◇。◇。◇。◇。◇。 忘れえぬ人々 国木田独歩 ◇。◇。◇。◇。◇。  多摩川の二子《フタコ》の渡しをわたって少しばかり行くと溝口《+ミゾノクチ》という宿場がある。その中ほどに亀屋という旅人宿《旅籠屋》がある。ちょうど三月の初めのころであった、この日は大空かき曇り北風《/北風》強く吹いて、さなきだにさびしいこの町《=マチ》が一段と物さびしい陰鬱な寒そうな光景を呈していた。昨日降った雪がまだ残っていて高低《コウテイ》定まらぬ茅屋根《藁屋根》の南の軒先からは雨滴《雨垂れ》が風《=カゼ》に吹かれて舞うて落ちている。草鞋の足痕《足跡》にたまった泥水《泥みず》にすら寒そうな漣《さざ波》が立っている。日が暮れると間もなく大概の店《=ミセ》は戸を閉めてしまった。闇《暗》い一筋町《+ヒトスジマチ》がひっそりとしてしまった。旅人宿《旅籠屋》だけに亀屋の店《=みせ》の障子には燈火《明かり》が明く射《さ》していたが、《:、》今宵は客もあまりないと見えて内もひっそりとして、おりおり雁頸《雁首》の太《ふと》そうな煙管で火鉢の縁《フチ》をたたく音がするばかりである。  突然《出し抜け》に障子をあけて一人の男がのっそり入《+ハイ》ッて来た。長火鉢に寄っかかッて胸算用《+ムナサンヨウ》に余念もなかった主人が驚いてこちらを向く暇もなく、《:、》広い土間を三歩《+ミアシ》ばかりに大股に歩いて、主人の鼻先に突ったッた男は年ごろ三十にはまだ二《フタ》ツ三《ミ》ツ足らざるべく、洋服、脚絆、草鞋の旅装《+ナリ》で鳥打ち帽をかぶり、右の手に蝙蝠傘《蝙蝠》を携え、左に小さな革包《鞄》を持ってそれをわきに抱《だ》いていた。 『一晩厄介になりたい。』  主人は客の風采《身なり》を視《見》ていてまだ何とも言わない、その時奥で手の鳴る音がした。 『六番でお手が鳴るよ。』  ほえるような声で主人は叫んだ。 『どちらさまでございます。』  主人は火鉢に寄っかかったままで問うた。客は肩をそびやかしてちょっと顔《’顔》をしがめたが、たちまち口《クチ》の辺《-ほとり》に微笑をもらして、 『僕か、僕は東京。』 『それでどちらへお越しでございますナ。』 『八王子へ行くのだ。』  と答えて客はそこに腰を掛け脚絆の緒《紐》を解きにかかった。 『旦那、東京から八王子なら道が変でございますねエ。』  主人は不審そうに客の|ようす《様子》を今さらのようにながめて、何《=なに》か言いたげな口つきをした。客はすぐ気が付いた。 『いや僕は東京だが、今日東京から来たのじゃアない、今日は晩くなって川崎を出発《発っ》て来たからこんなに暮れてしまったのさ、ちょっと湯をおくれ。』 『早くお湯を持って来《=こ》ないか。ヘエ随分今日はお寒かっ《-っ》たでしょう、八王子の方《ほう》はまだまだ寒うございます。』 という主人の言葉はあいそがあっても一体の風つ《付》きはきわめて無愛嬌である。年《=とし》は六十ばかり、肥満《太》った体躯の上に綿の多い半纒を着ているので肩からじきに太い頭が出て、幅の広い福々しい顔の目《-まな》じりが下がっている。それでどこかに気むずかしいところが見えている。しかし正直なお爺《やじ》さんだなと客はすぐ思った。  客が足を洗ッ《っ》てしまッて、まだふききらぬうち、主人は、 『七番へご案内申しな!』  と怒鳴ッ《っ》た。それぎりで客へは何《=なん》の挨拶もしない、その後ろ姿を見送りもしなかった。真っ黒な猫が厨房《厨》の方《=ほう》から来て、そッと主人の高い膝の上には《這》い上がって丸くなった。主人はこれを知っているのかいないのか、じっと目をふさいでいる。しばらくすると、右の手が煙草箱《煙草入れ》の方《ほう》へ動いてその太《-ふと》い指が煙草を丸めだした。 『六番さんのお浴湯《湯》がすんだら七番のお客さんをご案内申しな!』  膝の猫がびっくりして飛び下りた。 『ばか! 貴様に言ったのじゃないわ。』  猫はあわてて厨房《厨》の方《ほう》へ駆けていってしまった。柱時計がゆるやかに八時を打った。 『お婆さん、吉蔵《キチゾウ》が眠そうにしているじゃあないか、早く被中炉《+アンカ》を入《=い》れてやってお寝かしな、かわいそうに。』  主人の声の方《ほう》が眠そうである、厨房《厨》の方《ほう》で、 『吉蔵《キチゾウ》はここで本を復習《-さらっ》ていますじゃないかね。』  お婆さんの声らしかった。 『そうかな。吉蔵《キチゾウ/》もうお《-お》寝よ、朝早《あさ早》く起きてお復習《-さら》いな。お婆さん早く被中炉《+アンカ》を入《=い》れておやんな。』 『今すぐ入れてやりますよ。』  勝手の方《ほう》で下婢とお婆さんと顔《=かお》を見合わしてくすくすと笑った。店の方《ほう》で大きな|あくび《欠伸》の声がした。 『自分が眠いのだよ。』  五十を五つ六《6》つ越えたらしい小さな老母が煤《-くす》ぶった被中炉《+アンカ》に火を入《=い》れながらつぶやいた。  店《=ミセ》の障子が風《=カゼ》に吹かれてがたがたすると思うとパラパラと雨を吹きつける音が微かにした。 『もう店の戸を引き寄せて置きな、』と主人は怒鳴って、舌打ちをして、 『また降って来やあがった。』 と独言のようにつぶやいた。なるほど風が大分《だいぶ》強くなって雨さえ降りだ《出》したようである。  春先とはい《=言》え、寒い寒い霙まじりの風《=カゼ》が広い武蔵野を荒れに荒れて終夜《夜もすがら》、真っ闇《暗》な溝口《+ミゾノクチ》の町《=マチ》の上をほ《吠》え狂った。  七番の座敷では十二時過ぎてもまだランプが耿々と輝いている。亀屋で起きている者《=モノ》といえばこの座敷の真ん中で、差し向かいで話している二人の客ばかりである。戸外《+ソト》は風雨の声いかにもすさまじく、雨戸が絶えず鳴っていた。 『この模様では明日のお立ちは無理ですぜ。』 と一人が相手の顔を見て言った。これは六番の客である。 『何、別に用事はないのだから明日一日《明日イチニチ》くらいここで暮らしてもいいんです。』  二人とも顔を赤くして鼻の先《=さき》を光らしている。そばの膳の上には煖陶《+カンビン》が三本乗っていて、杯《サカズキ》には酒が残っている。二人とも心地よさそうに体をくつろげて、あぐらをかいて、火鉢を中にして煙草を吹かしている、六番の客は袍巻《掻巻》の袖から白い腕を臂《肘》まで出して巻煙草《巻煙草’》の灰を落としては、喫《す》っている。二人の話しぶりはきわめて卒直《率直》であるものの今宵初めてこの宿舎《宿》で出合って、何《=なに》かの口緒《糸口》から、二口三口《フタクチミクチ》襖越しの話があって、《:、》あまりのさびしさに六番の客から押しかけて来て、名刺の交換が済むや、酒を命じ、談話に実が入って来るや、いつしか丁寧な言葉とぞんざいな言葉とを半混《ハンマ》ぜに使うようになったものに違いない。  七番の客の名刺には大津弁二郎とある、別に何《なん》の肩書きもない。六番の客の名刺には秋山松之助とあって、これも肩書きがない。  大津とはすなわち日が暮れて着いた洋服の男である。やせ形な、すらりとして色の白いところは相手の秋山とはまるで違っている。秋山は二十五か六という年輩で、丸く肥えて赤ら顔《=ガオ》で、目元に愛嬌があって、いつもにこにこしているらしい。大津は無名の文学者で、秋山は無名の画家で不思議にも同種類の青年がこの田舎の旅宿《旅籠屋》で落ち合ったのであった。 『もう寝ようかねエ。随分|悪口《+アッコウ》も言いつくしたようだ。』  美術論から文学論から宗教論まで二人はかなり勝手にしゃべって、現今の文学者や画家の大家《=オオヤ》を手ひどく批評して十一時が打ったのに気が付かなかったのである。 『まだいいさ。どうせ明日はだめでしょうから夜通し話したってかまわないさ。』  画家の秋山はにこにこしながら言った。 『しかし何時《+イクジ》でしょう。』 と大津は投げ出してあった時計を見て、 『おやもう十一時過ぎだ。』 『どうせ徹夜でさあ。』  秋山は一向平気である。杯《サカズキ》を見つめて、 『しかし君《キミ》が眠けりゃあ寝てもいい。』 『眠くはちっともない、君が疲れているだろうと思ってさ。僕は今日晩く川崎を立って三|里半《リハン》ばかしの道《=みち》を歩いただけだから何ともないけれど。』 『なに僕だって何ともないさ、君が寝るならこれを借りていって読んで見ようと思うだけです。』  秋山は半紙十枚ばかりの原稿らしいものを取り上げた。その表紙には『忘れ得ぬ人々』と書いてある。 『それはほんとにだめですよ。つまり君《キミ》の方《ほう》でいうと鉛筆で書いたスケッチと同じことで他人にはわからないのだから。』 といっても大津は秋山の手からその原稿を取ろうとはしなかった。秋山は一枚二枚開けて見てところどころ読んで見て、 『スケッチにはスケッチだけの|おもしろ《面白》味があるから少し拝見したいねエ。』 『まアちょっと借《’借》して見たまえ。』 と大津は秋山の手から原稿を取って、ところどころあけて見ていたが、二人はしばらく無言であった。戸外《+ソト》の風雨の声がこの時今さらのように二人の耳に入った。大津は自分の書いた原稿を見つめたままじっと耳を傾けて夢心地になった。 『こんな晩は君《=キミ》の領分だねエ。』  秋山の声は大津の耳に入らないらしい。返事もしないでいる。風雨の音《’音》を聞いているのか、原稿を見ているのか、はた遠く百里のかなたの人を憶《思》っているのか、秋山は心《=こころ》のうちで、大津の今の顔、今の目元はわが領分だなと思った。 『君がこれを読むよりか、僕がこの題で話した方《ほう》がよさそうだ。どうです、君は聴きますか。この原稿はほんの大要《-あらまし》を書き止《と》めて置いたのだから読んだってわからないからねエ。』  夢からさめたような目つきをして大津は目を秋山の方《ほう》に転じた。 『詳しく話して聞かされるならなおのことさ。』 と秋山が大津の目を見ると、大津の目は少し涙にうるんでいて、異様な光を放《=ハナ》っていた。 『僕はなるべく詳しく話すよ、おもしろくないと思ったら、遠慮なく注意してくれたまえ。その代《か》わり僕も遠慮なく話すよ。なんだか僕の方《ほう》で聞いてもらいたいような心持ちになって来たから妙《妙’》じゃあないか。』  秋山は火鉢に炭《炭’》をついで、鉄瓶の中へ冷めた煖陶《+カンビン》を突っ込んだ。 『忘れ得ぬ人は必ずしも忘れてかなうまじき人にあらず、《:、》見たまえ僕のこの原稿の劈頭第一に書いてあるのはこの句である。』  大津はちょっと秋山の前にその原稿を差しいだした。 『ね。それで僕はまずこの句の説明をしようと思う。そうすればおのずからこの文の題意がわかるだろうから。しかし君《キミ》には大概わかっていると思うけれど。』 『そんなことを言わないで、ずんずんやりたまえよ。僕は世間の読者のつもりで聴いているから。失敬、横になって聴くよ。』  秋山は煙草をくわえて横になった。右の手で頭を支《=ささ》えて大津の顔を見ながら目元に微笑をたたえている。 『親とか子とかまたは朋友知己そのほか自分の世話になった教師先輩のごときは、つまり単に忘れ得ぬ人とのみはいえない。忘れてかなうまじき人といわなければならない、そこでここに恩愛の契りもなければ義理もない、ほんの赤の他人《=タニン》であって、本来をいうと忘れてしまったところで人情をも義理をも欠かないで、《:、》しかもついに忘れてしまうことのできない人がある。世間一般の者《=もの》にそういう人があるとは言わないが少なくとも僕にはある。恐らくは君《=キミ》にもあるだろう。』  秋山は黙ってうなずいた。 『僕が十九の歳《=トシ》の春の半《半ば》ごろと記憶しているが、少し体躯《体》の具合が悪いのでしばらく保養する気で東京の学校を退《-ひ》いて国へ帰る、その帰途《帰り道》のことであった。大阪から例の瀬戸内通いの汽船に乗って春海波平《シュンカイ/ナミ平》らかな内海《+ウチウミ》を航するのであるが、《:、》ほとんど一昔も前の事であるから、僕もその時の乗合の客がどんな人であったやら、船長がどんな男であったやら、茶菓《チャカ》を運ぶボーイの顔がどんなであったやら、そんなことは少しも憶えていない。多分僕に茶を注《つ》いでくれた客もあったろうし、甲板の上でいろいろと話しかけた人もあったろうが、何《なん》にも記憶に止まっていない。 『ただその時は健康が思わしくないからあまり浮き浮きしないで物思いに沈んでいたに違いない。絶えず甲板の上に出《-い》で将来《/行く末》の夢を描《えが》いてはこの世における人の身の上のことなどを思いつづけていたことだけは記憶している。もちろん若いものの癖でそれも不思議はないが。そこで僕は、春の日ののどかな光が油のような海面に融けほとんど漣《さざ波》も立たぬ中を船の船首《舳先》が心地よい音をさせて水を切って進行するにつれて、霞たなびく島々を迎えては送り、右舷左舷の景色をながめていた。菜《=ナ》の花と麦の青葉とで錦を敷いたような島々がまるで霞の奥に浮いているように見える。そのうち船がある小さな島を右舷に見てその磯から十町とは離れないところを通るので僕は欄《手すり》に寄り何心《何気》なくその島をながめていた。山の根がたのか《/か》しこここに背の低い松が小杜を作っているばかりで、見たところ畑《+ハタ》もなく家《イエ》らしいものも見えない。しんとしてさびしい磯の退潮《引き潮》の痕が日《’日》に輝《光》って、小さな波が水際《+ミギワ》をもてあそんでいるらしく長い線《-すじ》が白刃《ハクジン》のように光っては消えている。無人島《+ムニントウ》でない事はその山よりも高い空《=ソラ》で雲雀が啼いているのが微かに聞こえるのでわかる。田畑《タハタ》ある島《/島》と知れけりあ《/あ》げ雲雀、これは僕の老父《親父》の句であるが、山のむこうには人家があるに相違ないと僕は思うた。と見るうち退潮《引き潮》の痕の日に輝《光》っているところに一人の人がいるのが目についた。たしかに男である、また小供《子供》でもない。何かしきりに拾っては籠か桶かに入《=い》れているらしい。二三歩《+フタアシミアシ》あるいてはしゃがみ、そして何か拾っている。自分はこのさびしい島かげの小さな磯を漁っているこの人をじっとながめていた。船が進むにつれて人影が黒い点のようになってしまった、そのうち磯も山も島全体が霞のかなたに消えてしまった。その後今日《後/今日》が日《’日》までほとんど十年の間《あいだ》、僕は何度この島かげの顔も知らないこの人を憶《思》い起こしたろう。これが僕の「忘れ得ぬ人々」の一人である。 『その次は今から五年ばかり以前、正月元旦を父母《=ふぼ》の膝下《=ヒザモト》で祝ってすぐ九州旅行に出かけて、熊本から大分《=オオイタ》へと九州を横断した時のことであった。 『僕は朝早く弟と共に草鞋脚絆で元気よく熊本を出発《発》った。その日はまだ日が高いうちに立野という宿場まで歩いてそこに一泊した。次の日のまだ登らないうち立野を立って、かねての願いで、阿蘇山の白煙を目がけて霜を踏み桟橋《/桟橋》を渡り、路《道》を間違えたりしてようやく日中《お昼》時分に絶頂近くまで登り、噴火口に達したのは一時過ぎでもあッただろうか。熊本地方は温暖であるがうえに、風のないよく晴れた日だから、冬ながら六千尺の高山《コウザン》もさ《-さ》までは寒く感じない。高嶽の絶頂は噴火口から吐き出す水蒸気が凝《-こご》って白くなっていたがそのほかは満山ほとんど雪を見ないで、《:、》ただ枯れ草白く風《=カゼ》にそよぎ、焼け土のあるいは赤きあるいは黒きが旧噴火口の名残をかしこここに止めて断崖をなし、その荒涼たる、光景は、筆も口《=クチ》もかなわない、《:、》これを描《えが》くのはまず君の領分だと思う。 『僕らは一度噴火口の縁《フチ》まで登って、しばらくはすさまじい穴をのぞき込んだり四方《シホウ》の大観をほしいままにしたりしていたが、《:、》さすがに頂は風《=カゼ》が寒くってたまらないので、穴から少し下りると阿蘇神社があるそのそばに小さな小屋があって番茶くらいはのませてくれる、《:、》そこへ逃げ込んで団飯《+ムスビ》をかじって元気をつけて、また噴火口まで登った。 『その時は日がもうよほど傾いて肥後の平野《ヘーヤ》を立てこめている霧靄が焦げて赤くなってちょうどそこに見える旧噴火口の断崖と同じような色に染まった。円錐形にそびえて高く群峰を抜く九重嶺《クジュウミネ》の裾野の高原|数里《スウり》の枯れ草《=クサ》が一面に夕陽《+セキヨウ》を帯び、空気が水のように澄んでいるので人馬の行くのも見えそうである。天地寥廓、しかも足もとではすさまじい響きをして白煙濛々と立ちのぼりまっすぐに空《=そら》を衝き急に折れて高嶽を掠め天《/天》の一方に消えてしまう。壮といわんか美《/美》といわんか惨《/サン》といわんか、僕らは黙ったまま一言《イチゴン》も出さないでしばらく石像のように立っていた。この時天地悠々の感、人間存在の不思議の念などが心《=ココロ》の底からわいて来るのは自然のことだろうと思う。 『ところでもっとも僕らの感を惹いたものは九重嶺《クジュウミネ》と阿蘇山との間《=あいだ》の一大窪地であった。これはかねて世界最大の噴火口の旧跡と聞いていたがなるほど、九重嶺《クジュウミネ》の高原が急に頽《落ち》こんでいて数里《スウり》にわたる絶壁がこの窪地の西を回《巡》っているのが眼下によく見える。男体山麓の噴火口は明媚幽邃の中禅寺湖と変わっているがこの大噴火口はいつしか五穀実る数千町歩の田園とかわって村落幾個の樹林や麦畑が今しも斜陽静かに輝いている。僕らがその夜、疲《つか》れた足を踏みのばして罪のない夢を結ぶを楽しんでいる宮地という宿駅もこの窪地にあるのである。 『いっそのこと山上《=サンジョウ》の小屋に一泊して噴火の夜《=ヨル》の光景を見ようかという説も二人の間《=あいだ》に出たが、《:、》先が急がれるのでいよいよ山を下ることに決めて宮地を指して下《-お》りた。下《くだ》りは登りよりかずっと勾配が緩やかで、山の尾や谷間の枯れ草《=くさ》の間《あいだ》を蛇《ヘビ》のようにうねっている路《道》をたどって急ぐと、村に近づくにつれて枯れ草を着けた馬をいくつか逐いこした。あたりを見るとかしこここの山の尾の小路《小道》をのどかな鈴《=すず》の音夕陽《音/セキヨウ》を帯びて人馬いくつとなく麓をさして帰りゆくのが数えられる、馬はどれもみな枯れ草を着けている。麓は《は-》じきそこに見えていても容易には村へ出ないので、日《ヒ》は暮れかかるし僕らは大急ぎに急いでしまいには走って下りた。 『村に出た時はもう日が暮れて夕闇ほのぐらいころであった。村の夕暮れのにぎわいは格別で、壮年|男女《+ナンニョ》は一日の仕事のしまいに忙しく子供は薄暗い垣根の陰《蔭》や竈の火の見える軒先に集まって笑ったり歌ったり泣いたりしている、《:、》これはどこの田舎も同じことであるが、僕は荒涼たる阿蘇の草原から駆け下りて突然、この人寰に投じた時ほど、これらの光景に搏たれたことはない。二人は疲れた足をひきずって、日暮れて路遠きを感じながらも、懐かしいような心持ちで宮地を今宵の当てに歩いた。 『一村離《ひと村離》れて林や畑《+ハタ》の間《=あいだ》をしばらく行くと日はとっぷり暮れて二人の影がはっきりと地上に印するようになった。振り向いて西の空《=そら》を仰ぐと阿蘇の分派の一峰《イッポウ》の右に新月がこの窪地一帯の村落を我物顔《我が物顔》に澄んで蒼味がかった水のような光を放《=ハナ》っている。二人は気がついてすぐ頭の上を仰ぐと、昼間は真っ白に立ちのぼる噴煙が月の光を受けて灰色に染まって碧瑠璃の大空を衝いているさまが、いかにもすさまじくまた美しかった。長《=なが》さよ《-よ》りも幅の方《ほう》が長い橋にさしかかったから、幸いとその欄《手すり》に倚っかかって疲れきった足を休めながら二人は噴煙のさまのさまざまに変化するをながめたり、《:、》聞くともなしに村落の人語《ジンゴ》の遠くに聞こゆるを聞いたりしていた。すると二人が今《いま》来た道の方《ほう》から空車《カラグ-ルマ》らしい荷車の音が林などに反響して虚空に響き渡って次第に近づいて来るのが手に取るように聞こえだした。 『しばらくすると朗々《朗らか》な澄んだ声で流して歩く馬子唄が空車《カラグルマ》の音につれて漸々と近づいて来た。僕は噴煙をながめたままで耳を傾けて、この声の近づくのを待つともなしに待っていた。 『人影が見えたと思うと「宮地ゃ《ヤ》よいところじゃ阿蘇山ふもと」という俗謡《歌》を長く引いてちょうど僕らが立っている橋《ハシ》の少し手前まで流して来たその俗謡《歌》の意《+ココロ》と悲壮な声とがどんなに僕の情《+ココロ》を動かしたろう。二|十四《十’四》、五かと思われる屈強な壮漢《若者》が手綱を牽いて僕らの方《=ほう》を見向きもしないで通《=とお》ってゆくのを僕はじっとみつめていた。夕月の光を背にしていたからその横顔もはっきりとは知れなかったがそのたくましげな体躯の黒い輪郭が今も僕の目の底に残っている。 『僕は壮漢《若者》の後ろ影をじっと見送って、そして阿蘇の噴煙を見あげた。「忘れ得ぬ人々」の一人はすなわちこの壮漢《若者》である。 『その次は四国《=しこく》の三津が浜に一泊して汽船便を待った時のことであった。夏の初めと記憶しているが僕は朝早く旅宿《旅籠屋》を出て汽船の来るのは午後と聞いたのでこの港の浜や町を散歩した。奥に松山を控えているだけこの港の繁盛は格別で、分けても朝は魚市が立つので魚市場《サカナイチバ》の近傍の雑踏は非常なものであった。大空は名残なく晴れて朝日麗かに輝き、光る物には反射を与え、色あるものには光を添えて雑踏の光景をさらに殷々《賑々》しくしていた。叫ぶもの呼ぶもの、笑声《=ショウセイ》嬉々としてここに起これば、歓呼怒罵乱れてかしこにわくというありさまで、売るもの買うもの、老若男女、いずれも忙しそうにおもしろそうにうれしそうに、駆けたり追ったりしている。露店が並んで立ち食いの客を待っている。売っている品《物》は言わずもがなで、食ってる人は大概船頭船方の類《=ルイ》にきまっている。鯛や比良目《+ヒラメ》や海鰻《穴子》や章魚《+タコ》が、そこらに投げ出してある。なまぐさい臭《-にお》いが人々の立ち騒ぐ袖や裾にあおられて鼻を打つ。 『僕は全くの旅客でこの土地には縁《=エン》もゆかりもない身だから、知る顔もなければ見覚えの禿げ頭もない。そこで何となくこれらの光景が異様な感を起こさせて、世のさまを一段鮮やかにながめるような心地がした。僕はほとんど自己をわすれてこの雑踏の中《+ウチ》をぶらぶらと歩き、やや物静かなる街《巷》の一端《イッタン》に出た。 『するとすぐ僕の耳に入ったのは琵琶の音であった。そこの店先に一人の琵琶僧が立っていた。歳《=トシ》のころ四十を五ツ六《ム》ツも越えたらしく、幅の広い四角な顔《=かお》の丈《タケ》の低い肥えた漢子《男》であった。その顔の色、その目の光はちょうど悲しげな琵琶の音にふさわしく、あの咽ぶような糸の音につれて謡う声が沈んで濁って淀んでいた。巷の人は一人もこの僧を顧みない、家々の者《=もの》はたれもこの琵琶に耳を傾けるふうも見せない。朝日は輝く浮世はせわしい。 『しかし僕はじっとこの琵琶僧をながめて、その琵琶の音に耳を傾けた。この道幅の狭い軒端のそろわない、しかもせわしそうな巷の光景がこの琵琶僧とこの琵琶の音とに調和しないようでしかもどこかに深い約束があるように感じられた。あの嗚咽する琵琶の音が巷の軒《=ノキ》から軒《ノキ》へと漂うて勇ましげな売り声や、かしましい鉄砧の音と雑ざって、別に一道の清泉《セイセン》が濁波《+ダクハ》の間を潜《-くぐ》って流れるようなのを聞いていると、《:、》うれしそうな、浮き浮きした、おもしろそうな、忙しそうな顔《=カオ》つきをしている巷の人々の心の底の糸が自然の調べをかなでているように思われた、:「忘れえぬ人々」の一人はすなわちこの琵琶僧である。』  ここまで話して来て大津は静かにその原稿を下に置いてしばらく考え込んでいた。戸外《+ソト》の雨風の響きは少しも衰えない。秋山は起き直って、 『それから。』 『もうよそう、あまりふけるから。まだいくらもある。北海道|歌志内《+ウタシナ》の鉱夫、大連湾頭の青年漁夫、番匠川《+バンショウガワ》の瘤ある舟子《+フナコ》など僕が一々この原稿にあるだけを詳しく話すなら夜が明けてしまうよ。とにかく、僕がなぜこれらの人々を忘《わす》るることができないかという、それは憶《思》い起こすからである。なぜ僕が憶《思》い起こすだろうか。僕はそれを君に話して見たいがね。 『要するに僕は絶えず人生の問題に苦しんでいながらまた自己将来の大望に圧《-あっ》せられて自分で苦しんでいる不幸《不幸せ》な男である。 『そこで僕は今夜《今宵》のような晩に独り夜ふけて燈《明かり》に向かっているとこの生《セイ》の孤立を感じて堪《=た》え難いほどの哀情を催して来る。その時僕の主我の角《ツノ》がぼきり折れてしまって、なんだか人懐かしくなって来る。いろいろの古い事や友の上を考えだす。その時|油然《+ユゼン》として僕の心に浮かんで来るのはすなわちこれらの人々である。そうでない、これらの人々を見た時の周囲の光景の裡《うち》に立つこれらの人々である。われと他《人》と何《-なん》の相違があるか、《:、》みなこれこの生《セイ》を天の一方地《一方’地》の一角に享けて悠々たる行路をたどり、相携えて無窮の天に帰る者《=モノ》ではないか、というような感が心《=ココロ》の底から起こって来てわれ知らず涙が頬《ホオ》をつたうことがある。その時は実《=じつ》に我《吾》もなければ他《人》もない、ただたれもかれも懐かしくって、忍ばれて来る、 『僕はその時ほど心の平穏を感ずることはない、その時ほど自由を感ずることはない、その時ほど名利《+メイリ》競争の俗念消えてすべての物に対する同情の念の深い時はない。 『僕はどうにかしてこの題目で僕の思う存分に書いて見たいと思うている。僕は天下必ず同感の士あることと信ずる。』  その後二年経った。  大津は故あって東北のある地方に住まっていた。溝口《+ミゾノクチ》の旅宿《旅籠屋》で初めてあった秋山との交際は全く絶えた。ちょうど、大津が溝口《ミゾノクチ》に泊まった時の時候であったが、雨の降る晩のこと。大津は独り机に向かって瞑想に沈んでいた。机の上には二年前秋山《二年前’秋山》に示した原稿と同じの『忘れ得ぬ人々』が置いてあって、その最後に書き加えてあったのは『亀屋の主人』であった。 『秋山』ではなかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 底本:「武蔵野」岩波文庫、岩波書店    1939(昭和14)年2月15日第|1刷《イッサツ》発行    1972(昭和47)年8月16日第37刷改版発行    2002(平成14)年4月5日第77刷発行 底本の《’の》親本:「武蔵野」民友社    1901(明治34)年3月 初出:「国民之友」    1898(明治31)年4月 入力:土屋隆 校正:蒋龍 2009年3月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http:《コロン/》//www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。