◇。◇。◇。 【雪の日】 【永井荷風】 ◇。◇。◇。 【第1章】 ──── ◇。◇。◇。  曇って風もないのに、寒さは富士おろしの烈しく吹きあれる日よりもなお更身《さら身》にしみ、火燵にあたっていながらも、下腹《シタハラ》がしくしく痛むというような日が、一日も二日もつづくと、《:、》きまってその日の夕方近《夕方’近》くから、待設《待ち設》けていた小雪が、目にもつかず音《/音》もせずに降ってくる。すると路地のどぶ板を踏む下駄の音が小走りになって、ふって来たよと叫ぶ女の声が聞《聞こ》え、《:、》表通《表通り》を呼びあるく豆腐屋《トウフ屋》の太い声が気のせいか俄に遠くかすかになる‥‥。  わたくしは雪が降り初めると、今だに明治時代、電車も自動車もなかった頃《ころ》の東京の町を思起《思い起こ》すのである。東京の町に降る雪には、日本の中でも他処《他所》に見られぬ固有のものがあった。されば言うまでもなく、巴里《パリー》や倫敦《ロンドン》の町に降る雪とは全くちがった趣があった。巴里《パリー》の町にふる雪はプッチニイが『ボエーム』の曲を思出《思い出》させる。哥沢節《ウタザワブシ》に誰もが知っている『羽織かくして』という曲がある。 ◇。◇。◇。 【羽織かくして、◇ 袖ひきとめて、◇ どうでもけふは行かんすかと、】 【言ひ《い》つつ立つ《っ》て櫺子窓、◇ 障子ほそめに引きあけて、】 【あれ見やしや《ゃ》んせ、◇ この雪に。】 ◇。◇。◇。  わたくしはこの忘れられた前の世の小唄を、雪のふる日には、必ず思出《思い出》して低唱したいような心持《心持ち》になるのである。この歌詞には一語の無駄もない。その場の切迫した光景と、その時の綿々とした情緒とが、洗練された言語の巧妙なる用法によって、画《絵》よりも鮮明に活写されている。どうでも今日は行かんすかの一句と、歌麿が『青楼年中行事』の一画面とを対照するものは、容易にわたくしの解説に左袒するであろう。  わたくしはまた更に為永春水の小説『辰巳園《辰巳ノソノ》』に、丹次郎が久しく別れていたその情婦仇吉《情婦’仇吉》を深川のかくれ家にたずね、旧歓をかたり合う中、日はくれて雪《/雪》がふり出し、帰ろうにも帰られなくなるという、情緒纏綿とした、その一章《1章》を思出《思い出》す。同じ作者の『湊の花』には、思う人に捨てられた女が堀割に沿うた貧家の一間に世をしのび、雪のふる日にも炭がなく、唯涙《ただ涙》にくれている時《とき》、《:、》見知り顔《ガオ》の船頭が猪牙舟《猪牙ブネ》を漕いで通るのを、窓の障子の破れ目《め》から見て、それを呼留《呼びと》め、炭を貰うというようなところがあった。過《ず》ぎし世の町に降る雪には必《/必》ず三味線の音色が伝えるような哀愁《/哀愁》と哀憐とが感じられた。  小説『すみだ川』を書いていた時分だから、明治四|十一、二年《十一ニ年》の頃であったろう。井上唖々さんという竹馬の友と二人、梅にはまだすこし早いが、と言いながら向島を歩み、百花園に一休みした後《あと》、言問まで戻って来ると、《:、》川づら一帯早くも立ちまよう夕靄の中から、対岸の灯《明かり》がちらつき、まだ暮れきらぬ空から音もせずに雪がふって来た。  今日もとうとう雪になったか。と思うと、わけもなく二番目狂言に出て来る人物になったような心持《心持ち》になる。浄瑠璃を聞くような軟い情味が胸一ぱいに湧いて来て、二人とも言合《言い合わ》したようにそのまま立留《立ち止ま》って、見る見る暗くなって行く川の流《流れ》を眺めた。突然耳元《突然’耳元》ちかく女の声がしたので、その方《ほう》を見ると、長命寺の門前にある掛茶屋のおかみさんが軒下《/軒下》の床几に置いた煙草盆などを片づけているのである。土間があって、家の内の座敷にはもうランプがついている。  友達がおかみさんを呼んで、一杯いただきたいが、晩《遅》くて迷惑なら壜詰《壜詰め》を下さいと言うと、おかみさんは姉様かぶりにした手拭《手拭い》を取りながら、お上《上が》んなさいまし。何も御在《ござい》ませんがと言って、座敷へ座布団を出して敷いてくれた。三十ぢかい小づくりの垢抜《垢抜け》のした女であった。  焼海苔に銚子を運んだ後《あと》、おかみさんはお寒いじゃ御在《ござい》ませんかと親し気《げ》な調子で、置火燵《オキゴタツ》を持出してくれた。親切で、いや味がなく、機転のきいている、こういう接待ぶりもその頃にはさして珍しいというほどの事でもなかったのであるが、《:、》今日これを回想して見ると、市街の光景と共に、かかる人情、かかる風俗も再び見がたく、再び遇いがたき《き-》ものである。物一《モノひと》たび去れば遂にかえっては来ない。短夜《ミジカヨ》の夢ばかりではない。  友達が手酌の一杯を口の|はた《ハタ》に持って行きながら、 ◇。◇。◇。 【雪の日や飲《/飲》まぬお方のふ《/ふ》ところ手】 ◇。◇。◇。 【と言って、わたくしの顔を見たので、わたくしも、】 ◇。◇。◇。 【酒飲まぬ人《/人》は案山子の雪見哉《/雪見かな》】 ◇。◇。◇。 【と返して、その時銚子《とき銚子》のかわりを持って来たおかみさんに舟のことをきくと、渡しはもうありませんが、蒸汽は七時まで御在《ござい》ますと言うのに、やや腰を据え、】 ◇。◇。◇。 【舟なくば|雪見がへ《/雪見帰》りのこ《/こ》ろぶまで】 【舟足を借《/借》りておちつく雪見《/雪見》かな】 ◇。◇。◇。  その頃、何《なん》や彼《か》や書きつけて置いた手帳は、その後いろいろな反古《ホゴ》と共に、一《ひと》たばねにして大川へ流してしまったので、《:、》今になっては雪が降っても、その夜のことは、唯人情《ただ人情》のゆるやかであった時代と共に、早く世を去った友達の面影がぼんやり記憶に浮《浮か》んで来るばかりである。 ◇。◇。◇。 【第2章】 ──── ◇。◇。◇。  雪もよいの寒い日になると、今でも大久保の家の庭に、一羽黒《一羽’黒》い山鳩の来た日を思出《思い出》すのである。  父は既に世を去って、母とわたくしと二人ぎり広い家にいた頃である。母は霜柱の昼過《昼過ぎ》までも解けない寂しい冬の庭に、折々山鳩がたった一羽どこからともなく飛んで来るのを見ると、《:、》あの鳩が来たからま《”ま》た雪が降るでしょうと言われた。果して雪がふったか、どうであったか、もう能くは覚えていないが、その後も冬になると折々山鳩の庭に来たことだけは、どういうわけか、永くわたくしの記憶に刻みつけられている。雪もよいの冬の日、暮方ちかくなる時の、つかれて沈みきった寂しい心持《心持ち》。その日その日に忘《忘れ》られて行くわけもない物思わしい心持《心持ち》が、年を経て、またわけもなく追憶の悲しさを呼ぶがためかも知れない。  その後|三、四年《サンヨネン》にしてわたくしは牛込の家を売り、そこ此処と市中の借家に移り住んだ後《あと》、麻布に来て三十年に近い月日をすごした。無論母《むろん母》をはじめとして、わたくしには親しかった人たちの、今は一人としてこの世に生残《生き残》っていようはずはない。世の中は知らない人たちの解《-げ》しがたい議論、聞馴《聞き馴》れない言葉、聞馴《聞き馴》れない物音ばかりになった。しかしそのむかし牛込の庭に山鳩のさまよって来た時のような、寒い雪もよいの空は、《:、》今になっても、毎年冬《毎年’冬》になれば折々わたくしが寐《寝》ている部屋の硝子窓を灰色にくもらせる事がある。  すると、忽《たちまち》あの鳩はどうしたろう。あの鳩はむかしと同じように、今頃はあの古庭の苔の上を歩いているかも知れない‥‥《:‥》と月日の隔てを忘れて、その日のことがありありと思返《思い返》されてくる。鳩が来たから雪がふりましょうと言われた母の声までが、どこからともなく、かすかに聞《聞こ》えてくるような気がしてくる。  回想は現実の身を夢の世界につれて行き、渡ることのできない彼岸を望む時の絶望《/絶望》と悔恨との淵に人の身を投込《投げ込》む‥‥。回想は歓喜と愁歎との両面を持っている謎の女神であろう。 ◇。◇。◇。 【第3章】 ──── ◇。◇。◇。  七十になる日もだんだん近くなって来た。七十という醜い老人になるまで、わたくしは生きていなければならないのか知《し》ら。そんな年まで生きていたくない。といって、今夜眼《今夜’目》をつぶって眠れば、それがこの世の終《終り》だとなったなら、定めしわたくしは驚くだろう。悲しむだろう。  生きていたくもなければ、死にたくもない。この思いが毎日毎夜《毎日’毎夜》、わたくしの心の中に出没している雲の影である。わたくしの心は暗くもならず明《明る》くもならず、唯《ただ》しんみりと黄昏れて行く雪の日の空に似ている。  日は必ず沈み、日は必ず尽きる。死はやがて晩《遅》かれ早かれ来《’こ》ねばならぬ。  生きている中《うち》、わたくしの身に懐しかったものはさびしさであった。さびしさのあったばかりにわたくしの生涯には薄いながらにも色彩があった。死んだなら、死んでから後《あと》にも薄いながらに、わたくしは色彩がほしい。そう思うと、生きていた時、その時、その場の恋をした女たち、わかれた後忘れてしまった女たちに、《:、》また逢うことの出来るのは瞑いあの世のさむしい河のほとりであるような気がしてくる。  ああ、わたくしは死んでから後《あと》までも、生きていた時のように、逢えば別れる、わかれのさびしさに泣かねばならぬ人なのであろう‥‥。 ◇。◇。◇。 【第4章】 ──── ◇。◇。◇。  薬研堀がまだそのまま昔の江戸絵図にかいてあるように、両国橋の川しも、旧米沢町《モト米沢町》の河岸《カシ》まで通じていた時分である。東京名物の一銭蒸汽の桟橋につらなって、浦安通いの大きな外輪《ソト輪》の汽船が、時には二艘も三艘も、別の桟橋につながれていた時分の事である。  わたくしは朝寐坊《朝寝坊》|むらく《ムラク》という噺家の弟子になって一年あまり、毎夜市中諸処《毎夜シチュウ諸処》の寄席に通《-かよ》っていた事があった。その年正月《年’正月》の下半月《シモハンツキ》、師匠の取席になったのは、深川高橋の近くにあった、常磐町の常磐亭であった。  毎日午後《毎日’午後》に、下谷御徒町にいた師匠|むらく《ムラク》の家に行き、何《なん》やかやと、その家の用事を手つだい、《:、》おそくも四時過《四時過ぎ》には寄席の楽屋に行っていなければならない。その刻限になると、前座の坊主が楽屋に来るが否や、どこどんどんと楽屋の太皷《太鼓》を叩きはじめる。表口では下足番の男がその前から通りがかりの人を見て、入らっしゃい、入らっしゃいと、腹の中《なか》から押出すような太い声を出して呼びかけている。わたくしは帳場から火種を貰って来て、楽屋と高座の火鉢に炭火をおこして、出勤する芸人の一人一人楽屋入《一人一人’楽屋入り》するのを待つのであった。  下谷から深川までの間に、その頃乗《ころ乗》るものといっては、柳原を通う赤馬車と、大川筋の一銭蒸汽があったばかり。正月は一年中で日の最も短い寒の中《内》の事で、両国《/両国》から船に乗り新大橋《/新大橋》で上《上が》り、《:、》六間堀の横町《横丁》へ来かかる頃には、立迷《立ち迷》う夕靄に水辺の町はわけても日の暮れやすく、道端の小家《コイエ》には灯《明かり》がつき、路地の中からは干物の匂が湧き出で、《:、》木橋《キバシ》をわたる人の下駄の音が、場末の町のさびしさを伝えている。  忘れもしない、その夜の大雪は、既にその日の夕方、両国の桟橋で一銭蒸汽を待っていた時、ぷいと横面を吹く川風に、灰のような細《細か》い霰がまじっていたくらいで、《:、》順番に楽屋入《楽屋入り》をする芸人たちの帽子や外套には、宵の口から白いものがついていた。九時半に打出《打ち出》し、車でかえる師匠を見送り、表通へ出た時には、|あた《辺》りはもう真白《真っ白》で、人っ子ひとり通《とお》りはしない。  太皷《太鼓》を叩く前座の坊主とは帰り道がちがうので、わたくしは毎夜下座《毎夜ゲザ》の三味線をひく|十六、七《十六シチ》の娘─《─:》─名《ナ》は忘れてしまったが、立花家橘之助の弟子で、家は佐竹っ原《ぱら》だという─《─:》─いつもこの娘と連立って安宅蔵《アタケグラ》の通《通り》を一ツ目に出て、両国橋をわたり、和泉橋際《和泉バシキワ》で別れ、《:、》わたくしはそれから一人とぼとぼ柳原から神田を通り過ぎて番町の親の家へ、音のしないように裏門から忍び込むのであった。  毎夜連れ立《だ》って、ふけそめる本所の町、寺と倉庫の多い寂しい道を行く時、案外暖《案外’暖》く、月のいい晩もあった。溝川の小橋をわたりながら、鳴き過る雁《カリ》の影を見送ることもあった。犬に吠えられたり、怪しげな男に後をつけられて、二人ともども息を切って走ったこともあった。道端に荷をおろしている食物売《食べ物売り》の灯《明かり》を見つけ、《:、》汁粉、鍋焼饂飩に空腹をいやし、大福餅や焼芋に懐手をあたためながら、両国橋をわたるのは殆毎夜《ほとんど毎夜》のことであった。しかしわたくしたち二人、|二十一、二《二十イチニ》の男に|十六、七《/十六シチ》の娘が更け渡る夜の寒さと寂しさとに、《:、》おのずから身を摺り寄せながら行くにもかかわらず、唯《ただ》の一度も巡査に見咎められたことがなかった。今日、その事を思返《思い返》すだけでも、明治時代と大正以後の世の中との相違が知られる。その頃の世の中には猜疑と羨怨《センエン》の眼が今日ほど鋭くひかり輝いていなかったのである。  その夜、わたくしと娘とはいつものように、いつもの道を行こうとしたが、二足三足踏《二足三足’踏》み出すが早いか、雪は忽ち下駄の歯にはさまる。風は傘を奪おうとし、吹雪は顔と着物を濡らす。しかし若い男や女が、二重廻《二重マワシ》やコートや手袋襟巻に身を粧うことは、まだ許されていない時代である。貧家に育てられたらしい娘は、わたくしよりも悪い天気や時候には馴れていて、手早く裾をまくり上げ足駄《/足駄》を片手に足袋はだしになった。傘は一本さすのも二本さすのも、濡れることは同じだからと言って、相合傘《相合い傘》の竹の柄元《エモト》を二人で握りながら、人家の軒下をつたわり、つたわって、《:、》やがて彼方に伊予橋、此方に大橋を見渡すあたりまで来た時である。娘は突然つまずいて、膝をついたなり、わたくしが扶け起そうとしても容易には立上《立ち上》れなくなった。やっとの事立上《こと立ち上が》ったかと思うと、またよろよろと転びそうになる。足袋はだしの両脚《両足》とも凍りきって、しびれてしまったらしい。  途法にくれて|あた《辺》りを見る時《とき》、吹雪の中にぼんやり蕎麦屋の灯《明かり》が見えた嬉しさ。湯気の立つ饂飩の一杯に、娘は直様元気《すぐさま元気》づき、再び雪の中を歩きつづけたが、わたくしはその時、ふだん飲まない燗酒を寒さしのぎに、一人で一合あまり飲んでしまったので、歩くと共におそろしく酔が廻《回》って来る。さらでも歩きにくい雪の夜道の足元が、いよいよ危《危な》くなり、娘の手を握る手先がいつかその肩に廻される。のぞき込む顔が接近して互《互い》の頬《ホオ》がすれ合うようになる。|あた《辺》りは高座で噺家がしゃべる通《とお》り、ぐるぐるぐるぐる廻《回》っていて、本所だか、深川だか、処《ところ》は更に分《分か》らぬが、《:、》わたくしはとかくする中《うち》、何かにつまずきど《/ど》しんと横倒れに転び、やっとの事娘《こと娘》に抱き起された。見ればおあつらい通りに下駄の鼻緒が切れている。道端に竹と材木が林の如く立っているのに心付き、その陰《蔭》に立寄ると、ここは雪も吹込《吹き込》まず風も来《-こ》ず、雪あかりに照された道路も遮られて見えない別天地である。いつも継母に叱られると言って、帰りをいそぐ娘もほっと息をついて、雪にぬらされた銀杏返の鬢を撫でたり、袂をしぼったりしている。わたくしはいよいよ前後の思慮なく、唯酔《ただ酔い》の廻《回》って来るのを知るばかりである。二人の間に忽ち人情本の場面がそのまま演じ出されるに至ったのも、怪しむには当らない。  あくる日、町の角々に雪達磨ができ、掃寄《掃き寄》せられた雪が山をなしたが、間もなく、その雪だるまも、その山も、次第に解けて次第に小さく、遂に跡かたもなく、道はすっかり乾いて、もとのように砂ほこりが川風に立迷《立ち迷》うようになった。正月は早くも去って、初午の二月になり、師匠|むらく《ムラク》の持席は、常磐亭から小石川指ヶ谷町の寄席にかわった。そしてかの娘はその月から下座をやめて高座へ出るようになって、小石川の席へは来なくなった。帰りの夜道をつれ立って歩くような機会は再び二人の身には廻《巡》っては来なかった。  娘の本名はもとより知らず、家も佐竹とばかりで番地もわからない。雪の夜の名残は消えやすい雪のきえると共に、痕もなく消去《消し去》ってしまったのである。 ◇。◇。◇。 【巷に雨のふるや《よ》うに】 【わが心にも雨《/雨》のふる】 ◇。◇。◇。 【という名高いヴェルレーヌの詩《-し》に傚って、もしもわたくしがその国の言葉の操り方を知っていたなら、】 ◇。◇。◇。 【巷に雪のつもるや《よ》う】 【憂ひ《い》はつもるわ《/我》が胸に】 ◇。◇。◇。 【あるいはまた】 ◇。◇。◇。 【巷に雪の消《き》ゆるや《よ》う】 【思出《思い出》は消《き》ゆ痕《/痕》もなく】 【‥‥‥‥‥‥‥‥‥】 ◇。◇。◇。 【とでも吟じたことであろう。】 ◇。◇。◇。 【底本:「荷風随筆集(下《げ》)(全2冊)」岩波文庫、岩波書店】 【1986(昭和61)年11月17日第1刷発行】 【2007(平成19)年7月13日第23刷発行《サツ発行》】 【底本の親本:「荷風隨筆◇ 五」岩波書店】 【1982(昭和57)年3月17日第1刷発行】 【※《◇》底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-《の》86)を、大振りにつくっています。】 【入力:門田裕志】 【校正:阿部哲也】 【2010年4月15日作成】 【2021年2月4日修正】 【青空文庫作成ファイル:】 【このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https|://《コロン/スラッシュスラッシュ》www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。】