四日間 ガールシン 二葉亭四迷訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)弾丸《たま》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)片足|踏込《ふんごん》で [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)※[#始め二重括弧、1-2-54] -------------------------------------------------------  忘れもせぬ、其時味方は森の中を走るのであった。シュッシュッという弾丸《たま》の中を落来《おちく》る小枝をかなぐりかなぐり、山査子《さんざし》の株を縫うように進むのであったが、弾丸《たま》は段々烈しくなって、森の前方《むこう》に何やら赤いものが隠現《ちらちら》見える。第一中隊のシードロフという未だ生若《なまわか》い兵が此方《こッち》の戦線へ紛込《まぎれこん》でいるから※[#始め二重括弧、1-2-54]|如何《どう》してだろう?※[#終わり二重括弧、1-2-55]と忙《せわ》しい中で閃《ちら》と其様《そん》な事を疑って見たものだ。スルト其奴《そいつ》が矢庭にペタリ尻餠を搗《つ》いて、狼狽《うろたえ》た眼を円くして、ウッとおれの面《かお》を看た其口から血が滴々々《たらたらたら》……いや眼に見えるようだ。眼に見えるようなは其而已《そればかり》でなく、其時ふッと気が付くと、森の殆ど出端《ではずれ》の蓊鬱《こんもり》と生茂《はえしげ》った山査子《さんざし》の中に、居《お》るわい、敵が。大きな食肥《くらいふとッ》た奴であった。俺は痩の虚弱《ひよわ》ではあるけれど、やッと云って躍蒐《おどりかか》る、バチッという音がして、何か斯う大きなもの、トサ其時は思われたがな、それがビュッと飛で来る、耳がグヮンと鳴る。打たなと気が付た頃には、敵の奴めワッと云て山査子《さんざし》の叢立《むらだち》に寄懸《よりかか》って了った。匝《まわ》れば匝《まわ》られるものを、恐しさに度を失って、刺々《とげとげ》の枝の中へ片足|踏込《ふんごん》で躁《あせ》って藻掻《もが》いているところを、ヤッと一撃《ひとうち》に銃を叩落して、やたら突《づき》に銃劔をグサと突刺《つッさ》すと、獣《けもの》の吼《ほえ》るでもない唸《うな》るでもない変な声を出すのを聞捨にして駈出す。味方はワッワッと鬨《とき》を作って、倒《こ》ける、射《う》つ、という真最中。俺も森を畑《はた》へ駈出して慥《たし》か二三発も撃たかと思う頃、忽ちワッという鬨《とき》の声が一段高く聞えて、皆一斉に走出す、皆走出す中で、俺はソノ……旧《もと》の処に居る。ハテなと思た。それよりも更《もッ》と不思議なは、忽然として万籟《ばんらい》死して鯨波《ときのこえ》もしなければ、銃声も聞えず、音という音は皆消失せて、唯何やら前面《むこう》が蒼いと思たのは、大方空であったのだろう。頓《やが》て其蒼いのも朦朧《もやもや》となって了った……  どうも変さな、何でも伏臥《うつぶし》になって居るらしいのだがな、眼に遮《さえ》ぎるものと云っては、唯|掌大《しょうだい》の地面ばかり。小草《おぐさ》が数本《すほん》に、その一本を伝わって倒《さかしま》に這降《はいお》りる蟻に、去年の枯草《かれぐさ》のこれが筐《かたみ》とも見える芥《あくた》一摘《ひとつま》みほど――これが其時の眼中の小天地さ。それをば片一方の眼で視ているので、片一方のは何か堅い、木の枝に違いないがな、それに圧《お》されて、そのまた枝に頭が上《の》っていようと云うものだから、ひどく工合がわるい。身動《みうごき》を仕《し》たくも、不思議なるかな、些《ちッ》とも出来んわい。其儘で暫く経《た》つ。竈馬《こおろぎ》の啼《な》く音《ね》、蜂の唸声《うなりごえ》の外には何も聞えん。少焉《しばらく》あって、一しきり藻掻《もが》いて、体の下になった右手をやッと脱《はず》して、両の腕《かいな》で体を支えながら起上ろうとしてみたが、何がさて鑽《きり》で揉むような痛みが膝から胸、頭《かしら》へと貫くように衝上《つきあ》げて来て、俺はまた倒れた。また真の闇の跡先《あとさき》なしさ。  ふッと眼が覚めると、薄暗い空に星影が隠々《ちらちら》と見える。はてな、これは天幕《てんと》の内ではない、何で俺は此様《こん》な処へ出て来たのかと身動《みうごき》をしてみると、足の痛さは骨に応《こた》えるほど!  何《なに》さまこれは負傷したのに相違ないが、それにしても重傷《おもで》か擦創《かすり》かと、傷所《いたみしょ》へ手を遣《や》ってみれば、右も左もべッとりとした血《のり》。触《ふれ》れば益々痛むのだが、その痛さが齲歯《むしば》が痛むように間断《しッきり》なくキリキリと腹《はらわた》を※[#「てへん+劣」、第3水準1-84-77]《むし》られるようで、耳鳴がする、頭が重い。両脚に負傷したことはこれで朧気《おぼろげ》ながら分ったが、さて合点の行かぬは、何故《なぜ》此儘にして置いたろう? 豈然《よもや》とは思うが、もしヒョッと味方敗北というのではあるまいか? と、まず、遡《さかのぼ》って当時の事を憶出してみれば、初め朧《おぼろ》のが末《すえ》明亮《はっきり》となって、いや如何《どう》しても敗北でないと収まる。何故と云えば、俺は、ソレ倒れたのだ。尤もこれは瞭《はき》とせぬ。何でも皆が駈出すのに、俺一人それが出来ず、何か前方《むこう》が青く見えたのを憶えているだけではあるが、兎も角も小山の上の此《この》畑《はた》で倒れたのだ。これを指しては、背低《せびく》の大隊長殿が占領々々と叫《わめ》いた通り、此処を占領したのであってみれば、これは敗北したのではない。それなら何故俺の始末をしなかったろう? 此処は明放《あけばな》しの濶《かつ》とした処、見えぬことはない筈。それに此処でこうして転がっているのは俺ばかりでもあるまい。敵の射撃は彼《あ》の通り猛烈だったからな。好《よ》し一つ頭を捻向《ねじむ》けて四下《そこら》の光景《ようす》を視てやろう。それには丁度|先刻《さっき》しがた眼を覚して例の小草《おぐさ》を倒《さかしま》に這降《はいおり》る蟻を視た時、起揚《おきあが》ろうとして仰向《あおむけ》に倒《こ》けて、伏臥《うつぶし》にはならなかったから、勝手が好《い》い。それで此星も、成程な。  やっとこなと起かけてみたが、何分両脚の痛手《いたで》だから、なかなか起られぬ。到底《とて》も無益《むだ》だとグタリとなること二三度あって、さて辛《かろ》うじて半身起上ったが、や、その痛いこと、覚えず泪《なみだ》ぐんだくらい。  と視ると頭の上は薄暗い空の一角。大きな星一ツに小さいのが三《み》ツ四《よ》ツきらきらとして、周囲《まわり》には何か黒いものが矗々《すっく》と立っている。これは即ち山査子《さんざし》の灌木。俺は灌木の中に居るのだ。さてこそ置去り……  と思うと、慄然《ぞっ》として、頭髪《かみのけ》が弥竪《よだ》ったよ。しかし待てよ、畑《はた》で射《や》られたのにしては、この灌木の中に居るのが怪《おか》しい。してみればこれは傷の痛さに夢中で此処へ這込《はいこん》だに違いないが、それにしても其時は此処まで這込《はいこ》み得て、今は身動《みうごき》もならぬが不思議、或は射《や》られた時は一ヵ所の負傷であったが、此処へ這込《はいこん》でから復《ま》た一発|喰《く》ったのかな。  蒼味《あおみ》を帯びた薄明《うすあかり》が幾個《いくつ》ともなく汚点《しみ》のように地《じ》を這《は》って、大きな星は薄くなる、小さいのは全く消えて了う。ほ、月の出汐《でしお》だ。これが家《うち》であったら、さぞなア、好かろうになアと……  妙な声がする。宛《あだか》も人の唸《うな》るような……いや唸《うな》るのだ。誰か同じく脚《あし》に傷《て》を負って、若《もし》くは腹に弾丸《たま》を有《も》って、置去《おきざり》の憂目《うきめ》を見ている奴が其処らに居《お》るのではあるまいか。唸声《うなりごえ》は顕然《まざまざ》と近くにするが近処《あたり》に人が居そうにもない。はッ、これはしたり、何の事《こッ》た、おれおれ、この俺が唸《うな》るのだ。微かな情ない声が出おるわい。そんなに痛いのかしら。痛いには違いあるまいが、頭がただもう茫《ぼう》と無感覚《ばか》になっているから、それで分らぬのだろう。また横臥《ねころん》で夢になって了え。眠《ね》ること眠ること……が、もし万一《ひょっと》此儘になったら……えい、関《かま》うもんかい!  臥《ね》ようとすると、蒼白い月光が隈なく羅《うすもの》を敷たように仮の寝所《ふしど》を照して、五歩ばかり先に何やら黒い大きなものが見える。月の光を浴びて身辺|処々《ところどころ》燦《さん》たる照返《てりかえし》を見《み》するのは釦紐《ぼたん》か武具の光るのであろう。はてな、此奴《こいつ》死骸かな。それとも負傷者《ておい》かな?  何方《どっち》でも関《かま》わん。おれは臥《ね》る……  いやいや如何《どう》考えてみても其様《そん》な筈がない。味方は何処へ往ったのでもない。此処に居るに相違ない、敵を逐払《おいはら》って此処を守っているに相違ない。それにしては話声もせず篝《かがり》の爆《はぜ》る音も聞えぬのは何故であろう? いや、矢張《やッぱり》己《おれ》が弱っているから何も聞えぬので、其実味方は此処に居るに相違ない。 「助けてくれ助けてくれ!」  と破《や》れた人間離《にんげんばなれ》のした嗄声《しゃがれごえ》が咽喉《のど》を衝《つ》いて迸出《ほとばしりで》たが、応ずる者なし。大きな声が夜の空を劈《つんざ》いて四方へ響渡ったのみで、四下《あたり》はまた闃《ひッそ》となって了った。ただ相変らず蟋蟀《きりぎりす》が鳴しきって真円《まんまる》な月が悲しげに人を照すのみ。  若《も》し其処のが負傷者《ておい》なら、この叫声《わめきごえ》を聴いてよもや気の付かぬ事はあるまい。してみれば、これは死骸だ。味方のかしら、敵のかしら。ええ、馬鹿くさい! そんな事は如何《どう》でも好いではないか? と、また腫※[#「目+匡」、第3水準1-88-81]《はれまぶた》を夢に閉じられて了った。  先刻《さっき》から覚めてはいるけれど、尚お眼を瞑《ねむ》ったままで臥《ね》ているのは、閉じた※[#「目+匡」、第3水準1-88-81]越《まぶたごし》にも日光《ひのめ》が見透《みすか》されて、開《あ》けば必ず眼を射られるを厭《いと》うからであるが、しかし考えてみれば、斯う寂然《じっ》としていた方が勝《まし》であろう。昨日《きのう》……たしか昨日《きのう》と思うが、傷《て》を負ってから最《も》う一昼夜、こうして二昼夜三昼夜と経《た》つ内には死ぬ。何の業《わざ》くれ、死は一ツだ。寧《いっ》そ寂然《じっ》としていた方が好《い》い。身動《みうごき》がならぬなら、せんでも好《い》い。序《ついで》に頭の機能《はたらき》も止《と》めて欲しいが、こればかりは如何《どう》する事も出来ず、千々《ちぢ》に思乱れ種々《さまざま》に思佗《おもいわび》て頭に些《いささか》の隙も無いけれど、よしこれとても些《ちッ》との間《ま》の辛抱。頓《やが》て浮世の隙《ひま》が明いて、筐《かたみ》に遺る新聞の数行《すぎょう》に、我軍死傷少なく、負傷者何名、志願兵イワーノフ戦死。いや、名前も出まいて。ただ一名戦死とばかりか。兵一名! 嗟矣《ああ》彼《あ》の犬のようなものだな。  在りし昔が顕然《ありあり》と目前に浮ぶ。これはズッと昔の事、尤もな、昔の事と思われるのは是ばかりでない、おれが一生の事、足を撃れて此処に倒れる迄の事は何も彼《か》もズッと昔の事のように思われるのだが……或日町を通ると、人だかりがある。思わずも足を駐《とど》めて視ると、何か哀れな悲鳴を揚げている血塗《ちみどろ》の白い物を皆|佇立《たちどまっ》てまじりまじり視ている光景《ようす》。何かと思えば、それは可愛《かわい》らしい小犬で、鉄道馬車に敷かれて、今の俺の身で死にかかっているのだ。すると、何処からか番人が出て来て、見物を押分け、犬の衿上《えりがみ》をむずと掴《つか》んで何処へか持って去《い》く、そこで見物もちりぢり。  誰かおれを持って去《い》って呉れる者があろうか? いや、此儘で死ねという事であろう。が、しかし考えてみれば、人生は面白いもの、あの犬の不幸に遭《あ》った日は俺には即ち幸福な日で、歩くも何か酔心地、また然うあるべき理由《わけ》があった。ええ、憶えば辛い。憶うまい憶うまい。むかしの幸福。今の苦痛……苦痛は兎角免れ得ぬにしろ、懐旧の念には責められたくない。昔を憶出《おもいだ》せば自然と今の我身に引比べられて遣瀬無《やるせな》いのは創傷《きず》よりも余程《よッぽど》いかぬ!  さて大分熱くなって来たぞ。日が照付けるぞ。と、眼を開《あ》けば、例の山査子《さんざし》に例の空、ただ白昼というだけの違い。おお、隣の人。ほい、敵の死骸だ! 何という大男! 待てよ、見覚があるぞ。矢張《やッぱり》彼《あ》の男だ……  現在俺の手に掛けた男が眼の前に踏反《ふんぞ》ッているのだ。何の恨が有っておれは此男を手に掛けたろう?  ただもう血塗《ちみどろ》になってシャチコばっているのであるが、此様《こん》な男を戦場へ引張り出すとは、運命の神も聞えぬ。一体何者だろう? 俺のように年寄《としと》った母親が有《あろ》うも知《しれ》ぬが、さぞ夕暮ごとにいぶせき埴生《はにゅう》の小舎《こや》の戸口に彳《たたず》み、遥《はるか》の空を眺《ながめ》ては、命の綱の※[#「てへん+爭」、第4水準2-13-24]人《かせぎにん》は戻らぬか、愛《いと》し我子の姿は見えぬかと、永く永く待わたる事であろう。  さておれの身は如何《どう》なる事ぞ? おれも亦《また》まツこの通り……ああ此男が羨《うらや》ましい! 幸福者《あやかりもの》だよ、何も聞《きか》ずに、傷の痛みも感ぜずに、昔を偲ぶでもなければ、命惜しとも思うまい。銃劒が心臓の真中心《まッただなか》を貫いたのだからな。それそれ軍服のこの大きな孔《あな》、孔《あな》の周囲《まわり》のこの血。これは誰《たれ》の業《わざ》? 皆こういうおれの仕業《しわざ》だ。  ああ此様《こん》な筈ではなかったものを。戦争に出《で》たは別段悪意があったではないものを。出《で》れば成程人殺もしようけれど、如何《どう》してかそれは忘れていた。ただ飛来《とびく》る弾丸《たま》に向い工合《ぐあい》、それのみを気にして、さて乗出《のりだ》して弥《いよいよ》弾丸《たま》の的となったのだ。  それからの此始末。ええええ馬鹿め! 己《おれ》は馬鹿だったが、此不幸なる埃及《エジプト》の百姓(埃及軍《エジプトぐん》の服を着けておったが)、この百姓になると、これはまた一段と罪が無かろう。鮨《すし》でも漬《つ》けたように船に詰込れて君士但丁堡《コンスタンチノープル》へ送付られるまでは、露西亜《ロシヤ》の事もバルガリヤの事も唯噂にも聞いたことなく、唯行けと云われたから来たのだ。若《も》しも厭《いや》の何のと云おうものなら、笞《しもと》の[#「笞《しもと》の」は底本では「苔《しもと》の」]憂目《うきめ》を見るは愚かなこと、いずれかのパシャのピストルの弾を喰《く》おうも知れぬところだ。スタンブールから此ルシチウクまで長い辛い行軍をして来て、我軍の攻撃に遭《あ》って防戦したのであろうが、味方は名に負う猪武者《いのししむしゃ》、英吉利《イギリス》仕込《しこみ》のパテント付《づき》のピーボヂーにもマルチニーにも怯《びく》ともせず、前へ前へと進むから、始て怖気付《おじけづ》いて遁《に》げようとするところを、誰家《どこ》のか小男、平生《つね》なら持合せの黒い拳固《げんこ》一撃《ひとうち》でツイ埒《らち》が明きそうな小男が飛で来て、銃劒|翳《かざ》して胸板へグサと。  何の罪も咎《とが》も無いではないか?  おれも亦同じ事。殺しはしたけれど、何の罪がある? 何の報いで咽喉《のど》の焦付《こげつ》きそうなこの渇《かわ》き? 渇《かわ》く! 渇《かわ》くとは如何《どん》なものか、御存じですかい? ルーマニヤを通る時は、百何十度という恐ろしい熱天に毎日十里|宛《ずつ》行軍したッけが、其時でさえ斯うはなかった。ああ誰《たれ》ぞ来て呉れれば好《い》いがな。  しめた! この男のこの大きな吸筒《すいづつ》、これには屹度《きっと》水がある! けれど、取りに行かなきゃならぬ。さぞ痛む事《こッ》たろうな。えい、如何《どう》するもんかい、やッつけろ!  と、這出《はいだ》す。脚《あし》を引摺《ひきず》りながら力の脱けた手で動かぬ体を動かして行く。死骸はわずか一間と隔てぬ所に在るのだけれど、その一間が時に取っては十里よりも……遠いのではないが、難儀だ。けれども、如何仕様《どうしよう》も無い、這《は》って行く外はない。咽喉《のど》は熱して焦《こ》げるよう。寧《いっ》そ水を飲まぬ方が手短に片付くとは思いながら、それでも若《も》しやに覊《ひか》されて……  這《は》って行く。脚《あし》が地に泥《なず》んで、一《ひ》と動《うごき》する毎《ごと》に痛さは耐《こらえ》きれないほど。うんうんという唸声《うめきごえ》、それが頓《やが》て泣声になるけれど、それにも屈《めげ》ずに這《は》って行く。やッと這付《はいつ》く。そら吸筒《すいづつ》――果して水が有る――而も沢山! 吸筒《すいづつ》半分も有ったろうよ。やれ嬉しや、是でまず当分は水に困らぬ――死ぬ迄は困らぬのだ。やれやれ!  兎も角も、お蔭さまで助かりますと、片肘《かたひじ》に身を持たせて吸筒《すいづつ》の紐を解《とき》にかかったが、ふッと中心を失って今は恩人の死骸の胸へ伏倒《のめ》りかかった。如何にも死人《しびと》臭《くさ》い匂がもう芬《ぷん》と鼻に来る。  飲んだわ飲んだわ! 水は生温《なまぬる》かったけれど、腐敗しては居なかったし、それに沢山に有る。まだ二三日は命が繋《つな》がれようというもの、それそれ生理《せいり》心得草《こころえぐさ》に、水さえあらば食物《しょくもつ》なくとも人は能《よ》く一週間以上|活《い》くべしとあった。又|餓死《うえじに》をした人の話が出ていたが、その人は水を飲でいたばかりに永く死切れなかったという。  それが如何《どう》した? 此上五六日生延びてそれが何《なに》になる? 味方は居ず、敵は遁《に》げた、近くに往来はなしとすれば、これは如何《どう》でも死ぬに極《きま》っている。三日で済む苦しみを一週間に引延すだけの事なら、寧《いっ》そ早く片付けた方が勝《まし》ではあるまいか? 隣のの側《そば》に銃もある、而も英吉利製《イギリスせい》の尤物《わざもの》と見える。一寸《ちょッと》手を延すだけの世話で、直ぐ埒《らち》が明く。皆打切らなかったと見えて、弾丸《たま》も其処に沢山転がっている。  さア、死ぬか――待ってみるか? 何を? 助かるのを? 死ぬのを? 敵が来て傷《て》を負ったおれの足の皮剥《かわはぎ》に懸るを待ってみるのか? それよりも寧《いっ》そ我手で一思《ひとおもい》に……  でないことさ、そう気を落したものでないことさ。活《いき》られるだけ活《いき》てみようじゃないか。何のこれが見付かりさえすれば助かるのだ。事に寄ると、骨は避《よ》けているかも知れんから、そうすれば必ず治る。国へ帰って母にも逢える、マ、マ、マリヤにも逢える……  ああ国へはこうと知らせたくないな。一思《ひとおもい》に死だと思わせて置きたいな。そうでもない偶然《ひょっと》おれが三日も四日も藻掻《もがい》ていたと知れたら……  眼が眩《ま》う。隣歩きで全然《すっかり》力が脱けた。それにこの恐《おッそ》ろしい臭気は! 随分と土気色になったなア! ……これで明日《あす》明後日《あさって》となったら――ええ思遣られる。今だって些《ちっ》ともこうしていたくはないけれど、こう草臥《くたびれ》ては退《の》くにも退《の》かれぬ。少し休息したらまた旧処《もと》へ戻ろう。幸いと風を後《うしろ》にしているから、臭気は前方《むこう》へ持って行こうというもの。  全然《すっかり》力が脱けて了った。太陽は手や顔へ照付ける。何か被《かぶ》りたくも被《かぶ》る物はなし。責《せめ》て早く夜になとなれ。こうだによってと、これで二晩目かな。  などと思う事が次第に糾《もつ》れて、それなりけりに夢さ。  大分永く眠っていたと見えて、眼を覚してみればもう夜。さて何も変った事なし、傷は痛む、隣のは例の大柄の五体を横たえて相変らず寂《じゃく》としたもの。  どうも此男の事が気になる。遮莫《さもあれ》おれにしたところで、憐《いとお》しいもの可愛《かわゆい》ものを残らず振棄てて、山超え川越えて三百里を此様《こん》なバルガリヤ三|界《がい》へ来て、餓えて、凍《こご》えて、暑さに苦しんで――これが何と夢ではあるまいか? この薄福者《ふしあわせもの》の命を断ったそればかりで、こうも苦しむことか? この人殺の外に、何ぞおれは戦争の利益《たし》になった事があるか?  人殺し、人殺の大罪人……それは何奴《なにやつ》? ああ情ない、此おれだ!  そうそう、おれが従軍しようと思立った時、母もマリヤも止めはしなかったが、泣いたっけ。何がさて空想で眩《くら》んでいた此方《このほう》の眼にその泪《なみだ》が這入《はい》るものか、おれの心一ツで親女房に憂目《うきめ》を見するという事に其時はツイ気が付かなんだが、今となって漸《よ》う漸う眼が覚めた。  ええ、今更お復習《さらい》しても始まらぬか。昔を今に成す由もないからな。  しかし彼時《あのとき》親類共の態度《そぶり》が余程《よッほど》妙だった。「何だ、馬鹿|奴《め》! お先真暗で夢中に騒ぐ!」と、こうだ。何処を押せば其様《そん》な音《ね》が出る? ヤレ愛国だの、ソレ国難に殉ずるのという口の下から、如何《どう》して彼様《あん》な毒口《どくぐち》が云えた? あいらの眼で観ても、おれは即ち愛国家ではないか、国難に殉ずるのではないか? ではあるけれど、それはそうなれど、おれはソノ馬鹿だという。  で、まず、キシニョーフへ出て来て背嚢《はいのう》やら何やらを背負《せおわ》されて、数千の戦友と倶《とも》に出征したが、その中でおれのように志願で行くものは四五人とあるかなし、大抵は皆成ろう事なら家《うち》に寝ていたい連中《れんじゅう》であるけれど、それでも善くしたもので、所謂《いわゆる》決死連の己達《おれたち》と同じように従軍して、山を超《こ》え川を踰《こ》え、いざ戦闘となっても負けずに能《よ》く戦う――いや更《もっ》と手際《てぎわ》が好いかも知れぬてな。尤も許しさえしたら、何も角《か》も抛《ほっ》て置いて※[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]々《さっさ》と帰るかも知れぬが、兎も角も職分だけは能《よ》く尽す。  颯《さっ》と朝風が吹通ると、山査子《さんざし》がざわ立《だ》って、寝惚《ねぼけ》た鳥が一羽飛出した。もう星も見えぬ。今迄薄暗かった空はほのぼのと白《しら》みかかって、※[#「車+(而+大)」、第3水準1-92-46]《やわらか》い羽毛《はね》を散らしたような雲が一杯に棚引き、灰色の暗霧《もや》は空へ空へと晴て行く。これでおれのソノ……何《なに》と云ったものかしら、生にもあらず、死にもあらず、謂わば死苦《しく》の三日目か。  三日目……まだ幾日《いくか》苦しむ事であろう? もう永くはあるまい。大層弱ったからな。此|塩梅《あんばい》では死骸の側《そば》を離れたくも、もう離れられんも知れぬ。やがておれも是になって、肩を比《なら》べて臥《ね》ていようが、お互に胸悪くも思はなくなるのであろう。  兎に角水は十分に飲むべし。一日に三度飲もう、朝と昼と晩とにな。  日の出だ! 大きく盆のようなのが、黒々と見ゆる山査子《さんざし》の枝に縦横《たてよこ》に断截《たちき》られて血潮のように紅《くれない》に、今日も大方熱い事であろう。それにつけても、隣の――貴様はまア何となる事ぞ? 今でさえ見るも浅ましいその姿。  ほんに浅ましい姿。髪の毛は段々と脱落《ぬけお》ち、地体《じたい》が黒い膚《はだ》の色は蒼褪《あおざ》めて黄味さえ帯び、顔の腫脹《むくみ》に皮が釣れて耳の後《うしろ》で罅裂《えみわ》れ、そこに蛆《うじ》が蠢《うごめ》き、脚《あし》は水腫《みずばれ》に脹上《はれあが》り、脚絆の合目《あわせめ》からぶよぶよの肉が大きく食出《はみだ》し、全身むくみ上って宛然《さながら》小牛のよう。今日一日太陽に晒《さら》されたら、これがまア如何《どう》なる事ぞ? こう寄添っていては耐《たま》らぬ。骨が舎利《しゃり》に成ろうが、これは何でも離れねばならぬ――が、出来るかしら? 成程手も挙げられる、吸筒《すいづつ》も開けられる、水も飲めることは飲めもするが、この重い動かぬ体を動かすことは? いや出来ようが出来まいが、何でも角《か》でも動かねばならぬ、仮令《たとえ》少しずつでも、一時間によし半歩ずつでも。  で、弥《いよいよ》移居《ひっこし》を始めてこれに一朝《ひとあさ》全潰《まるつぶ》れ。傷も痛《いたん》だが、何のそれしきの事に屈《めげ》るものか。もう健康な時の心持は忘《わすれ》たようで、全く憶出《おもいだ》せず、何となく痛《いたみ》に慣《なじ》んだ形だ。一間ばかりの所を一朝かかって居去《いざ》って、旧《もと》の処へ辛《かろ》うじて辿着《たどりつ》きは着いたが、さて新鮮の空気を呼吸し得たは束の間、尤も形の徐々《そろそろ》壊出《くずれだ》した死骸を六歩と離れぬ所で新鮮の空気の沙汰も可笑《おか》しいかも知れぬが――束の間で、風が変って今度は正面《まとも》に此方《こっち》へ吹付ける、その臭さに胸がむかつく。空《から》の胃袋は痙攣《けいれん》を起したように引締って、臓腑《ぞうふ》が顛倒《ひッくりかえ》るような苦しみ。臭い腐敗した空気が意地悪くむんむッと煽付《あおりつ》ける。  精も根も尽果てて、おれは到頭泣出した。  全く敗亡《まいっ》て、ホウとなって、殆ど人心地なく臥《ね》て居《おっ》た。ふッと……いや心の迷の空耳かしら? どうもおれには……おお、矢張《やっぱり》人声だ。蹄《ひづめ》の音に話声。危なく声を立てようとして、待てしばし、万一《ひょっと》敵だったら、其の時は如何《どう》する? この苦しみに輪を掛けた新聞で読んでさえ頭《かみ》の髪《け》の弥竪《よだち》そうな目に遭《あ》おうも知《しれ》ぬ。随分|生皮《いきがわ》も剥《はが》れよう、傷《て》を負うた脚《あし》を火炙《ひあぶり》にもされよう……それしきは未《まだ》な事、こういう事にかけては頗る思付の好《い》い渠奴等《きゃつら》の事、如何《どん》な事をするか知《しれ》たものでない。渠奴等《きゃつら》の手に掛って弄殺《なぶりごろ》しにされようより、此処でこうして死だ方が寧《いっ》そ勝《まし》か。とはいうものの、もしひょッと是が味方であったら? えい山査子奴《さんざしめ》がいけ邪魔な! 何だと云ってこう隙間なく垣のように生えくさった? 是に遮《さえぎ》られて何も見えぬ。でも嬉やたった一ヵ所窓のように枝が透《す》いて遠く低地《ひくち》を見下される所がある。あの低地《ひくち》には慥《たし》か小川があって戦争|前《ぜん》に其水を飲だ筈。そう云えばソレ彼処《あすこ》に橋代《はしがわり》に架《わた》した大きな砂岩石《さがんせき》の板石《ばんじゃく》も見える。多分是を渡るであろう。もう話声も聞えぬ。何国《どこ》の語《ご》で話ていたか、薩張《さっぱり》聴分られなかったが、耳さえ今は遠くなったか。己《おの》れやれ是が味方であったら……此処から喚《わめ》けば、彼処《あすこ》からでもよもや聴付けぬ事はあるまい。憖《なまじ》いに早まって虎狼《ころう》のような日傭兵《ひやといへい》の手に掛ろうより、其方が好《い》い。もう好加減《いいかげん》に通りそうなもの、何を愚頭々々《ぐずぐず》しているのかと、一刻千秋の思い。死骸の臭気は些《いささか》も薄らいだではないけれど、それすら忘れていた位。  不意に橋の上に味方の騎兵が顕《あらわ》れた。藍色の軍服や、赤い筋や、鎗の穂先が煌々《きらきら》と、一隊|挙《すぐ》って五十騎ばかり。隊前には黒髯《くろひげ》を怒《いか》らした一士官が逸物《いちもつ》に跨《またが》って進み行く。残らず橋を渡るや否や、士官は馬上ながら急に後《うしろ》を捻向《ねじむ》いて、大声《たいせい》に 「駈足イ!」 「おおい、待って呉れえ待って呉れえ! お願いだ。助けて呉れえ!」  競立《きそいた》った馬の蹄《ひづめ》の音、サーベルの響、がやがやという話声に嗄声《しゃがれごえ》は消圧《けお》されて――やれやれ聞えぬと見える。  ええ情ないと、気も張も一|時《じ》に脱けて、パッタリ地上へひれ伏しておいおい泣出した。吸筒《すいづつ》が倒れる、中から水――といえば其時の命、命の綱、いやさ死期《しご》を緩《ゆる》べて呉れていようというソノ霊薬が滾々《ごぼごぼ》と流出る。それに心附いた時は、もうコップ半分も残ってはいぬ時で、大抵はからからに乾燥《はしゃ》いで咽喉《のど》を鳴らしていた地面に吸込まれて了っていた。  この情ない目を見てからのおれの失望落胆と云ったらお話にならぬ。眼を半眼《はんがん》に閉じて死んだようになっておった。風は始終|向《むき》が変って、或は清新な空気を吹付けることもあれば、又或は例の臭気に嗔咽《むせ》させることもある。此日隣のは弥々《いよいよ》浅ましい姿になって其惨状は筆にも紙にも尽されぬ。一度|光景《ようす》を窺《うかが》おうとして、ヒョッと眼を開《あ》いて視て、慄然《ぞっ》とした。もう顔の痕迹《あとかた》もない。骨を離れて流れて了ったのだ。無気味《ぶきび》にゲタと笑いかけて其儘固まって了ったらしい頬桁《ほおげた》の、その厭らしさ浅ましさ。随分|髑髏《されこうべ》を扱って人頭の標本を製した覚もあるおれではあるが、ついぞ此様《こん》なのに出逢ったことがない。この骸骨が軍服を着けて、紐釦《ぼたん》ばかりを光らせている所を見たら、覚えず胴震が出て心中で嘆息を漏した、「嗚呼《ああ》戦争とは――これだ、これが即ち其姿だ」と。  相変らずの油照《あぶらでり》、手も顔も既《も》うひりひりする。残少なの水も一滴残さず飲干して了った。渇《かわ》いて渇いて耐えられぬので、一滴《ひとしずく》甞める積《つもり》で、おもわずガブリと皆飲んだのだ。嗚呼《ああ》彼《あ》の騎兵がツイ側《そば》を通る時、何故《なぜ》おれは声を立てて呼ばなかったろう? よし彼《あれ》が敵であったにしろ、まだ其方が勝《まし》であったものを。なんの高が一二時間|責《せめ》さいなまれるまでの事だ。それをこうして居れば未だ幾日《いくか》ごろごろして苦しむことか知れぬ。それにつけても憶出《おもいだ》すは母の事。こうと知ったら、定めし白髪《しらが》を引※[#「てへん+劣」、第3水準1-84-77]《ひきむし》って、頭を壁へ打付けて、おれを産んだ日を悪日《あくび》と咒《のろ》って、人の子を苦しめに、戦争なんぞを発明した此世界をさぞ罵《ののし》る事《こッ》たろうなア!  だが、母もマリヤもおれがこう※[#「足へん+宛」、第3水準1-92-36]死《もがきじに》に死ぬことを風の便《たより》にも知ろうようがない。ああ、母上にも既《も》う逢えぬ、いいなずけのマリヤにも既《も》う逢えぬ。おれの恋ももう是限《これぎり》か。ええ情けない! と思うと胸が一杯になって……  えい、また白犬めが。番人も酷《むご》いぞ、頭を壁へ叩付けて置いて、掃溜《はきだめ》へポンと抛込《ほうりこ》んだ。まだ息気《いき》が通《かよ》っていたから、それから一日苦しんでいたけれど、彼犬《あのいぬ》に視《くら》べればおれの方が余程《よッぽど》惨憺《みじめ》だ。おれは全《まる》三日苦しみ通しだものを。明日《あす》は四日目、それから五日目、六日目……死神は何処に居《お》る? 来てくれ! 早く引取ってくれ!  なれど死神は来てくれず、引取ってもくれぬ。此凄まじい日に照付られて、一滴水も飲まなければ、咽喉《のど》の炎《も》えるを欺《だま》す手段《てだて》なく剰《あまつ》さえ死人《しびと》の臭《かざ》が腐付《くさりつ》いて此方《こちら》の体も壊出《くずれだ》しそう。その臭《かざ》の主《ぬし》も全くもう溶《とろ》けて了って、ポタリポタリと落来る無数の蛆《うじ》は其処らあたりにうようよぞろぞろ。是に食尽《はみつく》されて其主が全く骨と服ばかりに成れば、其次は此方《こッち》の番。おれも同じく此姿になるのだ。  その日は暮れる、夜が明ける、何も変った事がなくて、朝になっても同じ事。また一日を空《あだ》に過す……  山査子《さんざし》の枝が揺れて、ざわざわと葉摺《はずれ》の音、それが宛然《さながら》ひそめきたって物を云っているよう。「そら死ぬそら死ぬそら死ぬ」と耳の端《はた》で囁《ささや》けば、片々《かたかた》の耳元でも懐しい面《かお》「もう見えぬもう見えぬもう見えぬ」 「見えん筈じゃ、此様《こん》な処《とこ》に居《お》るじゃもの、」  と声高《こえだか》に云う声が何処か其処らで……  ぶるぶるとしてハッと気が付くと、隊の伍長のヤーコウレフが黒眼勝の柔《やさ》しい眼で山査子《さんざし》の間《あいだ》から熟《じっ》と此方《こちら》を覗いている光景《ようす》。 「鋤《すき》を持ち来い! まだ他《ほか》に二人おる。こやつも敵ぞ!」という。 「鋤《すき》は要らん、埋《うめ》ちゃいかん、活《いき》て居るよ!」  と云おうとしたが、ただ便《たより》ない呻声《うめきごえ》が乾付《からびつ》いた唇を漏れたばかり。 「やッ! こりゃ活《い》きとるンか? イワーノフじゃ! 来い来い、早う来い、イワーノフが活きとる。軍医殿を軍医殿を!」  瞬く間に水、焼酎、まだ何やらが口中《こうちゅう》へ注入《そそぎい》れられたようであったが、それぎりでまた空《くう》。  担架は調子好く揺れて行く。それがまた寝《ね》せ付《つけ》られるようで快い。今眼が覚めたかと思うと、また生体《しょうたい》を失う。繃帯をしてから傷の痛《いたみ》も止んで、何とも云えぬ愉快《こころよき》に節々も緩《ゆる》むよう。 「止まれ、卸《おろ》せ! 看護手交代! 用意! 担《にな》え!」  号令を掛けたのは我衛生隊附のピョートル、イワーヌイチという看護長。頗る背高《のッぽう》で、大の男四人の肩に担《かつ》がれて行くのであるが、其方へ眼を向けてみると、まず肩が見えて、次に長い疎髯《まばらひげ》、それから漸く頭が見えるのだ。 「看護長殿!」  と小声に云うと、 「何《なン》か?」  と少し屈懸《こごみかか》るようにする。 「軍医殿は何と云われました? 到底助かりますまい?」 「何を云う? そげな事あッて好《よか》もんか! 骨に故障が有るちゅうじゃなし、請合うて助かる。貴様は仕合《しあわせ》ぞ、命を拾うたちゅうもんじゃぞ! 骨にも動脈にも触れちょらん。如何《どう》して此三昼夜ばッか活《いき》ちょったか? 何を食うちょったか?」 「何も食いません。」 「水は飲まんじゃったか?」 「敵の吸筒《すいづつ》を……看護長殿、今は談話《はなし》が出来ません。も少し後で……」 「そうじゃろうそうじゃろう寝ろ寝ろ。」  また夢に入《い》って生体《しょうたい》なし。  眼が覚めてみると、此処は師団の仮病舎。枕頭《まくらもと》には軍医や看護婦が居て、其外|彼得堡《ペテルブルグ》で有名な某《ぼう》国手《こくしゅ》がおれの傷《て》を負った足の上に屈懸《こごみかか》っているソノ馴染《なじみ》の顔も見える。国手は手を血塗《ちみどろ》にして脚《あし》の処で暫く何かやッていたが、頓《やが》て此方《こちら》を向いて、 「君は命拾《いのちびろい》をしたぞ! もう大丈夫。脚《あし》を一本お貰い申したがね、何の、君、此様《こん》な脚《あし》の一本|位《ぐらい》、何でもないさねえ。君もう口が利《き》けるかい?」  もう利《き》ける。そこで一伍一什《いちぶしじゅう》の話をした。 底本:「平凡 私は懐疑派だ」講談社文芸文庫、講談社    1997(平成9)年12月10日第1刷発行 底本の親本:「二葉亭四迷全集」筑摩書房    1984(昭和59)年11月~1991(平成3)年11月 入力:長住由生 校正::はやしだかずこ 2000年11月8日公開 2005年12月8日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。