》すままに書《書き》つらねますので|ずいぶん《随分’》文字が存在《-ぞんざい》になりまして申訳《申し訳》がございません。どうぞ我慢して読んで下さいませ。またおひまの節《セツ》は我|まま《儘》ながらお手紙をおねがひ《い》申上《申し上》げます。登別も|ずいぶん《随分》お暑いよし、皆様《皆様/》お自愛専一《自愛センイツ》に。高央《タカナカ》は二日か三日に帰って何日ぐらいおやすみですか? 高央《タカナカ》、真志保、操《ミサホ》、お腹を冷したり悪くしたり川《/川》へ落っこちたりしない様《#よう》に祈ります。山の|ふち《フチ》もあまり稼いでまた骨《’骨》だのあちこち痛くしない様《#よう》に。浜の|ふち《フチ》にもよろしく。|ふち《フチ》たちが仲よく遊ぶ様《=よう》に祈っています。  その他《タ》の皆々様に宜敷《宜しく》。ではこれで失礼致します。また此《こ》の次に沢山書きませ《しょ》う。東京に独り居りましてもちっとも淋しくはありません。身を神に任せて我家《我が家》のため、人の為祈るほど幸福な気持《気持ち》はありません。さよなら、おやすみなさいませ。  フチたち、高央《タカナカ》、真志保、操《ミサホ》によろしく。  有珠の姉さん何《/ど》うしたでせ《しょ》う。   愛する御父様《お父さま》   愛する御母様《お母さま》    八月一日夜十一時十五分|書終《/書終》る ◇。◇。◇。◇。◇。  知里高吉・波子《ナミコ》宛  大正十一年九|月四日付《月四日付け》(東京発信) ◇。◇。◇。◇。◇。  先達は御手紙をありがた《と》う存じました。皆々様お変りも無く御消光のよし、嬉しく嬉しく感謝致しています。  長い夏休みも夢の間《マ》にすぎて、愛する児等《子等》がまた散々に学びの庭へ帰って行《#い》ったあとは嘸《-さぞ》お淋しくいらっしゃいませ《しょ》う。真志保は鉄道故障の為帰《ため帰》りが遅れたとの事ですが、今はもう無事に旭川で勉強しているのでせ《しょ》うね。  直ぐに御返事《お返事》も差上《差し上》げず、定めし御心配《=ご心配》下さいました事でせ《しょ》う。またお怒《いか》りになったかも知れません。ちょうど一週間ほど御無沙汰致しました。何時も病気々々《病気病気》で腑甲斐ないことでございますが、この前の御手紙は二十八日、病床の中で拝見致しました。ちょうど其《そ》の日《=ヒ》の明方から苦しみはじめて、御飯も食べずに寝ていましたので。まったくひどい目にあひ《い》ました。胃が悪くなったのです。八|月《月’》はじめの病気がなほ《お》って少し涼しくなると、大層御飯がおいしくて何時も沢山食べていました。沢山といった所《ところ》で二膳づつなんです。山盛の事もありましたからまあ二膳三分の一位《一くらい》なものでした。そして、悪くなる三四日前《サン四日前》から少し通じがなくて、お腹が張っていましたが、《:、》二十七日の晩奥様《晩/奥様》が馬鈴薯を煮たので珍しくて一皿食《ヒトサラ食》べたらそれが胃袋のなかであばれたのでせ《しょ》う、よあけ頃から胃部が痛くて、其《そ》の為か左右の胸から背骨のあたりから背中一ぱい錐で揉まれる様《#よう》な痛みを感じて、《:、》縦になっても横になっても仰向けになっても腹這ひ《い》になっても立っても|すは《座》ってもいられないで息もつけない様《#よう》な苦しみをしました。が、奥様はよくねむっていらっしゃるので成《な》るべく音をたてない様《#よう》にしていたら、《:、》二時頃からはじまったのが四時頃になってだんだんよくなって、四時半には起きてお書斎へ来て|すは《座》っていた時はよほど落《落ち》ついた様《=よう》でした。先生は二十五日の夜十一時発で盛岡へいらして、二十八日の朝七時頃お帰りになりました。其《そ》の日一日《日イチニチ》は床《=トコ》の上でね《寝》たり|すは《座》ったり、息つくたびに胸を刺される思ひ《い》をつづけましたが、翌日は大層よくなりました。先生が大学病院の坂口博士の所へわざわざお出かけ下さいましたが、お不在だったさ《そ》うです。  そしたら三十日だったでせ《しょ》う、朝五時頃今度は心臓があばれて息が出来なくなり、奥さんは医者よびに、女中さんは氷買ひ《い》に、《:、》先生は水で冷したり水をのませて下すったり、坊ちゃんはさすって下すったり家中《家じゅう》で手当して下さいました。おかげで五|分位《分くらい》で動悸が静まりました。岡村とか岡崎とかいふ《う》医者が来て診察して下さいました。あの頃《=コロ》は随分暑かったのでたいへん胃の弱る時で、丈夫な人でも平常と同じ程食をとると胃《/胃》が悪くなるんださ《そ》うです。それだのに心臓が悪いんですから、少し胃がふくれると直ぐに影響するのださ《そ》うです。私もすっかり参ってしまって三日ばかり絶食同様、一日牛乳を半茶碗ぐらいづつ飲んで消化薬をお医者さんから貰って飲んでいましたが、《:、》もう一昨日あたりからすっかりよくなって起きていてもいいんですが用心《/用心》して昨日まで寝ていました。今日《=キョウ》はもう起きています。三十日に悪くなったのは前の日にたいへんよかったのでお粥を茶碗に八分目ぐらいと卵を食べたら、それが悪かったのでした。あの時に用心して何も食べなければよかったのです。|かはいそう《可哀想》に胃吉《/胃きち》さんが暑さに弱ってる所へ毎日々々《毎日毎日》つめこまれるし、腸吉《腸きち》さんも倉に一ぱい物《=モノ》がたまって毒瓦斯が発生するし、《:、》しんぞうさんは両方からおされるので夜もひるも苦しがってもがいていたのが、やりきれなくて、死物狂ひ《い》にあばれ出したものと見えます。まあまあそれでもこんなによくなって感謝の至りでございます。自分の病気の事ばかり長々と書連《書き連》ねまして誠に相《=あい》すみません。私も折角の機会ですから、これを逸せずもう暫く止《=と》まって一年か二年何か習得して帰りたいことは山程で、今頃病気だなどとおめおめ帰るは、涙する程かなし《しゅ》うございます。然し御両親様、神様は私に何を為させや《よ》うとして此《こ》の病を与へ《え》給ふ《う》たのでせ《しょ》う。私はつくづく思ひ《い》ます。私の罪深い故か、すべての哀楽喜怒愛慾を超脱し得《=え》る死! それさへ《え》思出《思い出》るんですが、神様は此《こ》の罪の負傷《+痛手》深い病弱の私にも何事か為させや《よ》うとして|居給ふ《居たもう》のであら《ろ》うと思へ《え》ば感謝して日を送っています。  今一度幼い子にかへ《え》って、御両親様のお膝元へ帰りた《と》うございます。そして、しんみりと私が何《=ナニ》を為すべきかを思ひ《い》、御両親様の御示教を仰ぎたく存じます。半年か一年ほど‥‥。旭川のおっかさんは許してくれる筈です。  今月の二十五日に立つことに先生や奥様と決めました。あまり早過ぎるでせ《しょ》うか。やはり室蘭廻りがよから《ろ》うと先生のおはなしでございました。それまでに一度大学病院へ先生が連《=つ》れて行《=い》って下さることになっています。そして坂口博士に診て戴いて、今後の養生法など仔細に承ることになっています。坊ちゃんは一日《ツイタチ》から学校、先生も今日は実践女学校の方《!ほう》へお出かけになるさ《そ》うです。赤ちゃんも今日はいいかと思へ《え》ばまたうんこが|やは《柔》らかくなったと奥様の心配の種《タネ》になっています。それでも此《こ》の頃《=コロ》は大変丈夫になった様《=よう》です。奥さんは、先生が御帰省中私《ご帰省中/私》が先生の代《代わ》りやくで夜赤ちゃんの世話をしましたので、安心してよくねむれ、頭も少しよくなったのですが、此《こ》の頃《=コロ》またあまりよくない様《=よう》です。何《なん》でも赤ちゃんの泣声《泣き声》をきくとかっとなって死にたくなるさ《そ》うです。頭の痛い原因には私もはいっていることと恐縮しています。少しいい時は非常に御きげんがよくて、何《ど》うして|かんしゃくも《癇癪持》ちなんだら《ろ》うって|くや《悔》しがるし、いろいろな、修養に関する意見も立派なものですが、《:、》さあ悪い時は、ただ死にたくなって|かんしゃく《癇癪》が起きておこりたくて堪らないんださ《そ》うです。神経衰弱《神経衰弱’》って随分おそろしい病気だと思って見ています。先生はまた気の長いったらたまげる程です。それでも先生も奥様も今まで同居した人で私ほど気の長い人はなかったと言っていらっしゃいます。私は何《=ナニ》も腹の立つ事などありませんが、病気で寝ている時はただ気の毒で気の毒で堪らないんです。赤ちゃんが泣いても抱《-だ》く事も出来ないし、奥さんは一人で気を揉んで泣きさ《そ》うになっているし、女中さんは洗濯、先生は勉強にいそがしいし、私|一人寝《一人’寝》ていてお粥を煮て貰ふ《う》んですもの。でももうよくなりましたから大丈夫です。  今日《=キョウ》は何を書いたかわかりませんが、|ずいぶん《随分》ぞんざいで誠に相《=あい》すみませんでございました。では二十五日に帰りますから、よろしくおねがひ《い》致します。そして汽車賃は旭川のおっかさんが送ってくれるはずですから、何卒柳行李と弁当料だけ御都合の時に御恵与の程おねがひ《い》申上《申し上》げます。これからも度々こんな風《ふう》にからだが悪くなっちゃ、とても気兼々々《気兼気兼》で、私の|弱むし《弱虫》は困りますから成るべく御迷惑かけないうちに帰りたいと思ふ《う》のです。旅の途中などは大丈夫です。船《=フネ》にも汽車にも酔ひ《い》ませんから‥‥。  随分秋らしい気分になりました。夜はよすがら虫の音《=オト》が哀れにももれて参ります。先生は、夏休みの中《うち》に書上《書き上》げる筈のオイナがまだ半分しか出来ないので、こんどは学校と其方《-そのほう》で転てこ舞です。坊ちゃんは私が帰るといふ《う》ので、毎日の様《#よう》にお書斎へ来て、花の種《タネ》だの南京玉だのかたみに上げるって|大さは《大騒》ぎ、《:、》奥さんは、先生が盛岡から持っていらした|まんぢゅう《饅頭》だの|ようかん《羊羹》だの私と|一しょ《一緒》に食べや《よ》うと思って毎日待っているんですって。今度私がなほ《お》ったらお汁粉の御馳走が出来るさ《そ》うです。来年またいらっしゃいって、此《こ》の前奥さんと二人で、別れる話をして、奥さんも泣いて下さいました。  私の心臓さへ《え》よくて、奥様の頭さへ《え》よければ、毎日たのしくたのしく暮せるんだなんて、同病相|あは《哀》れむのたとへ《え》、私たちも、しみじみ話をしたのでした。そして、《-》「ほんとにごめんなさい、私さへ《え》頭がよければ貴女《貴方》に何も心配させたり、気兼させたりすることはないのに、《:、》何《なん》の面白いこともなくお帰《かえ》しするのはほんとに苦しい」と仰《仰言》いました。先生や奥様のおはなしでは、大学の方《!ほう》からアイヌ研究の補助金が出るんださ《そ》うです。今年出るはずのが、出なかったから来年とかは必ず出るんださ《そ》うで、さ《そ》うなれば、私を呼んで、生花《生け花》でも何《#ナニ》か好きなものを習は《わ》せるとの事です。本当は今年出来ると思っていたのが出来なかったのだと残念がっていらっしゃいました。まあまあ種々《色々》なことはあとで帰ってからゆるゆるお話致しませ《しょ》う。とにかく二十五日に帰ります。  旭川からは、十五日に金《-かね》を送るとの事ですが、私柳行李《私/柳行李》が一つ欲しいから、我儘勝手で相《=あい》すみませんが、何卒出来たらばその前に柳行李代だけ御送り下さいます様お|ねがひ《願い》申上《申し上》げます。先生からお餞別をも《/も》しいただいたら書物でも買って帰ります。涼しくなって、食が進む時はとかく胃腸を悪くしやすい時ださ《そ》うですから、皆々様お|たいせつ《大切》に。操《ミサホ》ちゃんによろしく。フチたちにも沢山よろしく。道雄さんかは《わ》いさ《そ》うに、私の所へも私が病気の最中《=サイチュウ》手紙が来て入院してると云って来ました。まったく困ったものですね。病気になるんなら、ほかの若いピンピンした人たちの病気がみんな私のところへ集《集ま》って来て、その代《=かわ》り誰も病気しないんなら何《-ど》んなに嬉しいでせ《しょ》う。彼の人にもまだ見舞状を出しませんが嘸《-さぞ》うらんでいるでせ《しょ》う。では、これで失礼致します。さよなら  幸恵《ユキエ》より  愛する   御父上様   御母上様 ◇。◇。◇。◇。◇。  知里高吉・波子《ナミコ》宛  大正十一年九月十四日付(東京発信) ◇。◇。◇。◇。◇。  愛する御両親様、おいそがしいなかをお手紙を下さいまして誠にありがとう存じました。また沢山のお銭《=アシ》をお送り下さいまして何ともお礼の申上《申し上》げや《よ》うも御座《ござ》いません。|ほんとう《本当》に御都合の悪い所をおねがひ《い》申上《申し上》げまして|ほんとう《本当》にありがた《と》うございました。二十五日に帰る予定でしたが、お医者さんがもう少しと仰ったので十月の十日に立つことに致しました。めづらしくよほどやせましたので、すっかり恢復してから帰ります。でも此《こ》の頃《=コロ》は大方もとの|とほ《通》りのふとっちょになりました。まだあとざっと一月《ヒトツキ》もあります。坊ちゃんが大|よろこ《喜》びしています。私のカムイカラの本《=ホン》も直《-じ》きに出来るようです。昨日《昨日’》渋沢子爵のお孫さんがわざわざその原稿を持って来て下さいまして、誤りをなほ《お》してもうこんど岡村さんといふ《う》所へ|まは《回》って、それから印刷所へ|まは《回》るさ《そ》うです。渋沢さんは、先生と私をお邸《屋敷》へ招待して下さる筈になっていたのが、今度急にロンドンへ在勤を命じられたとかで暇がなくなったんださ《そ》うです。りっぱな方《#かた》でした。  坊ちゃんは毒むしにさされて、チンチンの先がピセみたいになって医者へ行ったりして、二日休学。今日《=キョウ》はすっかりなほ《お》って学校へ元気で行《#い》っていらっしゃいました。赤ちゃんはお丈夫、奥さんは、相変らずよくなったり悪くなったり、ごきげんになったりごきげん不良になったり。先生は忙しく学校通ひ《い》。私は奥さんのお裁縫を手伝ったり、先生のアイヌ語のお相手になったり、ユカラを書いたり、気ままな事をしています。  一番坊ちゃんのお相手と赤ちゃんのおもりが多いや《よ》うです。赤ちゃんは此《こ》の頃ふとってたいへん重くなりました。  兼松さん御死去のよし、お気の毒ですね。とうとうな《亡》くなられたんですね。さぞ、みなさんおかなしみでせ《しょ》う。御同情に堪《#た》えません。  去る七日、私は名医の診断を受けました。その前の日先生《日/先生》が、何処かで何とかの同窓会へ御出席でしたが、その時、たのんで下すったのです。先生と同郷の方《#かた》で中学時代の同級生、今は九州帝国大学教授医学博士で九州大学病院を一人で背負《背お》って立っているといふ《う》えらい力《=チカラ》もちだといふ《う》だけに、《:、》大|そう《層》ふとって岩根さんみたいな、はだのすべすべした小野寺といふ《う》博士が七日の日にいらっしゃいました。お座敷で叮嚀に診て下すって。先生にすっかり何かをおはなしになり、診断書を於《-おい》ていらっしゃいました。奥様もみてお貰ひ《い》になりました。奥様は何処もお悪くない、ただ気持《気持ち》でなほ《お》るさ《そ》うです。私の方《ほう》は、やっぱり心臓の僧帽弁狭さく症といふ《う》病気で、其《そ》の他には病気はありません。呼吸器もいいさ《そ》うです。そして前の坂口博士が仰った様《#よう》に、無理を少しすれば生命《イノチ》に|かかは《関わ》るし、静かにさへ《え》していれば長もちしますって。診断書には、結婚不可といふ《う》ことが書いてありました。何卒安心下さいませ。  私は自分のからだの弱いことは誰よりも一番よく知っていました。また此《こ》のからだで結婚する資格のないこともよく知っていました。それでも、やはり私は人間でした。人のからだをめぐる血潮と同じ血汐が、いたんだ、不完全な心臓を流れ出《-い》づるままに、《:、》やはり、人の子が持つであら《ろ》う、いろいろな空想や理想を胸にえがき、家庭生活に対する憧憬に似たものを持っていました。本当に、肉の弱いや《よ》うに私の心も弱いのでした。自分には不可能と信じつつ、それでもさ《そ》うなんですから‥‥。充分にそれを覚悟していながら、それでも最後の宣告を受けた時は苦し《しゅ》うございました。いくら修養しよう、心《しん》ぢ《じ》ゃならない、とふだんひきしめていた心《ココロ》。ずっと前から予期していた事ながらつぶれる様《#よう》な苦涙《苦し涙》の湧くのを何《ど》うする事も出来なかった私をお笑ひ《い》下さいますな。|ほんとう《本当》に馬鹿なのです、私は‥‥。  然しそれは心《=ココロ》の底《=ソコ》の底での暗闘で、つひ《い》には、征服されなければならないものでした。はっきりと行手《行く手》に輝く希望の光明を私はみとめました。過去の罪怯深《罪/怯え深》い私は、やはり此《こ》の苦悩を|当然味は《当然’味わわ》なければならないものでしたら《ろ》うから、私は|ほんとう《本当》に懺悔します。そして、其《そ》の涙のうちから神の大きな愛をみとめました。そして、私にしか出来ないある大きな使命を|あたへ《与え》られてる事を痛切に感じました。それは、愛する同胞《=ドウホウ》が過去幾千年《過去幾センネン》の間《=あいだ》に残し|つたへ《伝え》た、文芸を書残《書き残》すことです。この仕事は私にとってもっとも|ふさは《相応》しい尊い事業であるのですから。過去二十年間の病苦、罪業に対する悔悟の苦悩、それらのすべての物《=モノ》は、神が私に|あたへ給ふ《与えたもう》た愛の鞭であったのでせ《しょ》う。それらのすべての経験が、私をして、|きたへ《鍛え》られ、洗練されたものにし、また、自己の使命はまったく一つしかないと云ふ《う》ことを自覚せしめたのですから‥‥。もだえもだえ苦《/苦》しみ苦しんだ揚句私は、すべての目前の愛慾、小さいものをすべてなげうって、新生活に入《#ハイ》り、懺悔と感謝と愛の清い暮しをしや《よ》うと深く決心しました。神の前に、御両親様にそむき、すべての人にそむいた罪《=ツミ》の深いむすめ幸恵《ユキエ》は、かくして、|うまれかはら《生まれ変わろ》うと存じます。何卒お父様もお母様《母さま》も過去の幸恵《ユキエ》をお許し下さいませ。何卒おゆるし下さいませ。そして此《こ》の後《あと》の幸恵《ユキエ》を育み導いてやって下さいまし。おひざもとへ|かへ《帰》ります。  一生を登別でくらしたいと存じます。ただ一本のペンを資本に新事業をはじめようとしているのです。明日《あす》をも知らぬ人の生《=セイ》、ただ|あたへ《与え》られた其《+そ》の日其《日そ》の日を、清《=きよ》く美しく、忠実に送って何時召《-いつ召》しを受けてもいい様《#よう》に日を送れば、それでいいんですから。私は小さな愛から大きな愛を持って生活しや《よ》うと思ってるのです。  私の今の心持《心持ち》は、非常に涙ぐましい程平和《ほど平和》で御座《ござ》います。にくみもうらみもなく、ただ感謝にみちています。  私のすべての気持《気持ち》を書きあらは《わ》すことはとても出来ません。ただ、此《こ》の事で、名寄の村井が何《-ど》んな事を感ずるかと云ふ《う》ことが、私の胸を打ちます。しかし、何卒彼が本当に私をよりよくより高く愛する為に、お互ひ《い》の幸《=サチ》を|かんがへ《考え》、理解ある判決を此《こ》の事にあたへ《え》る様《#よう》に、と念じています。  本当に罪深い私でした。何卒おゆるし下さいませ。親にむ《向》かって図々《=ずうずう》しくも斯様《-こん》な事を書《書き》ならべて、嘸《さぞ》や御不快《ご不快》でもいらっしゃいませ《しょ》う。私は、此《こ》の後《あと》、一生沈黙をつづけます。|ほんとう《本当》に無言で暮しませ《しょ》う。ただその生活に入る前に、私が此《こ》の世に於《於い》て人間として|あたへ《与え》られた、此《こ》の苦しみ、此《こ》のなげきと、《:、》さ《そ》うして最後に|あたへ《与え》られた、大きな愛、使命の自覚などと云ふ《う》心の変りかたを御両親様に申上《申し上》げます。お察し下さいませ。  昨日、名寄の方《!ほう》へ知らせてやりました。何《-ど》んな返事が来るか知りません。何卒お情《情け》に、もしを《折》りがありましたら、彼に何とか言ってやって下すったら私の幸福は此《こ》の上ありません。フチたちや皆々様によろしくお伝へ《え》下さいませ。十月の十二日頃はお目にかかれます。室蘭までのお出迎へ《え》は、おそれいります。ありがた《と》うございます。南瓜や芋を少し残しておいて下さいませ。油のは《=ハ》いったキナオハウだのエンドサヨだのが欲《=ほ》しくなりました。帰る前にまた奥さまと何処かへ出かけるんださ《そ》うです。旭川からの手紙で、何《=なん》だか有珠の姉さんのごたごたがある様《#よう》にききましたが、何《ど》うしたのですか? 北海道は|ずいぶん《随分》あちこちの水害で不景気なさ《そ》うですが、米《=コメ》は高いでせ《しょ》うね。  道雄さんからまだ入院してると手紙が来ましたが、でも大分《だいぶ》よろしいらしいので安心しています。かは《わ》いさ《そ》うに真志保、たいへんなんぎして旭川へ行ったんですね。高央《タカナカ》には相変らず出してもサッパリって一枚も返事は貰ひ《い》ません。達者でいるんでせ《しょ》うね。操《ミサホ》ちゃんによろしく。  農繁期でみなさんお|いそが《忙》しくいらっしゃいませ《しょ》う。東京は此《こ》の頃《=コロ》また、暑くなりました。でもやはり秋らしい感じが澄んだ青空にも木の葉を揺《=ゆ》りうごかす風にも豊かに満ちています。北海道は涼しくなりましたでございませ《しょ》う。トンケシのウナラペに着くか何《ど》うかと思ひ《い》ながら先頃はがきを出したら、昨日《昨日’》返事が来て一人で笑ひ《い》ました。  先生の弟さん、直江と云ふ《う》方の子供さんが此《こ》の程脳膜炎《ほど脳膜炎》でな《亡》くなられて、其《そ》の御法事《ご法事》のお菓子が送って来ておいしいお菓子を食べています。今夜はくだらぬ事ばかりならべました。何卒おゆるし下さいませ。  先達は|ほんとう《本当》に御心配《=ご心配》かけました。今度は帰るまで大丈夫でございます。今私《今’私》は平和な平和な感謝の気分にみたされて、誰でもすべての人を愛したい様《#よう》な気が致します。  何卒御両親様おからだをお|たいせつ《大切》にあそばして下さいませ。さよなら  幸恵《ユキエ》より   愛するお父様   愛するお母様 ◇。◇。◇。◇。◇。 【底本:「銀のしずく◇ 知里幸恵遺稿」草風館】 【  1996(平成8)年10月1日】 【※《◇》底本は、物《=モノ》を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-《の》86)を、大振りにつくっています。】 【※《◇》底本の凡例には、《-》「読み易くするため、拗音と促音のみ現代用法に則った」と記載されています。】 【入力:川山隆《川山’隆》】 【校正:松永正敏】 【2007年11月15日作成】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http:《コロン》//《-/》www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。