◇。◇。◇。◇。◇。 【四日間】 【ガールシン】 【二葉亭四迷訳】 ◇。◇。◇。◇。◇。  忘れもせぬ、其時味方《そのとき味方》は森の中を走るのであった。シュッシュッという弾丸《玉》の中を落来《落ちく》る小枝をかなぐりかなぐり、山査子の株を縫うように進むのであったが、弾丸《玉》は段々烈しくなって、森の前方《向こう》に何やら赤いものが隠現見《チラチラ見》える。第一中隊のシードロフという未《いま》だ生若《ナマ若》い兵が此方《こっち》の戦線へ紛込《紛れ込ん》でいるから|⦅如何《(どう》してだろう?⦆《)》と忙《-せわ》しい中で閃《チラ》と其様《そん》な事を疑って見たものだ。スルト其奴《ソイツ》が矢庭にペタリ尻餠を搗いて、狼狽《狼狽え》た眼を円くして、ウッとおれの面《顔》を看《見》た其口《その口》から血が滴々々《タラタラタラ》‥‥いや眼に見えるようだ。眼に見えるようなは其而已《そればかり》でなく、其時《そのとき》ふッと気が付くと、森の殆ど出端《出外れ》の蓊鬱《こんもり》と生茂《生え茂》った山査子の中に、居《お》るわい、敵が。大きな食肥《食らい太っ》た奴《ヤツ》であった。俺は痩の虚弱《ひ弱》ではあるけれど、やッと云って躍蒐《躍りかか》る、バチッという音がして、何か斯《こ》う大きなもの、トサ其時《そのとき》は思われたがな、それがビュッと飛《飛ん》で来る、耳がグヮンと鳴る。打《打っ》たなと気が付《付い》た頃には、敵の奴めワ《/ワ》ッと云《言っ》て山査子の叢立に寄懸《寄りかか》って了《しま》った。匝《まわ》れば匝《まわ》られるものを、恐しさに度を失って、刺々の枝の中へ片足踏込《片足フンゴン》で躁《/焦》って藻掻いているところを、《:、》ヤッと一撃《ひと撃ち》に銃を叩落《叩き落》して、やたら突《づき》に銃劔《銃剣》をグサと突刺《つっさ》すと、獣の吼《吠え》るでもない唸るでもない変な声を出すのを聞捨《聞き捨て》にして駈出す。味方はワッワッと鬨を作って、倒ける、射つ、という真最中《真っ最中》。俺も森を畑《ハタ》へ駈出して慥か二三発《2’3発》も撃《撃っ》たかと思う頃、忽ちワッという鬨の声が一段高く聞えて、皆一斉《みんな一斉》に走出《走り出》す、皆走出《みんな走り出》す中で、俺はソノ‥‥旧《元》の処《ところ》に居《お》る。ハテなと思《思う》た。それよりも更《もっ》と不思議なは、忽然として万籟死《万籟’死》して鯨波《鬨の声》もしなければ、銃声も聞えず、音という音は皆消失《みんな消え失》せて、唯何《ただ何》やら前面《向こう》が蒼いと思《思う》たのは、大方空《おおかた空》であったのだろう。頓《やが》て其蒼《その蒼》いのも朦朧《モヤモヤ》となって了《しま》った‥‥ ◇。◇。◇。◇。◇。  どうも変さな、何でも伏臥《うつ伏し》になって居《お》るらしいのだがな、眼に遮ぎるものと云っては、唯掌大《ただ掌大》の地面ばかり。小草《オグサ》が数本《スホン》に、その一本を伝わって倒《逆しま》に這降《這いお》りる蟻に、去年の枯草《枯れぐさ》のこれが筐《カタミ》とも見える芥一摘《芥ひと摘》みほど──これが其時《そのとき》の眼中の小天地さ。それをば片一方の眼で視《見》ているので、片一方のは何か堅い、木の枝に違いないがな、それに圧《押》されて、そのまた枝に頭が上《乗》っていようと云うものだから、ひどく工合がわるい。身動《身動き》を仕《し》たくも、不思議なるかな、些《ちっ》とも出来んわい。其儘《そのまま》で暫く経つ。竈馬《コオロギ》の啼く音《ネ》、蜂の唸声の外には何も聞えん。少焉《暫く》あって、一《ひと》しきり藻掻いて、体の下になった右手をやッと脱《外》して、両の腕《カイナ》で体を支えながら起上《起き上が》ろうとしてみたが、何がさて鑽《/キリ》で揉むような痛みが膝から胸、頭《かしら》へと貫くように衝上《突き上》げて来て、俺はまた倒れた。また真の闇の跡先なしさ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  ふッと眼が覚めると、薄暗い空《’空》に星影が隠々《チラチラ》と見える。はてな、これは天幕《テント》の内ではない、何で俺は此様《こん》な処《ところ》へ出て来たのかと身動《身動き》をしてみると、足の痛さは骨に応えるほど!  何さまこれは負傷したのに相違ないが、それにしても重傷《オモデ》か擦創《カスリ》かと、傷所《痛みしょ》へ手を遣ってみれば、右も左もべッとりとした血《ノリ》。触《触れ》れば益々痛《ますます痛》むのだが、その痛《-いた》さが齲歯《虫歯》が痛むように間断《しっきり》なくキリキリと腹《ハラワタ》を挘《毟》られるようで、耳鳴がする、頭が重い。両脚《両足》に負傷したことはこれで朧気ながら分ったが、さて合点《ガテン》の行かぬは、何故此儘《何故このまま》にして置いたろう? 豈然《よもや》とは思うが、もしヒョッと味方敗北《味方’敗北》というのではあるまいか? と、まず、遡って当時の事を憶出《思い出》してみれば、初め朧のが末明亮《末ハッキリ》となって、いや如何《どう》しても敗北でないと収まる。何故と云えば、俺は、ソレ倒れたのだ。尤《もっと》もこれは瞭《ハキ》とせぬ。何《なん》でも皆が駈出《駆け出》すのに、俺一人それが出来ず、何か前方《向こう》が青く見えたのを憶えているだけではあるが、兎も角も小山《コヤマ》の上の此畑《このハタ》で倒れたのだ。これを指しては、背低の大隊長殿《大隊長どの》が占領々々《占領占領》と叫いた通《とお》り、此処《ここ》を占領したのであってみれば、これは敗北したのではない。それなら何故俺《なぜ俺》の始末をしなかったろう? 此処《ここ》は明放《明けバナ》しの濶《カツ》とした処《ところ》、見えぬことはない筈《はず》。それに此処《ここ》でこうして転がっているのは俺ばかりでもあるまい。敵の射撃は彼《あ》の通り猛烈だったからな。好《よ》し一つ頭を捻向《ねじ向》けて四下《そこら》の光景《様子》を視《見》てやろう。それには丁度先刻《丁度さっき》しがた眼を覚《覚ま》して例の小草《オグサ》を倒《逆しま》に這降《這いおり》る蟻を視《見》た時、起揚《起き上が》ろうとして仰向《アオムケ》に倒けて、伏臥《うつ伏し》にはならなかったから、勝手が好《い》い。それで此星《この星》も、成程《なるほど》な。  やっとこなと起《起き》かけてみたが、何分両脚《なにぶん両足》の痛手だから、なかなか起《起き》られぬ。到底《とて》も無益《無駄》だとグタリとなること二三度《二’三度》あって、さて辛うじて半身起上《ハンミ起き上が》ったが、や、その痛いこと、覚えず泪ぐんだくらい。  と視《見》ると頭の上は薄暗い空《ソラ》の一角。大きな星一《星ヒト》ツに小さいのが三《ミ》ツ四《ヨ》ツきらきらとして、周囲《周り》には何か黒《-くろ》いものが矗々《スック》と立っている。これは即ち山査子の灌木。俺は灌木の中に居《お》るのだ。さてこそ置去《置き去》り‥‥  と思うと、慄然《ぞっ》として、頭髪《髪の毛》が弥竪《よだ》ったよ。しかし待てよ、畑《ハタ》で射《や》られたのにしては、この灌木の中に居《お》るのが怪《おか》しい。してみればこれは傷の痛さに夢中で此処《ここ》へ這込《這い込ん》だに違いないが、それにしても其時《そのとき》は此処《ここ》まで這込《這い込》み得て、今は身動《身動き》もならぬが不思議、或は射《や》られた時は一ヵ所の負傷であったが、此処《ここ》へ這込《這い込ん》でから復《ま》た一発喰ったのかな。  蒼味を帯びた薄明《薄明かり》が幾個《幾つ》ともなく汚点《シミ》のように地《ヂ》を這って、大きな星は薄くなる、小さいのは全く消えて了《しま》う。ほ、月の出汐だ。これが家《ウチ》であったら、さぞなア、好かろうになアと‥‥  妙な声がする。宛《あだか》も人の唸るような‥‥いや唸るのだ。誰か同じく脚に傷《テ》を負って、若《もし》くは腹に弾丸《玉》を有《も》って、置去《置き去り》の憂目を見ている奴が其処《そこ》らに居《お》るのではあるまいか。唸声《唸り声》は顕然《まざまざ》と近くにするが近処《/辺り》に人が居そうにもない。はッ、これはしたり、何《なん》の事《こっ》た、おれおれ、この俺が唸るのだ。微かな情ない声が出おるわい。そんなに痛いのかしら。痛いには違いあるまいが、頭がただもう茫と無感覚《バカ》になっているから、それで分《分か》らぬ《ぬ-》のだろう。また横臥《寝ころん》で夢になって了《しま》え。眠《寝》ること眠《寝》ること‥‥が、もし万一此儘《ひょっとこのまま》になったら‥‥えい、関《構》うもんかい!  臥《寝》ようとすると、蒼白い月光が隈なく羅《薄物》を敷《敷い》たように仮の寝所《臥所》を照して、五歩ばかり先に何やら黒い大きなものが見える。月の光を浴びて身辺処々燦《身辺ところどころ燦》たる照返《照り返し》を見するのは釦紐《釦》か武具の光るのであろう。はてな、此奴死骸《こいつ死骸》かな。それとも負傷者《手負い》かな?  何方《どっち》でも関《構》わん。おれは臥《寝》る‥‥  いやいや如何考《どう考》えてみても其様《そん》な筈《はず》がない。味方は何処《どこ》へ往ったのでもない。此処《ここ》に居《お》るに相違ない、敵を逐払《追い払》って此処《ここ》を守っているに相違ない。それにしては話声《話し声》もせず篝《/篝》の爆《爆ぜ》る音も聞えぬのは何故であろう? いや、矢張己《やっぱり俺》が弱っているから何も聞えぬので、其実味方《そのじつ味方》は此処《ここ》に居《お》るに相違ない。 「助けてくれ助けてくれ!」  と破《ヤ》れた人間離《人間離れ》のした嗄声《嗄れ声》が咽喉《ノド》を衝いて迸出《迸り出》たが、応ずる者なし。大きな声が夜の空を劈いて四方《シホウ》へ響渡ったのみで、四下《辺り》はまた闃《ひっそ》となって了《しま》った。ただ相変らず蟋蟀《キリギリス》が鳴しきって真円《真ん丸》な月が悲しげに人を照すのみ。  若《も》し其処《そこ》のが負傷者《手負い》なら、この叫声《喚き声》を聴いてよもや気の付かぬ事はあるまい。してみれば、これは死骸だ。味方《ミカタ》のかしら、敵のかしら。ええ、馬鹿くさい! そんな事は如何《どう》でも好《い》いで《-で》はな《-な》いか? と、また腫眶《腫れ瞼》を夢に閉じられて了《しま》った。 ◇。◇。◇。◇。◇。  先刻《さっき》から覚めてはいるけれど、尚《な》お眼を瞑《ねむ》ったままで臥《寝》ているのは、閉じた眶越《瞼越し》にも日光《日の目》が見透《見透か》されて、開けば必ず眼を射られるを厭うからであるが、しかし考えてみれば、斯《こ》う寂然《じっ》としていた方《ほう》が勝《マシ》であろう。昨日‥‥たしか昨日と思うが、傷《テ》を負ってから最《も》う一昼夜《イッ昼夜》、こうして二昼夜三昼夜《2昼夜3昼夜》と経つ内《うち》には死ぬ。何《なん》の業《ワザ》くれ、死は一《ヒト》ツだ。寧《いっ》そ寂然《じっ》としていた方《ほう》が好《い》い。身動《身動き》がならぬなら、せんでも好《い》い。序《ついで》に頭の機能《働き》も止めて欲しいが、こればかりは如何《どう》する事も出来ず、千々に思乱《思い乱》れ種々《/様々》に思佗《思い侘び》て頭に些《些か》の隙も無いけれど、よしこれとても些《ちっ》との間《マ》の辛抱。頓《やが》て浮世の隙が明《あ》いて、筐《カタミ》に遺る新聞の数行《スギョウ》に、我軍死傷少《我が軍死傷少》なく、負傷者何名、志願兵イワーノフ戦死《’戦死》。いや、名前も出まいて。ただ一名戦死《一名’戦死》とばかりか。兵一名《ヘ-イ1名》! 嗟矣彼《嗚呼/あ》の犬のようなものだな。  在りし昔が顕然《ありあり》と目前に浮ぶ。これはズッと昔の事、尤《もっと》もな、昔の事と思われるのは是《これ》ばかりでない、おれが一生の事、足を撃《撃た》れて此処《ここ》に倒れる迄《まで》の事は何も彼《か》もズッと昔の事のように思われるのだが‥‥或日町《ある日’町》を通ると、人だかりがある。思わずも足を駐《とど》めて視《見》ると、何か哀れな悲鳴を揚げている血塗《血みどろ》の白い物を皆佇立《/みんな立ち止まっ》てまじりまじり視《見》ている光景《様子》。何かと思えば、それは可愛らしい小犬で、鉄道馬車に敷《轢》かれて、今の俺の身で死にかかっているのだ。すると、何処《どこ》からか番人が出て来て、見物を押分《押し分》け、犬の衿上《襟髪》をむずと掴んで何処《どこ》へか持って去《い》く、そこで見物もちりぢり。  誰かおれを持って去《い》って呉れる者があろうか? いや、此儘《このまま》で死ねという事であろう。が、しかし考えてみれば、人生は面白いもの、あの犬の不幸に遭った日は俺には即ち幸福な日で、歩くも何か酔心地、また然うあるべき理由《訳》があった。ええ、憶《思》えば辛い。憶《思》うまい憶《思》うまい。むかしの幸福。今の苦痛‥‥苦痛は兎角免れ得ぬにしろ、懐旧の念には責められたくない。昔を憶出《思い出》せば自然と今の我身《我が身》に引比《ひっ比》べられて遣瀬無いのは創傷《傷》よりも余程《よっぽど》いかぬ!  さて大分熱《だいぶ熱》くなって来たぞ。日が照付《照り付》けるぞ。と、眼を開けば、例の山査子に例の空、ただ白昼というだけの違い。おお、隣の人。ほい、敵の死骸だ! 何《なん》という大男! 待てよ、見覚《見覚え》があるぞ。矢張彼《やっぱりあ》の男だ‥‥  現在俺《いま俺》の手に掛けた男が眼の前に踏反《ふんぞ》ッているのだ。何《なん》の恨《恨み》が有っておれは此男《この男》を手に掛けたろう?  ただもう血塗《血みどろ》になってシャ《ャッ》チコばっているのであるが、此様《こん》な男を戦場へ引張《引っ張》り出すとは、運命の神も聞えぬ。一体何者だろう? 俺のように年寄《年と》った母親が有《あろ》うも知《知れ》ぬが、さぞ夕暮ごとにいぶせき埴生の小舎《小屋》の戸口に彳《佇》み、遥の空を眺《眺め》ては、命の綱の掙人《カセギニ-ン》は戻らぬか、愛《いと》し我子《我が子》の姿は見えぬかと、永く永く待《待ち》わたる事であろう。  さておれの身は如何《どう》なる事ぞ? おれも亦まツ《ッ》この通《とお》り‥‥ああ此男《この男》が羨ましい! 幸福者《あやかり者》だよ、何も聞《聞か》ずに、傷の痛みも感ぜずに、昔を偲ぶでもなければ、命惜しとも思うまい。銃劒《銃剣》が心臓の真中心《真っ只中》を貫いたのだからな。それそれ軍服のこの大きな孔《アナ》、孔《穴》の周囲《周り》のこの血。これは誰《たれ》の業? 皆《みんな》こういうおれの仕業だ。  ああ此様《こん》な筈《はず》ではなかったものを。戦争に出たは別段悪意があったではないものを。出れば成程人殺《なるほど人殺し》もしようけれど、如何《どう》してかそれは忘れていた。ただ飛来《飛び来》る弾丸《玉》に向《向か》い工合、それのみを気にして、さて乗出《乗り出》して弥弾丸《いよいよ玉》の的《マト》となったのだ。  それからの此始末《この始末》。ええええ馬鹿め! 己《俺》は馬鹿だったが、此不幸《この不幸》なる埃及《エジプト》の百姓《ヒャクショウ》(埃及軍《エジプト軍》の服を着けておったが)、この百姓《ヒャクショウ》になると、これはまた一段と罪が無かろう。鮨でも漬けたように船に詰込《詰め込ま》れて君士但丁堡《コンスタンチノープル》へ送付《送り付け》られるまでは、露西亜《ロシヤ》の事もバ《ブ》ルガリヤの事も唯噂《ただ噂》にも聞いたことなく、唯行《ただ行》けと云われたから来たのだ。若《も》しも厭の何《なん》のと云おうものなら、笞の憂目を見るは愚かなこと、いずれかのパシャのピストルの弾《-たま》を喰おうも知れぬところだ。スタンブールから此《この》ルシチウクまで長い辛《-つら》い行軍をして来て、我軍《我が軍》の攻撃に遭って防戦したのであろうが、味方は名《ナ》に負う猪武者、《:、》英吉利仕込《イギリスしこみ》のパテント付《づき》のピーボヂーにもマルチニーにも怯《ビク》ともせず、前へ前へと進むから、始て怖気付《怖気づ》いて遁げようとするところを、誰家《どこ》のか小男、平生《常》なら持合《持ち合わ》せの黒い拳固一撃《拳固ひと撃ち》で|ツイ《つい》埒が明きそうな小男が飛《飛ん》で来て、銃劒翳《銃剣翳》して胸板《ムナイタ》へグサと。  何《なん》の罪も咎も無いではないか?  おれも亦同《また同》じ事《こと》。殺しはしたけれど、何《なん》の罪がある? 何《なん》の報いで咽喉《ノド》の焦付きそうなこの渇き? 渇く! 渇くとは如何《’どん》なものか、御存じですかい? ルーマニヤを通る時は、百何十度という恐ろしい熱天《ネツ天》に毎日十里宛行軍《毎日’十里ずつ行軍》したッけが、其時《そのとき》でさえ斯《こ》うはなかった。ああ誰《たれ》ぞ来て呉《く》れれば好《い》いがな。  しめた! この男のこの大きな吸筒《スイヅツ》、これには屹度水《きっと水》がある! けれど、取りに行かなきゃならぬ。さぞ痛む事《こっ》たろうな。えい、如何《どう》するもんかい、やッつけろ!  と、這出《這い出》す。脚を引摺《引きず》りながら力の脱けた手で動かぬ体《カラダ》を動かして行く。死骸はわずか一間と隔てぬ所に在るのだけれど、その一間が時に取っては十里よりも‥‥遠いのではないが、難儀だ。けれども、如何仕様《どうしよう》も無い、這って行く外《ほか》はない。咽喉《ノド》は熱して焦げるよう。寧《いっ》そ水を飲まぬ方《ほう》が手短に片付くとは思いながら、それでも若《も》しやに覊《ひか》されて‥‥  這って行く。脚が地に泥んで、|一と動《ヒト動き》する毎に痛さは耐《こらえ》きれないほど。うんうんという唸声《うめき声》、それが頓《やが》て泣声《泣き声》になるけれど、それにも屈《めげ》ずに這って行く。やッと這付《這つ》く。そら吸筒《スイヅツ》──果して水が有る──而《しか》も沢山! 吸筒半分《スイヅツ半分》も有ったろうよ。やれ嬉しや、是《これ》でまず当分は水に困らぬ──死ぬ迄《まで》は困らぬのだ。やれやれ!  兎も角も、お蔭さまで助かりますと、片肘に身を持たせて吸筒《スイヅツ》の紐を解《解き》にかかったが、ふッと中心を失って今は恩人の死骸の胸へ伏倒《のめ》りかかった。如何《いか》にも死人臭《-しびと臭》い匂がもう芬《プン》と鼻に来る。  飲んだわ飲んだわ! 水は生温かったけれど、腐敗しては居なかったし、それに沢山に有る。まだ二三日は命が繋がれようというもの、それそれ生理心得草《生理心得グサ》に、水さえあらば食物なくとも人は能く一週間以上活《一週間以上生》くべしとあった。又餓死《また飢え死に》をした人の話が出ていたが、その人は水を飲《飲ん》でいたばかりに永く死切《死に切》れなかったという。  それが如何《どう》した? 此上五六日生延《このうえゴロクニチ生き延》びてそれが何になる? 味方は居《-い》ず、敵は遁《逃》げた、近くに往来はなしとすれば、これは如何《どう》でも死ぬに極《決ま》っている。三日で済む苦しみを一週間に引延《引き伸ば》すだけの事なら、寧《いっ》そ早く片付けた方《ほう》が勝《マシ》ではあるまいか? 隣のの側《ソバ》に銃もある、而《しか》も英吉利製《イギリス製》の尤物《業物》と見える。一寸手《ちょっと手》を延すだけの世話で、直ぐ埒が明《あ》く。皆打切《みんな打ち切》らなかったと見えて、弾丸《玉》も其処《そこ》に沢山転がっている。  さア《あ》、死ぬか──待ってみるか? 何を? 助かるのを? 死ぬのを? 敵が来て傷《テ》を負ったおれの足の皮剥《皮剥ぎ》に懸るを待ってみるのか? それよりも寧《いっ》そ我手《我が手》で一思《ひと思い》に‥‥  でないことさ、そう気を落したものでないことさ。活《生き》られるだけ活《生き》てみようじゃないか。何《なん》のこれが見付《見つ》かりさえすれば助かるのだ。事に寄ると、骨は避《-よ》けているかも知れんから、そうすれば必ず治る。国へ帰って母にも逢える、マ、マ、マリヤにも逢える‥‥  ああ国へは《は-》こうと知らせたくないな。一思《ひと思い》に死《死ん》だと思わせて置きたいな。そうでもない偶然《/ひょっと》おれが三日も四日も藻掻《藻掻い》ていたと知れたら‥‥  眼が眩《ま》う。隣歩きで全然力《すっかりチカラ》が脱《抜》けた。それにこの恐《おっそ》ろしい臭気は! 随分と土気色になったなア! ‥‥これで明日明後日《アス明後日》となったら──ええ思遣られる。今だって些《ちっ》ともこうしていたくはないけれど、こう草臥《草臥れ》ては|退く《ノク》にも|退か《ノカ》れぬ。少し休息したらまた旧処《元》へ戻ろう。幸いと風を後《後ろ》にしているから、臭気は前方《向こう》へ持って行こうというもの。  全然力《すっかりチカラ》が脱《抜》けて了《しま》った。太陽は手や顔へ照付《照り付》ける。何か被りたくも被《-かぶ》る物はな《無》し。責《せめ》て早く夜になとなれ。こうだによってと、これで二晩目《フタ晩目》かな。  などと思う事が次第に糾《縺》れて、それなりけりに夢さ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  大分永《だいぶ永》く眠っていたと見えて、眼を覚《覚ま》してみればもう夜。さて何も変った事なし、傷は痛む、隣のは例の大柄の五体を横たえて相変らず寂《ジャク》としたもの。  どうも此男《この男》の事が気になる。|遮莫おれ《さもあれ俺》にしたところで、憐《愛お》しいもの可愛《カワユイ》ものを残らず振棄《振り棄》てて、山超《山こ》え川越《川こ》えて三百里を此様《こん》なバ《ブ》ルガリヤ三界へ来て、餓えて、凍えて、暑さに苦しんで──これが何と夢ではあるまいか? この薄福者《不幸せ者》の命を断《絶》ったそればかりで、こうも苦しむことか? この人殺《人殺し》の外《ホカ》に、何《なん》ぞおれは戦争の利益《足し》になった事があるか?  人殺し、人殺《人殺し》の大罪人‥‥それは何奴? ああ情ない、|此おれ《この俺》だ!  そうそう、おれが従軍しようと思立った時、母もマリヤも止めはしなかったが、泣いたっけ。何がさて空想で眩んでいた此方《このほう》の眼にその泪が這入《入》るものか、おれの心一《心ヒト》ツで親女房に憂目《憂き目》を見するという事に其時《そのとき》はツイ気が付かなんだが、今となって漸《よ》う漸《よ》う眼が覚めた。  ええ、今更お復習《さらい》しても始まらぬか。昔を今に成す由もないからな。  しかし彼時親類共《あのとき親類ども》の態度《ソブリ》が余程妙《よっほど妙》だった。「何《なん》だ、馬鹿奴《馬鹿め》! お先真暗《先’真っ暗》で夢中に騒ぐ!」と、こうだ。何処《どこ》を押せば其様《そん》な音《ネ》が出る? ヤレ愛国だの、ソレ国難に殉ずるのという口《’口》の下から、如何《どう》して彼様《あん》な毒口が云えた? あいらの眼で観ても、おれは即ち愛国家ではないか、国難に殉ずるのではないか? ではあるけれど、それはそうなれど、おれはソノ馬鹿だという。  で、まず、キシニョーフへ出て来て背嚢やら何やらを背負《背おわ》されて、数千の戦友と倶に出征したが、その中でおれのように志願で行くものは四五人《シゴニン》とあるかなし、《:、》大抵は皆成《みんな成》ろう事なら家《ウチ》に寝ていたい連中《レンジュウ》であるけれど、それでも善くしたもので、所謂決死連《いわゆる決死連》の己達《俺たち》と同じように従軍して、山を超え川を踰え、いざ戦闘となっても負けずに能く戦う──《─:》いや更《もっ》と手際が好《い》いかも知れぬてな。尤《もっと》も許しさえしたら、何も角《か》も抛《ホッ》て置いて匇々《さっさ》と帰るかも知れぬが、兎も角も職分だけは能く尽す。  颯《さっ》と朝風が吹通《吹き通》ると、山査子がざわ立《だ》って、寝惚《寝ぼけ》た鳥が一羽飛出《イチワ飛び出》した。もう星も見えぬ。今迄薄暗《今まで薄暗》かっ《-っ》た空は《は’》ほのぼのと白みかかって、輭《柔らか》い羽毛《羽根》を散らしたような雲が一杯に棚引き、灰色の暗霧《靄》は空へ空へと晴《晴れ》て行く。これでおれのソノ‥‥何と云ったものかしら、生《セイ》にもあらず、死にもあらず、謂わば死苦の三日目《3日目》か。  三日目《3日目》‥‥まだ幾日苦《イクカ苦》しむ事であろう? もう永くはあるまい。大層弱ったからな。此塩梅《この塩梅》では死骸の側《ソバ》を離れたくも、もう離れられんも知れぬ。やがておれも是《これ》になって、肩を比《並》べて臥《寝》ていようが、お互《互い》に胸悪くも思は《わ》なくなるのであろう。  兎に角水《角’水》は十分《充分》に飲むべし。一日に三度飲もう、朝と昼と晩とにな。 ◇。◇。◇。◇。◇。  日の出だ! 大きく盆のようなのが、黒々《黒グロ》と見ゆる山査子の枝に縦横に断截《断ち切》られて血潮のように紅に、今日も大方熱い事であろう。それにつけても、隣の──貴様はまア何《なん》となる事ぞ? 今でさえ見るも浅ましいその姿。  ほんに浅ましい姿。髪の毛は段々と脱落《抜け落》ち、地体が黒い膚《肌》の色は蒼褪《青ざ》めて黄味さえ帯び、顔の腫脹《浮腫み》に皮が釣れて耳の後《後ろ》で罅裂《エミワ》れ、そこに蛆が蠢き、《:、》脚は水腫《ミズバレ》に脹上《腫れ上が》り、脚絆の合目《合わせ目》からぶよぶよの肉が大きく食出《はみ出》し、全身|むく《’浮腫》み上《上が》って宛然小牛《さながら子牛》のよう。今日一日太陽《今日イチニチ太陽》に晒されたら、これがまア如何《どう》なる事ぞ? こう寄添《寄り添》っていては耐《たま》らぬ。骨が舎利に成ろうが、これは何でも離れねばならぬ──が、出来るかしら? 成程手《なるほど手》も挙げられる、吸筒《スイヅツ》も開けられる、水も飲めることは飲めもするが、この重い動かぬ体を動かすことは? いや出来ようが出来まいが、何でも角《か》でも動かねばならぬ、仮令少《たとえ少》しずつでも、一時間によし半歩ずつでも。  で、弥移居《いよいよ引っ越し》を始めてこれに一朝全潰《ひとあさ丸つぶ》れ。傷も痛《痛ん》だが、何《なん》のそれしきの事に屈《めげ》るものか。もう健康な時の心持《心持ち》は忘たようで、全く憶出《思い出》せず、何となく痛《痛み》に慣《馴染》んだ形だ。一間ばかりの所を一朝《ひと朝》かかって居去《いざ》って、旧《元》の処《ところ》へ辛うじて辿着きは着いたが、さて新鮮の空気を呼吸し得たは束の間、《:、》尤《もっと》も形の徐々壊出《そろそろ崩れだ》した死骸を六歩《6歩》と離れぬ所で新鮮の空気の沙汰も可笑しいかも知れぬが──《─:》束の間で、風が変って今度は正面《-まとも》に此方《こっち》へ吹付ける、その臭さに胸がむかつく。空《から》の胃袋は痙攣を起したように引締って、臓腑が顛倒《ひっくり返》るような苦しみ。臭い腐敗した空気が意地悪《’意地悪》く|むんむ《ムンム》ッと煽付《煽りつ》ける。  精も根《コン》も尽果《尽き果》てて、おれは到頭泣出《とうとう泣き出》した。 ◇。◇。◇。◇。◇。  全く敗亡《まいっ》て、ホウとなって、殆ど人心地なく臥《寝》て居《おっ》た。ふッと‥‥いや心の迷《迷い》の空耳かしら? どうもおれには‥‥おお、矢張人声《やっぱり人声》だ。蹄の音に話声《話し声》。危なく声を立てようとして、待てしばし、万一敵《ひょっと敵》だったら、其《そ》の時は如何《どう》する? この苦しみに輪を掛けた新聞《/新聞》で読んでさえ頭《髪》の髪《毛》の弥竪《弥立ち》そうな目に遭おうも知《知れ》ぬ。随分生皮《ずいぶん生きがわ》も剥れよう、傷《テ》を負うた脚を火炙《火あぶり》にもされよう‥‥それしきは未《まだ》な事、こういう事にかけては頗る思付《思い付き》の好い渠奴等《キャツラ》の事、如何《どん》な事をするか知《知れ》たものでない。渠奴等《キャツラ》の手に掛って弄殺《なぶり殺》しにされようより、此処《ここ》でこうして死《死ん》だ方《ほう》が寧《いっ》そ勝《まし》か。とはいうものの、もしひょッと是《これ》が味方であったら? えい山査子奴《山査子め》がい《/い》け邪魔な! 何《なん》だと云ってこう隙間なく垣《カキ》のように生えくさった? 是《これ》に遮られて何も見えぬ。でも嬉やた《/た》った一ヵ所窓のように枝が透いて遠く低地《ヒク地》を見下される所がある。あの低地《ヒク地》には慥か小川があって戦争前《戦争ゼン》に其水《その水》を飲《飲ん》だ筈《はず》。そう云えばソレ彼処《/あすこ》に橋代《橋がわり》に架《渡》した大きな砂岩石《砂岩セキ》の板石《盤石》も見える。多分是《多分これ》を渡るであろう。もう話声《話し声》も聞えぬ。何国《どこ》の語で話ていたか、薩張聴分《さっぱり聴き分け》られなかったが、耳さえ今は遠くなったか。己《や》れやれ是《これ》が味方であったら‥‥此処《ここ》から喚《-わめ》けば、彼処《あすこ》からでもよもや聴付《聴き付》けぬ事はあるまい。憖《なまじ》いに早まって虎狼のような日傭兵《日雇い兵》の手に掛《掛か》ろうより、其方《そのほう》が好《い》い。もう好加減《好い加減》に通りそうなもの、何を愚頭々々《愚図愚図》しているのかと、一刻千秋の思い。死骸の臭気は些《些か》も薄らいだではないけれど、それすら忘れていた位《くらい》。  不意に橋の上に味方の騎兵が顕《現》れた。藍色の軍服や、赤い筋や、鎗の穂先が煌々《キラキラ》と、一隊挙《一隊すぐ》って五十騎ばかり。隊前《タイゼン》には黒髯を怒《-いか》らした一士官《イチ士官》が逸物に跨って進み行く。残らず橋を渡るや否や、士官は馬上《-ばじょう》ながら急に後《後ろ》を捻向《ねじ向》いて、大声《タイセイ》に 「駈足イ!」 「おおい、待って呉れえ待って呉れえ! お願いだ。助けて呉れえ!」  競立《きそい立》った馬の蹄の音、サーベルの響《響き》、がやがやという話声《話し声》に嗄声《嗄れ声》は消圧《気圧》されて──やれやれ聞えぬと見える。  ええ情ないと、気も張《張り》も一時《イチジ》に脱けて、|パッタリ《ぱったり》地上へひれ伏しておいおい泣出した。吸筒《スイヅツ》が倒れる、中《ナカ》から水──といえば其時《そのとき》の命、命の綱、いやさ死期《/シゴ》を緩《-ゆる》べて呉れていようというソノ霊薬が滾々《ゴボゴボ》と流出《流れ出》る。それに心附いた時は、もうコップ半分も残ってはいぬ時で、大抵はからからに乾燥《-はしゃ》いで咽喉《ノド》を鳴らしていた地面に吸込まれて了《しま》っていた。  この情ない目を見てからのおれの失望落胆《失望’落胆》と云ったらお話にならぬ。眼《目》を半眼に閉じて死んだようになっておった。風は始終向《始終向き》が変って、或《あるい》は清新な空気を吹付けることもあれば、又或《またあるい》は例の臭気に嗔咽《-むせ》させることもある。此日隣《この日/隣》のは弥々浅ましい姿になって其惨状《/その惨状》は筆にも紙にも尽されぬ。一度光景《一度様子》を窺おうとして、ヒョッと眼を開《-あ》いて視《見》て、慄然《ぞっ》とした。もう顔の痕迹《跡形》もない。骨を離れて流れて了《しま》ったのだ。無気味《ブキビ》にゲタと笑いかけて其儘固《そのまま固》まって了《しま》ったらしい頬桁の、その厭らしさ浅ましさ。随分髑髏《ずいぶんサレコウベ》を扱って人頭の標本を製した覚《覚え》もあるおれではあるが、ついぞ此様《こん》なのに出逢ったことがない。この骸骨が軍服を着けて、紐釦《釦》ばかりを光らせている所を見たら、覚えず胴震が出て心中《シンチュウ》で嘆息を漏した、《:》「嗚呼戦争《ああ戦争》とは──これだ、これが即ち其姿《その姿》だ」と。  相変らずの油照《油照り》、手も顔も既《も》うひりひりする。残少《残り少》なの水も一滴残さず飲干して了《しま》った。渇いて渇いて耐えられぬので、一滴甞《ひとしずく嘗》める積《積り》で、おもわずガブリと皆飲《みんな飲》んだのだ。嗚呼彼《嗚呼/あ》の騎兵が|ツイ側《ついソバ》を通る時《とき》、何故おれは声を立てて呼ばなかったろう? よし彼《あれ》が敵であったにしろ、まだ其方《-そのほう》が勝《マシ》であったものを。なんの高《タカ》が一二時間責《一、二時間’責め》さいなまれるまでの事だ。それをこうして居《お》れば未だ幾日《イクカ》ごろごろして苦しむことか知れぬ。それにつけても憶出《思い出》すは母の事。こうと知ったら、定めし白髪《シラガ》を引挘《引き毟》って、頭を壁へ打付《打ち付》けて、おれを産んだ日を悪日《悪ビ》と咒《呪》って、人の子を苦しめに、戦争なんぞを発明した此世界《この世界》をさぞ罵る事《こっ》たろうなア!  だが、母もマリヤもおれがこう踠死《藻掻きじに》に死ぬことを風の便《便り》にも知ろうようがない。ああ、母上にも既《も》う逢えぬ、いいなずけのマリヤにも既《も》う逢えぬ。おれの恋ももう是限《これぎり》か。ええ情けない! と思うと胸《’胸》が一杯になって‥‥  えい、また白犬めが。番人も酷《惨》いぞ、頭を壁へ叩付《叩きつ》けて置いて、掃溜《掃き溜め》へポンと抛込《放り込》んだ。まだ息気《息》が通《-かよ》っていたから、それから一日苦しんでいたけれど、彼犬《あの犬》に視《比》べればおれの方《ほう》が余程惨憺《よっぽど惨め》だ。おれは全三日苦《丸三日’苦》しみ通《どお》しだものを。明日《あす》は四日目《四日め》、それから五日目、六日目‥‥死神は何処《どこ》に居《お》る? 来てくれ! 早く引取《引き取》ってくれ!  なれど死神は来てくれず、引取《引き取》ってもくれぬ。此凄《この凄》まじい日に照付《照り付け》られて、一滴水《一滴’水》も飲まなければ、咽喉《ノド》の炎えるを欺《騙》す手段《手だて》なく剰《/あまつ》さえ死人《死びと》の臭《カザ》が腐付《腐りつ》いて此方《こちら》の体も壊出《崩れだ》しそう。その臭《カザ》の主も全くもう溶《とろ》けて了《しま》って、ポタリポタリと落来《落ちく》る無数の蛆は其処《そこ》らあたりにうようよぞろぞろ。是《これ》に食尽《食み尽く》されて其主《そのヌシ》が全く骨と服ばかりに成《な》れば、其次《その次》は此方《こっち》の番。おれも同じく此姿《この姿》になるのだ。  その日は暮れる、夜が明ける、何も変った事がなくて、朝になっても同じ事《こと》。また一日を空《アダ》に過す‥‥  山査子の枝が揺れて、ざわざわと葉摺《葉擦れ》の音、それが宛然《さながら》ひそめきたって物を云っているよう。「そら死ぬそら死ぬそら死ぬ」と耳の端《ハタ》で囁けば、片々《カタカタ》の耳元でも懐しい面《顔》「もう見えぬもう見えぬもう見えぬ」 「見えん筈《はず》じゃ、此様《こん》な処《とこ》に居《お》るじゃもの、」  と声高《コエダカ》に云う声が何処《どこ》か其処《そこ》らで‥‥  ぶるぶるとしてハッと気が付くと、隊の伍長のヤーコウレフが黒眼勝《黒目勝ち》の柔しい眼で山査子の間から熟《じっ》と此方《こちら》を覗いている光景《様子》。 「鋤を持ち来い! まだ他に二人おる。こやつも敵ぞ!」という。 「鋤は要らん、埋《埋め》ちゃいかん、活《生き》て居《お》るよ!」  と云おうとしたが、ただ便《頼り》ない呻声《うめき声》が乾付《からびつ》いた唇を漏れたばかり。 「やッ! こりゃ活《生》きとるンか? イワーノフじゃ! 来い来い、早《ハヨ》う来い、イワーノフが活《生》きとる。軍医殿《軍医どの》を軍医殿《軍医どの》を!」  瞬く間に水、焼酎、まだ何やらが口中へ注入《注ぎ入》れられたようであったが、それぎりでまた空《クウ》。  担架は調子好く揺れて行く。それがまた寝せ付られるようで快い。今眼《いま眼》が覚めたかと思うと、また生体《ショウタイ》を失う。繃帯をしてから傷の痛《痛み》も止んで、何とも云えぬ愉快《快き》に節々も緩むよう。 「止まれ、卸せ! 看護手交代《看護手’交代》! 用意! 担え!」  号令を掛けたのは我衛生隊附《我が衛生隊付き》のピョートル、イワーヌイチという看護長。頗る背高《のっぽう》で、大《ダイ》の男四人の肩に担がれて行くのであるが、其方《そのほう》へ眼を向けてみると、まず肩が見えて、次に長い疎髯《疎ら髭》、それから漸く頭が見えるのだ。 「看護長殿《看護長どの》!」  と小声に云うと、 「何《ナン》か?」  と少し屈懸《こごみかか》るようにする。 「軍医殿《軍医どの》は何と云われました? 到底助かりますまい?」 「何を云う? そげな事あッて好《よか》もんか! 骨に故障が有るちゅうじゃなし、請合《請けお》うて助かる。貴様は仕合《幸せ》ぞ、命を拾うたちゅうもんじゃぞ! 骨にも動脈にも触れちょらん。如何《どう》して此三昼夜《この3昼夜》ばッか活《生き》ちょったか? 何を食うちょったか?」 「何も食いません。」 「水は飲まんじゃったか?」 「敵の吸筒《スイヅツ》を‥‥看護長殿《看護長どの》、今は談話《話し》が出来ません。も《もう》少し後で‥‥」 「そうじゃろうそうじゃろう寝ろ寝ろ。」  また夢に入《-い》って生体《ショウタイ》なし。  眼が覚めてみると、此処《ここ》は師団の仮病舎《仮り病舎》。枕頭《枕元》には軍医や看護婦が居て、其外彼得堡《そのほかペテルブルグ》で有名な某国手がおれの傷《テ》を負った足の上に屈懸《こごみかか》っているソノ馴染の顔も見える。国手は手を血塗《血みどろ》にして脚の処《ところ》で暫く何かやッていたが、頓《やが》て此方《こちら》を向いて、 「君は命拾《命拾い》をしたぞ! もう大丈夫。脚を一本お貰い申したがね、何《なん》の、君、此様《こん》な脚の一本位《一本ぐらい》、何でもないさねえ。君もう口が利けるかい?」  もう利ける。そこで一伍一什《一部始終》の話をした。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【底本:「平凡◇ 私は懐疑派だ」講談社文芸文庫、講談社】 【   1997(平成9)年12月10日第|1刷発行《イッサツ発行》】 【底本《底本’》の親本:「二葉亭四迷全集」筑摩書房】 【   1984(昭和59)年11月~《から》1991(平成3)年11月】 【入力:長住由生】 【校正::はやしだかずこ】 【2000年11月8日公開】 【2005年12月8日修正】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http:《コロン”》//www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。