◇。◇。◇。◇。◇。 【手紙】 【知里幸恵】 ◇。◇。◇。◇。◇。  知里高吉・ナミコ宛(幌別郡登別村)  大正五年十月頃(旭川区五線ミナミ二号発信) ◇。◇。◇。◇。◇。  拝啓◇ しばらく御無沙汰いたしました。お父上のご病気はだいぶよくなったときいて私等ははじめて安心いたしました。秋もハやたけなわとなりましてシホウの山は錦を着飾ってだんだん涼しゅうなりましたから、きっと病気もよくなるでしょうと私も昼夜祈って居ります。母上様も今年はご健康の由、いかもいいあんばいに沢山とれておあしもたくさんとれればいいと願って居ります。私も無事にて勉学をして居りますから御安心下さいませ。  新聞でも御存じの聯合共進会は八日から開かれました。教育展覧会も開かれました。区内各学校、上川支庁管内の学芸品が並べてありますからまことにりっぱだそうです。私も二三日のうちに行って見ます。私の綴方も出て居ます。  昨日は区内小学校聯合音楽会がひらかれました。私は第五アイヌ学校の卒業生となってオルガン独奏をやりましたが意外◇ うまく出来ました。他の学校から出た生徒達は上手に唱歌を歌いましたが私等のアイヌ生徒も余程上手でした。イクマンの見物人の前でするので随分ほねおれたでしょう。私なんか間違わないで弾いてしまってみんなに手をはたいてほめられて、ほっとしましたわ。こう言えば、いかにも上手そうに聞こえましょうが実はハボから見たらほんとに下手なんでございましょう。いつかお話しした東京庁立体操音楽女学校を卒業して旭川高等女校の唱歌教師をしている鈴木先生の独唱もききました。旭川に一人の先生の声をきいたのですから余程光栄だと言わなければならないのだそうです。それで閉会でした。でも面白うございましたよ。  男先生の尺八だの聞いていたら、もうはらわたにしみこむような気がしますの。イスレキおじさんのふえより少しよかったようでした。  これで音楽会のはなしはよしましょう。  この間から集めた砂糖ひと樽、お父上に差上げようと思っていましたところ/父上様には悪いと聞いて仕方がありませんから、残念ながらタカナカと真志保におくりますから父様の代わりとなって食べて下さい。キリブもらったからハボにあげようと思って砂糖と一緒にしまっておいたら、フチ/知らずに戸棚をあけておいたので猫がたべかけました。それをまたフチが見つけて/キリブをもって来てまた、アクの中へまちがって、おとしてしまったの。それでとうとうだめになってしまったのですもの。また見つけてあげましょう。  さらばさらば。父上様/お身をお大切に早くなおって下さい。ハボも大事にいかさきして下さい。  さよなら  暮れゆくまどにて  ユキエ   母上さま   父 ◇。◇。◇。◇。◇。  知里高吉宛  大正六年四月一日付け(旭川発信) ◇。◇。◇。◇。◇。  拝啓  前からしばらく御心配下さいました旭川区立職業学校受験の結果は、幸いに四等にて合格いたしましたから何卒御安心下さいませ。タイムスで御覧になることでしょう。  さよなら ◇。◇。◇。◇。◇。  知里高吉・ナミコ宛  大正六年四月一日付け(旭川発信) ◇。◇。◇。◇。◇。  拝啓◇ この度/区立ジョ職校に入学いたします。(タクサンオイワイシテチョウダイナ:)戸籍抄本が是非要るのですから、お手数ながら何卒四月の九日までにお送り下さるように願い上げます。もし抄本がなければ折角’四等で合格しても-なんにもなりません。入学も何も駄目になりますから何卒くれぐれお願い申し上げます。三日か四日か二日にはきっとタイムスにも出るでしょうから/大きい目をうんと開けて御覧下さい。先ず先に『この中に第四位にて入学せる知里幸恵は旧土人なり』って書いてありますからハボなんか目ひっくりかへして腰ぬかすかもしれませんからお気をつけなすって。フチ/早く-くればいいな‥‥。  九日に戸籍抄本をもって行くのですからそれにおくれれば困りますから、どうかかわいそうに思って早く送って下さい。タカナカ、真志保、お勉強なさい。お願い申しあげます。 (百十名の中で四番ですからえらいでしょう) ◇。◇。◇。◇。◇。  知里高吉・ナミコ宛  大正七年五月頃(旭川発信) ◇。◇。◇。◇。◇。  ひさしぶりでまた長いながい手紙を書きましょう。明日は荷物を送るというので/フチも母さまもお土産をたくさん出していそがしそうでございますけれども:、私には何も土産がありませんので相変らず長い手紙を贈り物にいたします。それは、父上様や母上様が何よりもおよろこびなさると私は信じますから。‥‥  只今/学校から帰りますとお端書を拝見いたしました。そうして涙の出るほど嬉しゅう存じました。何卒早く夏休みが来ますようにひたすら祈っています。  タカナカと真志保と一緒に行かれたら‥‥私はこよなき幸福ですもの。  今日はお土産はありませんけれども、今度夏休みに参ります時はどっさりいろいろなおみやげをもってゆきます‥‥今から暇々に仕度をして居ます。  母上様の御注文の銀貨入れは暇々に編んで居ますがまだまだ出来そうもありません。それも夏休みまで待って下さいませ。父上様のおみやげは大体そろいました。みさほちゃんのお土産もたくさんもって行きますよ。  みな様はきっと私の日常の様子をききたいでございましょうからこれからおはなしいたしましょう。これから八月におあいするまでは手紙を書くシオはないでしょうから‥‥。  朝は四時前後におきて夜は日が暮れたか暮れないうちにやすみますし。朝おきて窓をあけますとあたりは朝の新鮮な空気が一ぱいに流れて、をちこちの人家からはうすいケムリもなく石狩川’の流れの音が気持ちよくそよ風におくられて微かに耳に入って参ります。白い頭巾を被った旭ヶ嶽が春霞を漏れて気高く立っています。青みかけた旭公園の園内につつじのマアカなのと桜のましろいのとがいろどり美しく咲き揃ったのをあとにして、朝の心地よい春風に吹かれながら学校さして私はてっくらてっくらと急ぐのでございます。  学校では生徒が三百八十人、先生が十四人でなにフソクなく勉強が出きます。けれどもこの頃非常に悲しいことが出きました。  それは、私等’二年甲組の学級(裁縫)主任の玉橋先生と申し上げる先生はこの度お生まれ故郷の新潟の父上様がおなくなりになったのです。そしてすぐに先生は新潟へおたちになりました。その日は今週の月曜で然も私等がお割烹の時間でございました。  玉橋先生が見えられて『私の父がなくなりまして急にくにへかえることになりました。みなさんのそばをはなれてゆくのは心許ないけれどもやむを得ませんのですから、おとなしく他の先生にめいわくかけないようによ勉強をして下さい』とおっしゃってみんなに別れを告げられた時、私共はわーっと声を上げてなきました。玉橋先生も割烹の先生も‥‥。  そして居るうちに大事な蕗の煮つけがこげついてオオ騒動をいたしました。これから三週かんばかりはお母さまのおるすの子供らのように、私共はたのみない悲しい思いをして先生をお待ちしなければならないのです。けれども諸先生は非常に御同情下さいまして、万事の世話をして下さいますので何不自由なく学問を修めて居ります。  校長先生は相変らずおやさしく私共を可愛がって下さいます。毎週一回’修しんを教えて下さいます。  教頭の松丸先生も亦相変らずいい先生で、毎週二回の体操を赤いおひげを撫でながら教えて下さいます。それであざなを赤ひげ先生と申し上げます。次の石田先生は今学期の始めにおいでになった先生で理科と数学を教えて下さいます。非常にきびしい先生で、怒るときは教室もつぶれるかと思われますほどおそろしいけれども、みんながおとなしくよ勉強するときはおやさしくておやさしくて:、それはそれは慈愛のふかいお父様のような気がいたします。きびしいから生徒はみんな石田先生を嫌がりますけれども‥‥私はかえって石田先生が一番好きだと思います。今日は数学の試験があって私は満点でありました。  それから原田先生であります。この先生はつい先程お出でになった先生で国語の受持ちであります。滑稽でこっけいで本当に面白い先生でございます。国語の時間に唱歌を聞かせて下すったり、しを唄ったり-お経を読んだり踊ったりしてみんなを笑わせなさいます。そして国語を面白くいたしますので、決してあきることがなくてよくわかるので国語の成績はみんながいいのだということです。たけのひくい肥った先生。  次は平岩先生、女の先生。もう五十をすぎたおばあさまで大変にいい先生です。袋物を教えて下さいます。  それから本間先生は図画、割烹、作法の先生です。中にも図画はお得意でいらっしゃいます。小さくて可愛らしい先生です。  このあいだ、私の図画は『甲よろし』でありました。級中で一ばんでありましたからおよろこび下さいまし。高等師範’優等出身ですって。  次’が前にお話しした玉橋先生です。  それから古宇多先生、二部専習科の主任です。  それから次が岡本先生、一年甲組の主任で私等は編物を教えていただいて居ります。顔形は悪いけれど大変にいい先生でございます。  次は小泉先生、造花の先生で補習科の主任でいらっしゃるけれども、只今ご病気で二三日休んで-いらっしゃいます。東京の神田女子職業学校出身ですって。美人でおやさしい先生でございます。  次’がベッショ先生、二年乙組の主任です。今学期の始めにお出でになった先生です。この先生はよく知りません。が、いい先生らしいです。  次’が小橋先生、それこそきれいな先生で一年乙組の主任です。きびしくてやさしい先生だそうです。私等はこれから家事をこの先生にお習いすることになりました。  次は島崎先生、一年の時の主任の先生でした。今は学校全体の刺繍の先生です。  次’が米子先生、声の可愛い先生でお年はシジュウゴロクと思われます。  このように先生方はいい先生ばかりでございます。宮本永二先生は3月まで国語、音楽の先生をしていらしたのに、三月の末に退職をなさいました。色の黒い先生で、精神家でそれはそれはやさしい、いい先生でありました。そして熱心な基督教信者でいらっしゃいました。ですから私は一番すきでしたが、おやめになってこのあいだ東京へ-お上りになりました。八月頃まで東京にいらしてそれから亜米利加へお渡りになるそうです。  そうして音楽を研究なさるのだそうです。  それから小使さんは二人、給仕が小娘一人、で私の学校はますますさかえて参ります。  去る十五日は三周年紀念式があげられました。その日の祝賀会には私は対話に出ました。  もう夕御飯を食べますから、明日の学校かえりましてから書く事にいたします。  おやすみなさいませ ◇。◇。◇。◇。◇。  今日は四時半に帰りました。  日本晴の好天気で、涼しい春風がサッサッと袂を払う心地よさは何ともいえないほどです。朝晩一里半近くずつあるいて居ますので身体が至極達者であります。  今日は授業が五時間しかないのですけれども副級長の当番でございますので、お掃除の監督をしたり先生の御用をたしたり致しまして帰りがおそくなりました。四月十八日付で今学期カンの副級長の辞令をいただきましてから随分いそがしくなりました。金曜と土曜がお当番です。仕事は朝/学校へ参りまして今日の時間当番、掃除当番を決めて黒板にかいて掃除のあとをしらべます。昼休み、放課後には生徒が先生に製作物を出すものや、その他生徒が先生に言いたいことなどを職員室へ行って出したり言ったりします。  級長様は伊達という方で本当にやさしいいい人です。この人はこの度二年になる時に特待生になった方です。大へんに私を可愛がって下さいます。副級長は国本と云う方と私と二人で勤めて居るのでございます。私ども三人の責任は頗る重大なのですから、よくその責任を自覚して一生懸命働こうと相談しまして、常にその覚悟でつとめています。  生徒は、補習科は本科三年を卒業した人が入るのです。本科は学科も技芸も等分にあります。只今は本科一年甲乙二組、二年も甲乙、三年は一組になっています。ほかに一部専修科/二部専修科があります。二部専修科は一部を卒業した人が入るのです。二部を出ると補習科へ入られます。こういうように全体で八級あります。  この生徒たちは雨ふりの時は室内運動場で遊んで居ますが、晴天の時は戸外にいで遊びます。戸外運動場には桜が沢山植えられてあります。学校のまわりには落葉松が若葉に包まれて青々として、それに色白い桜がいろどり添えて立派な校舎にふさわしく見えるのでございます。こういう学校に学ぶ私はまことに幸福でございます。これも神様の御恵と感謝しています。  登別の春はどんなにかきれいでしょう。登別の春の海はどんなにのどかでしょう。春雨のソボソボと降るその景色も-どんなに美しいでしょう。うららかな春の日を浴びながら遊んでいるタカナカの面影を胸に浮べて、どんなに大きくなったかと思うてなつかしくてたまらないのでございます。景色のいいあの小学校の校庭で元気よく飛びまわっている真志保のすがたも目に浮びます。おしっこたれのミサホ様もどんなにか可愛らしいでしょう。ミサホ! なんといういい名でしょう。その名が私は大好きでございます。  夏休みが楽しみです。もう六十七日ありますね。そのあいだ私は本当に奮励努力しなければなりません。学期末にどんな成績が発表されますやら‥‥。お土産のお伽噺/色々様々なおはなし、それから歌って聞かせて上げる唱歌などをどっさりためています。どうしてどうして◇二年ぶりですもの。  今年もグスベリを沢山食べられるように祈っています。私は海が懐しくてなりません。シホウが山ですから何処を見ても木ばかり/草ばかり/家ばかり、見渡すかぎりはてしもないような上川平原は、それはそれはいい景色ですけど、海がないのが何だか物足りないような気がいたします。  明日は日曜で、大掃除をいたします。  それはそうと/うちの猫の子の可愛い事、お話にもなりません。昨日、お母様のお楽しみの婦人世界が参りましたからお手にとどくのも近々でしょう。  こちらのお母様のいそがしいこといそがしいこと。五尺五寸シホウの天鵞絨に/いからいからしています。そして亦早いこと早いこと、話にもなりません。縫いかけてから今日で五日になります。目が覚めるばかりきれいでございます。  フチは今’猫四匹を相手に大騒ぎをしながら御飯拵えをしています。こちらでは-よむぎが大変に大きくなりました。このあいだノヤシトをイタリヤ様からいただいて食べました。この間までフタ月ばかり砂糖がなくて、毎日毎日砂糖ばかり食べたくてお母様におねだりをして買ってもらいましたから:、のやのしとを拵えて食べたいと思って居ますが、とるひまがなくてこまります。そのうちに毎朝毎朝’御飯にお砂糖をかけて食べるので、まだ/のやをとらぬうちから砂糖がなくなりはせぬかと心配しています。  それからまだ話があります。このあいだ非常な大変が出来ました。お母様から、もうお聞きになったでしょうけれども私からも云います。  それは、もう少しで学校が焼けたことです。それは今月の四日未明の出来事でした。職業学校の直ぐ向かいに山旭という味噌醤油醸造会社が燃え上がりました。さあ大変、時は午前三時少し過ぎた頃、火の粉が花火のように飛び散る。ワアワアとさけぶ人声は天地をゆるがせるようでした。火消が飛ぶ、ポンプが幾つもいくつもあつまった。おお、この会社は私の学校隣りにあるし、第四、第二の小学校、中学校、区裁判所、監獄に囲まれた位置にあるし、しかも二階だての大きな建物ですから、火勢はどんどん容赦もなく大きくなってくる。職業の校長先生が重い肥ったからだをてっくらてっくらかけつけたのは、もうあの会社の大きな建物がすっかり火になった頃です。相変らず火の粉が火になった板切れとまじって雪と降る、そのうちに職業学校が包まれてしまって‥‥。  校長先生は狂気した人のように、ポンプをポンプをと声の限りポンプを求めました。しかし、ポンプは今はたらきの真最中ですから一つとして助けにくるものもなく、そのうちにわーっと一人がさけびました。「職業の屋根に火がついたッ」と‥‥。「ああもう駄目だ」という人もある。「助けてくれ」:「助けてくれ」  ねまきのままでかけつけた先生、髪ふり乱したまま飛んで来た先生方は声を合せて助けを求めました。しかし二階の高い所、非常な急傾斜をして居る屋根ですから、人々は只「アレヨアレヨ」とわめくばかり、叫ぶばかり‥‥。屋根のヘノ’炎はさながら悪魔の舌の如く南側の屋根を舐め-つくそうとする。人々は気が気でない。危険は刻一刻と迫ってくる。職業学校の運はここに尽きるのであろうか? おおその時、燃えている屋根の上のムネに黒い人影が現れた。その時人々はアーと息をついた。先生方はああ神様と手をあわせた。  屋根のヘノ人影は段々段々火に近づいて、燃えているソバへ片足を下そうとした。その時先生方の胸には亦一つ心配が出来た。『もしあの人があの急傾斜をなして居る屋根からひと足’辷ったら、あの人の命は如何なるでありましょう』と。しかしその人は始めは少し躊躇うようなようすが見えたが、覚悟を決めたらしく悠々と構えてその燃えたつ炎に近くよって、無事に消してしまわれた。そしてこの勇士が再び棟に這い上がった時、人々は『万歳』と一せいに叫んだ。先生方はほーっと安心の胸を撫で下しました。しかしそれも一時のこと、『屋根の火は消えたが、火は天井裏についた』と何処からともなくきこえた。『おお/運動場の屋根に火がついた』と一人が呼ばうた。先生方はまたまた奈落の底:、生きた-ここちもしなかった‥‥。  その時また一人’勇士があらわれた。片方ははだしで片方は白足袋をはいた勇士が‥‥。つづいてシゴメイの若者があらわれた。運動場の火は消された。  そのうちにポンプが来た。ドシドシドシ/屋根に水がそそがれた。屋根裏の火も消えてしまった。会社の火も下火になって、もう危険はなくなった‥‥。その時は四時半頃だったという。それまでの先生方の御心配はどんなでしたろう。始めは命を懸けて屋根の火を消して下すった勇士は其後誰であるか探しても探してもまだ名前もわかりません。片足に白足袋をはいて運動場を消して下さったお方は誰でしょう? それこそ以前申し上げた宮本先生であります。その他のシゴメイの若者のうち一人は怪我をしましたけれど、ごく軽い傷で直ぐになおりました。火事の話は月曜日に先生方が代わるがわるはなして下さいました。  こういう大変が私の学校にあったのです。大事の始めはごくささいなことで会社の寝ずの番をつとめていた十八の若者が勤めを怠って眠っていた為だということです。火事の話がずい分ながくなりました。  これから夏休みまで手紙を書く事はないでありましょう。まだまだお土産やお土産ばなしを沢山集めて置きますから夏休みを楽しみにおまち(以下、脱落) ◇。◇。◇。◇。◇。  知里ナミコ宛  大正九年五月十七日付(旭川発信) ◇。◇。◇。◇。◇。  大層長い事御無沙汰いたしました。どうぞお許し下さいまし。その後は如何なったか、種馬の事も聞きたい聞きたいと思うてばかり居りましても悲しいかなや、身体が自由になりませぬのでついつい今日までになったのでございます。  お父さまのおからだの工合は如何でいらっしゃいますか? 今日のお便りで承りますれば、お母さまは頭痛でお苦しみの由、どうぞどうぞ御大切に遊ばして下さいませ。あとの皆様は相変わらずお達者でなによりも嬉しゅう存じます。  先達参上の時分はずい分御厄介になりまして、おまけにノドをからして色々ご心配をかけました事を幾重にも御詫申し上げます。本当に-いつになったらば本当の健康体になって御両親様をはじめ皆様に安心をして戴かれるかと、情けなくなりますが:、今は大層気分がよろしく/自分で鏡を見ても顔色もよろしゅうございますから、遠からずすっかり安心して戴ける時期が参りましょうから、決して御心配下さらないように願います。  谷口博士にみてもらいましたら、慢性の気管支加答児とかいう病気でございますって‥‥。肋膜炎はないのでございますか? というたら、ああ、ろくまくも跡はあるが、今は、ちっともそのケはありません、との事でした。心臓病は決して心配はない、先天的のものであるから、根本的に治す事は出来ない、大変タチの悪いほうだが無理さえしなければ大丈夫だと、詳しく話をして下さいました。この間はだいぶネツが出ましたけれども今では何ともありません。少しばかり衰弱したので、お医者様が滋養をとって、入浴をひかえるようにと仰ったので、この間から、卵を二十程もフチと二人で食べました。食パンを買うやらジャムを買うやら色々なものを沢山こうて戴いて、それこそ自分でも気をつけて養生をしています。お母さまが思うていらっしゃるような気弱ではありませんから、決して御心配なく御願い致します。  フチも非常な重態でしたけれども、神様の-み恵で昨日今日は大層機嫌よく猫の子を相手に大騒ぎをして居られますから御安心下さいませ。  なつかしい登別! その故里の地を発ったのは先月二十八日でありましたが、はやひと月近くの日子がたったのでございますね。そうでしょうとも、私が来てからすももの花も咲きましたし、あやめの花も咲きましたもの‥‥。  あの日/我が家をあとに立ち出でた時、本当に何とも云えない感じに打たれました。常とは違う色々な事情のこぐらかったあの我が家、それを思うと、胸がつまってしもうたように思うたのですもの‥‥。ニッコリして立っている真志保のかわゆい笑顔が見えなくなり、動き出す汽車と共にニサンケンも走りながら、ねえさんさよなら、といとしくもよぶタカナカの声も吹く風に消えてしもうて:、いつしか-はや登別の街もあの暗いトンネルをくぐると山の影になってしもうたのでございました。  一緒に乗ったメリーさんが、これをかたみにとのべたピンを押戴いてシキウの駅で御別れすると、ああもう今度こそは一人旅だと思うと、無常に故里の空が懐かしく、遣瀬なさに睫の湿っていたのにあとから気がつきました。後ろのほうに凭れかかって/見るともなしに外を眺めていると、苫小牧の停車じょう-でニシパの白いおひげが、銀色に風になびくのがチラと目に入りました。それから乗り込んだのは日高の貝沢久之助おじさん。  話をしても声が出ないので、丁度ニシパが二等車にお出でだからお祈りをして貰ったらよかろうと、そのおじさんの御親切で、ニシパに御目にかかりました。  汽車の中では都合が悪いから今夜は私の家へ、と、ニシパが仰って下さいました。かくて私は夢にも思はなかった札幌の駅で下車いたしました。その日は手紙を読んだり書いて投函しに走ったりして暮れました。丁寧に診て戴き、お祈りして戴いて、懇ろなおもてなしを受け、その夜は丸山コリミセと云うコックのばあさんのお部屋でお宿を借りる事になりました。砂糖湯を飲んでねると直ぐからそのおばあさんは心地よげにすやすやすやすやと眠りました。ところが、敷いて貰ったおトコの上に疲れたからだを横たえた私は、自分の呼吸をかぞえたり心臓の鼓動を数えたりしても、どうしても眠れないのです。時計のチクタクばかり耳について眼はいよいよさえるばかり、時々おばあさんがゴホゴホとせき入る時は、起してお話でもしようか、と思うたり致しました。外には月が出ているのでしょうが、おへやの中は真っ暗闇、それでもそこにぶら下がっている電灯の白い笠を見つめているうち、いつかうとうととまどろむだのでありました。ところが私の後ろのほうで、ユキエさんユキエさん、ときれいな声がきこえますので、そちらをむき直って見たところが、7つか八つの男の子が、あらい絣の着物をきて:、かわゆいカオに笑くぼをつくってニッコリしているので、私はびっくり、誰方? 彼は答えました。あのね、あたしはワルデンガーラの子ですよ、と。おやそうですか、とは申しましたが、ハーテな、ワルデンならば、今朝、私が来る時に厩へよってさよならをした馬なのに、それに種馬の資格もないと云う話なのに、どうしてこんなきれいな子を持っているのか、と、首をひねって考えました。これはおかしい、と今一度その子を見なおすと、こは如何に。かの小童はカラダはもとのわらべながら/頭はいかにもワルデンの如く、しかも大きなその眼光は爛々と輝いて私の全身を射るが如く:、ヒタイの星は大きな穴のようにくぼんで、真っ赤な口をあいて今にも私を飲まんずありさま、ヒヤア、これは大変、逃げんとすれば、両足は棒のようになって一歩も動かず、助けを求めんには声が出ない。そうこうするうちにかの化け物は一歩一歩近寄るかと思えば、反対に後退りをして、後ろの柱にドンとつきあたったその音でハッと気がついたら、あたりはまっくら:、これは不思議とよく見れば、私は相変わらずコックさんのそばでねていたのでした。試しに足を動かして見ましたら幸いに足は自由でした。耳をすますと何処からとも知れず、犬の悲しげな遠ぼえがきこえていました。枕もとの手拭で汗をふいてもう一度眠ろうと思いましたが、どうしてもねつかれず、そのうちに時計はゴーンゴーンと二時を報じました。何事も考えるまいと思うても、色々な想いは水のように昔にわき/今に流れてそのつくるところを知りませんでした。かくてとうとう夜は明けて、四時半になるとコックさんと一緒にトコをはなれました。本当にこんなつまらぬ夢の為に一夜をねむらずにすごしてしまったのが/馬鹿らしくてなりませんでした。ふしぎに声はスラスラと出ますので、神様の大いなるお力と、深く-ふかく感謝して再びニシパに祈りをして戴き:、ニシパにもカッケマッにも深く御恩を謝して御宅を立ち出でたのは六時頃でしたでしょう。六時三十五分の汽車に乗って、近文へは十二時過ぎに到着いたしました。珍らしく車中も客がすくなくゆったりと腰をかけて瞑想をつづけながら無事に参りましたのでございます。お土産のシクトツは非常にフチも母さまも喜ばれました。フチは病床にふしていらっしゃいましたので、暫し私は身をやすませてから再び出直してその荷物をとって参りました。  おかげ様であちらこちらへおわけして皆に喜ばれました。その次の日に直ぐ手紙を書こうと存じましたけれど、疲れたのか医者へさえ行く事が出来なかったのです。そうこうするうちにいつしか四方の緑の色が眼に鮮やかにうつるようになりました。先日この部落で、十八になる娘さんがなくなりました。小学校にいた時分は同級で、本当に温順な人でありましたが、嫁いでマもない時にもう死んでしまわれたのです。十八といえばまだ蕾の花のひらきかけたばかりですのに、まだ春浅いうちに散ってしまった/かね様のお母さまがたの御悲嘆は-どんなでありましょう。雫の雨がそぼ降る日、なきがらを納めた白木の棺はしづしづと緑ふかいタカダイの墓地へと運ばれました。何も知らないらしい妹さんが白い着物を着たのが嬉しいのか、晴やかな顔して棺のそばを足どりいそがしくゆく姿を見た時、思わず涙を流しました。哀れ、やさしかりし友の御霊は今/黄泉の国に安らかな眠りを続けて居られる事でしょう。  そのあと、谷先生はいかが遊ばしたでございましょう。どうかして御平癒なさるように常に私等はお祈りしています。  登別でもこの頃は雨がつづいて-さぞ鬱陶しい事でございましょう。それでも登別は雨の日の景色はまた格別美しいでしょう。やはり故里は懐かしゅうございます。夜もすがら枕もとにきこえる波の’音、それはこの地では夢にもきく事が出来ないのですもの‥‥。  広いこの原野の春もまた趣が多うございます。御天気のよい日、部屋の真ん中へ机を持出して、それにもたれてだまったまま色々な事を思うとき:、あけてある窓から訪れる春風は羽織の裾をハタハタとうごかして、机の上の書物の頁をハラハラと繰っては何処へか去ってしまいます。群青に晴れた空を仰ぎながらミサコの愛らしい面影を偲び、あのかわゆい声をききたいと耳をすますと、空に浮ぶ真白い雲のふところで雲雀がほがらかに歌う声がきこえます。  昨日は一日雨が降って、午後は風さえ加わって暗い冷たい日でございました。母さまが、三時頃からトコをしいてねてしまったあとで、やはりこの机にもたれて外を眺めると、木々のミドリが滴るばかり、降り注ぐ雨は緑の露かと見えました。あまりいえの中にばかりいてはと思って先日/其処らの田圃をあるいて、あぜに咲いていた白いすみれを片手に余るだけ摘んで参りました。小さい愛らしいこの花は、今も私の机の上でゆかしい香りをはなって居ります。出来得るならば私がとったこの花の香りを沢山びんに入れて、お父さまやお母さまの御許へ送って上げたいココチがします。  来年の今頃この白いすみれが、あのあぜに一ぱい咲く時は私もまた丈夫なからだになってピンピン飛廻る程、快活な人になりましょうと、私はこの小さい花にかたくかたくちかったのでございます。  ハタケのほうもさだめしお忙しくいらっしゃいましょう。あの私がまだ居た時分に蒔いた豌豆がもう出かかったのですか? 他のものはまだまかなかったら時期がおくれるじゃないですか? こちらでは大概みんなすんだようです。  うちのハタケはまだ誰も耕して呉れません。  種馬は来ているのですか。名前をすっかり忘れてしまいました。ヘボコニデルでしたか? 先日道雄さんからのお葉書きで種馬の事につき伯父様が札幌へいらしった事をききましたが、如何なったのかと心配しています。心配したからって、その為に身体を害するような弱虫じゃありませんから御気にかけないように‥‥。  ああそれから、このあいだ少し気分のよい時に温泉の奥様に礼状を丁寧に書いて出しましたから御安心下さいませ。  私の学校では先に松丸乙近と云う教頭の先生が函館の師範へ転任なすったそうでしたが、先日また、本間シゲと云う高等師範デの女教師中の上位の方が退職なすって小樽のお宅から私に宛て長い御見舞状を下さいました。それに驚いて、温泉の奥様のと一緒にお返事を差し上げたところがその次の日にまた私に葉書が来て、見るとそれは、御存知でしょう:、二年生の時から卒業するまで私等の主任であった玉橋先生、本間先生の次位の先生がおやめになって、郷里なる新潟県へお帰りになる途中、汽車の中で書いて下すったものなのです。  本当にいい先生ばっかり母校を去ってしまわれて、母校はどんなに淋しくなったかと思っていましたが、この前に病院へ行った時、職業の生徒、二年か三年の名前も知らない人に出会って、その人からききましたが:、三人の先生がおやめになって、代りにまたりっぱな何とかかんとか仰るえらい先生が五人もお入りになったという事です。本間先生からの御手紙には、人間は、神様に与えられた才能のすべてを発揮する事が最も大事な事である。いかに自分の能力が、人よりも劣ったものであっても笑われてもけなされても、自分のもっている全部を表す:、それが本当に大事な事で、それをするのは、金銭を得る為でもなく名誉を得る為でもない、人間の使命を果す為に努力するのであります。ところが病気をすると、自分の為すべき事が思うように出来ないから、それは神の聖旨にかなはない、自分の使命を果されない罪になりますから、知里さんも早く達者におなりなさい、と、長々と書いてありました。  玉橋先生のおはがきには、病気の時は落ちついて養生しなければならない、知里さんは気をしっかりもって他の事をくよくよ心配せずに養生すればきっと早く治る体です、などと書いてありました。  なんの先生も旭川を去るにのぞんで数ならぬ私を、御忘れもなく御便りを下さいます事を、私は本当に涙とともに感謝いたしました。  このあいだ鎌田先生と仰る男の先生がいらしって、病気はどうだね、などときいて下すって、十五日は記念日だからぜひ来給えな、と仰って下さいましたが、一昨日は行く事が出来ませんでした。十七日に清潔検査があるというのでその日は少しうちの前の草をむしりながらはるか学校のほうの空を仰ぎ:、万歳万歳という記念日の唱歌を歌って芽出度い母校の誕生日を心から祝し、将来’千代八千代に栄ゆくようにお祈りをしたのでございました。  鎌田先生は国語の先生で、文章体や候文の大嫌いな方です。誰も道で出会って-「毎度御厚情万謝奉り候う」などとかたっ苦しい事をいう人はないだろう、だからこれからは、すべての文章が口語体になるのだ。この忙しい世の中だから、毛筆は早晩すたれて、何でもペン書きになるのだ。そうでなくちゃ日本の文明は進んだとは云われないと仰る先生です。  御存知でしょうが、本間先生は図画のお上手な理想の高いやさしい上品な方で、私はいつも図画や編物の他に作法をお習いした先生です。玉橋先生は二年のあいだ、母子の間柄で、私はよく可愛がっていただきました。  本当におやさしい方でしたから、私の組は学校じゅうでも、一ばん内気なおとなしいやさしい人が多いと言われていました。やはりコウ師出身で、本間先生の次位です。  御別れの時、本間先生は、しんみりとした調子で、色々お話し下さいましたし、玉橋先生は卒業する私等を送って、さらばさらばの唱歌を-うとうて下さいました。  もうふたたび、あのおやさしいお言葉をきく事も出来なければ、あの御美しい御声をきく事も出来ないのです。私はあれから歌うにも声が蚊の鳴くような声なので、本当にいまいましくてたまりません。  今は殆んど旧に復しましたが、いつも首を包帯して咳嗽薬を常住つかって居ります。気管をだいぶわるくしたのでしょう。ねえさんからその後御便りがありまして? 津屋さんは如何なすったでしょう。  浜のフチ、伊悦さんのお母様、お隣の伯父様、伯母様、初枝ちゃん等、皆々様にたくさんたくさんよろしく。くる時には伯母さんがまだ寝ていらしったから何も申し上げないで参りました。  みっちゃんと二人でタマピルを取りにあるいた事を思い出すと一人でほほえまれます。タカナカ、真志保にも/うんとよろしく。うちの小梅は-さぞきれいに咲いた事でございましょう。姉さんがいるうちにきっと咲くから見て行きなさいとタカナカがいつも申してくれましたが、とうとう見ないでしまいましたね。今年もお母さま、梅をつけておいて下さいな。病気の時は梅干がいちばんよろしゅうございますよ。  タカナカ、真志保とはっくりようどを取りにあるいた当時の楽しかった事がそぞろ思い出されます。  今日は雲が低くたれて風は冷たく、ときどき雨がサーッと降っては止んでいます。射的場のほうへはひっきりなしに射撃の音がド‥‥ときこえます。ときどき大砲がドーンと大きな音をさせては、いとど大きな私の眼を皿のようにいたします。ではこれでペンをおきます。またこのあと沢山申し上げましょう。  末筆失礼ながら広瀬様によろしく御伝え下さいませ。お父さまもお母さまも皆々様/御自愛センイツに祈り上げます。  机上のすみれはかわゆくうなだれて、たえず微かにゆれて居ります。    五月十七日/さようなら  ユキエより   御父上様   御母上様      御両所へ ◇。◇。◇。◇。◇。  金田一京助宛(東京市本郷区森川チョウ/一)  大正九年六月二十四日付(旭川発信) ◇。◇。◇。◇。◇。  先生’度々’綺麗なおはがきを下さいまして本当に有難くふかく御礼を申し上げます。おはがきは先週の土曜に戴きましたけれど小包は今日’着きましたので、つい御無沙汰をいたしました。私の病’もこの頃では別に苦しい事もなく暮して居りますから御安心下さいませ。  私はローマ字を学校では教わりませんでしたので読むにはよみますが書く事が出来ませんのです。それでこの間から練習をして居りますがなかなか書けません。今暫くして少し書けるようになりましたらすぐにアイヌ語を書く事にいたします。私は後世の学者へのおきみやげなどいう大きな事は思うことも出来ませんけれど:、ただ山程もある昔からのいろいろな伝説、そういうものが、生存競争のはげしさにたえかねてほろびゆく私等アイヌ種族と共になくなってしまうことは私たちにとっては本当に悲しい事なのでございます。ですからそういう事を研究して下さる先生方には、私たちは深い深い感謝の念をもっているのでございます。私の書きますうちのウエペケレの一つでもが先生の御研究の少しの足しにでもなる事が出来ますならば、それより嬉しい事はございません。そのつもりで私の知っている事は何でも/オイナでもユカラでも何でも書こうと思うて、それをたのしみに毎日ローマ字を練習して居ります。あのノートブック一ぱいに書き終えるまでイクツキかかるかわかりませんけれどきっと書きます。  こちらで変った事は、先生も御存知の/谷平助さんが先月下旬永眠いたしましたのです。幌別教会に居りましたが、妻や沢山の子供をのこして逝きましたので本当に気の毒でございます。それから向井ヤマオさんは四月二十五日に結婚をしたそうでございます。其後私たちは何も変りもなくフチも頗る元気で毎晩ユーカラをきかせてくれます。卒業の時は美しい絵葉書を戴きまして私たちはみんなで拝見いたして-どんなに嬉しかったかわかりませんでした。今年は先生はいらっしゃらないのでございますか。何卒お体を大切になさいますよう、フチも母も祈って居ます。 ◇。◇。◇。◇。◇。  金田一京助宛  大正九年九月八日付(旭川発信) ◇。◇。◇。◇。◇。  先生/先達は激しい暑さにもかかわらず御手紙を下さいまして本当に有難く深く御礼申し上げます。直ぐにお返事申し上げよう申し上げようと毎日思いながら今日まで御無沙汰に打ち過ぎまして何ともお詫びの申し上げようもございません。何卒何卒お許し下さいますように幾重にもお願い申し上げます。実は私/卒業後’祖母が病気にかかったのでございます。フチはもう年寄りでございますから一時はどうなる事かと心配いたしました。死んだり生きたりしてやっと今ではよくなりました。ところが今度は母が例のリョウマチスで体の自由を失い、ドッとトコに就いてしまいました。私も卒業以来引続き医薬を服用いたして居ります。私も祖母の看病の疲れや何かでよくなったり悪くなったり致しましたが、秋風が吹くようになりましてから祖母も元気ですし、私も気分がよくなってまいりました。遠からず母もトコを払う事が出来るだろうと思っています。ローマ字は少しなれました。先生の御手紙によりまして、自分の責任の重大な事を自覚いたしました。今度/冬仕度がすみましたならば専心/自分の使命を果すべく努力しようと思って居ります。先ずは取急ぎご無沙汰のお詫びをかねて近況を御報知申し上げます。フチからも母からもポロンノ先生によろしくと申しました。 ◇。◇。◇。◇。◇。  金田一京助宛  大正十年六月十七日付(旭川発信) ◇。◇。◇。◇。◇。  先生/引きつづきお美しいおはがきをいただきまして本当に嬉しゅうございました。深く御礼申し上げます。あのウタリクスを多大の興味と御同情とを以て御読下されまして本当に有難うございます。先生が御読みになりますブンは、これから私が毎月よろこんでお送り申し上げます。昨年の12月から出たのですが、十二月、一月のはもう売切れまして札幌にもありませんそうで、二月は何かの都合で休刊になりました。三月号と四月号だけございますから、今日お送り申します。これは各地の小学教員や、官吏のかたや/有珠ではお寺の坊さんまでが読んで下さいますそうです。此処でも隣の先生方と部落のシゴのアイヌが読んで居ります。十五冊くるのですが、耶蘇嫌いの人が多いものですから買う人が少くていつも余りが出来るのでございます。片平さんはヤマオさんの弟で親戚の家を継いだので姓が違うのだそうです。まだ二十一くらいの若い人でございます。これからこの誌上にいろいろな人が出て来るだろうと思います。フチも母も先生によろしく申しましてございます。 ◇。◇。◇。◇。◇。  知里高吉・ナミコ宛  大正十一年四月九日付(旭川発信) ◇。◇。◇。◇。◇。  大層暖かになりました。御両親様/定めしご壮健にてご活動の御事と存じます。タカナカさん/受験成績は如何でございますか。お案じして居ります。  真志保は運よからず中学へははいられませんでしたが/無事高等二年に昇級、孜々として奮励勉学に余念ない様子でございます。覚悟の事とて不合格も別に失望憂色の程にもならず、相変らずの爽快な笑顔にてキビキビと日を送っています。昇級の時は一部優等にて英語読方の特別賞状を持って参りました。英語は殊の外お得意にて試問答案は百点以外の点数をとった事は一度もありませんでした。ただ数学にはあまり興味を持たないのか、さっぱり思わしくないので心配しましたが:、この度の中学入学受験予習のおかげでだいぶ頭が鍛えられて少々難かしい問題もたやすく解かれる程度に進んだ様ですから、このぶんならば本学期末あたりから、もう大丈夫だとよろこんでいます。体重も昨年の今月よりは1.650貫増し、身長も一寸ナンブとか加ったよし、意気揚々たるものであります。あたたかい春風に吹かれて真志保も私も赤銅イロになりました。雪はまだ二尺ほどもありますが、それでも、其処此処に点々と雪の消えたところに黒い土の中から淡いミドリ色した草の芽がもえています。朝早くから春空の音楽家、雲雀の美しい声がきこえます。ぼんやりとした鰊模様の空から時々ヒラヒラと舞落ちる淡雪もなんとなく春めいています。登別ではもう何かの花が咲いているのではありますまいか。春の海の景色の偲ばれて故郷なつかしのジョウにかられます。  御両親様/さぞおいそがしゅうございましょう。ニワトリも兎も沢山でにぎやかでございますね。ミサホちゃんのしもやけはなおりましたでしょうか? こちらでは真志保のしもやけは、春がきてもまだ消えやらぬ雪のそれと同じに、まだ足袋をぬぐ時に顔をしかめる事があります。然しそれもだんだんシカメガオの皺がヒ一日と少くなってゆきます。フチは、登別へゆくと云うのでいそがしいいそがしいと気を揉んでいます。  このあいだ申し上げました私の上京について申し上げますが、お父上様はご不賛成だという事で、私たいへん心細くなりました。何卒後生のお願いですから/お父様ご賛成下さる様におねがい申し上げます。上京と申しましても別に大へんな野心があってでは無いのです。金田一さまのお家へ行って、奥様のお手許で裁縫でも台所の方にでもお手伝いして、傍ら金田一先生のアイヌ語研究のお話相手をするのです。べつに身体を動かして大して気を労する事でもありません。東京見物でもして、気をかえて見ようと思います。今は平和博覧会も開かれていますから一生の思い出のたねに旅行をして見たいと思います。東京の気候が私のからだによくないならば、ひと月ででも帰って-くればよいと金田一先生も申されましたから。そして、よかったら、長くいればいいそうですから、先ず見たいのでございます。折角のこの機を逸したくないのです。  ただモッカは花見時とやら、それにヘイハク見物人の為に未曾有混雑で/函館桟橋あたりでは大へんだという事ですから/旅の途中がひどいから皆様に御心配をかけますが:、人がゆききする所ですから、私も-どうか-うんと注意して思い切って旅に上がりたいと思っています。神様がお守り下さる様に祈りつつ‥‥。  本当に弱虫の私は、なんにつけても御両親様はじめ皆様の御心配のタネになって不孝を重ねます。大変な望みをおこして御両親様に当惑をおさせ申しまして、ほんとに済まない事でございます。が、ほんとに、この度だけどうぞお願いをお聞入れ下さいまして、不孝な娘の望みを達してやって下さる様にお願い申し上げます。ちょうどフチが、この度帰ると云われますからお送りして、登別へ参ります。少し都合がありまして三十日のを二十八日に決めました。そして、お家から東京へ立ちたいと思うのです。  何卒’お父さま/右の儀ご賛成下さいますよう、謹しんでお願い申し上げます。今、アイヌ語’民譚集というものを書いています。この原稿が書き上がると、炉辺叢書とかいうののうちの一冊として、金田一先生のお世話で出版して貰えるのだそうです。その炉辺叢書の主宰者は柳田国夫とかいう人で/五月の半ば頃に欧州へ行かれるとかいう話で、原稿は本月中に書き上げる事になっていますので、私は今、毎日それを書いています。  今日は真志保が町へ行って買物をして来ました。自分の算術教科書と、紙の様なものや味噌や鰊などを買って来ました。そして、ホクモン学校の西分教場が今度独立したお祝いがあるというので、余興見物に大喜びで飛び出してゆきました。さぞ面白いのを今頃見物しているのでしょう。浜のフチも皆々様お変りありませんか?  このあいだ道雄さんが来て’大賑やかでありました。なかなかの上達したヴァイオリニストで随分面白うございました。写真術も上手いもので、札幌へ帰ってから早速私たちの写真を送ってよこしましたが/なかなかよく出来ていました。私の目なんか皿の様で、花はすりこ木の様で、大笑いの種にしています。真志保はよく撮れていました。今度お目にかけましょう。伊悦さん/優等ですってね。皆様によろしくお伝え下さいます様お願い申し上げます。  ミサホちゃん/さぞ大きくおなりでしょう。ハヤく逢いたい事ね。有珠の姉さんその後どうなすったでしょう。さっぱり便りもありません。タカナカさん/どうかして合格である様に祈っています。然し不合格でもそれは運ですから失望だの落胆なんかしないほうがよろしゅうございましょう。真志保の様な人は一番ようございます。直ぐに気を取り直してその後’を奮発しますから‥‥。何だか底冷のする様な風が吹いています。それでも太陽が照って遠山肌を白く光らしています。其処にも此処にも道が悪い為に行きなやんでいるウマゾリが見えます。雲雀はちっとも休まず歌いつづけています。では今日はこれだけ、お父様におねがい申し上げたく書きつらねました。何卒御両親様/お身をお大切に、タカナカもミサホもお健やかのほどお祈り申しています。    四月九日/さよなら◇ ユキエより  愛する御両親様         おんまえに ◇。◇。◇。◇。◇。  伊藤元子宛(北海道・名寄)  大正十一年五月頃(東京発信) ◇。◇。◇。◇。◇。  おたよりを下さいまして、本当に有難うございました。まことにうれしゅうございました。皆々様おかわりなくて、けっこうですね。北海道は、たいへん寒いとゆうことをきいてたまげました。それでは、はたけものはよくないでしょう。東京は、こんげつ一ぱいめったに雨もふらず、かぜもなくて、まいにちまいにちやけるほどあつくて、わたしはもうすこしで、くたばってしまうところでした。東京はいつでもあついそうですが、今年はとくべつにあつくて、三十五年からないほどだそうです。ほんとに、この前あなたの十家へ上がった時は、ひどいご病気で、とうとうあなたにあうことが出来なくて、ざんねんでした。今年のうちにわたしは、こたんへ帰りますが、また、こんど、あがりますから、どうか、よろしくねがいます。 ◇。◇。◇。◇。◇。  知里高吉・ナミコ宛  大正十一年五月十七日付(東京発信) ◇。◇。◇。◇。◇。  五月十七日  愛するお父さまと-お母様に‥‥。五月十七日午前八時半ユキエより  大層御無沙汰致しました。フチたちや御両親様は-どんなに御心配下すってお待かねでいらっしゃいましょう。  来てから直ぐに書けば、いくらでも書けるんでしたけれども、よくばりでもう二三日も暮して見たらこちらの様子がよくわかって細々とお知らせが出来るかと思いまして、ついのびのびになりました。が、その二三日になってもまだスッカリはかたまった気持ちをあらわす事が難しい様です。そのあとはお変りはございませんか? あの日、お母様は六時の汽車にお乗りになりましたか? かわいそうにフチたちは-どんなにか私のために、夢見などを気にかけて心配している事でしょう。  東京! 大日本帝国の首府であるこの東京の地を一歩ふみしめた時の気持ちは? ときかれても、私はなんにも変わった答えはまだ出来ません。だってなんにも北海道の家と違った家がある様でもないし、違った人が通るというわけでもない様なんですもの‥‥。もう少したったら何かまとまった感想を書く事が出来ましょう。  先ず旅中の事どもを書きつらねましょう。京城丸の後甲板に立って、次第次第に離れてゆく小船の中のお母様と、白いきれをふって別れたその時の心持は、何と云ったらいいでしょうか、今’思っても涙がこぼれます。  カラカラと碇をまきあげて船が黒い煙をのこして出帆した時、堪らないほど心細くなったんでした。打見やる岸辺の何処かでお母様が見送っていて下さるかしら、と思っていくら目をみはっても、なんにも見えないし、だんだん遠くなって室蘭の町が船の直後になったり右手に見えたり、左手になったり:、グルーッと回って大黒島とか云う燈台のある島のそばを通った頃は、船客が私のそばで楽しそうに話をしているのに気をつられて、スッカリもとの人になりました。話相手が無いものですから船縁につかまって遠い景色をながめたり、緑の色にゆらゆらする波を見たりしてスッカリ-フネと仲よくなってしまったのです。京城丸とひと足違いに幸丸とか云う汽船が出たでしょう。あれがだんだんおくれて、ズーッと後からついて来た様ですが、それもいつか見えなくなって:、赤い夕陽に照されて、コウハ、リョクハを漂わす美しい海原を、船は白い波紋の足跡をのこして、太い波のうねりを道連れにだんだんと進んで来ました。めが回るなどと云って船室にはいってゆく美しい奥さんもあり、風が寒いとマントを引っかけた紳士もありましたが、私は寒くもなし、目眩も幸いと致しませんでした。それでも二時間ほどたって薄暗くなると人はみな何処かへはいってしまって、私一人になった。それに白い作業服を着けた船員が来て、何処へいらっしゃいますか、だの、何処からいらっしゃいました、だの、淋しいでしょうだのって云い出したので:、御親切が怖しくなったので船室へ飛込み、みんなの真似して羽織をぬぎ、アオムケに寝そべってしまいました。ゆで卵を二つで腹を拵えたんですから疲れも何もなく、何時の間にかグッスリ寝こんでしまいました。フト目を覚ますと、狭い船室の中を電灯が青白く照して同室の大学生や、あのメンコイ子供を連れた紳士などが手足をのばしてグーグーと鼾をかいて寝ていました。  寝床を這い出して便所へ行き/窓から見ると、相変らず船は油を流した様な海の上をすべるように進んでいました。しばらく見とれていたら、人の気配がするのでビックリして出て見たら、白鬚のお爺さんが先刻から私を待っていたのでした。それから食堂のほうへ出て見ると時計はちょうど十二時になっていました。其処にある大観だの中央公論だのの頁を繰って拾い読みして、そこいらの弁当代の掲示などを見てから再び毛布を被って寝に-いりました。フト物音に驚いてさめて見ると、これは大変、同室の人たちがみんな起きて靴を履いたり、外套をつけたりしているのでした。私も起きて身支度をして外へ出て見ると、青森の港へ入ったとおぼしく、京城丸は大きな声で、おはよう- と叫びました。有明の部屋に十六夜ほどのまるい月が銀色の淡い光を波上に投げ、海上たいらかに爽快な暁の微風をのせて遠く明滅する青森港の美しいヒイロをうつしていました。薄暗にしろく横たはる大きな汽船の黒い影が三つ五つ。京城丸は悠々と碇をおろしました。  見ているうちにあたりはだんだんあかるくなって来ました。左右に見える青黒い三角や丸の山々を見つけると私はまた今更ながら郷なつかしのジョウにかられました。私がねむってるあいだにもう我が北海道をはなれてしまって、海をへだてた別な島へ来ているのだと意識して‥‥。  いつのまにか’月の影も消えはててスッカリ明るくなってしまうと、向こうから面白い形をした舟が小さい煙筒から白い煙をはいてプーと細い掠れた声を出して私たちのほうへ来ました。ハハア、歓迎(ウエルカム)と云うのだな、と思って私は思わず笑みをうかべました。そしてその舟の尾にまた二艘の舟が長い綱でつながっていました。そしてグルーッと京城丸の船首がセンビを回って私たちの前へ来た時は、何処でおいて来たのか尻尾につながっていた子供舟がなくて、たった一艘で来たのです。それからまたあの昇降場から幅二尺ぐらいの梯子をおろして、赤いお鬚をぴんとたてた赤い筋のはいった服を着た人に、昨夜/乗船券(あとで買った二等の)と引換えて貰った上陸券を渡して傘を杖に-おりました。下には水夫(括弧クエスチョン)がいて、少しふらふらして足下があぶなそうになると抱く様にして支えてくれるのです。ご婦人は中へ何卒、と云われたのでなかをのぞいて見たら、薄暗い船底の小さい所に青白い顔した婦人船客が、ギッシリと膝をぶっつける様に腰かけていました。それを見ると嫌になったので子供をおぶったもう一人の女と一緒に外に立って柱につかまっていました。あんな暗い何か臭いでもしそうな所にいるよりは外で風に吹かれたほうがよっぽど気持ちがよろしゅうございます。それからタムラマルとかいう大きな汽船の横を通って波をわけて白く砕きながら参りますと、フネは海の中へ突き出た板橋にぶっつかる程に横づけになりました。あの室蘭ではしけに乗る時の様なあぶない事はありませんで、フネから直ぐに梯も上らず平らな所をあるいて上陸しました。  私をここまで送ってくれた京城丸、またこんどは、今日は出かけて明朝は室蘭へ着くのであろうこの船に心しあらば/故里の愛する人たちに私の無事に上陸したという事を言伝てようものを‥‥。無限の思いを胸に-いだいて京城丸をふたたび顧みて、無言のうちに別れを告げて波止場をあとにホをはこびました。上陸したら何だか足がふらふらして胸の中がかゆい様な感じがしました。道の両側、彼方にもこちらにも赤いオオ林檎を山と積んで、光った眼に商売人の色を湛えた男たちが、:「姐さん、ねえさん、林檎をお買いなさい、東京へのお土産に」なんて、何処へ行くとも云いやしないのに、人の顔に書いてあるのを読む様な目をして-「おいしいんですよ、東京の人もよろこびますよ」だのって、口々に人を呼びかけるのです。一人の紳士など顔先へ林檎の袋を突きつけられてビックリしていました。それから上陸した時に俥屋さんが沢山いて、乗らないか乗らないかって上がる人’上がる人におじぎをしていました。嫌なのでズーッとよけて通ったり、そのよけたほうの道側に法被を着た人がいて、どちらへと云うから黙って行きすぎようとしたら、上野へですか。ハイと云ったらナンジでいらっしゃいます? 一番で。一番よりも急行のほうが便利でございますよ。急行は何時? 「一時でございます。あちらへ着くのは明日朝七時で、一番で行くのと二時間しか違いませんが、急行のほうが楽で気持ちよくゆかれます。急行になさいませ」:「だって一時までこれから待っていたら大へんですよ」:「いいえ、お退屈なさらない様に致します。ご案内致しましょう」:「おやおや大へんだ、誘惑‥‥。ありがとう、いいんですよ」と言ってクルリと後向き、さっさとまいりました。青森駅の構内で少し休んでブラブラと外をあるきました。直ぐわきに小さい郵便局があったので、其処で金田一先生の所へ打電しました。あんまり林檎が美味しそうなのにのどがかわき出したので、六十八銭出して大きな林檎の十五’入っているのを買ってブラ下げて来ました。スルトまた法被を着た宿引だか何だかにつかまったので-「いいえ今一番で行くんです」と言ってプイとそらして参りました。やがて六時十五分発、東北本線上野行に乗りこんで汽車が動き出した時は、私は、あの小さいフォークで林檎の皮をむいて頬ばっていたのでした。  人先に乗っていいあんばいな座席を選んで恬と構えて動かなかったので:、発車までにはよっぽど沢山の人があとからあとからとはいりこんでウフトフトした様でしたが、知らん顔して林檎の美味さに舌鼓を打っていたのでした。  あそこらの地名は随分’面白いのが沢山ありました。スッカリ忘れましたが、アイヌ語そっくりのがありました様です。あさむしなども。海が凪ぎて美しい景色でした。絵に見る様な海浜の松などもめづらしいと思いました。山のカタチ、岩のカタチ、すべてが内地へ来たのだという感じを起させました。あそこらの駅から乗りこんだ女の人たちの物の云い方も面白いと思いました。あまったるい様な声で‥‥。  桜の満開になっているのも見ました。緑の草原に点々と燃える様な赤い色した花はつつじでしょう。雪の様に白いのはすももでしょうか。だんだんこちらへ来ると、林檎の花や桃の花が見えました。乗客が、あれは桜、これは桃と話しあっているので私にもわかったのです。桃が沢山咲揃っている所は随分見事な物でした。残りの三つの卵を一度に食べてしまいました。もう一つぐらい戴けばよかったと思った程美味しくいただきました。来るに従って乗客が減って、大層らくになりました。足をのばしたり身を横たえたり好きなふうにして参りました。が、時々は無闇とこむ事もありました。はじめのうちは外の風景をながめるのもようございましたが、だんだんそれも嫌になって寝てばかりいました。眠ったりさめたり落付きはありませんでしたが随分楽な旅であったと思います。寿司と弁当を買って/寿司のほうはその日に食べて、弁当は夜半頃にと、四時頃(翌朝)にと/二度に食べました。盛岡あたりからだと思いましたが、二人の男が私の前とソバとへ来ていましたが、馬喰でもやってるらしく、馬に関した話ばっかりしていました。馬を三頭つれて来たら、何とか云う所を夜さしかかった時に馬が何かに驚いて何処でも構わず跳ね回るので、自分の手を木の枝に引っかけてけがしたのだって、繃帯をしていました。二才が-どこだかへはまって足を打ってしまったんですって。鹿毛の二本白で何とかボシで、やっと売口を見つけたので連れて行って見て貰おうと思ったらそんなになったので六百円の損をしたなんてこぼしていました。随分運の悪い人もあるものです。家の馬ちゃんたちをお大事に。  だんだんこちらへ来ると、もう麦の穂が出揃っています。水田も苗床の苗がだいぶのびていました。暗くなって-なんにも見えなくなる頃は客もメッキリ減って、スッカリ汽車の旅にはあきあきして目を開いて見るのさえ億劫になりました。便所や洗面所に近く座を占めているのでそのほうもちっとも不便が無いので、気持ちが悪くなると顔を洗いました。四時頃に起きて身仕舞いをして夜明を待つ時の待遠しさ。そしてやっとあかるくなっても、なかなか上野へは来ないので汽車のあゆみがもどかしい程でした。それでもやっと、日暮里、この次は上野ですからお忘れ物のない様に‥‥という車掌の言葉を待つまでもなく、傘と風呂敷ヅツミとを持って今やおそしと待ち構えて、とうとう上野へ着きました。みんなが-でてからあとをのこのこ出かけると、この列車は途中で二台もついだんですから、長い事長い事、そして出るわ出るわ、大したものです。私は持ち前の遅足行進で石畳をこつこつと踏んで来ると改札口へ出ました。ふところから切符を出すまでは、私は、足下ばかり見つめていました。目が疲れているのに、あまりキョロキョロすれば体裁がよくないし、小さい眼が大きくなるといけないからです。そして、湯の滝さんの絵図面を思い出してヒョイと顔をあげると、そこには、ニコニコした金田一先生が立っていらっしゃいました。優しく、お疲れでしょうと云われた時は涙が出る程嬉しゅうございました。手荷物の札を渡すと、取扱所へ行って受取って来て下さいました。そして、人力車の切符を二枚買って、私は大威張りで先生と俥に乗って、先生よりも先になってしまったので恐縮しました。着いたのは五時ですから人通りがよけいなくて、道路がシットリ濡れているのは、気持ちよい感じがしました。旭川や室蘭の建物よりもよほど大きい家が一ぱいならんでいました。道を通っている人たちは東京の人ではなく多分田舎から来たのでしょう。そういう様な顔した人ばかりでした。それから右へ曲ったり左へ曲ったりして、せまい道へはいりました。大概の家では戸をしめているのです。東京は夜がおそいから朝もおそいのですって。それからまた電車通りへ出てどう来たものかわかりませんが、大学の前を通ってせまいヨコチョウへはいって、そうして此処へ来たのです。其処で先生にも改めて御挨拶し、はじめてお目にかかる奥さまにも御挨拶を申し上げました。それから盛岡からヘイハク見物に来ているのだと云う金田一先生の弟さんの次郎さんという方にも紹介されました。金田一先生は、シ五年前に北海道へいらしった時と少しも違はないお優しさですし、奥様もりっぱな/せいの高いかたで、非常に親切なかたな様です。この頃二人になるといろいろな事を話してきかせて下さいます。そのお話は後便に譲りましょう。三年生の春彦さんと云う坊ちゃんもいらっしゃいます。  この方がこのあいだの日曜に、私に大学へ行こうって誘うので一緒に出かけましたが、電車通りが直ぐ前にあるのでそれを横切るのにだいぶかかりました。坊ちゃんが先に行って、おいでおいでをしているから、行こうとすれば電車が来る、行ってしまったかと思えばまた来る、またあとから来る、自動車が三台も四台も両方から来る、俥が通る、自転車が通る:、いやはやなるほど東京はおそろしい所じゃと思ったのでした。大学へ行って坊ちゃん-と一緒にいろいろな花をとりながら、きれいな池のそばでやすんだり、運動場の大学生のテニスも見ました。初夏の木々の鮮かな若葉にいろどられた、赤い煉瓦のオオ建物がいくつあるのか知りませんが、ある事ある事、驚くよりほかありません。工科大学、文科大学、医科大学なんて、別々に立札してありました。  柔らかい芝生の上をあるくのもいい気持ちでした。池に鯉が一ぱいいて、時々跳ね上がるのも面白うございました。そうして遊んで帰りました。  二つになる赤ちゃん(若葉さん)がいて、この頃病気なのです。この冬/奥様がご病気で乳がなくなったんですって。それで牛乳でばかり育てたら/量が多すぎて消化不良になって、その上に風邪をひいたので、今’二十何日もたつのになおらないのですって。東京で一ばん出来る小児科の字都野と云うお医者にかかっているのですって。一日おきに奥さんが、女中さんと一緒に医者へ行かれるようです。その為に奥さんも夜ねむらないので、頭が痛くて困るそうです。前に三人の女の子をなくしたんですって。それで体が弱くて三年前から神経衰弱にかかっているのだそうです。このあいだじゅうは、ヘイハク見物で国から客が沢山にあったそうです。日高のウナラベは、マゴと姪だか二人のむすめを連れて来て二十日ばかりいましたが、私が来るニサンニチ前に帰ってしまったそうです。その婆さんは今度で七回目の上京ですって。  家は平家建の広くないイエです。お座敷が一つ、先生の書斎が六畳マ、茶の間が六畳マ、お勝手が一間半に一間半ぐらいで、庭は二間半幅ぐらいで、こんな広い庭はめったにないのだと云う話です。夜は、私はきくやと云うジュウシチハチの盛岡から来た、人のいい女中さんと茶の間に寝るのです。お母様の角巻と、大きな夜着とを着ています。今度、先生の書斎に大きな机があって誰も使わないから、これをあなたの机ときめましょうと、先生に云われて、この手紙もその机の上で書いてるのです。先生は学校が八時ですから、七時すぎにはお出かけで、四時頃お帰りになります。なんでも大学の方ばかりでなく、女学校も二つか三つ持っていらっしゃるそうです。まあ書物のある事ある事、驚き入りました。奥様が笑って、家では何もございませんが、本だけは財産なんでございますよ、と仰言いました。考古学、歴史、地理その他の文学書類が、沢山ある大きな書棚に一ぱいつめてあるのです。なんでも好きなのをお読みなさいって奥さんが仰言いました。来ると早々/先生が、アイヌの辞典の古いのや新しいのやその他アイヌの研究に関する本を一ぱい出して、私の机のウエがそれで一ぱいになっています。  来てから三冊ばかり、本を読みました。それから、夜などちょいちょいアイヌ語の事を質問されます。金田一先生がきくのは、スッカリ覚えていて、学問的に質問するんですから、おかげで私も今まで考えた事もない事を考えて見たり、難しい文法などを知る事が出来ます。アオカイのアだの、コマクナタラのコだのという様な、普通私たちが使っている言葉を学問的に分析して説明しなければだめなのだという話です。昨夜は、学校で習わなかった文典(動詞だの名詞だの第一人称だの二人称だの属格だの主格だのという事)を教わりました。これからまたアイヌ語を懸命に書かねばなりません。女中さんがいるので家の事は何も手伝う事は無いので、ただアイヌ語の話相手、相談相手と云った様な形です。体のほうも、もう-ひと月もいてみなければ合うか合わぬかわかりません。もう-ひと月もいればこの辺の様子もわかりましょうし、心持も落付いてくるでしょう。  一昨日/電車通りへ出て買物をしました。やっぱり要るもので、だいぶ使いました。今道雄さんからの預り金を別にすると三円いくらしか残っていません。お母様からいただいたお銭は、いただいて本当によかったのでした。深く-ふかく御両親様にお礼を申し上げます。フチからも沢山いただいてありがとうございました。私はフチの言った事は一つも忘れないで守りますから決して御心配下さいませぬ様にと、フチにも/浜のフチにもお伝えのほど、おねがい申し上げます。(カムイシクトツも箱の中にはいっています)  今に赤さんがよくなったら何処だかへ連れて行って下さるのですって‥‥奥様が‥‥。気候は登別と大した違いはありません。今日はむやみと寒い日で、みんなで羽織を着ています。主婦の友と家庭雑誌も読みました。  お父さまもお母さまも-さぞ/相変らずお忙しい事でしょう。ヒヨッコも大きくなったでしょう。みっちゃんの忙しそうな、かいがいしい様子も目に見える様です。有珠の姉さんは無事に着いたでしょうかしら。  何卒みなみな様によろしくお伝え下さいませ。詳しくはまたあとで申し上げます。今日はこれでも出来るだけお知らせ申し上げたつもりです。随分おしゃべり致しました。では何卒、御両親様はじめ御一同様/おからだをお大切におはたらき下さいますように祈り申し上げます。    五月十七日午後一時半  さよなら   御両親様       御許に ◇。◇。◇。◇。◇。  知里高吉宛  大正十一年六月九日付(東京発信) ◇。◇。◇。◇。◇。  親愛なるお父さまお母さま、本当に久しぶりで手紙を書く事が出来て嬉しゅうございます。この間はおいそがしい中を御手紙を下さいまして誠にありがとうございました。お父様のご病気も早く御全快のよし、なによりも嬉しゅうございました。色々と承りましてまったく面白うございました。お母様は六月二日に、まだ畑を蒔かないとの事ですが、それは大へん遅れましたのね。その原因は私にも大いにある事でございましょう。毎年毎年おくれてばかりでほんとに困りますね。運動会にミサホちゃんのお宝がとられて大へんでしたのね。フチも皆々様ご壮健で何より結構でございます。私は相変らず元気でございます。御安心下さいませ。私もだいぶ忙しい様な気がするようになりました。だって毎晩英語を五課づつ(ナショナル一)習うのですが、私にはとても一度で覚えきれないので復習しなければならないのです。それにこのあいだ、あのアチャボがやったユカラをまだ書いているもんですから‥‥。  赤ちゃんはこの頃/大へん丈夫になりました。今日’女中さんがおぶって奥様がついて医者へ連れて行きましたが、もうたいていはよくなったとの事だそうです。赤ちゃんがよいと、従って先生も奥様も夜’はよくねむってお顔が生き生きしてる様に見えます。  三十日の火曜には先生がお風邪ひでおやすみであったので、赤ちゃんと先生と坊ちゃんをお留守居にして、奥様とおきくさんと私と三人で遊びに出かけました。先生は大学と中学校と女学校とみんなで六つの学校へ言語学の講義に出かけるので/声がなければ出来ないのですって。このあいだ風邪を引いて声が出なかったからお休みなすったのでした。さてその日は朝からいいお天気で仕度をしましたが、生憎お客様でスッカリお流れになりそうでしたが、お客様がお昼がすんでから帰ったので、三時頃から出かけたのです。大学の赤門をくぐって大学病院のソバを通ったのはわかりましたが、あとは何処をどうあるいたのかわかりませんでした。赤門は正門から少し離れた赤い門で、奥様のお話では五百年程前に出来たものだそうです。それから上野の池の端へ出ました。春から夏へ移る時はネルを着るものだそうですが、私は生憎ネルを持ち合わせませんでしたので袷を着ようかと思いましたが、思いきって単衣にしました。奥さんはネルで女中さんは袷で三段になって出かけましたら、東京の人は-たいがい単衣を着ていたので:、奥様は私が一ばん進歩してるなどと笑いながら行ったのですが、池の端という所は非常に涼しくて単衣では涼しすぎるほどでした。池はまるで海の様で、水上飛行機がブーブーブー滑走していました。池をへだてた向こうは名にし負う/博覧会会場で右手に所謂平和塔が青空高く聳えていました。絵葉書にあるのとおんなじに赤だの青だのの色を塗った会場の建物は実に絵に書いた様でした。そよ風渡る池の-おもて、よせる小波は何かしら、室蘭から青森へ渡った時の海上の状景を思い出させました。まんなかの休息所の細い青竹に清水を今かけたばかりの様にハラハラと露が滴っているそばを通って中へ入ると:、赤い毛布をかけた腰かけがズラリとならんで正面は青い池、対岸は北海道館の面白い建物、後ろや横は各地物産陳列売店と料理屋で、中々にいい景色でございました。そこでおなじベンチに奥様とおきくさんと三人で腰をおろしてしばらくやすみ、奥様は一円二十銭出して三人分の炭酸水と蜜豆をとって下さいました。炭酸水は苺ので、真っ赤な色の水がこっぷ一ぱいになっていて箸の様な「かや」の棒がついているのです。ハテナ飲むものに箸がつくなんて面白いものだと思って奥様に言ったら、笑ってそのかやは一度にガブガブのんでもあまり見っともよくないから、かやで少しづつ吸うのです、と教えて下さいました。成る程かやで吸って見たらいいぐあいにノドへスースーと流れこんで如何にもしとやかな令嬢になった様な気がして/なるべくつつましやかに、口をすぼめてのみました。したにおいては取り上げてのんでるうちに、ひょっと忘れて持前の大口でコップから-じきに口へ当てようとしたところで気がついて心の中で頭をかいたりしました。蜜豆は、ところてんの様なものに甘いお菓子だの、赤や白の「ふ」の様なのだのはいった涼しそうな物で、東京の名物だとの事でした。あまいのあまいのと云ったら、おはなしになりませんでした。連れのおきくさんは、むしばで蜜豆はよくたべられないし、炭酸水はむねが悪くなって飲まれないというのにひきかえ、私のほうは御馳走になるものは何でもよろこんでいただく。奥様は「本当に好い人だ」と私をほめて下さいました。うまいものを沢山食べて、それでいい人になるので私は非常に-とくだと思いました。それから売店をズラリとひと廻り見て歩きましたが、北海道と別に変った事はありませんでした。私の単衣ヂの柄を奥様に見たてていただいて、一反2円五十銭のを買いました(先月旭川のおっかさんに五円送って貰いました。今、一円四十一銭あります)。その時、おなじ値段のものを奥様も女中さんも買いました。女中さんは私のとおんなじ-がらでした。奥様はちょうど私に似合う地味ずきな人らしゅうございます。着ている着物なんかまるで地味なんです。先生とおはなししていらっしゃるのをきくと「この頃は嫁に来た時よりもズッとずっと若づくりになったなあ」との事でした。この間買ったのはなるほど、私が着てもいい様な-がらでした。それからきれいな朱鷺色の絹しぼりの帯締を私は買っていただきました。女中さんは真っ赤なのでした。それから平和塔の下を通って石畳の坂を上って、多分あれは上野公園でしょう、アオクサが気持ちよく生えている山見た様な所の下の道を通って、何処だか回って上野の電車通りへ出ました。博覧会は五時半までですから見られませんでした。  奥様にたのんで、道雄さんに頼まれたものを探しましたが、どうしてもありませんでした。一円を送り返そうと思いましたが、今度三越へ出かける時にまた探しましょうとの事で、まだその-かねを預かっています。  それから、松坂屋という店にはいって、四階まで上っていろいろな物を見て来ましたが、私にはただただ驚嘆するばかりで言う事もなくなった様でした。エレベーターに乗ると上る時は気持ちがよいけれども、止る時にひょっとシタへさがるので思わずハッとして、びっくりして言うと、奥様はニコニコしていらっしゃいました。着物だかオビだか反物だかシャツだか、見て見て/しまいに目が回るようでした。欲しくなるよりも恐くなるようでした。おはなしする事も何も出来ません。三越はまだあの松坂屋の三倍もあるのだそうです。それからまた大学病院のそばを通って赤門から出て参りました。私はもうあれで沢山、何も見物しなくともいいと思いました。それよりも英語がたのしみです。電車通りを横切るときなんか、小さな眼も思わず知らず大きくなってしまうようですもの。  東京の家には柾葺の家がありません。みんな瓦葺でございます。道を通る東京の人はどれだけ私たちと変っているか、と見ると、先ずやはりおんなじ人間でちっとも変りないと思います。ただ私の様にノラクラしたものはめったになくて、みんなキビキビと動作が機敏で目がキョロキョロと忙しそうな所が都会人の特長らしゅうございます。余裕がないから、都会人は神経過敏なんですって。あんなにぎやかなところへ入るのは私には本当に不適当、ノラクラ婆さんですから‥‥。  東京へ来た甲斐に、えらい人の演説にでも連れて行ってきかせてあげようと先生が仰言いました。然し家にいても随分来た甲斐があったと思います。だってご主人が学者ですから、話される事を聞いていればまったく学問をしてるとおんなじですもの。何かの話のついでには色々な事を学ぶ事が出来ます。奥様はまた、いろいろな事を旦那様に質問なさるので私も一緒に先生の説明をきく事が出来るのです。ニサンニチ前には政治談をきかされました。細々と政治の説明をされるのを奥様は生徒の様に熱心に真面目に敬虔な態度できいていらっしゃいました。昨夜は書斎で先生と奥様と三人で十一時すぎまで思わず話に時をうつしてしまいました。それは宗教談でした。学問を修めた人の宗教心理とでも云うのでしょうか、ああいうえらい人の宗教談などをきくのは実際/いい事だと思って熱心に傾聴しました。奥様は重なる不幸にすっかり心がひねくれて、その為神経衰弱だのという病気を得たのですが、宗教にはいればきっとなおるだろうと思って自分も進み、先生も勧めて:、それに沢山今までに宗教家と交際する機会があったのだが、まだしっくりと得られないのですって‥‥。先生の宗教談には何だか私もスッカリ共鳴する事が出来ました。そうふうな事で、昨夜はそれからそれへと為になる話ばっかりをききました。ふだんでも無駄な話など一つもありません。みんな私には学問のタネです。直ぐ近くに本郷基督教会があると云うので四日の晩、行って見ましたら、会衆が十二人で、しかも二三人をのぞくほかみんないねむりをしてるには驚き入りました。牧師さんのおはなしもまるでねむったい-ようなおはなしで、東京にもああ云う教会があるのかと驚かされました。沢山教会があるから、此れから、片っ端から出かけて見ようと思っています。  これから東京は梅雨にはいるので、みんないやだいやだと云っています。私は梅雨はそう恐くないけれども、梅雨のあとがおそろしゅうございます。二十日ほども/降りみ降らずみが続いて今度は大へんなんですって、暑くて暑くて、毎日の炎天つづきになるのだそうです。東京の暑さにユキエさんが持こたえるかどうか心配だなあ、と先生が心配していらっしゃいました。暑さは心臓を極度に衰弱させますから心配ですが、まだ当って見ずに危惧してもつまらないから、成行にまかせます。神様の聖旨のままに‥‥。本当に世にも不幸なのは身体の不健康でございます。何をするにも健康は資本になるのですから‥‥。そこに不安が伴い不快が伴のうてあたりの人の為にも-どれだけ影響を及ぼすかわからないけれども、病’もまた神様が何か聖旨あって与え給うものでありましょう。自分ばかりをたのむ慢心、不謙遜な人の心を挫くために与えたもうた神様の鞭でありましょう。そして神の愛にすがらせる神様のお導きでしょう。だからせめては、かくなった弱い身も魂も神に任せて、そしてこれから私は安心をして喜びと感謝をもって人に接し、愛を持って人と交って、そして世渡りをしようと思います。自分の幸福ばかりを考えるから、悲観もあり、なやみもありますが、身をよそにして人のために最善をつくそうと思えば、何も悲しみもなくなる、と思います。此処へ来ていろいろな本をよんだり、先生のお話をきいたりして、私は何だか心が軽くなった様な気がするのです。今の私の心持をみんな書き表して御両親様によろこんでいただきたいけれども、どうしても出来ませんから、ただ私の心が今まで少し変ったと云う事をよろこんで下さいませ。だから、これからはきっと悲観したりひねくれたり、不快な顔をしてお父様やお母様のみならず誰にでも不快な感情をあたえる様な事は致しませんつもりでございます。  大へん長々とおしゃべりを致しました。また今度、何か変った事があったら沢山書きます。羽織は夏が越せるかどうかを見てから申し上げます。  何卒お父様もお母さまもおからだをお大切になすって下さいませ。真志保から手紙を貰って一等賞をとった事をきいてよろこんでいますが、タカナカからは何のはなしもありません。達者でさえいれば手紙をよこさずともよろしゅうございます。忙しいのに、メンドくさいのに手紙を書かせるのはかわいそうですから‥‥。シキウのおばさんには、前にたしかに絵葉書を出したのでしたが、どうしてとどかなかったでしょう。今度は登別へ出しましたから、お渡し下さいませ。伯母さんに便りを出す事を私が何で忘れる事が出来ましょう。有珠の姉さんにはまだ出さないでいます。郵便銭がなかなかですのに切手を下さいまして何もありがとうございました。  フチたちにもミサホちゃんにもよろしく。そのタのみなさんによろしく。この間、みなうならぺと浅江の夢を見ました。もう英語の時間ですから、これで筆をおきます。さよなら    九日ユキエより  愛する   御父上様   御母上様       御両所へ ◇。◇。◇。◇。◇。  知里高吉・ナミコ宛  大正十一年七月四日付け(東京発信) ◇。◇。◇。◇。◇。  愛するお父さまお母さま、このあいだはお手紙を誠にありがとうございました。御両親様はじめフチ達も、皆々様お障りもなくいらせられます事は何よりも結構な事でございます。私もおかげ様にて神様の御守護の許に無事暮していますから、御安心下さいませ。お手紙はツイタチにいただいたのですが、大変な出来事の為に、ついつい今日まで御無沙汰致しました。大へんな出来事と云うのは二日の日曜日の大変事の事です。なんでも朝十時頃でございました。お書斎で先生の御質問に応じていた時、春彦様はお友達と戸外で遊んでいらっしゃいました。ところがゴモンのほうからあわただしく飛こんだそのお友達の子は、書斎の障子のかげで-「おじさん! 春彦さんが井戸へ落っこちた!」と申しました。その時先生は、ハアと云う声もろともに、まるで弾き返された様に玄関から飛び出しました。お座敷で赤ちゃんをあやしていらした奥様も大きな声を出したので赤ちゃんがワーッと泣き出しました。外は人声で耳もないよう、私は何だか馬鹿になった様な気がしました。外へ飛出すと家の前は人の黒山。先生が一目散に交番のほうへ走っていらっしゃった後姿が見えました。そのうち、井戸のほうでは「スッカリつかまっていらっしゃい」という声が耳にはいったので、先ずそれでは生きていらっしゃるかと少しほっとしました。巡査が来る、梯子が来る、もじゃもじゃ人が井戸のわきで大騒ぎ。人の中に三人かたまっている奥さんと女中さんと私のほうへふりむいて「梯子でなければ駄目だ! 金槌を持って!」と仰った先生のお顔の色はまるで草の葉の色そのままでした。奥様は青ざめたお顔でただ、きっと唇をかみしめていらっしゃいました。かたづをのんで見ていた時、人をわけて出て来た屈強の若者の背には土色した顔に黒い瞳をみひらいた坊っちゃんの顔が見えました。着物は泥と血’にまみれていました。男はそのまま病院へとかけ出しました。奥さんは赤ちゃんを女中さんに渡して後を追われました。先生も‥‥。女中さんは着物をとりに帯をとりにと往ったり来たり、私は赤ちゃんを抱いたまま、とめどなく流れる涙をどうする事も出来ませんでした。近所の奥さんやおかみさんが飛こんだり、小僧どもがかけこんだりしました。そのうち、にこにこしてはいっていらしったのはこの前いらしった事の一度ある春彦様の叔父様(先生の弟様。博覧会見物にいらしった方です)でした。ていねいにおじぎをしてさっさとはいってくるので春彦様がかくかくと話すると「おやっ! 僕はまた井戸の掘変えかと思った。春ちゃんの写真をとろうと思って来たのに‥‥。」と青くなってかけ出す‥‥まるで夢の様でした。やがてお帰りになった坊ちゃんは割に元気でいらっしゃいました。イチニチ、先生はつきっきりでお相手をなすっていらっしゃいました。あとできくと、頭にも数ヶ所の小さい傷がついて、がらすのかけらや何かが一ぱいはいっていたのですって。足には長さ二寸、深さゴブくらいの傷がついて、ロク針とか7針縫ったのだそうです。昨ヤ医者へ先生と奥様がいらしった時、私もイセレマクシする為に赤ちゃんと一緒にお供致しました。そしてその傷を見て本当に驚いたのでございました。  日曜の夜おそく、先生はふだん坊ちゃんの欲しい欲しいと言っていらしったハーモニカを買っていらしったので、昨日も今日もそれで退屈なしに楽しく暮していらっしゃいます。先生が学校へいらしったおるすには、私がお相手をしています。奥様はその当座はしっかりしていらっしゃいましたが、もとより御病身の事故、お気疲れが一度に出て今日はおトコにやすんでいらっしゃいます。夜になると坊ちゃんはうなされてうなされて、十二時頃までは、先生と奥様が両側から慰めたりさすったり撫でたりしていらっしゃるのです。その井戸は向かいの家の脇にある古井戸で、ちょっと覗いてもキミの悪い井戸です。二間あまりの底のほうに泥や水があり、ごみと硝子やビンの破片が一ぱいはいっているのです。坊ちゃんが彼処へはいって助かったのはまったくの天祐で、大人でもあそこへはまったらたすかる事はクブクリンまでも望みのない事だと衆人が驚きあっています。  先生が飛んで行ってのぞいたら、何だかに両手でつかまって上を見て「父さん-」と言ったのですって‥‥。お友達と一緒に蝶々を追っかけて下を見なかったので、腐れかけた井戸の蓋がどうかなって落っこちたのです。天才と云ってもいいほどの頭脳の所有者で、学校でも一番ばかり、級長をつとめている利口そうな黒い大きな目の持主です。華奢な体でおとなしいのですから、今までちっともこうした出来事が無かったのですって。それこそ一粒種の坊ちゃんですから、親御さんたちはそれこそサンベアットム◇ ヘセアットム◇ コテしている方です。あの時の光景を思い出すとぞっとします。先生や奥様のお顔の色を見ただけでもサンベヱンする様です。  先ずこれだけにして、その後/土地の一件は如何になりましてございますか。大丈夫と仰ったので安心していますが、一日も早く解決がつく様に祈ります。詳しく、おいそがしいのにお知らせ下さいましてありがとうございました。先生にもスッカリおはなし申し上げたら、先生もたまげたりおこったり安心したりなさいました。本当に同情深いお方でいらっしゃいます。北海道からのお土産は、まったく来て見れば何もめづらしいものはありません。豆類が一番いいのです。私が持って来た小豆は随分’喜ばれました。が、先生は日高のアイヌなどと御懇意ですから、豆のある事ったら驚くほどです。それでもいいあんばいにそのなかでも私のもって来た豆と小豆が一ばんよかったのです。それにいれもの(フクロ)がきれいなのでなおさら‥‥。  それから日高の婆さんが椎茸を送ってよこすので、椎茸は年中絶やすことが無いのですって。東京では非常に高いものですって。豆や小豆などは、東京のは粒が小さくて皮がかたくでちっとも美味しくないのですって‥‥。だから秋になったら小豆でも少しでようございますから、きれいな美味しいのがありましたらお送り下さってもようございます。メンドウでしたら送らなくともよろしゅうございますの。それからアイヌ細工はさっぱり見当りませんので、先生は欲しくないのかも知れないと思っていたら、それはこういう訳なんですって。他の人はただ細工物を買ってそれで昔の生活状態を調べるのだが、先生は言語を調べる為なので細工物を買うよりも、難しくてそれにのみ熱中して細工物や宝物のほうを顧る余裕が無かったのだそうです。お金の都合も悪くて‥‥。そして気がついた時はもうおそくて、昔のままのものは無くなって/今はただ和人のこのみのために手拭掛だの下駄の様なものばかりになったので、どうする事も出来ないのですって。ただ記念にと言ってアイヌウタラに貰ったイクパシュイが十ナンホンと、イナウルが一つとを持っていらっしゃるそうです。学問の材料にはならなくても、アイヌカラペだというものはうれしくなつかしいから、よろこんで手拭掛などを一つ貰ったけれども、勿体なくて使わずにしまってあるのだそうです。アイヌの惜しい彫刻の手際を、手拭かけなどに力を費すのは勿体ない事だ、と仰っていらっしゃいました。何だか、ニマだのというアイヌの実用品の様なものが欲しい様なご様子でした。  お父様がおひまでしたら、何かそういう様な物を一つつくって下さいませ。おひまはないのですから-ごゆっくりでようございましょう。手拭かけでも箸でもぺらでもかしゅっぷでもチポンニマでもマキリの鞘でもきっとおよろこびなさいます。フチにもおねがいがあります。ニペシの様なもので、タラでもムリリでもウトキアツでも拵えて送って下さいませ。それもゆっくりでようございます。カナウンタラでもアラシヌカタラでもようございます。フチのサラニプを大へん喜んでいらっしゃいます。  私は何不自由なく幸福に暮して居りますから、何卒/私の事は御心配なく。充分御両親様、おからだをお大切にお働き下さる様に祈ります。ミサホちゃんによろしく。山のフチ、浜のフチに沢山よろしく。  道雄さんの楽譜はどうしても無いので然う言ってやったら、それでは仕方ないから別な物を買って下さいと言ってよこしたので、発行所や売捌店がわかっているなら自分で御注文なさいと言ってやったら:、返事にそれでは注文するからその銭は姉さん使って下さいと云うので、気の毒な、折角たのんでよこしたのに‥‥と思ったけれど、お金を送りかえしてやりました。まさかお得意の「どうもありがとうございます」も、とても言われませんもの。北海道は大へん気候が悪いそうでございますね。作物は如何ですか? たけのさんがお訪ね下さるとの事、それはおなつかしゅうございます。何卒おついでの時、よろしくお伝え下さいませ。お待していますと。たけのさんさえ博覧会を見ないんですもの、私などまだ見ないのもあたりまえの事、この分ならもう見られないかも知れません。私、外へ出る事は大嫌いです。あんまり人がごちゃごちゃで息苦しい様なんですもの。赤ちゃんと一緒に朝か晩、散歩に出るのがたのしみです。ずっとあとは駒込とかいう所でした。木が沢山茂っているので何だかおそろしい。高い所から眺めるのが好きでございます。いろいろなりっぱな家の垣根越しに色々な花が見られます。あぢさいが、それはそれはきれいです。ざくろの花は火の様に真っ赤なんです。このお家にもざくろが咲いています。梨の木だの楓だの、椰子でしたか棕梠でしたか、名は忘れましたが、おそろしく/葉の棒の様に長いのがついた木があります。私が来た時に一尺ほどしかなかったダリヤが今では七尺ほど高くなって、もう-じきにお縁のノキより高くなるのだそうです。真っ赤な花が一輪咲いてだいぶ大きくなっていたのが、春彦さんのおけがの日の強い風で折れてしまいました。先生は、かわいそうに、坊やの身代りだ、なんて奥様と二人で愁然としていらっしゃいました。残りのが太い棒に結付けられてまだ花が咲きません。道雄さんの事を書いていた時、先生がいらしってしきりに何だか書いていらっしゃいましたが、それはまた服部内務部長へのお手紙なんです。このあいだ出した手紙の返事もないので、また書いてやるんですって。然ういう事は、私事でないから是非ああいう人の耳に入れておかねばならぬのだそうです。ただ今七時頃でございます。御飯がすんでから書き出したのです。何だか色々書こうと思いましたが、立ったり座ったりして落ち着きが無かったので一向’纏まりのつかない手紙ですが:、御両親様よろこんで読んで下さるだろうと信じてニこニこして筆をとめます。ではこれで、さよなら。  皆々様のご健康を祈り上げます。  ユキエより  愛する   御父上様   御母上様 ◇。◇。◇。◇。◇。 (以下二信)  タカナカにまた出しましたが返事がないから、達者でいるのだろうと思って、返事が無くても喜んでいます。もう試験で随分いそがしいのでしょう。かわいそうに夏休みも十日ぐらいしかないなんて。ニワトリさんふえておめでとうございます。ハタケも済んでおめでとうございます。三本白や(ひと文字不明)の赤ちゃんは如何ですか。今も畑の中を馬車を通されたりするのですか。いつ土地の事は解決がつくのでしょう? 随分腹立たしい事でございますね。  伏根さんの息子、本当に惜しい事です。それをきいた時、なんだかいろいろな事が思いあわされて悲しくなって泣きました。これからは健康体が一ばん必要になりますのね。私は幸いに何も苦しい事は無いのです。暑いと言ったって然う大騒ぎする程の事もありませんから、決して御心配下さいますな。梅雨のうちですから無闇と蒸暑い事もありますが、何でもありません。梅雨がはれてほんとの暑さが来て、うんと暑かったら訴え出ますから‥‥。夕方になったら奥様も起きて、だいぶお気分がおよろしいようです。私が朝晩赤ちゃんの-もりをするのをなんぼありがたがるんだか、昨日なんか涙をうかべていらっしゃるので、私’恐縮してしまいました。「少し悪い顔でもすればいいけれども、ユキエさんいつもおんなじ顔していらっしゃる」と仰るので、その悪い顔をしようと思ったら、スッカリ忘れて今日また赤ちゃんと大笑いして遊びました。一人’遠くはなれると、我儘が無くなるから、かわゆい子はたびに出せとは実に理であります。  タカナカも真志保もきっとえらくなります。私、このあいだ夢を見たら、何だかおそろしい、えらい人が二人来たので、この家の玄関へ私が両手をついておじぎをしてから見たら:、タカナカが八髯をはやしてあごにも髯をはやして紺かすりの着物を着て、真志保はあのままの顔して運動シャツばかり着て扇子を持って大威張り。おや! といって立ち上がったら目をさまして、ざんねんでした。今度こそ左様なら。 ◇。◇。◇。◇。◇。  知里高吉・ナミコ宛  大正十一年七月十七日付(東京発信) ◇。◇。◇。◇。◇。  愛する御父様とお母さま、お手紙を誠にありがたく頂戴致しました。御両親様ご壮健のよし、なにより嬉しゅうございます。浜のフチや山のフチのご不快、その後如何でございますか。浜のフチは道雄さんの帰省でスッカリ治ってしまったと昨日’道雄さんから便りがありましたが、山のフチはどうかとお案じ致して居ります。あんまりコンづめて仕事をするから、また肩が痛くなったでしょう。  幸いに坊ちゃんのおけがは大した事もなく、もう追々と快方に向かいました。一昨日あたりから草履をはいて外をあるく事を許されて大喜び、暇さえあれば戸外へ出て虫とりをしていらっしゃいます。この程/傷口を縫った糸も抜きました。坊ちゃんは傷まけをしないのでまったくよかったのです。私も相変らず白くない顔してイヱウタンネして坊ちゃんのお相手してお伽噺の本を読んだり、絵本のページを繰ったりして楽しく暮していますから御安心下さいませ。だいぶ暑くなって風呂は家でわかすようになり、毎日沐浴する事が出来る様になりましたので、毎晩いい気持ちで-ねられます。  昨日、先生の弟さんが突然’見えて、昨夜はオオ賑やか、今しがたお帰りになりました。これで先生の弟さんは三人にお目にかかったのです。御兄弟は十二人で先生がご長男ですって。先生の姉さんが養子を迎えて家を相続していらっしゃるんですって。  弟さんたちはどの方もどの方もやっぱり先生に似て感情のぬるい方の様に見受けました。昨夜はそのお客様でお座敷がせまくなり、奥様が私の蚊帳の中へお入りになりました。蚊帳を吊る様になってから、私はお書斎に寝ています。電気を消して寝るので気楽に眠る事が出来ます。  伏根さんの息子さんは、とうとうなくなったそうでございますね。本当に惜しい事でした。伏根さんの悲しみも思いやられます。まさか息子を殺そうと思って勉強させた訳でもなかったんですから。栗山さんも心臓病になったそうですが、気の毒な事です。  まったく病気ほど困る事はありませんね。皇太子殿下’行啓で北海道は随分にぎやかなそうですが、お父様やお母様も拝し奉りましたでしょう? 温泉へ行啓あそばされましたでしょうか。  東京はこれと云って変った事もございませんので、手紙の種がありません。ただ毎日お天気が続くばかりです。  このあいだ(おはなししたかも知れませんが)岡村千秋さんと云う方にお目にかかりました。写真屋同道、私の写真を撮って行きましたが、少々面喰らいました。  さぞかし立派に撮れた事と思っています。  私の炉辺叢書はまだ出来ません。肝腎の渋沢法学士が御結婚の為に少々延びたのだそうです。主宰者柳田国雄さんは只今洋行中なのだそうです。  この頃は暑いので、家の奥様、頭が大へんお悪いのでお気の毒でなりません。  先生が、お父様から手紙を貰ったと仰って喜んでいらっしゃいました。  タカナカさんは相変らず、音沙汰はありません。真志保の漫画はかかさず訪れます。  この頃、夜/飛行機が飛ぶので随分にぎやかです。奥様と坊ちゃん-と夕涼みに出ては見物しています。高いお空を赤や青のあかりをつけて飛ぶのです。昨ヤなどは飛行機で花火をあげた、いいえ花火を下げたのかも知れません。隈なく晴れた夕空に2つ3つホシがまたたいて-いるとき、ズドンと微かな音とともに、星ともまがふ金色の玉がパッとあらわれて:、アッと思う暇も無くそれがパーッと砕けて赤く青く太陽のように天空を照したかと思うと、一時にスッと消えてしまう美しさは何とも云われません。  飛行機でなくてもこの頃はよく花火があがります。上野のほうで上がるのだそうです。昼は暑い代わりに、夜はこうしたたのしみがあるのです。此処は場所のいい割に静かで、近所に工場もありませんから煤煙で空気がよごれる事はありません。  それに大学には樹木が沢山ありますから、鳥の影さえ見られます。夕方/赤ちゃんを抱っこして大学のイチョウの木の-したのベンチに腰をかけていると、何だかペナイサキペナイかをカチペにいた時の事が思い出されます。  今はもう十一時頃で、手紙を書いていると汗がダクダク流れて来ます。まだ八十シゴ度で、大した暑さでもありません。  今日は失礼してこれだけに致します。どうぞよろしく、浜のフチにもみなさんにお伝え下さいませ。山のフチ、成るべく肩をやすめる様におはなし下さいませ。みっちゃんは大へん可愛らしい、おとなしいいい子になったそうで姉さん大喜びです。何卒よろしく。さよなら   御父上様   御母上様       御もとに ◇。◇。◇。◇。◇。  知里高吉・ナミコ宛  大正十一年八月一日付け(東京発信) ◇。◇。◇。◇。◇。 (書き出しスウギョウブン/欠落)  真志保も帰省のよし、当人は勿論の事、フチたちや御両親様の御喜悦いかばかりかと、遥々推察致し、独りほほえみを禁じ得ません。タカナカ、真志保、ミサホと揃うときは、どんなに面白くたのしい日を御両親様がお持ちなさるかと、私もまた我が家にあるが如き思いで日を送っています。  寺内さんはまあ-なんて不幸が続くんでしょう。あんなに楽しんでいた息子さんが死んだんですって。チマビルさんも可哀想に。旭川でも、あの丈夫そうなちっとも死にそうな顔もしていなかった子供が死んだと聞いて、人生の無常をつくづく感じさせられました。弱い何も出来ない様な私が生残って、ピンピンとした人々がさっさと召されてゆく所を見ると、人は強いから長生きするとは限らないものだと思いました。弱い何もならない様に見えるものも必ず何か使命を持っていて、この世に為すべき事があるからこそ、神が生かしておきなさるのでありましょう。  当地には奥様のお姉様が一人いらっしゃいます。もう一人’姉さんが門司にいらっしゃると聞いています。東京にいらっしゃる姉様に娘が三人あって、ウエの人たちは嫁いで、末の娘が家を継いで、今年の春お婿さんを取ったんだそうです。その娘さんが先月十三日にいらして、私もお目にかかりました。それはそれはお人形さんの様な美しいところへ、そのやさしいことと来たら話にもならないほどで:、奥様などと呼ぶにはあまりに痛ましい様な、今年ハタチだと云いますが十六’七にしか見えないお嬢様でありました。先生がお不在でしたから、奥様と坊ちゃん-と私と四人でお昼を食べてしばらく遊んで帰られました。  ところが二十六日の朝、私はお書斎に一人で寝て朝はいつも早く起きて一人で勉強するのが常ですから、その日も朝’四時半頃’本を読んでいたら:、ゴモンのほうであわただしい足音がしたかと思うと、錠のかかっている門をトントンと叩いて、金田一さん金田一さんと呼ぶのは女の声:、誰も起きていないので私がハーイと答えて飛び出して門を開けると、みいちゃん(前の娘さん)の姉さんの大きい方でした。息を弾ませながら先生をよんでくれと仰るのでござ敷へ飛んで行ったら、先生も奥様も寝巻のまま飛び出したので、奥様のお尻へくっついて私も行ってきいたら、その姉さん息がつまって物も云えないので、奥様が水を上げるとやっと息づいて:、『じつはみつが昨夜とんだ事になりまして‥‥あの汽車で自殺をしてしまいました』というのです。みんなでびっくり、奥様が泣くので私もつい泣いてしまいました。その日はイチニチ、赤ちゃんを預けられて先生も奥様もお出かけなさいました。坊ちゃんの全快祝いのおこわを食べながらお留守居してつくづく思いました。人の命ほど果敢ないものはない、と。  みいちゃんは日頃、神経衰弱にかかっていられたのだそうです。お父様がいらした時分は大層楽に暮していたのですが、亡くなられてからお母様とたった二人で、お父様の残した六千円だかのお金の利子で暮していたのだそうです。月に二十五円ほどなのだそうです。折からの物価騰貴の為、随分苦労して人の仕事などしながら-こんにちに及んだのですが、お婿さんをとれば少し楽になるかも知れないというのでこんどのおむこさんが来たのですって。そのお婿さんはまた非常にいい人で、みいちゃんとは大変仲がよかったんですが、非常な交際家でお客が沢山来るので、お金が費って費ってお母様はいそがしくていそがしくて目が回りそうなんだそうです。  それでその母さまが愚痴ばかりならべるし、財政上にもいつもフソクを来すので、非常に困難になっていたのですって。そしたら旦那様がこの程、富士の裾野のほうへ出張を命ぜられて出かけたるすに:、今度旦那様が帰ってから海水浴に行く約束だからその時の着物にと買っていただいた着物を明日縫いましょうなどと母と語って、ちょっと涼みに出かけようと出て行ったらそれっきり帰らないのですって。お隣りの人と話をしていたお母さまは、心配になったので探しに行ったら、人がわやわや通るので何かあったのですかときいたら:、汽車にひかれた人があるのだというのでびっくりして-どんな人かときいたら、ジュウシチハチのお嬢さんで、着物は-これこれ、帯は-こんなと教えてくれたのが娘の服装とちっとも変らないので腰を抜かしてしまったのだそうです。  みいちゃんの屍体はそのまま拾われて棺桶に-いれられましたが、明けて見た人は一人もなく、宅の金田一先生お一人だそうです。あの美しかったみいちゃんが、すっかりめちゃくちゃになっていたそうです。神経衰弱にかかっていたので、ちょっと気がふれたのだという話でした。そんな事があったので奥様はまた頭が悪くおなりでしたが、この二三日また元気におなりです。二十五日の昼食後、直ちに私は坊ちゃん-と一緒に先生に連れられて博覧会見物に出かけました。電車に乗って何処を回ってか、第一会場へ行って見たのですが、ただもう/ごちゃごちゃ目の回る様にならべられて、札幌の開道博覧会と別に変りはありませんでした。  二度も三度も氷を飲んだりいろいろな物を御馳走になりました。南洋人の歌劇は面白うございました。黒い人がやるのですから面黒いのかも知れません。南洋人の子供は本当にかわいらしいのです。アイヌによく似ています。  ついでに第二会場も見ましょうと言って出かけて行ったら、九時までだからもう七分しかないと云うので見ずに帰りましたが、第二会場の夜景は実に見事なものでした。今度帰ったらいろいろおはなし致しましょう。帰りには奥様のお好きなドーナツを土産に、坊ちゃん-と私は絵葉書をフタクミづつ買って戴きました。  博覧会見物で私の心に残ってる印象は、南洋人とその言葉の面白かった事、噴水のソバの涼しかった事、赤、青、紫/黄の電気の色で噴水の美しかった事:、熱帯植物だの、一本参百円なんてフダのついた二尺五寸くらいの松の植木だの、美術館の二等だったかの賞付の豚の絵:、それからオオミチで田舎の婆さんらしいのが自働車が疾走して来るのにわきへよけずに、自働車が婆さんを避けようとするのにその行く手へ走りよるので、みんなでわいわい騒いだ時の婆さんの慌てた顔:、休息した時のサイダーといちご氷とハムライスとかいう西洋料理の美味しかった事:、しのばず池の夜の景、会場の色々な色の電灯とおソラの星がうつって、それが小波にゆらゆらとくだけるさま、底暗い青空にぬっくと聳える平和塔の雄大さ:、人がまるで黒山が動く様にうじゃうじゃいた事、暑かった事、文化村の家の小じんまりして気持ちのよかった事。思い出すままに書けばまだまだありますが、先ずこれだけぐらいにしておいて、今度おはなし致しましょう。  日常生活は相変らずで、先生は暑中休暇中に聖典集を書き上げるとかで忙しく勉強していらっしゃいます。そのご相談相手で毎日アイヌ語の講釈見たいなことをしています。  奥様からたのまれて綿入れを縫っていますが、昼二時頃になると奥様と向かいあったまま仕事枕にぐっすり寝て、大概一時間半ぐらいは昼寝をします。夜になるとマッサージの先生が来て、奥様がその療治をうけていらっしゃいます。信者の人です。夜’寝るのは大概九時半から十時頃までで、お書斎で蚊帳の中で一人で寝るので、起きるも寝るも自由で大層気楽でございます。眼をさますと直ぐに起きてそっと雨戸をあけると、清々しい朝の涼気が熱いホオをそっと撫でてゆき:、おいらん草だの朝顔だの向日葵だの鳳仙花だのが美しく咲き揃って、中にも月見草がやさしくほほえんでいるのを見る事が一ばんうれしゅうございます。今夜も輪のかかった朧月夜で暗い晩でございますが、月見草が闇のうちからホノジロう咲き出でて、故里のさまを思い起させます。  ときどき夕立の来ることがありますが、それはそれは気持ちのいいもので、一日の暑さがすっかり拭い去られてすっかり生き返った様な気持ちになります。毎夕’家で風呂が-たちますので、一日の汗をすっかり洗い流すことが出来ていい気持ちです。  ダリヤはもう八尺以上のびました。真っ赤なタイリンが二つほど咲いています。風に折れなかったらもうちとセイがのびて、花も沢山咲くでしょうに‥‥と奥様が仰っていらっしゃいました。お庭が広いので春彦さんは毎朝虫とりをなさいます。びんの中へ水を入れて/蠅だの玉むしだの変な昆虫を一ぱいあつめては私のところへ持って来るので、相手になって大騒ぎして遊んでいます。ハーモニカを吹いたり本を読んだりしてよくお相手をするので、ユキエが好きだと云っています。  英語は毎晩かかさず教わっています。ねむくなるのでこの頃は一課づつです。この程小さいのと大きいのと英語の辞引を二冊先生に戴きました。  こうしていつもわだかまりのない心で誠心を持ちつづけて、おだやかにつつしんでいる様に修養していますから、先生も奥様も大層よく可愛がって下さいます。赤ちゃんは若葉さんという名前で、この頃メッキリ大きくなってコロコロ肥っています。まんまる坊主になって戸外へばかり出たがるので、家じゅうの人が代わるがわる抱っこして出るので真黒くなって、外で会う人は誰も女の子だという人はありません。  御両親様は皇太子殿下を拝し奉ったとの御事、おめでとう存じます。私は東京にいても皇族様もまだ拝しません。まだまだ書けば明日まででも書けますけれども、郵便切手ばかり沢山要りますからこれだけに致します。ああそれからゴロクニチ前に先生から五円お小遣をいただきましたのでお銭に苦労する事はありませんから:、いかさきだのその他の収入は何卒弟たちの学費に充てて下さいませ。私の事は決して御心配下さいますな。  夜の事でもありますし、思い出すままに書きつらねますので随分’文字が-ぞんざいになりまして申し訳がございません。どうぞ我慢して読んで下さいませ。またおひまのセツは我儘ながらお手紙をおねがい申し上げます。登別も随分お暑いよし、皆様/お自愛センイツに。タカナカは二日か三日に帰って何日ぐらいおやすみですか? タカナカ、真志保、ミサホ、お腹を冷したり悪くしたり/川へ落っこちたりしない様に祈ります。山のフチもあまり稼いでまた’骨だのあちこち痛くしない様に。浜のフチにもよろしく。フチたちが仲よく遊ぶ様に祈っています。  そのタの皆々様に宜しく。ではこれで失礼致します。またこの次に沢山書きましょう。東京に独り居りましてもちっとも淋しくはありません。身を神に任せて我が家のため、人の為祈るほど幸福な気持ちはありません。さよなら、おやすみなさいませ。  フチたち、タカナカ、真志保、ミサホによろしく。  有珠の姉さん/どうしたでしょう。   愛するお父さま   愛するお母さま    八月一日夜十一時十五分/書終る ◇。◇。◇。◇。◇。  知里高吉・ナミコ宛  大正十一年九月四日付け(東京発信) ◇。◇。◇。◇。◇。  先達は御手紙をありがとう存じました。皆々様お変りも無く御消光のよし、嬉しく嬉しく感謝致しています。  長い夏休みも夢のマにすぎて、愛する子等がまた散々に学びの庭へ帰って行ったあとは-さぞお淋しくいらっしゃいましょう。真志保は鉄道故障のため帰りが遅れたとの事ですが、今はもう無事に旭川で勉強しているのでしょうね。  直ぐにお返事も差し上げず、定めし御心配下さいました事でしょう。またおいかりになったかも知れません。ちょうど一週間ほど御無沙汰致しました。何時も病気病気で腑甲斐ないことでございますが、この前の御手紙は二十八日、病床の中で拝見致しました。ちょうどその日の明方から苦しみはじめて、御飯も食べずに寝ていましたので。まったくひどい目にあいました。胃が悪くなったのです。八月’はじめの病気がなおって少し涼しくなると、大層御飯がおいしくて何時も沢山食べていました。沢山といったところで二膳づつなんです。山盛の事もありましたからまあ二膳三分の一くらいなものでした。そして、悪くなるサン四日前から少し通じがなくて、お腹が張っていましたが:、二十七日の晩/奥様が馬鈴薯を煮たので珍しくてヒトサラ食べたらそれが胃袋のなかであばれたのでしょう、よあけ頃から胃部が痛くて、その為か左右の胸から背骨のあたりから背中一ぱい錐で揉まれる様な痛みを感じて:、縦になっても横になっても仰向けになっても腹這いになっても立っても座ってもいられないで息もつけない様な苦しみをしました。が、奥様はよくねむっていらっしゃるのでなるべく音をたてない様にしていたら:、二時頃からはじまったのが四時頃になってだんだんよくなって、四時半には起きてお書斎へ来て座っていた時はよほど落ちついた様でした。先生は二十五日の夜十一時発で盛岡へいらして、二十八日の朝七時頃お帰りになりました。その日イチニチは床の上で寝たり座ったり、息つくたびに胸を刺される思いをつづけましたが、翌日は大層よくなりました。先生が大学病院の坂口博士の所へわざわざお出かけ下さいましたが、お不在だったそうです。  そしたら三十日だったでしょう、朝五時頃今度は心臓があばれて息が出来なくなり、奥さんは医者よびに、女中さんは氷買いに:、先生は水で冷したり水をのませて下すったり、坊ちゃんはさすって下すったり家じゅうで手当して下さいました。おかげで五分くらいで動悸が静まりました。岡村とか岡崎とかいう医者が来て診察して下さいました。あの頃は随分暑かったのでたいへん胃の弱る時で、丈夫な人でも平常と同じ程食をとると/胃が悪くなるんだそうです。それだのに心臓が悪いんですから、少し胃がふくれると直ぐに影響するのだそうです。私もすっかり参ってしまって三日ばかり絶食同様、一日牛乳を半茶碗ぐらいづつ飲んで消化薬をお医者さんから貰って飲んでいましたが:、もう一昨日あたりからすっかりよくなって起きていてもいいんですが/用心して昨日まで寝ていました。今日はもう起きています。三十日に悪くなったのは前の日にたいへんよかったのでお粥を茶碗に八分目ぐらいと卵を食べたら、それが悪かったのでした。あの時に用心して何も食べなければよかったのです。可哀想に/胃きちさんが暑さに弱ってる所へ毎日毎日つめこまれるし、腸きちさんも倉に一ぱい物がたまって毒瓦斯が発生するし:、しんぞうさんは両方からおされるので夜もひるも苦しがってもがいていたのが、やりきれなくて、死物狂いにあばれ出したものと見えます。まあまあそれでもこんなによくなって感謝の至りでございます。自分の病気の事ばかり長々と書き連ねまして誠に相すみません。私も折角の機会ですから、これを逸せずもう暫く止まって一年か二年何か習得して帰りたいことは山程で、今頃病気だなどとおめおめ帰るは、涙する程かなしゅうございます。然し御両親様、神様は私に何を為させようとしてこの病を与え給うたのでしょう。私はつくづく思います。私の罪深い故か、すべての哀楽喜怒愛慾を超脱し得る死! それさえ思い出るんですが、神様はこの罪の痛手深い病弱の私にも何事か為させようとして居たもうのであろうと思えば感謝して日を送っています。  今一度幼い子にかえって、御両親様のお膝元へ帰りとうございます。そして、しんみりと私が何を為すべきかを思い、御両親様の御示教を仰ぎたく存じます。半年か一年ほど‥‥。旭川のおっかさんは許してくれる筈です。  今月の二十五日に立つことに先生や奥様と決めました。あまり早過ぎるでしょうか。やはり室蘭廻りがよかろうと先生のおはなしでございました。それまでに一度大学病院へ先生が連れて行って下さることになっています。そして坂口博士に診て戴いて、今後の養生法など仔細に承ることになっています。坊ちゃんはツイタチから学校、先生も今日は実践女学校のほうへお出かけになるそうです。赤ちゃんも今日はいいかと思えばまたうんこが柔らかくなったと奥様の心配のタネになっています。それでもこの頃は大変丈夫になった様です。奥さんは、先生がご帰省中/私が先生の代わりやくで夜赤ちゃんの世話をしましたので、安心してよくねむれ、頭も少しよくなったのですが、この頃またあまりよくない様です。なんでも赤ちゃんの泣き声をきくとかっとなって死にたくなるそうです。頭の痛い原因には私もはいっていることと恐縮しています。少しいい時は非常に御きげんがよくて、どうして癇癪持ちなんだろうって悔しがるし、いろいろな、修養に関する意見も立派なものですが:、さあ悪い時は、ただ死にたくなって癇癪が起きておこりたくて堪らないんだそうです。神経衰弱’って随分おそろしい病気だと思って見ています。先生はまた気の長いったらたまげる程です。それでも先生も奥様も今まで同居した人で私ほど気の長い人はなかったと言っていらっしゃいます。私は何も腹の立つ事などありませんが、病気で寝ている時はただ気の毒で気の毒で堪らないんです。赤ちゃんが泣いても-だく事も出来ないし、奥さんは一人で気を揉んで泣きそうになっているし、女中さんは洗濯、先生は勉強にいそがしいし、私一人’寝ていてお粥を煮て貰うんですもの。でももうよくなりましたから大丈夫です。  今日は何を書いたかわかりませんが、随分ぞんざいで誠に相すみませんでございました。では二十五日に帰りますから、よろしくおねがい致します。そして汽車賃は旭川のおっかさんが送ってくれるはずですから、何卒柳行李と弁当料だけ御都合の時に御恵与の程おねがい申し上げます。これからも度々こんなふうにからだが悪くなっちゃ、とても気兼気兼で、私の弱虫は困りますから成るべく御迷惑かけないうちに帰りたいと思うのです。旅の途中などは大丈夫です。船にも汽車にも酔いませんから‥‥。  随分秋らしい気分になりました。夜はよすがら虫の音が哀れにももれて参ります。先生は、夏休みのうちに書き上げる筈のオイナがまだ半分しか出来ないので、こんどは学校と-そのほうで転てこ舞です。坊ちゃんは私が帰るというので、毎日の様にお書斎へ来て、花のタネだの南京玉だのかたみに上げるって大騒ぎ:、奥さんは、先生が盛岡から持っていらした饅頭だの羊羹だの私と一緒に食べようと思って毎日待っているんですって。今度私がなおったらお汁粉の御馳走が出来るそうです。来年またいらっしゃいって、この前奥さんと二人で、別れる話をして、奥さんも泣いて下さいました。  私の心臓さえよくて、奥様の頭さえよければ、毎日たのしくたのしく暮せるんだなんて、同病相哀れむのたとえ、私たちも、しみじみ話をしたのでした。そして-「ほんとにごめんなさい、私さえ頭がよければ貴方に何も心配させたり、気兼させたりすることはないのに:、なんの面白いこともなくおかえしするのはほんとに苦しい」と仰言いました。先生や奥様のおはなしでは、大学のほうからアイヌ研究の補助金が出るんだそうです。今年出るはずのが、出なかったから来年とかは必ず出るんだそうで、そうなれば、私を呼んで、生け花でも何か好きなものを習わせるとの事です。本当は今年出来ると思っていたのが出来なかったのだと残念がっていらっしゃいました。まあまあ色々なことはあとで帰ってからゆるゆるお話致しましょう。とにかく二十五日に帰ります。  旭川からは、十五日に-かねを送るとの事ですが、私/柳行李が一つ欲しいから、我儘勝手で相すみませんが、何卒出来たらばその前に柳行李代だけ御送り下さいます様お願い申し上げます。先生からお餞別を/もしいただいたら書物でも買って帰ります。涼しくなって、食が進む時はとかく胃腸を悪くしやすい時だそうですから、皆々様お大切に。ミサホちゃんによろしく。フチたちにも沢山よろしく。道雄さんかわいそうに、私の所へも私が病気の最中手紙が来て入院してると云って来ました。まったく困ったものですね。病気になるんなら、ほかの若いピンピンした人たちの病気がみんな私のところへ集まって来て、その代り誰も病気しないんなら-どんなに嬉しいでしょう。彼の人にもまだ見舞状を出しませんが-さぞうらんでいるでしょう。では、これで失礼致します。さよなら  ユキエより  愛する   御父上様   御母上様 ◇。◇。◇。◇。◇。  知里高吉・ナミコ宛  大正十一年九月十四日付(東京発信) ◇。◇。◇。◇。◇。  愛する御両親様、おいそがしいなかをお手紙を下さいまして誠にありがとう存じました。また沢山のお銭をお送り下さいまして何ともお礼の申し上げようもございません。本当に御都合の悪い所をおねがい申し上げまして本当にありがとうございました。二十五日に帰る予定でしたが、お医者さんがもう少しと仰ったので十月の十日に立つことに致しました。めづらしくよほどやせましたので、すっかり恢復してから帰ります。でもこの頃は大方もとの通りのふとっちょになりました。まだあとざっとヒトツキもあります。坊ちゃんが大喜びしています。私のカムイカラの本も-じきに出来るようです。昨日’渋沢子爵のお孫さんがわざわざその原稿を持って来て下さいまして、誤りをなおしてもうこんど岡村さんという所へ回って、それから印刷所へ回るそうです。渋沢さんは、先生と私をお屋敷へ招待して下さる筈になっていたのが、今度急にロンドンへ在勤を命じられたとかで暇がなくなったんだそうです。りっぱな方でした。  坊ちゃんは毒むしにさされて、チンチンの先がピセみたいになって医者へ行ったりして、二日休学。今日はすっかりなおって学校へ元気で行っていらっしゃいました。赤ちゃんはお丈夫、奥さんは、相変らずよくなったり悪くなったり、ごきげんになったりごきげん不良になったり。先生は忙しく学校通い。私は奥さんのお裁縫を手伝ったり、先生のアイヌ語のお相手になったり、ユカラを書いたり、気ままな事をしています。  一番坊ちゃんのお相手と赤ちゃんのおもりが多いようです。赤ちゃんはこの頃ふとってたいへん重くなりました。  兼松さん御死去のよし、お気の毒ですね。とうとう亡くなられたんですね。さぞ、みなさんおかなしみでしょう。御同情に堪えません。  去る七日、私は名医の診断を受けました。その前の日/先生が、何処かで何とかの同窓会へ御出席でしたが、その時、たのんで下すったのです。先生と同郷の方で中学時代の同級生、今は九州帝国大学教授医学博士で九州大学病院を一人で背おって立っているというえらい力もちだというだけに:、大層ふとって岩根さんみたいな、はだのすべすべした小野寺という博士が七日の日にいらっしゃいました。お座敷で叮嚀に診て下すって。先生にすっかり何かをおはなしになり、診断書を-おいていらっしゃいました。奥様もみてお貰いになりました。奥様は何処もお悪くない、ただ気持ちでなおるそうです。私のほうは、やっぱり心臓の僧帽弁狭さく症という病気で、その他には病気はありません。呼吸器もいいそうです。そして前の坂口博士が仰った様に、無理を少しすればイノチに関わるし、静かにさえしていれば長もちしますって。診断書には、結婚不可ということが書いてありました。何卒安心下さいませ。  私は自分のからだの弱いことは誰よりも一番よく知っていました。またこのからだで結婚する資格のないこともよく知っていました。それでも、やはり私は人間でした。人のからだをめぐる血潮と同じ血汐が、いたんだ、不完全な心臓を流れ-いづるままに:、やはり、人の子が持つであろう、いろいろな空想や理想を胸にえがき、家庭生活に対する憧憬に似たものを持っていました。本当に、肉の弱いように私の心も弱いのでした。自分には不可能と信じつつ、それでもそうなんですから‥‥。充分にそれを覚悟していながら、それでも最後の宣告を受けた時は苦しゅうございました。いくら修養しよう、しんじゃならない、とふだんひきしめていたココロ。ずっと前から予期していた事ながらつぶれる様な苦し涙の湧くのをどうする事も出来なかった私をお笑い下さいますな。本当に馬鹿なのです、私は‥‥。  然しそれは心の底の底での暗闘で、ついには、征服されなければならないものでした。はっきりと行く手に輝く希望の光明を私はみとめました。過去の罪/怯え深い私は、やはりこの苦悩を当然’味わわなければならないものでしたろうから、私は本当に懺悔します。そして、その涙のうちから神の大きな愛をみとめました。そして、私にしか出来ないある大きな使命を与えられてる事を痛切に感じました。それは、愛する同胞が過去幾センネンの間に残し伝えた、文芸を書き残すことです。この仕事は私にとってもっとも相応しい尊い事業であるのですから。過去二十年間の病苦、罪業に対する悔悟の苦悩、それらのすべての物は、神が私に与えたもうた愛の鞭であったのでしょう。それらのすべての経験が、私をして、鍛えられ、洗練されたものにし、また、自己の使命はまったく一つしかないと云うことを自覚せしめたのですから‥‥。もだえもだえ/苦しみ苦しんだ揚句私は、すべての目前の愛慾、小さいものをすべてなげうって、新生活に入り、懺悔と感謝と愛の清い暮しをしようと深く決心しました。神の前に、御両親様にそむき、すべての人にそむいた罪の深いむすめユキエは、かくして、生まれ変わろうと存じます。何卒お父様もお母さまも過去のユキエをお許し下さいませ。何卒おゆるし下さいませ。そしてこのあとのユキエを育み導いてやって下さいまし。おひざもとへ帰ります。  一生を登別でくらしたいと存じます。ただ一本のペンを資本に新事業をはじめようとしているのです。あすをも知らぬ人の生、ただ与えられたその日その日を、清く美しく、忠実に送って-いつ召しを受けてもいい様に日を送れば、それでいいんですから。私は小さな愛から大きな愛を持って生活しようと思ってるのです。  私の今の心持ちは、非常に涙ぐましいほど平和でございます。にくみもうらみもなく、ただ感謝にみちています。  私のすべての気持ちを書きあらわすことはとても出来ません。ただ、この事で、名寄の村井が-どんな事を感ずるかと云うことが、私の胸を打ちます。しかし、何卒彼が本当に私をよりよくより高く愛する為に、お互いの幸を考え、理解ある判決をこの事にあたえる様に、と念じています。  本当に罪深い私でした。何卒おゆるし下さいませ。親に向かって図々しくも-こんな事を書きならべて、さぞやご不快でもいらっしゃいましょう。私は、このあと、一生沈黙をつづけます。本当に無言で暮しましょう。ただその生活に入る前に、私がこの世に於いて人間として与えられた、この苦しみ、このなげきと:、そうして最後に与えられた、大きな愛、使命の自覚などと云う心の変りかたを御両親様に申し上げます。お察し下さいませ。  昨日、名寄のほうへ知らせてやりました。どんな返事が来るか知りません。何卒お情けに、もし折りがありましたら、彼に何とか言ってやって下すったら私の幸福はこの上ありません。フチたちや皆々様によろしくお伝え下さいませ。十月の十二日頃はお目にかかれます。室蘭までのお出迎えは、おそれいります。ありがとうございます。南瓜や芋を少し残しておいて下さいませ。油のはいったキナオハウだのエンドサヨだのが欲しくなりました。帰る前にまた奥さまと何処かへ出かけるんだそうです。旭川からの手紙で、何だか有珠の姉さんのごたごたがある様にききましたが、どうしたのですか? 北海道は随分あちこちの水害で不景気なそうですが、米は高いでしょうね。  道雄さんからまだ入院してると手紙が来ましたが、でもだいぶよろしいらしいので安心しています。かわいそうに真志保、たいへんなんぎして旭川へ行ったんですね。タカナカには相変らず出してもサッパリって一枚も返事は貰いません。達者でいるんでしょうね。ミサホちゃんによろしく。  農繁期でみなさんお忙しくいらっしゃいましょう。東京はこの頃また、暑くなりました。でもやはり秋らしい感じが澄んだ青空にも木の葉を揺りうごかす風にも豊かに満ちています。北海道は涼しくなりましたでございましょう。トンケシのウナラペに着くかどうかと思いながら先頃はがきを出したら、昨日’返事が来て一人で笑いました。  先生の弟さん、直江と云う方の子供さんがこのほど脳膜炎で亡くなられて、そのご法事のお菓子が送って来ておいしいお菓子を食べています。今夜はくだらぬ事ばかりならべました。何卒おゆるし下さいませ。  先達は本当に御心配かけました。今度は帰るまで大丈夫でございます。今’私は平和な平和な感謝の気分にみたされて、誰でもすべての人を愛したい様な気が致します。  何卒御両親様おからだをお大切にあそばして下さいませ。さよなら  ユキエより   愛するお父様   愛するお母様 ◇。◇。◇。◇。◇。 【底本:「銀のしずく◇ 知里幸恵遺稿」草風館】 【  1996(平成8)年10月1日】 【◇底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5の86)を、大振りにつくっています。】 【◇底本の凡例には-「読み易くするため、拗音と促音のみ現代用法に則った」と記載されています。】 【入力:川山’隆】 【校正:松永正敏】 【2007年11月15日作成】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(httpコロン/-/www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。