◇。◇。◇。◇。◇。 【四日間】 【ガールシン】 【二葉亭四迷訳】 ◇。◇。◇。◇。◇。  忘れもせぬ、そのとき味方は森の中を走るのであった。シュッシュッという玉の中を落ちくる小枝をかなぐりかなぐり、山査子の株を縫うように進むのであったが、玉は段々烈しくなって、森の向こうに何やら赤いものがチラチラ見える。第一中隊のシードロフといういまだナマ若い兵がこっちの戦線へ紛れ込んでいるから(どうしてだろう?)と-せわしい中でチラとそんな事を疑って見たものだ。スルトソイツが矢庭にペタリ尻餠を搗いて、狼狽えた眼を円くして、ウッとおれの顔を見たその口から血がタラタラタラ‥‥いや眼に見えるようだ。眼に見えるようなはそればかりでなく、そのときふッと気が付くと、森の殆ど出外れのこんもりと生え茂った山査子の中に、おるわい、敵が。大きな食らい太ったヤツであった。俺は痩のひ弱ではあるけれど、やッと云って躍りかかる、バチッという音がして、何かこう大きなもの、トサそのときは思われたがな、それがビュッと飛んで来る、耳がグヮンと鳴る。打ったなと気が付いた頃には、敵の奴め/ワッと言って山査子の叢立に寄りかかってしまった。まわればまわられるものを、恐しさに度を失って、刺々の枝の中へ片足フンゴンで/焦って藻掻いているところを:、ヤッとひと撃ちに銃を叩き落して、やたらづきに銃剣をグサとつっさすと、獣の吠えるでもない唸るでもない変な声を出すのを聞き捨てにして駈出す。味方はワッワッと鬨を作って、倒ける、射つ、という真っ最中。俺も森をハタへ駈出して慥か2’3発も撃ったかと思う頃、忽ちワッという鬨の声が一段高く聞えて、みんな一斉に走り出す、みんな走り出す中で、俺はソノ‥‥元のところにおる。ハテなと思うた。それよりももっと不思議なは、忽然として万籟’死して鬨の声もしなければ、銃声も聞えず、音という音はみんな消え失せて、ただ何やら向こうが蒼いと思うたのは、おおかた空であったのだろう。やがてその蒼いのもモヤモヤとなってしまった‥‥ ◇。◇。◇。◇。◇。  どうも変さな、何でもうつ伏しになっておるらしいのだがな、眼に遮ぎるものと云っては、ただ掌大の地面ばかり。オグサがスホンに、その一本を伝わって逆しまに這いおりる蟻に、去年の枯れぐさのこれがカタミとも見える芥ひと摘みほど──これがそのときの眼中の小天地さ。それをば片一方の眼で見ているので、片一方のは何か堅い、木の枝に違いないがな、それに押されて、そのまた枝に頭が乗っていようと云うものだから、ひどく工合がわるい。身動きをしたくも、不思議なるかな、ちっとも出来んわい。そのままで暫く経つ。コオロギの啼くネ、蜂の唸声の外には何も聞えん。暫くあって、ひとしきり藻掻いて、体の下になった右手をやッと外して、両のカイナで体を支えながら起き上がろうとしてみたが、何がさて/キリで揉むような痛みが膝から胸、かしらへと貫くように突き上げて来て、俺はまた倒れた。また真の闇の跡先なしさ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  ふッと眼が覚めると、薄暗い’空に星影がチラチラと見える。はてな、これはテントの内ではない、何で俺はこんなところへ出て来たのかと身動きをしてみると、足の痛さは骨に応えるほど!  何さまこれは負傷したのに相違ないが、それにしてもオモデかカスリかと、痛みしょへ手を遣ってみれば、右も左もべッとりとしたノリ。触れればますます痛むのだが、その-いたさが虫歯が痛むようにしっきりなくキリキリとハラワタを毟られるようで、耳鳴がする、頭が重い。両足に負傷したことはこれで朧気ながら分ったが、さてガテンの行かぬは、何故このままにして置いたろう? よもやとは思うが、もしヒョッと味方’敗北というのではあるまいか? と、まず、遡って当時の事を思い出してみれば、初め朧のが末ハッキリとなって、いやどうしても敗北でないと収まる。何故と云えば、俺は、ソレ倒れたのだ。もっともこれはハキとせぬ。なんでも皆が駆け出すのに、俺一人それが出来ず、何か向こうが青く見えたのを憶えているだけではあるが、兎も角もコヤマの上のこのハタで倒れたのだ。これを指しては、背低の大隊長どのが占領占領と叫いたとおり、ここを占領したのであってみれば、これは敗北したのではない。それならなぜ俺の始末をしなかったろう? ここは明けバナしのカツとしたところ、見えぬことはないはず。それにここでこうして転がっているのは俺ばかりでもあるまい。敵の射撃はあの通り猛烈だったからな。よし一つ頭をねじ向けてそこらの様子を見てやろう。それには丁度さっきしがた眼を覚まして例のオグサを逆しまに這いおりる蟻を見た時、起き上がろうとしてアオムケに倒けて、うつ伏しにはならなかったから、勝手がいい。それでこの星も、なるほどな。  やっとこなと起きかけてみたが、なにぶん両足の痛手だから、なかなか起きられぬ。とても無駄だとグタリとなること二’三度あって、さて辛うじてハンミ起き上がったが、や、その痛いこと、覚えず泪ぐんだくらい。  と見ると頭の上は薄暗いソラの一角。大きな星ヒトツに小さいのがミツヨツきらきらとして、周りには何か-くろいものがスックと立っている。これは即ち山査子の灌木。俺は灌木の中におるのだ。さてこそ置き去り‥‥  と思うと、ぞっとして、髪の毛がよだったよ。しかし待てよ、ハタでやられたのにしては、この灌木の中におるのがおかしい。してみればこれは傷の痛さに夢中でここへ這い込んだに違いないが、それにしてもそのときはここまで這い込み得て、今は身動きもならぬが不思議、或はやられた時は一ヵ所の負傷であったが、ここへ這い込んでからまた一発喰ったのかな。  蒼味を帯びた薄明かりが幾つともなくシミのようにヂを這って、大きな星は薄くなる、小さいのは全く消えてしまう。ほ、月の出汐だ。これがウチであったら、さぞなア、好かろうになアと‥‥  妙な声がする。あだかも人の唸るような‥‥いや唸るのだ。誰か同じく脚にテを負って、もしくは腹に玉をもって、置き去りの憂目を見ている奴がそこらにおるのではあるまいか。唸り声はまざまざと近くにするが/辺りに人が居そうにもない。はッ、これはしたり、なんのこった、おれおれ、この俺が唸るのだ。微かな情ない声が出おるわい。そんなに痛いのかしら。痛いには違いあるまいが、頭がただもう茫とバカになっているから、それで分からぬ-のだろう。また寝ころんで夢になってしまえ。寝ること寝ること‥‥が、もしひょっとこのままになったら‥‥えい、構うもんかい!  寝ようとすると、蒼白い月光が隈なく薄物を敷いたように仮の臥所を照して、五歩ばかり先に何やら黒い大きなものが見える。月の光を浴びて身辺ところどころ燦たる照り返しを見するのは釦か武具の光るのであろう。はてな、こいつ死骸かな。それとも手負いかな?  どっちでも構わん。おれは寝る‥‥  いやいやどう考えてみてもそんなはずがない。味方はどこへ往ったのでもない。ここにおるに相違ない、敵を追い払ってここを守っているに相違ない。それにしては話し声もせず/篝の爆ぜる音も聞えぬのは何故であろう? いや、やっぱり俺が弱っているから何も聞えぬので、そのじつ味方はここにおるに相違ない。 「助けてくれ助けてくれ!」  とヤれた人間離れのした嗄れ声がノドを衝いて迸り出たが、応ずる者なし。大きな声が夜の空を劈いてシホウへ響渡ったのみで、辺りはまたひっそとなってしまった。ただ相変らずキリギリスが鳴しきって真ん丸な月が悲しげに人を照すのみ。  もしそこのが手負いなら、この喚き声を聴いてよもや気の付かぬ事はあるまい。してみれば、これは死骸だ。ミカタのかしら、敵のかしら。ええ、馬鹿くさい! そんな事はどうでもいい-では-ないか? と、また腫れ瞼を夢に閉じられてしまった。 ◇。◇。◇。◇。◇。  さっきから覚めてはいるけれど、なお眼をねむったままで寝ているのは、閉じた瞼越しにも日の目が見透かされて、開けば必ず眼を射られるを厭うからであるが、しかし考えてみれば、こうじっとしていたほうがマシであろう。昨日‥‥たしか昨日と思うが、テを負ってからもうイッ昼夜、こうして2昼夜3昼夜と経つうちには死ぬ。なんのワザくれ、死はヒトツだ。いっそじっとしていたほうがいい。身動きがならぬなら、せんでもいい。ついでに頭の働きも止めて欲しいが、こればかりはどうする事も出来ず、千々に思い乱れ/様々に思い侘びて頭に些かの隙も無いけれど、よしこれとてもちっとのマの辛抱。やがて浮世の隙があいて、カタミに遺る新聞のスギョウに、我が軍死傷少なく、負傷者何名、志願兵イワーノフ’戦死。いや、名前も出まいて。ただ一名’戦死とばかりか。ヘ-イ1名! 嗚呼/あの犬のようなものだな。  在りし昔がありありと目前に浮ぶ。これはズッと昔の事、もっともな、昔の事と思われるのはこればかりでない、おれが一生の事、足を撃たれてここに倒れるまでの事は何もかもズッと昔の事のように思われるのだが‥‥ある日’町を通ると、人だかりがある。思わずも足をとどめて見ると、何か哀れな悲鳴を揚げている血みどろの白い物を/みんな立ち止まってまじりまじり見ている様子。何かと思えば、それは可愛らしい小犬で、鉄道馬車に轢かれて、今の俺の身で死にかかっているのだ。すると、どこからか番人が出て来て、見物を押し分け、犬の襟髪をむずと掴んでどこへか持っていく、そこで見物もちりぢり。  誰かおれを持っていって呉れる者があろうか? いや、このままで死ねという事であろう。が、しかし考えてみれば、人生は面白いもの、あの犬の不幸に遭った日は俺には即ち幸福な日で、歩くも何か酔心地、また然うあるべき訳があった。ええ、思えば辛い。思うまい思うまい。むかしの幸福。今の苦痛‥‥苦痛は兎角免れ得ぬにしろ、懐旧の念には責められたくない。昔を思い出せば自然と今の我が身にひっ比べられて遣瀬無いのは傷よりもよっぽどいかぬ!  さてだいぶ熱くなって来たぞ。日が照り付けるぞ。と、眼を開けば、例の山査子に例の空、ただ白昼というだけの違い。おお、隣の人。ほい、敵の死骸だ! なんという大男! 待てよ、見覚えがあるぞ。やっぱりあの男だ‥‥  いま俺の手に掛けた男が眼の前にふんぞッているのだ。なんの恨みが有っておれはこの男を手に掛けたろう?  ただもう血みどろになってシャッチコばっているのであるが、こんな男を戦場へ引っ張り出すとは、運命の神も聞えぬ。一体何者だろう? 俺のように年とった母親があろうも知れぬが、さぞ夕暮ごとにいぶせき埴生の小屋の戸口に佇み、遥の空を眺めては、命の綱のカセギニ-ンは戻らぬか、いとし我が子の姿は見えぬかと、永く永く待ちわたる事であろう。  さておれの身はどうなる事ぞ? おれも亦まッこのとおり‥‥ああこの男が羨ましい! あやかり者だよ、何も聞かずに、傷の痛みも感ぜずに、昔を偲ぶでもなければ、命惜しとも思うまい。銃剣が心臓の真っ只中を貫いたのだからな。それそれ軍服のこの大きなアナ、穴の周りのこの血。これはたれの業? みんなこういうおれの仕業だ。  ああこんなはずではなかったものを。戦争に出たは別段悪意があったではないものを。出ればなるほど人殺しもしようけれど、どうしてかそれは忘れていた。ただ飛び来る玉に向かい工合、それのみを気にして、さて乗り出していよいよ玉のマトとなったのだ。  それからのこの始末。ええええ馬鹿め! 俺は馬鹿だったが、この不幸なるエジプトのヒャクショウ(エジプト軍の服を着けておったが)、このヒャクショウになると、これはまた一段と罪が無かろう。鮨でも漬けたように船に詰め込まれてコンスタンチノープルへ送り付けられるまでは、ロシヤの事もブルガリヤの事もただ噂にも聞いたことなく、ただ行けと云われたから来たのだ。もしも厭のなんのと云おうものなら、笞の憂目を見るは愚かなこと、いずれかのパシャのピストルの-たまを喰おうも知れぬところだ。スタンブールからこのルシチウクまで長い-つらい行軍をして来て、我が軍の攻撃に遭って防戦したのであろうが、味方はナに負う猪武者:、イギリスしこみのパテントづきのピーボヂーにもマルチニーにもビクともせず、前へ前へと進むから、始て怖気づいて遁げようとするところを、どこのか小男、常なら持ち合わせの黒い拳固ひと撃ちでつい埒が明きそうな小男が飛んで来て、銃剣翳してムナイタへグサと。  なんの罪も咎も無いではないか?  おれもまた同じこと。殺しはしたけれど、なんの罪がある? なんの報いでノドの焦付きそうなこの渇き? 渇く! 渇くとは’どんなものか、御存じですかい? ルーマニヤを通る時は、百何十度という恐ろしいネツ天に毎日’十里ずつ行軍したッけが、そのときでさえこうはなかった。ああたれぞ来てくれればいいがな。  しめた! この男のこの大きなスイヅツ、これにはきっと水がある! けれど、取りに行かなきゃならぬ。さぞ痛むこったろうな。えい、どうするもんかい、やッつけろ!  と、這い出す。脚を引きずりながら力の脱けた手で動かぬカラダを動かして行く。死骸はわずか一間と隔てぬ所に在るのだけれど、その一間が時に取っては十里よりも‥‥遠いのではないが、難儀だ。けれども、どうしようも無い、這って行くほかはない。ノドは熱して焦げるよう。いっそ水を飲まぬほうが手短に片付くとは思いながら、それでももしやにひかされて‥‥  這って行く。脚が地に泥んで、ヒト動きする毎に痛さはこらえきれないほど。うんうんといううめき声、それがやがて泣き声になるけれど、それにもめげずに這って行く。やッと這つく。そらスイヅツ──果して水が有る──しかも沢山! スイヅツ半分も有ったろうよ。やれ嬉しや、これでまず当分は水に困らぬ──死ぬまでは困らぬのだ。やれやれ!  兎も角も、お蔭さまで助かりますと、片肘に身を持たせてスイヅツの紐を解きにかかったが、ふッと中心を失って今は恩人の死骸の胸へのめりかかった。いかにも-しびと臭い匂がもうプンと鼻に来る。  飲んだわ飲んだわ! 水は生温かったけれど、腐敗しては居なかったし、それに沢山に有る。まだ二三日は命が繋がれようというもの、それそれ生理心得グサに、水さえあらば食物なくとも人は能く一週間以上生くべしとあった。また飢え死にをした人の話が出ていたが、その人は水を飲んでいたばかりに永く死に切れなかったという。  それがどうした? このうえゴロクニチ生き延びてそれが何になる? 味方は-いず、敵は逃げた、近くに往来はなしとすれば、これはどうでも死ぬに決まっている。三日で済む苦しみを一週間に引き伸ばすだけの事なら、いっそ早く片付けたほうがマシではあるまいか? 隣ののソバに銃もある、しかもイギリス製の業物と見える。ちょっと手を延すだけの世話で、直ぐ埒があく。みんな打ち切らなかったと見えて、玉もそこに沢山転がっている。  さあ、死ぬか──待ってみるか? 何を? 助かるのを? 死ぬのを? 敵が来てテを負ったおれの足の皮剥ぎに懸るを待ってみるのか? それよりもいっそ我が手でひと思いに‥‥  でないことさ、そう気を落したものでないことさ。生きられるだけ生きてみようじゃないか。なんのこれが見つかりさえすれば助かるのだ。事に寄ると、骨は-よけているかも知れんから、そうすれば必ず治る。国へ帰って母にも逢える、マ、マ、マリヤにも逢える‥‥  ああ国へは-こうと知らせたくないな。ひと思いに死んだと思わせて置きたいな。そうでもない/ひょっとおれが三日も四日も藻掻いていたと知れたら‥‥  眼がまう。隣歩きですっかりチカラが抜けた。それにこのおっそろしい臭気は! 随分と土気色になったなア! ‥‥これでアス明後日となったら──ええ思遣られる。今だってちっともこうしていたくはないけれど、こう草臥れてはノクにもノカれぬ。少し休息したらまた元へ戻ろう。幸いと風を後ろにしているから、臭気は向こうへ持って行こうというもの。  すっかりチカラが抜けてしまった。太陽は手や顔へ照り付ける。何か被りたくも-かぶる物は無し。せめて早く夜になとなれ。こうだによってと、これでフタ晩目かな。  などと思う事が次第に縺れて、それなりけりに夢さ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  だいぶ永く眠っていたと見えて、眼を覚ましてみればもう夜。さて何も変った事なし、傷は痛む、隣のは例の大柄の五体を横たえて相変らずジャクとしたもの。  どうもこの男の事が気になる。さもあれ俺にしたところで、愛おしいものカワユイものを残らず振り棄てて、山こえ川こえて三百里をこんなブルガリヤ三界へ来て、餓えて、凍えて、暑さに苦しんで──これが何と夢ではあるまいか? この不幸せ者の命を絶ったそればかりで、こうも苦しむことか? この人殺しのホカに、なんぞおれは戦争の足しになった事があるか?  人殺し、人殺しの大罪人‥‥それは何奴? ああ情ない、この俺だ!  そうそう、おれが従軍しようと思立った時、母もマリヤも止めはしなかったが、泣いたっけ。何がさて空想で眩んでいたこのほうの眼にその泪が入るものか、おれの心ヒトツで親女房に憂き目を見するという事にそのときはツイ気が付かなんだが、今となってようよう眼が覚めた。  ええ、今更おさらいしても始まらぬか。昔を今に成す由もないからな。  しかしあのとき親類どものソブリがよっほど妙だった。「なんだ、馬鹿め! お先’真っ暗で夢中に騒ぐ!」と、こうだ。どこを押せばそんなネが出る? ヤレ愛国だの、ソレ国難に殉ずるのという’口の下から、どうしてあんな毒口が云えた? あいらの眼で観ても、おれは即ち愛国家ではないか、国難に殉ずるのではないか? ではあるけれど、それはそうなれど、おれはソノ馬鹿だという。  で、まず、キシニョーフへ出て来て背嚢やら何やらを背おわされて、数千の戦友と倶に出征したが、その中でおれのように志願で行くものはシゴニンとあるかなし:、大抵はみんな成ろう事ならウチに寝ていたいレンジュウであるけれど、それでも善くしたもので、いわゆる決死連の俺たちと同じように従軍して、山を超え川を踰え、いざ戦闘となっても負けずに能く戦う──:いやもっと手際がいいかも知れぬてな。もっとも許しさえしたら、何もかもホッて置いてさっさと帰るかも知れぬが、兎も角も職分だけは能く尽す。  さっと朝風が吹き通ると、山査子がざわだって、寝ぼけた鳥がイチワ飛び出した。もう星も見えぬ。今まで薄暗か-った空は’ほのぼのと白みかかって、柔らかい羽根を散らしたような雲が一杯に棚引き、灰色の靄は空へ空へと晴れて行く。これでおれのソノ‥‥何と云ったものかしら、セイにもあらず、死にもあらず、謂わば死苦の3日目か。  3日目‥‥まだイクカ苦しむ事であろう? もう永くはあるまい。大層弱ったからな。この塩梅では死骸のソバを離れたくも、もう離れられんも知れぬ。やがておれもこれになって、肩を並べて寝ていようが、お互いに胸悪くも思わなくなるのであろう。  兎に角’水は充分に飲むべし。一日に三度飲もう、朝と昼と晩とにな。 ◇。◇。◇。◇。◇。  日の出だ! 大きく盆のようなのが、黒グロと見ゆる山査子の枝に縦横に断ち切られて血潮のように紅に、今日も大方熱い事であろう。それにつけても、隣の──貴様はまアなんとなる事ぞ? 今でさえ見るも浅ましいその姿。  ほんに浅ましい姿。髪の毛は段々と抜け落ち、地体が黒い肌の色は青ざめて黄味さえ帯び、顔の浮腫みに皮が釣れて耳の後ろでエミワれ、そこに蛆が蠢き:、脚はミズバレに腫れ上がり、脚絆の合わせ目からぶよぶよの肉が大きくはみ出し、全身’浮腫み上がってさながら子牛のよう。今日イチニチ太陽に晒されたら、これがまアどうなる事ぞ? こう寄り添っていてはたまらぬ。骨が舎利に成ろうが、これは何でも離れねばならぬ──が、出来るかしら? なるほど手も挙げられる、スイヅツも開けられる、水も飲めることは飲めもするが、この重い動かぬ体を動かすことは? いや出来ようが出来まいが、何でもかでも動かねばならぬ、たとえ少しずつでも、一時間によし半歩ずつでも。  で、いよいよ引っ越しを始めてこれにひとあさ丸つぶれ。傷も痛んだが、なんのそれしきの事にめげるものか。もう健康な時の心持ちは忘たようで、全く思い出せず、何となく痛みに馴染んだ形だ。一間ばかりの所をひと朝かかっていざって、元のところへ辛うじて辿着きは着いたが、さて新鮮の空気を呼吸し得たは束の間:、もっとも形のそろそろ崩れだした死骸を6歩と離れぬ所で新鮮の空気の沙汰も可笑しいかも知れぬが──:束の間で、風が変って今度は-まともにこっちへ吹付ける、その臭さに胸がむかつく。からの胃袋は痙攣を起したように引締って、臓腑がひっくり返るような苦しみ。臭い腐敗した空気が’意地悪くムンムッと煽りつける。  精もコンも尽き果てて、おれはとうとう泣き出した。 ◇。◇。◇。◇。◇。  全くまいって、ホウとなって、殆ど人心地なく寝ておった。ふッと‥‥いや心の迷いの空耳かしら? どうもおれには‥‥おお、やっぱり人声だ。蹄の音に話し声。危なく声を立てようとして、待てしばし、ひょっと敵だったら、その時はどうする? この苦しみに輪を掛けた/新聞で読んでさえ髪の毛の弥立ちそうな目に遭おうも知れぬ。ずいぶん生きがわも剥れよう、テを負うた脚を火あぶりにもされよう‥‥それしきはまだな事、こういう事にかけては頗る思い付きの好いキャツラの事、どんな事をするか知れたものでない。キャツラの手に掛ってなぶり殺しにされようより、ここでこうして死んだほうがいっそましか。とはいうものの、もしひょッとこれが味方であったら? えい山査子めが/いけ邪魔な! なんだと云ってこう隙間なくカキのように生えくさった? これに遮られて何も見えぬ。でも嬉や/たった一ヵ所窓のように枝が透いて遠くヒク地を見下される所がある。あのヒク地には慥か小川があって戦争ゼンにその水を飲んだはず。そう云えばソレ/あすこに橋がわりに渡した大きな砂岩セキの盤石も見える。多分これを渡るであろう。もう話し声も聞えぬ。どこの語で話ていたか、さっぱり聴き分けられなかったが、耳さえ今は遠くなったか。やれやれこれが味方であったら‥‥ここから-わめけば、あすこからでもよもや聴き付けぬ事はあるまい。なまじいに早まって虎狼のような日雇い兵の手に掛かろうより、そのほうがいい。もう好い加減に通りそうなもの、何を愚図愚図しているのかと、一刻千秋の思い。死骸の臭気は些かも薄らいだではないけれど、それすら忘れていたくらい。  不意に橋の上に味方の騎兵が現れた。藍色の軍服や、赤い筋や、鎗の穂先がキラキラと、一隊すぐって五十騎ばかり。タイゼンには黒髯を-いからしたイチ士官が逸物に跨って進み行く。残らず橋を渡るや否や、士官は-ばじょうながら急に後ろをねじ向いて、タイセイに 「駈足イ!」 「おおい、待って呉れえ待って呉れえ! お願いだ。助けて呉れえ!」  きそい立った馬の蹄の音、サーベルの響き、がやがやという話し声に嗄れ声は気圧されて──やれやれ聞えぬと見える。  ええ情ないと、気も張りもイチジに脱けて、ぱったり地上へひれ伏しておいおい泣出した。スイヅツが倒れる、ナカから水──といえばそのときの命、命の綱、いやさ/シゴを-ゆるべて呉れていようというソノ霊薬がゴボゴボと流れ出る。それに心附いた時は、もうコップ半分も残ってはいぬ時で、大抵はからからに-はしゃいでノドを鳴らしていた地面に吸込まれてしまっていた。  この情ない目を見てからのおれの失望’落胆と云ったらお話にならぬ。目を半眼に閉じて死んだようになっておった。風は始終向きが変って、あるいは清新な空気を吹付けることもあれば、またあるいは例の臭気に-むせさせることもある。この日/隣のは弥々浅ましい姿になって/その惨状は筆にも紙にも尽されぬ。一度様子を窺おうとして、ヒョッと眼を-あいて見て、ぞっとした。もう顔の跡形もない。骨を離れて流れてしまったのだ。ブキビにゲタと笑いかけてそのまま固まってしまったらしい頬桁の、その厭らしさ浅ましさ。ずいぶんサレコウベを扱って人頭の標本を製した覚えもあるおれではあるが、ついぞこんなのに出逢ったことがない。この骸骨が軍服を着けて、釦ばかりを光らせている所を見たら、覚えず胴震が出てシンチュウで嘆息を漏した:「ああ戦争とは──これだ、これが即ちその姿だ」と。  相変らずの油照り、手も顔ももうひりひりする。残り少なの水も一滴残さず飲干してしまった。渇いて渇いて耐えられぬので、ひとしずく嘗める積りで、おもわずガブリとみんな飲んだのだ。嗚呼/あの騎兵がついソバを通るとき、何故おれは声を立てて呼ばなかったろう? よしあれが敵であったにしろ、まだ-そのほうがマシであったものを。なんのタカが一、二時間’責めさいなまれるまでの事だ。それをこうしておれば未だイクカごろごろして苦しむことか知れぬ。それにつけても思い出すは母の事。こうと知ったら、定めしシラガを引き毟って、頭を壁へ打ち付けて、おれを産んだ日を悪ビと呪って、人の子を苦しめに、戦争なんぞを発明したこの世界をさぞ罵るこったろうなア!  だが、母もマリヤもおれがこう藻掻きじにに死ぬことを風の便りにも知ろうようがない。ああ、母上にももう逢えぬ、いいなずけのマリヤにももう逢えぬ。おれの恋ももうこれぎりか。ええ情けない! と思うと’胸が一杯になって‥‥  えい、また白犬めが。番人も惨いぞ、頭を壁へ叩きつけて置いて、掃き溜めへポンと放り込んだ。まだ息が-かよっていたから、それから一日苦しんでいたけれど、あの犬に比べればおれのほうがよっぽど惨めだ。おれは丸三日’苦しみどおしだものを。あすは四日め、それから五日目、六日目‥‥死神はどこにおる? 来てくれ! 早く引き取ってくれ!  なれど死神は来てくれず、引き取ってもくれぬ。この凄まじい日に照り付けられて、一滴’水も飲まなければ、ノドの炎えるを騙す手だてなく/あまつさえ死びとのカザが腐りついてこちらの体も崩れだしそう。そのカザの主も全くもうとろけてしまって、ポタリポタリと落ちくる無数の蛆はそこらあたりにうようよぞろぞろ。これに食み尽くされてそのヌシが全く骨と服ばかりになれば、その次はこっちの番。おれも同じくこの姿になるのだ。  その日は暮れる、夜が明ける、何も変った事がなくて、朝になっても同じこと。また一日をアダに過す‥‥  山査子の枝が揺れて、ざわざわと葉擦れの音、それがさながらひそめきたって物を云っているよう。「そら死ぬそら死ぬそら死ぬ」と耳のハタで囁けば、カタカタの耳元でも懐しい顔「もう見えぬもう見えぬもう見えぬ」 「見えんはずじゃ、こんなとこにおるじゃもの、」  とコエダカに云う声がどこかそこらで‥‥  ぶるぶるとしてハッと気が付くと、隊の伍長のヤーコウレフが黒目勝ちの柔しい眼で山査子の間からじっとこちらを覗いている様子。 「鋤を持ち来い! まだ他に二人おる。こやつも敵ぞ!」という。 「鋤は要らん、埋めちゃいかん、生きておるよ!」  と云おうとしたが、ただ頼りないうめき声がからびついた唇を漏れたばかり。 「やッ! こりゃ生きとるンか? イワーノフじゃ! 来い来い、ハヨう来い、イワーノフが生きとる。軍医どのを軍医どのを!」  瞬く間に水、焼酎、まだ何やらが口中へ注ぎ入れられたようであったが、それぎりでまたクウ。  担架は調子好く揺れて行く。それがまた寝せ付られるようで快い。いま眼が覚めたかと思うと、またショウタイを失う。繃帯をしてから傷の痛みも止んで、何とも云えぬ快きに節々も緩むよう。 「止まれ、卸せ! 看護手’交代! 用意! 担え!」  号令を掛けたのは我が衛生隊付きのピョートル、イワーヌイチという看護長。頗るのっぽうで、ダイの男四人の肩に担がれて行くのであるが、そのほうへ眼を向けてみると、まず肩が見えて、次に長い疎ら髭、それから漸く頭が見えるのだ。 「看護長どの!」  と小声に云うと、 「ナンか?」  と少しこごみかかるようにする。 「軍医どのは何と云われました? 到底助かりますまい?」 「何を云う? そげな事あッてよかもんか! 骨に故障が有るちゅうじゃなし、請けおうて助かる。貴様は幸せぞ、命を拾うたちゅうもんじゃぞ! 骨にも動脈にも触れちょらん。どうしてこの3昼夜ばッか生きちょったか? 何を食うちょったか?」 「何も食いません。」 「水は飲まんじゃったか?」 「敵のスイヅツを‥‥看護長どの、今は話しが出来ません。もう少し後で‥‥」 「そうじゃろうそうじゃろう寝ろ寝ろ。」  また夢に-いってショウタイなし。  眼が覚めてみると、ここは師団の仮り病舎。枕元には軍医や看護婦が居て、そのほかペテルブルグで有名な某国手がおれのテを負った足の上にこごみかかっているソノ馴染の顔も見える。国手は手を血みどろにして脚のところで暫く何かやッていたが、やがてこちらを向いて、 「君は命拾いをしたぞ! もう大丈夫。脚を一本お貰い申したがね、なんの、君、こんな脚の一本ぐらい、何でもないさねえ。君もう口が利けるかい?」  もう利ける。そこで一部始終の話をした。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【底本:「平凡◇ 私は懐疑派だ」講談社文芸文庫、講談社】 【   1997(平成9)年12月10日第イッサツ発行】 【底本’の親本:「二葉亭四迷全集」筑摩書房】 【   1984(昭和59)年11月から1991(平成3)年11月】 【入力:長住由生】 【校正::はやしだかずこ】 【2000年11月8日公開】 【2005年12月8日修正】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(httpコロン”//www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。